イスラーム勉強会ブログ

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84章解説

2011年09月27日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
1. 天が割れた時。
2. ―その主に聞き従い、それが必然とされた―
3. そして大地が延べ広げられ、
4. そしてその中のものを投げ出して空になった時、
5. ―そしてそれはその主に聞き従い、それが必然とされた―
6. 人間よ、まことに、おまえはおまえの主に向かって労苦、努力する者、そしてそれ(アッラーもしくは努力の善果)に出会う者である。
7. それで己の書(行状簿)を右手に渡される者については、
8. いずれ彼はたやすい清算を受けるであろうし、
9. そして、喜んで、自分の家族の許に帰るであろう。
10. 一方、背後で己の書を渡された者については、
11. いずれ彼は死滅を呼び求めるであろうし、
12. そして、燃える炎で焼かれるだろう。
13. 本当に彼は家族の許で歓楽していた。
14. 本当に彼は(アッラーの許へ)帰ることはないと考えた。
15. いや、本当に彼の主は彼を見通しておられた。
16. それゆえ、夕映えに誓おうではないか。
17. そして夜とそれが包んだものに(かけて)、
18. そして満ちた時の月に(かけて)、
19. おまえたちは必ず一層から他層へと上り移るのである。
20. それでも信じないとは彼らはどうしたというのか。
21. また彼らにクルアーンが読誦されても、サジダ(跪拝)しない。
22. いや、信仰を拒んだ者たちは(クルアーンなどの真理を)嘘と否定する。
23. だが、アッラーは彼らが(胸に)保持することを熟知し給う。
24. それゆえ、彼らには痛烈な懲罰という吉報を伝えなさい。
25. ただし、信仰して善行をなした者は別である。彼らには尽きることのない報酬がある。

 この章は、人間の帰り処がアッラーであり、彼が生前に成した善と悪にアッラーが報い給うことを説明しながら、審判の日の兆候について述べます。

 まず、天地が降伏してアッラーの命令におとなしく従うことを始めとした、審判の日に起こる天変地異の光景の紹介で始まります。アッラーは次の御言葉で、これらが起こることを強調し給います:「それが必然とされた」つまり、それらがアッラーの命令に従うことは揺るぎない真実であるということです。アッラーは天地それぞれの主であり、天地はアッラーの御手中にあります。この始まり方は、天と地がその主に降伏することに照らし合わせて、心に畏敬とアッラーへの降伏の念を湧きおこします。

 アッラーは仰せになります:
 「天が割れた時。―その主に聞き従い、それが必然とされた― そして大地が延べ広げられ、そしてその中のものを投げ出して空になった時、―そしてそれはその主に聞き従い、それが必然とされた―」

 「天が割れた時」:つまり天に亀裂が入り、割れたということです。「その主に聞き従い、それが必然とされた」主に耳を傾け、ひび割れることにおいてのかれの命令に従うということです。そしてその服従は確実な真実でもあります。「そして大地が延べ広げられ」つまり拡張されたことでより広くなったということです。「そしてその中のものを投げ出して空になった時」大地はその中にある遺体を外側に生きた状態で投げ出し、人間を放棄します。「そしてそれはその主に聞き従い、それが必然とされた」つまり大地は主の御言葉に耳を傾け、内部にあるものを外に放り投げるようにとの御命令に従ったという意味です。

 その中でクルアーンは、地球における超自然的なアッラーの御力の素晴らしさを描きますが、大地における人間の存在の真実と、最後に行き着くのはアッラーとの謁見であることを人間に注意させるためです:

 「人間よ、まことに、おまえはおまえの主に向かって労苦、努力する者、そしてそれ(アッラーもしくは努力の善果)に出会う者である。」

 意味:人間よ、おまえはおまえの主に向かって努力し、現世でいろいろと行動する。善であっても悪であっても、アッラーによるそれらに対する報いをおまえはそのうち受ける。だからこそおまえの行為はアッラーの御満足をおまえに引きつける類でないといけないし、アッラーの怒りを招いて、結局あなたを滅ぼしてしまうようなものであってもいけない。

 続いて、アッラーに従って、かれの御満悦を得る人たちの喜ばしい光景が紹介されます:

 「それで己の書(行状簿)を右手に渡される者については、いずれ彼はたやすい清算を受けるであろうし、そして、喜んで、自分の家族の許に帰るであろう。」

 アッラーは仰せになります:右手に自分の行為(が記された)書を渡される者。これは吉報の証拠です。「いずれ彼はたやすい清算を受けるであろう」たやすい清算とは、審判の日に信仰者に生前の行為が晒される時、罪は赦され、善行に対する報いを受けることを指します。「そして、喜んで、自分の家族の許に帰るであろう」つまり、アッラーから頂戴した恩恵に対する喜びと陽気に包まれて、天国にいる家族のもとに戻ります。

 喜ばしい描写とは逆の、罰が確定した、罪を犯してきた人たちの描写が次に続きます:

「一方、背後で己の書を渡された者については、いずれ彼は死滅を呼び求めるであろうし、そして、燃える炎で焼かれるだろう。」

 つまり、人々よ。おまえたちの中で、行為の書を背後で受け取った者よ。「背後」には、その人を軽蔑し、辱める意味があります。「いずれ彼は死滅を呼び求めるであろう」自分が滅びて無くなってしまうことを求めて助けてくれと叫びます。「そして、燃える炎で焼かれるだろう」つまり、火の中に入って、その熱さと罰に苦しむことになります。

 クルアーンはこの不幸者の描写を、彼の生前がどのようであったかを言及しながら続けます。また、不幸な結末を招いた本当の理由を解説します:「本当に彼は家族の許で歓楽していた。本当に彼は(アッラーの許へ)帰ることはないと考えた。いや、本当に彼の主は彼を見通しておられた。」

 彼はかつて恩恵に浴し、家族の中で楽しくして、自分が不信であることと罪を犯している状態に満足していました。「本当に彼は帰ることはないと考えた」アッラーに帰されることはなく、清算のために死後に生き返されることはないと確信していたので、自分が犯した罪など気にしなかったということです。なぜなら報奨を求めず、また罰をも恐れていなかったためです。「いや」事実は彼が考えているのとは違っており、そのうち主に帰される、という意味が含まれています。「本当に彼の主は彼を見通しておられた」まことにアッラーは彼がかつて行っていた悪事を御見通しであるということです。

 クルアーンは続いて、訓戒と説教を目的に、アッラーの御力の機能のいくつかに関心を向けさせます。

 「それゆえ、夕映えに誓おうではないか。そして夜とそれが包んだものに(かけて)、そして満ちた時の月に(かけて)、おまえたちは必ず一層から他層へと上り移るのである。」

 これらで誓う目的は、創造主の偉大さと、世界に影響しているかれの御力の解明です。

 夕映えとは、太陽が沈んだ後に見られる、地平線に現れる赤みです。それは昼間の終わりを感じさせ、夜の到来は、印象的な自然のしるしや、その背後にはそれらを創造したアッラーの力があることについて深く考えさせます。

 大地と天が泳ぐ空間は、元来から暗く、それは、「夜とそれが包んだもの」です。アッラーは、夜とその暗さが集め、包んだ天体やさまざまな被造物にかけて誓い給いました。まるで、全被造物にかけて誓われたかのようです。続けて、月にかけて誓い給います:「そして満ちた時の月に(かけて)」つまり、満月を指し、目と心に安堵感を与え、創造主の偉大さを感じさせます。

 続くのは、誓いの返答です:「おまえたちは必ず一層から他層へと上り移るのである」つまり、瞬間を追うごとに、おまえたちは苦難を受ける、つまり死とその後の審判の日の恐怖、です。また、この苦しみは、現世にあるとも言われます:つまり、苦難後の安楽、安楽後の苦難、病気後の健康、健康後の病気を指すとも言われます。

 これらの、アッラーの存在とその唯一性を証言する宇宙のしるしと、彼らに読まれるクルアーンの諸節を前に、アッラーは仰せ続けます:

 「それでも信じないとは彼らはどうしたというのか。また彼らにクルアーンが読誦されても、サジダ(跪拝)しない。いや、信仰を拒んだ者たちは(クルアーンなどの真理を)嘘と否定する。だが、アッラーは彼らが(胸に)保持することを熟知し給う。」

 疑問形の文章には、非難・咎めの意味があります。不信仰者たちはなぜアッラーとアッラーの唯一性を信じないのだろう!!と。なぜ死後の生き返りを認めないのだろう!!と。なぜクルアーンが読まれる時、謙遜し、静かにしないのだろう!!そこにはクルアーンがアッラーの啓示である証拠が多々あるのに!!と。「いや、信仰を拒んだ者たちは(クルアーンなどの真理を)嘘と否定する」彼らは頑固に、そして高慢に、ムハンマドがアッラーの使徒であることを嘘だと言い、クルアーンがアッラーの書であることを嘘だと言います。「だが、アッラーは彼らが(胸に)保持することを熟知し給う」アッラーは彼らの胸に秘められた嘘呼ばわりしている事柄について最もよく御存知です。

 そして、不信仰者と信者の帰り処の解明で、章は終わります。

 「それゆえ、彼らには痛烈な懲罰という吉報を伝えなさい。ただし、信仰して善行をなした者は別である。彼らには尽きることのない報酬がある。」

 ムハンマドよ、痛ましい罰を不信仰者たちに吉報として伝えなさい、という意味ですが、吉報は元々、至福に使われ、罰には使われません。ここでの吉報は、不信仰者に対する軽蔑と嘲笑です。代わって、信仰し善行を積んだ者たちには、「尽きることのない」つまり、減ることも見返りを求められることもない報酬があります。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP66~72)


85章解説

2011年09月13日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
1. 星座を持つ天にかけて、
2. また約束された日(審判の日)にかけて、
3. また証言者と証言されるものにかけて、
4. 坑の民は滅ぼされ、
5. (つまり)燃料をくべられた火(のある坑の民は)、
6. その時、彼らはその(坑からたち上がる火の)側に座り、
7. そして彼らは彼らが信仰者たちになすこと(焚殺)に立ち会っていた。
8. そして彼らが彼ら(信仰者)を迫害したのは、ひとえに彼ら(信仰者)が威力比類なく称賛されるべきアッラーを信じたからにほかならなかった。
9. 彼にこそ諸天と地の王権が属す御方。そしてアッラーはあらゆることに対し、証言者であらせられる。
10. 信仰する男たちと信仰する女たちを試練にあわせ、その後で悔い戻らなかった者たち、彼らには火獄の懲罰があり、彼らには燃焼の懲罰がある。
11. 信仰し、善行をなした者たち、彼らには下に川々が流れる楽園がある。それは大きな成就である。
12. まことにおまえの主の捕らえ方(懲罰)は強烈である。
13. まことに、かれこそは(創造を)開始し、繰り返し(復活させ)給う御方。
14. そして、かれはよく赦し給う、博愛ならびない御方。
15. 玉座の主、寛大な御方、
16. 御望みのことをなし遂げ給う御方。
17. おまえに軍勢の話は達したか、
18. (つまり)フィルアウンとサムード(族)の。
19. いや、信仰を拒んだ者たちは(預言者やクルアーンを)嘘と否定することの中にいる、
20. そしてアッラーは彼らの背後から取り囲んでおられる。
21. いや、それは栄光あるクルアーンで、
22. 「護持された書板」の中にある。

 昔も現代にも、憎悪と盲目から生まれる宗教的迫害を原因とする悲劇よりも醜く酷い出来事はありません。

 クルアーンはイスラーム以前に起きた宗教迫害の知らせの一部分を知らせてくれています。それは、「坑の民」の物語の中にあります。その中でクルアーンは、アッラーを信仰していることを理由に先輩信仰者が受けた嫌がらせや拷問を描きました。この物語は、アッ=タバリーなどの歴史家が伝えたように次のように要約されます。ユダヤ教を信奉していたヒムヤルの王、ズー・ナワースに、ナジュラーンの民がキリスト教を信仰するようになったとの知らせが届くと、それを悪いことだと捉え、ヒムヤルとイエメンの諸部族から彼らに軍を送り込みました。ナジュラーンの民を集め、彼らにユダヤ教に入るよう呼び掛けると、彼らに死かユダヤ教に入るかの選択肢を与えたのです。人々は殺されることを選びました。軍は数々の坑を掘り、ある人々を焼き殺し、他の人々を刀で殺しました。死者は2万人に上ると言われています。

 ムスリム正伝集には、次のように要約出来る話があります:ある不信仰な王の民がアッラーを信仰するようになったため、王は彼らに坑を掘り、そこに火を点けて言いました。「元の宗教に戻る者は放っておけ。新しい信仰にどうしても留まる者は火に放り入れろ」そして多くの信仰者が焼き殺されました。

 イスラーム布教初期における宗教迫害の知らせの一つに、イスラームを信仰するようになった人たちが受けた迫害や嫌がらせを受けた人々の話もあります。その人たちに:ビラール・イブン・ラバーフというウマイヤ・イブン・ハラフの奴隷だったお方がいます。ウマイヤは昼過ぎの暑い時間になると、ビラールをマッカの砂漠に連れだして、そこに仰向けにさせ、大きな石を彼の背中に載せて、「アッラーにかけて。おまえが死ぬかムハンマドを捨ててアッラートとウッザー(偶像)を崇めるまではやめないからな」と言いました。ビラールはこのような苦しみの中、「おひとり、おひとり(つまりアッラーは、おひとりだ)」と呟くのでした。

 信仰のために苦しめられた人たちの一人に、アンマール・イブン・ヤースィルとその両親が挙げられます。マフズーム家は彼らを昼過ぎの暑い時間に彼らを外に連れ出し、非常に暑い砂の上に彼らを放り投げて苦しめました。また彼の母親は拷問のため、亡くなりました。

 彼ら以外の多くの信仰者が、暴力や空腹や渇きに遭いました。彼らのうち誰も、その受けた害の激しさのために座っていられないくらい、苦しんだのです。

 そんな暑い中、この星座章が啓示されました。この章は信仰者たちを慰め、彼らの受けた害を軽減し、彼らの心を信仰にしっかりと据え、迫害に抵抗するよう呼び掛け、信仰者を苦しめる不信仰者には来世で罰があると警告しました。

 まず、天とそこにある星座にかけた誓いの言葉で章が始まります。「星座を持つ天にかけて」この言葉で天にある素晴らしさや、それが示す創造主の偉大さと無限な御力に関心を向けさせます。この星々の創造が可能な存在は、極悪人たちを滅ぼしたり、彼らに復讐することも可能なのです。

 またアッラーは、審判の日にかけても誓い給います:「また約束された日(審判の日)にかけて」その時に、アッラーは人々の行為を清算し給います。約束された日、と言われるのは、疑いなくその日が来ることをアッラーが約束し給うたためです。

 またアッラーは、審判の日が被造物に対して行う証言と、その時に起こる恐怖にかけても誓い給います。「また証言者と証言されるものにかけて」証言者とは、金曜日で、証言されるものはアラファの日とも言われます。また、証言者は、審判の日にご自分の共同体に対して証言するムハンマド(平安と祝福あれ)であるとも言われます。

 坑の民に対する呪いの確定のために、アッラーは以上のように誓い給いました。彼らは不信であり、大地に坑(縦長の穴)を掘り、その中に火を点け、そしてその中に背教を拒む信仰者たちを投げ入れました。アッラーは仰せになります:「坑の民は滅ぼされ、(つまり)燃料をくべられた火(のある坑の民は)、その時、彼らはその(坑からたち上がる火の)側に座り、そして彼らは彼らが信仰者たちになすこと(焚殺)に立ち会っていた。」

 アッラーは信仰者に降りかかったこのような迫害を非難し、それを犯す人たちについて「坑の民は滅ぼされた」つまり、彼らは激しく呪われた、と仰せになりました。呪いとは、イブリースの場合のように、永遠にアッラーの慈悲から追放されることです。この呪いは、信仰のために信仰者を迫害し拷問する全ての人に適用されます。

 アッラーは、過去の信仰者たちが受けた迫害の原因を解明し給います:
 「そして彼らが彼ら(信仰者)を迫害したのは、ひとえに彼ら(信仰者)が威力比類なく称賛されるべきアッラーを信じたからにほかならなかった。彼にこそ諸天と地の王権が属す御方。そしてアッラーはあらゆることに対し、証言者であらせられる。」

 迫害された人たちは、「威力比類ない」つまり強く、全てを負かす「称賛されるべき」つまり被造物に対するその慈善のために称賛されるアッラーを信仰した以外に何の罪もないのです。「諸天と地の王権が属す御方」迫害者たちにはこの権力者から逃げられる場所はありません。「そしてアッラーはあらゆることに対し、証言者であらせられる」かれは被造物の行為に対する証言者であるため、報いを受ける彼らの行為のどれもアッラーに隠されることなど決してないということです。

 聖句内の「証言者」という言葉は、迫害を受けている信仰者たちを落ち着かせます。彼らはアッラーが自分たちの苦しみを御覧になっていると知ることで、感じている全ての害を忘れ、そして全ての嫌がらせは軽く見えるようになります。なぜならアッラーは遅かれ早かれ彼らのすべての苦しみに対して報奨を与え給うからです。またそこには彼らを苦しめる者たちに対する警告も同様にあります。

 これまでの聖句は、私たちの心に、拷問される信者たちに対する同情の気持ちを湧かせ、アッラーの道のために自分たちの命を犠牲にした彼らの立場を尊大に思う気持ちを湧かせると同時に、かの迫害者たちに対する怒りを持たせました。しかし出来事はここで終わったわけではありません。来世では公正な清算がそれぞれのグループを待っているのです:

 「信仰する男たちと信仰する女たちを試練にあわせ、その後で悔い戻らなかった者たち、彼らには火獄の懲罰があり、彼らには燃焼の懲罰がある。」

 つまり、信仰する男たちと信仰する女たちを、彼らの宗教から遠ざけるために苦しめ、火で焼いてその後、自らの不信から悔悟しない者たちは、彼らには来世で地獄の罰があり、その中にある燃焼の罰がある、ということです。

 続いて、アッラーの道において苦しめられた信仰者たちの報奨が解明されます:

「信仰し、善行をなした者たち、彼らには下に川々が流れる楽園がある。それは大きな成就である。」

 つまり、アッラーの唯一性を認めて、かれに仕える者たちには、来世におけるアッラーの下で、川が下を流れる園があり、これこそが偉大な成功である、ということです。

 聖句は、この全体的な意味のところで言及を停止すると、信仰者の心をいたわり、罪深い不信仰者を警告することに帰ります:「まことにおまえの主のバトゥシュ=捕らえ方(懲罰)は強烈である。まことに、かれこそは(創造を)開始し、繰り返し(復活させ)給う御方。そして、かれはよく赦し給う御方。玉座の主、寛大な御方、御望みのことをなし遂げ給う御方。」

 バトゥシュ(البطش)は:暴力を伴って捕らえる、という意味です。アッラーのバトゥシュが激しさで描写されることで、バトゥシュはさらに大きくなります。かれのバトゥシュは暴君や加害者に対するものです。彼らを懲罰と厳しい報復を伴って捕らえます。かれこそは、「開始し、繰り返し給う」御方です。つまり、創造を始め給うてそれが死んだ後、審判の日には清算のために、生きた状態に戻し給うということです。かれこそは、「博愛ならびない御方」つまり、かれに従順な者を愛し給う、ということです。アッラーの愛を得られた人間は、最高の幸福を享受したことになります。またかれは、「玉座の主」つまり、誰もかれの王権を奪うために争うことは出来ないといういみです。またかれは、「寛大な御方」つまり、寛大さと崇高さにおいて大きな余裕を持ち給うているという意味です。またかれは、「御望みのことをなし遂げ給う御方」つまり自由意思を持ち給い、お好きなものを選び、地上ではお好きなことを成し給います。そのため、信者が受けるどのような迫害も、彼らの信仰心に対する試験なのです。アッラーがかれらの援助をお望みになれば、かれの御力の前に歯向かえるものなど何もありません。以下の聖句にもある通りです:「われはおまえたちの中,努力し,耐え忍ぶ者たちを区別するためにあなたがたを試みる」(ムハンマド章31節)

 そしてアッラーが溺死させ給うたフィルアウンの民や、落雷で罰し給うたサムードの民の話を引用しながら、不信仰者と罪悪人を待ち受けている悪い結果について述べ給います:「おまえに軍勢の話は達したか、(つまり)フィルアウンとサムード(族)の」。

 つまり、ムハンマドよ、過去に存在した悪の集団の知らせが届いたか。彼らは使徒たちと預言者たちに敵対するために軍装しました。彼らは、フィルアウンとその一族や、サムードの村の人々で、自分たちの罪や背信のため、アッラーによって滅ぼされました。

 続いて、ムハンマド(平安と祝福あれ)の預言者性を嘘だとしたマッカの不信仰者たちの話でこの章は終わります:

 「いや、信仰を拒んだ者たちは(預言者やクルアーンを)嘘と否定することの中にいる、そしてアッラーは彼らの背後から取り囲んでおられる。いや、それは栄光あるクルアーンで、「護持された書板」の中にある。」

 つまり、マッカの不信仰者は、過去の共同体の不信仰者たちが蒙った出来事から何も学ばないどころか、嘘の中に居続けている。しかしアッラーは彼らを取り囲んでおられる、つまり彼らは、逃げ場所を失くした者のように、アッラーの手中にあるということです。「いや、それは栄光あるクルアーンである」つまり多くの現世と来世の益がある、作りと内容において、書物の中でも最も高位にあるということです。「「護持された書板」の中にある」つまり、アッラーの御許、天にある「護持された書板」の中にある、という意味です。「護持された書板」とは、アッラーが知り給う過去と未来の知識が保管されているところです。その実体は、人間のレベルを超えています。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP73~80)


111章解説

2011年09月03日 | ジュズ・アンマ解説

(2011/9/3訂正・加筆)
بسم الله الرحمن الرحيم
111章解説
1. アブー・ラハブの両手は滅び、また彼も滅びた。
2. 彼の富も稼ぎも、彼のためは役立たなかった。
3. やがて彼は、炎に伴なった火にくべられる。
4. 彼の妻もまた(火に焼け)、薪を運んで、
5. 彼女の首には棕櫚(しゅろ)の縄が(つけられて)ある。

 まず、アブー・ラハブについてですが、彼は預言者(平安と祝福あれ)の父方のおじで、アブドゥルウッザー・イブン・アブドゥルムッタリブといいます。両頬が燃えるように赤いため、アブー・ラハブ(火炎の父)と呼ばれていました。

 アブー・ラハブはかつて、イスラームの宣教のために各部族へ出向く預言者(平安と祝福あれ)の後をつけていました。彼(平安と祝福あれ)が「本当に私はあなたたちに送られた使徒です。」と言うと、おじである彼は甥を嘘つき呼ばわりし、人々に預言者(平安と祝福あれ)を信じさせぬようにしました。

 彼の妻である、ハルブの娘でアブー・スフヤーンの姉妹のウンム・ジャミールは夫と一緒に預言者(平安と祝福あれ)に危害を加えていました。

 アブー・ラハブは、現世で膨大な財産を手にしていることで自惚れてしまった一人でした。彼らの生活地位を脅かし、義務を彼らに果たさせるような、どのような改善運動にも反対でした。そのためアブー・ラハブは、預言者(平安と祝福あれ)との近い親戚関係にあっても、彼が呼びかけていたかのアッラーから頂いた兄弟愛と慈悲と平等を謳う使命に対する強大な敵でした。

 このスーラが下された背景として、イブン・アッバース(御満悦あれ)が次のように伝えています:「あなたの近親者に誓告しなさい。」(26章214節)が啓示された際、アッラーの使徒(平安と祝福あれ)はサファーに上り、「朝だ!」と叫びました。「誰が叫んでいるのだ?」「ムハンマドだ」そして人々は彼のもとに集まりました。彼が「~~族よ、~~族よ、アブドゥ・マナーフ族よ、アブドゥルムッタリブ族よ!」と言い、次に「この山の背後に盗賊がやってきていると知らせたならば、皆さんは信じますか?」人々は「私たちはお前が嘘をつくのを見たことがない」と言いました。次に「本当に私は皆さんを激しい罰を警告する者です。」と言うと、アブー・ラハブは「お前など滅んでしまえ。そんなことのためにわしたちを集めたのか。」と言い、彼が立ちあがるとこのスーラが下りました。このスーラはマッカで啓示されたことで意見が一致しています。

 最初の「تبَّتْ」(滅んだ)は、アブー・ラハブに対する滅びと失脚があるようにとの祈願です。「彼の両手」は、アブー・ラハブ自身を指します。第二の「تبَّ」(滅んだ)は、アッラーによってすでに彼が滅ぼされたことを指します。「ما أغنى عنه ماله」のماは動詞を否定する品詞であり、彼の富は今後臨在彼を益することはないことを指します。「稼ぎ」は彼の子供や儲けた利益や名声や追従者です。「やがて彼は、炎に伴なった火にくべられる。」は、来世で彼は燃え、さらに熱くなるために追加される火の中に入ることを指します。


 「彼の妻もまた(火に焼け)、薪を運んで」つまり、彼の妻はとげを運んでは預言者(平安と祝福あれ)の歩く道にばら撒いていたことを指します。または、自身の夫の心を腐らしたように、人々の心が預言者(平安と祝福あれ)に対して腐敗するために彼の悪口を言い触らすのに専念していたとも言われます。アラブで「薪を運ぶ者」は、悪口を言う者を指すのです。


 「
彼女の首には棕櫚(しゅろ)の縄が(つけられて)ある」クルアーンが彼女をこのように描写したのは、首に荒縄をかけて薪集めをする男のようにとげを運んでいた彼女の行為を卑しんだためです。本来首は飾り物を付けるところです。または審判の日における彼女の状態がこれであり、首には火か鉄でできた縄がかけられると言われます。

 アブー・ラハブの妻はこのスーラを聞くと、預言者(平安と祝福あれ)と一緒にマスジドにいたアブー・バクルのところへやって来て言いました:あなたの友人が私を中傷していると聞いた。今に見ていろ!と言ったところ、至高なるアッラーは彼女に預言者(平安と祝福あれ)を見られないようにし給いました。アブー・バクル(御満悦あれ)は彼女に、私と一緒に誰かいるのか見えるか?と聞いたところ、彼女は、私を馬鹿にしているの?私にはあなたしか見えない、と言いました。

 アッラーの導きから人々を散らばらせる者や、欲望に従う者、旧来の信仰に親しむ者、手にしている財産で自惚れている者に対する戒めとするため、アッラーは滅びの呪いを含んだこのスーラをアブー・ラハブ夫妻に降下しました。

 そしてアッラーの約束は遂行され、アブー・ラハブは敗北し、人々をイスラームから逸す行為は無駄となったのです。彼の名声は抹消され、後世に渡りその名は卑しめられました。そして見苦しい死に方をしたと言われます。アダサと言われる感染性の病を患い、3日後には悪臭を放つほどになりました。恥を恐れた彼の家族は、穴を掘ってそこに棒を使って彼を入れ、石で穴を埋めました。

 このスーラは、悪口に熱心に打ち込み、社会に誘惑の火を点ける女性たちが持つ人間の本能を表わしていると言えるでしょう。その例の一つが、「薪運び人」と表現されたアブー・ラハブの妻です。良く調べれば、社会と家庭に起こる多くの問題の原因が、人々が敵対し合い、嫌い合っているのを見て喜ぶある女性たちが起こしている誘惑であることが分かります。彼女らの男性に対する誘惑や話のうまさが彼女たちを大いに援助します。男性たちは彼女たちの罠に引っ掛かりそして簡単に彼女たちへの愛の虜になってしまいます。

 クルアーンの奇跡
 このスーラは、実際に起こった不可視の出来事を含んでいることで、クルアーンが神の啓示であることを示します。

 よく知られているように、預言者(平安と祝福あれ)には一定の間、イスラームの敵が多くいたにもかかわらず、彼らは時間が経つと心が柔らかくなり、彼のもとにやって来て改宗したものでした。例えば、ウマル・イブン・アルハッターブ、ハーリド・イブン・アルワリード、アムル・イブン・アルアースなどです。しかし驚くことに、クルアーンがそういった者たちから一人を選んで、永遠の不信と裁定しました。次の御言葉がそのことを確定しています:「
やがて彼は、炎に伴なった火にくべられる。」つまり、彼は死ぬまで不信仰の状態のままで過ごし、それが来世での罰を受けるのにふさわしい、ということです。


 この「アブー・ラハブは決してムスリムにはならない」という断定的な裁定は、クルアーンがアッラー以外からのものであったならば有効でなかったでしょう。アブー・ラハブが人々の前で「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」と偽りの証言をして、その直後に「お前たちのクルアーンは、わしが信仰しないために火獄に入ると言うが、ここで今わたしは信仰を公表し、アッラーの使徒が正直であることを証言した。」と言うことは十分可能です。もしこのようなことが起こっていれば、きっと人々は神の啓示であるクルアーンを疑ったことでしょう。しかし実際には、このようなことは何も起こらず、クルアーンが明らかにしたように「彼は死ぬまでムスリムにはならなかった」のです。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P192~195)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2953~2956)


112章解説

2011年09月03日 | ジュズ・アンマ解説

(2011/9/3訂正・加筆)
بسم الله الرحمن الرحيم
112章解説
1. 言え、「かれはアッラー、唯一なる御方。
2. アッラーは、自存者。
3. かれは産まず、産まれもしない。
4. かれには匹敵するもの何一つない。」

 この章は、多神教徒たちが神様とは一体どのような御方なのか表現してほしいとアッラーの使徒(平安と祝福あれ)に向けた質問に対する答えとして啓示されました。

 ムハンマドよ、アッラーについて言ってやれ。「かれはアッラー、唯一なる御方」と。彼は御自身においてもその属性においてもその行動においても崇拝されることにおいても、唯一なる御方。アッラーが唯一なる御方であることは、イスラームを構成する信仰箇条であり、アッラーによって啓示されたすべての宗教も同じようにこの信仰箇条によって構成されました。また次のアッラーの御言葉が全預言者と使徒の宣教の基礎でした。「アッラーに仕えなさい。かれの外に、あなたがたに神はないのです」(23章32節)

 アッラーの被造物に見られる跡が、かれが御一人であられることを証言してくれています。このお話を聞いてくださっている皆さん、この世界について深く考察してみてください。そして世界を覆っている規則正しさや叡智や物事の運び方をよく眺めてみてください。さまざま形や距離を違えたものたちが一つになり、調和している姿にも注意を払ってみてください。よく考えてみれば、一つの運営者からそれらが発せられているのが分かるはずです。まさに、“すべてのものに宿るしるしは、アッラーが御一人であることを示している”のです。


 御一人であられる崇高なるアッラー以外に神は存在しません。自然の力や他の被造物の力をかれと配してしまったのなら、それはとてつもなく大きな不義です。その罪の大きさは、次のアッラーの御言葉が示している通りです:「「アッラーは三(位)の一つである。」と言う者は、本当に不信心者である。」(5章73節)

 もし、アッラーにその神性において仲間がいたならば、仲間同士で世界の運行や創造や秩序において相違が起こったことでしょう。やがてこの相違は宇宙の腐敗を招き、不均衡をもたらしたはずです。アッラーは天地創造について言及し給うた直後にこのことについて仰せになられました:「もし,その(天地の)間にアッラー以外の神々があったならば,それらはきっと混乱したであろう。」(5章22節)

 崇高なるアッラーは御一人であられます。そのアッラーに仲間がいたとしたら、他の仲間は他の仲間を追い越そうとして相違が起きてしまったでしょう。そしてそれぞれは自身が創造したものを支配しようとしたでしょう。こうなるともはや宇宙は落ち着くことはなく、規則も守られなくなります。このことについてクルアーンは次のように示しています:「アッラーは子をもうけられない。またかれと一緒の外の神もない。そうであったら,それぞれの神は自分の創ったもので分裂しお互いに抜き出ようとして競い合う。アッラーに讃えあれ。(かれは)かれらの配するものを(超越される)」(23章91節)

 続いてクルアーンは、アッラーの唯一性を表わした後に「アッラーは、自存(صمد)され」という言葉でアッラーの性質を表わしました。サマド(صمد)の意味は、かれの御許しなしにはどのような事柄も遂行されることのない御方、です。かれのみが事柄の遂行者であられます。かれこそは私たちが災難や不幸で苦しんでいるときに、幸せを見出させ給う御方であり、苦悩のときの避難所であり救済者となる御方なのです。またサマドには、“他に必要とされるが、自身は何ものも必要としない”という意味があります。すべての被造物はアッラーを必要としますが、アッラーは何も必要とし給わず、自存し給います。

 私たちが苦しみにあるときにアッラーを求め、かれに避難しようとすることは、アッラーが人間に植え付けた天性の一つです。まことに各宗教の歴史やその哲学がそのことを確証しています。人間は確実に、災難に遭うと、主に帰り主を求めるものなのです。このことはクルアーンにも出てきます:「 人間は災厄に会えば主に祈り,梅悟してかれに返る。」(39章8節)

 続いてクルアーンはアッラーを描写して次のように述べます:「
かれは産まず、産まれもしない」つまり、かれから子は発生せず、かれが何かから発生したことはない、ということです。これはアラブの多神教徒たちの、天使たちはアッラーの娘であるという言葉と、ユダヤ人たちの、ウザイルはアッラーの子である、という言葉と、キリスト教徒たちの、メシアはアッラーの子であるという言葉に対する返答でした。

 もし至高なるアッラーが何かから生まれた、と仮定してみると、それは無からの発生ということになります。これでは私たちを含めた全生物と同じ立場になってしまうどころか、「かれを存在させた存在」を要するという結果にたどりつきます。この思考により、存在を与えてくれる神を必要とする存在に神性は不相応であることが分かります。

 最後にクルアーンが述べるアッラーの属性は:「
かれには匹敵するもの何一つない」つまり、かれの本質と諸属性と諸行為においてもかれの神性においても、かれと同位にあるものは存在しないということです。「かれに比べられるものは何もない。かれは全聴にして凡てを見透される方である。」(42章11節)

 多くの人たちが、想像によって創造主を描写し、理性が受け入れられない形を作りあげては迷ってしまいました。これを逆手に取った無神論者は、宗教と対立しました。

 代わってイスラームは、この問題を正し、アッラーの本質についてはっきりとした言葉をもたらしました。かれは、すべての完璧の属性を持ち給い、そしてかれは被造物が持つすべての属性から離れています。アッラーは御自身について、次のようにクルアーンの中で描写し給いました:「天と地における,(考え得られる)最高の姿は,かれに属する。かれは偉力ならびなく英明であられる。」(30章27章)

 また預言者(平安と祝福あれ)は次のように言われました:《まことにこの章は、クルアーンの三分の一に相当する》(ムスリム)

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P196~198)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2957~2960)


113章解説

2011年09月03日 | ジュズ・アンマ解説

(2011/9/3訂正・加筆)

بسم الله الرحمن الرحيم
113章解説
1. 言え、「黎明の主にご加護を乞い願う。
2. かれが創られるものの悪(災難)から、
3. 深まる夜の闇の悪(危害)から、
4. 結び目に息を吹きかける(妖術使いの)女たちの悪から、
5. また、嫉妬する者の嫉妬の悪(災厄)から。」

この章は、アッラーから預言者(平安と祝福あれ)と信徒たちへの、あらゆる恐れや悪からアッラーへ避難するようとの指導です。

マッカ啓示と言われていますが、正しくはマディーナ啓示の章です。ユダヤ人たちがマディーナで預言者(平安と祝福あれ)に魔法をかけたのがきっかけです。次に続く114章もマディーナで一緒に啓示されたと言われています:《ある夜、私にかつて見たことのないような章が啓示された。(それらは、)「言え,「梨明の主にご加護を乞い願う。」と「言え,「ご加護を乞い願う,人間の主」である。》(ムスリム、アッ=ティルミズィー、アン=ナサーイー他)

この章が啓示された背景を見てみましょう。真正ハディースに述べられたように、アーイシャ(御満悦あれ)によって伝えられた、ラビード・イブン・アル=アウサムというユダヤ人がアッラーの使徒(平安と祝福あれ)に魔法をかけた話の中にそれは見出せます。この男の娘である「結び目に息を吹きかける(妖術使いの)女たち」がアッラーの使徒(平安と祝福あれ)に11個の結び目で魔法を実際にかけたところ、アッラーは結び目と同数の11節の章である、ムアッワザターン(二つの加護を求める章、つまり113と114章)を啓示し給いました。その後預言者(平安と祝福あれ)は回復したということです。ここで、現代の学者の中に、この話をユダヤ人が人々に預言者(平安と祝福あれ)に対して疑いを持たせるためにねつ造したものだとする見解を持つ者がいることも付け加えておきます。その根拠は、「アッラーは,(危害をなす)人びとからあなたを守護なされる。」(5章67節)、「本当にわれは,嘲笑する者に対し,あなたを十分に守ってやる。 」(15章95節)です。

まずこの章は、「言え、「黎明の主にご加護を乞い願う」の言葉で始まっていますが、ファラク(فلق)は「黎明」の他にいくつか別の意味があります。何かが割れることや、何かからはっきりと現われることなど。黎明と呼ばれるのは、夜から朝が生まれる様子が由来であると言われます。「かれは、夜明けを打ち開く御方」(6章96節)他に、ファラクは被造物すべてや、すべての存在という意味を持つとも言われています。それらすべては、無という覆いの中に隠れていましたが、アッラーはそこから創造によって被造物の姿を現せ給いました。「穀粒や堅い種子を裂き開くのは、本当にアッラーである。」(6章95節)アッラーは枯れた種にひびを入れ給い、そこから緑色の草を生えさせ給い、固い種子を割り給い、そこから大きな木を生えさせ給うのです。

クルアーンは私たちに、黎明の主、もしくは万物の主に避難することを教えてくれます。「かれが創られるものの悪(災難)から」つまり、アッラーが作り給うたあらゆる悪から、ということです。この簡潔に表わされた節は、この世界に起こり得るすべての悪を描写しています。

「深まる夜の闇の悪(危害)から」は、暗くなる夜の悪を指しています。夜というものは、恐怖と震えが備わっているものですが、夜に起こると思われる盗難や事件といった出来事への恐れを多くの人に植え付けます。他に、危害を加える猛獣や毒を持つ虫への恐怖も含まれるでしょう。特に田舎などに滞在する人たちのそれらに対する恐怖はさらに大きなものです。そこで至高なるアッラーは、自己防衛のための準備を十分にしたうえで、アッラーに逃げ場を求めること、つまり自身の心をアッラーにゆだねることを信徒たちに命じ給いました。

「結び目に息を吹きかける(妖術使いの)女たちの悪から」の女たちは、魔法使いだと言われています。その理由は、魔法使いは危害を加えたい相手に呪文を唱える際、糸を使うのですが、それを結びながら魔法が成立するために、結び目に唾を吐きかけていくからです。魔法は悪魔によって指導されるものだとクルアーンの中で述べられています。

「また、嫉妬する者の嫉妬の悪(災厄)から」の言葉でアッラーはこの章を結び給います。嫉妬(حسد)は、他人が享受している恩恵が消え去ることを望む感情です。しかしその恩恵が無くなってしまうよう望まず、それと同じようなものが自分にもあればと望むことは嫉妬ではありません。それが服従行為であれば、より好ましいものです。イスラームにおける合法な二種類の嫉妬は、預言者(平安と祝福あれ)が次にお示しになったとおりです:《嫉妬は二つしかない。アッラーが財産を与え給い、真実においてそれを消費する権力を与えられた者と、アッラーが叡智を与え給い、それによって裁定し、それを教える者。》(アル=ブハーリー)

実はこの嫉妬が、天と地でアッラーに対して犯された最初の罪なのです。イブリースはかつて天上でアーダムに大きく嫉妬しました。彼の嫉妬は、アッラーによる「アーダムにサジダ(跪拝)する」という命令に背かせるほどのものでした。「彼(イブリース)は言った。「あなたが泥で創られた者に、どうしてサジダしましょうか。」」(17章61節)とクルアーンにあります。ここでのサジダは、崇拝的な意味を持たない、敬意を表するものです。そこでアッラーはイブリースを天国から追放し給い、審判の日まで続く呪いを彼にかけ給うたのです。代わって地上で起こった最初の嫉妬は、カービールがハービール(両人とも最初のの人間であり預言者であったアーダムの子。)に対して抱いたものです。ハービールを殺害させるほど激かった彼の嫉妬の原因は、アッラーが彼の供え物は嘉納し給わず、兄弟であるハービールの供え物を嘉納し給うたためです。

この章は、人間を「恐怖」からの解放へ導いてくれています。心理学でも理解されているように、「恐怖」は精神と身体に破壊的な影響を与えます。人々に「恐怖」が覆いかぶさると、彼らのモチベーションは低下してしまい、自信もなくなってしまいます。以上は精神に与える影響についてですが、「恐怖」が身体に与える影響に次のようなものがあります。心拍数の増加、筋肉の不安定による影響は胃にもおよび、痛みとなって現れます。また震えと虚弱感が生まれます。

至高なるアッラーは、かれに避難することで、人間から恐怖心を取り除きたいと望み給いました。誰でも、全被造物の主であるアッラーに避難する人は、すべての悪からかれに守ってもらえ、恐怖を取り除いてもらえるでしょう。そしてしっかり力強く生きるために十分な落ち着きと自信をアッラーに与えてもらえるでしょう。

またこの章は、悪口を言って歩いては社会にひびを入れる腐敗した者、他人に害を望む嫉妬する者たちに対する反抗と、そして彼らの望みが達成されることがないことを暗示しています。アッラーに対するイスティアーザ(加護を求める)は、このような者たちの害から身を守る手段をとる行動でもあるのです。

預言者(平安と祝福あれ)はこの章などを繰り返しお読みになっていたと、アル=ブハーリーが出典したアーイシャ(御満悦あれ)が伝えたハディースにあります。《預言者(平安と祝福あれ)はかつて、毎晩寝床に赴かれる際、合わせた両手に息を吹きかけ、「言え,「かれはアッラー,唯一なる御方であられる。(112章)」と「言え,「梨明の主にご加護を乞い願う。(113章)」と「言え,「ご加護を乞い願う,人間の主(114章)」をお読みになり、その両手で届く限りの体の各部分をお撫でになったが、まずは頭、顔、体に続く部分から始められ、三回同じことをされた。》

参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P199~202)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2961~2963)

③ファトゥフ・アル=バーリー、シャラフ・サヒーフ・アル=ブハーリー/イブン・ハジャル・アル=アスカラーニー(第一巻、http://www.muhaddith.org/cgi-bin/dspl_cgi.exe/form)