イスラーム勉強会ブログ

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75章解説【1】

2012年12月25日 | ジュズ・タバーラカ解説
بسم الله الرحمن الرحيم
1. 復活(審判)の日に誓おうではないか。
2. そして自責する魂に誓おうではないか。
3. 人間は、われらが(復活の日に)彼(人間)の骨を集めることはないと考えるのか。
4. いや、われらは彼の指先まで整えることが可能で(、それを整える)。
5. いや、人間はこの先も罪悪を重ねることを望み、
6. 復活(審判)の日はいつごろか、と(嘲って)尋ねる。
7. それで(復活の日の恐怖に)目が眩んだ時、
8. そして月が姿を隠し、
9. また太陽と月が合わせられた(時)、
10. 人間はその日、逃げ場はどこか、と言う。
11. 断じて、退避地はない。
12. その日、お前の主の御許に落ち着き先はある。
13. その日、人間は、先になしたことと後とになしたことについて告げられる。
14. いや、人間は己に対して証拠となる、
15. たとえその様々な申し訳を持ち出したとしても。
16. それ(クルアーンの啓示、暗記)に急いでおまえの舌をそれ(クルアーンの読誦)で動かしてはならない。
17. まことにその(胸中への)収集(記憶)とその読誦は、われらの務めである。
18. それゆえ、われらがそれを読み聞かせた時にはその読誦に従え。
19. それから、まことにその解明もわれらの務めである。

イスラームにおける信仰の柱の一つに、最後の日の信仰がありますが、この日には審判の日とも名が付いています。

かつて信仰の本質について尋ねられたアッラーの使徒(祝福と平安あれ)は言いました:あなたがアッラーと、天使たち、諸啓典、諸使徒、最後の日を信仰し、善きも悪くもアッラーからの定めを信仰すること。

そしてクルアーンは「審判章」でこの内容を解説しています。

この章は、審判の日は疑いなく真実であり、それは必ず起こることを強調することで始まります。至高なるアッラーは仰せになります:
「復活(審判)の日に誓おうではないか。そして自責する魂に誓おうではないか。」

誓いの言葉の直前に否定の「لا」を置くことは、アラブの言葉や詩において頻繁に使われる方法で、これは誓いの強調に役立ちます。「事は明解なので誓う必要などない」とアッラーが仰せになっているかのようです。審判の日を否定する者に対して、それを軽視する者に対してその存在を知らしめる目的でアッラーは審判の日に誓い給いました。

また、「自責する」と形容された魂にもアッラーは誓い給うています。これは服従行為や罪において自責する信仰者の魂を指します。服従行為においては、なぜもっと多くしなかったのかと自責し、罪においてはその犯してしまったことを自責することで、悔悟してアッラーに帰るのです。これからは二度と同じ行為を繰り返さないという決意の表れです。アル=ハサン・アル=バスリーは言っています:敬虔な者が常に自責しているのを貴方は見るだろうが、破廉恥な者は自責せずに歩き去ってしまう。

アッラーは自責する魂に誓い給うことでそれを褒め、その存在を強調し、その道を歩むよう勧め給うています。

続いてクルアーンは、審判の日を否定している不信仰者たちの主張を語ります:
「人間は、われらが(復活の日に)彼(人間)の骨を集めることはないと考えるのか。いや、われらは彼の指先まで整えることが可能で(、それを整える)。」

彼らが来世の存在を否定していることの一つが、土に埋もれたばらばらの骨が元通りになること、人間が生き返るということが想像に難しいということです。かつてアラブの不信仰者であった「アディ」という男が預言者(祝福と平安あれ)の隣に座って、審判の日について話してほしいと願ったところ、その日の一部について話しました。「その日をこの目で見たとしてもムハンマドよ、私はあなたを信じないし、その日のことも信じないぞ!アッラーが朽ち果てた骨を集めるなど可能なのか?!」すると返事としての啓示が下りました。至高なるアッラーは強調して仰せになります:いや、われらの力によって骨を集めるだけでなく指先の骨も整えられるのだ。

続いてクルアーンは、審判の日を否定することにおける隠れた精神的原因と、本質的な理由を解明します。人間は欲望と罪な行為に溺れたいのに、再生と報復という思想はその望みに立ちはだかるため、彼らは審判の日を脳裏から追い払いたいと思うのです。アッラーは仰せになります:「いや、人間はこの先も罪悪を重ねることを望み、復活(審判)の日はいつごろか、と(嘲って)尋ねる。」

「بل いや」が文頭に来ていることが上記のような原因付けを想像させます。そしてアッラーが描写し給うたこの原因へと続きます。「この先も罪悪を重ねることを望み」つまり時間が流れても悪行をし続けるという意味です。この先、とは将来を意味します。この人間は否定と遠ざかりたい気持ちを込めて審判の日について質問しつつ悪行をし続けます。

審判の日と行為には報いがあることを人が信じれば、自分から発せられるすべてに常に注意していられるようになります。罪から自分を守り、全身で善を行おうとしますが、将来起こる審判の日にはアッラーの御前に立って清算を受けることになるからです。審判の日への信仰は人の魂を自責するものに変えます。自身から発せられる全てを責めるようになります。これこそが審判の日と、誓いの言葉が章の始まりにある自責する魂に誓う言葉が結び付けられた秘密なのです。

不信仰者たちによる審判の日の到来の否定を前に、酷い嵐のような応答がクルアーンより寄せられます。またその日に起こるいくつかの出来事も同時に述べられます:
「それで(復活の日の恐怖に)目が眩んだ時、そして月が姿を隠し、また太陽と月が合わせられた(時)、人間はその日、逃げ場はどこか、と言う。断じて、退避地はない。その日、お前の主の御許に落ち着き先はある。その日、人間は、先になしたことと後とになしたことについて告げられる。」

そのときに起きる膨大な変化を見ることで視覚は乱れ恐怖で驚きます。山々がはげたり、大地が割れたりなど。月が消えてその光が去り、離れていた月と太陽が一つになるにもかかわらず光はありません。このような出来事が起きる中、人間らは尋ねあいます:どこに逃げる?と。そのとき、「断じて、退避地はない」と応答があります。つまり、要塞や逃げ場など無いので逃げる意味はないということです。「その日、お前の主の御許に落ち着き先はある」落ち着き先はアッラーの御許のみということです。以上の出来事が起きる日の行き先はアッラーおひとり以外に何もありません。その日のすべては彼に委ねられます。また人々の行為にかけられていた覆いが剥がされます。「人間は、先になしたことと後とになしたことについて告げられる」生前に行ってきた善行と悪行と、死後に発生した、自分に繋がっている善行と悪行について知らされます。善行であれば、例えばサダカ・ジャーリヤ(公衆飲み場設立等)や有益な知識が挙げられます。悪行であれば何か新設した悪行が人々に行われるようになるとその責が死後も追ってくることがいえます。

または:始めと終わりの行い、という意味とも取れます。すると:人間は人生の始めから最後までになした行いについて知らされるという意味になります。「告げられる」には、清算のために知らされるという意味があります。

人間は自分の行った行為の証人となります:
「いや、人間は己に対して証拠となる、たとえその様々な申し訳を持ち出したとしても。」

人間がするどのような言い訳も何の役に立ちません。体の各部分が証人となるのです:「彼らの舌と手と足が彼らのなしたことを証言する日に」(御光章24節)

そして預言者(平安と祝福あれ)に啓示の受け取り方を諭す節が続きます:
「それ(クルアーンの啓示、暗記)に急いでおまえの舌をそれ(クルアーンの読誦)で動かしてはならない。まことにその(胸中への)収集(記憶)とその読誦は、われらの務めである。それゆえ、われらがそれを読み聞かせた時にはその読誦に従え。それから、まことにその解明もわれらの務めである。」

かつて預言者(平安と祝福あれ)はジブリールを介して啓示を受ける時、暗記に努めようと舌を急いで動かしていました。忘れてしまうことを恐れたためです。もしクルアーンが彼から発せられたもの、つまりイスラームの敵が主張するように彼の著作でありアッラーのものでなかったなら、その中に熟考した跡が存在し、その暗記に急ぐために舌を急いで動かしたりなどしなかったはずです。しかし預言者(祝福と平安あれ)は突発的な学習に晒されて啓示を受ける度に一文字一文字繰り返して読んでいたのです。そのため、啓示を受け始めたばかりでまだ慣れていない頃には、啓示の暗記に必死であったに違いありません。

そのためアッラーは預言者(祝福と平安あれ)に次のように仰せになっています:「それ(クルアーンの啓示、暗記)に急いでおまえの舌をそれ(クルアーンの読誦)で動かしてはならない」つまり啓示を受けている時はそれを聞き逃してしまうと恐れるあまりに舌を動かそうとしてはいけないという意味です。「まことにその(胸中への)収集(記憶)とその読誦は、われらの務めである」つまり人々に読み上げるためにあなたの胸にそれを集めて暗記させるのはわれらの任務であるという意味です。「それゆえ、われらがそれを読み聞かせた時にはその読誦に従え」ジブリールを介してわれらがクルアーンをあなたに読み聞かせるときは、それを聞き、その内容に従い、実行しなさいという意味です。「それから、まことにその解明もわれらの務めである」許容事項、禁止事項や意味、裁定で不明な部分の解明という意味です。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP135~139)

預言者伝38

2012年12月13日 | 預言者伝関連

124.ユダヤ人達が協定を破る:
  かつてアッラーの使徒(祝福と平安あれ)がマディーナに移った時、ムハージルーンとアンサールの間の決まりごとを書き記しましたが、その中にユダヤ人達と協定を結んだことが記載されていました。その史実から、アッラーの使徒(祝福と平安あれ)が彼らに寛大に接していたことが分かります。彼はユダヤ人の宗教と富を容認し、彼らのためになる条件を設け、また彼らに課される条件も設けました:
  『ユダヤ人で我々に追従する者は、援助と、同等のものを得、不当な目に遭うことも敵対されることもない。
またユダヤ人はクライシュの誰とも富や命を共有してはならず、ムスリムの敵になってもならない。
また戦時には、ユダヤ人はムスリムと共に出費する。
またユダヤの諸族は、信徒たちと共に一つの共同体である。
ユダヤ人には彼らの宗教があり、ムスリムにも彼らの宗教、同盟者、命がある。』
  『この協定を共有する民を襲う者に対しては、互いに戦い守り合うこと。
互いに助言し合い、罪ではなく善を行い合うこと。
ヤスリブ(マディーナの旧名)を襲う者に対しては、一緒に戦うこと。』

  しかし、アン=ナディール家のリーダーであるフヤイ・イブン・アハタブは、クライザ家(ユダヤ人たち)が協定に背き、クライシュに傾くよう、うまく誘導に成功しました。クライザ家(ユダヤ人たち)のリーダーであるカアブ・イブン・アサドは:私はムハンマドが正直で忠実であることしか知らない、と言っていたにもかかわらず、結局カアブは協定を破り、アッラーの使徒(平安と祝福あれ)の間に結んでいたものとは我々はもう無関係である、と宣言したのでした。

  この知らせがアッラーの使徒(平安と祝福あれ)に届くと、数名のアンサールと共に、(イスラーム以前からクライザ家(ユダヤ人たち)と協定関係にあった)アル=アウス族のリーダーであるサアド・イブン・ムアーズと、アル=ハズラジュ族のリーダーであるムアーズ・イブン・ウバーダを送り、知らせの真相を調べに行かせました。すると真実はさらに酷いものでした。ユダヤ人らはアッラーの使徒を軽蔑して:「アッラーの使徒とは誰だ?我々とムハンマドの間には約束も契約もない」と言っていました。しかも彼らは、ムスリムたちとの協定を破るだけでなく、ムスリムたちを襲う準備を始めていたのです。彼らは背後からムスリムたちを襲おうとしていました。このやり方は公けに襲ったり、広場で戦うよりも酷く悪質で、その状況は、次のアッラーの御言葉の通りです:【おまえ達の上から、そして、おまえ達の下から彼らがおまえ達の元にやって来た時】(クルアーン 部族連合軍章10節)

  この動向は、ムスリムたちを苦しめました。ユダヤ人たちに情を示したり、彼らが危険な目に遭うたびに、かつて同情していたサアド・イブン・ムアーズは、塹壕の戦いで矢による傷を負い、腕の動脈が切れ死を覚悟した時にこう言いました:アッラーよ!クライザ家の悪い結末を見るまで私を死なせないでください!

125.いざクライザ家(ユダヤ人達)へ:
  アッラーの使徒(祝福と平安あれ)と信徒たちが武器を片付け、塹壕から引き揚げマディーナに向かう途中、大天使ジブリールがやって来て言いました:アッラーの使徒よ、もう武器を置いてしまったのですか?
アッラーの使徒(平安と祝福あれ)は、そうです、と答えました。ジブリールは続けて言いました:天使たちはまだ武器を置いていません。威厳あるアッラーはクライザ家(ユダヤ人たち)のところへ行くようあなたに御命じです。私は彼らのところへ向かい、彼らを怖れさせましょう。
アッラーの使徒(平安と祝福あれ)はすぐに呼びかけ人に命じると、「命令を聞き従う者は、アスルの礼拝をクライザ家(の土地)に着いてからでしか行わないように。」と呼びかけさせました。

  クライザ家(ユダヤ人達)の土地に着いたアッラーの使徒(平安と祝福あれ)たちは、25日に渡って彼らを包囲しました。アッラーは彼ら(ユダヤ人達)の心に恐怖を投げ込み給い、彼らは苦しむことになります。

 (参考文献:「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P259~261など)


76章解説【2】

2012年12月06日 | ジュズ・タバーラカ解説
بسم الله الرحمن الرحيم
13.彼らはそこで寝台に寄りかかり、そこでは太陽も酷寒もみないで。
14.そして彼らの上にはその(楽園の木)陰が間近で、その果物は低く垂れ下げられた。
15.そして彼らの周りには銀の器とギヤマンのコップが回され、
16.(つまり)銀のギヤマンで、彼ら(召使の酌人たち)は適量を計り取る。
17.そして彼ら(敬虔な者たち)はそこ(楽園)で酒杯で(酒を)注がれるが、その混ぜ物はショウガである。
18.(つまりショウガとは)サルサビールと名付けられたそこ(楽園)にある泉(の水)である。
19.そして彼らの周りには永遠の少年たちが回る。お前が彼らを見たなら、撒き散らされた真珠かと想ったであろう。
20.(そこに)至福と広大な王権を見たであろう。
21.彼ら(敬虔な者たち)の上には緑の錦と緞子(どんす)の服があり、銀の腕輪で飾られ、彼らには彼らの主が清らかな飲み物を飲ませ給う。
22.「まことに、これがおまえたちへの報いであり、おまえたちの努力は厚く報いられた」(と彼らに言われた)。
23.まことにわれら、われらこそがおまえの上にクルアーンを降示として降した。
24.それゆえ、おまえの主の裁定に耐え、彼らのうちの邪な者にも忘恩の不信仰者にも従ってはならない。
25.そして、おまえの主の御名を朝に夕に唱えよ。
26.そして、夜のうちも彼に跪拝し、夜に長く、彼を賛美(礼拝)せよ。
27.まことにこれらの者(不信仰者)は目先のもの(現世)を好み、重大な日(最後の審判の日)を己の背後に打ち捨てる。
28.われらが彼らを創り、彼らの(体の各部の)連繋(れんけい)を頑丈にしたのである。それでもしわれらが望んだなら、彼らを同類のものと交代に取り替えたであろう。
29.まことに、これ(クルアーンの章や節)は訓戒である。それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主への道を取る(が良い)。
30.だが、おまえたちは、アッラーが望み給うたのでなければ(アッラーへの服従を)望むことはない。まことにアッラーはよく知り給う英知ある御方であらせられた。
31.彼(アッラー)は御望みの者を彼の御慈悲のうちに入れ給う。一方、不正な者たちには痛苦の懲罰を彼らに用意し給うた。

 アッラーは楽園における敬虔な者たちの生活や恩恵について描写し給います:
 「彼らはそこで寝台に寄りかかり、そこでは太陽も酷寒もみないで。」

 「الأرائك  アラーイク(寝台)」は、高価な布を垂れ掛けたベッドです。また彼らは楽園で害のある日光を浴びせてくる太陽を見ることも、体を刺す厳しい寒さを経験することもありません。

 「زمهرير ザムハリール」は月を指して使われることもあります。つまり彼らは楽園で太陽も月も見ることがない、ということです。代わりに彼らには楽園の特別な光が与えられるため太陽と月の光は不要となります。

 至福のしるしとして:降りてきた陰、手の近くにある果物:
 「そして彼らの上にはその(楽園の木)陰が間近で、その果物は低く垂れ下げられた。」

 つまり木々の陰は彼らに近く、彼らの上にあり、楽園の果物はそれを食べる人のために準備されているゆえ、誰にもそれをもぎ取ることが困難ではありません。

 また、敬虔な者たちに、高級な器とコップが差し出されます。その中に大変おいしい飲み物が入れられます:
 「そして彼らの周りには銀の器とギヤマン(ガラス製品の古風な呼び名)のコップが回され、(つまり)銀のギヤマンで、彼ら(召使の酌人たち)は適量を計り取る。」

 「آنية アーニヤ」とは食べ物を入れる銀製の器です。「أكواب アクワーブ」は取手のないコップです。このコップは「قواريرカワーリール」ですが、その単数形カールーラとは飲料用のガラス製の入れ物です。楽園のそれは銀製にもかかわらず、ガラスの透明性と銀の白さを持ち合わせています。「適量を計り取る」は、酌人たちは飲料を、飲む者の欲する量以上にも以下にも計り取らないという意味です。

 そしてアッラーは、敬虔な者たちが飲む飲み物について仰せになります:
 「そして彼ら(敬虔な者たち)はそこ(楽園)で酒杯で(酒を)注がれるが、その混ぜ物はショウガである。(つまりショウガとは)サルサビールと名付けられたそこ(楽園)にある泉(の水)である。」

 飲み物で満たされたコップはショウガで混ぜられますが、アラブでは好んでショウガが使用されます。そしてこのコップはサルサビールと名付けられた泉の水で満たされます。その強い甘さとのど越しの良さがこの名前の由来です。

 至福の追加として、この器やコップを運んでいる容姿の美しい、年齢が変わることのない少年たちの存在です。彼らがあちこちにいる様子はちょうど撒き散らされた真珠のようです:
 「そして彼らの周りには永遠の少年たちが回る。お前が彼らを見たなら、撒き散らされた真珠かと想ったであろう。」

 アッラーはこの至福を大まかに描写し給います:
 「(そこに)至福と広大な王権を見たであろう。」

 つまり、楽園で視線をあちらの方に向けたなら、表現できないほどの至福と、魂が休息し幸福になるために必要な全てに充分な大きな王権を見るでしょう、という意味です。

 アッラーは敬虔な者たちが着る衣服と装飾品について述べ給います:
 「彼ら(敬虔な者たち)の上には緑の錦と緞子(どんす)の服があり、銀の腕輪で飾られ、彼らには彼らの主が清らかな飲み物を飲ませ給う。」

 彼らの身体を薄い絹地でできた緑色の衣服である「سندس スンドゥス」と、「إستبرق イスタブラク」と言われる厚めの絹地の衣服が覆います。また彼らは銀製の腕輪を身に着け、そして「彼らの主が清らかな飲み物を飲ませ給う。」それはあらゆる汚れと害から遠ざけられた純正な飲み物です。

 そして、敬虔な者たちに光栄を与える主の呼びかけが続きます:
 「「まことに、これがおまえたちへの報いであり、おまえたちの努力は厚く報いられた」(と彼らに言われた)。」

 なんとこの呼びかけが素晴らしく、信仰厚き人たちにとって偉大な喜びであることでしょう。なぜなら主が彼らに呼びかけ給うという事実は彼らにとって最大の幸福であるからです。彼らに対する呼びかけの中に、万物の主の満足と親愛を感じ取っているのです。彼らの行為はアッラーにより感謝されるものであったため、アッラーは彼らに来世の至福を褒賞として与え給いました。

 イスラーム宣教の初期、マッカの不信仰者たちは預言者(祝福と平安あれ)の宣教活動の撃退を試みて、時に危害を彼に加え、また時に富や権力で活動から逸らせようとしました。そのため次に続く節がこの立場を扱っているのが分かります:

 「まことにわれら、われらこそがおまえの上にクルアーンを降示として降した。それゆえ、おまえの主の裁定に耐え、彼らのうちの邪な者にも忘恩の不信仰者にも従ってはならない。」ムハンマドよ、至高なるアッラーはおまえにクルアーンを英知に基づいて分けて啓示した。だからこそおまえに敵対する者たちにおけるアッラーの裁定と英知に忍耐し、おまえを宣教活動の道から外させようと望む者たちの誰にも従ってはいけない。彼らは罪に深く浸っているか、不信仰の中に溺れている。

 任務が重かったため、助けが必要でした。ここでアッラーより、助けがあることが示されます。アッラーに避難場を求めること、彼を多く思い起こす(ズィクル)こと、礼拝を遵守することです。アッラーは仰せになります:

 「そして、おまえの主の御名を朝に夕に唱えよ。そして、夜のうちも彼に跪拝し、夜に長く、彼を賛美(礼拝)せよ。」

 「ذكر الله ズィクルッラー」の意味するところがアッラーの御名を心と舌で常に唱えることであったり、「بكرة ブクラタン(朝)」という言葉の登場のため、ファジュルの礼拝をすることであるとも取れます。「أصيلا アスィーラー(夕)」昼の真ん中以降つまりズフルとアスルの礼拝を指します。「夜のうちも彼に跪拝し」はマグリブとイシャーの礼拝を指します。「夜に長く、彼を賛美(礼拝)せよ」夜中にするタハッジュドの礼拝を指します。

 そしてクルアーンは不信仰者の頑固の原因が現世への愛と来世の存在の否定であることを解明します:
 「まことにこれらの者(不信仰者)は目先のもの(現世)を好み、重大な日(最後の審判の日)を己の背後に打ち捨てる。」

 彼ら不信仰者たちは「عاجلة アージラ(目先のもの)」を好みますが、これは現世を指します。現世がこの名で付けられたところに人生の短さ、日々が早く過ぎ去ってしまうことが想起されます。そして人々は現世の楽しみや欲望を得ようと急ぎます。また同時に、「己の背後に打ち捨てる」背後に残していくという意味ですが、つまり信仰の放棄、来世で自分らを救ってくれる善行の実践の放棄を指します。「重大な日」最後の審判の日を指します。その日の厳しさと恐ろしさから重大という表現で描写されました。

信じ続けないでいるならば…と不信仰者たちに向けられた警告の言葉が次の聖句に続きます:
「われらが彼らを創り、彼らの(体の各部の)連繋(れんけい)を頑丈にしたのである。それでもしわれらが望んだなら、彼らを同類のものと交代に取り替えたであろう。」

自分たちの力に自惚れている多神教徒らは知るがいい:アッラーが彼らを作り給うたことを。「彼らの(体の各部の)連繋(れんけい)を頑丈にしたのである」つまりアッラーは御自身の被造物を頑丈に作り給うたということです。彼らを滅ぼし、彼らに代わって主を崇めて背くことのない民を出現させることはアッラーには可能なことなのです。

続いて、この章が、導きと信仰と善行を主の御満足に到達させるための手段として望む者にとって訓戒であることをアッラーが解明し給います:
「まことに、これ(クルアーンの章や節)は訓戒である。それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主への道を取る(が良い)。だが、おまえたちは、アッラーが望み給うたのでなければ(アッラーへの服従を)望むことはない。まことにアッラーはよく知り給う英知ある御方であらせられた。」

つまり、この章は思い起こし、教えを得た者にとって訓戒であるということです。「それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主への道を取る(が良い)」アッラーへの道を取るとは、アッラーが人間に課した義務を行い、禁止と命令において彼に従うことで彼に近づこうとすることを意味します。代わって次の聖句:「だが、おまえたちは、アッラーが望み給うたのでなければ(アッラーへの服従を)望むことはない」ここに強制の意味合いはありません。人間が導きの道を取ると同時に、すべてを包囲するアッラーの御力の存在と包括的な彼の御意志を信じなければならないという意味があります。そのため導きの道を自分が取ったのは自分に徳があるからと位置付けるだけではなく、アッラーに謙遜し、また導いてくださったことに感謝すべきです。またこの聖句には、世界を覆っているアッラーの御力と彼の御希望なしでは何も起きないという彼の包括的な御意志の前に、自分が目指すべきものとは何かを知りなさいとの警告が含まれています。

最後の聖句:
「彼(アッラー)は御望みの者を彼の御慈悲のうちに入れ給う。一方、不正な者たちには痛苦の懲罰を彼らに用意し給うた。」

至高なるアッラーは彼の御意志、親切、そして信徒らの相応しさに応じて彼らを楽園に入れ給います。また同じように、罪深き嘘つき呼ばわりする者たちを罰の場、つまり地獄に入れ給います。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP155~160)