イスラーム勉強会ブログ

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預言者伝37

2012年11月27日 | 預言者伝関連

122.息子を戦いと殉教に急き立てる母親:
  信徒の母であるアーイシャさま(御満悦あれ)が、ハーリサ家の砦(とりで)に女性信徒たちと滞在していた時のことです。当時はまだ彼女らにベールが命ぜられてはいませんでした。彼女らのもとに、短い鎧(よろい)を身に着けたサアド・イブン・ムアーズ(御満悦あれ)が立ち寄りました。彼の両腕がすべてむき出しになるくらい、その鎧は短いのでした。詩を口ずさむムアーズに、彼の母親が言いました:息子や、戦いに出かけた人たちを早く追いかけなさい!おまえは相当遅刻してしまった。
アーイシャ(御満悦あれ)は次のように言いました:私はムアーズのお母さんにこう言ったのです。:ウンム・サアド(サアドのお母さんの意。敬称の一つ)、アッラーに誓って、私はサアドの鎧がもっと長ければ良いのにと思うのですが。
  しかしアーイシャ(御満悦あれ)が恐れていたことが、起きました。サアドは弓に撃たれ、腕の血管が切れたことを原因に、クライザ家の戦で殉教者として亡くなりました。

123.諸天と地の兵士はアッラーに属する:
  多神教徒たちは信徒らを取り囲みました。まるで大勢の部隊による砦(とりで)で彼らを追い込んだかのように。多神教徒たちは信徒らを一か月近く包囲し続け、より一層、試練に厳しさが増しました。偽信仰が露わになり、マディーナへ帰ってもよいかと、アッラーの使徒(祝福と平安あれ)に許可を求める人々が現れました。
【また、彼らの一部は預言者に(自宅に戻る)許しを願い出て、言う、「まことに、われらの家は脆弱(ぜいじゃく:無防備に剥き出しに晒された状態)です」しかしそれは脆弱(ぜいじゃく)ではない。ただ、彼らは逃亡を望んだにすぎない。】(クルアーン 部族連合章13節)
  アッラーの使徒(祝福と平安あれ)と教友たちはまさにアッラーが描写し給うた恐れの中にいましたが、そこにガタファーン族のナイーム・イブン・マスウードが現れます。「アッラーの使徒さま!私はイスラームの教えに入りました。しかし私の民はまだこのことを知りません。お役に立てるはずですから、私に何でもお命じになってください。」とナイームは言いました。その言葉にアッラーの使徒(祝福と平安あれ)は、「あなただけが今、頼りになる男です。可能なら敵たちが私たちに失望するよう、仕向けてもらえませんか。戦争とはまさに欺きですから。」と言われました。

部族連合軍➡クライシュ+ユダヤ人達(クライザ家)+ガタファーン族

ナイーム(ガタファーン族⇒イスラームに入信) 

  ナイームはユダヤ人達(クライザ家)に赴き、クライシュと同郷でないガタファーン族に対して、彼らがとっている態度や忠誠心は間違いではないか、また、本来の近隣者であるムハージルーン(マッカからマディーナに移住した先代ムスリム)とアンサール(マディーナで移住者を援助したムスリム)に敵対することは誤りではないかと思わせる話をしました。そしてナイームはユダヤ人達(クライザ家)に、クライシュガタファーンの貴族から担保を受け取るまでは一緒に戦ってはならない、とも助言しました。するとユダヤ人達(クライザ家)はナイームに、「我々はあなたから良い意見を頂戴した。」と言いました。
  次にナイームはクライシュに赴き、自分の誠実さと助言の重要性を強調し、ユダヤ人達(クライザ家)が自分たちの行ったことを後悔し、約束の保証のために、クライシュの貴族数名を差し出すようあなた達に求めてくるだろうと伝えました。またユダヤ人達(クライザ家)がその貴族たちを、預言者(祝福と平安あれ)と教友たちに引き渡して、首を切って殺させるつもりなのだとも話しました。その後、ナイームはガタファーン族に赴いて、クライシュに伝えたと同様の話をしました。そうしたことで両者(クライシュユダヤ人達(クライザ家))はお互いを疑い始めました。クライシュの人々の心は、ユダヤ人達(クライザ家)に対する憤りでいっぱいになり、それぞれは一緒に戦う仲間に恐れを抱くようになりました。
  そしてアブー・スフヤーンとガタファーン族のリーダーたちが、ムスリムたちとの熱戦を望んだとき、ユダヤ人達(クライザ家)は気乗りせず、クライシュの貴族を担保として差し出すよう要求しました。このとき、クライシュガタファーン族はナイームの言っていたことが真実であると知ったため、ユダヤ人達(クライザ家)の要求を退けたのですが、このこともユダヤ人達(クライザ家)にナイームが言ったことが本当であると思わせました。このように、両者ともナイームの戦略に欺かれ、団結の絆は解けることとなりました。

  またアッラーが部族連合軍に冷たい強風を送り給うたことで、彼らの住まいや家財道具は吹き飛ばされてしまいました。立ち上がったアブー・スフヤーンは言いました:「クライシュの衆よ!もう留まっていられない状態になってしまった。食料も何もかも吹っ飛んでしまった。クライザ家にも裏切られてしまった。その上、この強風に見舞われる始末だ。料理は作れず、火もつけられず、テントも建たない。皆の衆、帰途に着け。わしはもう帰る。」そう言うと、アブー・スフヤーンはラクダにまたがって帰って行きました。
  ガタファーン族クライシュがしたことを耳にすると、自分らも故郷に戻って行きました。祈りに立っていたアッラーの使徒(祝福と平安あれ)のもとに、かつて部族連合軍にスパイとして送ったフザイファ・イブン・アル=ヤマーンが戻って来て、見てきたことを報告しました。朝になるとアッラーの使徒(祝福と平安あれ)は塹壕から離れ、マディーナに向けて出発しました。それに従うように信徒らは武器を置きました。アッラーは真実を仰せになっています:
  【信仰した者たちよ、お前たちへのアッラーの恩恵を思い出せ。お前たちのもとに軍隊がやって来た時のこと。それでわれらは彼らに風とお前たちには見えない(天使の)軍隊を送った。そしてアッラーはおまえたちのなすことについて見通し給う御方。】(クルアーン 部族連合章9節)
  【そしてアッラーは信仰を拒んだ者たち(部族連合軍)を彼らが(負けて)激怒するままに(マディーナから)退け給い、彼らは良いものを得なかった。そしてアッラーは信仰者たちを戦闘において守り給うた。そしてアッラーは力強く、威力比類なき御方であらせられた。】(クルアーン 部族連合章25節)
  
  こうして戦いは終わりを告げました。クライシュはその後、信徒たちに戦いを挑むことはありませんでした。アッラーの使徒は言われています。:「今年以降、クライシュがあなた方を襲って来ることはなく、あなた方が彼らを襲うでしょう。」
  信徒側の殉教者はおそらく7名、多神教徒側の死者は4名でした。

 (参考文献:「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P254~257など)

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76章解説【1】

2012年11月22日 | ジュズ・タバーラカ解説
بسم الله الرحمن الرحيم
1. 人間には、言及されるようなものでなかった時期が来た(経過した)ではないか。
2. まことに、われらは人間を―われらは彼を試す―混ぜ合わされた精液から創り、そして彼に聴覚と視覚を成した。
3. まことに、われらは彼を道に導いた、感謝する者として、あるいは忘恩の輩(不信仰者)として。
4. まことに、われらは不信仰者たちに鎖と枷と烈火を用意した。
5. まことに、敬虔な者たちは酒杯から飲むが、その混ぜものは樟脳であった。
6. アッラーのしもべたちがそこで飲む泉、彼らはそれをこんこんと(易々と)湧き出でさせる。
7. 彼らは誓願を果たし、その害悪が広がる日(最後の審判の日)を恐れ、
8. また、貧しい者や孤児や捕虜に食べさせる、それ(食料)への愛着に抗って。
9. 「われらがあなたがたに食べさせるのはアッラーの御顔のためにほかならず、あなたがたからは報酬も謝恩も望みません」。
10. 「まことに、われらはわれらの主から、顰面(しかみづら)に、(苦渋と恐怖による)歪面(ゆがみづら)になる日を恐れるのです」。
11. それで、アッラーは彼らをその日の害悪から守り、彼らに輝きと喜びを投げ与え(授け)給う。
12. そして、彼らが耐えたことに対し、楽園と絹で彼らに報い給う。

 全体的にこの章は、来世における無罪者たちが受ける恩恵について話しています。

 まず、アッラーによって無から存在させられた人間に対するかれの深き恵について章が始まります:
 「人間には、言及されるようなものでなかった時期が来た(経過した)ではないか。」

 冒頭に出た疑問文は、事実を強調するためのほかなりません。疑問詞「هل」の意味は、確実に、です。例えば:あの人が何をしたか見たか、という疑問文。あなたが、彼が確実にあの人が何をしたか見たのを知っているにもかかわらずしている質問です。これはあなたが彼に質問するための文章ではなく、事実を強調するための文章なのです。またこの節にある「人間」はアーダムの子孫です。人間に魂が吹き込まれる前には無という名もない期間が過ぎていたことを指しています。

 この章の冒頭は、かつて自分がこの世界に存在していなかった後に存在させられたことについて人間に深く考えるよう促しています。自分が存在させられたという事実は心にアッラーの御力に対する感謝の気持ちを起こさないでしょうか。かの御力は人間を無から存在させて、「言及されるようなもの」としたのです。

 実にこの冒頭の言葉は力強い訴えであり、人間に対して、自分自身に帰って自分自身の真実を発見せよと導く叫びです。その時人間は:創造という恩恵を与え、存在を与えた存在こそが、崇められ、感謝されるに相応しいことを知るのです。

 続く節は、人間がどのように創造され、存在されたかを人間に思い出させます:
 「まことに、われらは人間を―われらは彼を試す―混ぜ合わされた精液から創り、そして彼に聴覚と視覚を成した。」

 「أمشاج」は混ぜ合わされたものという意味ですが、アッラーは男性の精液である「نطفة」を「أمشاج」と表現し給うたのは、精液が含んでいる様々な要素を注目させるためです。

 至高なるアッラーは、以上の過程を経た人間を無駄に、または遊びで創り給うたのではありません。「われらは彼を試す」との御言葉で解明し給うた通り、そこには叡智と目的があるのです。「われらは彼を試す」とはつまり、アッラーが諸預言者に啓示し給うた聖法に沿って人間を試す、または様々な恩恵や剥奪や災難で人間を試すという意味です。そうすることで人間の本性が現われ、その人間の正直さが彼の嘘から判明します。

 アッラーによる人間に対する試練は、理性と認識が基づくゆえ、アッラーは人間に聴力、視力を与え給うて物事を理解させ、選択権を与え、選択の度に応じた報いを下し給います。アッラーは仰せになっています:「そして彼に聴覚と視覚を成した」聴覚と視覚は人間の生活と思考の支えであり、人間に対する最大の恩恵です。もし人々が、耳が聞こえず、目の見えない状態で生まれていたとしたら、与えられていた場合と違って、理性も認識力もなく、その二つなしでは生きて行けなかったことでしょう。

 聴覚と視覚という恩恵についての言及の傍で、アッラーは人間に導きと迷いの道を解明し給いました:
 「まことに、われらは彼を道に導いた、感謝する者として、あるいは忘恩の輩(不信仰者)として」

 「われらは彼を道に導いた」:つまり彼に善と悪の道を示し、迷いから導き、諸使徒や彼らに啓示した聖法を介して何が正しくて何が間違っているかを解明した、ということです。アッラーは二つの道を示し給うた後に、そのどちらを選ぶかを人間に選択する自由を与え給いました。導きを選べば、アッラーが自分に与え給うた恩恵に感謝するしもべとなり、アッラーに仕え、善の道を歩くことになり、アッラーの御満悦を得られることになります。代わって迷いを選ぶと、アッラーが与え給うた恩恵を忘れる者となり、罪と自惚れの道を歩くこととなり、アッラーの怒りと罰が相応しくなります。

 続いてアッラーは、罪の道を歩いている者たち用に来世に準備し給うているものを解明し給います:
 「まことに、われらは不信仰者たちに鎖と枷と烈火を用意した。」

 アッラーは不信仰者に次の3つを準備し給うています:足にかけられる鎖、罪人たちを縛り上げる特別な枷、枷は通常、手にかけられます。そして燃え上がり、それによって人々が苦しむこととなる烈火です。

 そしてアッラーは、導きの道を歩む人たちに準備し給うている至福の数々を解明し給います。アッラーは彼らを「الأبرار」敬虔な者たちと呼び給うています:
 「まことに、敬虔な者たちは酒杯から飲むが、その混ぜものは樟脳であった。アッラーのしもべたちがそこで飲む泉、彼らはそれをこんこんと(易々と)湧き出でさせる。」

 「الأبرار」は正直さと敬虔さとアッラーに対する誠実さと被造物に対する善き心構えを集結させた人である「البارّ」の複数形です。これら敬虔な者たちは樟脳の混ざった飲料を飲みますが、樟脳とはインドや中国の木から取れる名の知れた香料で、アラブでは高級な香料の一つと捉えられています。アラブ人はこの樟脳を飲み物に混ぜて楽しみます。または、この酒杯を飲んだ者は樟脳のような芳香を見つけるという意味ともとれます。彼らはきらめく泉からくまれる水を飲みますが、その泉は豊かなため枯渇してしまうことを恐れる必要はありません。彼らは望むままに泉を湧き出でさせます。また:彼らはその泉の水を望む場所に移動出来る、つまり水道のような形であるとも言われます。もちろん、アッラーが最も御存知です。

 この節は信仰者を二部に分けたと言えるでしょう:敬虔な者たち、アッラーのしもべたち。敬虔さは彼らの行為の特徴を指し、アッラーのしもべたちは彼らがどのくらいアッラーに近付いているかの特徴です。

 また敬虔な者たちはかつて以下の二つの特徴を持っていました:
 「彼らは誓願を果たし、その害悪が広がる日(最後の審判の日)を恐れ、」

 誓願(النذر)とは:義務ではない服従行為を自らに課すことをいいます。アッラーのためにサダカ、斎戒、ハッジを自らに課します、という感じです。そして自分の誓願をアッラーに叶えて欲しいことに関連付けます。アッラーが私の病を治してくださった折には、私はアッラーのために~~を自らに課します、という形をとります。誓願を果たすことには:アッラーが人間に義務とし給うた事柄を行うことも含まれます。つまり全ての服従行為がその中に入ります。また罪の誓願は果たすべきではないことに注意が必要です。

 「その害悪が広がる日を恐れ」の意味するところは:最後の審判の日です。その日への恐怖はアッラーへの服従行為や善行、罪からの回避を活発にさせます。「その害悪が広がる日」つまりその害と危険はあらゆる場に広まるという意味です。

 至高なるアッラーが述べ給うた敬虔な者たちのいくつかの特徴について:
 「また、貧しい者や孤児や捕虜に食べさせる、それ(食料)への愛着に抗って。」

 つまり彼らは食事を提供しますが、それは彼らの好む、食べたいと思っているものなのです。また自分たちもそれをとても必要としています。つまり自分たちが必要とし、好む食べ物を他の必要としている人たちに優先します。しかも普段は、その食べ物が上等でないと好まないようなものです。この意味を持つ節がクルアーンの別箇所に出てきます:「おまえたちはおまえたちの愛するものから(善に)費やすまで忠義を得ることは決してない。」(イムラーン家章92節)この心構えに基づいて行われる善行は、貧者を敬うよう富者に求めます。また両者は平等であるという気持ちを植え付けることで、富者が自分だけが良いものを食べて、貧者には良くないものを施すということが起きなくなります。

 アッラーによって親切が割り当てられたのが、「貧しい者」です:自分にも家族にも必要なお金をまったく持っていない人です。

 「孤児」は:父親を亡くした貧しく幼い、成人に達していない子供を指します。孤児を養うとは:孤児たちを食べさせ、学習させ、教育し、監督する機関を作ることをいいます。こういった形で孤児たちは社会の善良な一員となって成人します。代わって孤児を軽視することは悪徳と罪の泥沼に放り込むことになります。

 「捕虜」は:イスラーム軍が捕まえた敵軍の人間か、イスラーム軍に降参した者です。イスラームは捕虜の命を守り、彼の人間性に対する敬いから食料提供することを命じています。捕虜に快適な環境を提供することも上記に当てはまります。このような人道的システムから、当時の捕虜を原因に人々が暗殺し合って捕虜に酷い仕打ちが行われていた時代における捕虜に対するイスラームの慈悲性が現われています。またイスラームは、国際連合が制定した人権の一つである、捕虜には適切に接し、食事を提供するという決まり事を先に決めてもいました。

 またアッラーは敬虔な者たちの精神状態と、彼らを親切に駆り立てる原因を描写し給います:
「われらがあなたがたに食べさせるのはアッラーの御顔のためにほかならず、あなたがたからは報酬も謝恩も望みません。まことに、われらはわれらの主から、顰面に、(苦渋と恐怖による)歪面になる日を恐れるのです」。

 彼らは2つの理由から親切に接し、食べさせています。1.アッラーの御満悦とお近づきを求めて。2.かの恐ろしい日を恐れて。アッラーは審判の日を「顰面」と表現し給うたのはその日の厳しさを表すためです。またはその日になると被造物の顔が心配のしすぎから顰面になるためです。

 続いて審判の日には恐怖の代わりに安心を、顰面の代わりに喜びを与え給うことでアッラーは敬虔な者たちを安心させ給います:
 「それで、アッラーは彼らをその日の害悪から守り、彼らに輝きと喜びを投げ与え(授け)給う。」

 アッラーは審判の日の罰から彼らを守り給います。「輝き」は顔に現れる善きしるしと輝きです。そしてアッラーから享受された偉大な報奨のために心は喜びます。

 まだ敬虔な者たちと彼らが受ける至福の描写が続きます:
 「そして、彼らが耐えたことに対し、楽園と絹で彼らに報い給う。」

 アッラーが敬虔な者たちを忍耐で描写し、忍耐者たちにアッラーが準備し給うている褒美の説明には、忍耐の称讃とアッラーの御許における忍耐の位置の解明があります。またその中には人生の難局、悲しみと戦う忍耐者に対する吉報があります。

 忍耐は美徳の基本であり、地上にあらわれる善の源です。自我の要求に勝つこと、有害な欲望を抑制すること、導きに沿った道を歩むことには忍耐が必要です。クルアーンは忍耐の報奨を解明しています:「楽園と絹」修辞力に富んだ表現で敬虔な者たちの至福を2単語で語っています:食べ物が美味しいという気持ち、衣服が心地よいという気持ちです。アッラーは「楽園」という御言葉で、様々な美味しそうな果実といった敬虔な者たちが楽しむものを指しています。そして魔法がかかったような美しい景色、誘惑的な緑の茂み、輝くテーブルなどもあります。「絹」は、彼らが着て楽しむ、絹の衣服を指します。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP147~152)
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