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第一の至高なる創造主の存在根拠

2009年05月30日 | 他の解説
第一の至高なる創造主の存在根拠
「有」と「無」を巡る理性的必然の根拠

※Al-Ujud「有」:もとから存在しているという意味。
 Al-‘Adam「無」:もとから存在していないという意味。
 Al-Asl「元」:源泉、元来等という意味。

1.創造主の元は「有」であるので、かれの存在は「必然」である。
2.宇宙の元は「無」であるので、その存在は「可能」である。
3.「可能」である存在が存在している原因は、存在が「必然」である存在の他ならない。

四段階を経た説明を見ていこう:

【第一段階】
この世界に生きる人間の誰もが、「有」が「無」と相対関係にあること、そして「有」と「無」の他に第三者が存在しないことを疑わないだろう。
この二つの内、片方が確定すると、もう片方は明らかに消える。また片方が消えれば、もう片方は確定する。
ここで私たち自身に問うてみよう:どちらが元なのか?一般的な「無」に相対する「有」が元なのか、それとも、一般的な「無」が元なのか?
この問いに答えるために:どちらかが元であると仮定する方法を採ればよい。そしてそれを元であるとした場合に無効性が見出せるか見極める。
この方法に沿って、心に浮かぶ全てのものの存在の元が:「無」と仮定しよう。
「無」の意味は:心に浮かぶもの、そしてその性質が存在しないこと。つまり、個として存在しないこと、無力、無意思、無知、無命、何も無いこと。
この仮定に基づいて自問してみよう:「無」はどのようにして―それが元である―「有」の状態に変わることができたのか?私たちは自分たちの存在を感じているのではないか?私たちの周りにある数多くのものを見ているのではないか?先に述べたように、「無」の意味は、心に浮かぶ全てのものが一般的に存在しないことを指す。ではどのようにしてこの一般的な「無」から数多くの個体や属性や力がやってくるのか。自身で「無」から「有」に移動したというのか。しかし、この移動は力なしには実現しない。この「力」の元も「無」のはずでは?
直感的に、「無」がひとりで「有」に変身するのは不可能であるし、「無」が何かを存在させることも不可能である。
この件を指すクルアーンの言葉:
「彼らは無から創られたのか、それとも彼らが創造したのか。」(トゥール章52節)
つまり:彼らは創造主なしで「無」から「有」に移動したのか?それとも彼らが彼ら自身を創造し、この移動を成したのか?これは直感的に、両方とも不可能なことである。
ということで:「無」が一般的な「元」であれば、数え切れないこの現存物の一つも存在しなかっただろう。だからこそ私たちは「元」が「有」であると理解しなければならない。
この根拠により、決定的理性的に「無」が元であると成立しない、と確定する。
事実がそのようであるということ、つまり「元」は「有」であることが、同じく決定的理性的に確定する。なぜなら―先に述べたように―「有」は「無」の反対語で、二者の間に入るものは無いからである。
また、相対関係にある二者を巡る「元」の存在に、理由付けや説明は不要である。なぜならそれが存在のために理由を必要としたら、それは「元」とは言えないからである。「元」ではない諸現存物こそが存在するための原因や理由を必要とするのである。
この証明により、二つのことが判明した:
(A)「元」は、「有」であること。
(B)「元」は、 “「元」と言われること”以上の原因や理由を理性での理解のために必要としないこと。

【第二段階】
 疑いの余地なく「有」が「元」であるなら、この「元」に「始まり」があることは可能だろうか?そして、この「元」に「無」が続くことは可能だろうか?
 この問いに答えるために:
 1「有」が「元」であるものの存在に「始まり」があることは理性的に正しくない。なぜなら、その存在に始まりがあるものは、必ず「その存在」を存在させた原因を必要とするからである。そうであるとするなら、その存在が「元」であることはない。
 2その存在が「元」であるものに「無」が続くことは不可能である。その存在が「有」であるものを基に私たちは全ての経過する時間に無が発生するとするからである。「有」が「元」であるという事実が継続しているということは、「元」に「無」が発生する理由が決して無いということである。なぜなら「無」は、元来から「無」を属性として持つ存在にしか発生しないからである。
 そのため、私たちが「元」であると理解する「有」に「無」が発生することは理性的に不可能である。
 この真実を指すクルアーンの言葉:
 「死ぬことのない生き給う御方にお任せしなさい。」(識別章58節)
 「死ぬことのない行き給う御方」とは、その存在が「元」である御方である。そのため無と死がかれに発生することはない。

【第三段階】
 以前の二つの段階で分かったことは:
 A.理性的に「有」が「元」でなければならないこと。
 B.その存在が「元」であるものに始まりがあったり、「無」が発生することは不可能であること。
 では、私たちが見、感じる世界に現存するものたちに目を向けてみよう。それらの「元」は「有」なのか、それともその反対である「無」か。
 ここである事実が見えてくる:私たちはかつて存在したことはなく、その後に存在した、ということである。そして私たちは精巧な造りをした存在であることだ。イチジク章4節で至高なる御方は次のように仰せられた:
 「まことにわれは人間を最も優れた形に創造した。」
 また多くのものがかつて無の下にあり、その後になって私たちが継続して目にしているようにそれらは存在していることである。
 また私たちが感じ、また目にする各個体に起こっている継続的な多くの変化などの現象もそうである。
 ここで言えるのは:私たちの感覚がとらえる現存する全てのものの「元」が「有」なら、変化や変身、増減、消滅などに晒されることはなく、存在するためや変化のために理由やきっかけを必要としないということである。
 しかし実際には、それらは変化や変身に晒されており、その(変化などの)法則が原因や影響を与えるものをそれらに必要とさせている。そのため、理性的に存在物の「元」が「有」ではないことが確定する。つまり存在物の「元」は「無」である、ということである。
 そのため、存在物はその存在のために、それらを存在させる原因を必要とする。
 この段階で判明したことは:
 A.私たちの感覚がとらえる現存する全てのものの「元」が「無」であること。
 B.現存する全てのものの「元」が「無」ということは:それ(現存する全てのもの)に影響を与える原因で、「無」の状態から「有」へ連れ出した存在があることが理性的に必然となること。またその存在は、継続的に現存する全てのものに影響を与えていること。
 私たちの「元」は「無」であり、私たちは存在しなかった後に存在したことがクルアーンに載っている:
 「人間にはなにものとも呼べない、長い時間があったではないか。」(人間章1節)
 「無」を経験したものには必ずそれを存在させた存在があることが直感で理解できるのは周知の事実である。その存在こそが、創造主である。

【第四段階】
 以前の三つの段階で三つの事実が判明した:
 1理性的に「有」が「元」でなければならないこと。
 2その存在が「元」であるものに、始まりと無が発生することは不可能であること。
 3現存する全てのものの「元」は「無」であり、それらは存在するために存在するための原因を必要とすること。
 この三つの事実が判明したので、理性が完全に、異議なくそれらを受け入れるよう和解する必要がある。そのために言えることは:
 第一:理性的に、偉大な存在の存在が必然であること:その存在は現存する全てのものの「元」であり、その存在が「無」となることは不可能であるので、その存在は、「理性的に存在が必然である御方」である。
 第二:目に見える世界の「元」は「無」であること。そしてそれらを「無」から「有」へ連れ出し存在させる原因が生じていること。
 第三:世界を存在させている原因が、偉大なる存在のほかにないこと。その存在は「元」であり、その存在は、存在が必然である御方である。かれは、「至高なるアッラー」である。

 締めくくりの言葉:
 この解説により、「アッラーはどのように存在したのか?」といった疑問は完全に消えるだろう。なぜならこれは論理にも理性にも基づかない疑問だからである。しかしこの問いは、その「元」が「無」である存在に対して有効であるといえる。なぜならそれは、「無」から存在させてくれる存在を必要としているからである。
 かわって、理性的にその存在の「元」が「有」で、「無」が相応しくない存在にこのような疑問が沸くことはどんな場合でもあり得ない。この種の問いが意図していることは、「(その御方の)「元」は、「有」である」という科学的に確定した真実で消えるのである。
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【ズィクル(念唱)とドゥアー(祈願)などについて】

2009年05月28日 | 求める者たちの道しるべ
クルアーンの次に重要な舌で行われるイバーダ(崇拝行為)で至高なるアッラーのズィクル、そして苦難が取り除かれるようにと、かれに向けられた誠実なドゥアー(祈願)に勝るものはない。ズィクルの徳についてのアーヤ:
「だから、おまえたちはわれをズィクルせよ(想え)。そうすればわれもお前たちを想う。」(雌牛章152)
「立って、また座って、また横になってアッラーをズィクルする(想う)者たち」(イムラーン家章191)
「アッラーを多くズィクルする(想う)男たち、そしてズィクルする女たち」(部族連合章35)

預言者(平安と祝福がありますように)の言葉:
《至高偉大なるアッラーは仰せになる:われは、われをズィクルし、その唇がわれのために動くしもべと共にある》(アフマド、イブン・マージャ)

《アッラーをズィクルする集団を天使たちが囲い、慈悲が彼らを覆い、静けさが彼らに降下し、アッラーはかれの御許にいる者たちに彼らのことを話し給う》(ムスリム、アッ=ティルミズィー)

《至高なるアッラーのズィクル以外のための集いに参加し、解散した集団は、ロバの死体から解散したようなもの。かの集いは審判の日に彼らにとっての悲しみとなるだろう。》(アブー・ダーウードなど)

《至高なるアッラーをズィクルせず、また預言者(平安と祝福がありますように)に挨拶を送らないような会合に腰を下ろさないように。そんなことしたならば、それは審判の日に彼らにとっての悲しみになるだろう。》(アフマド、イブン・ヒッバーン)

ドゥアーの徳について:
アブーフライラ(御満悦あれ)が伝えている:《至高偉大なるアッラーにとってドゥアーよりも尊いものはない。》(アッ=ティルミズィー、イブン・マージャなど)

《もっとも尊いイバーダは、ドゥアーである。》(アル=ブハーリー)

《アッラーにおたずねしない者をかれは怒り給う。》(アッ=ティルミズィー、イブン・マージャなど)

《アッラーの恩恵からかれに懇願しなさい。まことにアッラーは懇願されることを好み給う。》(アッ=ティルミズィー)

ドゥアーにはマナーがある:
聖なる機会を探求すること。アラファの日、ラマダーン月、金曜日、深夜・・・など。
アザーンとイカーマの間、サラーの直後、慈雨が降っている最中、アッラーの道のための戦いの際、クルアーンを完読した際、サジダ時、イフタール時、心が感じ、震えるとき。

*ドゥアーに際してのマナーと、受け入れられるための条件:http://blog.goo.ne.jp/qurtaf/e/575f3f86467c41011a60f81fbcd80cc0

*ドゥアーが受け入れられる時間、状態、場所:http://blog.goo.ne.jp/qurtaf/e/bf6781f748cacf841929ce218deb0e02

じつは、機会の尊さは、「状態の尊さ」に由来する。深夜が良いのは、その時間に心が清く、空になるからで、サジダ時が良いのは、謙った状態にあるから。

またドゥアーのマナーに、キブラの方向を向いて、手を挙げ、顔を拭い、ドゥアー中は声を小さくすること、がある。

また、至高偉大なるアッラーの御名を唱えることで開始し、次に預言者(平安と祝福がありますように)に挨拶を送ること。ドゥアーの言葉で、韻を踏む必要は必ずしもない。

内面的なマナー-叶うための条件でもある-は、タウバ(悔悟)と奪われた権利を返還することである。
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【クルアーンのマナーとその徳について】など

2009年05月21日 | 求める者たちの道しるべ
クルアーンの最もすばらしい点は、それが至高偉大なるアッラーの御言葉であること。アッラーはクルアーンを幾度となく褒め称えている。たとえば:
「この書はわれが下した祝福されたもの」(家畜章92節)、
「まことにこのクルアーンは正しい道へ導く」(夜の旅章9節)、
「前方からも後方からもそれ(クルアーン)に虚偽は近づかない」(広げる章42節)

ウスマーン・イブン・アッファーンによるハディース:
《クルアーンを学び、教える者こそ、最も良い者である》(アルブハーリー)

アナスによるハディース:
《至高偉大なるアッラーには、(かれに属する)人々がいる。》アッラーの使徒よ、一体彼らは誰なのですか?と言われ、《クルアーンの人々である。彼らこそはアッラーの人々であり、特別なのである。》(アンナサーイー)

別のハディース:
《アッラーは、クルアーンを意識し考えた者の心を苦しめない》

などなど・・・他にもクルアーンの徳を扱ったハディースは多い。

【ティラーワ(読むこと)のマナー】
ウドゥーを保った状態で読むのがふさわしく、もちろん、ウドゥーのマナーも網羅しておくこと。胡坐をかいたり、横になったりせず、うつむいていること。また高慢さが漂うような座り方はしないこと。

最も好ましい状態は:
マスジド内で、サラー中、立った状態で読むこと。

読む長さについては、先代の習慣に相違がある。ある者は一日で読みきり、ある者は一日に何度も読みきっていたという。3日、毎週、毎月読みきっていた者もいる。彼らは集中してクルアーンを読むことや知識の拡散に努めていた。読むだけではなく、他の方法も使ってアッラーを崇めた。

一番良いのは:
大切な(現世的)仕事に支障をきたさず、体の害にならず、また丁寧に読み上げること・読解が失われないようにするのが一番良い。
アブドゥッラー・イブン・アッバースの言葉:クルアーン全てを早く読み上げるより、雌牛章とイムラーン家章を丁寧に、また熟考しながら読み上げることを好む。使える時間を見つけたときには、たくさんの報酬を勝ち取るためにクルアーンをたくさん読みなさい。

継続性について:可能な範囲でそうすること。

【音声を美しく、良くすることについて】
クルアーンを美しく読むことは好ましいことである。美声の持ち主でなくても、出来るだけ美しく読もうとする姿勢が大切。しかしメロディーを付けて読むことを、先代は嫌っていた。

ハディース:《公然と読まれるクルアーンより、隠れて読まれる方が良いのは、ちょうど公然と行われるサダカより、隠れて行われる方が良いのと同じ。》(アブーダーウード、アッ=ティルミズィー)→しかし、自分自身に聞こえる声で読むこと。

クルアーン暗記のためや、倦怠感や眠気を払いのけるために声を出して読むことに問題はない。
サラー中の読み方(長さ、声の出し方など)については、法学書を参照。

ミスハフ(本の形になったクルアーン)を持っている人は、クルアーンが放置された状態にならないように、毎日数アーヤ読むことが好ましい。

偉大なクルアーンを読む者は、アッラーがいかに被創造物にかれの御言葉を理解させ給うたかに注目するべき。そして読んでいるものが人間の言葉ではないと知ること。そして崇高なる話者の偉大さを想起し、かれの御言葉を熟考すること。熟考こそが、読むことの目的である。何度もアーヤを読むことでしか熟考が実現されないなら、何度でも読むこと。
アブーザッルによると、預言者(平安と祝福がありますように)がある夜、「あなたが仮令かれらを罰せられても、誠にかれらはあなたのしもべです」(食卓章118節)を繰り返し読まれた。(アフマド、アン=ナサーイー、イブン・マージャ)

クルアーンを読む者は、目を通す全てのアーヤに見合う解説を求め、理解しようとすること。「かれは、諸天と大地を創造し給うた」(家畜章1節)と読んだなら、かれの偉大さを思い知り、目に入る全てのものにかれの御力を見出そうとすること。

「あなたがたが射精するものを見たか」(出来事章58節)を読んだなら、一滴が肉と骨、血管と神経、さらには頭や手、足、といったものに分かれ、尊い性質である聴覚や視覚が現れていく様子についてよく考えること。

嘘呼ばわりする人たちについての部分を読んだなら、命令に不服従な場合の報復に対する恐れを想起すること。

理解を禁じる原因から遠ざかること。たとえば、ある文字を読まなかったとか、その文字は正しく発音されなかったと悪魔に囁かれ、結局何度も読むことで、意味の理解しようとする集中力が散ってしまう。

以上に、読む者がある罪にしがみついているとか、高慢であるとか、傾倒しやすい誘惑に試されていることも含まれる。これらは心の影の原因である。ちょうど鏡の上の袋のようで、真実が写し出されるのを妨げる。心は鏡と同じ、欲望は錆と同じ、クルアーンの意味は鏡に映し出される姿と同じ。欲望を取り除くことによる心の運動は、鏡が輝くのと同じ。

そして、自分には力も何もないと認めること。満足の気持ちを持って自分を見ないこと。自分は努力不足であると思う者の気持ちは、アッラーにお近づき出来る要因になるだろう。
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【サダカと、その徳、マナー】

2009年05月12日 | 求める者たちの道しるべ

サダカの徳は数多く、また有名です:

-アル=ブハーリー出典のイブン・マスウードのハディース。「あなたがたの中で、自分の財産より遺族に残す財産を好む者はいるか?」と言われた。皆は答えて、アッラーの使徒よ、私たちは皆、自分の財産のみを好みます。彼は、「自分の財産とは、施したもの。遺族の財産は残したもの。」と言われた。つまり、自分の遺族のために、彼らのためを思って貯める財産を自分の財産とは言わず、アッラーのためにサダカやザカーなど施したものだけがあなたの財産だといえる、ということです。後者はいつか必ず訪れる審判の日にあなたの役に立ちます。しかしその日に役に立たないものは、あなたの財産と名付けるのに相応しくないのです。

-アッ=サヒーハイン中のアブーフライラによるハディース。「良質な稼ぎの中から、ナツメヤシ一粒分のサダカを施した者、アッラーはこの者のサダカを右側で嘉納し給う。雌馬を山のように大きく育てる者のように、アッラーは(サダカの)持ち主のためにサダカを増大させ給う。」

-「まことにサダカは主の怒りを消し、悪い死に方からから守ってくれる。」

-「皆、サダカをしなさい。まことにサダカは業火から解放してくれるものだ。」

-「財産からサダカが足りないということはない。」お金が少ないのでサダカできない、というのはありえないということ。

-アーイシャ(アッラーのご満悦あれ)によると、預言者(平安と祝福あれ)一家が羊を一匹屠りそれを施した。預言者(平安と祝福あれ)はアーイシャに「何が残ったか?」と聞かれた。彼女は、羊の肩の部分が残っています、と答えた。預言者(平安と祝福あれ)は、「肩以外の全てが残っているのだ。」と言われた。→サダカとして施された肩以外の肉は全て自分たちの善行として残っているという意味です。

サダカのマナーは、ザカーのマナーに相応します。

貧者は、ザカーを受け取る方がいいのか、それともサダカを受け取る方がいいのかで意見が分かれているそうです。

もっとも良いサダカについて、アブーフライラによるハディースが説明しています:預言者(平安と祝福がありますように)はどのようなサダカがもっとも良いのか訪ねられたところ、「元気でケチ、貧困を恐れて、また豊かさを望んでいる状態で施すこと。また、喉元に魂がのぼって来て、あの人にはこれを(施しておいてくれ)、あの人にもこれを、あれはあの人のものだから、と言うまで遅らせないように。」と言われた。

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【ザカーのマナーなど】(5/8追加)

2009年05月05日 | 求める者たちの道しるべ
ザカーはイスラームを構成する柱の一つです。至高なるアッラーはこのザカーをサラーと結びつけ給いました。「礼拝〔サラート〕の務めを守り、定めの施し〔ザカ―卜〕をなし」(雌牛章43節)※ちなみにこのような表現は何度となくクルアーンに出てきます。

ザカーの種類等に関しては、法学書が参考になるでしょう。ここではザカーに関わるマナーのみを扱います。

あなたが来世を求める人ならば、ザカーについて次のことを考えてください。

①ザカーの目的を理解することです。それは3つあります。まず、アッラーへの愛を主張する者を、彼が愛しているもの(物質的財産・モノ)を支払わせることで試ること。身を滅ぼしてしまう吝嗇という性質は自分自身と無関係であると示すこと。財産という恩恵に対する感謝、です。

②ザカーを隠れて出すことで、見せびらかしや人のうわさから離れることです。ザカーを公に行うと、貧しい人を傷つけることになりますので気をつけましょう。もし、ザカーの義務を怠ったと疑われてしまうなら、公に渡しても傷つかないと分かる貧しい人に、大勢の人がいる前で差し出してください。そして他の人には隠れて渡してあげてください。

③ザカーを高慢な気持ちや相手を傷つけることで無効にしないことです。誰でも貧しい人に良くした場合、とくに何かを与えた場合、このようなことが起きがちです。よく考えたら、貧しい人こそがあなたに良くしてくれた(あなたの財産を清めてくれた)ということが分かるでしょう。ザカーを差し出すことは、財産という名の恩恵に感謝するということでもあります。貧しい人を貧しいという理由で嫌ってはいけません。なぜなら、金がその人の価値を決めるわけではないからです。

④「与える」という行為をたいしたことではないと決め込むことです。自分の行動を大げさに見ている人は、高慢になりがちです。「親切は、それがたいしたことではないと決め込まれること、急いで行われること、隠されること、この3つの条件が揃わない限り完遂されない。」とも言われています。

⑤ザカーが対象となっている財産から、自分が最も好み、大切に思い、上質なものを取り出すことです。「悪いものを図って、施してはならない」(雌牛章267節)

ここで2つの注意点が出てきます。まず、至高なるアッラーのみに偉大視される権利が属しているので、最も良いものもかれに差し出されるべきだということです。(もちろんアッラーはザカーで差し出されるものを必要とされる御方では決してありません。)誰でも自分の客に腐った食べ物を差し出したなら、受け取った側は気分を害するでしょう。次に、自分に対する権利です。ザカーをアッラーに差し出す本人は、そのうち審判でかれに会うことになります。ということは、最良のものを差し出すことは、自分のためにもなるのです。「あなたがたは愛するものを(施しに)使わない限り、信仰を全うし得ないであろう」(イムラーン家章92節)

イブン・ウマルは、自分の財産に対する愛情が強くなったときにそれをアッラーに捧げていたとの事です。こういう話が伝えられています:ある日、魚を食べたくなったイブン・ウマルのために皆は魚を探したのですが、一匹しか見つかりませんでした。それを手にした彼の妻が調理して、イブン・ウマルに差し出したところにある貧者がやって来ました。イブン・ウマルは貧者に、「それ(魚)を持って行きなさい。」と言うので彼の家族が、「私たちには彼に渡せられる他のものもあるというのに。」と言いました。イブン・ウマルは、「私はこれ(魚)が好きなのだ。」と言いました。

物乞いがアッ=ラビーウ・イブン・ハイサムの戸に立ったので、「彼に砂糖をあげなさい。」と言いました。しかし人々は、「彼にはパンを食べさせてあげましょう。その方が彼のためですよ。」と言いました。するとアッ=ラビーウは、「ダメだ、砂糖を上げなさい。じつに私は砂糖が好きなのだから。」と言ったと伝えられています。

⑥自分の出すザカーを清めるに相応しい人を探すことです。定められた8人(※)から選ばれます。彼らには特質があります:

(1)タクワー(畏敬)。アッラーを畏れる人々にザカーは渡されるべきです。彼らの悩みはこのザカーによってアッラーに跳ね返ります。かつて、アーミル・イブン・アブディッラー・イブン・アッ=ズバイルは額ずいている崇拝者たちを選んでいました。金貨銀貨が入った袋を彼らのサンダルの近くに置くのでした。ちょうど、物が置かれた気配はしても、どこに置かれたのかは分からない感じにです。アーミルは、ザカーをあなたの代わりに分配する人を送ればよいのに、と言われたことがありましたが、彼は貧者に自分や自分の使者が渡し主であると知られるのを嫌う、と言ったと伝えられています。

(2)イルム(知識)。学者に与えることは、知識と教えを広めることに役立ちます。つまり、シャリーアの強化につながります。

(3)アッラーおひとりからしか恩恵はないことを確信していることです。与えられる際に褒めることに慣れている人は、与えられないと文句を言うものです。

(4)貧しさで覆われていること、必要としていることが隠れていること、苦情を言っていないことです。「かれらは控え目であるから、知らない者は金持であると考える」(雌牛章273節)彼らは探されないと見つからない人たちです。各地域にこのような様子を備えた人がいないか尋ねるのがいいでしょう。

(5)家族を持っていること。もしくは病や借金で身動きできないことです。

(6)親族や血族であることです。彼らにザカーを渡すことは、彼らとの関係を強めることにもなります。以上の性質のうち、2つかそれ以上を集めたなら、あなたのザカーはより良いものになるでしょう。


(※)施し〔サダカ〕は、貧者、困窮者、これ(施しの事務)を管理する者、および心が(真理に)傾いてきた者のため、また身代金や負債の救済のため、またアッラーの道のため(に率先して努力する者)、また旅人のためのものである。これはアッラーの決定である。アッラーは全知にして英明であられる。(悔悟章60節)

(イブン・クダーマの「求める者たちの道しるべ」より)

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質問があったのでその答えを下に貼ります。

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> 質問1、【物乞いがアッ=ラビーウ・イブン・ハイサムの戸に立ったので、「彼に砂糖をあげなさい。」と言いました。しかし人々は、「彼にはパンを食べさせてあげましょう。その方が彼のためですよ。」と言いました。するとアッ=ラビーウは、「ダメだ、砂糖を上げなさい。じつに私は砂糖が好きなのだから。」と言ったと伝えられています。】について
>
> これは実際に周りのムスリムたちがそうするのをよく見ているのですが、私からするといつもちょっと疑問でした。この物乞いにとってはパンの方が役立つというのに、「自分の好きなものを差し出すこと」を自分が実践するために、相手の都合を無視しているように思えます。もし自分が受け取る立場だったら、砂糖よりもパンが欲しいです。
> それでも、自分が好きなものを差し出す方に、アッラーのお喜びはより多くあるのでしょうか?たとえそれが相手にとってあまり役立たないと思われても、あるいはそれ以上に役立つものが明らかにあったとしても、それは私たちの限られた能力においてそう感じるだけで、本当はこの物乞いにとってもパンより砂糖のほうが有益なんだ、ということなのでしょうか?

まずアッ=ラビーウの話についてですが、相手にとって一番良いものではなく、自分の好きなものを差し出すことを優先した彼の行いは良いはずですし、相手にとって良いものをきちんと考えて施したのであれば、それも良いはずです。アッ=ラビーウはクルアーンのアーヤを元に自分の信仰を完結させる手段として自分の好物を差し出したのであれば、インシャーアッラー、彼のニーヤは嘉納されるでしょう。もらう人のことを考えて施すものを選んだのであれば、そのニーヤも嘉納されるでしょう。要はそのときのニーヤだと思います。誰かのサダカに周りの人たちが意見しても、結局その人のニーヤを見通せるのはアッラーおひとりです。もちろん、そのときに渡した砂糖が物乞いにとって良いものだったのか
、それともパンの方がよかったのかも、渡す方も渡される側にも分からず、これもアッラーおひとりのみが御存知です。その物乞いが自分ではパンが欲しいのに砂糖をもらっても不満かもしれませんが、その砂糖が自分にとって良いものだったのか悪いものだったのかはアッラーのみが御存知で自分は後になっても分かるかどうかは不明なのです。
どちらにアッラーのお喜びがより多いのか、というと、私たちに分かることではないです。私たちは限られた能力しか与えられていないので、それ以上のことを理解することは不可能です。ですので、アッラーの御命令に出来るだけ従い、そのときの状況に合った一番良いと思う行動を取ればいいのではないでしょうか。相手にはパンが適切だろうと思ってパンを渡して、実はもらった側はグルテンアレルギーで食べると大変なことになってしまうとか、本人もそれを知らないとか、結局私たちには分からないのです。そのときのニーヤを大切に考えて、行動することだけが制限のある私たちに求められていることだと思います。

> 質問2、ザカーの受取人の特質のうち【(6)親族や血族であることです。彼らにザカーを渡すことは、彼らとの関係を強めることにもなります。】について
>
> 以前、身内の困窮者に対しては私たちは身内ゆえに扶養義務があるので、ザカーは与えられない。身内への援助はサダカでするものだ、と聞いて、ずっとそう思っていたのですが、身内(親族)でもザカーを使えるのですね。
> 例えば自分の親や子どもが困窮している場合には、それこそ扶養義務があるからザカーは使えないですよね?ザカーが使えるのは(逆に言えば扶養義務がないのは)どの関係からでしょうか?兄弟とか、伯父、叔母とか、従兄弟とか・・・?

裕福な妻が困窮している夫にザカーを施すことはスンナであり、妻や母親の立場にある女性が自分の子供にザカーを施すことは好ましい行為であり、合法です。なぜなら、夫や子供を扶養する義務は女性にないからです。
同様に、おじおば、兄弟姉妹、祖父祖母など、近親でありながら、扶養義務がない関係(条件によっては扶養義務が発生しますが)にある場合、ザカーは有効で、むしろ彼らを優先するべきです。
(扶養義務について)詳しくは法学書の家族法の部分に書かれていますので参考にしてください。
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質問に簡単に答えますね。

>⑥自分の出すザカーを清めるに相応しい人を探すことです。定められた8人(※)から選ばれます。彼らには特質があります:
→ この特質と言うのはザカーを渡す下の8人の条件にプラス更に推奨される特質と言うことでしょうか。8個の条件が先なのかこの6つの条件が先になるのか、または両方満たしていないといけないのか。。。です。

8個の条件が先です。8個の条件のうちどれかに属していれば、ザカーを受け取る資格を持ちます。6個の条件はあればよい、というだけで、全てを満たす必要はありません。

> (※)施し〔サダカ〕ザカーのことですか?は、貧者、困窮者、これ(施しの事務)を管理する者、および心が(真理に)傾いてきた者のため、また身代金や負債の救済のため、またアッラーの道のため(に率先して努力する者)、また旅人のためのものである。これはアッラーの決定である。アッラーは全知にして英明であられる。(悔悟章60節)

そうです、ザカーのことです。
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近々復活します

2009年05月04日 | その他
アッサラームアライクム ワ ラフマトゥッラー

いつもこちらに目を通してくださっている皆さん、長い間、更新を放棄してしまいすみません。実は3月末~4月中旬まで海外に帰省し、日本に戻ってきてからは新しい仕事のためにバタバタとしてしまい・・・でもアルハムドゥリッラー、最近は落ち着いてきたので、またマイペースで更新を再開して行こうと思います。

ではこれからもよろしくお願いします@^▽^@

伊曼
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