イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

預言者伝【番外編9】

2015年08月28日 | 預言者伝関連
彼(アッラーの祝福と平安あれ)の現世の見方と慎ましい生活:
アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の金貨や銀貨、財産といったものの見方は、どんな言葉でも、どんな修辞に富んだ能力をでも説明できないでしょう。彼の”信仰の学校”の学徒たち、そして東西にいるアラブと非アラブから成る彼らの学徒たちは、金貨や銀貨を、単なる粘土や小石、砂、土のように見ていました。彼らが現世において低廉であったこと、現世のきらびやかさを軽蔑していたこと、自分たち以外に金銭を費やすことに情熱を注いでいたこと、他人を常に優先していたこと、充足分に満足、または充足していないことにも満足していたことが伝えられています。では、すべてにおける彼らの模範であり、指導者、教師であったアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はどうだったのでしょうか。教友たち(アッラーの御満悦あれ)が伝えている話を見てみましょう。まことに、出来事や知らせ以上により強力な話はありません。

彼から言い伝えられた有名な言葉、彼はそれによって行動し、彼の人生はその上を回っていました:《アッラーよ、来世の生活以外に、(真の)生活などありません。》(アル=ブハーリー)また彼は、次のようにもおっしゃっていました:《私と現世にあるもの。私と現世は、旅客が木下の陰で休み、出発して去ってしまうようなものでしかない。》(アブーダーウード)

また、ウマル(アッラーの御満悦あれ)は、(植物の茎で織られた)マットの上に横になっておられるアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)を見ました。彼は、そのお身体にマットの跡が付いているのを見て、目から涙が溢れました。それを見たアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はウマルに、「どうした?」とおたずねになりました。ウマルは言いました:「アッラーの使徒さま!あなたさまは、あらゆる被造物の中のアッラーの選良です。キスラーとカイサルは恩恵の中にいるというのに。」アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は顔を赤らめておっしゃいました:「アル=ハターブの子(ウマル)よ、おまえには疑いの念があるのか?」続けておっしゃいました:「彼らは、彼らの現世のうちに、彼らの善良なものを急かされた民なのだ。」(アル=ブハーリーとムスリム)

アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は、このような生活スタイルをご自身だけにでなく、そのご家族にもお望みになり、そしてお好みになりました。彼(アッラーの祝福と平安あれ)は、このようにもおっしゃっていました:《アッラーよ、ムハンマド家の糧を充足するものとしてください。》(アル=ブハーリーとムスリム)アブーフライラ(アッラーの御満悦あれ)は言いました:アブーフライラの魂をその御手になさる御方に誓います。アッラーの預言者とそのご家族は、この世を去るまで、三日続けて小麦のパンで満腹になることはありませんでした。(アル=ブハーリーとアハマド)アーイシャ(アッラーの御満悦あれ)も言いました:私たち、ムハンマド家は、半月の間、(料理のために)火を点けることはありませんでした。まことに、黒い二つのみでした。(それは、)ナツメヤシと水です。(アル=ブハーリーとムスリム)

(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P425~427)
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悔い戻る者たちの道しるべ【7】-(1)

2015年08月13日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
司会:先生、この講義集では、若者たちや悔悟を成した人たちなどから寄せられた質問に答えていかれるとのことでした。今まさに、道標の上にいる人たちでもやはり、欲や罪に負けてしまいがちです。ある人は、己の罪を小さく、大したことはない、と認識しているようです。”これは、消えゆく小さな罪だ、アッラーに赦しを乞えば赦してくださる。それか、礼拝すると同時に、またはていねいにウドゥーをすることで赦される…”などと言っているような感じです。では、私たちはどのようにして、罪を軽視してしまうことから気を付ければ良いのでしょうか?

先生:”悪魔は賢い”と言われます。悪魔は、人間が不信仰になるようささやきます。人間が信仰しているのを見ると、同位者を配置するようささやきます。スンナに倣っているのを見ると、大きな罪を犯すようささやきます。服従しているのを見ると、小さな罪を犯すようささやきます。敬虔であるのを見ると、合法な諸事に入り浸るようささやきます。慎ましくあるのを見ると、最後の一枚、それは、信徒たちに喧嘩を売るようささやきます。不信仰、同位者配置、大きな罪、小さな罪、合法諸事に入り浸る、そして信仰者に喧嘩を売る。確定している事実とは、例えばあなたが広い道を走っているとします。右側に、深い涸れ谷があります。小さな罪とはなんでしょうか?つまり、ハンドルを、1センチ分、右に動かすことです。1センチ動かせば、確実に涸れ谷に行き先が決まります。どんなにハンドルの動きが小さかったとしてもです。しかし、この些細な動かしでも、それは確実に私を涸れ谷に導くのです。では、大きな罪とはなんでしょうか?急にハンドルを、涸れ谷の方向へ90度動かすことです。ここでハディースを紹介しましょう:
《固執する場合、小さな罪とは言わない。》

小さな罪に固執すると、罪は大きくなります。大罪は瞬時にその主を破滅に陥れますが、小さな罪の場合、しばらく後に破滅が訪れます。そのため、信仰者の特徴の一つは、”罪に固執しない”です。根拠は、アッラーの御言葉です:
「醜行をなしたり、わが身に不正をなしたりした時にアッラーを思い出し、己の罪の赦しを乞う者ーーアッラーのほかに罪を赦す御方があろうかーー、知った上でなしたことに留まりはしない者。」(イムラーン家章135節)

大罪を犯さず、飲酒せず、姦淫せず、盗みをしなかったけれど、数え切れない小さな罪があると、それらは集積されて、その持ち主を滅ぼしてしまいます。そのため、教友サハル・イブン・サアド様(アッラーの御満悦あれ)によると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:《些細な罪に気をつけなさい。》(アル=イマーム・アハマド)

イスラーム世界の問題に目を向けてみると、それぞれの地域で、人殺しをするような人は非常に少ないことが分かります。姦淫、飲酒、窃盗といったものもです。しかし、小さな、些細な罪は多く犯されています。先ほどと同じハディースを引用します:
《些細な罪に気をつけなさい。涸れ谷に集まって、一人が 棒を持ってきて、他の一人も棒を持ってきて、(それらを集めて火をつけて)食べ物を料理したある民のように。まことに、些細な罪は、その主が責任を問われる際に、彼を滅ぼす。》(アル=イマーム・アハマド)

棒一本だけでは、料理できません。しかし、棒が何本か集まると、大きな火を作れます。これこそが、ムスリムたちの問題です。アッラーへの恐れから、大罪は放置したのですが、小さな罪は犯してしまうどころか、固執してしまっています。その結果が、己とアッラーとの間にできた”壁”です。

例えば、電線が切れたとします。この電線一本には多くの家電が繋がっています。冷蔵庫、クーラー、湯沸かし器など…。1mでも1mmでも切れたら、結果は同じです。人間も、己の犯した罪でアッラーとの間に壁が出来て、アッラーから隔離されてしまう場合、盗みでも姦淫でも、陰口でも、アッラーとの間に隔たりが出来てしまったことに変わりはありません。

そのため、些細な罪がもたらす影響は、最終的に大罪がもたらす影響と同じなのです。つまり、アッラーから隔てられる、ということです。ここで一つ言っておきましょう:人間は、数える程度の小さな罪だけで、アッラーから隔離されてしまうものなのでしょうか?もし、隔離されているのなら、小さな罪ではなく、大罪のせいで隔離されているのでは?矯正できる小さな罪のせいで隔離が生まれることなどあるのでしょうか?(と思う方がいるかもしれません。)女性の手に触れて握手をする人もいれば、非合法なものをたくさん見る人もいれば、夜更かしして他人の噂話をする人もいます。そういう人が次のように言うのです:私は姦淫していないし、盗んでもいないし、卑猥なこともしていない。そう言う人に私は言います:あなたがあの夜に行ったことで集積した罪はとても大きいのです、と。

アブーフライラ様(アッラーの御満悦あれ)によると、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は次のようにおっしゃいました:
《まことにアッラーは、アッラーが満足し給う一言を何気なく言うしもべを、数段も上げてくださる。そして、まことにアッラーは、アッラーの御怒りを買う一言を何気なく言うしもべを、それを理由に、火獄に落とし給う。》(アル=ブハーリー)


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心の強化プログラム【4】

2015年08月13日 | 心の強化プログラム
イードは、アラビア語で、”戻る”という意味があります。

イードに関して学者たちは言いました:イードに新調した服を着たり、お菓子を食べるのがイードではない。悔悟しなかった信徒にイードはなし。アッラーを恐れた者にこそ、イードがある。

イードという機会に、アッラーと自分の関係を見直して、来世に備えることができます。

イードの礼拝(シャーフィイー学派の場合):
ムスリムにはイードに特別な礼拝があります。2ラクアで成り立っています。日の出約30分後以降に行われます。ファーティハ章を読む前に7度のタクビール、そしてタクビールとタクビールの間に心の中でスブハーナッラー、アルハムドゥリッラー、ラーイラーハイッラッラー、ワッラーフアクバルを読むくらいの間を空けます。

預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、女性もイード礼拝に参加するようおっしゃいました。通常、マスジドでの礼拝は女性には求められませんが、イード礼拝は別です。

教友ウンム・アティイヤ様(アッラーの御満悦あれ)のハディースによると、成人前の女子、月経中の女性、都合により普段からあまり外出しない女性たちが、イード礼拝に出るよう命ぜられました。月経中の女性は、礼拝の場には入れませんが、イード礼拝後の説教を聞くようにと言われています。

イードの礼拝に多くの徳がなかったならば、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は普段、外出することのない女性に礼拝に出ることを命ぜられることはなかったでしょう。

また、イード礼拝会場に行けなかったとしても、家で、一人でできます。

タクビールをたくさんすることについて:
イード=ル=フィトルの場合:シャウワール月に入った時点で、タクビールを開始し、イード礼拝前まで続けます。
イード=ル=アドハーの場合、巡礼者たちがアラファから出て~タシュリークの日11、12、13日のマグリブ直前までタクビールを続けます。

お祝い時に、親戚友人を訪問したり、喜びを共有することはムスリム以外の慣習でもありますが、それをする前に、”アッラーのご満足を求める”というニーヤを持つことで、すべてが崇拝行為になります。これがムスリムの訪問の特徴です。

質問1:信仰者は、試練が多い中でなぜ幸福を感じられるのか。
答え:二つのポイント
アッラーを特別に知っている人たちは、普通の人に見えないものが見えます。
1信仰者にとって試練とはどういうものか。
2信仰者は試練に対してどのような信条を持っているか。

試練は相対的で、一つの意味ではありません。ある時期にはそれが試練と理解され、違う時期には恩恵、ある人にとっては試練、違う人には恩恵ということもあります。ルクマーンとその息子の話を例にしましょう。彼は英知のあるとして有名な人です。

ルクマーンの息子が、
「アッラーがもし、私たちに良いことだけを定め給うのなら、どうして悪いことが起こるのですか」と、たずねました。
父は、「あとで答えよう」、と言いました。

ある時、ルクマーンは息子と一緒に旅をしていたところ、息子が途中で骨につまづいて怪我をして、歩けなくなってしまい、旅を中断しなければならなくなりました。
息子は言いました。
「アッラーは、良いことしかもたらし給わないと父さんは言ったけれど、なぜ悪いことが起きたのですか。」
しばらく何日かして治った後、旅路について、目的地の村に着くと、そこには地震が起きて、地上にあったものがすべて地下に埋まっていました。
父は言いました。
「あのまま、旅を続けて、村に着いていたら、私たちは、地震にあって死んでしまったことだろう。表面的には、おまえの怪我は災難だったけれど、実際には恩恵だった。」

この話だけでなく、こういうことは、私たちの現実世界でもよくあることです。時間が経ってから、”これで良かったのだ”ということはたくさんあります。

そのことを直接的に表現している言葉がクルアーンにあります:
「 وَعَسَىٰ أَن تَكْرَهُوا شَيْئًا وَهُوَ خَيْرٌ لَّكُمْ ۖ وَعَسَىٰ أَن تُحِبُّوا شَيْئًا وَهُوَ شَرٌّ لَّكُمْ ۗ وَاللَّـهُ يَعْلَمُ وَأَنتُمْ لَا تَعْلَمُونَ」
「自分たちのために善いことを,あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを,好むかもしれない。あなたがたは知らないが,アッラーは知っておられる。」(雌牛章216節)

洞窟章には、3つの物語が登場しますが、私たちが探っている意味がその中にあります。
船の持ち主の話、男の子殺しの話、崩れかかった壁をハディルが修復する話。

信仰者は、アッラーに対する信頼を持っていれば、常に幸福です。信仰者の試練というものは、常人の理解する試練と違うものです。

信仰者は、試練があるほど、アッラーに対する信頼が深まります。

預言者伝を見ると、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)が洞窟にアブーバクル様(彼にアッラーのご満悦あれ)と隠れていた時、アブーバクル様は、敵がこちらを見たら終わりだと言いましたが、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、二人でいれば、アッラーは三人目と言って、微笑みながら、アブーバクルを安心させました。試練があっても、信頼があれば、安心感が生まれます。

信仰者が、試練の多さに関わらず感じている幸福がどこから来るかというと、アッラーに対する偉大な確信・信頼であり、それが彼の幸福の根本になっています。

試練をくださったアッラーを見ると、アッラーの偉大さを見、それからくるご褒美を考える、そのために幸福を感じるのです。

例:父親か母親が校長を務める学校に通う子どもは、学校で何かあっても校長が守ってくれるので、誰もおそれません。この世界の主であるアッラーは、信仰者の保護者です。”アッラーが常に一緒におられる、助けてくださる”という確信・信頼の例です。

2ムスリムの試練にたいする信条。
忍耐者の報奨に関するクルアーンの言葉:
「إِنَّمَا يُوَفَّى الصَّابِرُونَ أَجْرَهُم بِغَيْرِ حِسَابٍ」
「よく耐え忍ぶ者は本当に限りない報酬を受ける。」(ズマル章10節)

ムスリムは、”試練があっても忍耐すれば、計り知れない報奨がある”と確信しています。

”ご褒美がもらえる”という確信が幸福感をもたらします。

例え話:ある女の人が指を切ってしまいました。普通なら痛いでしょう。しかし、その人は笑ったので、周りの人が驚いて言いました。「頭が狂ったのか」、と。彼女は、指を切ったことで報奨が得られると思うと嬉しくて笑ったのです、と言いました。

結論:信仰者の試練に対する態度は、そうではない人たちの態度と違います。信仰者は、試練そのものを見ず、その向こうにあるもの、その後にあるものを見ます。これに耐えれば、報奨がたくさんある、と見ます。アッラーに対する強い確信・信頼のために幸福感を得ます。

参加者からの質問:ムスリム(イスラーム教徒)とムウミン(信仰者)の違いとは?
答え:ムスリムはムウミンが到達したところにまだ到達していない人のことをいいます。
同じ意味で使われることもあります。区別される場合は、ムウミンは信仰が強まった人のことをいいます。今日の話題で使われたのはムウミンです。試練自体が、人をムスリムかムウミンかに分けます。ムスリムは耐えられないが、ムウミンは耐えられる、という形で分けます。
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心の強化プログラム【3】

2015年08月13日 | 心の強化プログラム
断食をするにあたっての困難をどのように耐え忍ぶかについてと、残っている質問の回答を行います。

前回まで、”断食における効用”を見てきましたが、やはり、断食には困難が伴うものです。

ムスリムの中には、体力の問題ではなく、意志の弱さのために断食に耐えられなくなって、食べてしまう人がいます。そういうことがないよう、意志を強くするための考え方を持つべきです。

私たちの日常生活の中で、目的のために何かを犠牲にするということはよくあることです。例えば、父親が大好きな妻や子どもを置いて、生活の糧を得るために遠くに旅に出るという困難に耐える場合があります。人間は、代償がないなか耐え忍ぶことができません。

さきほどの父親のように、断食する人は、断食を耐え忍べば報奨があるという確信があるため、飢えや喉の渇きを耐えしのげるようになります。

預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)の言葉に、断食の報奨がとても大きいことを示すものがあります。アッラーに代わって彼(アッラーの祝福と平安あれ)が語られた、ハディース・クドゥスィー:《断食はわれのためであり、われこそがそれに報いる。》→善行の報奨は通常、10倍になりますが、断食は数が決められておらず、アッラーが御好みに応じて倍加してくださる、つまり無制限に増えるということです。

断食は、他の崇拝行為に比べて報奨が多いのには理由がありますが、それは、それが隠れた崇拝行為だからです。例えば、礼拝は他人に見えますし、ザカーも、受け取った人がいくらもらったか分かりますが、断食は、した本人とアッラーにしかわかりません。

表面的には、のどが渇いて辛そうかもしれませんが、彼の心の中では、約束されている偉大な報奨で喜びに満ちていて、それが原動力になっているかもしれないのです。

断食の初心者などは、他の人よりも断食をより困難に感じるでしょうが、その分報奨が多いです。それは、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)がアーイシャ様(彼女にアッラーのご満悦あれ)に次のようにおっしゃった通りです:《あなたの困難に応じて、あなたの報奨は多くなります。》

学者たちは、断食に耐え忍んでいることを表に出さないことを奨励しています。自分がこれだけ頑張っていること、苦しんでいることを人に知らせない方がいいとうことです。そうしたからといって報奨が無くなるわけではありませんが、断食は、自分とアッラーとの親交を他人に知らせてしまうことで、また、アッラーとの内面的なつながりを人にさらけ出してしまうことで、”アッラーとつながっている”という感覚が少し薄れてしまうことになってしまいます。

ここからは、皆さんからの質問に答えます。答えきれない分は、次回以降に延ばします。

質問:いろいろある宗教はすべて善へと誘うものですが、なぜイスラームでないといけないのか、なぜイスラームを信じなければならないのか。

答え:まず、イスラームという単語の意味の解明をします。イスラームとは、”完全なる服従、帰依”を意味します。

つまりムスリムは、”己の創造主に完全に服従する人”のこと意味します。

イスラームの元になっている、”アスラマ”という動詞は、”完全にまかせる”という意味を持っています。

注意していただきたいのは、イスラームという言葉が、ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ)の時代に生まれたわけではない点です。アラブ人なら、イスラームが、単なる宗教の名前ではなく、もともと語源的な意味を持つことを知っています。しかし問題は、後世になって、外国の人たちが入信することによって、単なる宗教の名前・固有名詞のようなものになってしまっていることです。実際にはそうではなく、イスラーム以前のさまざまな天啓宗教にも、イスラームという名前が使われていたのです。

預言者ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ)以前のさまざまな預言者たちによってもたらされた天啓宗教は、しもべたちのアッラーに対する完全な服従・帰依という意味でイスラームという言葉を使っていました。

أَمْ كُنتُمْ شُهَدَاءَ إِذْ حَضَرَ يَعْقُوبَ الْمَوْتُ إِذْ قَالَ لِبَنِيهِ مَا تَعْبُدُونَ مِن بَعْدِي قَالُوا نَعْبُدُ إِلَـٰهَكَ وَإِلَـٰهَ آبَائِكَ إِبْرَاهِيمَ وَإِسْمَاعِيلَ وَإِسْحَاقَ إِلَـٰهًا وَاحِدًا وَنَحْنُ لَهُ مُسْلِمُونَ

「ヤァコーブが臨終の時,あなたがたは立ち会ったか。かれがその子孫に向かって,「わたしが亡き後,あなたがたは何に仕えるのか。」と言うと,かれらは,「わたしたちはあなたの神,イブラーヒーム,イスマーイール,イスハークの神,唯一の神(アッラー)に仕えます。かれに,わたしたちは服従,帰依(ナハヌ・ラフ・ムスリムーン)します。」と言った。 」(雌牛章133節)

رَبَّنَا أَفْرِغْ عَلَيْنَا صَبْرًا وَتَوَفَّنَا مُسْلِمِينَ

「主よ,わたしたちに忍耐を与え,ムスリムとして死なせて下さい。」(高壁章126節)

使徒ムーサーの言葉。
قَالَ الْحَوَارِيُّونَ نَحْنُ أَنصَارُ اللَّـهِ آمَنَّا بِاللَّـهِ وَاشْهَدْ بِأَنَّا مُسْلِمُونَ

「弟子たちは言った。「わたしたちは,アッラー(の道)の援助者です。わたしたちはアッラーを信じます。わたしたちがムスリムであることの証人となって下さい。」」(イムラーン家章52節)

過去の使徒・預言者たちが、イスラームという言葉を使ったことがわかるアーヤは、ほかにもたくさんあります。

イスラームというのは、創造主アッラーの命令に完全に従って帰依するということです。”さまざまな使徒・預言者を遣わし給うて、私たちがアッラーに完全に従うために道標となる啓典をくださったアッラーに完全に従う”、ということを示しています。

イスラームというのは、宗教の名前ではなく、唯一神アッラーに完全に従うという意味を持つ言葉なのです。

以下の2点をもとに、解明を続けます。

1. 天啓宗教の中でなぜ預言者ムハンマド様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)の教えなのか?

2. 天啓宗教以外の、人間が作った宗教ではだめなのか?

1について。簡単に言うと、イスラームは、ユダヤ教とキリスト教を否定するものではなく、補完するものであるということです。なぜなら、ユダヤ教とキリスト教には、後に来る使徒(ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ))に従えとの教義があるからです。

根拠:「وَرَحْمَتِي وَسِعَتْ كُلَّ شَيْءٍ ۚفَسَأَكْتُبُهَا لِلَّذِينَ يَتَّقُونَ وَيُؤْتُونَ الزَّكَاةَ وَالَّذِينَ هُم بِآيَاتِنَا يُؤْمِنُونَ الَّذِينَ يَتَّبِعُونَ الرَّسُولَ النَّبِيَّ الْأُمِّيَّ الَّذِي يَجِدُونَهُ مَكْتُوبًا عِندَهُمْ فِي التَّوْرَاةِ وَالْإِنجِيلِ」

「またわれの慈悲は,凡てのものにあまねくおよぶ。それ故われは,主を畏れ,喜捨をなし,またわが印を信じる者にそれを授けるであろう。かれらは文字を知らない預言者,使徒に追従する者たちである。彼はかれらのもっている(啓典)律法と福音の中に,記され見い出される者である。」(高壁章156~157節)

なぜ、ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ)の教えに従うよう呼びかけるのか、というと、イスラームが天啓宗教最後の教えであり、それ以前の教えは、最後の教えを信じるように呼びかけているためです。イスラームを信仰する上で重要な点として、ムスリムは、以前のすべての使徒・預言者たちを信仰しなければなりません。そのため、私たちは、以前の天啓宗教を否定しません。しかし、それらの宗教の中でも、イスラームを最後のものとして信じるよう命ぜられているので、イスラームへと誘うのです。

「الَّذِينَ آتَيْنَاهُمُ الْكِتَابَ مِن قَبْلِهِ هُم بِهِ يُؤْمِنُونَ」
「われがこれ以前に啓典を授けた者たちはよく信仰している。」(物語章52節)

「وَإِذَا يُتْلَىٰ عَلَيْهِمْ قَالُوا آمَنَّا بِهِ إِنَّهُ الْحَقُّ مِن رَّبِّنَا إِنَّا كُنَّا مِن قَبْلِهِ مُسْلِمِينَ أُولَـٰئِكَ يُؤْتَوْنَ أَجْرَهُم مَّرَّتَيْنِ」
「それがかれらに読誦されると,かれらは言う。「本当にこれは主から下された真理です。わたしたちはこれを信じます。わたしたちはこの(下る)以前からムスリムであったのです。」これらの者は2倍の報奨を与えられよう。」(物語章53~54節)

イスラーム以前の天啓宗教のユダヤ教徒やキリスト教徒がイスラームに帰依すると、2倍の報奨を得る理由は、彼らが以前に天啓宗教を信じ、さらに最後の宗教であるイスラームを信じるという、二つのことを信仰するからです。

私たちが、”イスラームを信じなさい”、と呼びかけるのは、アッラーが、”そうしなさい”と命じ給うているからです。すべてのアッラーからの教えというのは、常に改定されてきていて、イスラームはその最終版です。ですから、私たちは、最終版のイスラームを信じ、広めるのです。

では、2. 人間が作った宗教ではだめなのでしょうか。

まず、イスラームの特徴を簡潔に挙げます。

1. イスラームの起源が、創造主アッラーであること。これは、重要です。例えば、ある会社を訪問する時に、直接社長に会いに行けるケースの場合、部長や課長にわざわざ会いに行きません。創造主の教えに直接触れられるのなら、わざわざ被創造物の作った宗教に触れる必要はなく、ストレートに創造主の教えに行くのが適切です。

一方、人間の作った宗教の存在は、何を示しているでしょうか。人間は、本性として、アッラーを必要としていますが、一部の人たちには天啓宗教が伝わらず、己のアッラーへの必要を満たすために、自分たちで宗教を作り上げました。もし、彼らに天啓宗教が伝わっていれば、創造主の作り給うた宗教に納得して信仰していたはずであり、わざわざ自分たちで宗教を作る必要は生まれませんでした。なぜなら、人間は本性から、強力なものを得ると、それに劣るものを選ばないからです。強いものを得たら、それに劣るものをしません。そのため、創造主につながるものを得れば、それ以外は必要としないはずなのです。

2. イスラームが、人間の生活上必要なことをすべてカバーしている。

イスラームは、単に、善行を勧めるだけでなく、現世を繁栄させることや、来世を大切にすることも説く、包括的な教えです。

イスラームが包括的、というのは個人のことだけでなく、政治、経済、社会といったすべて、現世と来世を包括しています。

イスラームの教えの中には、下品なことを言う人を非難したり、現世の糧を稼がない人を非難したり、髪を整えない人を非難するものがあり、生活のことも教えているのがわかります。

3. 現実的な宗教である。

つまり、人間が与えられている本性を尊重している点です。欲を放置せず、しつけて正しい方向に向かせることを説きます。また、実行が難しい場合は例外事項がきちんとあります。水がなくウドゥーができない場合は、タヤンムムがあったり、立って礼拝できない場合は、座ってできたりします。そのため、イスラームは、地域や時代を問わない教えといえます。

4. どこから私はきたのか?これからどこへ行くのか?という質問にイスラームは答えてくれる。

この答えは、他の宗教には見当たりません。答えていても、理性的に受け入れられないものだったりします。しかし、イスラームは、詳細に教えてくれます。

イスラームには、ほかにもたくさんの特徴がありますが、時間の都合により、終了します。

質問:ラマダーン中にやる気が落ちてしまった。いろいろな崇拝行為に励みたいが、なかなかできない。

答え:自分を奮い立たせましょう。弱気になることはいたって普通で、アッラーがその人に奮闘努力の報奨を与える機会を与え給うているということですから、自分を奮い立たせて、報奨がより多くなるよう、努力しましょう。常にやる気が向上していれば、崇拝行為は恒常化して、サクサクこなすだけのルーティーンになってしまいます。しかし減るのは、アッラーの英知なのです。
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預言者伝【番外編8】

2015年08月06日 | 預言者伝関連
アッラーと共に:
アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は、アッラーが彼に授け給うた使命や親愛や選抜といった恩恵と共にありました。そして彼は、過去から未来に渡る罪をあらかじめ赦されたお方でもありました。人々の中で最も崇拝行為に奮闘して勤め、いつも気にかけて、心を傾けていたお方でした。


教友のアル=ムギーラ・イブン・シュウバは言いました:
《預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、両足が浮腫んでしまうまで、祈りに立っておられました。「あなたは、過去から未来に渡る罪を赦されたお方ではなかったのですか?」と尋ねられると、「感謝する僕でいてはいけませんか。」とおっしゃいました。》(アル=ブハーリーなどが伝承)


また、アーイシャは言いました:
《預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、クルアーンの一つのアーヤ(節)で一晩を祈りのためにお立ちになりました。》(アッ=ティルミズィー伝承)


アブーザッルは言いました:
《アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は、朝をお迎えになるまで、一つのアーヤ(節)で祈りにお立ちになりました。そのアーヤは、「あなたが彼らに懲罰を与え給うても、まことに彼らはあなたのしもべであります。また、あなたが彼らを赦し給えば、まことにあなたこそは威力比類なく、英知ある御方。」(食卓章118節)です。」(アン=ナサーイー伝承)


またアーイシャによると:
《彼は解かないのだろうか、と私たちが思うくらいに彼は断食斎戒され、また彼は断食斎戒されないのだろうか、と私たちが思うくらいに彼は断食斎戒されませんでした。》


アナスは言いました:
《彼が夜に(祈って)おられたら良いのに、と思ったら、必ずやあなたは彼を見、寝ておられれば良いのに、と思ったら必ずやあなたは彼が寝ているのを見るでしょう。》(アル=ブハーリー伝承)


アブドゥッラー・イブン・アル=シッヒールは言いました:
《私は、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が祈っておられるところに来ました。彼からは、やかんの音のような、彼が泣くことからくる嗚咽音が聞こえました。》(アン=ナサーイー伝承)


彼が礼拝から慰めを得ることを邪魔するものは何もなく、また、礼拝以外を好むこともありませんでした。それについて次のようにおっしゃいました:
《礼拝の中に、私の目の喜びが置かれた。》(アン=ナサーイー伝承)


また、教友たち(彼らにアッラーの御満悦あれ)は言っています:
彼は、何か起こると、礼拝なさいました。アブー=アッダルダーゥは言いました:アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は、強風の夜、風が収まるまでの彼の避難場はマスジドでした。また、空で月蝕や日蝕が起きると、それらが消え去るまでの彼の避難場は、マスジドでした。(アッ=タバラーニー伝承)


彼は礼拝を愛され、その時間が来るのをいつもお待ちでした。礼拝に赴くまで、彼が落ち着くことはありませんでした。そして時々、礼拝の呼びかけ人のビラールに:ビラールよ、礼拝の呼びかけをしてくれ。それによってわれわれを癒してくれ、とおっしゃっていました。

(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P424〜425)

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