イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

悔い戻る者たちの道しるべ【4】-(1)罪の種類/悔悟の手段/赦しの段階

2015年03月20日 | 悔い戻る者たちの道しるべ

あなたはどの種に属する罪人でしょうか。
信仰ある罪人の罪はどのように分けられるのでしょうか。
そしてそれらからの悔悟の方法、
主の御赦しと受け入れの程度とは?

【他人の罪の否認】
『罪はそれを犯していない者にとって災いである。それを非難すればそれによって試みられ(その罪を犯してしまうような状況に遭ってしまう)、それを中傷すれば罪を犯したことになり、それに同意すればそれを共有したことになるからだ。』
※信ぴょう性が低いとされるハディースですが内容重視のため引用します。

あなたではなく他人が罪を犯したとします。そこであなたが「誰々が何々をしたぞ。あんなことするべきではない!」と言いふらし、罪を犯した兄弟(が本来持っているであろう)の誠実さに傷を付け、人々の噂の種にしまったなら、このやり方であなたは彼を中傷したことになります。この形で他人の罪があなたにとっての災いになるわけです。代わってあなたが「おやまあ、あいつはすべきことでないことをやってしまった」と言ったら、あなたは彼が罪業を成したことに同意したことになります。学者たちは次のように言いました:罪を中傷することはそれに対する同意であり、おまえはそれを見つつも否認しなかった者と同等である」。罪から隠れていたのにそれに同意する者はそれを見ていた者と同じであるということです。罪を見てそれを非難する者は、罪から隠れているのと同じです。あなたが罪に同意することは、罪の持ち主と罪を共有することを意味します。アッラーがあなたをこの罪から救ってくださったことに感謝しましょう。

【他人の罪を包み隠しましょう】
誰かが罪を犯すのを見たら暴露せずにその人を覆い隠してあげましょう。アッラーは覆う御方ですからアッラーの完全さを見習いましょう。たくさん人が居る前ではなく直接彼に助言しましょう。兄弟が罪を犯すとき、あなたはそれに同意すべきではありません。同意すれば罪を共有したことになります。もし彼が不法にお金を得た場合、あなたは「すごいなあ」などと言うべきではありません。このような言葉は真実を失わせるものです。その行為を嫌い、その行為に同意してはいけません。
では罪を犯していない人に何倍も影響を与える罪を犯している張本人はどうでしょうか。不正は審判の日の暗闇です。ですから私たちは兄弟の誰かが罪を犯してしまったら、彼の許へ赴いて優しく親切に助言してあげるべきです。
ウマルのもとに、ある彼の友の一人が飲酒してシャーム方面へ旅したとの知らせが入りました。ウマルは彼に宛てた手紙に、「さて。まことに私はあなたのためにアッラー、罪を赦し、悔悟を受け入れ、その懲罰は厳しい御方を称賛する」としたためました。手紙を読んだ友は泣き始めました。つまり手紙は彼を悔悟へと誘ったのです。ウマルは言いました:おまえたちの兄弟が迷ってしまったら、このように振舞いなさい。決して彼に対する悪魔の援助者になってはならない。おまえたちは悪魔に対する彼の援助者にならなくてはならない。」

【暴露ではなく助言を】
第一にすべきことは、罪を犯してしまった兄弟に助言することです。助言と暴露は同一ではありません。罪について話せば中傷になります。罪を認めず、それは大きな間違いであると認識しましょう。
彼の罪を認めず、彼に助言することがふさわしいということです。
例えばあなたがある家に入ったとします。この家は非合法な金で出来ています。酒場や麻薬で得ているとしましょう。さてあなたは豪華な家や美しい家具を理由に彼に敬意を払いますか?いいえ。なぜなら稼ぎが非合法だからです。それらは他人の不幸で成り立っているからです。そのため私は罪を犯す高い地位にある人を見るとき、私は彼の地位のために彼に敬意を払うべきではありません。なぜならアッラーのもとで罪が彼を落とされる者たちの一人とするからです。

【非難すれば自分も試みられる】
罪を非難するとその罪で試みられることになるため、罪を非難すべきではありません。すべきことは、この罪から自分を護ってくださるようアッラーに祈ることです。私よりも頭の良い人が最大の罪を犯すこともあれば、宗教的知識を持つ者が罪を犯すこともあります。そのため私は罪を犯す人を見たら、至高なるアッラーにこの罪から私を護ってくださるように祈ります。そして罪を犯した人に助言します。私はその罪を認めず、現世における彼の外面のために彼に敬意を払うこともありません。そして最後に必要なのは、罪を非難しないことです。そうではなくアッラーに私がこの罪を犯してしまうことがないよう祈ることです。

【罪がその行為の主に与える影響】
まず己自身がどの種類の罪人であるのかを知りましょう。アッラーに背いて後悔する人、アッラーに背いて泣く人、アッラーに背きながらアッラーに背きたくないと思っている人がいますが、この類の人たちのことを心の学者たちは”打ちのめされた者”と呼びます。つまり自我に打ちのめされたということです。他には、執拗にアッラーに背き続ける人、誇りながらアッラーに背く人、罪を犯してそれを周りに知らせる人、喜びの頂点の中アッラーに背く人、毎日罪を犯したいと思いながらアッラーに背く人もいます。あなたはどの種に属するか知る必要があります。私たちの祖先であるアーダムもアッラーに背きましたが、
「またかつて、われらは以前にアーダムに約定を課していた。だが、彼は忘れ、われらは彼に決意を見出さなかった。」(ターハー章115節)アーダムは意識していたわけではなかったのでアッラーは彼を赦し給いました。代わって悪魔は背いて、
「私は変質した黒土のからからの粘土からあなたが創り給うた人間には跪拝したりはしません。」(アル=ヒジュル章33節)と言いました。
悪魔の罪は高慢と優越感から、アーダムの罪は弱さゆえに圧倒されて犯されました。そのためアッラーは仰せです:
「だが、彼は忘れ、われらは彼に決意を見出さなかった」(ターハー章115節)

【アッラーは誰の悔悟を受け給うか】
弱さのために罪を犯してしまったなら、悔悟はとても近いです。条件は罪が弱さから圧倒されて犯されたもので、アッラーへの服従に高慢に背くことでないことです。高慢にアッラーに背く人は自分の罪を後悔するどころかその罪を誇りに思います。アッラーに背くとき喜びの頂点にいて、この罪を再び犯そうと思っています。こういった類の人は悔悟しませんし、罪が赦されることもありません。この講義集ではこの類は扱いません。

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預言者伝【番外編1】

2015年03月13日 | 預言者伝関連
≪預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)の妻である信徒の母たち、子どもたち、孫たち≫

  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の第一の妻は、40歳だったハディージャ・ビント・フワイリド(アッラーの御満悦あれ)で、預言者になる前に結婚しました。彼女こそが彼の宣教活動を支え、共に奮闘努力してきた方でした。また彼女の心身と財産で彼を援助しました。そんなハディージャはヒジュラの3年前に亡くなりました。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)のすべての子ども(イブラーヒームを除く)は彼女から生まれました。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はいつも彼女を思い出し、彼女の親切に感謝していました。家畜を屠ってその節々を切断してハディージャの友人たちに配ることもありました。

  ハディージャが亡くなって数日すると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はサウダ・ビント・ザアマを娶り、その次にアーイシャを娶りました。アーイシャはアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に愛された、またウンマの中でもっとも知識豊富な方でした。そのためアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の教友の先人たちは彼女の意見を参考にし、彼女に質問をしました。次に、ハフサ・ビント・ウマル・イブン・アル=ハッターブを娶りました。次に、ザイナブ・ビント・フザイマを娶りましたが、二ヶ月後に亡くなりました。次に、ウンムサラマ ヒンド・ビント・アビーウマイヤを娶りました。ウンムサラマは妻たちの中でもっとも長生きした方でした。そしてジュワイリーヤ・ビント・アル=ハーリスを娶り、続いてウンムハビーバ ラムラ・ビント・アビースフヤーンを娶り、次にサフィーヤ・ビント・フヤイ・イブン・アハタブ、そして最後にマイムーナ・ビント・アル=ハーリスを娶りました。

  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)がお亡くなりになったとき、9名の妻たちがいたことに意見の相違はありません。ハディージャとヒンド・ビント・フザイマの二人だけがアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の生前中にお亡くなりになりました。またアーイシャ以外の妻たちは全員、以前に結婚したことのある方たちでした。

  またアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)がお亡くなりになったとき、2名の妾もいました。一人はエジプトを統治していたサイラスがアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に贈ったエジプト人コプト教徒のマーリヤ・ビント・シャムウーンで、彼の子であるイブラーヒームの母親です。もう一人は、ライハーナ・ビント・ザイドですが、イスラームに帰依したのでアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は彼女を自由の身分に解放した後に正式に娶りました。

  アッラーはアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の死後に彼女たちと結婚することを禁じ給いました。なぜなら彼女たちは信徒たちの母であり、それはウンマとその預言者(アッラーの祝福と平安あれ)をつないでいる繊細な関係に槍を入れることになるからです。アッラーは仰せです:「また、彼の後、彼の妻たちと結婚することも罷り成らない。そうしたことは、アッラーの御許においては大それたことである。」(部族連合章53節)

  イブン・カスィールはこの聖句を次のように解説しました:
  『学者たち全員が、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の妻たちを彼の後に娶ることを禁じることにおいて合意した。なぜなら彼女らは現世と来世における彼の妻であり、信徒たちの母だからである。』

(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P409~410)
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悔い戻る者たちの道しるべ【3】-(2) 赦される罪について

2015年03月06日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
しもべの主に対する罪をその大小で分ける
小さな罪に固執しまう場合どうなるのか
それに対する罰はどのようなものなのか

について見ていきます。

教友ビラール(アッラーの御満悦あれ)の素晴らしい言葉を紹介しましょう:
「罪の小ささを見るのではなく、誰に対して横柄な態度を取ったのかを考えなさい。」

罪はその大きさで軽量されるようなものではなく、その行為によって誰に、つまり世界の主アッラーに対して横柄な態度を取ったかで軽量されます。主に対する信仰が上昇するにつれて、己の信仰はアッラーと共にあるのだという感覚に傾倒していきます。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われました:
≪至誠とは、アッラーが目の前にいらっしゃるかのように彼を崇めることである。おまえが彼を見ていなくとも、まことに彼はおまえを御覧である。≫(ムスリム伝承)

「そして彼はおまえたちがどこにいようとおまえたちの共にあらせられる。」(57:4)

あなたが”アッラーは自分と一緒にあらせられるのだ”と感じる度にあなたはアッラーに恥じるでしょう。また”アッラーは偉大である”と感じる度に彼に対して小さな罪も甚大であるのだと見なすことでしょう。学者たちが述べた基本的な法則にこのようなものがあります:罪が大きいと感じる度にそれはアッラーの許で小さくなり、罪が小さいと感じる度にアッラーの下でそれは大きくなる。信仰者にとっての罪はまるで彼の胸にのしかかる山のようですが、偽信者にとっての罪は追い払った蠅のようです。私は偽信者のうちの信仰者が誰であるのかをその人の罪の捉え方で知ります。言った言葉のために眠れなくなる信仰者人がいれば、罪を犯しても寝られる不信仰者もいます。そのためアブーフライラによるとアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われたのです:
≪まことにある男は悪くないと思って発した言葉のために火獄の中で70年間吹き飛ばされ続ける。≫(アッ=ティルミズィー伝承)

貞淑な女性を(姦通等で)中傷することは100年の行為を壊す、とも言われます。証拠もなく清廉で貞操を大切にしている女性の尊厳について暇つぶしに話すことは、100年間の行いを壊してしまうということです。また己が言った言葉を数える者は審判の日に救われるとも。言葉も行為ですから、あなたがあなたの行為の一つである言葉を数えれば助かるということです。しかし言葉は行為と無関係であると考えた瞬間に誠実さは失われます。ですから、罪の小ささを見るのではなく、誰に対して横柄な態度を取ったのかを考えなさい、ということなのです。あなたの中で罪が小さくなるたびにアッラーの許でそれは大きくなり、あなたの中で罪が大きくなるたびにアッラーの許でそれは小さくなります。これは良い兆候です。信仰者は己の罪を胸を押し付ける山のように感じ、それが落ちてくるのを恐れますが、偽信者は己の罪を蠅のように見ます。

多くの若者が”自分の罪は他人の罪と比べてどうなんだろう?他人たちは普通にしているが?”と心の中で思っています。または悪魔がこのように囁きます。そして若者は言います:”自分の罪は他人の罪に比べたら大したことはない”と。

この質問には詳細な答えがあります。自分を医者にたとえてみてください。あなたのところに胃に炎症を起こした患者が来ます。あなたは患者が摂るべき食べ物の載った厳しいリストを渡します。胃の炎症は治るものなのにもし患者が禁じられたものを食べたらあなたは怒るでしょう。代わって悪性腫瘍を患った患者が来たらあなたは彼に好きなものを食べてくださいと言うでしょう。彼らこそがアッラーからさ迷った罪を問われない人たちです。交通違反した人間を絞首台に連れて行くと仮定します。さてあなたは彼に違反の審問をしますか?彼は審問されません。その意味でアッラーは次のように仰せです:
「そして罪人は彼らの罪について問われることはないのである。」(28/78)
※アッラーは彼らの罪を御存じであり、審問による申し開きや悔い改めの機会を与えず、獄火に入れ給う。
アッラーがさ迷った無知な者に:おまえは現世を取りなさい。おまえはわれの慈悲から追放された者だ、と仰せになったようです。
「それゆえそれによって訓戒されたこと(厄災)を彼らが忘れたと時、われらは彼らの上にすべての(恵みの)扉を開き、与えられたものに彼らが歓喜していた時、われらは彼らを不意に捕え、」(6:44)

カリキュラムの難しさや教科書の難しさや難しい教師や膨大な質問や毎月提出しなければならない論文について悩む学生が学校に行っていない若者に愚痴を言います。若者は、「俺はズフルのアザーンまで寝ている。気楽さ。」と答えました。一人は博士になって指導する立場になろうとしている。もう一人は最低の人間になろうとしている。後のことを気にせず罪を犯す人間とアッラーが御満足しない言葉を言ってしまうことを恐れる人間は釣り合わないのです。集中治療室にいる人とその外にいる人は同じではありません。

背き、さ迷い、大罪を犯し、笑い、遊んでいる若者。不正な悪魔の道を行く者に悪魔は満足します。悪魔は言いました:
「必ずや私はあなたのまっすぐな道で彼らを待ち伏せしましょう。」(7:16)

信仰者が真実の道を歩こうとすると囁きが聞こえてきます。己の小さな罪がアッラーを怒らせてしまうことを恐れるような篤信な信仰者と無知な者は釣り合いません。

ある学生が私に言いました:「僕はアッラーをおそれません。」私は、「君の言うとおりだね。」と言いました。彼は「どういうことですか?」と言って私の言葉を不思議がりました。
「農夫が二歳になる息子を収穫地に連れて行く最中、蛇がそのそばに来た。大の男でもこのような蛇を見たら驚くに違いない。それなのに二歳の子どもは蛇に触れようとした。なぜ恐れないのだろうか?なぜなら理解していないから。理解しない者は恐れない。」
恐れる者は理解している者です。
ある技術者が建物にひびが入っているのを見たら、「もうすぐ崩壊する」と言うでしょうが、他の人間が見たらひびの上から詰め物をするだけでしょう。知る者と知らない者の間には大きな隔たりがあります。
医者は果物を洗います。なぜでしょう?微生物や感染の恐れを知っているからです。無知な人はビスミッラーと言って食べなさい、と言うでしょう。これこそが私たちが必要とするものです。私たちは知と畏敬を共に必要とします。
赦される罪はあなたがアッラーに対して成した罪。そして罪の小ささを見るのではなく、誰に対して横柄な態度を取ったのかを考えてください。

http://nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7186&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895&w=%D9%85%D9%86%D9%87%D8%AC%20%D8%A7%D9%84%D8%AA%D8%A7%D8%A6%D8%A8%D9%8A%D9%86&aw=
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