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イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

89. 暁 (アル・ファジュル)【2】

2008年04月08日 | ジュズ・アンマ解説
 続いてクルアーンは、富と貧困、そしてそれらが魂に与える影響について語ります:

 「さて人間は主が御試みのため,寛大にされ恵みを授けられると,かれは,「主は,わたしに寛大であられます。」と言う。だがかれを試み,御恵みを減らされる時は,「主はわたしを,軽視なさいます。」と言う。

 多くの富豪者は、自分たちの大きな富は、アッラーが自分たちに満足している証であり、他の人々を除いた彼らのみにかれの恩恵を特別にしてくださっているのだと思い込んでいます。そして多くの貧困者は、自分たちの少ない財産は、アッラーが彼らを軽視している証と思い込んでいます。この2集団について、クルアーンは続きの節で語ります。「断じていけない。」つまり、ことは人間の思っている通りではない、という意味です。アッラーが糧を大きくしてくださることは、本当は与えられた者への褒美ではないし、その者がアッラーの許で尊い者であることの証でもありません。逆に、糧を限られた者は、アッラーに軽視され、位を低くされてしまっているというわけでもありません。アッラーは糧に余裕を持たせたり、制限することによって、しもべを試していらっしゃいます。そのため、「御試みのため」という言葉で、富と貧困の話を始められています。

 豊かであることは、アッラーから人間への試練であり、恩恵という名の誘惑にどうのように接するかを見ておられます。貧困も同様に試練です。苦しみに耐える姿をアッラーは見ておられます。ときに、恩恵に見えるものが、その人にとって、良くないことであることがありますし、不幸がその人にとって良いことであったりもします。例えば、豊かな恵みに長い時間身を沈めていると、私欲を追い求める徒になり、アッラーへの服従を放棄してしまうことにつながります。同じく貧しさや禁欲は、アッラーへの帰還へ私たちを導いてくれます。

 続けてアッラーは、正しい道を志さず、そして“試み”の意味を理解していない富豪の罪人たちを批判します:

 「断じていけない。いや,あなたがたは孤児を大切にしない。また貧者を養うために,互いに励まさない。しかも遺産を取り上げ,強欲を欲しい尽にする。またあなたがたは,法外な愛で財産を愛する。

 彼ら大金持ちは、孤児たちを大切にするどころか、軽視しています。また、貧者に食べ物を施すことにお互いをせきたてようともしません。彼らは、自分たち、また他人の遺産を激しく貪ります。そして彼らは、お金をとても愛しているため、どんな手を使ってでもお金を集めようとします。アッラーはこのような者たちを、次に続く節で批判します:カッラー(Kallaa、厳しい否定)、つまり、あなたたち、これらの行いを慎みなさい。これは歩むべき健全な道ではない、という意味です。

 彼らの悪い行いをアッラーが暴露した後、恐ろしい約束が告げられますが、これは、悪行者たちがこれを聞くことにより、導きの道を歩けるかもしれないからです。この約束は、最後の審判の日の恐ろしい出来事である、大地の揺れとそれによる破壊の発生などの言及によってなされます。他に、その日を支配される尊厳高きお方、かれの裁き、命令のために列を成す天使たち、罪業者たちに現される地獄・・・:

 「断じていけない。大地が粉々に砕かれる時,主は,列また列の天使(を従え),来臨なされる。また地獄は,その日(目の当たりに)運ばれる。

  この恐ろしい光景を前に、人間は自身の行いの記録を見せられます。このとき彼は反省しますが、それは何の役にたちません。遅すぎるのです。「その日人間は反省するであろう。だが反省したとて,どうして彼のためになろうか。」アッラーに背いた人間がこのような言葉を後悔いっぱいに口にするでしょう:「彼は,「ああ,わたしの(将来の)生命のために,(善行を)貯えていたならば。」と言う。」、つまり、ああ、現世で善行や、来世の自分の生活の益になる行いを積むべきだった、という意味です。クルアーンは、来世のことを“ハヤーティー(Hayaatii)私の生命”と表現しているのですが、来世の生命こそ、生命という名が相応しい本当の生命であることを感じさせてくれます。そのため、しもべが現世で主に背くことは、来世において後悔と虚しさのもとにしかならないことが分かります。もう、後悔の気持ちは益をもたらすことはなく、そこにはアッラーの罰と、罪人を縛る縄があり、現世にはない罰が存在するでしょう:「それでその日,誰もなし得ない程の懲罰を加えられ,また誰も拘束し得ない程に束縛なされる。

  以上の逆境が起こる中、無罪の正義者たちの結末が語られます。アッラーから正義者たちへの吉報である、彼らに準備された報酬:

  「(善行を積んだ魂に言われるであろう。)おお,安心,大悟している魂よ,あなたの主に返れ,歓喜し御満悦にあずかって。あなたは,わがしもべの中に入れ。あなたは,わが楽園に入れ。

  大悟している魂とは、恐れや悲しみにおののかない魂のことです。そして主にお会いすることと、アッラーが信仰の民に約束された良い結末とに安心しています。

  大悟している魂とは、現世でアッラーに背かなかった魂のことです。その行いを手にされているお方にすべてを任せています。

  この大悟している魂にアッラーは直接語りかけています。丁度、ムーサー(平安あれ)に語りかけたように、もしくは、人々を清算し終えた天使の舌からの言葉でもあるようです。甦りの際、または死ぬ際に、「あなたの主に返れ,歓喜し御満悦にあずかって。」と言われます。つまり、アッラーがあなたに準備してくださっている善い報酬に十分に満足し、あなたの主に戻りなさい。自身の行った善行により、アッラーはあなたに満足しているでしょう、という意味です。「あなたは,わがしもべの中に入れ。あなたは,わが楽園に入れ。」、アッラーの側近であるアッラーのしもべたちの中に入っていきなさい、そして天国で途絶えることのない至福に浸かりなさい、という意味です。

89. 暁 (アル・ファジュル)【1】

2008年04月04日 | ジュズ・アンマ解説
 悪を行う共同体の最後は悪いものであるとの警告が、しもべを善と悪でアッラーはお試しになるというかれの慣習の解明と共にこの章に登場します。また、審判と、支配されるお方である尊厳高きアッラー、その恐ろしい日の人々の行く末がどのようなものであるか・・至福なのか罰なのか・・の解明もなされています。

 アッラーはまず、かれの創造の偉大さを示している重大な事柄すべてにかけての誓いの言葉でこの章を始めます:

 「暁において,10夜において,偶数と奇数において,去り行く夜において(誓う)。本当にこの中には,分別ある者への誓いがあるではないか。

 「暁において」、アッラーは朝の光において誓われていますが、それはかれの驚異的な創造の一つだからです。夜の終わりと日中の到来を指すと、「10夜において」と仰っています。アッラーは、かれの許で徳のある10夜においても誓われています。この10日間ですが、クルアーンの降下が始まったライラトゥルカドルを含んでいるラマダーン月の終わりの10日間のことかもしれませんし、暁と関連していることとして、関心を向けるために述べられているのかもしれません。朝が夜の闇を消し去り、分散させるように、クルアーンは無知と忘恩・不信の闇を消し去り、分散させます。この祝福された10日間は、ズ・ル・ヒッジャ月の初めの10日間とも言われていますが、それはハッジ(巡礼)の儀式で忙しく、この日々に人間は罪から清まるからです。アル・ブハーリーに出てくる言葉にこういうものがあります:《アッラーにとって、この日々(ズ・ル・ヒッジャ月始めの10日間)に行われる善行以上に好まれる日々はないのだ。》

 「偶数と奇数において」、アッラーは、存在するすべての双数と単数において誓われています。創造物と創造主を指しています。アッラーはお一人(奇数)であられ、創造物は雌雄(偶数)に分かれています。「去り行く夜において」、去り行く夜においてアッラーは誓われています。夜と昼の現象がアッラーのお力の偉大さを象徴しています。「本当にこの中には,分別ある者への誓いがあるではないか。」、つまり、これらの誓いに使われた事柄は、理性を持つ者を納得させられるではないか、という意味です。疑問形は、誓いの対象がいかに重要であるかを確定しています。誓いを聞かされる立場の存在は述べられていませんが、以下のことが言えるでしょう:登場した事柄で不信仰者たちは罰せられるだろう。続きのアーヤ(節)がそのことを示しています:

 「あなたはアッラーが,如何にアード(の民)を処分されたかを考えないのか,円柱の並び立つイラム(の都)のことを,これに類するものは,その国において造られたことはなかったではないか。また谷間の岩に彫り込んだサムード(の民)や,杭のぬしフィルアゥン(のことを考えないのか)。これらは(凡て),その国において法を越えた者たちで,その地に邪悪を増長させた。それであなたの主は,懲罰の鞭をかれらに浴びせかけられた。本当にあなたの主は監視の塔におられる。

 アッラーは仰っています:ムハンマドよ、アッラーが昔のアラブであるアードの民をどのように扱ったかを知らないのか。彼らは、オマーンとイエメンの間にあるアハカーフ(砂丘の意)に住んでいました。「イラム(の都)」、アードの一族であるとか、アードが住み着いたある町の名前だと言われています。「円柱の並び立つ」、彼ら(アードの民)は身長が高かったと言われています。円柱の由来は、彼らの住んでいたテントのものであるといわれており、彼らは家畜の牧草を求めて移動しては、テントを建てたということでしょう。他に、円柱は彼らが城を建てるためのものだったとも言われています。「これに類するものは,その国において造られたことはなかったではないか。」、つまり、力、厳しさ、堅固で長身な体を持つこのような部族は今まで創られたことはなかった、ということです。「サムード(の民)」、昔に存在した有名なアラブの部族です。彼らはヒジルと呼ばれるヒジャーズとタブークの間に住んでいました。「岩に彫り込んだ」、つまり、山々の岩を割り、そして彫り、それらから自分たちの住処を作ったという意味です。「谷間」、ワーディール・クラー(地名)です。「杭のぬしフィルアゥン」、杭は、フィルアウンの権力を強化する軍隊を指します。フィルアウンはかつて人々を杭で苦しめ、そして死ぬまで縛り上げていたと言われています。「これらは(凡て),その国において法を越えた者たち」、つまり、不正と敵意において、度を越したという意味です。「その地に邪悪を増長させた。」、国の中に不正と悪と殺戮などすべての罪を増長させた、という意味です。「それであなたの主は,懲罰の鞭をかれらに浴びせかけられた。」、つまり、強烈な罰です。サッブ(Sabb)はアラビア語で元来、溢れる水を浴びせるという意味です。サウト(Saut)は、それで叩かれると痛みを与えるものです。クルアーンの修辞力は、元来の意味を調整し、サウトにおける懲罰の意味に、サッブが意味する”放出・溢れること”を加えました。つまり、サウトが体に当たると、激しい痛みが起こるということです。「本当にあなたの主は監視の塔におられる。」、各人に報復するために、アッラーはすべての人間の行いを見張っているということです。

88. 圧倒的事態 (アル・ガーシヤ)【2】

2008年03月27日 | ジュズ・アンマ解説
 クルアーンは続けて、天国の至福について語ります:

 「そこには,流れる泉があり,高く上げられた(位階の)寝床があり,大杯が備えられ,褥は数列に並べられ,敷物が敷きつめられている。

 天国には、切れることのない滾々と湧き出る泉や、高い所に設置された寝床があります。信者たちはそこから主が彼らにお授けになったすべての至福を眺めるのです。また、彼らの手に渡るよう準備された杯もあります。彼らが飲みたいと思うときに、その杯は飲み物で満たされます。彼らの座る場所には、並べられた褥があり、彼らはそれにもたれかかります。そして彼らの周りには、場を彩りを付け加える敷物が敷かれています。

 来世の生活の一面が紹介された後に、クルアーンは私たちの現世の生活の話に戻ります。創造主とかれのお力の偉大さと共に語られます。これが、人間を死後、清算のために甦らせることを不可能としない神のお力なのです。アッラーは仰っています:

 「かれらは骼駝に就いて,如何に創られたかを考えてみないのか。また天に就いて,如何に高く掲げられたか,また山々に就いて,如何に据え付けられているか,また大地に就いて,如何に広げられているかを。

 クルアーンは、人間の近くや上にある創造物へ視線を向けさせます。彼らは訓戒を得ずにそれらを目にしていますが、その一つに駱駝があげられます。クルアーンが下った人たちであるアラブ人にとって、この駱駝は生活に欠かせないものであるためです。その創造には多くの秘密がありますが、この秘密は、叡智と神のお力によって解明されます。

 天の創造は、もっとも神のお力を知らせるものです。天には、星、天体などがあります。望遠鏡が発明されると、学者たちは、その数は数え切れないとしました。

 同じくクルアーンは、大地に山々を据え付けた神のお力に視線を向けさせます。この力は大地を広げ、多くの人類が生活するのに適した形にしました。そして動物にも適した大地としました。

 最後の審判の日と、この地球に見られる神のお力による現象の描写が終わると、アッラーは彼の使徒ムハンマド(アッラーの平安と祝福がありますように)に、自分の民への警告、無理強いではない善への呼びかけを基とする彼の使命の真髄に目を向けさせます:

 「だからあなたは訓戒しなさい。本当にあなたは一人の訓戒者に外ならない。かれらのための,支配者ではない。

 つまり、ムハンマドよ、アッラーのお力と叡智と、アッラーの人々への恩恵を示す主の徴をもって人々に訓戒しなさい。実にわれは、彼らにアッラーの導きを教え、訓戒を与えるためにあなたを遣わしたのだ。あなたは彼らを支配する者でも、あなたの思い通りに彼らを動かす圧制者でもない、という意味です。

 続いてクルアーンは、アッラーの導きを拒否する者の結末を解明します:

 「だが誰でも,背き去って信仰を拒否するならば,アッラーは最大の懲罰でかれらを罰される。

 つまり、ムハンマドよ、あなたに背きアッラーの導きによって導かれることなく、そしてかれの徴を信じない者をアッラーは最大の懲罰である地獄の罰で苦しめるだろう、という意味です。

 人々が死と再生を機にアッラーに戻ることは、紛れもない事実です。アッラーは彼らの行いを清算されます:「本当にわれの許に,かれらは帰り来るのである。かれらの清算は,本当にわれの任である。

88. 圧倒的事態 (アル・ガーシヤ)【1】

2008年03月25日 | ジュズ・アンマ解説
 この章は、最後の審判と、至福か罰、という人々の行く末を取り上げています。同時に、すべてにおいて可能であるアッラーのお力の現象のいくつかについても視線を向けさせています。  

 まず、審判の日の恐ろしさと、その日の人々の行き着くところについて聴覚を向けさせるような表現で章は始まります。アッラーは仰っています:「圧倒的(事態の)消息が,あなたに達したか。」ここにある疑問詞は、圧倒的事態が重要な出来事であることと関係します。同時に、この出来事が起こることを確定し、それに関連する知らせを聞きたくさせようとします。“圧倒的事態(アル・ガーシヤ)”は、審判を指します。アル・ガーシヤ(直訳すると覆うもの)と名付けられたのは、審判の厳しさや恐ろしさが人々を覆うからです。

 クルアーンは、罰を受ける人々の様子と、至福を受ける人々の様子について語ります。圧倒的事態に馴染むよう、まず罰を受ける人々の居る場所や、その日の厳しさについての言及が始まります。アッラーは仰います:

 「(或る者の)顔はその日項垂れ,骨折り疲れ切って,燃えさかる獄火で焼かれる」  その日、屈辱感が現れた面々が現れます。現世で彼らは働き、苦労しましたが、その行いから来世のために何も得ることが出来ませんでした。なぜなら、彼らの現世の行いは、単に不信と罪業であったからです。もしくはこのような意味になるでしょう:不信仰者たちは来世で、地獄の中で鎖などを引きずることに疲れ、苦労するだろう。それに地獄の火の暑さも加えられる。

 クルアーンは続けて彼らに起こる厳しい出来事を表現します:

 「煮えたぎる泉水を飲まされる。かれらには苦い茨の外に,食物はなく,それは栄養にもならず,飢えも癒せない。

 地獄の民ののどが渇くと、彼らは激しい渇きを消し去るものを求めますが、熱さが頂点に達した水が持ってこられます。彼らが空腹の痛みを追い払うために食べ物を求めると、茨というとげの一種が運ばれますが、それは空腹を満たすことも栄養にもならないどころか、食べる人に害をもたらします。

 これが罰を受ける人々の状態です。代わって至福の民を表現してクルアーンは語ります:

 「(外の或る者たちの)顔は,その日歓喜し,かれらは努力して心充ち足り,高い楽園の中に置り,そこで,虚しい(言葉)を聞かない。」  彼らの顔には輝きと、享受する至福の影響である歓喜が現れています。

 「かれらは努力して心充ち足り」、つまり、現世で行った自身の行いに満足しているということです。そして、来世でアッラーがお授けくださった至福にも満足しているということです。この至福はどこにあるのでしょうか?実にそれは、「高い楽園」の中にあります。天国は、来世の至福の館です。天国(jannah)という名は、木の数の多さや、木々の枝が重なり合って出来る陰を連想させ、元来は“覆い”を意味する(ijtinaan)という言葉から来ています。天国はその性質や特徴において、高いところにあります。クルアーンは天国を次のように描写しています:「そこで,虚しい(言葉)を聞かない。」つまり、あなたはそこで意味のない言葉や、間違った言葉を聞くことはない、という意味です。天国ではつまらない言葉を耳にしないということが、他の天国の至福の言及よりも先に来ることによって、現世で至福と贅沢を味わい、度を越して醜悪な行いや行儀をわきまえない話し方をする人たちを批判します。そしてここには、アッラーが現世でかれの至福の一部分を与えて下さっても、虚言の徒にならないように、と信者に対する注意が込められています。

87. 至高者 (アル・アアラー)

2008年03月19日 | ジュズ・アンマ解説
 この章は、賞賛されるべきアッラーのお力から起こる現象のいくつかを解明しています。また、アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)に、信仰ある人々の益になる善い訓戒と共に、成功というものは、罪や間違いから清まろうとする人々の分け前であることを伝えなさいと、呼びかけています。

 まず、アッラーの偉大さと、かれへの賞賛、そしてかれに相応しくない負の部分(いろいろな性質や動き)をかれに連結しないことに人間の目を向けさせることでこの章は始まります。それの意味が:「至高の御方,あなたの主の御名を讃えなさい。」です。かれこそがご自身の権力と所有力において、他のものの上にある至高なるお方である、という意味です。

 アッラーは、「創造し,整え調和させる御方」、つまり、アッラーは諸物を創造し、それらを整えて調和させ、創造物の外見がかれの英知に適い、かつ有益であるようにされた、という意味です。例えば、人間の創造について考えてみてください。あなたはきっと、消化器や呼吸器、視覚聴覚を司る器官の精巧さ、両手と両足を流れる血管、そして人間の生を支えているすべての体の器官に驚くことでしょう。他の創造物との大きな違いである、人間の持つ理性にも驚くことでしょう。

 クルアーンは、いくつかのアッラーのお力の現象について言及します:「またかれは,法を定めて導き」、つまり、アッラーは創造物それぞれに地上における役割を与えたということです。アッラーによって善と悪の道に導かれた人間は、この二つの道の説明を受けますが、それはどちらかを選ぶためです。他の生き物はアッラーにより生活の方法へと導かれました。生物学を専門とする学者たちは、動物たちの生き方や、種の保存のしかた、巣の作り方、特別なインスピレーション無しにはありえないような方法で卵を温める姿などに感心し、驚嘆します。このインスピレーション(イルハーム)のことをクルアーンは、「導き(ヒダーヤ)」と表現しています。ヒダーヤの出元はアッラーです。

 続けてクルアーンは、植物を生えさせるアッラーのお力を説明します: 「牧野を現わされる御方。それから,浅黒く枯れた刈株になされる。

 アッラーは、家畜を育てるための牧場の源である植物を大地から出現させました。この植物はやがて枯れ、バラバラになり、黒に近い色に変わっていきます。風が吹くと、飛んでいってしまいます。現世の生活の結末もこれのようであり、現世に属するすべてのものは消えゆきます。

 そしてアッラーは、ムハンマド(アッラーの祝福と平安がありますように)にかれのメッセージを与え、人類に遣わしたことについて解明しています。ムハンマド(アッラーの祝福と平安がありますように)は天使ジブリールからクルアーンを伝えられ、彼は決してそれを忘れることはありませんでした:

 「われは,あなたに読誦させるようにした。それであなたは忘れないであろう。アッラーの御望みがない限りは。本当にかれは,表われたものと隠れたものを知っておられる。

 アッラー曰く:ムハンマドよ、われはこのクルアーンをあなたに読ませよう。そしてあなたは、アッラーがナサフ(アッラーにより幾節の効力を失わせること)によってクルアーンを忘れさす以外は、けっして忘れることはないだろう。実にかれは、しもべたちの会話や行動などのあらわにされたものも隠されたものもご存知である。

 このことこそ、目に見えない知らせであり、実際に実現したことであります。ムハンマド(アッラーの祝福と平安がありますように)は文盲にもかかわらず、長いクルアーンを暗記し、忘れることはありませんでした。

 アッラーはかれの使徒であるムハンマド(アッラーの祝福と平安がありますように)に語りかけられます:「われはあなたに(道を)平坦で,安易にするであろう。」つまり、ムハンマドよ、善の道を容易にするだろう、という意味です。イスラームの法則は、善そのものであり、安楽に導くものです。クルアーンは、雌牛章の中でこのように言っています:「アッラーはあなたがたに易きを求め,困難を求めない。」(雌牛章185節)つまり、アッラーは、かれが人間のために決められたことにおいて、かれらに易きを求めている、ということです。

 アッラーは、人々が二グループに分かれることを告げています:真実や善が提示されると、それから訓戒や益を得る人たち。彼らは成功し、幸福を得ます。そして、本能が腐敗し、助言から何も学ばない人たち。彼らは、アッラーの永遠なる罰を受けるに相応しい不幸な人たちです:

 「だから訓戒しなさい。訓戒は(聞く者に)役立つ。訓戒は,主を畏れる者に受け入れられよう。だが最も不幸な者は,それを避けるであろう。かれは巨大な炎で焼かれよう。その中で,死にも,生きもしない。

 アッラーは仰っています:ムハンマドよ、人々にアッラーの導きを訓戒しなさい。彼らを諭し、かれに背くと罰があることに注意させなさい。「訓戒は(聞く者に)役立つ。」有益な訓戒をしなさい、という意味です。「訓戒は,主を畏れる者に受け入れられよう。」アッラーを畏れる者はその訓戒から益を得る、という意味です。「だが最も不幸な者は,それを避けるであろう。」不幸者は訓戒から遠ざかり、それを避ける、という意味です。「かれは巨大な炎で焼かれよう。」彼は、“巨大な炎”である地獄の火で燃やされます。地獄のあまりの熱さと、そこで苦しめられる人たちの痛みの激しさのために“巨大な炎”と表現されたのです。「その中で,死にも,生きもしない。」不幸者はその中で死ぬことも、休憩することも、有益な生き方をすることもありません。

 「だから訓戒しなさい。訓戒は(聞く者に)役立つ。」:この節は、訓戒を与え、指導を続ける人たちは常に存在しなければいけないと、社会に訴えかけています。そして厳選された宗教的な知識を学ぶことを人々に思い起こさせることも重要です。なぜなら社会というものには、受容性とそれを実行する準備が備わっているからです。かわって訓戒を拒否することは、道徳心低下と、腐敗の拡散、そして真実が踏みにじられることへと導きます。

 成功と救済は、多神と罪業から浄化された者、健全なる善で自身を成長させた者のものであるとアッラーは解明されています:「だが自ら清めた者は必ず栄え」、それに加えた言及があります:「かれの主の御名を唱念し,礼拝を守る。」つまり、アッラーはお一人であると確信し、心と舌でかれを念唱し、五回の礼拝に立つ者です。  現世に依存することは、病の基本であるともアッラーは解明されています。なぜなら、現世への依存は、訓戒を受容することとそれを実行することから人間を遠ざけるためです。これは去り行く現世の真の姿に留意し、現世よりも重要で永久の来世のために行いを重ねるべきだという、人々に対する勧告です:

 「いや,あなたがたは現世の生活の方を好む。来世がもっと優れ,またもっと永遠なものであるのに。

 次の言葉でこの章は終わります:

 「これは本当に,昔の啓典にあり,イブラーヒームやムーサーの啓典にもある。

 つまり、この章が含む意図や、「自ら清めた者は必ず栄え・・・永遠なものであるのに。」の言葉は、イブラーヒームとムーサー(アライヒマッサラーム―お二人に平安あれ)に下された啓典にあるものと重なっているということです。

86. 夜訪れるもの (アッ・ターリク)【2】

2008年03月09日 | ジュズ・アンマ解説
 再生についてのクルアーンの言及は真実である、という考えが、疑い持っている心をそれに誘うかもしれません。そこでアッラーは再度誓いを繰り返します。雨と、しもべたちの糧を含む雲を持つ天によって誓っています。「(回転して)返る天によって」つまり、雨を持つ、という意味です。雨がラジャア(返る)と名付けられたのは、蒸発した後に大地に戻るためです。(訳者注:この意見は、数ある解説の一つです。)同じくアッラーは、植物が生えてくるために裂ける大地によって誓っています。「裂け割れる大地によって」、植物によって大地が裂けることは、清算のために死者が生き返る様子と重なっています。

 誓いの理由:「本当にこれは,(善悪を)識別する御言葉,それは戯れごとではない。」、つまり、クルアーンは正しい言葉と間違った言葉を識別する言葉である、ということです。それは戯れごとでも、罪なことでもなく、真剣なものです。

 続けてクルアーンは、イスラームの呼びかけを避ける不信仰者たちについて言及します:「本当にかれらは,陰謀を企んでいる。われもまた策謀をめぐらす。」陰謀とは、企むことであり、隠れて腐敗の道を行くこと、そして悪を到達させるために策略を練ることです。もしかするとあなたは、これのような悪い意味を持つ言葉がアッラーに繋げられるのは、相応しいことではないと思うかもしれません。例えば、アッラーが策謀する、アッラーが企むなどです。「かれらは策謀して企んだが,われも策を巡らせた。」(蟻章50節)これはアラビア語修辞学で、「ムシャーカラ(Al-Mushakala)」と呼ばれるものです。アッラーには、決して策謀や企てという性質はありません。ムシャーカラの意味は、普段想像される本来の意味とは違う言葉を配置することです。ムシャーカラが登場すると、この言葉の本来の意味が相応しい持ち主が一緒に述べられているものです。例えば、「悪に対する報いは,それと同様の悪である。」(相談章40節)です。あなたが加害者に報うとき、同様の悪で報復すると考えますか?違いますね。報い方は、教育的懲罰になりますね。この節で、報いが「悪」であると述べられたのは、もともと行われた悪という言葉に沿わせるためです。アッラーは:罪人よ、われはあなたの悪事を罰するとき、あなたに害を与えよう。あなたの企みには、われは同じように企みで罰しよう、と言っているように。ここで「報い」は、彼らの行いである策謀にちなんで名付けられたわけです。

 最後に、アッラーは使徒ムハンマド(アッラーの祝福と平安がありますように)を呼びかけ、言います:「だから不信者たちを猶予し,暫く放任するがいい。」つまり、彼らに復讐しようと急いではいけない、そしてアッラーに彼らが早く滅びるようにと祈願してもいけない。少しの間だけ彼らを約束の日まで放置しておけ。その日こそ彼らに対する復讐の日である、という意味です。

86. 夜訪れるもの (アッ・ターリク)【1】

2008年03月08日 | ジュズ・アンマ解説

 この章は、死んだ人間を審判の日に生き返らせることが出来る神のお力に私たちの注意を向けさせます。その日、アッラーは人々の行いを清算します。そしてこの章は、イスラームの呼びかけに呼応しない人たちにいずれ悪い結末が訪れるであろうと、警告しています。

 アッラーはまず天と諸星にかけて、という誓いの言葉でこの章を始めます。

 「天と,夜訪れるものによって(誓う)。夜訪れる者が何であるかを,あなたに理解させるものは何か。(それは)きらめき輝く星。

 何かによって誓うことは、そのことが偉大で、重要である証拠であり、そして神のお力を証明することでもあります。

 星がターリク(夜訪れるもの)と呼ばれるのは、夜に出始めるからです。そして夜中にあなたを訪問する人がいれば、その人もターリクと言えます。何かを必要としているために、夜中になって戸をたたきに来た人の話の意味が広がって、ターリクという単語は、夜に出現するものすべてに当てはめられるようになりました。

 「夜訪れる者が何であるかを,あなたに理解させるものは何か。」、誓われる事実の内容が強調され、主の創造の偉大さに留意するよう呼びかけます。

 「(それは)きらめき輝く星。」、サーキブ(きらめき輝く星)は、光を放ち、暗闇を絶つもののことをいいます。

 誓われた事柄は:「誰も自分の上に守護者(天使)をもたない者はない。」この天使(ハーフィズ)は、魂の行いをすべて記憶し、行われる善行と悪行を数え上げています。

 アッラーがサーキブを星の特徴の一つに選ばれたのは、ハーフィズ(天使)の仕事と似せるためでした。天使はアッラーにより、人間の心や良心に貫通して監視することを任され、星もその光で暗闇を貫通します。

 アッラーは人間を意味もなく創造したのではありませんし、人間をアッラーの監視の遠くへ追いやり、放置したわけでもありません。人間の行いは数えられており、動きの一つ一つが記録され、保存されています。人々の目に隠され、遠くに置き去りにされたような行いも「守護者」である天使によって記録されるのです。クルアーンの他の部分にもこのことの言及があります:「かれがまだ一言も言わないのに,かれの傍の看守は(記録の)準備を整えている。」(カーフ章18節)

 ハーフィズには、後援者、世話人という意味もあります。アッラーは、人間に能力以上の出来事や危険から守るよう、天使に言い付けています。クルアーンはこのことについても言及しています:「各人には,前からも後ろからも,次から次に(天使)が付いていて,アッラーの御命令により監視している。」(雷電章11節)

 ここでアッラーは、人間の行いが後々に審判の日に清算されるために数えられていることをはっきりさせました。次にアッラーは、再生の日が来ることと、来世に生きた状態で戻ることに疑いを持っている人たちに訓戒を示そうとしました。まず、彼らに彼ら自身の創造の初期段階と、彼らの創造の基礎について思い出させようとします:  「人間は,何から創られたかを考察させなさい。かれは噴出する水から創られ,(それは)肋骨と腰の間から出てくる。本当にかれは,かれを(新たな生命に)引き戻すことが可能である。

 人間よ、自分自身が何から創られているか考えてみるがいい。実に人間は、「噴出する水から創られ」:これは男性の精液を指しています。

 この噴出する水は、「肋骨と腰の間から出てくる。」:男性の肋骨と腰のことを指しています。

 男性の精液はとてつもなく多数の精子から出来ています。それらの一つが卵子と出会い、人間の素になる物体に変化していきます。

 人間のこの形から創造した神のお力で、死んだ体を清算のために蘇らせることは不可能ではありません。「本当にかれは,かれを(新たな生命に)引き戻すことが可能である。」、つまり、アッラーにとって、死んだ人間を生きた状態に戻すのは可能なことである、という意味です。

  審判の日:「隠されたことが暴露される日」、隠されたさまざまな意図や信条、行いが試練を受けます。「(人間には)力もなく,誰の助けもない。」、この日、人間には自分を守るための力を持つことも、自分を助けてくれる人もいません。


85. 星座 (アル・ブルージュ)【3】

2008年02月23日 | ジュズ・アンマ解説
 アッラーは、先代の信者たちが迫害された原因を解明しています:

 「かれらがかれら(信者)を迫害したのは,偉力ある御方,讃美されるべき御方アッラーを,かれら(信者)が信仰したために外ならない。かれに,天と地の大権は属する。アッラーは凡てのことの立証者であられる。

 迫害された彼らには、「偉力ある御方」つまり何者も敵わない力強い勝者、「讃美されるべき御方」創造物への慈しみに対し賞賛されるお方であるアッラーを信仰した意外に罪はありませんでした。そのため、彼ら罪業者たちは、主の権力から逃れられないでしょう。「アッラーは凡てのことの立証者であられる」かれは創造物の行いを見ておられるので、彼らの行き過ぎた行いを見逃すことはありません。

 アーヤ中の「立証者شهيد」という言葉は、苦しみにある信者たちに安堵感をもたらします。アッラーが、自分たちの苦しみを見ておられることを知ることにより、彼らはすべての苦しみを忘れます。アッラーがいつか報いてくださるため、彼らの目にはすべての迫害が容易に感じられるようになります。同時に、苦しめている側に神の罰があるであろうことの約束にもなります。

 このアーヤを読むことにより、アッラーの道のために自分たちの命を捧げ、そして苦しめられてきた信者たちへの同情心が私たちの心に起こり、彼らが存在した状況が深刻に感じられます。同時に、罪業者たちへの憎しみで私たちの心はいっぱいになりました。この事件がここで終わったのではなく、来世に公正な清算があることを、アーヤは説明します。

 二つに分けられた集団は、公正なる清算を受けます:

 「本当に信仰する男と女を迫害して,それから悔悟しなかった者には地獄の懲罰があり,またかれらには炎火の懲罰があろう。

 信仰する男と女を苦しめ、彼らの宗教から離れさせるために彼らを火であぶり、そして不信仰から悔悟しなかった者たちには来世で地獄の罰と、そこでの炎の罰があるだろう。

 アッラーの道のために苦しめられた信者たちの報酬について、アッラーはおっしゃります:

 「信仰して善行に勤しんだ者には,川が下を流れる楽園があろう。これは偉大な幸福の成就である。

 アッラーの唯一性を認めて、かれにお仕えし、かれの命令に従った者には、来世のアッラーの許で、川が下を流れる楽園があるだろう、これは偉大な幸福の成就である。

 アーヤがこれら全体的な意味に独立した後、信者たちの心をいたわり、罪深い不信仰者たちへの警告が登場します:「本当にあなたの主の捕え方(懲罰)は強烈である。かれこそは創造をなされ,またそれを繰り返される御方である。かれは,寛容にして博愛ならびない御方。栄光に満ちた,至高の玉座の主。かれは御望みのことを,遂行なされる。

 「バトシュ(捕らえ方)」:暴力的に捕らえる様子です。アッラーの捕らえ方は強烈であり、ときにそれは繰り返されたり、さらに大きくなったりします。この捕らえ方は、高慢者、加害者に対して向けられるものです。アッラーは彼らを苦しみと厳しい復讐によって捕えます。そしてアッラーは、「創造をなされ,またそれを繰り返される御方である。」つまり、アッラーは創造物を最初からお創りになり、審判の日の清算のために、彼らを死から生へ蘇らせます。そしてアッラーは、「博愛ならびない御方。」つまり、仕える者にとって、愛される存在です。そのため、人間がもしアッラーの愛を得られたのであれば、最上級の幸福を得たことになります。そしてアッラーは、「玉座の主。」つまりかれは、誰も横取りできない王権の持ち主ということです。この玉座は、「栄光に満ち」ています。そしてかれは、「御望みのことを,遂行なされる。」つまりかれは、望むものを選び、大地において望むことを実行します。そのため、信者に起きた迫害は、彼らの信仰心を試す機会の他にありませんでした。もし彼らの援助を望まれた場合は、かれのお力の前に立ちはだかるものなど何もなかったでしょう。

 続いてクルアーンは、不信仰者と罪業者の現世における結末について、アッラーが滅ぼしたフィルアウンの民と、大きな音で滅ぼされたサムードの民を例にして言及します:「軍勢の物語が,あなたに達したか,フィルアウンとサムード(の民の)。

 つまり、ムハンマドよ、あなたに先代の罪深い集団の知らせが届いたか?彼らは、使徒と預言者たちとの戦いのために軍を作りました。彼らはフィルアウンとその一族、そしてサムード族でしたが、彼らは犯した罪と不信仰のため滅ぼされました。

 そしてアッラーは、ムハンマド(アッラーの平安と祝福がありますように)の預言者性を嘘とした、マッカの不信仰者たちについての話でこの章を終わらせます:

 「いや,信じない者は(なお真理を)嘘であるとしている。だがアッラーは,背後からかれらをとり囲まれる。いやこれは,栄光に満ちたクルアーンで,守護された碑板に(銘記されている)。

 マッカの不信後者たちは、先代の不信仰者たちに起こった出来事で訓戒を得ないだけでなく、真実を認めない姿勢を貫き続けましたが、アッラーは彼らを包囲しています。つまり彼らはアッラーの手中にあり、丁度取り囲まれた人が、逃げ場を見つけられないのと同じです。「いやこれは,栄光に満ちたクルアーン」つまり、それには多くの現世と来世で有益なことが含まれていて、構造と意味において、他の書物の上を行くということです。「守護された碑板に(銘記されている)。」つまり、クルアーンは天の中にある守護された碑板に、アッラーの許で証明されているということです。守護された碑板とは、アッラーが知りそして運命付けた、起こったこと、起きることが保管されているものです。その真の姿は、人類の知る域を超えています。

85. 星座 (アル・ブルージュ)【2】

2008年02月18日 | ジュズ・アンマ解説
 彼ら以外の多くの信者も、暴力、空腹、のどの渇きなどで苦しめられました。災難の激しさのあまり、座る状態を保つことが出来なくなった人がいるほどでした。

 熱い気候の中、「星座章」は下りました。それは信者たちを慰め、彼らに降りかかった災難を和らげました。そして彼らの信仰を心に定着させ、迫害に耐えるように呼びかけました。危害を加えている不信仰者たちには来世に罰があるだろうと警告しました。

 アッラーは、天とそこにある諸星にかけて誓いを立てることで、この章を始めます。「諸星座のある天において」人々の視線を創造主の偉大さと、限りのない主のお力の証拠であるその美しさを持つ天に向けさせます。これらの諸星を創造できる存在は、反逆者たちに復讐することが出来るのです。

 同じく最後の審判の日でもアッラーは誓いを立てています:「約束された(審判の)日において」かれはこの日、人々の行いを清算します。約束された日と名付けられたのは、アッラーがこの日がやってくることに疑いなどないと約束したことにちなんでいます。  また、審判の日に創造物が証言する事柄や、その日に起こる恐ろしいこと、厳しいことでもアッラーは誓いを立てています:「立証する者と,立証されるものとにおいて」立証するものは金曜日で、立証されるものはアラファの日であるという説や、立証する者は、ムハンマド(平安と祝福がありますように)であり、彼はその日自分の共同体(ウンマ)に立証する、という説があります。

 アッラーはこれらすべてにおいて、背教を嫌がる人々を始末するために杭を掘り、そこで人々を燃やした杭の人々に呪いがあることを強調し、誓いを立てています。彼らは火の回りに腰掛けて信者たちを眺めていましたが、彼らの嫌がらせはとても厳しいものでした。アッラーはこのことについて:「坑の住人は滅ぼされ,火には薪が接ぎ足される。見よ。かれらはその傍に座り,信者に対してかれらが行ったこと(の凡て)に就いて,立証される。」と、おっしゃっています。

 アッラーは、信者たち向けられたこの迫害を否定し、これを犯した者についておっしゃっています:「坑の住人は滅ぼされ」、つまり一番厳しい呪いをかけられた、という意味です。呪いとは、イブリースに起きたのと同様に、アッラーの慈悲から永遠に離されることを意味します。この呪いは、信者を、ただその人の信仰を原因にして迫害し、危害を加える者すべてに適用します。

85. 星座 (アル・ブルージュ)【1】

2008年02月16日 | ジュズ・アンマ解説
【解説】  

 人類の昔と現在の歴史上で、盲目で嫉妬深い部族主義を生み出す宗教迫害よりも醜く、そして暴力が原因の悲劇はありません。

 クルアーンは、イスラーム以前に起きた宗教迫害について私たちに語ってくれています。それは、『アスハーブ・ル・ウフドゥードゥ、杭の住人』の話の中にあります。クルアーンは、先代信者たちがアッラーを信仰するゆえに受けた嫌がらせや懲罰をその中で表現しています。アッ・タバリーなどの歴史家が伝えたように、この物語は次のように要約されます。ヒムヤルの地の王、ザーナワースはユダヤ教徒でしたが、ナジュラーンの住民がキリスト教を信奉しているという知らせが届くと、悲観しました。王はヒムヤルにいる兵隊とイエメンの部族を集めて彼らのもとに向かいました。王は彼ら(キリスト教徒)を集めて、彼らをユダヤ教に入るよう呼びかけ、死か入信のどちらかを選ばせました。彼らは死を選びました。王は彼らに杭を掘り、彼らの一部を燃やし、剣で殺し、ムスラ(死体の耳を取ったり、内臓を出したりして傷つけること。侮辱を意味する。)を徹底的に行いました。それは2万人を超える死者が出るほどでした。  サヒーフ・ムスリムにも似た話があります。要約は、不信仰の王の民がアッラーを信仰したため、王が信者用に杭を堀り、そこに火が点けられました。王は言いました:背教した者は置いておけ、信仰を頑なに守る者は火の中に投げ込め。そのため多くの信者が燃やされてしまったということです。

 宗教迫害の中に、イスラーム宣教の初期の信者が受けた苦しみがあります。その一人に、ビラール・ブン・ラバーフがいました。彼はウマイヤ・ブン・ハラフの奴隷で、ウマイヤは彼を昼間の熱い時間に連れ出し、暑いマッカの砂漠の上に投げつけていました。そしてビラールの上に大きな石を載せることを命じ、彼に「アッラーに誓って、お前が死ぬかムハンマドを裏切り、『アッラートとアルウッザー』を拝むまで、お前はずっとこのままだ」と言いました。アッラートとアルウッザーは偶像です。ビラールはこの苦難の中、「お一人、お一人…(つまり、アッラーはお一人である)」の言葉を繰り返しました。

 信仰のために迫害された者:アンマール・ブン・ヤースィルとその両親です。マフズーム族は昼の暑い時間に彼らを連れ出し、高熱の砂の上に彼らを放り投げました。母親は懲罰のため亡くなってしまいました。