イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

悔い戻る者たちの道しるべ【10】-(2)

2016年03月25日 | 悔い戻る者たちの道しるべ

司会:

「悔悟の意志が至高偉大なるアッラーからのものであるなら、罪の意志はどこから来るのか?」と議論してくる人がいます。さて、アッラーは私たちが罪を犯すことを御望みなのでしょうか?

 

先生:

そのようなことはアッラーにふさわしくありません。

 

「まことにアッラーは醜行を命じ給わない。おまえたちはアッラーについて、おまえたちの知らないことを言うのか」(高壁章28節)

 

「多神を崇拝する者たちは言うであろう。「もしアッラーはが望み給うたならば、われらもわれらの祖先も多神を拝まず、なにも禁じなかったであろう」。こうして彼ら以前の者もわれらの威力を味わうまで嘘として否定した。言え、「おまえたちにはわれらに出して見せるような知識があるのか。まことにおまえたちは憶測に従っているにすぎない。まことにおまえたちは妄想しているにすぎない」。」(家畜章148節)

 

この聖句は、ジャブル(万事は強制されて起こるとの考え方)が否定される根拠です。ジャブルは間違った信条でもあります。ジャブルかもしれない、との思い込みは確実な迷いです。

 

「そしてアッラーはおまえたちの許に顧み戻ることを望み給うが、欲望に従う者たちは、おまえたちが大きく片寄り、偏向することを望む。」

 

彼が私たちを御創りになったのは、私たちを慈しみ給うためです。その根拠は次の聖句です:

「ただし、おまえの主が慈悲をかけ給うた御方は別である。そのために彼は彼らを創り給うた。」(フード章119節)

 

「私たちが罪を犯すことをアッラーが望み給うている」と思い込むこと。その思い込みはとても不可能なことです。彼は私たちのために善を、導きを望み給うています。私たちは私たちが成す行為に価値が付くよう、「選択できるという恩恵」を与えられた被造物です。人間は選ぶことを求められているのです。罪の基本は、この講義集の始めの頃に扱ったように、欲望が植え付けられ且つ道標が与えられている中で、道標に従わずに欲望のまま行動することです。丁度、ハンドルはありませんが強いモーター(ここでは欲望)の付いた乗り物に乗るようなものです。ハンドルは道標です。ハンドルなしで動く乗り物の行く末は危険な事故の他にありません。どんな人間も、アッラーによってその中に据え置かれた欲望において行動しますが、それは元来、中立です。それによって諸天と大地の主に近づくためです。欲望は私たちを高めるためのはしご、または私たちを落とす階段に相当します。以上が罪の基本です。「選択を求められること」は、天使にも、その他の物質にもありません。また、動物にも責任能力がありませんから、罪も悔悟もありません。人間とジンは他のすべての被造物と違って、成す行為に価値が付くよう、「選択できるという恩恵」を与えられたのです。そして諸天と大地の主に到達させるはしごになる「欲望」が植え付けられました。そこで道標に従わず、欲望のままに行動することで数々の罪に陥ってしまうのです。以上は、罪の哲学です。

 

一般の民衆の間には背信行為となる言葉(諺など)が幾つかあります。飲酒する人があなたに言います:限られた場所での決められた杯数。誰が言ったのでしょう?これは悪魔の言葉です。一般の民衆が言う言葉はすべてクルアーンに照らし合わせるべきです。相違がなければ良しとし、相違があれば蹴飛ばしてしまいましょう。正しい信仰が必須です。正しい信仰こそが善行の素です。偏向ある信仰は、偏向ある行為とともにあります。

 

つまり、私たちは自分たちの信仰を正し、浄化して、アッラーのことを知る必要があるということです。

 

《イブン・ウマル(ウマルの息子)よ、おまえの宗教を大切にしなさい。まことにそれは、おまえの肉であり、血である。真っ直ぐにある人たちから習い、傾いた人たちから習ってはいけない。》

 

http://nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7193&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895&w=%D9%85%D9%86%D9%87%D8%AC%20%D8%A7%D9%84%D8%AA%D8%A7%D8%A6%D8%A8%D9%8A%D9%86&aw=

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預言者伝【番外編】17

2016年03月11日 | 預言者伝関連

教えの強固さを守ることとその精神と教えへの情熱:

アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は、想像出来ない位の穏やかさ、物腰の柔らかさ、忍耐強さで人々の間違いや失言などに応じていらっしゃっていたと同時に、教えの強固さを守ることに厳しく、その精神と教えへと唯一神信仰への情熱に燃え、共同体が過ちや度を越してしまうことや個人の神聖化や無明時代への逆戻りに巻き込まれてしまう危険に晒されることに大いに注意を配っていらっしゃいました。彼がこれらを容赦することは決してなく、また指導的利益や政治的配慮がこのような事柄を断固否定することを制することもありませんでした。これらにおいて彼がその他の指導者や政治家と大きく違っていたことは明らかです。

 

その中の分かりやすい例を見てみましょう。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の息子様のイブラーヒーム様が亡くなった時のことです。彼の亡くなった日に日食が起き、人々が言いました:イブラーヒーム様の死を機に日食が起きた、と。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は説教なさっておっしゃいました:まことに太陽と月はアッラーのお印の中の一つである。誰かの死や生のために日食・月食が起こることはない。もしおまえたちがそれらを目撃したなら、アッラーに祈り、アッラーを偉大さを称え、礼拝を捧げ、喜捨しなさい。(アル=ブハーリー、ムスリム)

 

もし、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)のこの悲しい出来事の中での立場が他の宣教者や指導者などのものだったら、出来事に対する反応はきっとこの発言よりも位の低いものだったはずです。それはおそらく「沈黙」です。なぜならそれが彼らの活動に有利で、自分と家族の役に立つものや賞賛を与えてくれるからです。これらは民衆を引率する人や国や政府の設立者が望んでいるもので、彼らはそれを得るためにあらゆる作戦を講じます。アッラーはアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に目に見えない形で用意し給うているので、彼(アッラーの祝福と平安あれ)が沈黙してもお咎めはないのですが、彼はかの言葉を聞いて黙っていることはできず、信仰の腐敗を招くであろうこの幻想を払拭するためにすぐ行動に出られました。自然現象や被造物におけるアッラーの諸慣行と人間の個々人に起きることを関連付けてしまうこと。その人が預言者や預言者の子孫や親族で彼らの出生や死去や健康や病といったことと関係がある、とするのは、古いです。こういった考え方は、過去の文明にあった多神崇拝や人の神聖化が由来していますが、彼(アッラーの祝福と平安あれ)は無明時代からこれらを払拭し、そして真実を解明し、そういった現象には特別な礼拝ー日食・月食の礼拝ーをお定めになりました。そうすることで、至高なるアッラーとしもべたちの繋がりを強くし、無明時代の悪の芽を精神と理性から摘み取るのです。

 

またアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は、ある男が「アッラーがとあなた様がお望みになられた」と言った時に黙っていませんでした。彼(アッラーの祝福と平安あれ)は答えておっしゃいました:おまえは私をアッラーの同位者に仕立て上げたのか、と。また他の男が演説しながら「アッラーとその使徒に従う者は正道を歩んでいる。しかし両者に背けば正道を踏み外したことになる。」彼(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:「おまえは悪い演説者だ」。(アブー・ダーウード)

 

このようなシーンに、「預言者的立場」、そしてその他の指導者や偉人たちを超える預言者たちが特徴的に持っている性質がはっきりと現れます。エゴイズムであったり、度を越していようが賞賛や褒めちぎりを許容したりということがないのです。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は、これらにおいての預言者たちのリーダーであり、完璧な模範者でいらっしゃいました。彼は次のようにおっしゃいました:キリスト教徒たちがマルヤムの子を湾曲させたように、おまえたちは私を湾曲してはいけない。まことに私は彼のしもべなのだから。人々は:(あなた様は)彼のしもべであり、彼の使徒でいらっしゃいます、と言いました。

 

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