イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

不注意者とは

2007年09月22日 | 花嫁の冠【自我浄化】
من علامات الغفلة وصغر العقل:
أن تعول هماً هل يقع أم لا،
وتترك أن تعول هماً لا بد من وقوعه،
وتقول: كيف يكون السعر غدا، وكيف يكون الحال في هذه السنة


不注意と理解力の小ささの兆候:
起こるか起こらないかと心配事で頭をいっぱいして、必ず起こる心配事をなおざりにしてしまうこと。
「明日の値段はどうなるだろうか」
「今年の自分の生活はどうなるのか」

وألطاف الله تأتي من حيث لا تعلم، والشك في الرزق شك في الرازق

あなたの知らないところからアッラーの配慮はやってくるもの。糧に疑いを持つことは、糧をもたらす御方(アッラー)に疑いを持つことになる。

وما سرق السارق، وما غضب الغاضب إلا رزقه، فما دمت حيا لا ينقص من رزقك شيء

盗人も憤慨した人もそれが彼らの糧であったわけ。だからあなたが生きている間、あなたに定められた糧が少しも減らされることはない。

كفى بك جهلا أن تعول الهم الصغير، وتترك الهم الكبير. عل تموت مسلما أو كافرا؟

大きな心配事を横に置いて、小さな心配事を積み上げること以上におろかなことってあるだろうか。
自分はムスリム(帰依者)として死ぬのか、カーフィル(忘恩者)として死ぬのかを気にかけなさい。

عل هم: هل أنت شقي أو سعيد؟
عل هم النار الموصوفة بالأبدية التي لا انتهاء لها!
عل هم أخذ الكتاب باليمين أو بالشمال


自分は不幸者か、幸せ者かを重視しなさい。
終わりのない永遠の火(地獄)を重視しなさい。
(自分の所業が記された)本を右手にすることになるのか、左手にすることになるのか、重視しなさい。

هذا هو الهم الذي يعال، لا تعل هم لقمة تأكلها أو شربة تشربها

これが大切にされるべき心配事。
一口の食べ物や飲み物について心配するな。

أيستخدمك الملك ولا يطعمك؟
أتكون في دار الضيافة وتضيع؟


王様があなたを雇って、養わないことがあるだろうか。
あなたが迎賓館に居て、迷うことがあるだろうか。

إن أحب ما يطاع الله به: الثقة به

アッラーが一番好まれる行いは:
かれを信頼すること。

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タージュ・ッディーン ブン アターイッラー アッサカンダリーのタージュル・アルース(花嫁の冠)より

ラマダーン特集の参考書

2007年09月19日 | 参考アラビア語解説書名

 このブログ内で紹介した、ラマダーン関連のお話は、
 ワハバトゥ アッ・ズハイリー先生著の「イスラーム法学とその根拠」を参考にしました。

 アラビア語では、
 وهبة الزحيلي ،فقه الإسلامي وأدلته
      です。

 この先生は、ダマスカス大学の教授であります。
 他に、イスラーム法基礎学(أصول الدين)があり、ダアワ学部4年では彼の著作が教科書に使われていました。分かりやすくていい感じです。

 


80. 眉をひそめて (アバサ)【1】

2007年09月10日 | ジュズ・アンマ解説
 解説と学習

 この章は、人間と植物における神の創造力について話しています。同様に、審判とその恐ろしさ、そして、アッラーの使徒であるムハンマド(アッラーの平安と祝福がありますように)対するアッラーの叱責の言葉もあります。

 章は、アッラーの使徒(アッラーの平安と祝福がありますように)と盲目で貧しい、アブドゥッラー・ブン・ウンミ・マクトゥームという教友の間に起こった出来事の言及で始まります。アブドゥッラーは、クライシュ族の長たちとの会話で忙しくしているアッラーの使徒(アッラーの平安と祝福がありますように)のもとを訪れました。アッラーの使徒(アッラーの平安と祝福がありますように)は、長たちのイスラームへの改宗を願っていましたが、それによって彼らの追従者がイスラームに帰依することを望んだためです。「アッラーの使徒よ、アッラーがあなたに教えたことを私にも読み聞かせ、そして教えてください。」と、人々と忙しくしている預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)の様子が分からないアブドゥッラーは声をかけました。長たちとの話し合いを中断する行為を嫌った預言者が眉をひそめた直後にこの節が下りました。

 「(ムハンマドは)眉をひそめ,顔を背けた。一人の盲人がやって来(て話が中断され)たためである。あなたにどうして分ろうか,かれは清められるかも知れないことが。または訓戒を受け入れて,その教えはかれを益するかもしれないことが。だが何の助けもいらない者(財産家)には,(関心をもって)応待する。しかもかれが自ら清めなくても,あなたに責任はない。だが熱心に(信仰を)求めてあなたの許に来た者で,畏敬の念を抱いている者には,あなたは軽視した。」

 預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)は盲人に対して眉をひそめました。ここで、クルアーンが「あなたは眉をひそめ、顔を背けた」と二人称ではなく、三人称で「彼は眉をひそめ、顔を背けた」と表現を選んでいるところがポイントです。これは、アッラーの預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)に対する優しい配慮です。

 続けてアッラーは預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)に語りかけます。
 「あなたにどうして分ろうか,かれは清められるかも知れないことが。」、つまり、ムハンマドよ、あなたが眉をひそめたこの盲人が、あなたから得られる導きで罪から清められるかもしれないことがどうして分かろうか。
 「または訓戒を受け入れて,その教えはかれを益するかもしれないことが。」、またはあなたから耳にする導きによって訓戒を得、あなたの教えが彼に役立つかもしれないことが。
 「だが何の助けもいらない者(財産家)には,」、だが信仰やあなたの持つ導きを不要とする者には、
 「(関心をもって)応待する。」、彼らを導くことに関心を持って、彼らの前に現れる。
 「しかもかれが自ら清めなくても,あなたに責任はない。」、彼らが改宗せず、不信から清められなくてもあなたに責任はない。
 「だが熱心に(信仰を)求めてあなたの許に来た者で,畏敬の念を抱いている者には,」、アッラーを畏れ、善を求めて急いでやって来た者には、
 「あなたは軽視した。」、彼に背を向けて、違うことに忙しくした。

 預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)は、イスラーム布教にとって最善な立場を取ろうと努力したのであり、盲人を教えることを嫌がっているわけではありません。アッラーはここの叱責で、地位のある特権者たちを排除し、障害を持っているとしても善い意図を志す人たちを賞賛することを呼びかけています。彼らは、真実の言葉を愚弄する者たちの社会的地位がどんなに高くても、優位にあります。ですから、盲人の弱さと貧しさが預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)が眉をひそめる原因になってはいけないし、盲人からたくさんの間違いが現れたとしても、彼を否定することは正しくありません。なぜなら彼は、感覚を研ぎ澄ませ、善い心を持って、アッラーのしるし(クルアーン)を聞けば訓戒を得るからです。

 この盲人は、預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)が眉をひそめた顔を見ておらず、その事実をも知っていませんが、この行為は最善のものに反していました。アッラーの、預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)に対するこの節によっての叱責は、信徒たちに、盲人たちのために学習の機会をつくることと、彼らの繊細な感情を傷つけないようにすることを教えています。これと同時に、アッラーの導きを求めて精進する盲人たちへの賞賛もあります。

 違う観点から見ると、この神的叱責は、クルアーンがムハンマド(アッラーの平安と祝福がありますように)の預言者性を確証する神の啓示であることを証明していることがあります。もし預言者ムハンマド(アッラーの平安と祝福がありますように)が預言者でなく単に強い男で、他の人たちが言っているように、クルアーンは彼が著したものであるとすれば、自分が叱責される場面が存在することを承知しなかったでしょう。そして、この叱責がアッラーの啓示によることである、と言われることも承知しなかったでしょう。

79.引き離すもの章(アン・ナーズィアート)【6】

2007年09月08日 | ジュズ・アンマ解説
  誰でもアッラーの威厳さと偉大さを畏れる者は、低劣な欲から自分を制するものです。欲望とは、悪くとも良くとも、ほめられるものそうでないものなどの何かに引き付けられることをいいます。しかしこの言葉は一般的に良くない意味で使われることが多いです。欲望は、後に何が起こるのか考えることなく、一時的な快楽へと私たちを誘います。そして害と苦痛の原因になる有害な欲望が叶うよう急き立てます。

  理性ある者は、後に苦痛や後悔を及ぼす快楽から自身を制するものです。魂は欲望に溺れやすく、そうならないように努力することが必要になってきます。思考も、魂が求めるものを大きくする作用があるので、これも避けるべきですので、ハワー(低劣な欲)は、すべての悪と災難の源といえます。

  魂を低劣な欲望と隔てることは、成功と喜びがあるための基本です。アッラーを畏れる気持ちだけが、有害な欲を断ち切る力になります。この努力は、アッラーによって来世で楽園と取り替えられます。
 
  「かれらはその時に就いて,あなたに問う。「それが到来するのは,何時(の日)ですか。」」
  その時がここで意味するのは、最後の審判です。ここで時という単語に定冠詞がついていますが、これは他の時とは違う、地球の法則が危険で大規模な出来事である最後の審判を特別に意味するためです。

   不信仰者たちは、最後の審判が起こる時期について質問しました。その答えは、
  「あなたは,何によってそれを告げられようか。」、つまりムハンマドよ、あなたがそれを語るほどそれに関する知識を持ってはいないのだ、という意味です。

  「その終末(の知識)は,あなたの主にあるだけ。」、つまりあなたの主にだけ、審判の日の知識をその詳細は属し、いつ起こるかはかれにしか分からない、いう意味です。

  「あなたは,それを恐れる者への,一人の警告者に過ぎない。」、ムハンマドよ、あなたの使命は、最後の審判の日の知らせをもって、アッラーの懲罰を恐れる人たちに警告することだ、という意味です。

  クルアーンは続けて、その日の恐ろしさを表現します。「かれらがそれを見る日,(墓の中に)滞留していたのは,一夕か一朝に過ぎなかったように思うであろう。」

 この日の恐ろしさは、魂に大きな負荷を与えます。彼らは審判の日、来世を見るとき、短い歓楽と欲望に満ちた現世の生活は、一夕か一朝のようだった、と思います。

  人間は、消え行く現世の生活とその少ない楽しみのために、永遠の来世を犠牲にするのでしょうか?自分の本当の存在理由と、死後の行く末から迷ってしまった人間ほど、無知なことがあるでしょうか。

79.引き離すもの章(アン・ナーズィアート)【5】

2007年09月05日 | ジュズ・アンマ解説
  続いてクルアーンは最後の審判の日と、その日の人々の行く末を語ります。
  「それで大きい災厄が来ると,その日,人々は(現世で)その努力したことを思い出し,また獄火は,誰でも見る(程の)者に(ありありと)現わされる。」 

  大きい災厄は、最後の審判です。恐ろしさをもってすべてのものに覆いかぶさります。その瞬間に人間は現世での努力を思い出します。しかし回想など役に立たず、後悔と無念以外何も残りません。そして地獄の火は、見る者にまじまじと見せ付けられます。

  アッラーは、罰を受ける原因を説明しています。
  「その時,酷く目にあまった者,またこの世の生活を重んじていた者は,本当に火獄がその住まいであろう。
 
  酷く目にあまることは、度を越している、不信と悪事が重度な者の特徴です。現世を重視し、そのためだけに働き、来世のために何も行わない者意外に、『酷く目にあまる』という表現は当てはまりません。彼らの来世の居場所そして帰り所は地獄であり、その火で罰を受けます。

  反対に、来世における至福の原因は、「だが主の御前に立つことを恐れた者,また低劣な欲望に対し(自分の)魂を抑制した者は,本当に楽園がその住まいであろう。」です。
 
  つまり、最後の審判の日、主の御前に立つことと主の決算を畏れる者は、主の命を行い、主の禁じるものを避けます。「また低劣な欲望に対し(自分の)魂を抑制した者」は、アッラーが嫌い、そして満足しない魂の欲求から自分を制し、それを悪いことと見なして欲に逆らう努力をした者をいいます。楽園は、そういう者たちの住まいで、最後の審判の日の彼らの居場所になります。 

79.引き離すもの章(アン・ナーズィアート)【4】

2007年09月04日 | ジュズ・アンマ解説

 アッラーは預言者ムーサーに、フィルアウンに忠告するように命じました。「そしてかれに言ってやるがいい。『あなたは(罪から)清められたいのか。」:ここで出てくる疑問詞には、文章をやわらかくする作用があります。意味は、あなたは不信という汚れと、自分は神であるという主張、あなたの目にあまる行動、あなたのイスラエルの民に対する虐待罪から清められたいと思うか?「わたしはあなたを,主の御許に導く。あなたは(かれを)畏れなさい。』」:わたしはあなたを主が満足するものへ導こう。そしてあなたは主に対する義務を行い、主が禁じたものを避けることによって罰を怖れるのだ。

  『アッラーを畏れること』は、導き(الهداية)の後にしか現れません。アッラーへ導かれた者は、アッラーの偉大さを知るわけで、人間はアッラーの偉大を知らずにかれを畏れることはありません。

 続けてクルアーンは、ムーサーとフィルアウンの間に起こったことを告げます。
 「(ムーサーは)偉大な印をかれに示した。だがかれ(フィルアウン)はそれを嘘であるとし,(導きに)従わなかった。背を向けて急いで去った。かれ(フィルアウン)は,(その民を)集め宣言して言った。「わたしはあなたがたの主,至高者である。」」

  ムーサーはフィルアウンに自分に与えられたメッセージを説明し、その真実性を証明する、アッラーから与えられた奇蹟(ここでは、杖の蛇への変身)をかれに見せました。この奇蹟は『偉大な印』と表現されています。これはムーサーの預言者性を最大限に強固にするものです。しかしフィルアウンはムーサーを嘘つき呼ばわりし、アッラーの命に背きました。そして彼はムーサーが警告したものに背を向け、人々がムーサーの使命を信じないように策を練りました。そこでフィルアウンは魔法使いたちを集めて、「わたしはあなたがたの主,至高者である。」と宣言しますが、これは彼の策略であり、全くの嘘であることを自分自身で十分に知っているのでした。

  しかしアッラーの慣習は、自分を神であると言い張る人間に厳しい罰を与えないでいるわけにはいきません。

  「そこでアッラーはかれを懲しめ,来世と現世の生活に懲罰を加えられた。本当にこの中には(主を)畏れる者への一つの教訓がある。」:アッラーは来世でかれを火で懲らしめ、現世では海で溺死という罰を与えた。実にこの話の中には、アッラーとアッラーの罰を怖れる者への教訓がある。

 続いてクルアーンは、人間が死んで骨が朽ち果てた後に生き返ることを否定する人たちに語りかけます。

  「あなたがたは(かれが)うち建てられた天(の創造)が,あなたがたを創ることより難しいとでも思うのか。」:人々よ、あなたがたが、主がお創りになった天よりも、あなたがたの方自身の創造の方が難しいと思うのか?実に、この堅固な天を創造した方にとって、あなたがたやあなたがたのような創造物を生かし、生き返らせることはとても容易いことである。そして、あなたがたを生き返らせることは、天を創造することより難易であるわけがない。 この意味のアッラーの言葉はクルアーン内で何度か繰り返されています:「天と地の創造は,人間の創造などよりも俸大である。だが人びとの多くはそれを理解しようとはしない。」(ガーフィル章57)

  アッラーは天の創造を、『建てる』という言葉で表現しています。『建設』には、一つのものになるために、ばらばらの部品がくっつけられ、何かで結ばれる、という意味があります。こういう風にアッラーは天体を創りました。星一つ一つが己の軌道を持っていて、他とぶつかることなく重力で結び付けられています。

  そして大地を表現して「その後,大地を延べ広げられた。」:天の創造後、生き物のために大地を創造した、ということです。

  「そこから水と牧場を現われさせた。」:クルアーンは少ない語数で地上に起こる自然現象を表現しています。それは水と植物です。クルアーンの他に、簡潔な修辞力と正確さを持った表現方法はありません。
 
 そして山々を表現して「また山々をそれにしっかりと据えられた。」:山々を堅固に大地に据えることは、アッラーの御力の表れの一つです。大地を広げ、そこから水と牧場を現れさせ、山々を据えさせるという現象すべてがアッラーの御力の印です。これらは人間の益であると同時に動物の益でもあります:「あなたがたとあなたがたの家畜のための,用益に供される。」


79.引き離すもの章(アン・ナーズィアート)【3】

2007年09月03日 | ジュズ・アンマ解説
 次にクルアーンは、ムーサーとフィルアンの物語から得られる教えを明解にするために話題を移行します。ムーサーの物語はクルアーンに登場する物語の中で一番多いですが、それはムーサーがユダヤの民の預言者であったためです。ユダヤ人は昔から、アラブ半島のアラブ人と隣接していて、彼らの持つトーラー(律法)の中にあるムーサーを含むさまざまな預言者たちの昔話をアラブ人に語り聞かせました。

  クルアーンが語る物語の目的の一つに、当時のアラブ人の生活環境と精神状態を基礎として、彼らに影響を与えること、があります。他には、ユダヤ人たちが陥ってしまった間違った宗教に対する解釈を正し、クルアーンがアッラーの啓示であることを証明する、目に見えない消息について明らかにしたイスラームへ彼らを導くこと、があります。  いろいろな形のムーサーの物語がクルアーンの中に登場します。ここでは、教えが抽出されやすいよう簡略されたムーサーとフィルアウンの物語が出てきます。この訓戒は、『フィルアウンの滅亡理由は自身の悪行』です。この中に、預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)の心を強化と、彼に、以前アッラーがムーサーをフィルアウンに勝利させたように、信者たちに圧力をかけ、悪さをした不信仰者たちを負かそう、というアッラーの約束があります。

 「ムーサーの物語が,あなたに届いたか。主がトワーの聖谷に,かれを呼ばれた時を思い起せ。(かれは仰せられた。)「あなたはフィルアウンの許に行け。本当にかれは目にあまる者である。」

 「ムハンマドよ、ムーサーの物語があなたに届いたか。トワーと呼ばれる清く祝福された聖なる谷で、アッラーが彼を呼ばれたときを。」 トワーは、シナイ山の最下に位置しています。ここで主は彼に、「あなたはフィルアウンの許に行け。本当にかれは目にあまる者である。」つまり、フィルアウンは、不信と罪の一線を越えた、ということです。不正と言う者をアッラーは嫌いますが、それはかれの慣行に反しており、大地を腐敗させるからです。どんな人間も罪を犯している最中は、主を忘れているか、もしくはかれを否定しているものです。そして導きから外れてしまいます。