イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

イードルフィトル、おめでとうございます。

2011年08月30日 | その他

アッサラームアライクム、訪問者の皆さま

今日はイードルフィトルです、おめでとうございます!

 كل عام وأنتم بخير

アラビア語で、クッラ・アーミン・ワ・アントゥム・ビハイル…来る年も、皆さまがお元気でありますように、というイード定番の挨拶です。

お国によっては、ビハイルは、タイイビーンとなったり、もっと丁寧な言い方をしたり。

万国共通の言い方だと、イード・ムバーラク…祝福されたイードを!でしょうか。

なにはともあれ、皆さまが素敵なイードを過ごされるよう、祈ります。

さて、今年のラマダーンはいかがでしたでしょうか?

皆さまの礼拝、善行、サダカなどといったあらゆる行為が嘉納され、報奨として現世と来世で返って来ますように。

本日から、新しい月、シャウワール月に入りました。

この月に6日間の斎戒に励むことはスンナ(預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の慣行)ですので、余裕のある方はぜひ行ってください。

満月通信さんが詳細を綺麗にまとめてくださっていますので、リンクをご紹介しておきます。→ http://bit.ly/pq7MXL

私の方でも纏めることがあれば、ブログにアップします、インシャーアッラー。

では良いイードをお過ごしください。

ワッサラームアライクム

伊曼


86章解説

2011年08月23日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
1. 天と、夜訪れるものによって(誓う)。
2. 夜訪れるものが何であるかを、あなたに理解させるものは何か。
3. (それは)闇を貫き輝く星。
4. どんな魂(人間)も自分の上に監視者(天使)をもたない者はない。
5. 人間は、何から創られたかを考察させなさい。
6. 彼は噴出する水から創られ、
7. (それは)肋骨と腰の間から出てくる。
8. 本当にかれは、彼を(新たな生命に)引き戻すことが可能である。
9. 隠されたことが試問される日、
10. 彼には力もなく、誰の助けもない。
11. 帰る天によって、
12. 裂け割れる大地によって(誓う)。
13. 本当にこれは、(善悪を)識別する御言葉、
14. それは戯れごとではない。
15. 本当に彼らは、陰謀を企んでいる。
16. われもまた策謀をめぐらす。
17. だから不信者たちを猶予し、暫く放任するがいい。

 この章は、行為の清算のために、審判の日に死んだ人間を生きた状態に戻すことなど困難ではないアッラーの御力の現象のいくつかに、私たちの視線を向けてくれます。また、イスラームへの呼びかけに反抗する者に、悪い帰り処があることを警告します。

 まず、天と星にかけた誓いの言葉で章が始まります:
 「天と、夜訪れるものによって(誓う)。夜訪れるものが何であるかを、あなたに理解させるものは何か。(それは)闇を貫く輝く星。」

 何かにかけての誓いは、そのものがとても偉大で重要であることの根拠です。またそれは、アッラーの御力のしるしの一つでもあります。

 アン=ナジュム(星):あらゆる種類の星を指します。また、アッ=ターリクと名付けられたのは、夜に現われるためです。どんなものでも、あなたのところを夜訪れるものはすべてターリクです。夜訪れるものがターリクと言われる由来は、戸を叩く必要があるためです。ここから意味が派生して、夜現われるすべてのものに使われる名称になりました。「夜訪れるものが何であるかを、あなたに理解させるものは何か。」誓われているものに重要性を持たせ、その創造の偉大さに留意させます。「(それは)闇を貫く輝く星」アッ=サーキブは、光を発し、その輝きで暗闇を貫くという意味を持ちます。

 誓いの答えは:「どんな魂(人間)も自分の上に監視者(天使)をもたない者はない。」どんな魂でも、その行為を守り、善行と悪行を数える天使を必ず持っている、という意味です。

 ここで、アッラーが、「アッ=サーキブ:(それは)闇を貫く輝く星」という属性を、暗闇を貫く星に選び給うたのは、人間の監視のためにアッラーが遣わし給うた天使「アル=ハーフィズ:守護者」が、星の光が暗闇の中を貫通するように、人間の心や良心を貫通することに類似させるためです。

 アッラーは、遊びで地上に人間を作り給うてはおらず、また人間をアッラーの監視から遠く離れたところに放置することもありません。行為は数えられており、その動きは記録され、守られているのです。人の目の届かないところで行うようなことも、「監視者」として、人間行為を守り、数え、記録する天使の管理下にあるのです。それは、クルアーン中の違う箇所で、アッラーが仰せになっているとおりです:「彼(人間)がまだ一言も言わないのに,かれの傍の看守は(記録の)準備を整えている。 」(カーフ章18節)

 また、アル=ハーフィズは、世話や心配という意味もあり、人間の能力以上の出来事や障害から人間を守護することをアッラーは天使に任せてもいます。このことは次の聖句に出てきます:「各人には,前からも後ろからも,次から次にムアッキバート(天使)が付いていて,アッラーの御命令により保護している。」(雷章11節)

 人間の行為が審判の日に清算を受けるために数えられているとアッラーが決め給うた後、再生の日の到来に疑いを持ち、来世に自分たちが生きて帰ることを遠ざける者たちに、彼らの創造の初期と創造の基礎がどのようなものであるかを、アッラーは思い出させようとし給います:

 「人間は、何から創られたかを考察させなさい。彼は噴出する水から創られ、(それは)肋骨と腰の間から出てくる。本当にかれは、彼を(新たな生命に)引き戻すことが可能である。」

 つまり、人間は、どんなものから創られたかを考えてみるがいい。本当に人間は、「噴出する水から創られた」。噴出する水とは、男性の精液を指します。

 この噴出される水は、男性の「肋骨と腰の間から出て」きます。

 男性の精液は、数千万~数億個もの精子から成りたっていて、その中の一つだけが、女性の卵子と出会い、人間の元となる受精卵となるのです。

 そのため、このような初期段階を持つ人間を創造したアッラーの御力が、清算のために、審判の日に生きた状態に戻せないはずがないのです。次の聖句がこのことに関して述べています:「本当にかれは、彼を(新たな生命に)引き戻すことが可能である。」つまり、人間の死ぬ前の姿、生きた状態に再生できる、という意味です。

 審判の日は、「隠されたことが試問される日」です。つまり、心に秘められていたさまざまな意思、考えや、隠された行為が試練を受けるという意味です。「彼には力もなく、誰の助けもない。」人間には自衛する力はなく、援助者もいないということです。

 再生に関しての疑いの念が、ある人たちに生まれるかもしれません。そこでクルアーンは誓いを繰り返しますが、雨としもべたちの糧を含む雲を持つ天にかけています:「帰る天によって」アッ=ラジャウ(帰る)は、雨を指しますが、雨が「帰るもの」と呼ばれるのは、雨が大地から蒸発した後にそこへ帰っていくためです。またアッラーは、裂けて、そこから草や木が生えてくる大地にかけて誓い給います。「裂け割れる大地によって」その様子は、死者が清算のために再生されるのと似ています。

 誓いの答えが述べられます:「本当にこれは、識別する御言葉、それは戯れごとではない」つまり、本当にクルアーンは、真偽を分ける言葉であり、それは遊びでも偽りでもなく、真剣そのものである、という意味です。

 続いて、クルアーンは、イスラーム宣教に反抗する不信仰者たちに関して述べています:「本当に彼らは、陰謀を企んでいる。われもまた策謀をめぐらす。」カイドとは、計略という意味で、それは欺きです。つまり、隠れて、また欺きによって悪の到達のために走ることです。

 最後に、アッラーは使徒ムハンマド(平安と祝福あれ)に語りかけ給いました:「だから不信者たちを猶予し、暫く放任するがいい。」彼らへの報復に急いではならないし、彼らを早く滅ぼすよう、アッラーに願ってもいけない。そうではなく、少しだけの間、彼らにとっての災難の日である約束の時まで彼らを待たせておきなさい、という意味です。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP81~88)


114章解説

2011年08月23日 | ジュズ・アンマ解説

(2011/8/23 訂正・加筆)
بسم الله الرحمن الرحيم

1. 言え、「ご加護を乞い願う、人間の主、
2. 人間の王、
3. 人間の神に。
4. こっそりと忍び込み、囁く者の悪から。
5. それが人間の胸に囁きかける、
6. ジン(幽精)であろうと、人間であろうと。」

 人間は、理性、思考、自律などで際立った性質を備えた被造物ですが、その弱さは残り続けます。そのため、人間は主に救いを求めるか、信仰にしがみつかなければ、欲や悪魔のささやきに引っ張られてしまいます。そこでアッラーは私たちのどのように加護を求めたらよいかを教えてくださいました。アッラーはまことにお優しく、慈悲深い御方です。

 この章は、マディーナで啓示されたと言われています。
 また、善と悪の葛藤と、人間の天性の中にある悪行を象徴すると同時に、悪を回避することと悪に勝てるようにアッラーに力を求めることを示しています。

 まず、アッラーへ避難するよう信者に求める言葉で始まります。次に、アッラーの三つの性質が述べられます:かれこそが人々の主であること、つまり、人々の教育を任された御方。そしてかれは人々の王であること、つまり、人々を支配し、人々に命じ、禁じる御方。そしてかれは人々の神であること、つまり、本当の崇拝対象である御方。かれは強く、全てのことを成し遂げ給う御方であり、かれこそが全ての悪から私たちを守り給う御方であることを、アッラーは私たちに思い出させているようです。強大な悪の力に応じるためにはこのような性質が必要なのです。ここで信者に求められるのはアッラーにお助けを求めることです:「言いなさい、私は人々の主、人々の王、人々の神に加護を求めます、と。」この三つの性質(主、王、神)はアッラーに属します。それらには、力と抑制と保護の機能があります。信者を見張り、悪を美しいものに見せかける隠れた敵から、人間はアッラーのこの三つの性質に逃避するのです。

 「人々」というフレーズが繰り返されていることや、「人々」がアッラーの属格として述べられて特別な意味合いを持つことで、人々がかれの導きに沿って生きた場合の、彼らのアッラーのもとにおける位の高さや尊さが説明されます。

 「こっそりと忍び込み、囁く者の悪から。」アル=ワスワース(囁く者)とは、人々の胸に囁く悪魔です。アル=ワスワサ(囁き)とは、隠れた声や心の声です。悪魔はアーダムの子の心に腰を下ろし、彼が気を抜いてアッラーを想うことを忘れると、悪に導く隠れた言葉で人間に囁きます。しかし人間が主を想えば、悪魔は縮んで人間を害したり迷わせたりすることを諦めます。

 アッラーに加護を求めることは、悪に誘導するものや悪を犯してしまう可能性を放棄することと結びついていなければいけません。それなしのイスティアーザ(加護を求めること)は無意味な行為でしかありません。

 続いてアッラーは、囁きがジンのものである場合と、人間のものである場合があると仰せになりました:「それが人間の胸に囁きかける、ジンであろうと、人間であろうと。」

 人間による囁きはさらに危険で害が大きいものです。あなたのもとに、友達や親戚や仲間が、信頼の置ける忠告者として現れて、あなたに悪を美しいものに見せかけて、あなたが悪に陥るよう仕向けないとは言えないからです。

 ジンは各種類に分かれています。彼らの中には善行を成す良い者がおり、またイブリースやその子孫のように迷い腐敗した者もいます。彼らこそは、悪に導く悪魔です。彼らこそがアッラーの加護を求められる対象なのです。

 アッラーが「囁き」を、「人々の胸に囁くもの」、と表現し給うたところは注目すべきです。「スドゥール(胸)」と読んで、実は胸の中に存在する「心」をアラブでは指します。心こそが囁きが入り込む場所であると同じように、「心」が指すものが固体ではなく、その場所に安置されている精神的力であることが意味として求められています。

 そして最後に留意すべき点は、どのような囁きであっても、それらは決して私たちに悪事を強制することがないということです。私たちがその囁きに応じ、善事を放棄して、悪事を選んでしまうことが問題なのです。そのことは悪魔たちがよく知っているし、アッラーはクルアーンの中で次のように仰せにもなっています:「「あなたは,われのしもベに対して何の権威も持たない。」あなたの主は,信頼する方として万全である。」(17章65節)

参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P203~205)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2965~2967)


87章解説

2011年08月18日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
1. 至高の御方、あなたの主の御名を讃えなさい。
2. かれは創造し、整え調和させる御方、
3. またかれは、法を定めて導き、
4. 牧野を現わされる御方。
5. それから、浅黒く枯れた刈株になされる。
6. われは、あなたに読誦させるようにした。それであなたは忘れないであろう。
7. アッラーの御望みがない限りは。本当にかれは、表われたものと隠れたものを知っておられる。
8. われはあなたに(道を)平坦で、安易にするであろう。
9. だから訓戒しなさい。訓戒は(聞く者に)役立つ。
10. 訓戒は、主を畏れる者に受け入れられよう。
11. だが最も不幸な者は、それを避けるであろう。
12. かれは巨大な炎で焼かれよう。
13. その中で、死にも、生きもしない。
14. だが自ら清めた者は必ず栄え、
15. かれの主の御名を唱念し、礼拝を守る。
16. いや、あなたがたは現世の生活の方を好む。
17. 来世がもっと優れ、またもっと永遠なものであるのに。
18. これは本当に、昔の啓典にあり、
19. イブラーヒームやムーサーの啓典にもある。

 この章は、アッラーへの称讃につながり、またアッラーの使徒に、信仰の民が益する良いアドバイスを与えるよう呼び掛けているアッラーの偉大な御力の現象のいくつかを解明します。また、勝利とは、罪や間違いから清まる機会を得られることであるとも解明します。

 まず、人間の目を、アッラーの偉大さに向けさせ、またかれを讃え、かれから全ての欠点とかれに相応しくないあらゆる属性や動きを退ける呼びかけに向けさせることから始まります:「至高の御方、あなたの主の御名を讃えなさい」かれこそは、すべての上に、その所有力と権力で、存在し給う御方です。

 至高なるかれは:「創造し、整え調和させる御方」、つまり、ものを創り、その創造を調和させ、整え、被造物の姿を、アッラーの叡智に適った形にし給いました。それらは、意図された益のために準備されたのです。人間の創造の秘密について考えてみてください。その消化や呼吸器官の構造、聴覚、視覚の細かさ、血管、両手、両足にきっとあなたは驚くことでしょう。また、人間の命が成り立つための全ての器官にも。加えて、他の被造物にはない、理性にも驚愕することでしょう。

 クルアーンは、アッラーの御力の現象のいくつかを述べます:「またかれは、法を定めて導き」つまり、この地上にあるすべての被造物に、任務を与えたということです。アッラーは人間を善い道と悪い道に導き、この二つの道を解明してどちらかを選べるようにし給いました。また、アッラーは生き物らをそれら行き方に導き給いました。そのため、動物や虫の専門家たちは、彼らの生き方や、その種の守り方、住処の作り方、繁殖のし方、特別なひらめきによるとしか説明できない、その卵の守り方に驚愕したのです。クルアーンは、このひらめきをアッラーが元となっている「導き」と名付けています。

 植物の発芽における、アッラーの御力の表現をクルアーンは続けます:
 「牧野を現わされる御方。それから、浅黒く枯れた刈株になされる。」
 アッラーは大地から、さまざまな種類の植物から成る、家畜用の牧野を出現させ給いました。そしてこの草は乾燥し、枯れ、黒に近い色に変わり、風が吹くと飛んでいってしまいます。現世の命はこのようであるのです。現世にあるあらゆるものは、消滅に向かっているのです。

 続けてクルアーンは、アッラーは御自身の使徒ムハンマド(平安と祝福あれ)が、大天使ジブリールよりクルアーンを受け取り、それを決して忘れないことを解明します:

 「われは、あなたに読誦させるようにした。それであなたは忘れないであろう。アッラーの御望みがない限りは。本当にかれは、表われたものと隠れたものを知っておられる。」

 アッラーは仰せになります:ムハンマドよ、このクルアーンをあなたに読ませよう。それであなたは、アッラーが取り消しのために忘れさせるよう望み給う以外に、決してクルアーンを忘れないだろう。本当にかれは、言葉や行為といった、しもべたちが表に出すことも隠していることも知り給う。そういったものはすべて、かれに隠れることなどないのである。

 以上は、実際に起きた、不可視の消息の一つでした。ムハンマド(平安と祝福あれ)は、文盲であったにもかかわらず、この長々としたクルアーンを暗記し、その一部分をも忘れたことなどないのでした。

 続けてアッラーは、使徒ムハンマドに語りかけ給います:「われはあなたに(道を)平坦で、安易にするであろう。」つまり、ムハンマドよ、あなたのために、善行を容易なものにしよう。それこそが、アル=ユスラーです。イスラーム聖法は、そのすべてが善であり、容易な道に導いてくれる法なのです。クルアーンは、雌牛章の中で、アッラーは、彼らに施行し給うた全てのことにおいて、人間に易しきを求め給うていることを示しています:「アッラーはあなたがたに易きを求め、困難を求めない。」(雌牛章185節)

 アッラーは、人が二部に分かれると仰せになります:知らされる真実や善から、訓戒を得、益を得る者たちで、自分の成功と幸福となります。もう一部は、本質自体が腐ってしまい、向けられた訓戒が何の影響も齎さないような人たちです。彼らは、永遠のアッラーの罰を受けるに相応しい、不幸せな者たちです:

 「だから訓戒しなさい。訓戒は(聞く者に)役立つ。訓戒は、主を畏れる者に受け入れられよう。だが最も不幸な者は、それを避けるであろう。かれは巨大な炎で焼かれよう。その中で、死にも、生きもしない。」

 至高なるアッラーは仰せになります:ムハンマドよ、アッラーの導きを人々に思い出させ、彼らを訓戒し、アッラーの罰を警告しなさい。「だが最も不幸な者は、それを避けるであろう」訓戒から遠ざかる不幸者で、それを受け入れません。「かれは巨大な炎で焼かれよう」つまり、最大の炎で焼かれる、です。地獄の中でのその激しい熱さと、罰執行人の厳しさから来る痛みのため、このように呼ばれます。「その中で、死にも、生きもしない」つまり、不幸者はその中で死んで、休むことも、自分を益するような生き方もないということです。

 「だから訓戒しなさい。訓戒は(聞く者に)役立つ」この節には、社会に、訓戒や指導、選ばれた教えを人々に思い出させる義務にあたる者を常に置くようにとの指導があります。なぜなら社会には、それらを受容できる先天的余裕があるためです。代わって、訓戒から顔を背けることは、道徳心の崩壊と、腐敗の広まりを招きます。

 続いてアッラーは、勝利と救いは、多神信仰と罪業から清められ、善行で自分を成長させた者に与えられます。その意味は、次の御言葉です:「だが自ら清めた者は必ず栄え」この御言葉にアッラーは以下を追加し給います:「かれの主の御名を唱念し、礼拝を守る」つまり、唯一のアッラーを崇め、心と舌でかれを想い、五回の礼拝に立った者を指します。

 またアッラーは、現世の生活を優先することは、害の基礎であると解明し給います。なぜならそれは、訓戒を聞いて、受け入れることから、人間を離れさせるからです。これは、消えゆく現世の本当の姿に人々が留意するように、そして現世に優る、永遠に残る来世のために働くようにとの警告なのです:

 「いや、あなたがたは現世の生活の方を好む。来世がもっと優れ、またもっと永遠なものであるのに。」

 アッラーは次の御言葉で章を締めくくり給います:
 「これは本当に、昔の啓典にあり、イブラーヒームやムーサーの啓典にもある。」

 つまり、この章が含んでいる全ての意味、もしくは、「だが自ら清めた者は必ず栄える」から、「永遠なものであるのに」までの御言葉は、イブラーヒームとムーサー(お二人に平安あれ)に啓示された啓典と同内容である、ということです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP89~93)


88章解説

2011年08月09日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
88章解説
1. 圧倒的(事態の)消息が、あなたに達したか。
2. (或る者の)顔はその日項垂れ、
3. 骨折り疲れ切って、
4. 燃えさかる獄火で焼かれ、
5. 煮えたぎる泉水を飲まされる。
6. かれらには苦い茨の外に、食物はなく、
7. それは栄養にもならず、飢えも癒せない。
8. (外の或る者たちの)顔は、その日歓喜し、
9. かれらは努力して心充ち足り、
10. 高い楽園の中に置り、
11. そこで、虚しい(言葉)を聞かない。
12. そこには、流れる泉があり、
13. 高く上げられた(位階の)寝床があり、
14. 大杯が備えられ、
15. 褥は数列に並べられ、
16. 敷物が敷きつめられている。
17. かれらは骼駝に就いて、如何に創られたかを考えてみないのか。
18. また天に就いて、如何に高く掲げられたか、
19. また山々に就いて、如何に据え付けられているか、
20. また大地に就いて、如何に広げられているかを。
21. だからあなたは訓戒しなさい。本当にあなたは一人の訓戒者に外ならない。
22. かれらのための、支配者ではない。
23. だが誰でも、背き去って信仰を拒否するならば、
24. アッラーは最大の懲罰でかれらを罰される。
25. 本当にわれの許に、かれらは帰り来るのである。
26. かれらの清算は、本当にわれの任である。

 この章は、審判と人々のその日の行き先―至福か罰か―について述べ、また何でも可能な御方の力を垣間見られる現象のいくつかに私たちの関心を向けます。

 まず、聴覚に審判の日の恐ろしさやその日の人々の帰り処が何かを訴えかける表現から始まります。アッラーは仰せになります:「圧倒的(事態の)消息が、あなたに達したか。」事態の重要性を大きくし、それが確実に起こることを強調し、一体それはどのような消息であるのか興味を持たせるために疑問詞が使われています。アル=ガーシヤ(覆うという意味を持つغ ش يが語幹)は、審判を指しています。その恐ろしさと激しさで人々を覆うためこのように名付けられました。

 続いてクルアーンは罰を受ける人間の様子と至福を享受する人間の様子を語ります。審判の恐ろしさと激しさに合わせて、まず罰を受ける民の光景が述べられます:

 「(或る者の)顔はその日項垂れ、骨折り疲れ切って、燃えさかる獄火で焼かれ」

 かの日、屈辱を味わっていると分かる顔があるでしょう。彼らは現世で大いに苦労したのですが、来世のためには何もなりませんでした。なぜならその人の現世の行いは不信と罪だけだったためです。または:不信仰者たちは、来世において、日の中で鎖や足枷を引っ張ることで疲れ、苦しむだろうし、それに地獄の暑さの厳しさが追加されるという意味です。

 クルアーンは続けて、彼らの苦しみを表現します:

 「煮えたぎる泉水を飲まされる。かれらには苦い茨の外に、食物はなく、それは栄養にもならず、飢えも癒せない。」

 激しいのどの渇きを癒やすなにかをくれ!と地獄の民が求めて出てくるのは、沸点に達した熱いお湯です。空腹のあまりに痛む彼らが食べ物を求めると、ダリーゥという棘の種類の果実が出てきますが、腹の足しになるようなものでは決してなく、反対に食べる者の害となります。

 以上が罰の民の光景です。代わって至福の民をクルアーンは次のように表します。

 「(外の或る者たちの)顔は、その日歓喜し、かれらは努力して心充ち足り、高い楽園の中におり、そこで、虚しい(言葉)を聞かない。」

 喜びと善良さを合わせた表情です。それらは彼らが享受する至福から来る影響です。

 「かれらは努力して心充ち足り」自分たちの現世の行為に満足している、また来世でアッラーが彼らに与え給うた至福に満足しているという意味です。さて、この至福はどこにあるのでしょう?それは、「高い楽園の中に」あります。天国(ジャンナ)は来世における至福の住処です。ジャンナの由来は、覆い。木が豊かで、陰が出来る様子がうかがえます。天国の特徴も場所と同様に、高いのです。クルアーンはこの天国を次のように描写します:「そこで、虚しい(言葉)を聞かない」そこでは意味のない言葉や間違った言葉を聞くことなどないという意味です。天国にあるそのほかの至福について言及する前に、天国をこのように描写したのは、現世における裕福で贅沢な生活を送る人たちの状態に対する批判が背景にあります。彼らは、言葉遣いにおいて限度を超えるのが至福を補完するものだとしています。この中には、意味のない話をする者とならないようにとの、信者に対する教訓が含まれています。アッラーは現世で彼らに対し、かれの恩恵をたくさん授け給うているのですから、信者たちの至福は、無知で愚かな人たちの至福ではなく、徳のある人たちの至福であるべきなのです。

クルアーンは続けて、天国の至福を描写します:
「そこには、流れる泉があり、高く上げられた(位階の)寝床があり、大杯が備えられ、褥は数列に並べられ、敷物が敷きつめられている。」

天国には、噴出する泉が流れており、それは止まることがありません。また高いところに設置された心地よい座り場所もあります。そこに座った信者が主が彼のために許し給うたすべての至福を目で見ることが出来るようにするためです。またすぐ手に取れる、準備されたコップが置かれてもいます。人々が飲みたいと望むと、コップは飲み物で満たされるのです。彼らは居間で、並べられたクッションに寄りかかります。そこには楽しみと美しさを添える絨毯が敷き詰められています。

クルアーンが来世の生活の概要を述べた後、話題は現在の生活に戻ります。この世界における創造主の偉大さと顕在したかれの御力に今度は私たちの目を向けさせます。至高なる御方は仰せになります:

「かれらは骼駝に就いて、如何に創られたかを考えてみないのか。また天に就いて、如何に高く掲げられたか、また山々に就いて、如何に据え付けられているか、また大地に就いて、如何に広げられているかを。」

クルアーンは私たちの目を、私たちの傍は上にある、そこから訓戒を得ないまま見ているものに向けさせます。その第一番目が:ラクダです。クルアーンを授かったアラブ人は、他の人たちに比べてラクダを頻繁に利用していたからです。その創造には、秘密があり、叡智と神の御力を感じさせる秘密があります。これについてはこの章の最後で詳細を述べます。

代わって天の創造について言えば、それはアッラーの御力を最も感じさせます。天は、人類が昇っていこうとするもの、星や惑星に満ちた場所です。科学者たちは、望遠鏡の発明がされた後、その数は数百億にのぼるとしました。

またクルアーンは、山々を大地に据え、大地を広げて、何億もの人間や生き物が住むのに適した場所にし給うたアッラーの御力の様子に目を向けさせます。

審判の日の情景、この世界におけるアッラーの御力の様子が述べられた後、アッラーは使徒(平安と祝福あれ)の目を、訓戒と強制ではなく慈善に基づいた彼に与えられた任務に向けさせ給います:

「だからあなたは訓戒しなさい。本当にあなたは一人の訓戒者に外ならない。かれらのための、支配者ではない。」

つまり、ムハンマドよ、人々にアッラーの御力と叡智を示す諸印、彼らに下された恩恵を思い出させなさい。われがあなたを彼らに遣わしたのは、アッラーの導きを彼らに知らせ、それによって彼らを訓戒するため。あなたは彼らを支配する者でも、人々にあなたのしたいことをさせるような暴君でもない、という意味です。

続けてクルアーンは、アッラーの導きに背を向けた人の行く末を解明します:

「だが誰でも、背き去って信仰を拒否するならば、アッラーは最大の懲罰でかれらを罰される。」

つまり、しかし、あなたムハンマドに背き、アッラーの導きによって導かれず、かれの諸印を拒否する者は、アッラーはその者を最大の罰、つまり地獄の罰で罰されるだろう、という意味です。

死と再生で人々がアッラーの許に帰ることは、紛れのない事実です。アッラーは彼らの行為を清算し給います:「本当にわれの許に、かれらは帰り来るのである。かれらの清算は、本当にわれの任である。」

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP94~99)