イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

聖月を過ごすとは(4)

2019年08月04日 | 心の強化プログラム

クルアーンの教えを振り返ってみると、このような状況では忍耐しなさいとアッラーは私たちに教えてくださっています。悪い人には悪い態度で接しなさいとは仰せではありません。【あなたがたはアッラーと使徒に従いなさい。そして論争して意気をくじかれ,力を失なってはならない。耐えなさい。アッラーは耐え忍ぶ者と共におられる。】(8/46)と仰せですが、聖句の最後部分の「耐えなさい」が私たちが求めている結果です。 

聖月の最中にいる私たちは、アッラーに近づくための行為や罪の放棄、また崇拝行為によるメリットを得る努力といった自分たちの義務を知るべきです。私達自身と私たちの社会に対する態度を改善するためです。この実現には多大なる崇拝行為、ズィクル(アッラーの御名前を想起、唱える)を要します。私たちが社会において力を得、悪に悪で接する必要がないようにです。 

 

夜中に行う礼拝は強大な精神力を(つちか)います。私たちは自衛するための体力も必要ですし、社会に対応するための精神力も必要です。そこで、夜中に行う崇拝行為は、これらの力を付けるのに大いに役立ちます。また、ズィクル、クルアーン読誦も役立ちます。アラビア語がわからないためにクルアーンを読むのが難しいという人もいるでしょうが、その場合はクルアーンをたくさん聴いてください。たくさん読めないなら、たくさん聴きましょう。毎日30分のクルアーンを聴く時間を確保しましょう。現代はクルアーンをいろいろな方法で容易に聴くことが可能です。そしてサウムを加えておすすめします。サウムは強大な自我を磨く術であり、意志を強くするのに役立ちますので、週に12日のサウムを習慣にするのも良いでしょう。月木のサウムはスンナです。週2日が難しければ月木のいずれかを選択しても良いです。ラマダーン以外でもサウムする習慣を作りましょう。空腹と喉の乾きによって睡眠時間が短くなります。睡眠時間が減ると魂が強くなります。 

 

預言者様のスンナから「魂の栄養はつまり身体の欲求を退けることではない」ことを知っておかなければなりません。自我を磨き、欲に逆らうことは確かに必須ですが、私たちが現世に対して持っている必要を満たすことも忘れてはいけないのです。飲食物、結婚、子供は必要です。しかし、その必要姓を正しく導くのです。退けたり放棄したり無視はしません。聖法に合わせて必要を満たすのです。つまり、この聖月の日々に精神生活で目指すのは、その訓練であり、退けることではありません。預言者様はこのことをご自身の言動で教友たちに教えてくださりました。詳細は別の機会にお話します。 


聖月を過ごすとは(3)

2019年08月04日 | 心の強化プログラム

アッラーに近づこうと努めるが兄弟を嫌うムスリムには何の益もありません。アッラーは彼をお(とが)めになるでしょう。なぜならアッラーは崇拝行為によって人間同士の関係を良くすることをお命じだからです。 

クルアーン啓示と預言者様が遣わされる前のマディーナには、アル=アウス、アル=ハズラジュの2族が居住しており、イスラーム前には彼らの間に相違、戦争が多く起きていました。 

イスラーム到来後、彼らは兄弟となり、敵・戦争相手から兄弟・強い絆変わりました。 

その兄弟愛についてクルアーンが言及するほどです。 

しかし、ある時、面白くない隣人のユダヤ人は彼らの間に仲違いのきっかけを作ったことにより、二部族の人たちはせっかく作り上げることのできた自分たちのつながりを一瞬にして忘れてしまい、剣を振り上げて喧嘩しそうになりました。人間というものは崇拝行為等で忙しくしていないと魂が尊大になってしまうものです。 

そこを彼らの知らせを受けたアッラーの使徒がお止めに入、おっしゃいました: 

『信徒たちよ。私がいるのに無明時代のやり方か。アッラーがおまえたちをイスラームに導き、厚遇(こうぐう)くださり、無明時代の諸事を絶ち、お前たちを背信から救い出し、おまえたちの心を通い合わせたくださった後にか。』 

すると彼らはアッラーの使徒の声掛けによって我を取り戻し、剣を捨て、抱き合い、泣いた、ということです。 

 

この話から、「アッラーに近づくための行為」は「崇拝行為の形」の話なのではなく、「自身の変化」であることがわかります。「欲の放棄」、「アッラーの道標に戻る」話です。ですから私たちはこの期間、私たちの魂を養ってくれる、かの崇拝行為を必要とします。単に、聖なる日々の中で、かの崇拝行為を捧げるだけ、ということではありません。私たちはこの期間に「祝福された人格者」になれるよう目指します。個人が人間関係をバラバラにしてしまうような諸問題を解決しないうちは「祝福された人格者」になれません。夫婦間、友人間、隣人間で問題があるなら解決しましょう。 

多くの人がこの期間に単独で善行を多くしようとしますがその影響が彼らの行動の中に見受けられません。私たちが隣人や家族や友人に対して「祝福された人格者」にならない限り、崇拝行為の祝福、今の聖なる期間の祝福を受益できません。 

 

アッラーはクルアーンの各所にて彼のしもべをその人格、人との接し方そして彼らの崇拝行為を使って描写し給うています。このことは、行う崇拝行為だけでなく他人との接し方くすることも「善良な人」になるために必要であることを表しています。 

アッラーのお言葉【だからその聖月中にあなたがたは互いに不義をしてはならない。は、イスラーム社会に属する人たち全てに向けられています。「誰も、己に不義をしてはならない」と仰せではないことに注目してください。聖句は、信徒たちはお互いを愛し、全体が一つであるかのように生活しなければならないという意味を持ちます。これはもちろん容易なことではありません。特に、自分は改善しようと思っても、周りがそうでない場合、特に難しく、改善した人は被害者となってしまいます。アッラーはこうなることを御存知です。では私たちはどうしたらいいでしょう?ある人は、「私は良い人とは良い態度で接し、悪い人には悪い態度で接する」と言いますが、これはアッラーの道標とは異なり、善人、人格者の行動ではありません。 


聖月を過ごすとは(2)

2019年08月04日 | 心の強化プログラム

アッラーは仰せです: 

【本当にアッラーの御許で,(1年の)月数は,12ヶ月である。アッラーが天と地を創造された日(以来の),かれの書巻のなか(の定め)である.その中4(ヶ月)が聖(月)である。それが正しい教えである。だからその聖月中にあなたがたは互いに不義をしてはならない。】(悔悟章36節) 

「不義をしてはならない=自我を損なう」:自我を許された方法以外で使用することを指します。アッラーは人間とジンを彼に仕えさせるためだけに創造し給いました(【ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。】(51/56))が、自我に崇拝行為をさせずに悪行をさせること、これが聖句で言われる「自我を損なう」行為です。またこの行為は常に禁じられますが、聖月におけるその禁止が強調されることで、信仰者はその期間、更にアッラーに向き合おうとしなさい、お近づき行為に励みなさい、との意味があります。 

人間は生きている間、アッラーに仕えているか、その逆です。アッラーが私たちに罪を禁じ給う啓示は、私たちが常にお仕えしている状態にあるようにとのご命令です。「良き行為を成せとの命令は、すなわち、「魂を養うこと」です。なぜなら人間は魂と体でできており、体が成長のために栄養を要するように、魂もその向上のために栄養を要するからです。 

体が要する栄養の元来の姿は、人間が泥から創造されたことから理解できます。つまり身体の栄養は大地(植物や草を食む家畜等)から得られます。そして魂は、アッラーからやってきています。これについては聖句で幾度となく述べられています:【あなたの主が,天使たちに,「われは泥から人間を創ろうとしている。」と仰せられた時を思え。 (71) 「それでわれが,かれ(人間)を形作り,それにを吹き込んだならば,あなたがたは伏してかれにサジダしなさい。」】(38/71-72)聖句は私たちに人間は土泥でできた身体と、アッラーの吹き込みによる魂でできていることを教えてくれています。そしてこの2要素はそれぞれ栄養を要します。身体の栄養は身体を保ち、魂の栄養は人類全体を保ちます。 

人間が全ての願望を叶ようとすると、同じことをしようとする他人とぶつかります。そこで「魂の栄養」が体の欲求に制限を設けます。そして人間一人ひとりが個人の行為を制限することで、他人との関係に距離を保ちます。 

魂の栄養」は、体の欲に勝ちます。個人がその願望を叶えようとするところに「魂の栄養」は決まり事を定め、個人が他人を敬うようにしたり他人の満足や幸福のために努めるようにさせます。 

アル=アウス、アル=ハズラジュ2部族も、魂の栄養」を得た後は、他方を優先するようになりました。その例は、数々の戦の中にも見られました:負傷した戦士に水が運び込まれると、「私よりも兄弟を先に」と言いました。すると水が運び込まれた二人も「私より兄弟を先に」と言い、3人も同じことを言いました。最後の者に水が届けられると、その者はすでに亡くなっており、その前の者もすべてが亡くなっていたのです。彼らは自分の兄弟がまず水を飲むことを望みました。誰もが要しているだろう戦場における少量の水です。「魂の栄養」を得る前の彼らはお互いを殺そうとしていた人たちです。そして「魂の栄養」を得た後の彼らは、自分よりも他人を優先する人になったのです。599節は彼らに関して啓示されました。自分自身に先んじて(かれらに)与える。仮令自分は窮乏していても。】自分が必要としていても兄弟を優先しました。 

この期間に行う崇拝行為や善行の「形」について意味しているのではなく、社会の中で私たちが愛し合えるようにしてくれる「魂の栄養」について意味しているのです。 


聖月を過ごすとは

2019年08月04日 | 心の強化プログラム

イスラームの暦には年に4つの聖月があります。 

独立したラジャブ(7月)、連続するズ=ル=カアダ11月)、ズ=ル=ヒッジャ12月)、ムハッラム1月)です。4つの聖月の存在について各月の名前は述べられていませんが、クルアーンに言及があります。名称については預言者様のハディースが言及しました。 

ラジャブ月(7月)はすでに経過し、現在、連続する3月を私たちは迎えています。 

=カア11月)、ズヒッジャ12月)はハッジ大巡礼)の月としての共通点があります。現在、ズ=ル=カアダ月の真っ只中にある私たち、「ハッジの祝福」、「聖月であるゆえの祝福の中を生きていることになります。 

ハッジの月であるズ=ル=ヒッジャについてもクルアーンが言及していますが、名称は出てきません:【巡礼(の時期)は周知の数月である。】(雌牛章197節)なぜなら、ハッジ行為は預言者イブラーヒーム様عليه السلامの時代から続いてきた、アラブ人の間では知られたものだからです。 

信仰者はこの期間、善行に励むよう促され、ハッジ予定の人たちは出発に備えた準備に入ります。ハッジは素晴らしい崇拝行為です。その他の崇拝行為は一人で行いますが、ハッジが素晴らしいのは兄弟姉妹という集団で行うものだからです。 

ハッジを擁する月の祝福は、ハッジに行く人たちだけに与えられているわけではありませんし、ハッジに行けない人には祝福がないということでもありません。 

ハッジは信仰者とアッラーのつながりを強くしますが、ハッジに行かない人にはこの期間に行えるアッラーにお近づきになれる善き行いが多々あります。ですから、ハッジに行けないと悲観する必要はありません。悲観する人たちがハッジに期待することは、預言者様の以下のハディースにあるように、「全ての罪が赦されること」ですが、そのための行為は他にもあることを知らないのかもしれません: 

アッラーのためにハッジ行い、みだらに振る舞うことをせず、罪を犯さなかった者は、母親から生まれた日のような状態に戻る。》(アル=ブハーリー) 

ここで強調したいのは、ハッジに行けない人にもすべての罪を赦していただけるような行為はたくさんある、ということです。ムスリム総人口のごく僅かな人だけがハッジに行っているわけですから、ここでは行かない人たちがこの期間に行える行為についてお話します。 

例:【礼拝は昼間の両端において,また夜の初めの時に,務めを守れ。本当に善行は,悪行を消滅させる。】(フード章114節)罪を許していただける行為です。 

例;《悪行を思いついたがしなかった者には、善行と書き留められる》(ハディース)しようとしていることが禁じられているものと気づき、アッラーのために放棄した場合。それが出来る環境にないためにしなかった場合は善行とみなされません。