ラマダーンも18日目に入りましたが、皆さん、イバーダに励んでいますか?
女性は生理になると、斎戒と礼拝とクルアーン読誦が出来なくなりますよね。
以下に生理中でもできるイバーダを纏めてみますので参考にしてください(もっと早く掲載すればよかったですね、すみません!)。
ズィクル(アッラーを思い起こすこと)についての講話を纏めてみます↓
بسم الله الرحمن الرحيم
97章解説
1. 本当にわれは、みいつの夜に、この(クルアーン)を下した。
2. みいつの夜が何であるかを、あなたに理解させるものは何か。
3. みいつの夜は、千月よりも優る。
4. (その夜)天使たちと聖霊は、主の許しのもとに、凡ての神命を齎して下る。
5. 暁の明けるまで、(それは)平安である。
偉人や何かに対する勝利、記念日などに祝い事をするという習慣が多くの共同体の中に存在しています。またこういった祝い事は飲酒などの多くの罪を引き寄せる機会となってしまっています。
代わってイスラームは、この宗教に追従する者たちにクルアーンの啓示に対する祝い方の紹介をしてくれています。心を鍛え、五感を繊細にし、至高なるアッラーに結び付けるイバーダ(崇拝行為)で祝うのが相応しく、具体的には、ライラトゥルカドル(みいつの夜)をアッラーに捧げるイバーダで過ごすことだと言われています。
ここでアッラーは、人間に垂れたクルアーンの降下という恩恵を信者たちに思い出させ給います。クルアーンは人々を暗闇から光へと連れ出してくれます:「本当にわれは、みいつの夜に、この(クルアーン)を下した」つまりライラトゥルカドゥルに預言者(平安と祝福あれ)に啓示が下り始めたという意味です。その夜はラマダーン月の中にある一日で、次の御言葉が示している通りでもあります:「ラマダーンの月こそは、人類の導きとして、クルアーンが下された月である」(雌牛章185節)
また、ここでの「下した」は、アッラーがクルアーンをラマダーン月のライラトゥルカドゥルに一度に現世の天に下し、そこから出来事に応じて23年の間、預言者(平安と祝福あれ)に少しずつ天使ジブリールを介して下した、とも言われます。そして預言者(平安と祝福あれ)は啓示されたものを共同体に伝え続けました。
ライラトゥルカドル(みいつの夜)と名がついた理由は、その夜の偉大さと尊さが由来しています。カドゥルは偉大、尊いという意味を持ちます。続けてアッラーは仰せになります:「みいつの夜が何であるかを、あなたに理解させるものは何か」この疑問文はこの夜の重要さを増強します。つまりこの夜の価値の崇高さは被造物の理解を超えたものであり、アッラー以外にそれを知り得る存在はない、という意味です。
続けてアッラーはライラトゥルカドゥルの夜における善行について解明し給います:「みいつの夜は、千月よりも優る」つまりライラトゥルカドゥルの夜に行われる善行や礼拝は、ライラトゥルカドゥルを含まない1000月中に行う善行とイバーダに勝る、という意味です。ここでなぜ「夜」という時間帯が選ばれているのでしょうか。この時間帯に捧げられるイバーダはアッラーおひとりのみに捧げられるからです。アッラーに対するイバーダを人に見られるためにしている人は、決して夜の間(任意の)礼拝に立つことはできません。しかしアッラーに対する畏れの気持ちをもって夜の礼拝に立つ者は真の信者と言えるでしょう。
次にアッラーはライラトゥルカドゥルが持つ偉大な特徴を解説し給います:
「(その夜)天使たちと聖霊は、主の許しのもとに、凡ての神命を齎して下る。暁の明けるまで、(それは)平安である。」
つまり、かの夜に天使たちとジブリールが「主の許しのもと」つまり主の命令に応じて地上に降りて来ます。「凡ての神命を齎して」つまりアッラーがその年から次の年の間に定め給うたすべての事柄のために、という意味です。この夜に諸事柄が決定され、寿命と糧が決められます。「暁の明けるまで、(それは)平安である」つまりライラトゥルカドゥルはそのすべてが平安であり、悪はなく、暁が明けるまで平安は続く、ということです。また、天使たちはこの夜にアッラーによく従い崇める人たちに平安の挨拶を暁が明けるまで送り続けるとも言われます。
以上から、ライラトゥルカドゥルはその夜自体が善であり祝福であるため、その善と祝福を獲得しそびれてしまうのは信者にとって好ましくないことが分かります。そのため預言者(平安と祝福あれ)も次のように言われています:《ライラトゥルカドゥル(みいつの夜)に、信仰と報酬を願って祈りに立った者は、今までに犯した罪が赦される。》(アル=ブハーリー)
その夜に立つとは、礼拝、祈願、イスティグファール(罪の赦し請い)、クルアーン読誦といったイバーダ(崇拝行為)に励むことを指します。
伝えられたことによると、預言者(平安と祝福あれ)はラマダーン最終10日間にはお籠りをされ、次のように言われていました:《ラマダーン最終10日間からライラトゥルカドゥルを探し出しなさい。》(アル=ブハーリー)
他にも次のように彼(平安と祝福あれ)は言われました:《ラマダーン最終10日間の奇数日からライラトゥルカドゥルを探し出しなさい》(アル=ブハーリー)つまり21,23,25,27,29の夜です。ライラトゥルカドゥルが明解にされなかった背景に、信者たちにアッラーから恩恵や魂の平安、自我の浄化を頂戴できるようこの10日間イバーダに励むよう急きたてたいというイスラームの配慮があります。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P144~146)
بسم الله الرحمن الرحيم
14.ハディージャ(御満悦あれ)のイスラーム入信と彼女の性格:
ハディージャ(御満悦あれ)は夫のムハンマド(平安と祝福あれ)を信じ、イスラームに入信しました。アッラーとその使徒を一番初めに信仰した彼女は、彼の傍で力となり、彼を勇気づけ、人々からもたらされる苦悩を和らげようと努めたのでした。
15.その他の入信者たち:
次に10歳だったアリー・イブン・アビー・ターリブ(御満悦あれ)が入信します。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は幼い いとこのアリーを困窮していたおじ、アブー・ターリブから引き取って養育していたのでした。
また預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)がかつて養子にしたザイド・イブン・ハーリサも入信します。
預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に最も近い人たちが真っ先にイスラームに入ったのは、彼らが誰よりも預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の正直さ、純真さ、素行の素晴らしさを知っていたためです。人は自分の家族のことを誰よりもよく知っているものです。
16.アブー・バクル・イブン・アビー・カハーファ(御満悦あれ)のイスラーム入信とイスラーム宣教における彼の功徳:
クライシュの中でもその頭の良さ、勇気、慎みといった徳ゆえに、威厳あるアブー・バクル・イブン・アビー・カハーファ(御満悦あれ)も入信します。彼は入信後、イスラームに改宗したことを公言しました。アブー・バクルは、人々に愛される素朴な男で、クライシュの血統と歴史に精通していました。商業を営み、素晴らしい性格を備えており、やがてアッラーとイスラームへと人々を招くようになります。
17.クライシュ出身の貴族たちの入信:
アブー・バクルの呼びかけに応じて数々のクライシュの貴族がイスラームに入りました。その中には、ウスマーン・イブン・アッファーン、アッズバイル・イブン・アルアワーム、アブドゥッラハマーン・イブン・アウフ、サアド・イブン・アビー・ワッカース、タルハ・イブン・ウバイディッラーがいます。彼らは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の許に赴いて、信仰告白の儀式を行いました。
彼らに続いて地位のあるクライシュの男たちが改宗していきました。アブー・ウバイダ・イブン・アルジャッラーフ、アルアルカム・イブン・アビー・アルアルカム、ウスマーン・イブンマズウーン、ウバイダ・イブン・アルハーリス・イブン・アルムッタリブ・イブン・アブドゥマナーフ、サイード・イブン・ザイド、フバーブ・イブン・アルアルト、アブドゥッラー・イブン・マスウード、アンマール・イブン・ヤーセル、スハイブなど(御満悦あれ)です。
引き寄せられるように男たちも女たちもイスラームに入って行きました。やがてイスラームの名はマッカに広まり、人々の話題に上がるようになります。
18.サファー山の上からの鮮烈な呼びかけ:
召命から3年間は、預言者としての任務を隠していた預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)ですが、やがてアッラーは公言することを彼に命じ給います:
「だからあなたが命じられたことを宣揚しなさい。そして多神教徒から遠ざかれ。」(クルアーン ヒジュル章15/94)、「あなたの近親者に誓告しなさい。またあなたに従って信仰する者には,(愛の)翼を優しく下げてやりなさい。」(クルアーン 詩人章26/214)、「そして言ってやるがいい。「本当にわたしは公明な警告者である。」 」(クルアーン ヒジュル章15/89)
預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は出かけていって、サファー山に登り、出る限りの大きな声で「ヤー、サバーハー!(朝だぞ!)」と叫びました。この叫びは当時知られたもので、誰かが町や部族に敵の襲撃の危険を感じたときにこのように叫ぶことになっていたのです。そのためクライシュはこの叫びに迅速に応じました。人々は彼(平安と祝福あれ)の許に集まりました。
そこで預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は言います:「アブドゥルムッタリブ族の皆さん、ファハル族の皆さん、カアブ族の皆さん!騎馬兵があなた方のところに攻め入ろうとしていると告げたなら、私を信じますか?!」
アラブ人たちは現実的で有能な人たちです。彼らは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)が誠実で正直者であることを経験からよく知っています。その彼が山上にいて、前方を眺め、山の後方も見ていますが、彼の下にいた人々には山の前方しか見えないため、不安に襲われていたことでしょう。しかし彼らの見識と公正さが、この誠実な正直者の知らせを信用するに至らせたのです。そして彼らは、「ああ、信じるとも。君が嘘をついているのを見たことがない。」と答えました。
聴衆による預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に対する証言がここで成立しました。そこで彼は続けて言いました:「私は、激しい罰の主から遣わされた、あなた方のための警告者です」
この宣言で、彼が預言者であることが公表されました。この言い方よりも短く、また明解な方法は決して存在しないでしょう。
聞いていた人々は沈黙しましたが、アブー・ラハブだけは次のように言い捨てます:「お前など滅んでしまえ。こんなことのためにわしらを呼び出したのか!」これが元で、クルアーンのラハブ章は啓示されました。
(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P119~122
②「封印された美酒」サフィーユッラフマーン・アルムバーラクフーリー著、ダール・アルフィクル出版、P51)
بسم الله الرحمن الرحيم
98章解説
1. 啓典の民の中(真理を)拒否した者も多神教徒も、かれらに明証が来るまで、(道から)離れようとしなかった。
2. またアッラーからの使徒が、純聖な書巻を、読んで聞かせるまでは。
3. その中には、不滅の正しい記録(掟)がある。
4. 啓典を授かっている者たちが、分派したのは、明証がかれらに来てから後のことであった。
5. かれらの命じられたことは、只アッラーに仕え、かれに信心の誠を尽し、純正に服従、帰依して、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をしなさいと、言うだけのことであった。これこそ真正の教えである。
6. 啓典の民の中(真理を)拒否した者も、多神教徒も、地獄の火に(投げ込まれ)て、その中に永遠に住む。これらは、衆生の中最悪の者である。
7. だが信仰して善行に勤しむ者たち、これらは、衆生の中最善の者である。
8. かれらへの報奨は、主の御許の、川が下を流れる永遠の園である。永遠にその中に住むであろう。アッラーはかれらを喜ばれ、かれらもかれに満悦する。それは主を畏れる者(への報奨)である。
預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)が召命された時代は、非常にアッラーのメッセージを必要としていました。大地の隅々に腐敗がはびこり、忘恩と不正が各宗教の信者たちに浸透してしまっていたのです。ユダヤ教徒、キリスト教徒がまさにその状態にあり、偶像をアッラーと共に崇めていたアラビア半島の多神教徒たちについては言うまでもありません。
かつて、啓典の民であるユダヤ教徒はアラブの多神教徒に、「マッカの地から、そしてアラブ人の中からアッラーはやがて預言者を御遣いになるだろう」と言っていました。この預言者は真理を打ち立て、公平を実現するのだと。ユダヤ人たちは、彼らの啓典に載っている新しい預言者の吉報を根拠にしながらこのように言っていたのです。また新しい預言者が来た暁には、自分たちは彼を援助し、彼を頼りに君たちに対抗するぞ、とアラブ人たちを脅しもしていたわけです。そのため多神教徒たちはこの来たる預言者の出現を期待しつつ、「彼の出現は君たちよりも私たちにより相応しいぞ」とユダヤ人に言い返していました。
アッラーがムハンマドを遣い給うと、多神教徒たちは彼にはばかっては敵対し、啓典の民も同じように振舞いました。ムハンマド(平安と祝福あれ)の預言者性と性質が彼らの書物にはっきりと記されていたにもかかわらずです。不信はしっかりと彼らの心を覆って真理を見えなくし、ムハンマドを追従すること、彼への信仰から離れさせてしまったのです。
この事実の解明として、そして大地に起こった腐敗の払拭を望み給うたアッラーのご慈悲として、この尊い章は啓示されたのでした:
「啓典の民の中(真理を)拒否した者も多神教徒も、かれらに明証が来るまで、(道から)離れようとしなかった。またアッラーからの使徒が、純聖な書巻を、読んで聞かせるまでは。」
意味:啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)と多神教徒は、彼自身が決定的な根拠であるアッラーの使徒ムハンマド(平安と祝福あれ)を介してでしか、不信などから手を洗い、真理を追従することはなかった。彼(平安と祝福あれ)が持って来たメッセージは明解な真理であり、多神と不信から清浄なクルアーンの各ページから彼は読誦していたのである、ということです。「またアッラーからの使徒が、純聖な書巻を、読んで聞かせるまでは。」この書簡の中に、真理と不正を分け示す決まりごとが記されている、ということです。
続けてクルアーンは、啓典の民であるユダヤ教徒とキリスト教徒は教えの統一におけるたくさんのはっきりとした根拠を携えた預言者が出現するまで、意見を違わせることはなかったこと解明しています:
「啓典を授かっている者たちが、分派したのは、明証がかれらに来てから後のことであった。」
クルアーンはこの分派の原因を違う箇所で説明しています:「知識がかれらに下った後、間もなくかれらの間の嫉妬によって分派が出来た。」(相談章14節)彼らの指導者たちに生まれた嫉妬心が分派の原因ということです。アラビア語での「バギー بغي」は、高慢さ、真理から不正への傾倒という意味があります。
ユダヤ教徒たちは、ムーサーという一人の使徒と律法という一つの啓典が存在するにもかかわらず、集団、派に分かれていきました。キリスト教徒もメシアの生態について意見を違わせ、彼を神としました。またユダヤ教徒とキリスト教徒の間に起こった相違は、苦い戦争を齎しました。
続けてアッラーは、御自身の使徒であるムハンマド(平安と祝福あれ)に啓示し給い、ユダヤ教徒とキリスト教徒にかつて命じ給うた教え(宗教)は一つであり、そこに相違は起こらないことを説明し給います:
「 かれらの命じられたことは、只アッラーに仕え、かれに信心の誠を尽し、純正に服従、帰依して、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をしなさいと、言うだけのことであった。これこそ真正の教えである。」
つまり、彼らユダヤ教徒とキリスト教徒は、崇拝行為にどのような同位者も配置しないよう一心にアッラーに仕えることのみを命じられた、ということです。「純正に」間違った信条からアッラーの唯一信仰に傾倒する、という意味です。また彼らは完全な形で礼拝を捧げ、相応しい者に喜捨を出すことも命じられています。「これこそ真正の教えである。」これらすべては真直ぐで公正な共同体が信奉する宗教である、ということです。その宗教とはムハンマド(平安と祝福あれ)を通して齎された教えです。
この事実が述べられた後、クルアーンはアッラーの導きを前にした二種類の人間を描写します:
「啓典の民の中(真理を)拒否した者も、多神教徒も、地獄の火に(投げ込まれ)て、その中に永遠に住む。これらは、衆生の中最悪の者である。だが信仰して善行に勤しむ者たち、これらは、衆生の中最善の者である。」
アッラーを信じずかれに同位者を配しムハンマド(平安と祝福あれ)の預言者性を否定したユダヤ教徒、キリスト教徒、アラブの多神教徒は来世で地獄の火の中に永遠に留まり、そこから出ることも死ぬことも罰が減らされることもない、ということです。「衆生の中最悪の者」つまり、最悪の被造物だということです。なぜなら真理を認めず、導きに招かれることを拒んだからです。代わってアッラーの存在とかれの唯一性を心から信じ、かれの使徒ムハンマド(平安と祝福あれ)を追従し、善行を行った者たちは、「衆生の中最善の者」、つまり最善の被造物、です。
ここで、クルアーンはいつも「信仰」を「善行」に結び付けていることを述べておきましょう。本物の信仰とは、心に落ち着いたものであり、行為が証明するものだからです。善行とは、アッラーが命じ給うたすべての崇拝行為、マナー、行為です。創造主をしっかりと信仰する人たちとは、自分たちの人生がアッラーの法の鏡となるような人のことを言うのです。
続けてクルアーンは、信仰し善行に勤しんだ者たちの行く末について解明します:
「かれらへの報奨は、主の御許の、川が下を流れる永遠の園である。永遠にその中に住むであろう。アッラーはかれらを喜ばれ、かれらもかれに満悦する。それは主を畏れる者(への報奨)である。」
至高なるアッラーは仰せになります:信仰し、善行に励んだ者たちが審判の日、主からいただく報奨は:「永遠の園」つまり、落ち着きと安泰が存在する木々の下を川が流れる園です。「永遠にその中に住むであろう」永遠にその場所に留まり、そこから出ることもそこで死ぬこともないということです。「アッラーはかれらを喜ばれ」現世にいたときに彼らがアッラーに服従していたことについて。このアッラーの御満足は信者たちの魂を安心でいっぱいにし、彼らは幸福の頂点に導かれます。「かれらもかれに満悦する。」アッラーからいただいた豊かな恩恵に。魂を癒す尊い心づくしに。信者たちはそれらで目をうるおします。「それは主を畏れる者(への報奨)である。」実にアッラーからのこの善なる報奨はアッラーを畏れる者以外は受け取らない、ということです。アッラーへの畏れとは、本物の幸福と来世における高位の勝利の獲得を意味するのです。
アッラーを畏れる気持ちは、すべてのよいことへ急きたて、すべての悪や世界が遭遇してしまった数々の災難や災害を追い払ってくれます。しかし心がアッラーへの畏れを失い、不正と高慢が人間を独占してしまった場合は別なのです。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P147~151)
بسم الله الرحمن الرحيم
12.ハディージャ(御満悦あれ)の家で:
今までに遭遇したことのない出来事に恐怖を覚えた預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は、心臓の動悸を激しくしながら帰宅しました。そして「私を包んでください、包んでください !私は自分が恐ろしい。」とハディージャに訴えるのでした。彼女が、なぜこのような状態にあるのか理由を尋ねると、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は洞窟で起こったことを話しはじめました。ハディージャはしっかりとした考えを持った女性でした。以前から預言者や天使たちについて聞き知っており、キリスト教に改宗したいとこのワラカ・イブン・ナウファルを訪問していたのです。ワラカは聖典を読み、律法と福音の民から学習し、純正な理性の持ち主がマッカの民の行いを否定するように、彼もその醜行を嫌っていたのでした。
ハディージャは妻であるというその近さゆえに、人々の中で最も預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の人格を知った人でした。その人格からアッラーに選ばれ、成功することを裏付けるその高貴な人徳の数々を彼女は目の当たりにしていたのでした。このような人となりと素行を備えた彼が悪魔に襲われたり、ジンに憑かれることは考えられません。またそのようなことはハディージャが知っているアッラーの叡智や被造物に対するアッラーの慈しみと相反していたので、自信と信仰と確信を持って、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)にこう言うのでした:
「いいえ!アッラーに誓って。アッラーはあなたを辱められません。あなたは親族を大切にし、誰にでも親切にし、貧者に施し、客人をもてなし、不幸に見舞われた者を助けてきたではありませんか。」
13.ワラカ・イブン・ナウファルと:
ハディージャは、この言葉を、健全な理性と純正な天性、これまでの経験と人々に対する知識に基づいて口にしたのでした。
しかし事はさらに重大でしたので、各宗教に詳しい人の助言が必要でした。そこでハディージャは学者でもあるいとこのワラカ・イブン・ナウファルを頼ることを思いつき、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)を連れて彼のもとへ赴きました。
預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)が洞窟で見たことをワラカに話すと、ワラカは言いました:
「私の魂を手にする御方にかけて。それはムーサーを訪れたナームース(啓示伝達の天使、ジブリール)じゃ。やがて人々はそなたを嘘つき呼ばわりし、危害を加え、そなたをここから追い出して、戦いを挑んでくるじゃろう。」
預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は、クライシュ族における自分の(高い)地位を知っており、人々から「信頼のおける人」や「誠実な人」と呼ばれていたため、ワラカの「人々はそなたを追い出すじゃろう」という言葉に驚愕したのでした。「彼らが私を追い出すのですか?!」と。
ワラカは続けます:「その通り。そなたに起こったようなことに見舞われた者で、敵対されなかった者はおらぬ。もしそなたのその日までわしが生きていられたら、大いにお助け出来るのじゃが。」
その後まもなくしてワラカは亡くなりました。啓示はしばらく途切れた後、また降り始めます。
啓示が途切れていた期間は、数日間と言われています。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)はこの間、悲しみと当惑と驚きに晒されましたが、きっとワラカの助言から、自分がジンに憑かれたのではなく啓示を授かったのだ、と知っていたことで安堵感を覚えていたことでしょう。
(次回は、預言者(平安と祝福あれ)の身の回りの人たちの入信などについて、インシャーアッラー。)
(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P117~118
②「封印された美酒」サフィーユッラフマーン・アルムバーラクフーリー著、ダール・アルフィクル出版、P42~43
③「預言者ムハンマドの足跡を辿って(前編)」、アブー・ハキーム・前野直樹編訳、ムスリム新聞社発行、P52~53)
بسم الله الرحمن الرحيم
99章解説
1. 大地が激しく揺れ、
2. 大地がその重荷を投げ出し、
3. 「かれ(大地)に何事が起ったのか。」と人が言う時。
4. その日(大地は)凡ての消息を語ろう、
5. あなたの主が啓示されたことを。
6. その日、人びとは分別された集団となって(地中から)進み出て、かれらの行ったことが示されるであろう。
7. 一微塵の重さでも、善を行った者はそれを見る。
8. 一微塵の重さでも、悪を行った者はそれを見る。
この章が啓示された当時の多神教徒たちは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に、「審判の日はいつか?」「この世はいつ終わるのか?」といった質問を多く投げかけていました。そしてアッラーはこの章を介して彼らに、かの日の兆候のみについて解明し給うたわけですが、それがいつ起こるかはアッラーのみがご存知であることを彼らに知らしめるためでした。
この章は、審判の日に起こるさまざまな恐ろしい出来事や、人間たちが受ける彼らの行為に対する完全に公平な裁きについて語っています。
まず、審判の日に見られるいくつかの恐怖の描写から章は始まります:
「大地が激しく揺れ、大地がその重荷を投げ出し、「かれ(大地)に何事が起ったのか。」と人が言う時。その日(大地は)凡ての消息を語ろう、あなたの主が啓示されたことを。」
審判の日に、大地では地震が起きますが、地震はもっとも恐怖心を湧かせる自然現象です。起こるのは地震だけではありません。大地はその中に埋めていた死人、財宝、鉱物などを吐き出します。こういった光景によって大地に大きな異変が起きたことを人に分からせ、人間が恐れと悲しみを感じながら、大地に何が起こったのかと自問させるのです。「その日(大地は)凡ての消息を語ろう」つまり、その日には人間たちが地上で行っていた悪行、善行を大地が語るということです。この節ついて、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の言葉が伝承されています。彼は言われました:《(皆にたずねて)この消息が何か分かりますか?教友たちは、アッラーとその使徒が最もよくご存知ですと答えた。その消息とは、大地が全ての男と女のしもべがその上で行ったことを、彼はかの日このように行ったという形で証言することです。これが消息です。(アッ=ティルミズィー)》アッラーはその日、通常語ることのない大地に話す力を授け給うて、それらについて話させるとも言われます。「あなたの主が啓示されたことを」つまり、人間よ、あなたの主がそのようにするよう大地に命令し給い、大地はその実行に急いだにすぎないのだ、という意味になります。
次に、人間たちが清算の場から去っていく、二つ目の光景について述べられます:
「その日、人びとは分別された集団となって(地中から)進み出て、かれらの行ったことが示されるであろう。」
つまり、人々は幸せ者と不孝者の中間に分けられた各グループに向かうために清算の場を後にしていきます。それは、自分たちの行為に対する報いを知るためです。現世においてアッラーに従う善行を行っていた人は、自分の行為とアッラーが準備してくださっている喜びを目にするでしょう。そしてアッラーに背いていた悪者も自分の行為に対する報いである地獄に入るという屈辱を目にします。
つづけてアッラーは来世における再生の目的と、報復の公正さを人間に解明し給います:
「一微塵の重さでも、善を行った者はそれを見る。一微塵の重さでも、悪を行った者はそれを見る。」
つまり、現世で一微塵分の重さに相当する善を行った人はそれに対する報奨を来世で見い出し、一微塵分の重さに相当する悪を行った人はそれに対する報いをそこで見い出す、ということです。
これこそがアッラーがしもべたちである人間に対して行う来世における公正な裁きです。そこには不正はなく、誰の行いも減らされることはなく、現世で横行している編愛やコネなどもありません。
不正に耐えている信者たちの心をなぐさめる、この公正な裁き。この世では善と悪が競い合っていて、ときに悪が善に勝つことがあります。信仰ある人間は、自分が行う善行に対する報いに与かれないこと、そして悪がその罰に遭わないことをとても重要視します。ここでアッラーは、人間がどのような行為を行っても、それがどんなに細かくて小さくても、アッラーはそれに対して必ず審判の日に清算し給い、公正な報いを与えることを私たちに示し給いました。
またこの章は信者に、どんなに小さくても、善行をしようということを思い起こさせてくれます。そしてこの小さな行為はアッラーのもとで無くなってしまうことは決してありません。また預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は多くても少なくても何か善いことを行うよう勧められており、通り道の邪魔になるものを取り除くことも呼びかけられました。《道から害を取り除くことはサダカです。(アン=ナサーイーとアル=イマーム・アフマド)》
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P152~154)
②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2913~2916)
بسم الله الرحمن الرحيم
100章解説
1. 吐く息荒く進撃する馬において(誓う)。
2. 蹄に火花を散らし、
3. 暁に急襲して、
4. 砂塵(さじん)を巻き上げ
5. (敵の)軍勢の真っ只中に突入する時。
6. 本当に人間は、自分の主に対し恩知らずである。
7. それに就き、かれ(人間もしくはアッラー)は誠に証人であり、
8. また富を愛することに熱中する。
9. 彼は墓の中のものが発き出される時のことを知らないのか。
10. また胸の中にあるものが、暴露されるのを。
11. 本当に主は、その日、彼らに就いて凡て知っておられる。
馬は、預言者(平安と祝福あれ)が生きておられた時代やそれ以降の時代における戦争用の乗り物でした。勝利のためには馬術が重要であることを数々の戦いが証明している通り、過去の偉大な征服に馬術が関係していました。こういった背景から、昔から人々は勝利に強く影響する馬術に熱い関心を寄せていたのです。
至高なるアッラーはこの章の中で、馬の存在を高める目的で馬における誓いの言葉を述べ給いました。信者たちに馬を飼う気を起させ、大切に面倒を見させ、馬術の訓練に向けさせるためです。そうすることでアッラーの道における戦いのために準備できるのです。アッラーは仰せになります:
「吐く息荒く進撃する馬において(誓う)。蹄に火花を散らし、暁に急襲して、砂塵を巻き上げ、(敵の)軍勢の真っ只中に突入する時。」
「進撃する馬において(誓う)」アッラーはかれの道において戦う馬において誓い給いました。その馬の徳を高めて。「吐く息荒く」馬が突進するときに発せられる音です。「蹄に火花を散らし」あまりにも馬が強く地面を蹴り飛ばすので花火が散ります。「暁に急襲して」早朝ゆえに、応戦の準備の整っていない敵を襲う馬を指しています。「砂塵を巻き上げ」急進することにより発生している砂埃です。「(敵の)軍勢の真っ只中に突入する時」突如として敵陣の中心に現われることで、敵に恐怖心を植え付けつつ不敗に持ち込みます。
誓いの応答は次のアッラーの御言葉です:「本当に人間は、自分の主に対し恩知らずである」じつに人間は主に与えられた数々の恩恵に対して忘恩であることを指します。そのことはさまざまな場で人間の言動の中に現われますが、やがてそれらはすべて、自分に対する証人に姿を化すことになります:「それに就き、かれ(人間)は誠に証人であり」またはアッラーが人間の忘恩の証人になり給うとも理解できます。「また富を愛することに熱中する」الخير ハイルは善などの意味を持ちますが、ここでは財産です。الشديد シャディードは激しく、という意味がありますが、ここでは非常に吝嗇であることを指します。人間は財産に対して不法な愛情を抱きかつ、善と慈悲を忘れさせるほど吝嗇でもあるのです。
章の始まりに登場している馬の特徴は、始まりと終わりがバランスを取った形になるよう、章の終りの二表現に反映されています。その二表現は:
財産を愛し、アッラーの恩恵を忘れる人。こういった人には、手に負えない心、粗暴で意地悪な性格、虚栄などが目立ちます。実はこれはすべて、突進する馬の特徴でもあります。
馬が敵の間に突然現われて敗北を味わわせる様子は、審判の日に金を溺愛した忘恩者が突然蘇らされる様子と重なります。アッラーは仰せになります:「彼は墓の中のものが発き出される時のことを知らないのか」脅迫の言葉です。醜行をし尽して、己の行く末を知らないとは。墓場に眠る人が清算を受けるために追い出され、「また胸の中にあるものが、暴露される」誰も知り得ない人間が隠せると思っている善や悪が心に集められ、そして行為の書にそれらすべてが書き出される、という意味です。「本当に主は、その日、彼らに就いて凡て知っておられる」本当にアッラーは人間たちが現世で行っていた全てのことも胸に隠したものも御存知であられ、一人一人の行為に対して報い給います。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P155~158)