イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

悔い戻る者たちの道しるべ【7】-(3)

2015年09月17日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
あなたがアッラーに帰ることで、アッラーがあなたの悔悟のために喜んでくださることを確実に知っておくべきです。

あなたは”お母さんの心”を知っていますか。「かわいいぼうや、大丈夫?」と言うお母さん。いつか、アッラーの偉大さを示している諸しるしの一つである”お母さん”という被造物の心がどのようなものなのかを説明するお話をしようと思います。

預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)はある日、窯でパンを焼いている女のそばを通りました。窯の隣には彼女の幼い男の子がいました。女はパンを窯に入れるたびに、男の子を抱きしめ、口づけし、香りを嗅ぎました。次のお話が本に載っています:ある時、ムーサー様(アッラーの平安あれ)が、「主よ、なんという慈悲でしょうか?」アッラーは仰せになりました:「ムーサーよ、これはわれが母親の心に置いたわれの慈悲である。われはそれを彼女から引き抜こう。」アッラーが御慈悲を母親の心から引き抜くと、母親は泣く我が子を窯の中に放り込んでしまいました!

ウマル・イブン・アル=ハッターブ様(アッラーの御満悦あれ)は言いました:
《預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)のもとに捕虜がやってきました。捕虜の中にいるある女は、捕虜の中に男児を見つけると、捕まえて、その腹に男児を密着させ、授乳しました。預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は私たちにおっしゃいました:この女がその子を火に放り投げると思うか?私たちは、いいえ、彼女は子どもを放り投げることなどできません、と答えました。彼はおっしゃいました:まことにアッラーは、この女の息子に対する慈悲深さよりも、さらにしもべに慈悲深き御方である。》(アル=ブハーリー)

私が至高偉大なるアッラーの御慈悲を知る時、私が彼に悔悟すると彼が私を愛してくださり、喜んでくださると知る時、急いで悔悟しなければ、と思うのです。些細な罪はその主を滅ぼします。これはイスラーム世界におけるムスリムたちの問題です。大罪に陥ることは稀なのですが、些細な罪はとても多いのです。小さな罪の結果は大罪と同じで、アッラーとの隔たりを作ります。

ジャービル・イブン・アブディッラー様(アッラーの御満悦あれ)によると預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:
《悪魔は、ムスリムが彼に仕えることに失望した。しかし、彼らが挑発しあうことは別である。》(アハマド)

イスラーム世界に偶像崇拝はありません。しかし悪魔はそれ以外の、皆さんが些細に思う行為に目をつけました。悪魔はあなたが小さな罪に陥ることに満足するのです。なぜならそれ(些細な罪)は、あなたとアッラーの間に隔たりを作るからです。アッラーへの道において、これは揺るぎない真実です。罪は隔たりをつくります。あなたが信仰の道を歩む時、あなたにとって一番嬉しいことは、アッラーとつながり、お近づきになれることでしょう。しかし隔たりが生まれると、あなたが罪を犯したということを意味するのです。

司会:至高偉大なるアッラーに彼の御慈悲、そして彼のお赦しを祈願します。この度は些細な罪を警告してくださいました。次回は、罪を公にすることについてお話を聞けたらと思います。

http://nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7190&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895&w=%D9%85%D9%86%D9%87%D8%AC%20%D8%A7%D9%84%D8%AA%D8%A7%D8%A6%D8%A8%D9%8A%D9%86&aw=
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預言者伝【番外編10】

2015年09月10日 | 預言者伝関連
また預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、”別れの巡礼”を実行されました。その時、彼と共に大勢の信徒たちがおり、すでにアラビア半島は彼に伏していました。そんな中、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、その価値が4ディルハムにもならないビロードに覆われたぼろの鞍にお乗りになっていたのです。そして彼は次のようにおっしゃいました:《アッラーよ、(この巡礼を)偽善も世評もない巡礼にしたまえ。》(アッ=ティルミズィー)

また彼(アッラーの祝福と平安あれ)は、教友アブーザッル様(アッラーの御満悦あれ)におっしゃいました:《このウフド山ほどの金を所有し、3日たってもそこから1ディーナールを持っていることを私は喜ばないが、そこから負債のために準備しておくこと、アッラーのしもべたちに、はい、はい、と右、左、背後にと配ることは別である。》(アル=ブハーリーとムスリム)

また教友ジャービル・イブン・アブドゥッラー様(アッラーの御満悦あれ)は言いました:《アッラーの使徒様(アッラーの祝福と平安あれ)は何かを求められて、いいえ、とおっしゃったことがありません。》(アル=ブハーリー)イブン・アッバース様(アッラーの御満悦あれ)は彼(アッラーの祝福と平安あれ)について言いました:《預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、人々の中でもっとも善において、(恩恵をもたらす雨雲を含んだ)風よりも寛大でいらっしゃいました。》(アル=ブハーリー)教友アナス様(アッラーの御満悦あれ)は言いました:《ある男が彼(アッラーの祝福と平安あれ)にものを求めると、彼(アッラーの祝福と平安あれ)は二つの山の間にいるヤギを彼にお与えになりました。男は里に帰り、(人々を誘って)言いました:皆、帰依しなさい。まことにムハンマドは、貧困を恐れない男のようにものを贈る。またある時、彼(アッラーの祝福と平安あれ)のもとに9000ディルハムが運ばれてきました。敷物の上にそれが広げられ、彼はそれを配り始めました。彼(アッラーの祝福と平安あれ)はそれがなくなるまで、欲しがる人を拒むことはありませんでした。

人々と:
預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)の現世におけるこのような崇拝行為や慎ましい生活様式、心身ともにアッラーに対峙すること、そして彼のことで忙殺されること、また彼に懇願することが、絶えない笑顔、明るい表情、同胞への心配り、人々への思いやり、必要者すべてにその必要を満たしてあげることといった行動を邪魔することは一切ありませんでした。以上を成し遂げられるのは彼(アッラーの祝福と平安あれ)以外にはいらっしゃらないのです。彼(アッラーの祝福と平安あれ)のお言葉:《もしおまえたちが私が知っていることを知ったなら、必ずやおまえたちは少しだけ笑い、多く泣くだろう。》(アル=ブハーリーとムスリム)

彼(アッラーの祝福と平安あれ)は、誰よりも心が広く、物腰が柔らかく、寛大で、教友たちと冗談を言い合い、彼らと交わり、子供たちと遊び、彼らを自らの膝の上にお乗せになるお方でした。また、自由人と奴隷人と貧者の頼みごとに応え、病人が町の遠くにいても彼を見舞い、言い訳する者の口実を許容されました。また、誰の邪魔にもならないよう、仲間たちの前でその足を伸ばしてお座りになることもありませんでした。

教友アブドゥッラー・イブン・アル=ハーリス様(アッラーの御満悦あれ)は言いました:《私はアッラーの使徒様(アッラーの祝福と平安あれ)より多くほほえむ人を見たことがありません。》(アッ=ティルミズィー)ジャービル・イブン・サムラ様(アッラーの御満悦あれ)は言いました:《私は100回以上にわたってアッラーの使徒様(アッラーの祝福と平安あれ)と席を共にしたことがあります。彼の教友たちは詩を詠みあったり、無明時代の諸事を語り合ったりしていましたが、彼(アッラーの祝福と平安あれ)は何もおっしゃらずにおられました。もしかすると彼らと一緒に微笑んでいらっしゃったかもしれません。》

(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P427〜428)
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悔い戻る者たちの道しるべ【7】-(2)

2015年09月03日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
司会:
それ(罪)は、イスティグファール(罪の赦し乞い)で無くなるのでしょうか?この状態を治す方法は何ですか?


先生:
”イスティグファール”と、”(罪からの)脱却”、そして”この罪へ二度と戻らない”という決心が欠かせません。しかし、このように言う人がいるかもしれません:「私は、集まりがあってその中で罪を犯す度に罪の赦し乞いをするのだけど、まるでアッラーを冒涜しているようじゃないか!」。


司会:
それを決心するとなると。


先生:
罪を再び犯すと決心して、その次に罪の赦しを求める人は、至高偉大なるアッラーを冒涜する人です。しかし、不意に罪に陥ってしまった場合は、アッラーは赦してくださります。しかし、”ある罪の赦し乞いをその度に行う”という決心を持つことは、アッラーを冒涜することになります。


司会:
祝福多き至高なるアッラーは仰せです:
「その顧み戻り給うのはアッラー(の恩寵)に依拠し、無知ゆえに悪事をなし、その後、間近で悔い戻る者に対してのみ。」(女性章17節)


先生:「間近で」という表現は非常に繊細です。学者たち曰く:罪からの悔悟は必須。悔悟を先延ばしにした場合、他のことから悔悟しなければならない。


司会:
信仰者が「私は偉大なるアッラーに赦しを乞い、彼に悔い戻ります」と言うだけで、罪から完全に悔悟できたことになるのでしょうか?


先生:
心が感じていればです。悔悟する人は、望む(罪の赦し乞い) 言葉を言えば良いでしょう。しかしアッラーは、畏れている心からの言葉しか受け付け給いません。


司会:
ウスマーン・イブン・アッファーン様(アッラーの御満悦あれ)によると、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は次のようにおっしゃいました:
《至高偉大なるアッラーが命じ給うた通りにウドゥーを完遂させた者は、5度の礼拝がそれらの間(に犯された罪)の罪の償いになる。》(アル=イマーム・アハマド)


先生:
その通りです。預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、ご自身が望むことをただおっしゃっているのではありません。彼に啓示された啓示に他なりません。


司会:
それら(各礼拝)の間の罪の償い、とありますが、行われる罪が赦される、という意味でしょうか?


先生:
その通りです。2礼拝の間、2金曜日の間、2断食斎戒の間もです。


司会:
しかし人は、2度の礼拝の間に悔悟をしようと意志しません。


先生:
悔悟をしていなくても、先述の礼拝を行って、礼拝の前になされてしまった罪の赦しをアッラーに乞えば、大罪でない限り、そしてその罪をいつもしようと思い、その後に罪の赦し乞いを繰り返していない限り、次の礼拝が2礼拝の間になされたことの償いになります。イスティグファールをしながら、「またこの罪を犯そう」と思っている者のイスティグファールをアッラーは受け付け給いません。なぜならアッラーに対する冒涜だからです。


司会:アブドゥッラー・イブン・マスウード様(アッラーの御満悦あれ)によると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:
《罪から悔悟する者は、罪がない者のようだ。》(イブン・マージャ)
つまり、”小さな罪”のことです。


先生:
しもべが真剣なタウバをすると、アッラーは彼の守護係と天使たちと地のあるゆるところから彼の諸々の罪を忘れさせ給います。悔悟する者は、アッラーが愛で給う者です。悔悟する者は、人間が創造された目的を実現したことになります。アッラーは人間を慈しみ給うために創造し給いました。人間がアッラーの御慈悲を享受すると、人間の創造の目的を果たせたことになるのです。アッラーは、私たちが幸せになるため、私たちを慈しみ給うために、私たちにお与えになるために、私たちに恵み給うために私たちを創造し給いました。ですから、アッラーの恩恵と慈悲と慈善を受けた者は、確実にアッラーが彼を創造し給うた目的を叶えたことになるのです。そのため、
アブーフライラ様(アッラーの御満悦あれ)によると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のようのおっしゃいました:
《まことにアッラーは、おまえたちの誰かで迷子となった家畜を見つけた者よりも、おまえたちの誰かの悔悟を喜び給う。》(アッ=ティルミズィー)

http://nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7190&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895&w=%D9%85%D9%86%D9%87%D8%AC%20%D8%A7%D9%84%D8%AA%D8%A7%D8%A6%D8%A8%D9%8A%D9%86&aw=
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