イスラーム勉強会ブログ

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悔い戻る者たちの道しるべ【6】-(1)

2015年05月28日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
司会:
悔悟とは、“知”、“状態”、“行為” であり、これらこそが悔悟の本質です。
先日、「行為とは、過ぎたことの修正、現在陥っている状態からの脱出、それがこれから繰り返されることなく、また未来に犯さないとの決心である」とおっしゃいました。今回はさらに深く掘り下げたいと思います。まず、「罪を深刻に捉える」について。私たちはどのようにして罪を深刻であると捉えられるのでしょうか?誰が罪を深刻に捉えるのか、それは信仰者なのか、それともアッラーの道しるべに反した者なのか?

先生:
万物の主、アッラーに称賛あれ。私たちの指導者ムハンマドに祝福と平安がありますように。
前の講話でも出てきたように、罪人が己の罪を小さく捉えるごとに、アッラーの御許でそれは大きくなり、罪人が罪を大きく捉えるごとに、アッラーのもとでそれは小さくなります。悔悟のプロセスは、「アッラーの御許で罪が小さくなるために、罪を深刻に捉えること」です。例えば、アッラーは篤信のしもべたちを描写して次のように仰せです:
「夜のほんのわずかの間眠り、そして暁には、彼らは赦し乞いをしていた。」(51章17~18節)

他の節の中でも:
「「われらが主よ、確かにわれらは信じました。それゆえ、われらの罪を赦し、獄火の懲罰からわれらを守り給え。」と言う者たちで、忍耐強く、誠実で、(神に)従順で、(善に)費やし、暁に赦しを乞う者である。」(3章16~17節)

彼らは篤信を保ち、己を良い状態で保っていながらも、
「赦し乞いをしていた」
のです。

信仰者は、己の罪を「大きい」と認識します。さて皆さん、イスラームの偉人であるウマル・イブン・アル=ハッターブという、アッラーが楽園行きの吉報を与え給うた教友の次のお話はいかがでしょう。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は偽信者たちの名前を教友の一人であるフザイファ・イブン・アル=ヤマーンにお預けになりました。そこに正統カリフとなるイスラームの偉人がフザイファのもとに現れて、「フザイファ、アッラーに誓って、私の名前は偽信者たちの名前と一緒にあるか?」と尋ねたのです。アッラーへの怖れのあまり、アッラーの御許での自分の位置を深刻視しています。ですから、信仰者が己の罪を深刻に捉えるごとに、アッラーの御許でそれは小さくなるのです。信仰者は、アッラーに対する大きな敬いの気持ちから、知らぬ間に罪を犯すことを恐れます。そのためある追従者たち(タービイー。サハービー時代の次世代)は次のように言いました:「40人の教友に会いましたが、誰もが偽信仰を自分自身に恐れていました。」ある心の学者は、「誠実な信仰者は一日の間に状態が40回変わる。偽信者は40年間同じ状態で居続ける。」と言いました。信仰者は心配や混乱のためにころころと状態が変わるのですが、これは彼がアッラーを畏れている証拠です。ウマルがフザイファに、「私の名前は偽信者たちの名前と一緒にあるのか」と尋ねているのです。罪を犯しながらそれを気にかけない者は死者です。アッラーは仰せです:
「死んだもので、生きてはおらず」(16章21節)

死んでいるサインは、大きな罪を犯しても気にかけていないことです。信仰者が生きているサインは、言うに相応しくなかった言葉のために眠れなくなることです。これこそが、アッラーが誓い給うた「自責する魂」です。

尊い兄弟姉妹の皆さん。罪を非常に恐れる信仰者の信仰心や、信仰者が己の罪を深刻視することを指摘しました。そしてたくさんの罪を犯しているのに、取るに足らないことだとしている人に私は激しい痛みを覚えます。これはその人の信仰心が弱い証拠です。

学者アッ=タバリーは言っています:アッラーやアッラーの罰に対する激しい恐れが信仰者の性質であるのは、彼が「罪が確実」であり、「罪の赦しは不確実」であると捉えているためです。起きたこと(罪)は確実ですが、赦しが自分のために起こるか、アッラーが赦しを恵んでくださるかについては確信を持たないのです。罪に関しては確信がありますが、赦しは確実ではありません。

司会:先生、私たちは過去に犯してしまった罪をどのように修正すればよいでしょうか?

先生:とても良い質問です。しもべが真剣に悔悟すると、アッラーは天使をはじめ、地球上にいるすべてのものにこのしもべの罪を忘れさせます。しもべがアッラーに回帰すると、呼びかけ人が天と地で「皆、○○を祝いなさい!彼はアッラーと和解した」と呼びかけます。アッラーの御慈悲があること、アッラーの御慈悲があらゆるものに及んでいること、どんなに罪が大きくなってもアッラーの御慈悲より大きくはならないことを私たちは信じます。こういったことが私たちの心にアッラーへの信頼をいっぱいにしてくれるのです。

「まことにアッラーの慈悲心に絶望するのは不信仰の民だけである。」(12章18節)

「言え、「己自身に仇して度を越したわがしもべたちよ、アッラーの御慈悲に絶望してはならない。まことに、アッラーは罪をそっくり赦し給う。」」(39章53節)

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心の強化プログラム【1】

2015年05月24日 | 心の強化プログラム
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において

私たちの間にある多大な距離にもかかわらず、彼への愛において私たちを集め給うたアッラーに全ての称賛そして更なる称賛がありますように。

至高なるアッラーが私たちのこの集いを祝福してくださるよう祈ります。

またアッラーへの感謝の後、この集いの実現に寄与してくれたすべての姉妹たちにも感謝します。

姉妹たちへ:
信仰(イーマーン)とは人生の数ある恩恵の中でももっとも偉大なものです。なぜなら人生のすべての恩恵は継続することはなく、永続するのは信仰だけだからです。

信仰こそが人と共にあり続け、現世において人間を益します。なぜなら信仰者は現世で最も幸福な者だからです。また、信仰者は来世で信仰から益を得ます。なぜならアッラーの御満足を獲得するからです。信仰者の幸福は現世にも来世にもあるのです。

”信仰者は現世において一番の幸せ者だ”と私が言っていることと、私たちの生きている現実を比べてみましょう。

実際、こんにちのムスリムの多くが、他の人たちのように幸せを探しているのが分かります。彼らこそが真の幸せ者であると先ほど言ったのに、彼らが幸福を探しているというのはどういうことなのでしょうか?

答え:
幸福を与える信仰とは、創造主が被造物に望み給うた「真なる信仰」のことをいいます。イスラームはムスリムたちの間違いの責任は負いませんが、己の信仰と帰依を正す者が幸福となることを保証します。

それはどういうことなのか説明しましょう:
実際、幸福とは人間が人生において必要とする数々のものの一つです。私たちは生活の中で必要なものは市場から得るということを学んでいますので、野菜が要る時は八百屋へ行き、金(かね)が要る時は金屋へ行きます。

ではどこで幸福を買えばよいでしょうか?そしてその値段はいくらでしょうか?

ある人たちは幸福とはお金を集めることであると考えているのでお金を集めますが幸福を見つけられないことに気付きます。

そして他の方法で探そうとします。

結婚で幸せになれると思って結婚もしますが、結果はお金集めのときと同じです。

またある人たちは幸福とは子どもを得ることだと思っているので子どもを作りますが、同様に、幸福に辿りつけません。

そのためいつも結果はだいたい失敗に終わります。

その原因は、幸福実現において「思い込み」という道をとるためです。

ですからここで、幸福の本当の意味を定義する必要があります。

人生が過去と現在と未来であるなら、幸福者とは、自分のすべての行為が正しいと保証され後悔することがないので、自分の過去を悲しむ事もなく、また、来る未来を恐れることも、現在から不安を感じることもない人の事を言います。人生の各シーンに起こる一時的な喜びではなく、幸福とは人生の間に死ぬまで伴い続けるもののことをいうのです。

しかし私が過去を悲しまず、これから起こることを恐れず、生きている現在を心配しなくてよい保証を私はどこから得るのでしょうか?

それには多くの知識を要します。明日何が起こるのか?私は後悔することになるのか、そうではないのか?私を困らせることが起きるのか?私が今日なしたことを悲しまない明日の保証はどこにあるのでしょうか?私が嫌うニュースで驚かされることが起きない明日の保証はどこに?そして心配することなく穏やかに過ごせる今日をどのように保証するのでしょうか?

これらすべての質問に対する答えを私たちの創造主アッラーの道しるべ「クルアーン」の中に見つけることができます:

「そこでわが導きに従った者に恐怖はなく、彼らは悲しむことはない。」(雌牛章38節)

“恐怖はなく”は未来を恐れることはなく。“彼らは悲しむことはない“は過去のために悲しまない、という意味です。

「わが導きに従った者があれば、彼は迷うことはなく、苦しむこともない。」(ター・ハー章123節)

つまりアッラーがおっしゃっていることは、私たちが幸せである保証というのは「創造主であるアッラーに従う」ということです。

一方私たちは、現世でなぜ不安な日々があったり後悔したりする日々を送っているのでしょうか。

私たちはムスリムなのですが、日常生活で困難に直面しています。
私たちはムスリムなのになぜそのような困難に出会うのでしょうか。

人間が、人生を害する様々な事項から安全であるために授けられた、創造主の道しるべ(クルアーン)は、電気製品に添付されているカタログのようなものです。

電気製品を作った人がその製品についてもっともよく知っているものです。カタログにはその使い方や壊れた時の対処法などが細かく記されています。

創造主アッラーも、同じように、私たちがどのように生きていけばよいのかをカタログに記してくださったのです。それこそが、クルアーンです。

また電気製品にはカタログと一緒に保証書も付いています。保証書には私たちが正しく使えば損害はないことを保証するけれども、誤った使い方をすれば保証しないことが書かれています。

電気製品が壊れてしまって販売店に持っていっても、もし間違った使用方法が原因であれば保証はしてもらえません。

同様にアッラーは、私たちに、自分たち自身を、そして世界にあるすべてを誤った使い方をしないよう教えてくださっています。

アッラーはそのようなカタログと保証書を私たちに与え給いました。私たちが誤った使い方をした場合はもちろん保証し給いません。

「そこでわが導きに従った者に恐怖はなく、彼らは悲しむことはない。」(雌牛章38節)とあるように、アッラーの御命令に正しく従えば苦しみも悲しみも怖れを感じることもありません。

しかし、アッラーに背けば、悲しみや苦しみや恐れを感じることになるでしょう。

クルアーンにはハラールであること、ハラームであること、義務や禁止事項が載っています。アッラーは私たちがそれらに従うことを求め給うています。従っていれば苦しみも悲しみも怖れもありません。

これを歴史が証明しています。ウマル様(彼にアッラーのご満悦あれ)の時代、ある裁判官が辞任したいと申し出ました。その理由は、2年にわたり、誰も裁判事項を持ってくることがないからでした。これはウマル様の時代を生きた人たちがクルアーンに従っていたことを示しています。

これは、私たちが、私たち自身の間違った使い方をしたり、アッラーに背くことで、苦しみや恐れを抱くようになることを教えてくれます。

アッラーの教えに従っている人は、過去を後悔することも、未来に不安を抱くこともないと、アッラーによって保証されるのです。

しかしアッラーの教えに従うということは、今まで慣れていたいくつかの行為を捨てるための大いなる努力と忍耐を要します。

そのためアッラーの道を志したいと思う人は、初めに困難を感じます。なぜなら、アッラーの道しるべが禁じているいくつかの事柄に慣れてしまっているからです。

例えばヒジャーブや断食をしようとしても最初は難しいと思ったり困難に直面するでしょう。「このような困難があるのに本当に幸福なんて得られるだろうか?」と疑問に思うかもしれません。

しかし私たちは「真の幸福」と「思い込みの幸福」を区別しなければなりません。

自分が幸福であると思い込んでいるものは、一時的なものなので、いつか消えます。または時間が過ぎた後に、私はなぜあんなことが幸福だと思っていたのだろうと後悔するものであったりもします。

思い込みの幸福の例に、美味しい食べ物があります。

食べているときにはとても美味しいと思っていたのに、そのおいしさはすぐ消え去り、また、食べた後に、それが有害であると知って、食べたことを後悔することもあります。

お金も同じで、貯めれば幸福を得られると思っていたのに、貯まると、どこに隠そうかと不安の種になることもあります。

結婚も同じで、理想だと思った人、この人となら幸せになれると思って結婚したのに、そうではなかったと知って後悔することもあります。

このように「思い込みの幸福」は一時的あるいは後悔するものであって永続しません。終わらない幸福はアッラーによってのみ得られるのです。

また、アッラーの教えの中で、実行するのが困難なものは、実は”思い込みの困難”であるので、慣れていくと困難さは消えて、最後には「真の幸福」を与えてくれます。

自分の欲と困難に勝つためには、「信仰」が必須です。

「アッラーは私たちの過去も現在も未来も御存知で、私たちが幸福を得られるように様々な事を定め給うているのだと信じる」という信仰が必要であり、私たちはそれによって安心を得られます。

信仰は、心にアッラーが下さった光で、アッラーが下さった教えに反することを許さないという強い光になります。これに対して、アッラーの教えに反する心は信仰の光が弱いということになります。

イスラーム社会に見られる諸問題はイスラームのせいではなく、イスラームを実践できていないムスリムたちのせいで起きています。ムスリムではない人たちがこのような社会を見るとイスラームは不安定で問題が多いものだと誤解してしまいます。しかしイスラームはムスリムたちの違反行為の責任を負いません。電化製品に添付された保証書と同じです。

あまりアッラーの教えに従っていなかった男性がフランスに行き素敵な女性に会いました。恋愛関係になりましたが女性がムスリマでないので結婚できないと言って、クルアーンを彼女に渡し、これを習ってイスラームを学んでほしいと言いました。その後しばらくしても連絡がないのでクルアーンを読んだか?どうだったか?と聞くと、女性は大変気に入ったので私はムスリマになったと答えました。では私と結婚してくれるのかと男性が聞くと、私はムスリマになって、あなたが本当のムスリムではないことが分かったので結婚できないと言った、という話があります。

現在イスラームは、非ムスリム達からも不正を受けていますが、ムスリムからも不正を受けています。本当のイスラームは、は、私たちムスリムがその教えに正しく従えば、私たちも、周りも、世界も幸福になります。

本当のイスラームを理解し、実践し、自分の属している社会に還元することで周りにイスラームの本当の姿を見せて、イスラームを好きになってもらえるようにしましょう。周りの人たちは「ムスリム」の後進的な姿を見ているためにイスラームに否定的なのです。私たちが正しくイスラームの教えに従っていれば必ず人々は理解してくれるでしょう。

預言者伝【番外編5】

2015年05月21日 | 預言者伝関連
アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の性格と人格

1. アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の外見と内面の創造の特徴:

وصفه ﷺ هند بن أبي هالة (ابن خديجة أم المؤمنين وخال الحسن والحسين) وكان رجلا وصافا، فقال:
(كان رسول الله ﷺ متواصل الأخزان، دائم الفكرة، ليست له راحة، طويل السكت، لا يتكلم في غير حاجة، يفتتح الكلام ويختمه بأشداقه، ويتكلم بجوامع الكلم، كلامه فصل، لا فضول ولا تقصير، ليس بالجافي، ولا المهين، يعظم النعمة وإن قلت، لا يذم منها شيئا، غير أنه لم يكن يذم ذواقا، ولا يمدحه، ولا تغضبه الدنيا ولا ما كان لها، فإذا تعدى الحق، لم يقم لغضبه شيء، حتى ينتصر له، لا يغضب لنفسه ولا ينتصر لها، إذا أشار أشار بكفه كلها، وإذا تعجب قلبها، وإذا تحدث اتصل بها، وضرب براحته اليمنى بطن إبهامه اليسرى، وإذا غضب أعرض وأشاح، وإذا فرح غض طرفه.)

  ヒンド・イブン・アビーハーラ(預言者(アッラーの祝福と平安あれ)の妻ハディージャの息子でアル=ハサンとアル=フサインの母方のおじにあたる)がアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)を描写して言いました。なお彼は表現することにおいてとても長けていたそうです:
  「アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は途切れない悲しみをお持ちで、いつも考えておられるお方でした。彼に休息はなく、長く沈黙され、必要時以外にお話しになることはありませんでした。話し始めから終わるまで口全体を使ってはっきりとお話しになり、凝縮されかつ明快な言葉でお話しになりました。彼のお言葉は(正邪を)区切るもので、余剰はなく、不足もありませんでした。彼は荒々しくなく、人を軽蔑せず(または弱々しい)、恩恵が少ないときもそれを大切にされ、それ(恩恵)を批判されることはありませんでした。とくに食べ物を批判することも、褒めることもありませんでした。現世と現世に属するあらゆるものが彼を怒らせることはありませんでした。真理がないがしろにされると、彼がその真理を確立されるまで彼の怒りを鎮められるものはありませんでした。彼がご自身のためにお怒りになったり、支援することはありませんでした。合図される際は、手のひらすべてをお使いになり、驚きの際には、手のひらをお回しになりました。また、手をお結びになり、右手の掌を左手の親指に当てながらお話になりました。お怒りの際は、目を背けて逸らされました。お喜びの際は、うつむかれました。」

(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P419~420)

悔い戻る者たちの道しるべ【5】-(2)悔悟の真相

2015年05月14日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
【司会】:では、これこそが”罪を知ること”ですね。

【先生】:”罪を知ること”。罪を暴くためにアッラーの道しるべを知っておかなければなりません。知らない者は最も大きな罪を犯して、「私は一体何をしたのだろう?私は何もやっていない」と言うことでしょう。“知”は番人なのです。だからこそアリー様は次のように言われたのです:「息子よ、“知”は金銭に優る。“知”はおまえを見張り、おまえは金銭を見張る。金銭は消費によって減るが、“知”は消費(使うこと)によって増加する。息子よ、金庫番は死ぬが、学者たちは時間がある限り残り続ける。彼らの身体は(死によって)消えても、人々の心の中に彼らの教訓は残り続ける」。

方法を知らず、家畜との接し方を知らない鶏を売る男は、するときに大きな間違いに陥ります。私は実際に、鶏を屠ってすぐに熱湯に入れる人をダマスカスで見たことがあります。羽を取るためとのことですが、彼は大きな間違いを犯してしまっています。なぜなら預言者(アッラーの祝福と平安あれ)がかつてある教友が羊を他の羊がいる前で屠ったのにお怒りになって、「おまえはそれが二度死ぬのを望むのか。仲間から離しなさい。」と言われたからです。

例:羊を屠る時は、頸静脈だけを切るべきです。頭を切断してしまう人はイスラーム法に違反してしまうことになります。心臓は洞結節から鼓動によって命令を受けます。そしてこの命令は秩序立った鼓動である、一分に80回の鼓動を心臓に与えます。しかし例外的命令を、脳を介して受け取ることにもなります。の瞬間に心臓に課される任務は「血液をすべて体外に出すこと」ですが、鼓動が正規のままであると血はすべて出ません。代わって、頭が残り、身体にくっついていると、例外的命令が心臓に発せられ、鼓動は180回に達します。この数は全血液を身体の外に出すのに十分です。つまり、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)のご指導は思い付きによるものではなく、紛れもなく啓示された啓示なのです。したがってどのようなメリットにもアッラーの道しるべを知る必要が生まれます。もし私がアッラーに従いたいと望む場合、いつ罪を犯すのか?」その答えは、「己が無知である時」、です。最後の審判の日の不信仰者たちの手綱は「無知」なのです。

「また彼らは言った。「もしわれらが聞き、悟っていたなら、烈火の輩の中にはいなかったものを」。」(王権章10節)

ですから、私は“知”を求める時、「二つの知」を求めます。一つは、「至高偉大なるアッラーに関する知」と、「彼の道しるべ」です。「彼の道しるべ」は私が罪に落ちることから私を守ってくれますし、欲に負けて罪に落ちてしまってもすぐに悔悟できます。「これは罪である」と知ることで悔悟が可能になるということです。代わって、あなたは、「罪だと知らない罪」から悔悟することはできません。だから、悔悟は、“知”なのです。

司会:悔悟が“状態”であるとは?

先生:人間は「己の存在への愛」、「己の安泰への愛」、「己が満たされていることへの愛」などを持つものとして創られました。あなたが、「これは罪である」と断定し、現世と来世でアッラーがそれを罰し給うのだと確信する時、その罪を犯してしまったことを激しく後悔することでしょう。「罪の認識」は、「それを成したことへの後悔」です。それはまるで社会学者が明らかにした、私たちの周囲と私たちの関係の基礎になっている規則のようです:「認識」「感情」「行動」

例:庭に蛇がいます。私は、学習や経験や蛇博物館で得た理解でそれが蛇であると分かる時、また蛇に関するたくさんの話やその害について聞く時、これらの情報をもとに蛇の概念が形成されます。人間は蛇を見ると、己が持つ蛇の概念に基づいてその危険を感じます。つまりそれが致死をもたらす動物であるとか、混乱をもたらす害のある動物であるという知識です。混乱の中には、蛇を殺したり逃げたりという「行動」に人間を動かすものがあります。ここで、肩にサソリが乗っている人に思わず「気を付けて!肩の上にサソリがいますよ!」と注意しているのに、落ち着いて、また微笑んで、あなたの方を向いて、「心配してくれてありがとう。お礼をしなくては。」とその人が言ったと仮定します。さて彼は私が言ったことを理解したのでしょうか?

司会:もちろん「いいえ」です。彼は危険だと思っていません。

先生:“状態”は「正しいな理解」を経ていなければ成り立ちません。また、“行為”は「正しい“状態”」を経ていなければ成り立ちません。あなたは、「理解」した後に「混乱」し、そして「行動」するのです。私は、「これは後悔すべき罪である」と理解し、そのために混乱する時、私の「正しい悔み」と「正しい混乱」は私がその罪から抜け出す状態にしてくれるのです。これが、”知”の後の”状態”です。

残っているのは“行為”です。私はそれが罪であると知り、混乱します。私の「知識の正しさ」が私を「混乱」と「悔悟」へと導きます。私の「混乱」と「悔みの本質」は私を“行為”へと導きます。つまり“行為”は3つの「時」に関連します。もしこの罪が過去に成されたものであれば私はそれを正さなければならないし、現在のものであれば己をそこから抜き出さないといけないし、未来のことであれば二度と犯さないと決心することが必要になります。「過去における修復」、「今すぐ抜き出すこと」、「未来に犯さないとの決心」。悔悟は“知”と“状態”と“行為”です。もし罪がしもべの権利に関係している場合は、相手の赦しを得たり、権利を返還したりしなければなりません。“行為”は過去に関連し、現在の内に修復し、未来に二度と犯さないとの決心をもって罪から脱することです。

http://nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7188&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895

預言者伝【番外編4】

2015年05月08日 | 預言者伝関連
彼(アッラーの祝福と平安あれ)の子どもたちと孫たち:
  ハディージャ(アッラーの御満悦あれ)なアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)にアル=カースィムを生んだことで彼は「アル=カースィムの父」と呼ばれました。しかしアル=カースィムは2歳を迎えることなく亡くなりました。次にザイナブ、ルカイヤ、ウンム・クルスーム、ファーティマが生まれました。アブドゥッラーとアッ=タイイブとアッ=ターヒルについては意見が相違しています。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)には3人の男児がいたとする意見がありますが、イブン・アル=カイイムが正しいとする見解はアッ=タイイブとアッ=ターヒルはアブドゥッラーのニックネームであるというものです。彼ら全員はハディージャ(アッラーの御満悦あれ)の子です。

  ファーティマはアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の娘たちの中でもっとも彼が愛した娘でした。ハディースによると彼女は楽園の女たちのリーダーであると言われます。また彼(アッラーの祝福と平安あれ)は、「ファーティマは私の一部である。彼女を恐れさせるものは私を恐れさせるし、彼女を害するものは私を害する」とも言われました。また彼女は一家の中で第一に彼を追う者でもありました。

  コプト教徒のマリヤはイブラーヒームを生みましたが、幼少時に亡くなりました。彼が天に召された時にアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は「目は涙でいっぱいになり、心は悲しむ。われわれは主の怒りを買うことは言わないが、イブラーヒームよ、まことにわれわれはおまえのために悲しんでいる」と言われました。彼の亡くなった日に日蝕が起こったため人々がその時に「イブラーヒームの死のために日蝕が起きた」と言いましたが、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は説教の中で「まことに太陽と月は至高偉大なるアッラーの御しるしの一つである。しかし誰かの死や生によって食になることはない」と言われました。

  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の娘、ザイナブ(アブー・アル=アース・イブン・アッ=ラビーゥというハディージャの姉妹の息子つまりいとこと結婚していた)はアリーと名付けた男児とウマーマという女児を生みました。ウスマーンと結婚したルカイヤはアブドゥッラーを生みましたがアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)がバドルにいらっしゃるときに亡くなりました。ウスマーンは病んでいたルカイヤと一緒に過ごし、彼女の死後、ウスマーンはウンム・クルスームを娶りました。そのためウスマーンは『ズー・アン=ヌーライン(二つの光の主)』と呼ばれました。ウンム・クルスームも同様にアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の生前に亡くなりました。

  ファーティマはアリー・イブン・アビーターリブというアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の父方のおじの息子と結婚し、ハサンとフサインを生みました。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は二人について言われました:「二人は私の現世での芳香(アッラーからの恵み)である」と言われました。

  アッラーは二人の子孫を祝福し給いました。彼らの子孫はイスラームとムスリム達に益をもたらし、彼らの中から長老や指導者や学問、教え、ジハード、低廉のリーダーが現れました。

  またファーティマはアリーにザイナブとウンム・クルスームを生み、ザイナブはイスラームにおける貴族といえるジャアファル・イブン・アビーターリブの息子アブドゥッラーと結婚しました。ザイナブはアブドゥッラーにアリーとアウンを生みました。ウンム・クルスームはウマル・イブン・アル=ハッターブと結婚し、ザイドを生みましたが、ウンム・クルスームの生前にウマルは亡くなりました。

  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)のファーティマ以外の子ども全員が彼の生前に亡くなりました。ファーティマは彼の死後6か月に亡くなりました。

(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P415~417)

悔い戻る者たちの道しるべ【5】-(1)悔悟の真相

2015年05月01日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
司会:悔悟の話を続けます。きょうは悔悟の真相、つまり悔悟は“知”と“状態”と“行為”であることについて話します。これらの言葉の意味をどのように解釈すればよいでしょうか。

先生:真実については預言者(アッラーの祝福と平安あれ)が簡潔かつ修辞力に満ちた言葉で言われました:
≪後悔は悔悟である。≫(アッ=ティルミズィーとアハマドがイブン・マスウードより伝承)

しかしこのハディースを解説した学者たちは次のように言っています:
“自分を後悔に導いたきっかけは何なのか”という知識が必要であり、またこの後悔に基づいた行為が必要である。“知”が“後悔”に先行し、“行為”と続く、ということである。そのために学者の中のトップたちは悔悟を“知”と“状態”と“行為”とするのです。

悔悟が“知”であることについて。罪であると知らない罪からどのように人は悔悟するのでしょうか。あなたがアラビア語を勉強していると仮定しましょう。あなたは例文が読まれるのを聞きそこに間違いがあることに気付きますがアラビア語を学んでいなければおそらくこの間違いにはあなたは気付かなかったでしょう。そのため人は制限なく罪を犯してしまう可能性があるのです。なぜならシャリーアを学ばず、アッラーの道しるべを知らないからです。自分は何もしていないと思っています。だからこそあなたはアッラーの道しるべを知っている必要があるのです。

司会:人は無知であることを言い訳にできるのでしょうか?

先生:いいえ。なぜならアッラーは無知であることを清算し給うからです。人が信仰をもって従順で顧みるのに少し魔が刺してしまった場合は:
「おまえたちの主は御自身の上に慈悲を書き留め給うた。すなわち、おまえたちのうち無知から悪をなし、その後悔いて戻り、(行いを)正した者に彼はよく赦し給う慈悲深い御方。」(家畜章54節)
と仰せです。

あなたがアッラーの御命令と禁止に従おうと希求しながらアッラーへの道を辿っている時、無知のために油断して軽微な違反をなしてしまった場合、アッラーの御慈悲はこの罪にも達するのです。

「おまえたちの主は御自身の上に慈悲を書き留め給うた。すなわち、おまえたちのうち無知から悪をなし、その後悔いて戻り、(行いを)正した者に彼はよく赦し給う慈悲深い御方。」(家畜章54節)

つまり、信仰者は主の道しるべを知らずに己の罪から悔悟することはない、ということです。聖法の詳細をあなたが知る時、罪も解明されるべきです。アッラーの道しるべはとても詳細です。しかし今日のムスリムたちはそれを儀式的崇拝行為に簡素化してしまいました。宗教は統合された道しるべです。人間の己との関係、己の身体との関係、己の妻や子供との、定住時および移動時の、現世を行き来する際の、己の健康時と病気時、結婚前と結婚後、お金を稼ぐこととそれを消費することにおいての関係を解明するものです。アッラーの道しるべは細かいです。アッラーの道はそこから何も消去されることはありませんし、追加されることもありません。まことにそれはアッラーの御許からのものなのです。

「今日、われはおまえたちにおまえたちの宗教を完成させた。」(食卓章3節)

あなたを罪から救ったり罪からの悔悟させる“知”のことを学者たちは“最低限知っておくべき知識”と呼びました。私はこの真実を裏づけてくれる以下の例をたびたび引用します。

パラシュートを付けた男が飛行機から飛ぼうとしていると仮定しましょう。彼はその形が楕円形なのか丸いのか、正方形なのか長方形なのか知らないかもしれません。またその素材について知らないかもしれませんし、紐がいくつ付いているか、紐の素材が何なのか、紐な何色か、など数百以上の情報を知らないかもしれません。ただ、それを知らなければ落ちて死に至る情報が一つだけあります。それはパラシュートの開き方です。パラシュートの開き方は必ず持っておかなければならない知識です。宗教は広大ですが、数ある情報の中であらゆるムスリムが知っておかなければならないことがいくつかあるのです。それを知らずにいると知らないうちに罪に陥ってしまいます。

結婚した人は結婚にまつわる規則や夫の権利と妻の権利やすべきことやすべきでないことやしても良いことやしてはならないことが何かを知るべきです。子どもが生まれたらどのように育てるか、子どもを育てる者の報奨は一体どのようなものなのか、なども知っておくべきです。結婚に関しては結婚と離婚の規則と子育てについて知っておくべきです。

商売したいと思う人は商売の規則を知るべきです。法学に関する知識なしに市場に入る人は望んでも望まなくても利息を貪ってしまいます。結婚と離婚と子育ての規則を知り、合法な儲けを得る規則や消費の規則を知ることは必須です。旅行には旅行の規則があります。あなたはあなたが必要とする分野の宗教的規則を学ばなければなりません。これを必要最低限知っておくべきことと呼びます。知っておかなければ全く知らないうちに間違いを犯してしまうことになります。そのため信仰者の悔悟は、彼がアッラーの道しるべを知らないことには締結しないのです。アッラーについて知ることと、彼の道しるべを知ることは同じではありません。例をあげましょう。

ある人があなたに家を買うための金を貸してほしいと申し出たとします。あなたは彼に二年後に同じ額を返してもらう保証を求めました。またあなたには家に対してある金額を求める権利もあります。しかし家に対して金額を得ることは100%利息です。代わってこの人と一緒に家を買うとします。あなたは家の1/4を所有します。この人がこの家で得た利益をあなたに渡すとき、あなたが家を買う時に出したお金が家の価格によって増減する条件で合法になります。もしこの家をあなたが売りたいと思うときは、お金を儲けるときの規則がたくさんあります。お金を消費するときの規則もたくさんあります。非合法なものを消費する人は悪魔の兄弟ですし、合法であっても浪費は嫌われます。お金儲け、お金の消費、結婚、子育て、旅行に関する規定を知っていなければ私たちはとても多くの罪に陥ってしまうのです。あなたは聖法を知らない限り自分が罪人であることも知ることができません。ですから悔悟は“知”で始まるのです。何人ものマスジドで学んだムスリムが先生の話すさまざまな規則について聴いて知らないうちに感じることもなくたくさんある違反行為に陥ってしまったなあと思っていることでしょう。つまり私たちは悔悟について話すにはまずアッラーの道しるべについて知ることから始めなければなりません。アッラーの道しるべを知ることは私たちが知らないうちに犯してしまう間違いの覆いをめくってくれます。医学的な例を挙げます:自分の血圧が高いということを知らない限り高血圧を治療することはできません。また高血圧を知るにはあなたの血圧を測る道具も必要になります。これは簡単な例です。

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