イスラーム勉強会ブログ

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109章解説

2010年05月27日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم

109章解説

1. 言ってやるがいい。「おお不信者たちよ、
2. 私は、あなたがたが崇めるものを崇めない。
3. あなたがたは、私が崇めるものを、崇める者たちではない。
4. 私は、あなたがたが崇めてきたものの、崇拝者ではない。
5. あなたがたは、私が崇めてきたものの、崇拝者ではない。
6. あなたがたには、あなたがたの宗教があり、私には、私の宗教があるのである。」

【大まかな意味】
言ってやるがいい。「不信者たちよ、私はあなたがたが崇める偶像を崇めない。またあなたがたは多神信仰と偶像崇拝により私が崇める至高偉大なるアッラーを崇める者たちではない。あなたがたがアッラーを崇めていると主張したとしても、あなたがたは多神の一つとしてかれを崇めているので嘘を言っていることになる。私はあなたがたようには崇めないし、あなたがたは私のように崇めない。それはアッラーを崇めるべき御一人の御方として崇めること。あなたがたにはあなたがたの宗教―それはあなたがたがしがみついている迷った宗教である―があり、私にはアッラーが私に満足し給うた宗教があるのである。」

 クライシュ族のある集団がかつて預言者(平安と祝福あれ)に、「貴方は我々の宗教に従い、我々も貴方の宗教に従うことにしよう。貴方は我々の神々を1年間崇め、我々は貴方の唯一神を1年間崇めるというのはどうか。」と提案したことが伝えられています。預言者は次のようにお答えになりました:「崇高なるかれに同位者を配することに私はアッラーの御加護を求めます。」すると多神教徒たちは、「では我々の幾らかの神々を認めるなら、我々は貴方を信じ、貴方の唯一神を崇めよう。」と言いました。その瞬間にこのスーラが啓示されました。なおこのスーラはマッカで啓示されたことで意見が一致しています。

 他にもイブン・アッバース(御満悦あれ)による伝承があります: クライシュ族がアッラーの使徒(平安と祝福あれ)に富を与え、彼がマッカで一番の裕福な男になるようにし、彼が好む女と結婚させると言い、「ムハンマドよ、これこれを貴方に差し上げるから、我々の神々を罵り、悪く言うのを止めてくれないか。もし止めないなら、我々の神々を1年間崇めてくれ。」と言った。彼が答えて「主から何が私に下るか待ちましょう。」と言ったところで、「 言ってやるがいい。おお不信者たちよ…」からそのスーラの最後までが啓示され、また「言ってやるがいい。「あなたがたは、アッラーを差し置いて外に仕えるようわたしに命じるのか、無知な者たちよ。」」(39章64節)が啓示された。(アッ=タバラーニー、イブン・アビーハーティム出典)

「崇める」の繰り返した登場は、その意味の強調に役立ちます。これはアラブ人が普段から言葉を強調するときや相手に分からせるために使う方法です。ここで繰り返しの表現が使われることで、不信者たちに預言者(平安と祝福あれ)が心変わりするのではないか、信者たちに何か影響を与えられるのではないか、といった思いを断ち切らせることに役立ちますし、また不信者は今後も不信の状態で居続けるであろう予言にもなります。

このスーラで語り掛けられている信者は以下のように分かれます:
・アッラーの存在を否定する物質主義者
・富と欲望や、自分たちの指導者や聖職者を崇める人たち
・アッラーに子や同位者を配したり、アッラーと共に自然現象や天使、動物、偶像などを崇める人たち
彼ら不信者たちには、信者を騙そうとしている導師がいるのです。彼らは彼らのやり方で、さまざまな方法を使い、人々を自分たちの道に誘き寄せようとします。

そこでこのスーラにおいて、至高なるアッラーは信者に、決意し心から信仰の道の上を歩くよう、そして信仰を害するあらゆる呼びかけに耳を貸さぬよう、否定に続く否定と、強調に続く強調という堅甲な表現で命じ給いました。

「私は、あなたがたが崇めるものを崇めない。」:つまり私が崇めるものはあなた方が崇めるものと違う。
「 あなたがたは、私が崇めるものを、崇める者たちではない。」:つまりあなたがたが崇めるものは、私が崇めるものと違う。
「私は、あなたがたが崇めてきたものの、崇拝者ではない。」前述の文章の強調。
「あなたがたは、私が崇めてきたものの、崇拝者ではない。」前述の文章の強調。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P187~188)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2946~2948)


110章解説

2010年05月20日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
110章解説
1. アッラーの援助と勝利が来て、
2. 人びとが群れをなしてアッラーの教え(イスラーム)に入るのを見たら、
3. あなたの主の栄光を誉め称え、また御赦しを請え。本当にかれは、度々赦される御方である。

 このスーラは、マディーナで啓示されました。当時のクライシュ族は預言者(平安と祝福あれ)と結んでいた協定を破ったため、預言者(平安と祝福あれ)は一万人から成る軍隊を準備し、ヒジュラ暦8年のラマダーン月に出発しました。そこで預言者(平安と祝福あれ)は強いられない限り戦わないようにと言い付けました。アッラーは預言者(平安と祝福あれ)とその軍隊を戦いなしにマッカに入れることを望み給うたため、イスラームの宣教の歴史において最大の勝利を流血なく預言者(平安と祝福あれ)たちは得ることが出来ました。

 マッカ征服は多くの良い結果を生みました。多神崇拝の本拠地であったマッカに安置されていた多くの偶像が破壊され、その他の絵や像も取り除かれたことや、預言者(平安と祝福あれ)はイスラームの囲い地であるマッカに入り、ヒジャーズ地方の残りの部族に勝ち、イスラーム国家を堅実にすることが出来ました。

 至高なるアッラーは仰せになりました:
「 アッラーの援助と勝利が来て、 人びとが群れをなしてアッラーの教え(イスラーム)に入るのを見たら」

 アッラーは使徒であるムハンマド(平安と祝福あれ)に、勝利は疑いなくやって来ることを知らせ給いましたが、それは実際に起こりました。援助とは、このスーラが降下してしばらく後に叶った、マッカがムスリムたちに征服されることを指しています。

 実は当時、多くのアラブの部族がクライシュ族とアッラーの使徒(平安と祝福あれ)の戦いを待っていたわけですが、実際にムスリムたちが勝利し、マッカが開かれると、人々はアッラーの教え(イスラーム)に続々と集団で入って行きました。この現象を前に、アッラーは使徒であるムハンマド(平安と祝福あれ)に語り給います:
「 あなたの主の栄光を誉め称え、また御赦しを請え。本当にかれは、度々赦される御方である」

 ムハンマドよ、あなたの主から非と悪の属性を排斥しつつ、かれがあなたに委ね給うた勝利に対してかれを称讃し、かれに感謝をささげなさい。そしてアッラーから赦しを求めなさい。という意味です。アーイシャが預言者(平安と祝福あれ)について次のように伝えています:彼(平安と祝福あれ)はマッカが開かれ、アラブたちがイスラームに入ると、「スブハーナッラーヒ ワビハムディヒ、アッラーフンマ インニー アスタグフィルカ(アッラーに讃えあれ。アッラーよ、私はあなたに罪の赦しを求めます)」と多く言われていました。

 どのようなことに対するイスティグファール(赦しの懇願)であっても、やはりイスティグファールは、魂に魂が怠慢と不能の立場に常にあることを痛感させ、そして思い出させるものです。また齎された勝利は魂だけによるものではなく、勝利はアッラーの勝利であること、また他国が開かれて行くのは、かれの恩恵であること。この怠慢と無能の感情は、開拓者に被征服民に不正を成したり彼らに復讐しないようにさせます。これはアッラーから人間に与えられた学習なのです。アッラーは勝利した際には謙虚になるようにと私たちに示し給いました。これこそ、預言者(平安と祝福あれ)がマッカに勝利者として入場した際の態度でした。彼はラクダに乗り、援助を授け給うたアッラーに対する謙虚と畏敬の念から頭を下げていました。

 まさにこの謙虚な態度は、非ムスリムたちが自分たちの勝利時に行っていた、高慢で粗野な態度や、飲酒などの行いと比べられると、その素晴らしさが顕著に現れます。

 このスーラは上記の勝利について述べると同時に、預言者(平安と祝福あれ)の死の訪れを知らせるものでもありました。実際に彼はこのスーラが啓示されたときに次のように言われました:「自分の死を告げられた。」(イブン・アッバースによる)そして彼はこの年に亡くなりました。

 またイブン・ウマルは次のように言いました:このスーラは預言者(平安と祝福あれ)の最後の巡礼中のミナーで啓示され、続けて「今日われはあなたがたのために,あなたがたの宗教を完成し…」(食卓章3節)が啓示されました。彼はその後80日間生きられ、次にカラーラのアーヤ(女性章12節および176節)が啓示され、その後50日間生きられ、次に「今,使徒があなたがたにあなたがたの間から,やって来た…」(悔悟章128節)が啓示され、その後35日間生きられ、次に「あなたがたは,アッラーに帰される日のために(かれを)畏れなさい。」(雌牛章281節)が啓示され、その後21日間生きられました。

 勝利と援助の訪れと、人々がアッラーの教えに集団で入ることは、イスラームが完全に預言者(平安と祝福あれ)に伝えられ、その完結が齎された証拠です。また物事が満ちるとその直後には欠陥と終わりが起こるものです。アッラーが預言者(平安と祝福あれ)にアッラーを称賛し、罪の赦しを求めるよう命じ給うたということは、アッラーのメッセージは完結し、完璧に齎された証拠です。これは終期が近付いたことを指します。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P189~191)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2949~2952)


心の浄化についてのメモ

2010年05月17日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
タウバ(悔悟・改悛)=後悔、後悔=タウバ。
タウバを真剣にしようとした者の、タウバ後の状態とその前の状態は相違する。
ではアッラーに対面した心の状態とは?

サハル・アッタストリーがジュナイドに質問をした:
「タウバ成就のしるしとは、罪を覚えておくことでしょうか。」
「いや、罪を忘れることが、タウバ成就のしるしだ。」

どのように?
まじめにタウバしアッラーに帰る者には、後悔で満ちた長い時間が訪れる。
またアッラーの御前に立つことへの恐れに襲われるが、
努力してアッラーへの道を行けば、そうすることでズィクルの甘美さやターア(服従)の
素晴らしさといったアッラーの恩恵が、
罪の苦しさを追放してくれる。

タウバのニーヤで捧げた2ラクアの後に、しっかりとタウバすることは、
新しい1pが開かれることだ。

ガザーリー師は質問されて次のように言った:
「タウバが成立したら、果たしてそれは確実に嘉納されるのでしょうか。」
「アッラーは御自身に課したこと以外のことを課されることはないが、
しもべが真心込めてタウバした場合、アッラーはそれを嘉納し給わずにはいられない。
どのような場合であってもだ。」

罪には大小あるが、その中で最も大きいのは、自分の罪をアッラーの御赦しよりも
大きいと捉えてしまうこと。
この思考こそが大問題である。

タウバ終了後の次のステップは、
心と対面すること。

なぜ心となのか?
預言者(平安と祝福あれ)の誓いを思い出してみよう。
彼は、強く激しく誓われるとき、次のように言われていた:
「心と視線を変え給う御方に誓って」
アッラーは私たちの心を最も注目する場所にし給うた。
かれは私たちの外見ではなく、心と行為を御覧である。
アッラーは心をかれが注目する場所とし給うたのだ。
しかし人間が注目する部分は外見であるため、人間は外面にとても気を遣う。
ただ、他人への敬意のために、私たちが外見を美しくすることは大切だ。

では人々の主、アッラーはどこを見給うのか?
あなたのどこを御覧なのか?
心だ。

القلب في علم السلوك هو اللطيفة الرحمنية التي وضعها الله للإنسان
これで人間と他の被造物が区別される。
إِنَّا عَرَضْنَا الْأَمَانَةَ عَلَى السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ وَالْجِبَالِ فَأَبَيْنَ أَن يَحْمِلْنَهَا وَأَشْفَقْنَ مِنْهَا وَحَمَلَهَا الْإِنسَانُ ۖ إِنَّهُ كَانَ ظَلُومًا جَهُولًا
本当にわれは,諸天と大地と山々に信託を申しつけた。だがそれらはそれを,担うことを辞退し,且つそれに就いて恐れた。人間はそれを担った。本当に(人間は)不義でありかつ無知である。(33/72)

ここで言われているアマーナ(信託)がここで言っている「心」のこと。

心は重要な二つを含む:
①イドラーク(理解)②イラーダ(意志)

あなたが友人に会って会話を楽しみ、そのうち喧嘩してしまい、相手に襲いかかろうとするとき。
この瞬間、どのようなイドラークが起こっているか。
「怒り」「自我の勝利の渇望」「復讐」
これらに囲まれてしまっている。
あなたが相手を叩こうとしたり、醜い言葉を発するとき、何があなたにそうさせているのか?
心に生まれたイラーダである。
当初の落ち着いた気持ちをこのようにさせたのはイドラーク。
けんかをしたことがきっかけ。

喧嘩が始まって、「アッラーは忍耐を好み給う」「預言者(平安と祝福あれ)は自分のために怒ったことはなかった」と思いだすこと。
このカラール(決定)は最終的にあなたを喧嘩から遠ざける。
何からそれは生まれるか?
心からだ。
心は洞察し、決定を下す場所である。

ある話:
ある金持ちの貿易商が代理人を立ててモスクを必要とする者たちのために建てようとした。
建立のために代理人は走り回り、町の人々はこの代理人がモスクを建ててくれているのだと思い込んだ。
それを知った代理人は貿易商に赴き、「あなたにとって不公平な状態になっています。人々は私がモスクを建てたと思いこんでいますので、全員を集めて、本当のことを伝えようと思っています。」と言った。
貿易商は、「いや、そんなことしなくともよい。」なぜ?と聞かれて、「誰のために建てたモスクかは、その御方が最も御存知だから。」と言った。
一体どこから彼のカラールとイラーダが来たのか?
「心による洞察の理解」である。
この心構えこそが、アッラーを求める者がそれによってアッラーに近づくもの。
「本当に盲人となったのは,かれらの視覚ではなく,寧ろ胸の中の心なのである。」(22/46)

至高なるアッラーは、ハディース・クドゥスィーで次のように仰せになった:
「わたしの友がらに敵意を示すものには、わたしは誰に対しても戦いの宣言をする。
わたしの気に入ることをしてわたしに近づこうと望むしもべは、
自分に課された宗教的義務をきちんと果たすにしくはない。
定められた義務以外のよい行いに努めるしもべは、
ますますわたしに近づき、遂にはわたしの愛をかちうるであろう。
そしてわたしが彼を愛するようになれば、わたしは彼の聞く耳、
彼の見る目、彼の打つ手、彼の歩く足となろう。…」

このハディースから、人はアッラーによって見たり聞いたりするということ。
この心のイドラークに偉大さについてが今回のテーマ。
心がこのようになるためには、もちろん作業が必要。
この作業こそが、スルーク(求道)だ。
つまり、アッラーを求める道。

心に第一に必要なのは:
心に汚れを入れてしまう穴を塞ぐこと。
例えてみよう。ある部屋のたくさんの窓がすべて全開だ。そこに砂嵐が吹いたらどうなるだろうか?
きっと部屋は砂でいっぱいになってしまうだろう。
あなたが強力な掃除機を何台使って掃除をしても、
窓が開いたままでは砂が入り続け、意味がない。
あなたの心もこの部屋と一緒。
心はさまざまな病気にかかる。
妬み、見栄、高慢、地位追求など。
それらの病気の治療の前に、まず「窓の管理」が必要だ。

心に闇を入らせる穴は2種ある。
①五感的穴(視覚、聴覚、発声)②精神的穴

①見るものは直接心に影響し、それは保存される。暗い闇的なものを見たら、それは心に植え付けられてしまう。
反対に明るいものを見たら、そのままそれが心に植え付けられる。どちらでもないもの(木や家など)を見たら、
どの角度でそれを見たかで決まる。これらが目の心への影響。→禁じられた視線第一種

目は心に影響を与える。
禁じられた視線は呪われた悪魔が放つ弓の一つ。
アッラーをおそれてそれを避ける者の心にアッラーは甘美を与え給うだろう。

禁じられた視線第二種:
現世を重要視すること。アッラーが創造し給うたものを美しいと思って見ることを指しているのではない。
禁じられるのは、現世自体を偉大なものとして見てしまうこと。
大きなタワーを見てとても感心するようなもの。

禁じられた視線第三種:
アッラーの被造物を見下すこと。
自分よりも貧しい者を見下したりせぬよう。
あなたはアッラーを求める者なのだからしてはいけない。
あなたがその者よりお金や知識や血統を持っていようとも、
来世では必ずそれらについての清算を受けるのだから。
アブー・ラハブは優れた血筋の生まれだったが、それは彼の何の役にも立たなかった。

では何が人々の優越を決めるのか?
服従行為だろうか?
いや、ちがう。

また、罪人を見下してはいけない。
この視線は心に悪く影響するし、また禁じられている。
これは心を真っ暗闇にする。

ある熱心なユダヤ人信者の話:
500年もの間、一度もアッラーに背いたことがなかった男が、同じ民の中のアッラーに一度も従ったことがない男を見た。
両者が向かい合った瞬間、両人とも背を向けてしまった。
前者は後者に対する高慢さから彼に背を向けたわけだが、
アッラーは自分が他に優っていると思う者を決して赦し給わない。
逆に後者は、アッラーに対して恥いる気持ちを持ったため、信者に背を向けたのだ。
「私はどうやってこのお方に顔を向けたらいいんだ」と思ったのだ。
前者の信者は、崇拝行為の多さゆえ、彼が行くところには雲が付いてきて影を作るというカラーマを賜った人だった。
両者が分かれた瞬間から、もう雲は信者に付いて行かなくなった。
何が原因かというと、蔑視したからだ。

罪自体を蔑視してもよいが、罪人を蔑視してはいけない。
不信を蔑視しても、不信仰者を蔑視してはいけない。

以上、禁じられた視線3種:
①欲望に基づく視線②現世を偉大視する視線③被造物への蔑視

これらを捨て、心が輝くための視線を持つこと。
つまり、見ることが許されているものを、至高を持って眺めること。
愛情の目で、両親や学者を見ること。
罪人を同情の目で見ること。
信心深い人を尊敬の目で見ること。
以上は、心が光り輝く原因となる視線だ。

目は貴重なのだ。
なぜか?
なぜなら目はアッラーの後尊顔を見るために作られたからだ。

続く。

タウバの修正についてのメモ。

2010年05月08日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
タウバの修正についてのメモ。

今回は、アッラーへの旅の第一歩である「タウバ(悔悟)の修正」について。
タウバは「戻ること」を指す。
以下の3事項が一つになったとき、タウバは成立する。
①イルム(知)②ハール(状態)③アマル(行動)

自分がしもべであり、審判の日にアッラーの御前に立つ運命であり、それまでは短い人生を死ぬまで続ける。
この自分が人生で何をやってきたかの清算をその日に受ける。
しもべは人生の終わりには、一人でアッラーの御前に立たなければならないことを知っている。
その日、一対一だけであり、通訳者も誰も介さずにアッラーに尋問されるのだ。
そしてアッラーはその時仰せになる:

しもべよ、あの日あのときあの場所で、われがすべての戸を閉め、あなたを他のしもべたちの目から隠したときに、
おまえはわれが満足しないことをしたのではないか?
他の被造物がそれを見たとしたら、おまえは恥ずかしがったのではないか?
どうしておまえはわれを、おまえを見る者たちの中でもっとも低めてしまったのか?
しもべよ、われ以外に見られたら恥ずかしいと思うのに、
おまえはわれからは恥ずかしがらないのか?
しもべよ、われはおまえを無から創り、多くの恩恵を与えた。
そしておまえに「ラーイラーハイッラッラー(=イスラーム)」を与え、おまえの母はそれを元にして
お前を育て、立派に成人したではないか。
それなのにおまえはわれに逆らったのか?
おまえはわれの恩恵にどのように接したのか?
そしてどのように感謝したのか?
おまえはわれに近くにいれるように願ったか?

ムスリムは誰でもこのような結末を知っている。
これが、「イルム」である。

私たちが言うことはすべて記録されている。
これらを聞くと誰でも胸が締め付けられるが、
それはアッラーからの恩恵だ。

あなたは「現世の民」を見たか。
彼らのある人は高い地位に就き、ある記者は彼が言うことを書き取ったり、
彼の姿を写真に収める者もいる。
人々が驚嘆していて、皆が彼を注目しているのだ。
しかし、用が済むと、皆去ってしまう。
重要でなくなると、放置してしまう。
しかしあなたはアッラーのもとでとても大切な存在である。
だからこそ二名の天使をあなたに遣わし、
あなたが成人してから死ぬまでの間の行動を彼らはすべて記録する。
記録された書物は審判の日にアッラーの御前で広げられる。
この事実という「イルム」に、違う「イルム」が加えられる。
それは、清算後の、天国行き・地獄行きのこと。

魂が喉元に届いたときが、与えられた猶予期間の終わり。
これが自分に与えられた境遇であることを熟知すること。

以上の「イルム」を得たのちにあなたは、
「後悔の念」「羞恥の念」「辱め」
を感じないか?
昨日までアッラーに背いていたのに。
私の醜業をアッラーは御覧になり、すでに記録されてしまったのだ。
かれの御前に立つ時、そのことを尋ねられてしまうのだ。

ある男が師匠に、「アッラーは私の恥ずかしい罪を赦し給うでしょうか」と言った。
「悔悟し、行いを改めれば」と言われた男はたいそう喜んだが、またたずねた。
「しかしアッラーは、私がその行為に耽っていた姿を御覧になっていたわけですよね」
と言って師匠が「全くその通り」と答えた瞬間、
男は大声を出して、ショックのあまり、死んでしまった。

この男は自分とアッラーの関係の悪さを恥じたのだ。
また、「アッラーは罪深い私を覆ってくださった。醜悪な行いの最中もアッラーは
私を暴露し給うことなく、私を隠してくださった。それなのに自分は・・」
と感じたのだろう。

この話をもう少し分かりやすくすると。
子が親に逆らい続けていると、親は子に
「このまえあげたプレゼント没収するよ!」と言って、
子から物を取り返そうとするだろう。

しかしアッラーはそうではなく、さらにたくさんのものを私たちにくださる。
そして私たちを猶予してくださるのだ。

ある人が現れると、その人に対する好意や敬意から皆が挨拶し、
「私にドゥアーしてください」と言う人もいる。
本物のムスリムはこのように言われた時、
「恥ずかしい」「後悔」する。
何に対する「後悔」かというと、自分自身のアッラーに対する怠慢に、だ。
心の中で感じているこの後悔の念こそが、
「ハール」である。

後悔の念は、人間の心にある決意をさせる。
それは、「逆らうのをやめること」。
つまり絶対に罪に戻らないこと。
絶対今度はアッラーに背かないという決心。
この後悔の念が生まれ、イルムとハールと罪の放棄が伴えば、
タウバは成立する。

もし罪が、人の権利に絡んでいる場合は、
以上の3つに、「所有者への権利の返還」が追加される。
金を盗んだら返す。返す金がないなら、放免してもらう。
もしゆるしてもらえなかったら、問題だ。

罪は3種類に分かれる。
①赦されるもの:自分とアッラーの間の罪。
②赦されないもの:シルク(アッラーに何かを配すこと)
③放置されないもの:上で言った、他人の権利が絡んだ罪
③にはとても注意を払わないといけない。
自分の周りを見て、確認してみること。

イブン・マスウードのところに来たある男が、犯してしまった酷い罪を彼に打ち明け、
「私は赦されるのでしょうか」と言った。
それを聞いたイブン・マスウードは顔色を変え、男から背を向けて去ってしまった。
数歩歩いて後ろを振り返ってみると、男は何と泣いていた。
イブン・マスウードは男に向かい、言った。
「あなたが正直な心でアッラーに顔を向けたのなら、アッラーはもうあなたを赦してくださっただろう」

次のことを知りなさい。
アッラーは天国に80の門を設け給うた。
そのうちの一つは閉じることなくいつも開いているが、
それは「タウバの門」。

大罪にはいくつかあるが。
あなたが罪を犯した直後の感情はどんな感じか?
→罪を繰り返して犯すのは大罪であるという考え方がある
→罪を犯しても罪悪感がなく、恥ずかしいと思わないのは、大罪であるという考え方がある

例え話で説明すると:
子供が何かを壊したときに、「こら!何したんだ!」と呼びつけても、
「こわしただけじゃん!」と言って子供が逃げてしまったら、
あなたはさわに怒るのではないか?
物を壊したことに対してでなく、罪悪感のない態度が問題なのではないか?
人間が何か罪を犯しても罪悪感を持たないことが問題なのだ。
サーリク(アッラーにたどりつく道を志す者)はこうあるべきでない。
本物のサーリクは、とても小さい罪にも胸を痛める。

サラフのある人は、ブハーフ(合法のことがら)に対してもイスティグファール(罪の赦しを請う)
をしていた。またターア(崇拝行為)後にもそうしていた。
どういうことかというと、ターア達成後に、
「アッラーのおかげで自分はこれを達成できたのだ」という気持ちを
抱かなかったことに対するイスティグファールである。
またラービア・アルアダウィーヤは言った:
「私たちのイスティグファールは、イスティグファールを必要としています」
どういうことか?
「アスタグフィルッラー(私はアッラーに罪の許しを請います)」と言っても
心が同在していない。
こんな状態でアッラーに罪の赦しを請うなんて、恥ずかしい、
ということである。

以上が、タウバが示すさまざまな意味。

まず今夜から始めること。
タウバには終わりがない。
自分の間違いを知り、認め、それらすべてからタウバしよう。
タウバの意志をもって、2ラクア捧げよう。
この話を読んで満足するのではなく、
これは行動の始まりなのだ。

2ラクア捧げたのちに、今までの罪を思い出すこと。
そして死が近づいていること。
そして墓に入れられる情景をイメージすること。
そしてアッラーの御前に立つことを思い出すこと。
そこにはアッラーと自分しかいないこと。
そこでアッラーにお願いをするのだ。
主よ、あなたの御前に私がいます。弱く、罪深いしもべがいます。
私はあなたに帰ります。主よ、御赦しください。慈悲を垂れてください。

このようにアッラーに顔を向けること。
その瞬間に心に感じるものに注目しなさい。
この礼拝とドゥアーの後、
イスティグファールを習慣化すること。
毎晩できるようになれば、
「愛される者の境地」に到達できる。

إن الله يحب التوابين ويحب المتطهرين
ここのタッワービーン(ターイビーンより意味が強い)は、意味誇張の形をとっている。
そう、何度もタウバするしもべをアッラーは愛し給う、という意味。
タウバを途中でやめてしまっても、そこから再開したらいい。
しかしアッラーを弄んではいけない。
どういうことか?
「罪の後にタウバすればいいや」と考えることだ。
そして何度もあきらめずにアッラーに帰ること。

続く。

福岡モスク見学・交流会のお知らせ

2010年05月05日 | その他

福岡近郊在住の方に朗報!

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地域での国際交流、マスメディアによる誤った情報にとらわれず、イスラームの本当の姿そして異文化の理解をもっと一般の日本人の方に深めてもらうために企画されたものです。福岡のイスラーム教徒とそのコミュニティが地域の方々と共に福岡という街を”アジアの玄関口”(福岡県が掲げるモットー)にふさわしい街にしていく架け橋の一歩となるような会です。小さな会ですがそれが福岡の街に咲いた新しい花を皆で育て大事にしていくという大きな未来につながっています。モスクに赴くあなたの一歩を皆で歓迎いたします。どうぞお越しくださいませ♪ 

2010,5,15, (水) 15:30~18:30 国際色豊かなお母さん達が作るお食事も有ります。(無料・要予約)

infomatiom@fukuokamasjid.org

http://www.fukuokamasjid.org/



強い動機(バーイス)の意味についてのメモ。

2010年05月05日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
信者の心を動かすバーイス(باعث)=強い動機。

何が人間を服従する者にするのか。そして何が人間を前者と違う不努力者にするのか。
何が「礼拝は眠りに優るالصلاة خير من النوم」を聴いて、目を覚まし、甘い眠りから起き上がらせるのか。
何が信者を夜中、「どのようにすればアッラーに近くなれるか」と考えさせるのか。
何が人生すべてをアッラーのために捧げる人にそうさせるのか。
何がラマダーン中、人々に崇拝行為を熱中させるものは何か。
それは、バーイス。
それは、アッラーが人間が心に投げ込み給うもの。

何十年も怠ける人間や、礼拝を放棄し、ハラームを食べている人が急に改悛することは、ある。
モスクに行くようになり、人間関係を改善する。それを見た他人が、「アッラーが彼をお導き給うたのだ」と言う程だ。
この導きとは、何か。
これは、アッラーが人間の心に投げ込み給うたもの。
これを、バーイスという。

バーイスはちょうど、何かに招待されるようなもの。
招待カードに、「出席してください」と記されている。
カードを受け取ったあなたは、出席しようか、という気が起こるだろう。

アッラーからあなたに届いた招待カード。
アッラーはしもべにかれに顔を向けるよう促し給う。

なぜここで招待を受け取る話をするかというと、アッラーは人間にバーイスを投げ込むために、
いくつかの理由を作り給うたから。

教育者たちは言う:
アッラーに接近しようとするバーイス(強い動機)が心に生まれるきっかけは、以下の5事項。
①関心の惹き付け(الترغيب):例)アッラーに近づきたいと思わせる何かを聴くなど、
②恐れさせること(الترهيب)、
③憧れさせること(التشويق)、
④他人から受ける影響=善良な人々との同席
⑤特に理由なし

私にはバーイスが必要なのである。アッラーへ連れて行ってくれる強い動機が。
1~2日で礼拝を辞めたり、1~2週間や1~2ヶ月でタズキヤ(自我浄化)を辞め、バーイスを失ってしまう様。
熱意を求めて夜中の2ラクアの礼拝を捧げていたのに、
もうしなくなっていたりするのはなぜか?
バーイスがないのである。
ではバーイスはどこに行ってしまったのか?

バーイスは、理由もなく現れることがあると↑に書いたが、
極限の怠慢の中に現れることもあるし、
一生懸命探して、アッラーに投げ込んでいただけることもある。

理由なくバーイスが現れることがあるのなら、寝て待てばよいのか?
ある人は礼拝せず、いつするのか?と聞かれると、
「アッラーがお望みになれば、するよ」と言う。
仕事をせず、「導き給う御方は、糧も与え給うだろう?」と言う人。
間違った発言ではないが、アッラーはその原因を自分たちで作るよう仰せになった。
原因を放棄して待つのではなく、きっかけを自分で作ること。

私たちはバーイスを必要としている。
それはなぜか?
何ヶ月経っても、あなたの心にバーイスが生まれないこと。
そんな状態で死を迎えてしまったら一体どんなことになるだろうか。
なおムスリムに年年間もバーイスが訪れないことは十分ありえる。
80年以上生きたのに、一度も「アッラーに接近しよう」というバーイスが生まれなかった人は、いる。
その原因とは何だろうか?
それは、戸を叩いていないから。
アッラーの戸の前に立たないのが原因。

私たちには、原因が必要ということ。
あなたも私も心にバーイスが生まれることを望んでいる。
これをどのようにして手に入れるか。

学者たちは次のように言った:
人間の自我は、次の3つを原因に影響を受けたり、感情的になったり、受容的になる。
①おそれ②(貪欲的な)期待③憧れ

例)糖尿病の人がお菓子を食べたいと思っている。血糖が高いのに、自我は甘いものを熱望している。
その友人は注意して、食べるな、と言う。これを食べると、失明するかもしれないぞ、と言う。
このように言われたらどうするか?きっと食べるのをやめるだろう。

自我が欲しているのに、甘い菓子を放棄させたものは何か?
「おそれ」である。
クルアーン中に多くの地獄の話、痛々しい罰の話などが出てくるのは、
ハディースが墓の罰について語るのは、なぜか。
人間がそれらを語られる必要があるから。
人間として必要だから。

この「おそれ」を知ることで、自我は目を覚ます。
自我には脅迫されることが必要。
あなたがいつか死ぬことを思い出すとき。それは確かに真実だ。
死後、アッラーに対面し、清算を受け、かれはあなたの行為について細かく質問し給うのだ。
あなたがスィラート通過について思い出すとき。
そこを通りきって天国に行けるのか、
または途中で落ちてしまい、地獄行きになるのか。
この思考の際に、注意するのである。
あなたがこれらのことを思い出し、
かつ、それらが真実であることを確信していると、
その瞬間心は覚醒し、アッラーに接近しようと思うのである。
以上は、「おそれ」がバーイスを生むことの説明。

子供(=私たち)は学校抜授業を一気に理解できない。
しかし父親は言う:「良く復習して、試験に受かったら、自転車を買ってあげよう」
このとき子供は何を思うか?
約束されたものを手に入れるために、自我の中にある怠けを追い出そうとするだろう。
人間とは、こういうものなのだ。
「(貪欲的な)期待」は大いに自我を動かす。
では私たちのこの貪欲的さが向けられるべきものとは何か?
それは、アッラーの許にあるものに自我が期待するもの。

あなたが、アッラーがかれに接近する人たちのために準備し給うているものを読むとき。
天国の住民に与えられる恩恵、川、王権、永遠の至福、
その中で最も大きい、アッラーの御満足の獲得。
これらの贈り物をあなたは熱望しないのか?
天国で最も貧しい人は、現世の10倍のものを得ると言われる。
これらの事実はあなたの心を動かさないのか?

قل يا عبادي الذين أسرفوا على أنفسهم لا تقنطوا من رحمة الله إن الله غفور رحيم
「わたしのしもべたちよ」とアッラーが仰せ給うている。
この寛大さとは何か?
アッラーはこんな私たちにこのように接し給うている。
ハディースには、毎夜の最後の時間に、
「罪の赦しを求める者はおるか、悔悟する者はおるか、われに頼みごとがある者はおるか?」
とアッラーが仰せ給うことが載っている。
アッラーは日中に罪を犯した者のために夜中手を広げ給い、
夜中に罪を犯した者のために日中手を広げ給うのだ。

自分とアッラーの間で犯された罪について考えてみること。
アッラーが私を暴露し給うたなら、誰も私に挨拶をしてくれないだろう。
何度アッラーは私を助け給うたか。
このような事柄が、あなたの心に、このように接し給うた寛大な主、
アッラーを熱望する気持ちを起こさせるのだ。

子供に対する母親の視線。
人々があなたの子供を責めている。
なのにあなたの心には、「私の子を放っておいて!これは私の子」と
子供に対する愛情が募るばかり。
ある教友がキャンプで、子を見失った母親を見た。
彼女は子を探していた。
しばらくすると子が彼女のところに来、走って行った。
彼女も子に向かって走って行った。
2人は抱きしめ会い、彼女も子も泣いた。
それを見ていた教友たちも皆して泣いているのを預言者(平安と祝福あれ)がご覧になった。
「何があなた方を泣かせたのですか?」と言われた。
「この女性の、子に対する愛情です」と彼らは答えた。
「彼女が子を火に投げ入れると思いますか」と預言者(平安と祝福あれ)は言われた。
「いいえ、決して」と彼らは答えた。
「アッラーはあなた方に対して、この母親よりも慈悲深いのです」と言われた。

アッラーのこの繊細な対応・・・
私たちは主を熱望しないのか?

アッラーへの熱望は、
「私はこの主とどのような関係にあるのだろうか?」
と自問させる。

バーイスは、「おそれ」「憧れ」「(貪欲的な)期待」で生まれる。

アッラーへの「おそれ」から、かれの怒りに対する「おそれ」から礼拝する。
アッラーから頂ける恩恵に期待して、アッラーに接近する。
アッラーを愛し、熱望して、アッラーに接近する。
「善良な人々と時間を過ごすこと」で、アッラーに接近する。

「善良な人々と時間を過ごすこと」とは?
ボタンを押して得られるものではない。
彼らを眺め、関係を作ることが、彼らにアッラーにより与えられた
恩恵へ熱望を心に生む。

彼らも以前の善良な人々と同席していたのであり、
その以前の人たちも善良な人々と同席していた。
これは鎖のように続いているもの。

あなたは以前に、このような人たちとズィクルをして、
「この人たちのようにアッラーにお仕えできたらなあ」と思ったことはないのか?
だからこそ、彼らとの同席は、バーイスを生む。

ではバーイスが生まれたら気を付けるべき3事項。
①このバーイスの保存。バーイスはアッラーからあなたへの贈り物。これを尊く、偉大に見ること。
人によっては重要視しないために失ってしまう。バーイスを清算し、強化すること。
つまり、悪友を避け、アッラーが満足し給うことにひたすら対面すること。そして悪魔の
ささやきを無視し、それに遭う度にタアウウズすること、付き合う人を選ぶこと。
②バーイスは3つのことで強化される:
1.ズィクル
2.アッラーに御許にあるものについての思考(死後のことやアッラーにどう対面するかなど)
3.善良なる人との同席
③バーイスの要求に応えること:どのように応えるか。善行を急ぐこと。何か思いついたら、
すぐに実行する。悪魔は、「後でやろう」とさせる。「今は微力なので完遂できないだろう」
と思うのではなく、とにかくやり始めること。アッラーに接近する機会を待つのではなく、
心がそうしたいと思ったときに、すぐそうすること。

バーイスを獲得した後は、タウバ(悔悟、改悛)。
続く。

欲求の意味についてのメモ

2010年05月03日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
欲求の意味についてのメモ。

イラーダ(意志、欲求)の動詞はアラーダ(أراد)。クルアーンに何度も出てくる。
من يريد العاجلة عجلنا له
من أراد الآخرة
など。

ドゥンヤー(現世)追求は:卑しい行為であり、火獄へ到達させる道。
ドゥンヤーは:地球上にある人間が欲するものすべて。

ドゥンヤー追求が嫌われる由縁とは?
ドゥンヤー追求が嫌われる意味とは何か?
→①心の依存:無目的にこの世を生きること、衣食住のためだけに生きること。
  ②心が依存しているもので体が忙殺される:人間の食事、努力、睡眠なのどのすべてのために体が奉仕すること。

本来人間は、この世から何を必要としているのか。
→最低限生きるために必要なものは、食物と飲み物など生命の維持に必要なもの。
 他に、恥部を隠す服、寒さや暑さから隠れるための住居など。
どんな人間も、衣食住が最低限必要。
この3つから、人間の生活は進化、進歩していった。

食物を得るために、農業や狩りが発達し、住居の改善のために工業や製造が発達し、衣服の改善のために、織物などが発達した。
これらが発展し続けた結果が現代に見られるものすべて。

この3つは常に人間に思考させた。
思考するにつれ、人間間の関係の発達にもつながると同時に、相違が起き、(食物や家畜を原因に)争うようにもなった。
現代になってもこの状況は変わらない。
食料問題や水不足問題が該当する。
争いを鎮めるために、規則や法が生まれた。
以上を、「発展」と呼ぶ。

この発展は人間の精神に影響を与え、理性と心がそれで忙しくなった。
「どうすれば○○を手に入れられるか。」「どうすればぼられずに済むか。」と考える。
人間は時間のほとんどをこのような思考に費やすようになった。
そして、「嫌悪の心」が生まれた。
その原因は、妬み、自尊心、自惚れなど。
これらの心情は、人間の心が現世に深く絡んだ時に生まれた。

人間は当初、素朴な衣食住を求めたが、それらが改善され、充実してゆくに連れ、
生活を味わい、楽しむようになった。
食べ物の種類が増えれば、他人が持つ食べ物を欲しがるようにもなった。
元来は恥部を覆うのみであった衣服は、人間を区別するものになり、
遂には衣服を製造するようにもなった。
今では来ている服の種類でその人の地位が決まる。
住居も同様。

人間同士の争いの起源とは?
スケールを小さくして、一つの家族の争いである、夫婦問題、親子問題の原因は?
国家問題も、社会問題も、地域問題もすべて、その要因が結局のところ、
「人間の欲」に帰することが分かる。
じっくりと熟考すれば分かること。

だからこそ私たちは一緒に、「アッラーに到達するための道」について考えるべき。
一口の食べ物を体という預かり物ほ保護のために食べようと考える人と、そうでない人の違い。
私たちは欲を持って食べてもよいが、「アッラーが私たちのために準備し給うた」食べ物を頂く
ことに対する感謝と称讃の意を持つこと。

アリー(御満悦あれ)はかつて質問された:
あなた様は冷水または真水をお飲みになりますか。(当時の清貧者たちは禁欲の念から冷水を避けていた)
アリーは答えて:私は冷水を飲む。彼はどうしてでしょうか?と聞かれて、
それを飲むことで、心底から感謝が生まれるからだ、と言った。

暑い中、乾ききった状態での斎戒解除時に冷水を飲むことで、
あなたのアッラーへの感謝と称讃の気持ちはどのようなものになるか?
きっと、心から「アルハムドゥリッラー!」と言うのではないか。
真水であれば普通に「アルハムドゥリッラー」と言うだろう。
アッラーへの感謝の気持ちを生むために、飲食する大切さ。

同質の衣食住を持つ2種の人間について。
一人はアッラーに感謝して食べ、もう一人は欲を満たすために食べている。
この二人の違いとは。
①アッラーの満足を得たい②自分の欲を満たしたい
この2種の欲求の違い。
では人間はドゥンヤーを楽しむべきではないのか。
決してそうではない。
自分が創造された目的を忘れ、欲を満たすためだけに生きることに要注意。
その害とは?
それは、現在私たちが経験している腐敗の数々。
それらすべての原因は、「自分を満足させること」である。

人間がその自我の要求すべてに応じる危険とは?
①その要求は終わることがない上、どんどん不可能なこともを要求してくる
  金を集めることに満足すると、賄賂や騙しを使ってまでも金を集めようとするなど。
②その要求を満たしても、その幸せは一時的である
  自我の幸福は一瞬で終わる。①にあるように、常に違う要求をしては違う幸福を求めるから。

代わって来世を求める者たち:この者たちはドゥンヤーで良いものを食べ、良い家に住み、良い服を着るかもしれない。
いわゆる、ドゥンヤーを満喫している、ということであるが、
ただ彼らは「アルハムドゥリッラー(アッラーに称讃あれ)」と言う。
彼らの幸福は一時的でなく、現世でも来世でも続く。
彼らが「アルハムドゥリッラー」と言う度に報奨がたまり、
審判の日にその報いを受け取る。
アッラーはこのように仰せ給うだろう:
「あなたはわたしに感謝し、称讃した。その報奨と渡そう」と。
لإن شكرتم لأزيدنكم
クルアーンにもあるように、「あなた方が感謝すれば、われはあなた方に必ずや増加しよう」
とアッラーは仰せ給うた。
以上のように、ドゥンヤーを楽しむということ。

次に要注意なのは、
「自我を所有するのであり、自我に所有されないこと」である。
アッラーの御満足のために、自我に騙されないという十分な可能性があっても、
悪を避けること。自我に「ダメだ」と強く言い切れること。
自我は本当に裏切り者だから。

続く。