イスラーム勉強会ブログ

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預言者伝21

2011年03月31日 | 預言者伝関連

بسم الله الرحمن الرحيم

68.アッラーの使徒(平安と祝福あれ)によるムハージルーンとアンサールの連帯作りとユダヤ人との協定締結:
  アッラーの使徒(平安と祝福あれ)はムハージルーンとアンサールの関係を明確にする証書を作成し、その中にユダヤ人たちと結んだ協定を記しました。具体的には、彼らの宗教、財産を認め、彼らの条件を受け入れ、また彼らに条件を課したという内容が盛り込まれました。

69.アザーンの制定:
  預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)がマディーナに落ち着くと、イスラームの存在はどんどん強く大きくなっていきました。人々は当時、礼拝の時刻になると、呼びかけられることなく、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の元に集まっていました。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は、人々を招集するための方法として、ユダヤ人やキリスト教徒が使っていた、礼拝の呼びかけ用のラッパや火などを使った方法を模倣することは好まれませんでした。そこでアッラーは信徒たちにアザーンという方法をお恵みになりました。実は幾人かの信者がそれを夢に見、アッラーの使徒(平安と祝福あれ)が認め、信徒たちが施行したという背景がありました。アザーン役には、ビラール・イブン・ラバーフが選ばれ、彼は、審判の日が来るまでアザーンを行う者たちの代表であるとも言われています。

70.偽信仰の登場とマディーナにおける偽信者:
  マッカには、偽信仰は存在しませんでした。それは、当時イスラームが弱く、何の力も持たず、誰に対しても益を与えることも害を加えることもなかったためです。またその当時は、イスラームに入ることは、自分の身を危険に投じることを意味し、周りの敵対心を煽る行為と捉えられていました。そのため、強い信仰を持ち、命と未来を危険にさらすことを誠実に決心した者だけが、イスラームに入って行ったのです。

また当時のマッカでは、同等の二つの勢力ではなく、圧倒的な多神教徒と、弱く虐げられるイスラーム教徒という二つの勢力が存在していました。クルアーンが次のように描写している通りです:

「あなたがたは地上において少数で弱く、虐待されていた時を思いなさい。人びと(マッカの多神教徒たち)があなたがたを、うち滅ぼしてしまうのではないかと恐れた。」(8/26)
  

そしてイスラームがマディーナに移動し、アッラーの使徒(平安と祝福あれ)と仲間がそこに安住するようになると、イスラームはどんどん広がり上昇して行きました。そしてイスラーム社会が実行すべきすべてのことを完遂すると状況は変化し、偽信仰が現れ始めました。実は偽信仰が現われることはごく普通の、起こるべくして起きたことです。偽信仰の兆候は、競争しあう二つの勢力が存在する環境に現われます。そこにはその二勢力の間をふらふらする不安定な要員が出現し、どちらかに傾こうとします。イスラームの呼びかけに対し、元の勢力に留まる場合、元の勢力に自身の忠誠と愛情を捧げる一方、物質的利益のためや、敵対しているイスラーム勢力の拡大とその勝利のせいで、自身の立場を公表することができません。イスラーム勢力に加わりながら、元の勢力との関わりを持つ…クルアーンはこの不安定な立場を詳細に描写しています:

「また人びとの中に偏見をもって、アッラーに仕える者がある。かれらは幸運がくれば、それに満足している。だが試練がかれらに降りかかると、顔を背ける。かれらは現世と来世とを失うものである。これは明白な損失である。」(22/11)、彼らは次のように表現されます:「あれやこれやと心が動いて、こちらへでもなくまたあちらへでもない。」(4/143)


  彼らアウス族とハズラジュ族とユダヤ教徒から成る偽信者たちの代表に、アブドゥッラー・イブン・アビー・イブン・サルールという男がいます。彼はイスラームがマディーナにやって来る直前に、彼らの代表となることが決まっていたのですが、マディーナの人々がイスラームにどんどん入って行ったため、アブドゥッラーはイスラームを敵視しました。アッラーの使徒(平安と祝福あれ)に指導権を奪われたと感じたアブドゥッラーは、人々がイスラーム以外を受け入れないのを目の当たりにした後、無理やり彼自身もイスラームに入りました。しかしその後も、頑なに、嫌悪と偽信仰にしがみつき続けました。


  心に病を持つ者は皆、イスラームに敵対し、この前進的な新しい宗教に屈折した想いを抱きました。イスラームは彼らが築き上げたものを壊し、締結したことを解き、マディーナに重大な変化をもたらしたためです。そこにはムハージルーンとアンサールから成る新しい共同体が生まれ、彼らの心は親愛で結びつき、信徒たちは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に対する愛を、先祖、子孫、配偶者より優先したので、偽信者たちの心は怒りと嫉妬でいっぱいになりました。そのため彼らはイスラームに対して策略を図り、事を難しくしようと陰謀を企て始めます。こうした背景により、マディーナには敵対する勢力が形成され、信徒たちは常に彼らを警戒する必要がありました。イスラームと信徒たちにとって最大の危険となる可能性があったためです。クルアーンはこのような彼らの様子を詳細に伝えています。偽信者の存在はイスラームにとって重く、預言者伝でも数多く登場します。

(参考文献:「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P201~204)


90章解説

2011年03月22日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
90章解説
1. われはこの町において誓う。
2. あなたはこの町の(居住権を持つ)住民である。
3. 生む者と生まれる者にかけて(誓う)。
4. 本当にわれは、人間を労苦するように創った。
5. かれ(人間)は、何ものも、自分を左右する者はないと考えるのか。
6. かれは、「わたしは大変な財産を費した。」と言う。
7. かれは、誰もかれを見ていないと考えるのか。
8. われは、かれのために両目を創ったではないか、
9. また一つの舌と二つの唇を。
10. 更に二つの道をかれに示した(ではないか)。
11. だがかれは、険しい道を取ろうとはしない。
12. 険しい道が何であるかを、あなたに理解させるものは何か。
13. (それは)奴隷を解放し、
14. または飢餓の日には食物を出して、
15. 近い縁者の孤児を、
16. または酷く哀れな貧者を(養うこと)。
17. それから信仰する者になって忍耐のために励ましあい、互いに親切、温情を尽しあう(ことである)。
18. これらは右手の仲間である。
19. だがわが印を拒否する者、かれらは左手の仲間である。
20. かれらの上には、業火が覆い被さるであろう。

 この章は、人間は苦労するよう創られていること、来世における至福の獲得はこの章で教えられるような善行で苦難を乗り越えることに関係していることを説明します。

 まず至高なるアッラーは、この章をマッカにおける誓いの言葉で始め給います。「われはこの町において誓う」マッカの徳にちなんでです。アッラーはマッカを安全な聖域とし給い、そこにある聖マスジドについても次のように仰せになっています。「また誰でもその中に入る者は,平安が与えられる。」(3/97)そしてアッラーはこのマスジドを人々の礼拝のキブラとし、またそこを巡礼することも命じ給いました。

 アッラーはムハンマド(平安と祝福あれ)に恩恵を与えつつ、彼にそれを思い起こさせ給います。またムハンマド(平安と祝福あれ)がマッカに居住することによって町にはさらなる光栄が増すことも彼に思い起こさせ給います。「あなたはこの町の(居住権を持つ)住民である」

 またアッラーは「生む者と生まれる者にかけて」誓い給います。この節はアーダムと彼が生んだ者、その後に続く世代と彼らが父親と母親から受け継いでいく性格を指しています(アッラーのみが御存知ですが)。そこにはアッラーの御力の偉大さがはっきりと示されています。

 次に来るのは誓いの応答です。「本当にわれは、人間を労苦するように創った」つまり人間は家畜の地位から上昇できるよう、あらかじめ疲労や困難に悩むよう創られているということです。人間の命は地球に存在したときから期限が終わるまでの間、痛みに溢れ、数々の災難に囲まれます。人間はこういった命の本質を受け入れなければならず、それに応じて行き方や思考を選ばなければいけません。そうすれば困難や試練が起こっても驚愕することはないでしょう。

 人間は時に権力や豊かさから自我に溺れ、道を外れたり周りを害することがあります。ここでアッラーは仰せになっています:「かれ(人間)は、何ものも、自分を左右する者はないと考えるのか」つまり、この人間は報復から逃れられると思っているのか、ということです。彼の思い込みは間違いであり、彼は確実にアッラーの手中にあるのです。そして善の道のために少額の財産を差し出すように呼びかけられる時、「かれは、「わたしは大変な財産を費した。」と言う」つまり、たくさんのお金を使った、という意味で、彼が金を使うときは大抵、欲を満たすためだけです。「かれは、誰もかれを見ていないと考えるのか」つまり、この財産を費やす時、アッラーがそのことについてお尋ねにならないとでも思っているのか、何に費やしたかに応じて報い給わないと思っているのか、善の道のためかそれとも悪の道のためだったのか、ということです。

 続けてクルアーンは、アッラーが人間に与え給うた恩恵の数々を解明していきます:
 「われは、かれのために両目を創ったではないか、また一つの舌と二つの唇を。更に二つの道をかれに示した(ではないか)。」

 アッラーは人間にこの精度と創造の奇跡に基づいて目を作り給いました。この目の恩恵により人間は生きる糧を得るために奔走できるので、見るという楽しみをありがたく感じ、アッラーに視力という恩恵に感謝し、禁じられたものに目を向けてしまうことから守ってくださるよう祈らなければいけません。またアッラーは人間に、味わい、話すための舌と唇と与え給いました。度を越して話してしまった場合は、アッラーが与えてくださった恩恵を思い出し、生まれる感謝の気持ちを真実の道に反映させれば、良いことしか話さなくなるでしょう。

 そしてアッラーは、善と悪を認識する能力の特性を人間に植え付け、両者を見分ける理性を与え給いました。「更に二つの道をかれに示した」つまり、善と悪の道を人間に解明したということです。そのため人間は不幸を招く悪の道に行かず、正しい道を辿るべきであり、彼と天国の間にある障害を乗り越えます。

 「だがかれは、険しい道を取ろうとはしない。険しい道が何であるかを、あなたに理解させるものは何か。(それは)奴隷を解放し、または飢餓の日には食物を出して、近い縁者の孤児を、または酷く哀れな貧者を(養うこと)。」

 つまり、人間は障害を乗り越えなければいけないような道を通ろうとしない、という意味です。アカバ=険しい道とは、超えるのが困難な山道を指します。または、地獄にある山と言われます。または、アカバは、アッラーが示し給うた善の道における自我と悪魔との戦いの例えとも言われます。「険しい道が何であるかを、あなたに理解させるものは何か」アカバの難しさを強調する一文です。

 険しい道を乗り越える方法は、「(それは)奴隷を解放し」つまり、人間を奴隷状態から自由にすることです。ファック=解く、ラカバ=首というフレーズが使われることで、奴隷は、人間性を奪い、家畜と同じレベルにする鎖で首元を絞められていることを感じさせます。

 イスラーム時代のアラブ社会は奴隷制度に苦しめられていました。そこに現われたイスラームは奴隷制度とそこから派生する悲劇を何とかしようとしました。そこでイスラームは奴隷制度に対して慈悲で応対し、奴隷解放を多くの罪滅ぼしの行為としました。また奴隷解放を最も崇高な善行の一つとしました。

 険しい道を乗り越える他の方法:「または飢餓の日には食物を出して」つまり、飢餓の日に貧者に食べ物を提供することです。なぜ日が限定されているのかというと、飢餓の日に食べ物を差し出すことは、自我にとってとても厳しい行為だからです。特にその貧者が「近い縁者の孤児」で、自分が富んでいる場合です。「または酷く哀れな貧者」土のほかに家となるものも何も持っていない人のことです。彼ら必要としている人たちに、富者がその持つ財産の一部を差し出すことには、自己鍛錬が欠かせません。実はこれこそが人間が乗り越えてアッラーの満足に辿り着くべき険しい道なのです。以上は次の特性を備えていなければいけません:

 「それから信仰する者になって忍耐のために励ましあい、互いに親切、温情を尽しあう(ことである)。これらは右手の仲間である。」

 信仰は、アッラーの許で行為が受容されるための基本です。代わって忍耐のために励まし合い、互いに申請つと温情を尽くしあうことは、健全な社会設立に導きます。

 忍耐し合い、慈悲において励まし合う信者たちは、「これらは右手の仲間である」。つまり、来世において幸福であるということです。アラビア語において、右は、祝福を意味し、クルアーンは天国の住民を「右手の仲間」(56/27)と呼んでいます。なぜなら審判の日に彼らは右手で行為を記された書簡を受け取るからです。

 章の締めくくりには、不信者に対する審判の日の罰の警が登場します:
 「だがわが印を拒否する者、かれらは左手の仲間である。かれらの上には、業火が覆い被さるであろう。」ムハンマド(平安と祝福あれ)の預言者性を否定し、クルアーンを嘘とした者は、「左手の仲間である。」アッラーは地獄の民を「左手の仲間」(56/41)と名付け給うています。なぜなら彼らは行為の書簡を審判の日に左手で受け取るからです。「かれらの上には、業火が覆い被さるであろう。」つまり審判の日に彼らは火で閉じ込められるだろうということです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP109~114)


預言者伝20

2011年03月15日 | 預言者伝関連

بسم الله الرحمن الرحيم
64.マスジド・クバー、マディーナにおける初めての金曜礼拝:
  預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)はクバーに4日間滞在し、そこにマスジドを建立し、金曜日には、サーリム・イブン・アウフ家の人たちと共に、彼らの礼拝所で金曜礼拝を捧げました。その礼拝は、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)がマディーナで捧げた初めての金曜礼拝でした。

65.アブー・アイユーブ・アル=アンサーリーの家で:
  預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)がマディーナに入って行くと、多くの人々が彼に会うために姿を現しては、自分のところに泊って貰えるよう懇願しながら話し掛けました。:「ぜひ私の家においでください!人が多く、準備は万端ですし、お力になれます。」と。皆が預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の乗ったラクダの綱を握るのですが、「ラクダを放っておきなさい。どこに腰を下ろすかはラクダが決めるでしょう。」と預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は言われるのでした。このようなことが何度も起きました。
  ナッジャール族の居住区に立ち寄った預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の傍で、少女たちが太鼓を叩きながら「私たちは、ナッジャール家の乙女。ムハンマドが隣人になってくださったらどんなに好ましいことか。」と口ずさんでいました。
  マーリク・イブン・アル=ナッジャール家の邸宅に着くと、ラクダは現在の預言者マスジドの門のある場所に腰を降ろしました。当時はナツメヤシを乾かす場所で、ナッジャール家に属する二人の孤児の少年たちがそこを所有していました。彼らは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の母方のおじでもありました。
  預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)がラクダから降りると、アブー・アイユーブは彼の荷物を運び、自分の家に置きました。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)はアブー・アイユーブの家に留まり、アブー・アイユーブは寛大に彼をもてなしました。またアブー・アイユーブは、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)を下において、自分たちが上階にいることを嫌ったため、一階で生活することを望み、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に二階を使ってもらえるようお願いしましたが、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は、「私と、私と一緒にいる者、私たちの周りの者達にとっては、一階の方が都合良いのです。」と言ってお断りになりました。
  アブー・アイユーブは決して裕福な人ではありませんでしたが、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)が彼の家に滞在してくれることに、多大な喜びを感じていました。アブー・アイユーブは、アッラーから頂いたこの恩恵に深く感謝し、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)への愛情によって、彼がくつろぐための様々な手段や奉仕の方法を生み出しました。アブー・アイユーブは言っています。:「私たちはアッラーの使徒(平安と祝福あれ)に夕食を準備し、召し上がっていただき、食べ残しが返って来ると、私とウンム・アイユーブは、彼が触れた所を撫で、そこから食べたものです。私たちはそうすることで祝福を求めたのです。アッラーの使徒(平安と祝福あれ)は一階、私たちは二階にいたのですが、ある日、私達の水の入った水入れが壊れてしまったため、私とウンム・アイユーブは一つしかない掛け布で急いで水をふき取りました。アッラーの使徒(平安と祝福あれ)の上に水が垂れ、迷惑をかけてしまうことを恐れたためです。」

66.預言者マスジドと住宅の建立:
  預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は、かの二人の孤児を呼び、ナツメヤシを乾燥させる場所をマスジドにするために、二人に商談を持ちかけました。二人は「アッラーの使徒さま、土地は差し上げます。」と言ったのですが、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)はお断りし、二人から土地を購入しました。その後、マスジドの建立に入りました。
  預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)ご自身も、マスジドの建立に携わり、レンガを運ぶ姿を見て、信徒たちも彼に倣いました。そんな中、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は、「アッラーよ、本当に報奨は、来世の報奨のこと。ですから、アンサールとムハージルを御慈しみください。」と祈りました。
  信徒たちは体いっぱいに喜びを感じ、幸せでした。次々に詩を歌い、至高なるアッラーに感謝を捧げました。
  預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)はアブー・アイユーブの家に7ヶ月間滞在し、ご自身のマスジドと家が完成した後に引っ越しました。
  移住者たちは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の後を追い、最終的にマッカにムスリムは一人も残りませんでした。もちろん、囚われの身にあった者などは別にして。そしてアンサールの家の人たちは、皆ムスリムになりました。
  祝福された町の改善や発展のひとつに、町の名前が変更になったことが挙げられます。かつては不愉快、悲観的などのマイナスの意味を持つ「ヤスリブ」(33/13参照)が町の名前でしたが、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は、ヤスリブから「マディーナ」に町の名称を変え、古い名称を使うことを禁じたことが正しい伝承に載っています。

67.ムハージルーンとアンサールの友愛:
  預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は、心の支えとなるよう、ムハージルーンとアンサールの間に兄弟関係を作り上げました。アンサールはこぞってムハージルーンと友愛関係を築くことに努めました。アンサールはムハージルーンの家、家具、財産、土地にも援助の手を差し出し、強力にサポートし、自分たちよりも彼らを何事においても優先しました。
  あるアンサールがムハージルーンにこのように言いました:「私の財産の半分を使ってください。私には妻が二人います。離婚しますから、気に入る方を選んでください。」ムハージルーンは謙遜して、「アッラーが貴殿とご家族と財産に祝福をもたらしてくださいますよう。私を市場に案内してくださいませんか。」と言い、アンサール側は、兄弟を優先したいという態度を、ムハージルーン側は、謙遜と自尊心を現わしたのでした。
  この友愛締結は、前代未聞のイスラーム世界の友愛の基礎であり、宣教と任務を帯びた共同体の始まりでした。具体的で正しい信仰箇条と、世界を不幸・殺し合い・自殺から救う有効な目的、そして信仰・精神的兄弟愛・共同生活によって構成された新しい関係から成り立つこの友愛締結。ムハージルーンとアンサールの間という限定されたこの友愛関係は、世界に新しい命を吹き込むための一歩であり、条件でもありました。だからこそアッラーは、小さなマディーナにいるこの一握りの集団に次のように呼びかけ給うたのです:「信じない者たちも互いに守護しあっている。あなたがたがそうしないならば、地上の治安は乱れて大変な退廃が起ころう。」(8章73節)

(参考文献:「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P197~201)


91章解説

2011年03月08日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
91章解説

1. 太陽とその輝きにおいて、
2. それに従う月において、
3. (太陽を)輝き現わす昼において、
4. それを覆う夜において、
5. 天と、それを打ち建てた御方において、
6. 大地と、それを広げた御方において、
7. 魂と、それを釣合い秩序付けた御方において、
8. 邪悪と信心に就いて、それ(魂)に示唆した御方において(誓う)。
9. 本当にそれ(魂)を清める者は成功し、
10. それを汚す者は滅びる。
11. サムード(の民)は、その法外な行いによって(預言者を)嘘付き呼ばわりした。
12. かれらの中の最も邪悪の者が(不信心のため)立ち上がった時、
13. アッラーの使徒(サーリフ)はかれらに、「アッラーの雌骼駝である。それに水を飲ませなさい。」と言った。
14. だがかれらは、かれを嘘付き者と呼び、その膝の腱を切っ(て不具にし)た。それで主は、その罪のためにかれらを滅ぼし、平らげられた。
15. かれは、その結果を顧慮されない。

 この章は、罪業から魂の浄化は好ましいことだと説明しています。そこには魂の勝利があり、また不信と背信行為を原因とする損失に対する脅迫があるからです。また、マッカの不信仰者たちなどに、アッラーの使徒だったサーリフを嘘つき呼ばわりし、アッラーに背いたサムードの民に振りかかったような罰と滅亡があるだろうとの警告も含まれます。

 まずアッラーは、太陽とその光において誓い給います。「太陽とその輝きにおいて」この言葉は、人々の関心を太陽の荘厳さとそれを創造した主の偉大さ、また太陽が放出する熱、光線、地球に命が宿る基になるエネルギーに向けます。じつに太陽はその光と熱を決まった量だけ放出します。もし太陽が地球に送る以下の温度の熱を出していたら、地球上のあらゆるものは凍ってしまうでしょうし、それ以上の温度の熱を出していたら、森林は燃え、地球上の大部分に火が点いてしまうでしょう。ここで問いが出ます:どこから太陽が燃えるための燃料がやって来るのだろう?仮に太陽の内部に保存してあるものが燃料として使われているとしたら、年を重ねるたびに太陽の温度は下がるはずですが、遠い過去を振り返ってみると、太陽は未だに植物と動物が生きていけるためのある一定の温度の熱を地球に送り続けていることが分かります。

 では太陽はどこからそのエネルギーの元を得ているのでしょうか?また何が、太陽から放出される熱の大元なのか?一定の温度を保って燃え続けさせているものとは?

 それこそは、至高なる「アッラー」です。かれの御力は全てを超越しています。

 続けてアッラーは月において誓い給います。月は太陽が沈んだ後、その光に従います。「それに従う月において」太陽が持つ重要性を強調するために、アッラーがどのように月と太陽を関連付けたかについて熟考してみましょう。なぜなら月の光は太陽の光から派生しているからです。以上から、月は数あるアッラーのしるしの一つと言えます。月はその優しい光とそれに伴う有益なものを生き物に放出します。同様にアッラーは、私たちが月日の計算が出来るように、月が流れる道を規定し給いました。以上はアッラーの存在とかれの叡智の存在を示し、物質主義が主張する、「偶然によって世界が存在した」ことを否定します。

 アッラーは、太陽を出現させ、眺める者たちにそれを晒す昼において誓い給います。「(太陽を)輝き現わす昼において」アッラーは昼を人間が主の恩恵としての生活の糧を求める場所とし給いました。

 またアッラーは、太陽を覆う夜においても誓い給います。「それを覆う夜において」夜は仕事で疲れた身体の休息とされました。もし人生すべてが昼だったなら、人間は生産生活を活発に継続することが出来なかったでしょう。

 続けてアッラーは、天において誓い給います。「天と、それを打ち建てた御方において」この天とそれを創造し、高めた御方アッラーです。これら諸天は、主の御力の偉大さを目立たせる無数の星や惑星を含有しています。

 アッラーは大地において誓い給います。「大地と、それを広げた御方において」つまり、この大地とそれを広げた御方アッラーです。かれは人間と動物が生きるために有用な土地を広く延ばしてくださいました。

 最後にアッラーは、人間の魂において誓い給います。「魂と、それを釣合い秩序付けた御方において」つまり、その創造を完遂させた至高なるアッラーです。アッラーは人間の肢体を創造性と有益さの極限とし給うた上に、思考の道具として理性を、話すために舌を、見るために目を、聞くために耳を、臭うために鼻を、生活のために両手と両足を追加し給いました。これら以外にも、創造の偉大さの秘密の数々が人間の身体に備わっています。

 続いてクルアーンは、人間の内部にアッラーが植え付け給うた、善と悪、導きと迷いを感じ取れる力の諸特徴の解明に移ります。アッラーは仰せになっています:「邪悪と信心に就いて、それ(魂)に示唆した御方において(誓う)」つまり、かれ(アッラーは)人間の魂に、悪や罪といった放棄すべき行為、善行や服従といった望ましい行為を解明し給うたということです。別の言い方をすれば、アッラーは人間に善の道と悪の道をはっきり見せてくださったということです。

 この後に、誓いの返答が登場します:「本当にそれ(魂)を清める者は成功し」つまり、自らの魂を罪から清め、良質の善で成長させ、篤信で高めた者は確実に勝利を得たということです。「それを汚す者は滅びる」つまり、自らの魂を罪で隠し(ダッサーハーの元は、隠すという意味を持つダッササハー。)、服従と善行で晒さなかったものは確実に失敗したということです。

 続いてクルアーンは、サムードの民と、彼らが預言者サーリフ(平安あれ)に背いたという罪の報いである罰の話に移ります。その説明の前に、クルアーンにおける物語の目的そしてサムードの民の物語の真実についてまず始めるのが良いでしょう。

 諸預言者の物語の目的:クルアーンの中に諸預言者の物語が登場する目的は、アッラーの満足についての吉報、かれに背くことについての警告、イスラーム宣教の基礎の説明、預言者と仲間の心を堅甲にすること、預言者性の証明です。クルアーンは諸預言者の物語の中から、訓戒を得られるものを選びます。ユースフ(平安あれ)の物語のように詳細まで述べることもあれば、大体の場合のように物語の一部を取ることもあります。なぜならその一部には、ムーサー(平安あれ)の物語のような核心をついた訓戒があるからです。

 諸預言者物語は、細かく述べられることもあれば、簡潔に述べられることもありますが、そこにこそクルアーンの奇跡が顕現し、その雄弁さが現われるのです。

 この章でクルアーンはサムードの物語を省略した形で登場させます。だからこそここでは、クルアーンの他の箇所に出てくる同物語を頼りに、詳細を見て行きましょう。

 サムードの物語:アッラーは御自身の預言者サーリフをその民であるサムードに遣わし給い、サーリフは彼らに訓戒を垂れ、偶像崇拝を放棄し、アッラーを崇拝することに呼びかけました。サムード―すでに滅びたアラブ部族の一つ―はヒジャーズの北方にあるアル=ヒジュルと呼ばれる地に住んでいました。現在は、「サーリフの都市」として知られています。サムードの人々は、自分たちに遣わされた預言者が齎したメッセージを信仰せず、預言者が示したような真実の道を歩まないどころか、彼の呼びかけを嘘としました。また彼がアッラーから遣わされた者であることを証明する奇跡を持って来るように要求しました。そこでサーリフは人々にアッラーが創造し給うた特別な雌ラクダを持って来て、悪さをしないよう命じました。アッラーはこの雌ラクダにあらかじめ水を飲む日を定め、人々にも水を飲む日を別に定め給い、ラクダにいたずらをしたならば罰が下るであろうことを約束し給いました。

 かのラクダはしばらくの間彼らの間に留まりました。一日は水を飲み、他の日には水を飲みません。このような状態を続けるラクダを見た多くの人たちが、サーリフが預言者であることを認めたのですが、貴族の人たちは怯え上がってしまい、自分たちの存在を脅かされることに恐怖したため、ラクダを殺そうと企てます。預言者サーリフは止めるよう警告したのですが、受け付けようとしません。彼らの中の極悪人がラクダの住む場所に向かい、仲間たちの同意のもと、ラクダをしてしまったため、人々にアッラーの怒りが相応しいものとなり、罰が確定しました。アッラーは彼らの罪を原因に、人々を全滅させ給うたのです。助かったのは、サーリフと彼を信仰した人々のみ。以上がこの章の後部にてアッラーが仰せになった内容です:
 「サムード(の民)は、その法外な行いによって(預言者を)嘘付き呼ばわりした。かれらの中の最も邪悪の者が(不信心のため)立ち上がった時、アッラーの使徒(サーリフ)はかれらに、「アッラーの雌骼駝である。それに水を飲ませなさい。」と言った。だがかれらは、かれを嘘付き者と呼び、その膝の腱を切っ(て不具にし)た。それで主は、その罪のためにかれらを滅ぼし、平らげられた。かれは、その結果を顧慮されない。」

 アッラーは、アッラーの使徒であるサーリフを嘘つき呼ばわりしたサムードの民について私たちに知らせ給うています。嘘つき呼ばわりしたのは、「その法外な行い」つまり、不信と罪深い行為において度を越してしまったためです。「かれらの中の最も邪悪の者が(不信心のため)立ち上がった時」サムードの中でも最も悪い人間、クダール・イブン・サーリフが悪さをしかけてはいけないと警告したラクダを不具にしました。「アッラーの使徒(サーリフ)はかれらに、「アッラーの雌骼駝である。それに水を飲ませなさい。」と言った」アッラーの雌ラクダだから、悪さをしてはいけない、水を飲ませるときも気をつけなさい、ラクダには決められた水飲みの日があり、あなたたちにも決められた水飲み日がある、ということです。「だがかれらは、かれを嘘付き者と呼び、その膝の腱を切っ(て不具にし)た。」人々はアッラーの使徒であるサーリフを嘘つき呼ばわりし、その中でも最も悪い者がラクダを不具にしてしまったということです。「それで主は、その罪のためにかれらを滅ぼし」アッラーは彼らを滅ぼし、不信と、預言者を嘘つき呼ばわりし、ラクダを不具にした罪のために罰を下し給うたということです。「平らげられた」子供、大人など人々全体に対して罰を与え給うたということです。「かれは、その結果を顧慮されない」アッラーは人々を滅ぼしたことに対する責任から誰も恐れないということです。アッラーはそのなされることについて責任を問われることはないのです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP116~121)


預言者伝19

2011年03月01日 | 預言者伝関連

بسم الله الرحمن الرحيم
63.マディーナはどのように預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)を迎えたか?:
  アッラーの使徒(平安と祝福あれ)がマッカを発ったという知らせを受けたアンサール(マディーナのムスリム援助者)は、毎朝ファジュルの礼拝を終えた後にマディーナの広場に出て行ってはアッラーの使徒(平安と祝福あれ)の到着を待ちわびました。彼らは日が暮れて暗くなってから帰宅するのでした。当時は暑い夏の季節でした。

  ついにアッラーの使徒(平安と祝福あれ)が到着したのは、人々が家に戻っている時間帯でした。マディーナのユダヤ人はアンサールが行っていることをずっと見ていましたが、実はアッラーの使徒(平安と祝福あれ)をまず初めに見たのは、ユダヤ人でした。大声を上げて、彼はアンサールにアッラーの使徒(平安と祝福あれ)の到来を告げ知らせました。彼の声を聞いた人々は、一斉に、アブー・バクルと共にヤシの木陰にいたアッラーの使徒(平安と祝福あれ)に駆け寄りました。アブー・バクルはアッラーの使徒(平安と祝福あれ)と同世代の男性なので、アッラーの使徒(平安と祝福あれ)をまだ見たことのないアンサールの人々は、はじめどちらがアッラーの使徒(平安と祝福あれ)か分からず戸惑いました。その様子に気づいたアブー・バクルは、上着でアッラーの使徒(平安と祝福あれ)に陰を作るために立ち上がり、人々に真実が判明しました。

  このお二人を、500名ほどのアンサールが出迎えました。マディーナに到着すると、アンサールは、「お二人様、怖がる必要はありません。何なりとお申し付けください。」と声をかけました。アッラーの使徒(平安と祝福あれ)とアブー・バクルは、人々の中に入って行きました。すると町の人々がどんどん出て来て、家の上から未婚の女性たちが、「あのお方はどこ?どこ?」と言うほどでした。アナスは、「これに似た情景を私たちは見たことがありません。」と言い残しています。

  お二人がマディーナに入ると、人々は道や家の屋上に出て来て、「アッラーフアクバル!アッラーの使徒が見えたぞ!アッラーフアクバル!ムハンマドが来てくださった!アッラーフアクバル!ムハンマドが来てくださった!アッラーフアクバル!アッラーの使徒が見えたぞ!」と叫ぶのでした。

  当時若かったアル=バッラーゥ・イブン・アーズィブという教友は次のように言っています:預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)がいらしたこと以上に、マディーナの民を喜ばせたものを私は他に知りません。何しろ、女奴隷までもが、「アッラーの使徒さまが見えた」と言っていたのですから。

  そしてアンサールの女たちは、喜びと興奮に満ちて、歌を歌ったのでした。

  当時子どもだったアナスは言っています:私はマディーナに預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)がいらした日に彼を拝見しましたが、彼が私たちのいるマディーナにいらした日よりも素晴らしく、輝いた日を見たことはありません。

(参考文献:「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P195~197)