イスラーム勉強会ブログ

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67章解説【5】

2014年12月12日 | ジュズ・タバーラカ解説
25.すると彼らは言う、「その(復活の日の)約束はいつか、おまえたちが真実を語る者であるなら(日時を示せ)」。
26.言え、「その知識はアッラーの御許にのみある。そして私は明白な警告者にすぎない」。
27.それで、彼らがそれ(懲罰)を間近に見るや、信仰を拒んだ者たちの顔は曇った。そして、言われた、「これが、おまえたちがそれについて(そんなものは無いと)主張していたものである」と。
28.言え、「おまえたちは見て考えたか、もしアッラーが私と私と共にいる者を滅ぼし給うたとして、あるいはわれらに慈悲をかけ給うたとして。そうであれば、誰が不信仰者たちを痛苦の懲罰から護る(という)のか」。
29.言え、彼こそは慈悲あまねき御方。われらは彼を信じ、彼に一任した。そしていずれおまえたちは誰が明白な迷誤の中にいるのかを知るであろう。
30.言え、「おまえたちは見て考えたか、もしおまえたちの水が(地中に)しみ込んでしまったならば、誰が湧き出る水をおまえたちにもたらすか」。

そして不信仰者たちの復活と清算がいつなのかとの問いに、クルアーンはそれに関する知識はアッラーおひとりのみに属していること、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)の使命は不信仰の報いが彼らにあると警告すること、アッラーの聖法の解明であると答えます:

「すると彼らは言う、「その(復活の日の)約束はいつか、おまえたちが真実を語る者であるなら(日時を示せ)」。言え、「その知識はアッラーの御許にのみある。そして私は明白な警告者にすぎない」」

続いてアッラーは、復活と清算が起こる時の不信仰者たちの状態がどのようなものであるかを解明し給います:

「それで、彼らがそれ(懲罰)を間近に見るや、信仰を拒んだ者たちの顔は曇った。そして、言われた、「これが、おまえたちがそれについて(そんなものは無いと)主張していたものである」と。」

不信仰者たちが懲罰を間近に見る時、その光景は彼らを苦しめ、彼らの顔を落胆と屈辱が覆います。その時、彼らの行為を非難する声で彼らは呼びかけられます:これこそがおまえたちが「それについて(そんなものは無いと)主張していたもの」である、と。つまり現世でおまえたちはそれを要求し、早急に実現させろと否定・嘲笑していた。

また不信仰者たちは、この(イスラームへの)誘いにうんざりしていたので、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)と彼と共にいる信仰者たちが滅んでしまえばいいのにとの願望を持っていました。そこでアッラーは預言者(アッラーの祝福と平安あれ)に彼らの望みに対して次の言葉で応えるよう命じ給いました:

「言え、「おまえたちは見て考えたか、もしアッラーが私と私と共にいる者を滅ぼし給うたとして、あるいはわれらに慈悲をかけ給うたとして。そうであれば、誰が不信仰者たちを痛苦の懲罰から護る(という)のか」。」

さあ、使徒よ、彼らに言え:おまえたちが望むように、アッラーが私と私と共にいる信仰者たちを死なせ給うか慈悲をかけ給うたことでわれわれの寿命を延ばし給うたり彼の懲罰からわれわれを護り給うた場合、「誰が不信仰者たちを痛苦の懲罰から護る(という)のか」誰が不信仰者たちを彼らの不信仰に相応しい痛ましい懲罰から護ってくれるのか。いずれにせよ、アッラーがわれわれを罰し給うても慈悲をかけ給うても、おまえたちには審判の日の彼の痛ましい懲罰を回避できないのである。

またアッラーは使徒に不信仰に言えと仰せになります:
「言え、彼こそは慈悲あまねき御方。われらは彼を信じ、彼に一任した。そしていずれおまえたちは誰が明白な迷誤の中にいるのかを知るであろう。」

ムハンマドよ、彼らに言え:あらゆるものがその慈悲に覆われ、彼おひとりをわれわれが信仰するアッラーにわれわれの諸事を一任した。それゆえ、不信仰者たちよ、おまえたちに懲罰が下る時には、二集団のうち、どちらが明白な迷いの中にいるのかを知ることになるだろう。

最後に、不信仰者たちに呼びかける形で彼らに対するアッラーの恩恵を解明する聖句でこの章は締めくくられます。この地球の命の源である水は、彼らの見えるところや彼らの手の届くところで流れているのです:

「言え、「おまえたちは見て考えたか、もしおまえたちの水が(地中に)しみ込んでしまったならば、誰が湧き出る水をおまえたちにもたらすか」。」

使徒よ、彼らに言え:おまえたちの水が大地にしみ込んで手の届かないものとなってしまったら、アッラー以外の誰が水を欲するすべての者の手元まで湧き出させてくれるのか。

なんとアッラーの人間に対する恩恵の大きいことでしょう。そしてなんと創造主に対する頑なな不信仰の酷いことでしょう。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP22〜23)

67章解説【4】

2014年11月28日 | ジュズ・タバーラカ解説
19.それとも彼らは彼らの上に(翼を)広げては畳む鳥の方を見たことがないのか。それらを(空中に)把持するのは慈悲あまねき御方のほかにない。まことに彼はすべてのことについて見通し給う御方。
20.いや、誰がその者、(つまり)慈悲あまねき御方を差し置いておまえたちを援けるおまえたちのための軍隊である者だ(というの)か。不信仰者たちはまやかしの中にいるに他ならない。
21.いや、誰がその者、(つまり)おまえたちに糧を与える者である(というの)か。いや、彼らは高慢と(真理)の忌避に固執した。
22.己の顔をうつ伏せにして歩く者がより導かれているのか、それとも真っすぐな道の上を姿勢良く歩く者がか。
23.言え、「彼こそはおまえたちを創生し、そしておまえたちに聴覚と視覚と心を作り給うた御方。わずかにしかおまえたちは感謝しない」。
24.言え、「彼こそはおまえたちを大地に撒き散らし、(増やし)給う御方であり、そして彼の御許におまえたちは追い集められる」。

不信仰者に向けられた脅迫の御言葉の後の続くのは、鳥の創造に顕在するアッラーの御力について観察、熟考を促す御言葉です:
「それとも彼らは彼らの上に(翼を)広げては畳む鳥の方を見たことがないのか。それらを(空中に)把持するのは慈悲あまねき御方のほかにない。まことに彼はすべてのことについて見通し給う御方。」

ムハンマドよ、彼らは彼らの上を飛んでいる鳥たちを見たことがないのか。鳥たちは翼を「広げては」つまり空中を飛ぶ際、その翼を広げることで、風に乗ります。「畳む」は、翼を広げた後に、翼を閉じることです。それは、降りようとするときと、上方へ飛ぼうとするときに行われます。「まことに彼はすべてのことについて見通し給う御方」まことにアッラーは、視覚と熟知の主であり、彼の計画に欠陥が起こることはない、という意味です。

鳥には、多くの種類が存在しており、凶暴なものもいれば、その逆もいます。また見た目の美しいもの、美しくさえずるもの、叫ぶもの、首や嘴が長いもの。羽の相違、色の相違、驚くほど美しい模様を持つもの。以上は、アッラーの御力の素晴らしさを示しているといえるでしょう。

次に、不信仰者の行動を非難するかたちで彼らに語りかけます:
「いや、誰がその者、(つまり)慈悲あまねき御方を差し置いておまえたちを援けるおまえたちのための軍隊である者だ(というの)か。不信仰者たちはまやかしの中にいるに他ならない。いや、誰がその者、(つまり)おまえたちに糧を与える者である(というの)か。いや、彼らは高慢と(真理)の忌避に固執した。」

かつて預言者(アッラーの祝福と平安あれ)が不信仰者たちをアッラーの懲罰があることで脅迫すると、彼らはいつも自分たちの力を言及し、自分たちの軍隊の支持に傾倒しました。そこで至高なる御方はおっしゃいました:おまえたちを援け、アッラーの懲罰から守ってくれる軍隊とは誰か。「不信仰者たちはまやかしの中にいるに他ならない。」つまり、アッラーに忘恩である者は、欺き、アッラーの懲罰から守ってくれるとの不正な思い込みの中にいる他にない。「いや、誰がその者、(つまり)おまえたちに糧を与える者である(というの)か。」アッラーが糧の原因である降雨などの供給を止め給うたときにおまえたちに糧を与えてくれる者は誰なのか。「いや、彼らは高慢と(真理)の忌避に固執した。」いや、彼らは引き続き、不正をなし、真理から遠のき続けた。

真実が後、誰が最も良い状態にあるのでしょうか?信仰者か、それとも不信仰者か:
「己の顔をうつ伏せにして歩く者がより導かれているのか、それとも真っすぐな道の上を姿勢良く歩く者がか。」

顔をうつ伏せにしている者とは、転びそうになりながら歩く者とも言えます。なぜなら前が見えないためか、道にある欠陥のためです。不信仰者はこのような状態にあり、迷いと心理から遠のいた道を選んだために滑りから身を守れずつまづきながら歩くのです。代わって信仰者は、姿勢良く、足取りよく、己の歩く道をしっかり見ながら歩きます。転ぶことから安全に、曲がった所のない真っすぐな道を歩きます。なぜなら信仰と導きと心理の道を選んだからです。

またアッラーは、人間に対する彼の恩恵を解明し給います。彼こそが人間を創り、聴覚と視覚と理性を人間に与え給うたことと、そのことをアッラーに感謝する人間は少ないことです:
「言え、「彼こそはおまえたちを創生し、そしておまえたちに聴覚と視覚と心を作り給うた御方。わずかにしかおまえたちは感謝しない」。」

この聖句に登場する、聴覚、視覚、心の順番は、これらの遂行の順番となっています。まず聴覚は、生後数週間の子どもに始まります。視覚は生後三ヶ月で始まり、心、つまり自覚と判断する力は、これらの後にならないと完結しません。

また、創造と繁殖もアッラーから人間への恩恵です:
「言え、「彼こそはおまえたちを大地に撒き散らし、(増やし)給う御方であり、そして彼の御許におまえたちは追い集められる」。」

つまりアッラーは人間を創り、増やし給うた御方です。人間への恩恵の対象になっているのは、まさに創造と繁殖です。もしアッラーが人類を創り給うて、成長と繁殖の特性を定め給うていなかったなら、人類は惨事をきっかけに消えてしまう存在であったことでしょう。また死後の帰りどころがアッラーおひとりであることもいわれます:「そして彼の御許におまえたちは追い集められる」清算のために審判の日に人々が集められることをいいます。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP20~22)

67章【3】解説

2014年11月14日 | ジュズ・タバーラカ解説
13.そして、おまえたちは言葉を秘めるなり、表すなりするがいい。まことに、彼は胸中にあるものについてよく知り給う御方。
14.創造し給うた御方が(秘密と公然を)知り給わないことがあろうか、彼は緻密にして、通暁し給う御方であらせられるというのに。
15.彼こそはおまえたちに大地を低く(耕し、歩き易く)し給うた御方。それゆえ、その方々を歩き、彼(アッラー)の(援け給うた)糧を食べよ。そして彼の御許にこそ復活はある。
16.おまえたちは天におわします御方から安全なのか、(つまり)彼が大地におまえたちを呑み込ませ給い、すると途端に、それが波立つことから。
17.それとも、おまえたちは天におわします御方から安全なのか、(つまり)彼がおまえたちに小石をまき散らす強風を送り給うことから。それでいずれおまえたちはわが警告がいかなるものかを知るであろう。
18.そして彼ら(マッカの多神教徒)以前の者たちもかつて嘘と否定した。それでわが峻拒(しゅんきょ)がいかなるものであったか。

かつて、ある不信仰者たちが預言者(アッラーの祝福と平安あれ)に敵対することで話し合っていました。彼らはお互いに、「ムハンマドの主(つまりアッラー)に聞こえないように隠れて話せ」と言っていました。そこでアッラーは彼らに仰せになりました:おまえたちが話すことを秘めても公にしても、まことにアッラーはおまえたちの内部にあることを、それがおまえたちの舌によって暴かれる前から御存知である。

アッラーが人間の秘密や心に秘めるものを御存知であることについてクルアーンが知らせているところが意味するのはつまり、人間の心にアッラーに対する畏敬の念を植え付けたり、あらゆる罪を心から追い払うことはアッラーがお決めになることである、ということです。そのため人間はどんなにその罪業を隠そうとしても、その一つもアッラーに隠されることはないのです。

続いてクルアーンは、アッラーの御知識がさまざまなものに及んでいることを示す論理的根拠を出します:「創造し給うた御方が(秘密と公然を)知り給わないことがあろうか、彼は緻密にして、通暁し給う御方であらせられるというのに。」生物を創造し給うた至高なるアッラーこそが、疑いなく、より御存知であられる、という意味です。これは、アッラーの御知識が全てに及んでいることに関する建設的・論理的・驚異的根拠です。また自動車や時計を作る者はその詳細やそれらの各部が担っている働きについて知っているものです。生き物を創り給うた至高なるアッラーはそれらの創造主である故にそれらについてよく御存知であるのです。また彼は、「緻密にして、通暁し給う御方であらせられる」つまりものごとの詳細を知り給い、それらの諸真実に通暁し給うているという意味です。

次にクルアーンはアッラーの被造物たちに対する思いやりや恩恵の解明に移ります:
「彼こそはおまえたちに大地を低く(耕し、歩き易く)し給うた御方。それゆえ、その方々を歩き、彼(アッラー)の(援け給うた)糧を食べよ。そして彼の御許にこそ復活はある」アッラーは大地を「低い」と形容し給いましたが、おまえたちに対して従順である、という意味です。人間に対する大地の従順さはすべての時代にある自然現象ですが、現代においてはそれが顕著に表れています。人間は大地をその利益のために利用してきましたが、大地から得られる利益の活用を放棄することはけしてありませんでした。それはつまり人間が利益を得るために大地を征服している、ということは、至高なるアッラーが人間のために大地を従順なものとすることでの恩恵とし給うたことの確証なのです。

「それゆえ、その方々を歩き、彼(アッラー)の(援け給うた)糧を食べよ」の意図するところは、大地の方々、隅々、山々を歩き、アッラーがおまえたちのために大地から出し給うた糧を食べなさい、です。このクルアーンによる指導は、糧を得るために大地を歩くこと、そして無関心と怠慢に依存しないことを人々にせき立てます。他には、「アッラーの糧」という表現には、生活の構成要素は全ての人間の手元に十分備わっているべきであるので、誰もそれを独占してはならないことの強調の意味があります。「そして彼の御許にこそ復活はある」審判の日には清算のためにおまえたちは生きて墓からアッラーの御許へ行く、という意味です。

人々にアッラーの彼らに対する恩恵に関する解明が終わった後は、不信仰に対する懲罰の警告に戻ります。利用に適した扱いやすい大地は、反抗する馬のように不安定になって人々を呑みこむかもしれません。アッラーは仰せです:

「おまえたちは天におわします御方から安全なのか、(つまり)彼が大地におまえたちを呑み込ませ給い、すると途端に、それが波立つことから。」

おまえたちは安全であるから、天におします御方の御力、権力、玉座つまりアッラーを恐れないのか、という意味です。アッラーの支配は大地に及んでいるのにここで天のみが言及されたのは、大地で崇められている偶像ではなく、天にてその御力を行使し給うているのが本物の神であるとの指摘のためです。他に次のようにも解釈できます:天におわします御方である創造主が「大地におまえたちを呑み込ませ給」うことから安全なのか。つまり大地が彼らをそれに染み込ませ、その中に消し去ることから。「すると途端に、それが波立つことから」その行き来において荒れる。

懲罰は、大地が人々を呑み込むことだけに留まらず、他にもあります:
「それとも、おまえたちは天におわします御方から安全なのか、(つまり)彼がおまえたちに小石をまき散らす強風を送り給うことから。それでいずれおまえたちはわが警告がいかなるものかを知るであろう。」

至高なるアッラーがその権力で「小石(ハースィブ)」をまき散らさないから安全なのか。ハースィブ:ロトの民に振ったような天からの小石または小石を引き抜くほどの強い風。「それでいずれおまえたちはわが警告がいかなるものかを知るであろう」不信仰者たちよ、いずれおまえたちが懲罰に見舞われる際にわれのおまえたちに対する警告の真実が現れるだろう。

そしてクルアーンは、使徒を嘘つき呼ばわりしてしまったために過去の諸共同体が被った出来事を例として示します:
「そして彼ら(マッカの多神教徒)以前の者たちもかつて嘘と否定した。それでわが峻拒(しゅんきょ)がいかなるものであったか。」

おまえの民が生まれる前に存在していた者たちは自分らの使徒を嘘つき呼ばわりしたのだ、ムハンマドよ。そこで彼らに懲罰を下すことでのわれの彼らに対する拒絶がいかがなものであったか、という意味です。まことに崩壊と滅亡の跡はこの懲罰を物語っています。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP15~17)

67章解説【2】

2014年10月23日 | ジュズ・タバーラカ解説
6.また、己の主への信仰を拒んだ者たちには火獄の懲罰がある。またなんと悪い行き着く先であることよ。
7.彼らがそこ(火獄)に投げ込まれた時、彼らは、煮えたぎるその咆哮(ほうこう)を聞いた。
8.それは激怒から破裂せんばかりである。そこに一団が投げ込まれる度、門番たちが彼らに尋ねた。「おまえたちに警告者は来なかったのか」。
9.彼らは言った。「いや、その通り。確かにわれらには警告者が来たが、われらは嘘と否定し、そして言った、『アッラーはなにも下し給わない。おまえたちは大きな迷誤のうちにあるにほかならない』」。
10.また彼らは言った。「もしわれらが聞き、悟っていたなら、烈火の輩の中にはいなかったものを」。
11.そうして彼らは己の罪を認めた。それゆえ、烈火の輩は(アッラーの慈悲から)遠ざけられよ。
12.まことに己の主を見えないところで懼れる者たち、彼らには御赦しと大きな報酬がある。

続いてクルアーンは、アッラーが不信仰者たちに準備し給うた来世での懲罰を解明します:
「また、己の主への信仰を拒んだ者たちには火獄の懲罰がある。またなんと悪い行き着く先であることよ。彼らがそこ(火獄)に投げ込まれた時、彼らは、煮えたぎるその咆哮(ほうこう)を聞いた。それは激怒から破裂せんばかりである。そこに一団が投げ込まれる度、門番たちが彼らに尋ねた。「おまえたちに警告者は来なかったのか」。」

不信仰者には火獄の懲罰と悪い行き着き先があります。彼らが火獄に投げ込まれる時、火獄は彼らを憤激と重度の苦しみで彼らを受け入れます。また彼らは火獄から「咆哮(ほうこう)」を聞きますが、それは、火獄が燃えたぎるあまりに出ている醜い音です。「煮えたぎる」火獄はそこに入る者たちによって煮えたぎりますが、ちょうど鍋に入っているものが煮えるように。「それは激怒から破裂せんばかりである」火獄がそこに入る人たちに対する激しい怒りが原因で破裂して方々に散らばってしまいそうな様子です。「そこに一団が投げ込まれる度」火の中に不信仰者の集団が投げ込まれるたびに。「門番たちが彼らに尋ねた」懲罰の天使が叱責と非難をもって質問します。「おまえたちに警告者は来なかったのか」つまりアッラーの許からおまえたちに使徒が来て、彼の懲罰があると警告し、脅さなかったのか、と。その時、クルアーンが言及しているように、不信仰者たちが答えます:

「彼らは言った。「いや、その通り。確かにわれらには警告者が来たが、われらは嘘と否定し、そして言った、『アッラーはなにも下し給わない。おまえたちは大きな迷誤のうちにあるにほかならない』」。」

不信仰者たちは自分たちがアッラーの使徒たちを嘘つき呼ばわりして、彼らに啓示があったことを認めませんでした。それだけでなく、使徒たちは真理と正道から遠く離れていると非難したのです。

この彼らの自白は、アッラーの正義の証明です。アッラーは使徒を送るまで、民を罰することは絶対ないのです。クルアーンには次のようにも述べられています:「そしてわれらは、使徒を遣わすまで懲罰を下す者ではない」。(夜行章15節)

そして不信仰者たちは、自分たちを火獄の懲罰に導いた原因を言いながら、自白を続けます:
「また彼らは言った。「もしわれらが聞き、悟っていたなら、烈火の輩の中にはいなかったものを」」

不信仰者たちは火獄を任されている天使たちに言います:もしわれらが、真実を求めてそれに従う者のように従い、導きと迷いの区別を悟る者のように悟っていれば、信じ、火獄の民として数えられる存在になることはなかっただろう。彼らはこのように話すことで自分たちの罪を認めたのです。「それゆえ、烈火の輩は(アッラーの慈悲から)遠ざけられよ」つまり火獄の民はアッラーの慈悲から遠ざけられよ。

もしこの不信仰者たちが自分たちの理性をコントロールしていれば、このような不幸な結末を迎えることはなかったでしょう。これはクルアーンによる理性の賛辞であるのですが、イスラーム法の責任を課す対象が理性であり、健全な理性は人をアッラーへの信仰と、彼の定め給うた法の上を歩くことへと導いてくれるためです。

続いて信仰者が来世で行きつくところについての解明がなされます:
「まことに己の主を見えないところで懼れる者たち、彼らには御赦しと大きな報酬がある。」

懼れとは、称賛と称揚が混ざった恐れの気持ちです。それは、見えないアッラーを見ることなく信仰して彼に仕えようとすること、または罰が見えないにもかかわらずアッラーの懲罰を恐れること、または人々の視線から隠れている独りでいる時にアッラーを恐れること、です。クルアーンは以上全ての意味合いを含んでいます。彼らには彼らの罪の赦しと楽園である大きな報酬があります。彼らの秘密も公然も御存知である御方をなぜ恐れないというのでしょう?

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP13~14)

68章解説【5】

2014年09月19日 | ジュズ・タバーラカ解説
48.それゆえおまえは、おまえの主の裁決に忍耐し、打ちのめされて(アッラーに祈り)呼びかけた時の「大魚の友(ユーヌス)」のようになってはならない。
49.もし彼の主からの恩顧が彼に達しなければ、彼は叱責を受け、不毛の地に投げ捨てられたであろう。
50.だが、彼の主は彼を選び、義人たち(の一人)となし給うた。
51.そしてまことに、信仰を拒んだ者たちは訓戒(クルアーン)を聞くと、彼らの目でおまえを射落とさんばかりにし(睨み)、そして「彼は狂人である」と言う。
52.だが、これ(クルアーン)は諸世界への訓戒にほかならない。

以上で、嘘つき呼ばわりする者たちを黙らせることで彼らとの話は終了します。後に残っているのは預言者(アッラーの祝福と平安あれ)の心を強化すること、そしてアッラーへの誘いという任務において忍耐するようにとの彼への呼びかけ、預言者ユーヌスがなしてしまったように自分の民を放置してしまわないことだけです。アッラーは預言者ユーヌスに報いとして、想像できないような困難と恐怖を彼に与え給うたのですが、預言者ムハンマドも彼のように主の許しなしに自分の民を放置すれば、同じ状態に陥ってしまうでしょう。

至高なる御方は仰せです:
「それゆえおまえは、おまえの主の裁決に忍耐し、打ちのめされて(アッラーに祈り)呼びかけた時の「大魚の友(ユーヌス)」のようになってはならない。もし彼の主からの恩顧が彼に達しなければ、彼は叱責を受け、不毛の地に投げ捨てられたであろう。だが、彼の主は彼を選び、義人たち(の一人)となし給うた。」

ムハンマドよ、おまえの主が定め給うたことやおまえのことやあの多神教徒たちに決め給うたことに忍耐し、おまえの主が命じ給うたことへ赴け。述べ伝えるよう命じられたことを広めることについては言うまでもない。そして「大魚の友」つまりユーヌス(彼に平安あれ)の状態になってはならない。つまり彼のように急いだり怒ったりすれば、大魚の腹の中にアッラーが閉じ込めてしまったように、おまえが民を導くことを放棄したことに主がおまえを罰し給うだろうから、そんなことはしてはならない、という意味です。「呼びかけた時」己の罪を認めたユーヌスが大魚の腹の中から助けを主に求めた時。彼は、「打ちのめされて」苦悩に満ちて。「もし彼の主からの恩顧が彼に達しなければ」もし主の恩顧が彼に届いて、主が彼に慈悲をかけ、彼を赦し給わなければ。「彼は叱責を受け、不毛の地に投げ捨てられたであろう」民に対する小さすぎた忍耐と彼らからの逃避という罪に対する叱責と非難を受けながら木の生えていない荒野に投げ捨てられただろうが、彼は悔悟したため叱責され続けなかった。「彼の主は彼を選び、義人たち(の一人)となし給うた」アッラーは彼を選び給い、健全さにおける義人とし、彼を全ての悪から守り給うた。

以上は、ユーヌス(彼に平安あれ)の物語でした。クルアーンは数々の章の中で訓戒を示すためにこの物語を述べています。ここではクルアーン中に登場する物語の要約を読んでみましょう。

ユーヌス(彼に平安あれ)の物語:
ユーヌス(彼に平安あれ)はアッラーの御使いたちの一人で、至高なるアッラーは彼をイラクのモスル近郊にあるナイナワーの民に送りました。偶像を崇め、さまざまな罪を犯していたかの民をユーヌスはアッラーへの信仰と己の罪からの悔悟へと誘いました。しかし、彼らは自分たちのやり方に固執して、ユーヌスの呼びかけに応えようとしませんでした。そんな彼らにユーヌスは、「しばらくすれば罰が下るだろう」ことを彼らに警告しました。ユーヌスは自分が負っていた責任をこれですべて全うし、アッラーに命じられていた任務を果たしたと考えました。そしてユーヌスは、自分に従わず、また不信仰に固執する自分の民に怒りを抱きながら町を後にしました。ユーヌスは、アッラーがこの行為を御咎めになることはないだろうとの考えから、アッラーの許可を得ずに町を放棄したのでした。そしてユーヌスは浜辺に着くまで進み続けました。そこには旅立とうとしている船が一隻。ユーヌスは乗り人たちに頼んで一緒に乗せてもらいました。

船は出発し、広い海へと進んで行きました。しかし風が強くなり、そのため波は大きく波打つので船は沈みそうになりました。恐怖に陥った船に乗った人たちは一斉に言いました:われわれの中に罪人が一人いるぞ、と。人々は話し合って、くじ引きでくじを引いた人を船から海に投げ出すことに決めました。そしてこのくじを引いたのはアッラーの御使いであるユーヌスでした。海に投げ出されたユーヌスに、アッラーは彼を飲み込む大魚を送り給いました。(※クルアーンはユーヌスが送られた土地の名や船に乗ってそこからくじ引きの結果投げ出されたことに言及していない。啓典の民の啓典からの抜粋。)

アッラーはユーヌスが傷つくことを望み給わなかったので、ユーヌスは大魚の腹の中で数日間過ごしました。彼は腹の中にいる間、主に懇願し、自分が間違っていたことを認めながら、主を讃え続けて、暗闇-夜と海と大魚の腹の中の暗闇の中で主に援けを求めながら-中で呼びかけました:「あなたのほかに神はありません。称えあれ、あなたこそ超越者。まことに私は不正なものたち(の一人)でした」(21:87)アッラーは彼の祈りを聞き入れ、彼の悔悟を受け入れ、大魚にユーヌスを荒れた大地に吐き出すよう命じ給いました。

アッラーは、大魚の腹から出て病んでいたユーヌスの近くにカボチャを生やし給いました。その葉で出来た陰はユーヌスを太陽の熱さから守りました。ユーヌスが元気になるまで、しばらくの時間が流れました。アッラーは回復したユーヌスに別れを告げたはずの民のところに戻るよう命じ給いました。ユーヌスが去った後、彼が予告していた罰の前兆が現れ始めたため罰が確実に起こることを人々は思い知りました。そんな彼らの心に悔悟の念をアッラーが投げかけ給うたことにより、人々はアッラーに懇願しました。そしてアッラーはその御慈悲と御優しさによって彼らから罰を取り去りたまいました。戻ってきたユーヌスは、10万人以上の民を信仰へと誘い、アッラーからの命令を全うしました。そして人々は導かれ、アッラーは幸せな生活を彼らに授け給いました。

次に、章の締めくくりに移りましょう。アッラーはムハンマド(アッラーの祝福と平安あれ)に話しかけ給います:
「そしてまことに、信仰を拒んだ者たちは訓戒(クルアーン)を聞くと、彼らの目でおまえを射落とさんばかりにし(睨み)、そして「彼は狂人である」と言う。だが、これ(クルアーン)は諸世界への訓戒にほかならない。」

意味:本当に不信仰者たちはおまえを敵対心と嫌悪感に満ちた目線で睨んで来るが、おまえがアッラーからのメッセージを述べ伝えることでアッラーからおまえに与えられた地位からまるでおまえをずり落そうとしているかのようだ。「訓戒(クルアーン)を聞くと」彼らがクルアーンを聞いたり、彼らにクルアーンが読まれたりすると、彼らは預言者を描写して、「彼は狂人である」と言う。預言者の正体に当惑し、また彼を避けようとしながら。けれども彼らは彼が最も理性を持った人物であることを知っている。

しかしアッラーは、クルアーンがすべての人間のための訓戒であると彼らに答え給います。「だが、これ(クルアーン)は諸世界への訓戒にほかならない」この節は、クルアーンが神の啓示であって、ムハンマドが作ったものではないことを示す最も重要な根拠です。もしそうでないなら、自分たちの信仰のせいで迫害を受け耐えている少人数の信仰者に慕われた能力も権力も持たない人間(ムハンマド)が、その民にクルアーンが人々すべてへの訓戒であると、つまりアラブ人だけのものでないと宣言することはどうでしょうか。これが意味するところは、つまりイスラームは大地を覆うことになり、多くの人がイスラームをもって導かれることになるだろうということです。本当にこの予言は神の啓示でない限り、人間が言いだすようなものではありません。クルアーンの中の予言は預言者(アッラーの祝福と平安あれ)の死後数年で実際に起きました。そしてイスラームの拡大は今日まで続いています。イスラームは東西の都市を包容し、数億人の人間がイスラームに帰依しました。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP40~43)

68章解説【4】

2014年08月29日 | ジュズ・タバーラカ解説
34.まことに、畏れ身を守る者たちには、彼らの主の許に至福の園がある。
35.われらが帰依者たちを罪人(不信仰者)たちのようにするというのか。
36.おまえたちはどうしたのか。いかにして(そのように)判定するというのか。
37.それとも、おまえたちんは啓典があり、それ(その啓典)でおまえたちは学ぶ(調べる)のか。
38.まことにそれ(啓典)にはおまえたちに、まさにおまえたちが(好ましいものとして)選ぶもの(内容)があるのだと。
39.それとも、おまえたちにはわれらに対する復活(審判)の日まで達する(有効な)誓約があるのか。まことに、おまえたちには、まさにおまえたちが判定するものがあると。
40.彼らに問え、彼らのいずれがそれに関する保証人かと。
41.それとも、彼らには共同者たちがあるのか。それなら、彼らの共同者たちを連れて来させよ。もし、彼らが真実を語る者であるならば。
42.脛が露わにされ、彼らが跪拝に呼びかけられるが、できない日。
43.彼らの目は伏せられ、卑しめが彼らを捉える。かつて、彼らが健全だった時、彼らは跪拝に呼びかけられていたのであった。
44.それゆえ、おめたはわれを、この言葉(クルアーン)を嘘として否定する者と共に、構わずにそっとしておくように。われらは彼らの知らないところから彼らを徐々に追い込むであろう。
45.そして、われらは彼らを猶予する。まことにわが策略は強固である。
46.それとも、おまえが彼らに報酬を求めたため、それで彼らは負債に押し潰されているのか。
47.それとも、彼らの許には隠されたもの(不可視界の知識)があり、それで彼らは書いているのか。

次にクルアーンは、アッラーが畏れ身を守る者たちのために来世で準備してくださっているものの解明に移ります:
 「まことに、畏れ身を守る者たちには、彼らの主の許に至福の園がある」

不信仰状態にあり、そして預言者(アッラーの祝福と平安あれ)に対する敵対心でいっぱいだったクライシュの貴族と金持ちたちはこの聖句を聞いて、その多くが貧しかった信仰者たちに言いました:アッラーは君たちよりもわれわれを現世で厚遇し給うたのだ。もし来世が真実なら、来世でもアッラーはわれわれに厚遇し給うはずだ。そこでアッラーは次の御言葉で御返しになりました:「われらが帰依者たちを罪人(不信仰者)たちのようにするというのか」つまり二集団の差ははるかに大きいのに、どう考えたら各集団が同等になると考えられるのか?という意味です。クルアーンはその言葉を続けます:「おまえたちはどうしたのか。いかにして(そのように)判定するというのか」つまり、何を基に、信徒たちと罪人たちを同等とするという不思議な見解を出したのか?という意味です。

続いてクルアーンは彼らにこの見解の根拠を出すよう要求します:
 「それとも、おまえたちんは啓典があり、それ(その啓典)でおまえたちは学ぶ(調べる)のか。まことにそれ(啓典)にはおまえたちに、まさにおまえたちが(好ましいものとして)選ぶもの(内容)があるのだと。」

つまり、アッラーからおまえたちに啓典が下され、その中にあるおまえたちの主張するものを読んだのか、またはこの啓典の中におまえたちが選び、望んだものがあって、おまえたちの欲に沿っているのか、という意味です。

クルアーンは続けて彼らの主張が不当であると訴えます:
 「それとも、おまえたちにはわれらに対する復活(審判)の日まで達する(有効な)誓約があるのか。まことに、おまえたちには、まさにおまえたちが判定するものがあると。」

つまり、おまえたちにはアッラーから審判の日まで有効な、確実な誓約があるのか、そしてその誓約の中に、おまえたちがおまえたち自身のために判定するアッラーからの善きものや褒美があると。

続いてアッラーはその使徒に彼らに次のように言うよう命じ給います:「彼らに問え、彼らのいずれがそれに関する保証人かと」つまり、来世で彼らにも信徒たちが得る同等のものがあると保証する者は誰なのだと彼らに問え、という意味です。

クルアーンはその言葉を続けます:
「それとも、彼らには共同者たちがあるのか。それなら、彼らの共同者たちを連れて来させよ。もし、彼らが真実を語る者であるならば。」

共同者が意味するところは:アッラーの共同者であると彼らが信じていた偶像のこと。または信徒たちと不信仰者たちいずれもがアッラーからの恩恵を同等に与えられるという自分たちの意見を共有している不信仰な人たち。もし不信仰者たちがこの共同者たちに依存しているのなら、彼らを連れて来させよ。つまりこれは彼らに対する挑戦です。アッラーからの恩恵が彼らにあることを保証するような共同者などいないのです。

続いて聖句は彼らの行く末の来世における光景の描写に移ります:
 「脛が露わにされ、彼らが跪拝に呼びかけられるが、できない日。彼らの目は伏せられ、卑しめが彼らを捉える。かつて、彼らが健全だった時、彼らは跪拝に呼びかけられていたのであった。」

脛が露わにされるとは、アラブ世界でことの恐ろしさや酷さを意味します。ここでは極限の恐ろしさの中で偉大なことが露わにされる審判の日を指します。その時、不信仰者は崇拝と義務としてアッラーにスジュード(跪拝)するよう求められますが、跪拝のために曲がるべき関節がかちかちに固まってしまい行えません。その瞬間、彼らの悲嘆は増大し、視線は低くなり、激しい恥の念が彼らを覆います。健康だった彼らはかつて現世でアッラーに跪拝することに呼びかけられていたのに、拒否していました。

「それゆえ、おめたはわれを、この言葉(クルアーン)を嘘として否定する者と共に、構わずにそっとしておくように。われらは彼らの知らないところから彼らを徐々に追い込むであろう。そして、われらは彼らを猶予する。まことにわが策略は強固である。」

アッラーはその使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に語り給います:かのクルアーンを嘘だとする者たちをわれにまかせておくように。「われらは彼らの知らないところから彼らを徐々に追い込むであろう」彼らが気付かない間に彼らに罰を少しずつ少しずつ近付けよう。「そして、われらは彼らを猶予する」つまり、彼らを猶予して、罰を遅らせる。そうすることで彼らはさらに罪を犯し、そして罰も大きくなる。

「彼らを徐々に追い込む、彼らを猶予する」この二表現は、アッラーによる彼らに対する復讐の先延ばしのと彼らに健康を謳歌させて放置することの具体化です。そのため彼らはアッラーの恩恵を不信仰と罪の口実としながら、彼らは恩恵を受けていることが、彼らを罰に近付かせている原因になっていることに気付きません。それどころか、それが自らの滅亡の原因であるのに自分らは信仰者たちよりも厚遇されていると思い込みます。これはアッラーの慣行なのです。アッラーは不正者たちにすぐ復讐せず、いくらばかりか猶予して正道に帰る機会を与え給います。もし迷いの道を歩み続ける場合、罪をもって彼らを捕らえ給います:「まことにわが策略は強固である」つまり、われの罰は厳しい。策略とは、他人に害を加えることにおける詐欺です。策略という言葉がアッラーに関連付けられる場合、アッラーの敵、不信仰者たちの策略を破損させ、彼らの策略に対して報い給うという意味を持ちます。カイド(策略)は争いという意味も持ちますので:アッラーの彼らに対する争いは激しい、という意味にもなります。

アラブの多神教徒たちは、バドルの戦やその他の戦で彼らに不幸が訪れるまでこのような状態にありました。そのため彼らの多くが殺され、また仲間たちの間が引き裂かれました。

次に、前の話の続きに見えるような、多神教徒たちの行動についての聖句が述べられます:
 「それとも、おまえが彼らに報酬を求めたため、それで彼らは負債に押し潰されているのか。それとも、彼らの許には隠されたもの(不可視界の知識)があり、それで彼らは書いているのか。」

つまり:彼らが真実の受け入れを拒否する理由は、おまえがアッラーのメッセージを述べ伝えることに対する報酬を彼らから求めていることで、その報酬が彼らの経済的余裕を押し潰しているというのか。使徒よ、なぜおまえは彼らから報酬を求めるのか。それとも彼らは不可視界やアッ=ラウフ・アル=マハフーズの中に刻まれたものを見ることが出来て、自分たちが裁定するものを書いてそれを自分たちのための証拠にしているのか?

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP37~40)

68章解説【3】

2014年08月08日 | ジュズ・タバーラカ解説
17.まことにわれらは彼らを試みた、ちょうど「園の持ち主たち」を試みたように。その時、彼らは早朝にそれを刈り取ることを誓った。
18.だが、彼らは除外しない。
19.それで、彼らが眠っている間に、おまえの主からの巡回(破滅)がそれ(園)を訪れた。
20.すると、それは朝には闇夜のようになっていた。
21.そこで、朝を迎え、彼らは呼びかけ合った。
22.「おまえたちの耕作地に早朝に出かけよ、もし、おまえたちが刈り取る者であるならば」。
23.そこで彼らは声を潜めて、出かけた。
24.「今日こそ、おまえたち(の意)に反して貧乏人がそこに入ることはない」と。
25.そして彼らは(貧乏人の)阻止が可能な者として早朝出かけた。
26.ところがそれ(変わり果てた自分たちの果樹園)を見て、彼らは言った、「まことにわれらは(道に)迷ったのだ」。
27.「いや、われらは(収穫を)禁じられたのだ」。
28.彼らのうち最も公平な者が言った、「『おまえたちに、賛美してはどうか』と私はおまえたちに言わなかったか」。
29.彼らは言った、「称えあれ、われらの主こそ超越者。まことにわれらは不正な者であった」。
30.それで彼らは非難し合いながらお互いに向き合った。
31.彼らは言った、「われらの災いよ。まことにわれらは無法者であった」。
32.「きっとわれらの主はこれ(園)よりも良いものをわれらに取替え給うであろう。まことにわれらはわれらの主に(御赦しと良きものを)期待する者である」。
33.このようなもので、懲罰は、ある。だが、来世の懲罰はさらに大きい。もし、彼らが知っていたならば。

財産や子孫、そしてそれらを持つ者たちの自惚れについて語った聖句の登場の後に、自分たちの物質的豊かさに自惚れて貧者に適切にふるまうことをやめたためにアッラーによって園が焼き尽くされるという罰を受けた園の持ち主たちに関する小話を語る聖句が続きます。クルアーンはこの小話をお金における自惚れから距離を置くことを訓戒するために述べているのです。なぜなら自惚れは損失を招くからです。まずクルアーン中の聖句を詳細に解説する前にこの小話を簡潔に紹介しましょう:

 かつてある善良な男が豊富な作物をもたらす園を所有していました。彼は作物を収穫する日には貧者たちを呼んで、ザカーとして、彼らに相応しい量の作物を与えていました。この善良なる父親が亡くなって、彼の息子たちが継ぐと、父親のような振る舞いはせずに、貧者たちには何も与えないことにしました。そこで息子たちは話し合い、習慣に逆らって、貧者たちがやって来ていつも通りの分け前を取ることがないよう、早朝に園へ行って作物を収穫することを誓いあいました。しかし夜になるとアッラーは園に自然災害を起こし給い、危害は作物すべてに及びました。

 至高なるアッラーはこの園の小話ついて仰せです:
 「まことにわれらは彼らを試みた、ちょうど「園の持ち主たち」を試みたように。その時、彼らは早朝にそれを刈り取ることを誓っただが、彼らは除外しない。」

 つまり、われらは嘘つき呼ばわりしているクライシュの多神教徒たちを預言者(アッラーの祝福と平安あれ)が帯びた使命で試みた、ということです。アッラーによる人類への試みは、豊かに恵みを与えて自惚れて創造主を忘れてしまうか、彼に感謝するか、また数々の災難を与えて失望して忘恩となるか、それとも忍耐して主に帰るか、といった形で現れます。「その時、彼らは早朝にそれを刈り取ることを誓った」とのアッラーの御言葉の意味は:朝の時間帯に、園の作物を刈り取ることを誓った、です。「だが、彼らは除外しない」つまり、貧者たちの分け前を除外しておいて、彼らのために置いておくようなことはしない、という意味です。またこの除外は、彼らは『インシャーアッラー(アッラーの御望みなら』と言わなかった、という意味とも言われています。これは、次の聖句に基づきます:「また、なににつけ、「私はそれを明日なすであろう」と断じて言ってはならない。ただし、「アッラーの御望みなら」が(言い添えて)あれば別である。」(洞窟章23~24節)

 続いてアッラーは彼らの園に起きたことを解明し給います:
 「それで、彼らが眠っている間に、おまえの主からの巡回(破滅)がそれ(園)を訪れた。すると、それは朝には闇夜のようになっていた。」

 彼らが眠っている夜の間に災難もしくはアッラーからの命令は園を覆いました。ターイフは夜にしか起きません。このターイフは園を焼き尽した稲妻やほかのものだったかもしれません。「すると、それは朝には闇夜のようになっていた」つまり、園は刈り終えられた土地のようになった、または暗い夜のようになっていた。なぜならサリームとは、非常に暗い夜を意味するからです。焼き尽くされたことで夜のような暗さ、黒さになったということです。

 続いてクルアーンは、園に行く準備をしている園の主たちを描写します:
 「そこで、朝を迎え、彼らは呼びかけ合った。「おまえたちの耕作地に早朝に出かけよ、もし、おまえたちが刈り取る者であるならば」。そこで彼らは声を潜めて、出かけた。「今日こそ、おまえたち(の意)に反して貧乏人がそこに入ることはない」と。そして彼らは(貧乏人の)阻止が可能な者として早朝出かけた。」

 朝になると彼らは呼びかけあった、ということです。「おまえたちの耕作地に早朝に出かけよ」つまり早朝に園に向かえ。「もし、おまえたちが刈り取る者であるならば」どうしても作物を刈り入れると言うのであれば。「そこで彼らは声を潜めて、出かけた」彼らは園に向かう際、貧者たちに気付けれないよう、声をひそめたということです。「今日こそ、おまえたち(の意)に反して貧乏人がそこに入ることはない」つまり、今日、誰も園に貧乏人を入れてはいけない。「そして彼らは(貧乏人の)阻止が可能な者として早朝出かけた」彼らはすでに皆で合意した目的のために早朝に出発しました。彼らは自分らには実行可能だと思い込んでいたのです。

 次にクルアーンは、園が焼き焦げているという彼らを驚愕させた出来事を描写します:
 「ところがそれ(変わり果てた自分たちの果樹園)を見て、彼らは言った、「まことにわれらは(道に)迷ったのだ」。「いや、われらは(収穫を)禁じられたのだ」。彼らのうち最も公平な者が言った、「『おまえたちに、賛美してはどうか』と私はおまえたちに言わなかったか」。彼らは言った、「称えあれ、われらの主こそ超越者。まことにわれらは不正な者であった」。」

 彼らは自分たちの園に到着すると、作物が焼き焦げているのを見て、お互いに尋ね合いました:これは自分たちの園なのか、それとも別人のものか?と。そして言いました:「まことにわれらは(道に)迷ったのだ」つまり、園への道を誤ってしまった。そこで、これが自分たちの園だと分かっている者が、道を誤ったわけではないと言います:「いや、われらは(収穫を)禁じられたのだ」つまり、われわれの園の豊かさをその作物が焼き焦げることで禁じられてしまった。「彼らのうち最も公平な者が言った」公平な言葉を語り、良い行動を取る者が言った:「『おまえたちに、賛美してはどうか』と私はおまえたちに言わなかったか」彼はそのように言うべきだと以前から注意していたのです:至高なるアッラーと、彼が悪者たちに復讐し給うことを思い起こして、貧者たちに園の作物を分け与えないというお前たちの悪い思惑から悔悟してアッラーに帰りなさい、と。「彼らは言った、「称えあれ、われらの主こそ超越者。まことにわれらは不正な者であった」」つまり、われわれはアッラーを不正から超越している御方と称えます、それどころか、われわれは園の分け前を貧者たちに配らないことを決めたことで己自身を損なってしまいました。

 そして罪を認めた兄弟たちは責め合い始めました:
 「それで彼らは非難し合いながらお互いに向き合った。彼らは言った、「われらの災いよ。まことにわれらは無法者であった」。」

 園の主たちはお互いに向き合って、非難しあいました:「われらの災いよ」この言い方は本来、破滅を求める祈願ですが、ここでは公開の念の表れとして使われています。「まことにわれらは無法者であった」つまりわれわれは度を越して罪を犯してしまった、それは貧者に園の作物の分け前を禁じたことでした。

 そしてこの小話は、自分たちの園よりも良いものをアッラーが恵んでくださることをアッラーに願うことで締めくくられます。彼らはアッラーの恩恵と慈悲を期待し、彼の御赦しがあることを願います:
 「「きっとわれらの主はこれ(園)よりも良いものをわれらに取替え給うであろう。まことにわれらはわれらの主に(御赦しと良きものを)期待する者である」。」

 アッラーはこの小話の直後に、この小話からくみ取れる訓戒を述べ給います:
 「このようなもので、懲罰は、ある。だが、来世の懲罰はさらに大きい。もし、彼らが知っていたならば。」

 つまり、アッラーの御命令に反し、貧者たちに相応しい分け前を禁じ、アッラーの恩恵を忘恩に替えた者には、このような形でアッラーの罰は実現するのである。そして、罪を犯した者に来世で準備されている罰は現世の罰に比べて更に激しく、大きいのである。「もし、彼らが知っていたならば」つまり、もし彼らが自分たちの悪行の結果がどのようなものであるか知っていたなら、この罰をもたらしてしまうことなど行わなかっただろう、ということです。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP31~34)

68章解説【2】

2014年07月10日 | ジュズ・タバーラカ解説
8.それゆえ、おまえは(アッラーのもろもろの印や預言を)嘘だと否定する者たちに従ってはならない。
9.彼らは、おまえが妥協し、そして彼らも妥協することを望んだ。
10.それゆえ、どんな卑しい宣誓常習者にも従ってはならない。
11.(それは)中傷者で、悪口を言いふらす者、
12.善(に費やすこと)を妨げ、度を超す罪深い者、
13.粗野で、その上、素性の卑しい(宣誓常習者)に(従ってはならない)。
14.財産と子供を持っていること(故に)。
15.彼にわれらの諸々の印が読み聞かせられると、「(これは)昔の者たちの作り話である」と言った。
16.いずれわれらは彼の鼻面にに焼印を押そう。

続いてアッラーは預言者に、嘘つき呼ばわりする者たちに従うことを禁じ給います。そして彼らの迷った願望を描写し給います:
「それゆえ、おまえは(アッラーのもろもろの印や預言を)嘘だと否定する者たちに従ってはならない。彼らは、おまえが妥協し、そして彼らも妥協することを望んだ。」

妥協とは:相手に合わせて柔らかい態度を取る、うわべだけの態度を作り上げる、礼儀正しくあることを含みます。ムハンマドよ、おまえの宗教において、彼らの神々を信頼する、との応答を示せば、彼らはおまえの神の崇拝において態度も柔らかくしてくれるだろう、という意味です。しかしこれは彼らの信仰の弱さを示しています。もし、確信を持って自分たちの教えを信仰しているなら、駆け引きしなかったはずだからです。

続いてアッラーは、嘘つき呼ばわりする者たちの一部の者を非常に醜く描写しつつ、彼らに従ってはならないと預言者(アッラーの祝福と平安あれ)に仰せになります:
「それゆえ、どんな卑しい宣誓常習者にも従ってはならない。(それは)中傷者で、悪口を言いふらす者、善(に費やすこと)を妨げ、度を超す罪深い者、粗野で、その上、素性の卑しい(宣誓常習者)に(従ってはならない)。」

至高なるアッラーはこの数節の中で、彼の怒りを誘う9つの特徴を述べ給います:

1.宣誓常習者:何度も宣誓する者のこと。人に信じてもらえないとか、嘘つき呼ばわりされているのを自覚している正直ではない人間くらいしか、誓いの言葉をたくさん言いません。

2.卑しい:下劣な者、嘘つき。

3.中傷者:人々を中傷し、陰口をたたく人。

4.悪口を言いふらす者:歩きながら悪口を人々の間に広めて、彼らの関係を悪くする人。気分を悪くさせる言葉が人から人に移動することでその人たちの間に敵意が生まれます。預言者(アッラーの祝福と平安あれ)は悪口を言う者の罪を次のように解明されました:《悪口を言う者は楽園に入らない》(イブン・マージャ以外が伝承)

5.善を妨げる:人々と彼らが行おうとしている善きことの間に立ちはだかります。ここでの善はお金を指しており、この者は必要としている人たちにお金が渡るのを邪魔します。

6.度を超す:人との付き合いにおける公正と公平の度を超すことで害をもたらします。

7.罪深い者:罪が多いこと。

8.粗野:不信仰なことにおいて非常にドライで無礼な者。または性格の悪い者。

9.素性が卑しい:人々の間でその下品さと悪さで知られている者。またはある民にくっついているが実際は彼らと同じ出身ではなく、父親が不明な者。

続いてアッラーは、これらの特徴に、嘘つき呼ばわりする特徴を加え給います:
「財産と子供を持っていること(故に)。彼にわれらの諸々の印が読み聞かせられると、「(これは)昔の者たちの作り話である」と言った。」

この恩知らずの自分の富と子供で自惚れている者は、クルアーンの諸節のことを昔の人たちの作り話、つまり真実かどうか分からない過去の人たちから伝わった神話だ、と言いました。この節が示している人物が誰については解説者たちの間で意見が分かれていますが、大多数はアル=ワリード・イブン・アル=ムギーラ・アル=マハズーミーであるとしています。アッラーはこの恩知らず者を「いずれわれらは彼の鼻面にに焼印を押そう」と脅迫し給うています。焼印を押すとの言葉で意味したいのは、それが残す跡です。彼の鼻面に焼印を押す、とは、その者に屈辱を与えることを指します。アラブにおいて鼻は、栄光とプライドの箇所とされます。そのため卑屈な者のことを:鼻が切断された者、と言います。アッラーの御約束は確実に実現し、アル=ワリードの鼻はバドルの戦の際に傷を受けたのです。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP29~31)

68章解説【1】

2014年06月27日 | ジュズ・タバーラカ解説
1.ヌーン。筆にかけて、また、彼ら(人間や天使)が書くものにかけて。
2.おまえ(預言者ムハンマド)は、おまえの主の恩顧によって、狂人ではない。
3.そしてまことにおまえには、尽きない報酬がある。
4.また、まことにおまえは偉大な徳性の上にある。
5.いずれおまえは見、また、彼らも見るであろう、
6.おまえたちのいずれが気の触れた者であるかを。
7.まことに、おまえの主、彼こそは彼の道から迷った者についてより良く御存知であり、そして彼こそは、導かれた者たちについて最も良く御存知であらせられる。

この章には、1)アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の護衛、2)彼(アッラーの祝福と平安あれ)への称讃、3)アッラーからのメッセージ伝達における彼(アッラーの祝福と平安あれ)の決意の強化が含まれます。また、貧者が持つ収穫物における権利を取り上げたゆえに自分たちの果樹園が焦げてしまった果樹園の主たちに起きたようなことが、背信行為の報いとして起こるであろうことをマッカの民に警告しています。

まずアッラーはこの章を、(ن)ヌーンの一文字で始め給いました。これはアラビア語の文字の一つで、アッラーは他の章でも違う文字で章を始め給うています。章の頭に登場する文字たちに関していろいろな意見がありますが、ここでは不信仰者たちに警告する目的とされたという意見をご紹介しましょう。クルアーンの言葉は(当時のマッカの)不信仰者たちの言葉がつくりだしているものと同一であるため、クルアーンはアラビア語であることがわかります。クルアーンは彼らにとって不慣れな言葉で啓示されたわけではないということなのに、クルアーンに似たものを彼らは作ることができなかったのです。この事実はクルアーンが人間の作ったものではなく、まさにアッラーの許から下りて来たものである証拠です。それなのになぜ彼らは信仰しないのでしょう?

続いてアッラーは、筆と書くものにかけて誓い給います:「筆にかけて、また、彼ら(人間や天使)が書くものにかけて」何かにかけて誓うということは、そのものが尊く、高位にあり、多岐にわたる利点を持っていることを指します。

そのためアッラーは、数多くの効能と恩恵を人間にもたらす「筆」にかけて誓い給いました。かつてから、法律や科学やいろいろな知識が筆によって保存されてきたのです。アッラーは筆にかけた誓いの後、これらの書き記されたものたちにもかけて誓い給いました。アッラーは仰せです:「また、彼ら(人間や天使)が書くものにかけて」さまざまな書く方法が存在します。筆、ワープロ、印刷機といった文明は、数え切れないほどの人間たちに向けられた新聞や雑誌や書籍に載せられた思想、文化、科学の産物を運んだ印字とその進歩の結果の現れです。-クルアーンが啓示された-14世紀からアラブの人たちは-少数を除いて-文盲の中にいて、学校や大学といったものは彼らの間では知られていませんでした。また預言者ムハンマドは(アッラーの祝福と平安あれ)も-アッラーが望み給うた叡智により-文盲であったため、読むことも書くことも知らずにいました。これらはまだ世界が印刷機や製紙の発見に到達出来ていなかった時代のことです。そのため、その偉大さと重要さが現代において明らかになった「彼らが書くもの」にかけた誓いは、クルアーンのための科学的な預言なのです。

また筆と書くことにかけての誓いは、信仰者たちに知識と学習の基本である読むことと書くことに関心を持たせるよう思い起こさせてもいます。

次にアッラーはその使徒ムハンマドに語りかけ給う形で、多神教徒たちがでっち上げた彼が狂人であるとの疑いを否定し給います:「おまえ(預言者ムハンマド)は、おまえの主の恩顧によって、狂人ではない」ここでアッラーは、親近感と愛情を感じさせる「おまえの主」との表現でその使徒に彼の恩顧を確実にし給います。またアッラーは、預言というアッラーからの恩顧などと合致しない狂人であるとの疑いを使徒から払拭し給います。アッラーから彼への恩顧はあらゆる面から明らかでした:完成された理性、芳香漂う生き方、あらゆる欠点から無垢であること、すべての徳性を備えていること、などです。

狂人であるとの疑いは、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)の心を傷つけ、感情を害させていたかもしれません。そこで慰めとなる次の聖句が続きます:「そしてまことにおまえには、尽きない報酬がある」不信仰者たちが預言者性のことを狂いだと主張しているが、おまえはおまえの民を誘導することにくじけてはならない。まことにおまえが導きという任務をこなすことに対する報奨は永続し、途絶えることはない。

続いてアッラーから預言者(アッラーの祝福と平安あれ)の偉大な徳性に関する証言が登場します。敵までもが認めるこの偉大な徳性に対する称賛に勝る称賛はありません。またアッラーの証言には、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)を狂人と非難した者に対する説得力ある答えでもあります。なぜなら狂人は偉大な徳性を備えないからです:「また、まことにおまえは偉大な徳性の上にある」つまりおまえは良きマナーの上にある、それはクルアーンのマナーです。まさに預言者(アッラーの祝福と平安あれ)はクルアーンのマナーを身に付けていたのです。彼の妻アーイシャは彼について次のように言っています:《アッラーの使徒の性格は、クルアーンでした》。クルアーンにおける道徳が崇高であることは西欧の一部の学者たちも指摘しています。

称賛の言葉の後に、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)を狂人と言い、迷っていると言ったマッカの不信仰者たちにアッラーが脅迫を伴って応答し給います:
「いずれおまえは見、また、彼らも見るであろう、おまえたちのいずれが気の触れた者であるかを。まことに、おまえの主、彼こそは彼の道から迷った者についてより良く御存知であり、そして彼こそは、導かれた者たちについて最も良く御存知であらせられる。」

つまり、預言者よ、おまえが彼らに勝つ時、おまえはそれを見るし、彼らもそれを見るのだ。「おまえたちのいずれが気の触れた者であるかを」おまえが気の触れた者なのか、それとも彼らなのか。まことにおまえの主こそ、導きと善の道から逸れた者をより良く御存知であり、アッラーの教えに導かれた者をより良く御存知であらせられる。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP27~29)

69章解説【5】

2014年06月13日 | ジュズ・タバーラカ解説
44.そしてもし彼(預言者ムハンマド)がわれらに関しなんらかの戯言(たわごと)を捏造したなら、
45.必ずやわれらは彼を右手で捕らえ、
46.それから彼の大動脈を必ずや切ったであろう。
47.それでおまえたちの誰一人として彼を守る者はない。
48.そしてまことにそれ(クルアーン)は畏れ身を守る者への訓戒に他ならない。
49.そしてまことに、われらはおまえたちの中に(クルアーンを)嘘と否定する者がいることを確かに知っている。
50.そしてまことに、それ(クルアーン)は不信仰者たちにはまさに悲嘆(ひたん)である。
51.そしてまことに、それはまさに確信の(確実な)真実である。
52.それゆえ、大いなるおまえの主の御名を讃美せよ。

続いて、偽って預言を主張する者に対する警告がアッラーより発せられます:
「そしてもし彼(預言者ムハンマド)がわれらに関しなんらかの戯言(たわごと)を捏造したなら、必ずやわれらは彼を右手で捕らえ、それから彼の大動脈を必ずや切ったであろう。それでおまえたちの誰一人として彼を守る者はない。」

つまり、ムハンマドが戯言を言って、それらがアッラーからだとする場合、「必ずやわれらは彼を右手で捕らえ」つまり彼の右手を捕らえるということですが、彼を支配することを意味する婉曲表現です。つまり攻撃を仕掛ける右手を捕らえることが出来たらその者を押さえつけることに成功したことになるということです。またここでの「右」はアッラーの御力と能力を指しているとも言えます。また「大動脈」とは、心臓に栄養を送る血管で、心臓と頭を繋げていて、それが切れると人は死んでしまいます。「それでおまえたちの誰一人として彼を守る者はない」つまり彼が嘘を言うのを知ったわれらが、彼を滅ぼすのをおまえたちの誰一人として止めることは出来ない、ということです。これらのアーヤはもしムハンマドが預言者であるとの主張において嘘をついていたとしたら、必ずやアッラーが彼を殺していただろう、しかしムハンマドがおまえたちに彼自身が預言者であると言った際、アッラーが彼を殺さなかったところから、彼は真実を言っている、ということになります。アッラーの御力添えと御援助の存在がムハンマドが真実を言っていることのしるしです。

最後に、クルアーンの諸特徴について言及することで章は締めくくられます:
「そしてまことにそれ(クルアーン)は畏れ身を守る者への訓戒に他ならない。そしてまことに、われらはおまえたちの中に(クルアーンを)嘘と否定する者がいることを確かに知っている。そしてまことに、それ(クルアーン)は不信仰者たちにはまさに悲嘆(ひたん)である。そしてまことに、それはまさに確信の(確実な)真実である。それゆえ、大いなるおまえの主の御名を讃美せよ。」

クルアーンは「訓戒」である、つまり「畏れ身を守る者」にとっての。彼らは、主を畏れ、彼の罰を避けようとする人たちです。「そしてまことに、われらはおまえたちの中に(クルアーンを)嘘と否定する者がいることを確かに知っている」人々よ、われらはおまえたちの中にクルアーンを嘘だという者がいることを確かに知っている。「そしてまことに、それ(クルアーン)は不信仰者たちにはまさに悲嘆(ひたん)である」不信仰者は最後の審判の日に、畏れ身を守る者たちが報奨を得、自分たちは逆の悪き報いを得るのを見る。それを教えているクルアーンは彼らにとって悲嘆と後悔の原因です。これは来世においてですが、現世ではクルアーンの教えが世界中で実践され、その光があちこちに広がり、真実が不正を負かす時こそ、クルアーンが不信仰者にとって悲嘆となります。そして他にも、「それはまさに確信の(確実な)真実である」似たものはなく、疑いもない確定した真実である、という意味です。だからこそ、「それゆえ、大いなるおまえの主の御名を讃美せよ」おまえの主から、あらゆる欠陥的性質を排除して高めよ、そして彼の威厳と偉大な権力に相応しいように彼を讃えよ、という意味です。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP58~59)