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イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

106章解説

2010年06月24日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
106章解説
1.クライシュ族の準備のため、
2.冬と夏のかれらの隊商の準備のため、(そのアッラーの御恵みのために)
3.彼らに、この聖殿の主に仕えさせよ。
4.飢えに際しては、彼らに食物を与え、また恐れに際しては、それを除き心を安らかにして下さる御方に。

 (象章のテーマである)アブラハとその軍隊による聖殿破壊は、アラブ人たちにとってのカアバをさらに神聖なものとし、カアバと巡礼客達に奉仕するクライシュ族の者たちの地位向上に影響を与えました。アッラーの聖なる館の民である彼らは、そこに住み着くことで尊厳と保護を与えられました。そのことは地上における安全な大地の行き来にも繋がりました。当時、アラブの間では強奪や略奪が頻繁に起こっていたものの、クライシュ族の誰もそういった害に遭うことはありませんでした。またこの安全はキャラバンを使った二つの貿易の旅に彼らを駆り立てました。一つは冬にイエメンへ。もう一つは夏にシャームへ。この貿易により、クライシュ族は豊かな富に恵まれることになりますが、注意すべき点は、彼らの土地は農耕に向いているわけではなく、また彼らは何か特別な手工業を担っていたわけでもなかったことです。安全に基づいた貿易がクライシュ族の基本的な糧の収入方法だったのです。

 至高なるアッラーは、クライシュ族に安全と糧の恩恵を施し給いましたが、アッラーを崇めることを拒否し自惚れる彼らの状態には驚かされます。本来なら、彼らはアッラーを崇め、頂戴した恩恵に感謝すべきであり、またかれに何者も配するべきではありません。

 アッラーはこの章を次の御言葉で始め給います:
 「クライシュ族の準備(إيلافイーラーフ)のため、冬と夏のかれらの隊商の準備のため、」

 つまり:アッラーの館が崩壊から救われ、アブラハとその軍隊が追い出されたことで彼らが何も得られなかったことは、クライシュ族に年二回の連結した貿易の旅を準備する結果になった。彼らは安心して糧を貿易から得られ、誰からも脅されて怖がることはない…アッラーは以上のことを、「彼らのために」成し給うたのではなく、アッラーが御自身の館を守るためだったのです。アッラーが御自身の館を守り給うという事実は、冬はイエメンへの旅を、そして夏にはシャームへの旅をクライシュ族に準備されるという出来事が付随しました。

 イーラーフという言葉が繰り返されていますが、クライシュ族の地位を示し、意味を誇張するための方法です。

 「彼らに、この聖殿の主に仕えさせよ。」つまり、カアバの主である至高なるアッラーを崇めるよう彼らに命じなさい、という意味です。アッラーが、「彼らの主に仕えさせよ」と仰せにならず、「この聖殿の主」と仰せになったことを熟考してみてください。これはまず、アッラーが当時クライシュ族だけに与えた恩恵と諸特徴の背景に集中されます。彼らはこの聖殿の名において、安全な貿易を満喫しており、危険に出くわしても、「私たちはアッラーの館の隣人だ」と言うことで悪さをしようとする者たちを鎮めていたのでした。

 クライシュ族に対するアッラーの恩恵には制限などありません。彼らがアッラーから頂戴したすべての恩恵のためにかれを崇めることがなくても、身に馴染んだ冬と夏の容易にしてもらえた安全な旅という境遇のためにかれを崇めるべきでしょう。

 「飢え(جوعジューゥ)に際しては、彼らに食物を与え、また恐れ(خوفハウフ)に際しては、それを除き心を安らかにして下さる御方に。」:ジューゥもハウフも、意味を強調する非限定の形が使われています。つまり、二つの旅によって、クライシュ族の土地が農耕地ではないために今までに晒されていた激しい空腹から食べさせ給い、アッラーが滅ぼし給うた象の主から来る大きな恐怖やあらゆる敵から彼らを救い給うたということです。その後アッラーはさらなる恩恵…つまりムハンマド(平安と祝福あれ)を預言者として遣い給うたこと…をクライシュ族に垂れます。人々は彼を求めてあらゆる国からマッカにやって来るようになりますが、クライシュ族はそれによって入る利益が増え、貿易もさらに盛んになりました。またアッラーの恩恵によって兄弟となった人々を恐怖から安全にし給いました。

 クルアーンが飢えに際して食事を与え、次に恐れに際して安心を与えたとの言葉の順番になっている点を熟考してみてください。実はこれは、食べ物を求める本能が数ある本能中で最も強く、最も現われやすく、そして安全を求める本能が次にくると心理学が証明していることなのです。

 つまり糧と恐怖から安心でいられることという恩恵は、アッラーが人間に与えられた最も偉大な恵みであるといえます。それらは崇拝と感謝と称賛がアッラーに相応しいと思わせるに十分なものです。代わってアッラーに仕えることを拒否し、アッラーが人間に行きわたらせ給うた数多くの恩恵を忘れることは、それらが消えてしまうことに繋がります。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P178~180)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2937~2939)


107章解説

2010年06月10日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
107章解説
1.あなたは、審判(宗教、教え)を嘘であるとする者を見たか。
2.彼は、孤児に手荒くする者であり、
3.また貧者に食物を与えることを勧めない者である。
4.災いなるかな、礼拝する者でありながら、
5.自分の礼拝を忽(いるか)せにする者。
6.(人に)見られるための礼拝をし、
7.慈善を断わる者に。

 イスラームの本質と、イスラームは信仰箇条や語られるだけの言葉だけでなく、人生における道しるべ、振る舞いであることを解明するためにこの章は啓示されました。誰でもイスラームの指導を応用せず、それを言うことから実践に移せない者は、「教えを嘘であるとする者」です:

 「あなたは、審判(宗教、教え)を嘘であるとする者を見たか。かれは、孤児に手荒くする者であり、また貧者に食物を与えることを勧めない者である。」

 また、現世における不幸や反逆や迷いなどの最も大きな原因は、審判の日および清算の日を信じず、否定することです。その日の到来を人々が心から信じたならば、誰も違反行為や不信、神によって定められた義務の無視、マナー違反などは起きなかったでしょう。なぜなら、報いに対する恐れや罰を使った脅迫は来世の存在を信じない者には意味がないからです。そのため、この章の冒頭で「審判を嘘であるとする者」という表現が登場します。

 同時に至高なるアッラーは「見たか」という言葉で章を開始し給いましたが、ここには疑問の中に驚嘆と、聞く者に「審判を嘘であるとする者」が持つ性質がどのようなものかを知りたがらせる意味があります。「審判(ディーン)」は、来世における報奨と罰や、イスラームという宗教ということもできます。「見たか」から分かるように、「見ること」は、「知ること」と指します。つまり:来世における報い、もしくはイスラームを嘘だとする者を知っているか?となります。あなたがもしその者を知りたいのなら次のような者のことだ、「孤児に手荒くする者」。つまり孤児の権利に反して横暴に追い返し、また食事を与えず、良くしてあげないことです。

 続いて、「審判を嘘であるとする者」の性質を見て行きます:「また貧者に食物を与えることを勧めない者である。」至高なるアッラーは貧者に与えられる食事を「貧者の食べ物(タアームルミスキーン)」と呼び給い、まるでこの食事は、金持ちが彼らに余分に差し出したものではなく、貧者のために、裕福な者に課せられた困窮者に対する扶養義務によってアッラーが貧者に所有させ給うたもののようです。

 そして他人に貧者に食物を与えることを勧めない者は、普段から彼らに食べさせていないのです。「また貧者に食物を与えることを勧めない者である。」このアッラーの御言葉は、貧しい困窮者に自身の財産を気前よく与えないことを指しています。また、貧者がお金を要した際、あなたが彼に与えられるものを見出せなかったら、人々に彼が要するものを渡すよう頼む必要があることも指しています。そこには、他人から集めることでも信者たちに貧者たちを救済するようにとの要求があります。

 続いてクルアーンは、礼拝の本質を軽視しながら礼拝する者たちを罰と滅亡で警告します:「災いなるかな、礼拝する者でありながら、自分の礼拝を忽せにする者。」

 「災い(ワイル)なるかな」:来世における滅亡と罰を受けるに相応しい人に向けられた言葉です。礼拝を「忽(いるか)せる者」は、礼拝から注意をそらし、そして軽視するので定められた時間内に行いません。それか放棄してしまい、結局礼拝しません。または礼拝に含有されているアッラーへの畏敬の念、醜行と悪事から遠ざける効用といった意味を無視します。次にある通りです:「本当に礼拝は,(人を)醜行と悪事から遠ざける。」(蜘蛛章45節)

 「(人に)見られるための礼拝をし、」:「見せかけ」とは、人間が人々に本来とは違う姿を見せることです。ここで言われている人々は、アッラーの御満足を求めてではなく、信者に見られて、彼らの一部であると思われるために礼拝します。そのため彼らは礼拝から報奨を望むことはなく、罰を恐れることもないのです。

 「慈善を断わる者に。」:「慈善(マーウーン)」とは、ザカーか、人々が生活の中で一緒に利用している必需品を指します。鍬や、バケツや、鍋や、縄や、着火機などです。または:物を貸すことです。アブドゥッラー・イブン・マスウードは次のように言っています:すべての親切はサダカです。アッラーの使徒(平安と祝福あれ)の時代における「慈善(マーウーン)」とはバケツや鍋を貸し出すことだと私たちは理解していました。(アン=ナサーイー出典)

 この章は、親愛を同胞間に広め、社会に安全と平安を齎す相互扶助の大切さを大いに訴えていると理解できます。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P181~183)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2940~2942)


108章解説

2010年06月03日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
108章解説
1. 本当にわれは、あなたに潤沢を授けた。
2. さあ、あなたの主に礼拝し、犠牲を捧げなさい。
3. 本当にあなたを憎悪する者こそ、(将来の希望を)断たれるであろう。

このスーラはマッカで啓示され、またクルアーンの中で最も短いものです。

 預言者(平安と祝福あれ)のある敵たちは、彼(平安と祝福あれ)の男の子が亡くなると、「ムハンマドは(男の)後継者を失ったぞ。これで彼の名は途切れるから、彼の任務を引き継ぐ者がいなくなった」と言っていました。男児を持つことで自慢するアラブの環境に見られるこの種の皮肉は、多くの人間に影響を与え、もしかすると預言者(平安と祝福あれ)もそのために心を痛めていたかもしれません。こういった中、預言者(平安と祝福あれ)をなぐさめ、また彼の敵に返答し、宗教の徳が子のそれに勝ることを明解にするこのスーラが啓示されました。

 アッラーはこのスーラの中で預言者(平安と祝福あれ)を「潤沢(カウサル)を授けた」ことでなぐさめ給いました:「本当にわれは、あなたに潤沢(カウサル)を授けた」カウサルとはつまり、豊潤な恵みです。
 この豊潤な恵みは、彼(平安と祝福あれ)に特別に与えられた預言者性や、数億もの人間が読誦し、その中から導きや慈悲を求めるクルアーンである啓示を授与されることを指しています。
 またこの恵みは彼(平安と祝福あれ)の慣行や、追従者が学び、またそれに倣う芳香漂う彼の生き様にも現われています。
 他にも、預言者(平安と祝福あれ)の名声が高められたことや、彼の地位の高さにもそれは体現されています。大勢の信者たちは、愛情と真心を込めて彼らの礼拝の中で彼のために慈悲と祝福があるようアッラーに祈っています。「アッラーフンマ・サッリ・アラー・ムハンマド」「アッラーフンマ・バーリク・アラー・ムハンマド」と。
 この恵みは、来世における至福にも体現されます。その一つが天国の川です。それはアッラーによってさまざまな長所を与えられており、そのそばで預言者(平安と祝福あれ)と追従者たちがその水を飲むであろうことがと真正ハディースによって伝えられています。

 アッラーがその預言者に特別に与え給うた膨大な恩恵の解明がなされた後、至高なるアッラーは彼(平安と祝福あれ)にその溢れる恩恵に感謝し、真心込めて崇拝に打ち込むよう命じ給いました。至高なる御方は仰せになります:「さあ、あなたの主に礼拝し、犠牲を捧げなさい」つまり、あなたの礼拝すべてをあなたの主のために捧げ、アッラー御一人のためだけに犠牲を捧げなさいということです。かつてマッカの不信者たちは自分たちの礼拝や犠牲を多神に捧げていましたが、多神信仰の根を断つことを望み給うたアッラーは、御自身の預言者にアッラーの唯一性に基づいて語りかけ給いました。そうすると同時にアッラーは預言者の追従者たちにも語りかけ給い、彼らの心から多神の穢れを拭い去ろうとし給いました。

 アッラーは使徒ムハンマドに「カウサル」を授け給いましたが、これには彼と彼の共同体にとっての恩恵が含まれています。この恩恵を眼前にした信者たちは、そのお返しに礼拝と感謝と、貧者を養うための犠牲を捧げなければいけません。

 続けてクルアーンは、アッラーが御自身の預言者のために準備し給うた高い地位の解明に移ります。それは、彼が部族から聞かされていた「男児を持たぬ男」という言葉から生まれる苦しみを追い払ってくれるものでした。「本当にあなたを憎悪する者こそ、断たれるであろう。」つまり、あなたを忌み嫌う者こそが断たれるのであるが、それは名を呼ばれなくなることだ、ということです。

 アッラーは確実に御自身の約束を果たし給うたため、かれの敵たちの名声は消え、彼らの跡は無くなってしまいました。なぜなら彼らは、アッラーが損失と滅亡を望み給うた不信行為や間違いや悪に勤しんでいたためです。その代わりに、ムハンマド(平安と祝福あれ)の名声は大地の隅々に広がって行きました。なぜなら彼は、アッラーが不信の大軍と不正と悪への呼びかけに勝つことを望み給うたアッラーへの誘いの任務、つまり真実と善というメッセージを背負っていたからです。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P184~186)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2943~2945)


109章解説

2010年05月27日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم

109章解説

1. 言ってやるがいい。「おお不信者たちよ、
2. 私は、あなたがたが崇めるものを崇めない。
3. あなたがたは、私が崇めるものを、崇める者たちではない。
4. 私は、あなたがたが崇めてきたものの、崇拝者ではない。
5. あなたがたは、私が崇めてきたものの、崇拝者ではない。
6. あなたがたには、あなたがたの宗教があり、私には、私の宗教があるのである。」

【大まかな意味】
言ってやるがいい。「不信者たちよ、私はあなたがたが崇める偶像を崇めない。またあなたがたは多神信仰と偶像崇拝により私が崇める至高偉大なるアッラーを崇める者たちではない。あなたがたがアッラーを崇めていると主張したとしても、あなたがたは多神の一つとしてかれを崇めているので嘘を言っていることになる。私はあなたがたようには崇めないし、あなたがたは私のように崇めない。それはアッラーを崇めるべき御一人の御方として崇めること。あなたがたにはあなたがたの宗教―それはあなたがたがしがみついている迷った宗教である―があり、私にはアッラーが私に満足し給うた宗教があるのである。」

 クライシュ族のある集団がかつて預言者(平安と祝福あれ)に、「貴方は我々の宗教に従い、我々も貴方の宗教に従うことにしよう。貴方は我々の神々を1年間崇め、我々は貴方の唯一神を1年間崇めるというのはどうか。」と提案したことが伝えられています。預言者は次のようにお答えになりました:「崇高なるかれに同位者を配することに私はアッラーの御加護を求めます。」すると多神教徒たちは、「では我々の幾らかの神々を認めるなら、我々は貴方を信じ、貴方の唯一神を崇めよう。」と言いました。その瞬間にこのスーラが啓示されました。なおこのスーラはマッカで啓示されたことで意見が一致しています。

 他にもイブン・アッバース(御満悦あれ)による伝承があります: クライシュ族がアッラーの使徒(平安と祝福あれ)に富を与え、彼がマッカで一番の裕福な男になるようにし、彼が好む女と結婚させると言い、「ムハンマドよ、これこれを貴方に差し上げるから、我々の神々を罵り、悪く言うのを止めてくれないか。もし止めないなら、我々の神々を1年間崇めてくれ。」と言った。彼が答えて「主から何が私に下るか待ちましょう。」と言ったところで、「 言ってやるがいい。おお不信者たちよ…」からそのスーラの最後までが啓示され、また「言ってやるがいい。「あなたがたは、アッラーを差し置いて外に仕えるようわたしに命じるのか、無知な者たちよ。」」(39章64節)が啓示された。(アッ=タバラーニー、イブン・アビーハーティム出典)

「崇める」の繰り返した登場は、その意味の強調に役立ちます。これはアラブ人が普段から言葉を強調するときや相手に分からせるために使う方法です。ここで繰り返しの表現が使われることで、不信者たちに預言者(平安と祝福あれ)が心変わりするのではないか、信者たちに何か影響を与えられるのではないか、といった思いを断ち切らせることに役立ちますし、また不信者は今後も不信の状態で居続けるであろう予言にもなります。

このスーラで語り掛けられている信者は以下のように分かれます:
・アッラーの存在を否定する物質主義者
・富と欲望や、自分たちの指導者や聖職者を崇める人たち
・アッラーに子や同位者を配したり、アッラーと共に自然現象や天使、動物、偶像などを崇める人たち
彼ら不信者たちには、信者を騙そうとしている導師がいるのです。彼らは彼らのやり方で、さまざまな方法を使い、人々を自分たちの道に誘き寄せようとします。

そこでこのスーラにおいて、至高なるアッラーは信者に、決意し心から信仰の道の上を歩くよう、そして信仰を害するあらゆる呼びかけに耳を貸さぬよう、否定に続く否定と、強調に続く強調という堅甲な表現で命じ給いました。

「私は、あなたがたが崇めるものを崇めない。」:つまり私が崇めるものはあなた方が崇めるものと違う。
「 あなたがたは、私が崇めるものを、崇める者たちではない。」:つまりあなたがたが崇めるものは、私が崇めるものと違う。
「私は、あなたがたが崇めてきたものの、崇拝者ではない。」前述の文章の強調。
「あなたがたは、私が崇めてきたものの、崇拝者ではない。」前述の文章の強調。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P187~188)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2946~2948)


110章解説

2010年05月20日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
110章解説
1. アッラーの援助と勝利が来て、
2. 人びとが群れをなしてアッラーの教え(イスラーム)に入るのを見たら、
3. あなたの主の栄光を誉め称え、また御赦しを請え。本当にかれは、度々赦される御方である。

 このスーラは、マディーナで啓示されました。当時のクライシュ族は預言者(平安と祝福あれ)と結んでいた協定を破ったため、預言者(平安と祝福あれ)は一万人から成る軍隊を準備し、ヒジュラ暦8年のラマダーン月に出発しました。そこで預言者(平安と祝福あれ)は強いられない限り戦わないようにと言い付けました。アッラーは預言者(平安と祝福あれ)とその軍隊を戦いなしにマッカに入れることを望み給うたため、イスラームの宣教の歴史において最大の勝利を流血なく預言者(平安と祝福あれ)たちは得ることが出来ました。

 マッカ征服は多くの良い結果を生みました。多神崇拝の本拠地であったマッカに安置されていた多くの偶像が破壊され、その他の絵や像も取り除かれたことや、預言者(平安と祝福あれ)はイスラームの囲い地であるマッカに入り、ヒジャーズ地方の残りの部族に勝ち、イスラーム国家を堅実にすることが出来ました。

 至高なるアッラーは仰せになりました:
「 アッラーの援助と勝利が来て、 人びとが群れをなしてアッラーの教え(イスラーム)に入るのを見たら」

 アッラーは使徒であるムハンマド(平安と祝福あれ)に、勝利は疑いなくやって来ることを知らせ給いましたが、それは実際に起こりました。援助とは、このスーラが降下してしばらく後に叶った、マッカがムスリムたちに征服されることを指しています。

 実は当時、多くのアラブの部族がクライシュ族とアッラーの使徒(平安と祝福あれ)の戦いを待っていたわけですが、実際にムスリムたちが勝利し、マッカが開かれると、人々はアッラーの教え(イスラーム)に続々と集団で入って行きました。この現象を前に、アッラーは使徒であるムハンマド(平安と祝福あれ)に語り給います:
「 あなたの主の栄光を誉め称え、また御赦しを請え。本当にかれは、度々赦される御方である」

 ムハンマドよ、あなたの主から非と悪の属性を排斥しつつ、かれがあなたに委ね給うた勝利に対してかれを称讃し、かれに感謝をささげなさい。そしてアッラーから赦しを求めなさい。という意味です。アーイシャが預言者(平安と祝福あれ)について次のように伝えています:彼(平安と祝福あれ)はマッカが開かれ、アラブたちがイスラームに入ると、「スブハーナッラーヒ ワビハムディヒ、アッラーフンマ インニー アスタグフィルカ(アッラーに讃えあれ。アッラーよ、私はあなたに罪の赦しを求めます)」と多く言われていました。

 どのようなことに対するイスティグファール(赦しの懇願)であっても、やはりイスティグファールは、魂に魂が怠慢と不能の立場に常にあることを痛感させ、そして思い出させるものです。また齎された勝利は魂だけによるものではなく、勝利はアッラーの勝利であること、また他国が開かれて行くのは、かれの恩恵であること。この怠慢と無能の感情は、開拓者に被征服民に不正を成したり彼らに復讐しないようにさせます。これはアッラーから人間に与えられた学習なのです。アッラーは勝利した際には謙虚になるようにと私たちに示し給いました。これこそ、預言者(平安と祝福あれ)がマッカに勝利者として入場した際の態度でした。彼はラクダに乗り、援助を授け給うたアッラーに対する謙虚と畏敬の念から頭を下げていました。

 まさにこの謙虚な態度は、非ムスリムたちが自分たちの勝利時に行っていた、高慢で粗野な態度や、飲酒などの行いと比べられると、その素晴らしさが顕著に現れます。

 このスーラは上記の勝利について述べると同時に、預言者(平安と祝福あれ)の死の訪れを知らせるものでもありました。実際に彼はこのスーラが啓示されたときに次のように言われました:「自分の死を告げられた。」(イブン・アッバースによる)そして彼はこの年に亡くなりました。

 またイブン・ウマルは次のように言いました:このスーラは預言者(平安と祝福あれ)の最後の巡礼中のミナーで啓示され、続けて「今日われはあなたがたのために,あなたがたの宗教を完成し…」(食卓章3節)が啓示されました。彼はその後80日間生きられ、次にカラーラのアーヤ(女性章12節および176節)が啓示され、その後50日間生きられ、次に「今,使徒があなたがたにあなたがたの間から,やって来た…」(悔悟章128節)が啓示され、その後35日間生きられ、次に「あなたがたは,アッラーに帰される日のために(かれを)畏れなさい。」(雌牛章281節)が啓示され、その後21日間生きられました。

 勝利と援助の訪れと、人々がアッラーの教えに集団で入ることは、イスラームが完全に預言者(平安と祝福あれ)に伝えられ、その完結が齎された証拠です。また物事が満ちるとその直後には欠陥と終わりが起こるものです。アッラーが預言者(平安と祝福あれ)にアッラーを称賛し、罪の赦しを求めるよう命じ給うたということは、アッラーのメッセージは完結し、完璧に齎された証拠です。これは終期が近付いたことを指します。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P189~191)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2949~2952)


114章解説

2009年06月06日 | ジュズ・アンマ解説

 

 この章は、善と悪の葛藤と、人間の天性の中にある悪行を象徴すると同時に、悪を回避することと悪に勝てるようにアッラーに力を求めることを暗示しています。

 まずこの章は、アッラーへ避難するよう信者に求める言葉で始まっています。そしてアッラーの三つの性質が述べられます:かれこそが人々の主であること、つまり、彼らの教育を任された御方。そしてかれは人々の王であること、つまり、彼らを支配し、彼らに命じ、禁じる御方。そしてかれは人々の神であること、つまり、本物の崇拝対象なる御方。かれは強い御方で全てのことを成し遂げる御方であり、かれこそが全ての悪から私たちを守り給う御方であることをアッラーは私たちに思い出させているようです。強大な悪の力に応じるためにはこのような性質を要するのです。そこで信者に求められるのはアッラーにお助けを求めることです:「言いなさい、私は人々の主、人々の王、人々の神に加護を求めます、と。」三つの性質はアッラーに属します。それらには、力と抑制と保護の機能があります。信者を見張り、悪を美しいものに見せかける隠れた敵から人間はアッラーのこの三つの性質に逃げるのです。

 「人々」というフレーズが繰り返されていることや、「人々」がアッラーの属格として特別な意味合いを持つことで、人々がかれの導きに沿って生きた場合の彼らのアッラーのもとにおける位の高さや尊さが説明されます。

 こっそりと忍び込み、囁く者の悪から。アル=ワスワース(囁く者)とは、人々の胸に囁く悪魔です。アル=ワスワサ(囁き)とは、隠れた声や心の声です。悪魔はアーダムの子の心に腰を下ろし、彼が気を抜いてアッラーを想うことを忘れると、悪に導く隠れた言葉で人間に囁きます。しかし人間が主を想えば、悪魔は縮んで人間を害したり迷わせたりすることを諦めます。

 アッラーに加護を求めることは、悪に誘導するものや悪を犯してしまう可能性を放棄することと結びついていなければいけません。それなしのイスティアーザ(加護を求めること)は無意味な行為でしかありません。

 続いて至高なる御方は、囁きがジンのものである場合と、人間のものである場合があると仰せ給いました:「それが人間の胸に囁きかける、ジンであろうと、人間であろうと。

 実に人間による囁きはさらに危険で害が大きいものです。あなたのもとに友達や親戚や仲間が信頼の置ける忠告者として現れては、悪を美しいものに見せかけて、あなたが悪に陥るまでそうするかもしれないからです。

 ジンは各種類に分かれています。彼らの中には善行を成す良い者がおり、またイブリースやその子孫のように迷い腐敗した者もいます。彼らこそは、悪に導くものの強化を習慣化する悪魔です。彼らこそがアッラーの加護を求められる対象なのです。

 注目すべき点に、アッラーは「囁き」を「人々の胸に囁くもの」、と表現し給うたところがあります。「スドゥール(胸)」と読んで、実は胸の中に存在する「心」をアラブでは指します。心こそが囁きが入り込む場所であると同じように、「心」が指すものが固体ではなく、その場所に安置されている精神的力であることが意味として求められています。


91. 太陽 (アッ・シャムス)【2】

2008年06月22日 | ジュズ・アンマ解説
 またアッラーは、太陽を覆う夜において誓われています。「それ(太陽)を覆う夜において」夜は、昼間の働きによる体の休息を取るものと定められました。常時昼間であったならば、人間は活発な人生、また気の入った生活を継続できることは無かったでしょう。

 続けてアッラーは天において誓われます:「天と,それを打ち建てた御方において」つまり、この天と、それをお創りになり、高くされた御方アッラーにかけて、という意味です。この天が含む数億にのぼる数の天体の存在は、それを創造した神の偉大な力の象徴となっています。

 アッラーは大地において誓われます:「大地と,それを広げた御方において」つまり、この大地と、それを平らにして人間と動物が生活できるようにしてくださったアッラーにおいて、という意味です。

 最後に、アッラーは人間の魂において誓われます:「魂と,それを釣合い秩序付けた御方において」つまり、魂を釣り合い秩序付けた御方アッラーにおいて、という意味です。かれは、発明の頂点と言える人間の体の各部分をお創りになり、また思考の道具となる理性を人間にお与えになりました。そして話すための舌、見るための目、聴くための耳、匂うための鼻、生活の糧を得るための両手両足なども人間にお与えになりました。

 続いてクルアーンは、人間の特徴でもあるアッラーが人間の魂に植え付けた善悪や導きと迷いを見分ける力の解明に移ります。アッラーは言われました:「邪悪と信心に就いて,それ(魂)に示唆した御方において(誓う)。」つまり、人間の魂に行うべき善行や服従行為、また放棄すべき悪行を明確にした、という意味です。また、アッラーは人間の魂に善の道と悪の道を表した、とも言えます。

 その後、誓いの答えがされます:「本当にそれ(魂)を清める者は成功し」つまり、自分自身の魂を罪から清め、善行で成長させた者は成功する、という意味です。その中で最も高位なのは、畏敬の念で魂を成長させることです。「それを汚す者は滅びる」つまり、自分自身の魂を罪で覆い隠してしまい服従や善行で輝かせない者は損をする、という意味です。汚す(Dass)は元来、隠すという意味を持ちます。

 続いてクルアーンは、サムードの民と、彼らの預言者サーリフ(平安あれ)に対する不服従の結果として被った罰の話に移ります。解説をする前に、クルアーンに登場する物語の目的と、本当のサムードの民の物語について説明します。

 諸預言者の物語の目的:クルアーンに登場する諸預言者の物語の目的は、アッラーの満足という吉報、かれに背くことに対する警告です。また、イスラーム的ダアワの基礎の説明、預言者(平安と祝福がありますように)と彼に従う者の心の強化、彼の預言者性の証明という目的もあります。クルアーンは、諸預言者の物語の中から、訓戒を得られる部分を選んでいます。ユースフ(平安あれ)の物語のように、連結性を持ちながら話の詳細述べることがありますが、大抵の場合、ムーサー(平安あれ)のように物語の一部分が述べられます。それは、求められる教訓がそこにあるからです。クルアーンはその物語が有名であることに基づいて、物語の一部分を述べます。

 諸預言者の物語は詳しくまた長々とした形で、また短縮された形で繰り返されます。ここにクルアーンの奇跡とクルアーンの言語における正則性が現れています。  そしてクルアーンはサムードの物語を要約してこの章の中で述べています。そのため、クルアーンの違ういくつかの箇所に登場する言葉を参照しながらこの章を明解にすることが好まれます。

 サムードの物語:アッラーは使徒サーリフを彼の民であるサムードに遣わし、彼らに訓戒し、アッラーにお仕えすることへ呼びかけ、偶像崇拝をやめるように諭しました。サムードは遠い昔のアラブ系部族で、ヒジャーズの北側にある、現在はサーリフの町と呼ばれているアル・ヒジュルに住み着いていました。サムードの人たちは彼らの使徒がもたらしたものを信じず、またサーリフが示した真実の道を歩むどころか、彼を嘘つき呼ばわりしたのでした。彼らはサーリフに彼がアッラーの使いであることを証明するムウジザ(奇跡)を持ってくるように要求しました。彼は普通とは違うように創造されたラクダを連れてきて、人々にこのラクダに悪さをしたりしないように命じました。アッラーはこのラクダに決められた日に水を飲むように定められ、人々にはこの日とは違う日を定められました。そしてラクダに害を加えたときには罰をくだすであろうと警告されました。

 ラクダは彼らの間にしばらく存在し、大地の草を食み、ある日に水を飲み、またある日には飲まずにいました。この状態を保つラクダを目にしたサーリフの民の多くが彼の使徒性を認めるようになりました。しかしこの事実は地位の高い人々を憂慮させることとなり、ラクダを殺そうとしました。そうしていけないとサーリフは彼らに警告しましたが、彼らは恐れることなどありませんでした。彼らのうちの不幸者がラクダの住処へ赴き、彼らの同意の許ラクダを殺してしまいました。そのためにアッラーのお怒りが彼らにふさわしいものとなり、罰が下りました。彼らの犯した罪のためにアッラーは彼らを全滅させました。サーリフと彼と共に信仰した人たち以外はすべて滅びました。これがこの章の最後に要約された物語です:

 「サムード(の民)は,その法外な行いによって(預言者を)嘘付き呼ばわりした。かれらの中の最も邪悪の者が(不信心のため)立ち上がった時,アッラーの使徒(サーリフ)はかれらに,「アッラーの雌骼駝である。それに水を飲ませなさい。」と言った。だがかれらは,かれを嘘付き者と呼び,その膝の腱を切っ(て不具にし)た。それで主は,その罪のためにかれらを滅ぼし,平らげられた。かれは,その結果を顧慮されない。

 アッラーはサムードの民がアッラーの使徒サーリフを嘘つき呼ばわりしたのは、「その法外な行いによって」つまり、彼らの悪行(不信と罪において度を越すこと)が原因となっていると言われています。「かれらの中の最も邪悪の者が(不信心のため)立ち上がった時」彼はサムードの中で最も悪い者で、Qadaar Bun Saalifといい、悪さをしないようにとアッラーが警告したにも拘らずラクダを殺すために立ち上がりました。「それに水を飲ませなさい」ラクダに水を与える際に害を加えてはいけない、これが水を飲む日は決められており、あなたたちが飲む日も決められている、という意味です。「だがかれらは,かれを嘘付き者と呼び,その膝の腱を切っ(て不具にし)た」つまり、アッラーの使徒サーリフを彼らは嘘つき呼ばわりし、彼のうちで最も悪い者がラクダを殺した、という意味です。代名詞が全員となっているのは、彼らがラクダを殺した者の行いを認めているからです。「それで主は,その罪のためにかれらを滅ぼし」つまり、アッラーは彼らを滅ぼし彼らの不信と預言者を嘘つき呼ばわりしたとこととラクダ殺しという罪のために彼らに罰を付け加えられる、という意味です。「平らげられた」つまり、彼らに破滅を同等のものとし、また彼らを罰で覆った、という意味です。彼らの若い者、年配者の上に罰は下り、彼らのうち誰一人として留意する者はいませんでした。「かれは,その結果を顧慮されない」つまり、アッラーは王が自ら行うことに恐れを抱くようなことはありません。なぜならアッラーは自らが行うことに関して尋ねられることはないからです。

91. 太陽 (アッ・シャムス)【1】

2008年05月23日 | ジュズ・アンマ解説
 この章は、魂の罪業からの浄化を勧めることを述べていますが、そうすることにより勝利を得られるためです。また、不信と罪は魂を損ねてしまうということを読者に恐れさせます。マッカの不信仰者たちや彼らと同様の人たちにいつか、アッラーの使徒であるサーリフを嘘つき呼ばわりし、主に背いたサムードの民に訪れたような罰と破滅が与えられるだろうとする警告もあります。

 アッラーは、太陽と、太陽が昇るときの光においての誓いでこの章を始められます。「太陽とその輝きにおいて」太陽の素晴らしさ、創造の偉大さに注意を向けさせるためです。また太陽の熱と光とエネルギーは、地上に生をもたらします。太陽は、決められた一定の光と熱を発します。もし、ふだんよりも少ない熱しか太陽が発しなかったなら、地上のすべては凍り付いてしまったでしょう。また、普段以上の高熱を発したなら、森林は燃え、地上のほとんどの部分に日が付いてしまったでしょう。疑問:太陽はどこから燃える元を得るのでしょうか?もし、自身の内部にあるものを燃やしているなら、年々太陽の温度は下がるでしょう。しかし遠い過去へ遡ってみると、太陽は地球に一定の熱を与え続けていることが分かります。この熱の程度は、植物と動物が生きるのに丁度よいのです。

 それでは、太陽はどこからエネルギーの元を得るのでしょうか?そしてどのようにして一定の温度で燃え続けているのでしょうか?

 それは、至高なるアッラーの御技です。からのお力は偉大です。

 続けて、アッラーは月において誓われています。月は太陽を追い、太陽が沈んだ後に光を発します。「それに従う月において」アッラーが太陽の重要さを確定するために、どのように月と太陽を関連付けたかを考えてください。月に光は、太陽光から得られます。そして月はアッラーの徴の一つで、やわらかな光を送り出しています。その光によって、生き物に益をもたらします。またアッラーは月を、私たちが年数や時間を計算する手段として定めました。これらは、アッラーが存在と、アッラーの叡知の存在の証拠になります。また物質主義者が唱える“偶然によって世界は存在した”という言葉を否定します。

 またアッラーは、太陽を見る者たちに現す昼間において誓われています。「(太陽を)輝き現わす昼において」アッラーは昼間を人間が生きる糧を得る場とされました。人間は、自分の存在と命の継続を守ってくれる主の恩恵から糧を得ることを望みます。

90. 町 (アル・バラド)【2】

2008年05月10日 | ジュズ・アンマ解説

 「だが彼は,険しい道を取ろうとはしない。険しい道が何であるかを,あなたに理解させるものは何か。(それは)奴隷を解放し,または飢餓の日には食物を出して,近い縁者の孤児を,または酷く哀れな貧者を(養うこと)。

 つまり、人間は困難を越えなければならない道を取ろうとしない、ということです。“アカバ 険しい道”は、越えることが困難な山の中にある、でこぼこした道を意味します。また、地獄にある道のことをいうとも言われています。また、アッラーによる魂の訓練と悪魔の、善行における競り合いの例えである、とも言われています。「険しい道が何であるかを,あなたに理解させるものは何か。」この節は、内容をさらに確定させます。

 険しい道を取ることに:「奴隷を解放」することがあります。クルアーン中に“ファック fakk”という結び目をほどく・解放を意味する名詞と、“ラカバ raqaba”という首・奴隷を意味する名詞が出てきます。この名詞の登場から、奴隷化された人間は首を鎖で繋がれたために人間らしさを失い、家畜同様の位に成り下がってしまう様子が感じ取れます。

 イスラームのメッセージ時代のアラブ社会は、悲劇的な奴隷制度に悩まされていました。そこに奴隷問題を解決するイスラームが登場し、親切で慈悲的な方法でそれによる問題を覆いました。奴隷を解放することで罪滅ぼし(カッファーラ)が成立するようにし、また彼らを自由にすることを最も尊厳ある善行の一つとしました。これを行う人間は、主より報酬を得ることが出来ます。

  “アカバ 険しい道”を取ることは他に、「または飢餓の日には食物を出す」ことが挙げられます。つまり、飢饉時に貧者に食物を与えることです。なぜ飢餓の日と限定されているかというと、その日に財産を差し出すことは個人にとって非常に厳しいことだからです。特にこの貧者が「近い縁者の孤児」つまり親戚の孤児である場合です。「または酷く哀れな貧者を(養うこと)。」つまりとても困窮していて土以外に家を持つことが出来ない人です。富者が彼らのような必要としている人たちに財産を差し出すという犠牲行為には、魂の訓練と相当の努力が求められます。これこそが“険しい道”であり、人間が主の満足に到達するために入っていかなければならない道です。これらを行う者はいくつかの性質を備え持っている必要があります:

 「それから信仰する者になって忍耐のために励ましあい,互いに親切,温情を尽しあう(ことである)。これらは右手の仲間である。

 信仰は、アッラーの許で行いが受け入れられるための基本です。忍耐のために励ましあい、慈悲のために励ましあうことは、健全でマナーを遵守する社会を作ることを促します。

 彼ら忍耐ために励ましあい、またアッラーのしもべに慈悲をかけることを励ましあう信者たちは、「右手の仲間である。」つまり来世で幸せ者である、ということです。アラビア語における“右”は、不幸の反対である祝福を意味します。そのためクルアーンは天国の住人を「右の仲間」と名付け、また「右手の仲間」と名付けていますが、それは彼らが審判の日に自分たちの行いが記された帳簿を右手で受け取るためです。

 そして章の締めくくりに、審判の日には罰があると不信仰者に警告を与えます:
 「だがわが印を拒否する者,かれらは左手の仲間である。かれらの上には,業火が覆い被さるであろう。」ムハンマド(アッラーの平安と祝福がありますように)の預言者性を否定し、クルアーンの印を嘘であるとする者は、「左手の仲間である。」左手は右手の逆で、アッラーは地獄の民を「左の仲間」と名付けていますが、それは彼らが審判の日に自分たちの行いが載った帳簿を左手で受け取るからです。左手の仲間、「かれらの上には,業火が覆い被さるであろう。」つまり審判の日に、重なり合い被さる火があるだろうということです。


90. 町 (アル・バラド)【1】

2008年05月08日 | ジュズ・アンマ解説
 この章は、人間は苦労や災難に悩むものとして創造されたことと、善行によって危機を乗り越えることにより来世で恩恵を入手できることを解明しています。

 至高なるアッラーは、まずマッカにおける誓いの言葉でこの章を始められました。「われはこの町において誓う。」この町の徳にちなんで誓われています。アッラーはこの町を聖域且つ安全とされました。そしてアッラーはこの町のマスジドを礼拝におけるキブラ(方向)とし、巡礼の行き先として人々に命じました。

 アッラーはムハンマド(平安と祝福がありますように)について章中で言及することで、彼に栄誉を与えています。彼(平安と祝福がありますように)がマッカに留まることで、この町はさらに誉れ高くなるとも仰っています。「あなたはこの町の(居住権を持つ)住民である。

 またアッラーは「生む者と生まれる者にかけて」誓っておられます。この文章が意図することは、アッラーのみご存知ですが、アーダムと生まれた者として理解できるでしょう。世代が次々に続き、子孫たちは先代の習慣や性格を継いでいきます。その中には、明確な神の強力なお力の証拠があります。

 続いて、誓いのこたえ(ジャワーブルカサム)が言及されます:「本当にわれは,人間を労苦するように創った。」つまり、人間は家畜の位から上昇できるよう、苦労と災難を味わうよう作られている、という意味です。人間の人生は、生まれてから死ぬまでさまざまな痛みに取り囲まれています。人間はこの意味を受け入れなければならず、自分の人生と思考をそれに合わせて調整する必要があります。そのため、苦難や問題の解決に驚くことはありません。

 人間は、虚栄をもたらす権力や富にとり憑かれ、度を越したり、不義をなすことがあります。ここでアッラーは仰ります:「彼(人間)は,何ものも,自分を左右する者はないと考えるのか。」つまり、この人間は自分が報復から逃れられると思っているのか、という意味です。彼の思い込みには意味はなく、彼はしっかりとアッラーの手中にあるのです。彼が自分の幾財産を善行のために差し出すように声をかけられると、「彼は,「わたしは大変な財産を費した。」と言う。」つまり、私はたくさんの金を差し出した、という意味になりますが、彼は大概の場合、自分の私欲を満たすためのみに金を費やしました。「彼は,誰もかれを見ていないと考えるのか。」つまり、彼は、かつてこの金を費やしたことをアッラーはお尋ねにならない、また費やした目的に報われないとでも思っているのか。それは善のためだったのか、それとも悪のためだったのか、お尋ねにならないと思っているのか、という意味です。

 続けてクルアーンは、アッラーの至福や、人間にお与えになった恩恵を解明していきます:

 「われは,かれのために両目を創ったではないか,また一つの舌と二つの唇を。更に二つの道をかれに示した(ではないか)。

 アッラーは人間に二つの目をお授けになりました。それは私たちの知っているような精巧さと奇跡的な構造を持ち合わせています。この目の恩恵により人間は生活を送ることができ、見るという楽しみで至福を味わいます。そのため人間はアッラーに視覚の恩恵を感謝し、禁じられたものを見ることがないように、視覚を守らなければなりません。またアッラーは人間に舌と唇をお与えになり、それにより味わうことと、話すことが可能になりました。もし言葉遣いを間違えてしまったときは、アッラーの恩恵を思い出さなければいけません。そのため、善いことのみ口にするようにしましょう。

 アッラーは人間に、善と悪を感じることの出来る力をお与えになり、また両者を区別する理性をもお与えになりました。「更に二つの道をかれに示した(ではないか)。」つまり、われは彼に善と悪の二つの道を見せしめ、明解にした、という意味です。そのため人間は不幸が潜む悪の道を辿るべきではなく、正しい道を辿るべきです。そして悪の道と天国を隔てる障害物を越えていかなければいけません。

(5/12に一部内容を変更しました。)