イスラーム勉強会ブログ

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悔い戻る者たちの道しるべ【10】-(3)

2016年04月22日 | 悔い戻る者たちの道しるべ

司会:アル=ブハーリーとムスリムのハディース集に収録されている、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)にたどり着く伝承の鎖が正しいと評価されたハディースの中に3度罪を犯し、悔悟したしもべが登場するものがあります。他の伝承の後部に、「彼は望むとおりに行動するがいい」というのもあります。さて、本当に望むまま自由に行動してもよい、ということなのでしょうか?罪を犯して悔悟し、そしてまた罪を犯して悔悟する、といった具合に。

 

先生:私はこのハディースの最後部の言葉を正しく理解できていればと思っています。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は、教友ウスマーン様(アッラーの御満悦あれ)が苦境の軍隊を準備したとき、彼について次のようにおっしゃいました:《ウスマーンが行ったことのために、彼が今日以降、害を被ることはないだろう》。

 

預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)がまるで:彼(ウスマーン)はアッラーにお近づきになれた地位に上り詰めた、つまり罪を犯すことが少なくなったとおっしゃっているかのようです。誰でも罪の後に悔悟し、また罪の後に悔悟し、また罪の後に悔悟することで、まるでこれ以上は罪を犯さない状態にたどり着いたかのように。代わって、とても長く生きて、その間に罪を犯しては悔悟し、罪を犯して悔悟して、アッラーとの関係が弱まる、という理解は私はしておらず、おそらくこれが正しいかと思います。他にも、教友アリー(アッラーの御満悦あれ)による言葉もあります:おまえたちの中で最善の者は、災難に襲われても何度も悔悟する者、と言いました。ではまた(罪に)戻るのはどうですか?と尋ねられると、アッラーに罪の赦しを請うて、悔悟すれば良いと答えると、ではまた(罪に)戻るのはどうですか?と尋ねられました。アッラーに罪の赦しを請うて悔悟すれば良い、と答えると、ではいつまでですか?と尋ねられました。悪魔こそが疲れる存在になるまで、と言いました。

 

あなたの兄弟に対してあなたは悪魔の力になってはいけません。悪魔に対して、あなたの兄弟の力になってください。これこそが、”信仰者は罪人たちに望みを寄贈する”という言葉の意味です。

 

99人の男を殺した人、さて彼に悔悟はありますか?と尋ねられた修道士は、「いいえ」と答えました。すると彼はこの言葉をきっかけに100人目を殺してしまいました。他の学者の返答は、「罪を犯している土地を離れて、善良な人たちのいる土地に移るのが良い」でした。もう一人の学者は問題の根幹に取り組みました。アッラーが次のように仰せのようにです:「信仰する者たちよ、アッラーを畏れ身を守り、誠実な者たちと共にいよ。」(悔悟章119節)

 

本物の学者は罪の原因、悪い環境、不良な友、身の回りの誘惑といったものを探します。これら全ては人間を罪に突き動かします。ですから、あなたがもし人間の水準を上げたいのなら、罪の原因から遠ざけてください。罪の諸原因からの逃避は、罪そのものからの逃避に勝るのです。アッラーは次のように仰せです:

「また姦通に近づいてはならない。」(夜の旅章32節)

なぜ、”姦通してはならない”ではないのでしょう?

アッラーは、次のようにも仰せです:

「それがアッラーの諸法度である。それゆえ、それに近づいてはならない。」(雌牛章187節)

なぜ、”それを超えてはならない”ではないのでしょうか?なぜなら罪は”炎”だからです。細かい例を挙げましょう。とある国の電気大臣は8000ボルトの電流の存在を国民に警告しなければなりません。この電流には制限区域があり、その中に入った人は真っ黒に焦げてしまいます。大臣は電流に触れることをを禁ずる警告板を置くのでしょうか?違いますね、もちろん、電流に近づくことを禁じる文句ですね。そのため、アッラーは次のように仰せなのです:

「姦通に近づいてはならない」

 

性欲は、しっかりした山の天辺にある岩に似ています。あなたはそれを押そうと思えば、押せます。しかし押してしまえば、その岩は谷の下へ転げていくだけです。醜行へと導くさまざまなものをあなたが甘く見ていると、その中に落ちてしまうのです。ですから私は人々に悔悟を薦める際、罪のきっかけになることや、劣悪な環境、不良な友人、有害な読み物、アッラーが御満足にならない映画を観ることなどから遠ざかるようにも言います。これらすべては背徳行為に人を導きます。勇敢であることとは、罪の原因から遠ざかることです。イーサー様(アッラーの平安あれ)は素晴らしい言葉を残されています:「尊い者とは、罪自体からではなく、罪の原因から逃げる者のことをいうのだ」。視線を低めることや、異性と二人きりの場を持たないことは、恥部を守る方法になります。実践することで破廉恥な行為から離れていられる方法はたくさんあります。私は人々をアッラーに誘う時、悔悟するように言います。しかし同時に、罪であろうと思われる事柄や罪がなされる場、罪深い人たちから遠ざかることも明確にしなければなりません。まことに学者たちは次のように言っているのです:「卑劣な者たちとの付き合いは、廉潔に傷を付ける」

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預言者伝【番外編18】

2016年04月07日 | 預言者伝関連

●彼(アッラーの祝福と平安あれ)の謙遜:

彼(アッラーの祝福と平安あれ)の謙遜はそれにおける度を超越していました。そのような彼は、何かにおいて物事を区別したり、人々が彼のために立ち上がったり、過去の共同体たちがその預言者たちを湾曲してしまったように彼を湾曲するに至らしめるほどに彼を褒めすぎることをお好みになりませんでした。他にも、しもべ性と使徒性以上の位に彼らによって持ち上げられることもお好みになりませんでした。教友アナス(アッラーの御満悦あれ)はいいました:アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)以上に愛おしい人など私たちにはいませんでした。そのため、私たちが彼がいらっしゃるのを見ても、私たちが彼のために立ち上がることを彼がお嫌いであることを私たちは知っているので、立ち上がりませんでした。(アッ=ティルミズィー)また、「最善の創造よ!」と呼ばれて彼は、「それはイブラーヒーム(アッラーの平安あれ)だ」と言われました。(ムスリム)

 

また、教友ウマル・イブン・アル=ハッターブ(アッラーの御満悦あれ)は言いました:アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われました:おまえたち、キリスト教徒たちがマルヤムの子イーサーを湾曲したように私を湾曲しないように。私は単なるしもべに過ぎない。それゆえ、「アッラーのしもべであり彼の使徒である」と言いなさい。(アル=ブハーリー)

 

教友アブドゥッラー・イブン・アビーアウファー(アッラーの御満悦あれ)は言いました:アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は奴隷や未亡人の用事が済むまでの間、彼らと歩くことを軽んじませんでした。(アル=バイハキー)教友アナス(アッラーの御満悦あれ)は言いました:マディーナのとある女児は預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)の手を取って、彼を彼女が望むままに連れて行きました。

 

また、教友アディー・イブン・ハーティム・アッ=ターイー(アッラーの御満悦あれ)がアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)を訪れた際、彼を自宅に招きました。女の召使いが座布団を彼(アッラーの祝福と平安あれ)に渡すと、彼とアディーの間に置き、彼ご自身は地面の上にお座りになりました。この様子を見たアディーが言いました:その時私は思い知ったのです。彼(アッラーの祝福と平安あれ)は王ではないと。

 

教友アナス(アッラーの御満悦あれ)は言いました:アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は病人を見舞い、葬儀に参列し、ロバにのあり、奴隷の呼びかけに応えられました。

 

教友ジャービル(アッラーの御満悦あれ)は言いました:アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は(大人数での移動などで)後方で遅れをとりながら、弱者をいたわりつつ進み、その者のために祈りました。

 

教友アナス(アッラーの御満悦あれ)によると、彼(アッラーの祝福と平安あれ)は大麦のパン、匂いが変わったペーストの食事に招待されても、お応えになりました。

 

また次のように伝えられています:私は、奴隷が食べるように食べるしもべにすぎない。奴隷が座るように私も座る。(アッ=ティルミズィー)教友アブドゥッラー・イブン・アムル・イブン・アル=アースは言っています:アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が私のところに入られた時のことです。私は彼に繊維を詰めた皮のクッションを渡したのですが、彼は地面の上に座られました。そのためクッションは私と彼の間に留まりました。

 

彼(アッラーの祝福と平安あれ)は家を掃除され、ラクダを縛り、家畜に餌を与え、召使いたちと食事を共にし、パン生地を捏ね、市場から荷物をお運びになりました。

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