イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

ハラールとハラームの解明【少々修正】

2010年01月20日 | 求める者たちの道しるべ
ハラールとハラームの解明
知りなさい:ハラールとハラームを求めることは全ムスリムにとって義務であるが、多くの無知な者たちがハラールはないと主張して次のように言った:「〔ハラールなものは〕ユーフラテス河の水と植物の草以外に残っていない。それら以外は腐敗した商取引が無効にした」。これが彼らに起き食料は自分たちに無くてはならないものと知ると、シュブハ(疑わしい事柄)とハラーム〔の範囲〕を広げたが、これは無知と学習不足から来ている〔行動である〕。次のハディースが二正伝集〔アッ=サヒーハイン〕に収録されている。アン=ヌウマーン・イブン・アル=バシール【嘉】によると預言者【恩寵】は言われた:《ハラールははっきりしており、ハラームもはっきりしている。それらの間には、疑わしいあいまいな事柄が存在する。》

彼ら無知者たちのこの主張が、害が広がったビドアとなり、宗教にその〔主張の〕悪が飛び散ったとき、ハラールとハラームとシュブハの違いを知る感覚に導くことでその〔主張の〕害の覆いを取らなければならなくなった。

私たちはこの事柄を数部門に分けて説明する:

①ハラール追求の徳、ハラームを非難すること、ハラールとハラームの階級について
アッラーは仰せになる:「あなたがた使徒たちよ,善い清いものを食べ,善い行いをしなさい。われはあなたがたのすることを熟知している。」(23章51節)
「良い清いもの」:ハラールを意味する。行動の前にその〔ハラールの〕追求をかれは〔私たちに〕命じ給うた。
ハラームを非難してかれは仰せになる:「あなたがたの間で,不法にあなたがたの財産を貪ってはならない。」(2章188節)この他にも多くの節がある。
アブー・フライラ【嘉】は、預言者【恩寵】が次のように言われたと述べた:《人々よ、アッラーは清くあられ、清いものしか嘉納し給わない。》彼〔アブー・フライラ〕はハディースを続けて次のように言った:《そして彼〔預言者〕は、長旅をし、埃で髪が絡んだ男について言われた。男は両手を天に広げて:主よ!主よ!と言うが、彼が食べるものはハラームで、飲むものもハラームで、着ているものもハラーム、(支給されたものもハラームである)。〔このような状態で〕どのように彼の祈りが聞き入れられるというのか。》ムスリムが伝承。
他にもこれについてのハディースが伝承されている。
サアドがアッラーの使徒【恩寵】に、彼の祈りが聞き入れられるよう祈って欲しいと依頼したことが伝わっている。預言者はサアドに次のように言われた:《あなたが食べるものを清いものとしなさい。そうすればあなたの祈りは聞き入れられるだろう。》
実に先代の人たちはハラールについて考え、それを詳細に調べていた。そのためアブー・バクル【嘉】は疑わしい何かを食べた後にそれを吐き出した。
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【稼ぎの徳とその勧めについて】②

2009年07月02日 | 求める者たちの道しるべ
※前回の、”稼ぎが含まれる売買契約は次の4項目が含まれているべきだ:①有効性、②公平性、③誠意、④宗教への同情。”の続き。

【公平性と、取引中の被害回避について】

 ②公平性と、売買取引中の被害回避(が売買契約に含まれるべきである)。「被害」とは、他人が被るものを指す。それは、その害が全般に及ぶものとそうでないものに分けられる。
  1.(全般に及ぶ害として)独占。価格上昇を招き、人々へ種々の品物が行き届かなくなるため禁じられる。
  2.及ぶ範囲に制限がある害。商品に存在しない性質を褒めたり、商品に含まれる欠陥を隠すために購入者が被害を受けることである。預言者(平安と祝福            がありますように)は言われている:《われわれを騙す者はわれわれの仲間ではない。※1》
    商売、製造において「騙し」はハラームである。アル=イマーム・アフマドがほつれのある布を修繕して目立たなくすることについてたずねられて次のように答えた:それ(欠陥のある布)を売る者はそれを隠してはいけない。
    買いもしない人に高く売りつけるように見せて他人が商品を欲しがる心境に持っていく(ナジュシュという)のも禁じられる。

【取引における誠意】

 ③取引における誠意について。至高なるアッラーは、公正と誠意を命じ給うた。売るときに許すこと(安価で譲ること)は誠意の内に入る。通常以上の利益を求めないこと。売買は利益を求めるために施行されているので、ある程度なら許されるが、購入者が商品を必要とするあまり、通常以上の利益を差し出そうとしても売る側はそれを受け取るべきではない。これも誠意の内に入る。
  支払いや借金返済を求める際に、見放したり、小額で満足したり、猶予を設けたり、返済方法を容易なものにに変えたりすることも誠意である。
  他に:売買を取り消したい者の言い分を受け入れ、(契約を)取り消すこと。彼が取り消したいのは、売買で害を被る他に理由がないからである。
  多くのハディースがこれらの徳の大きさと、これらを行う者が得る報酬を証明している。

【商売人が自分の宗教に抱く同情心】

 ④商売人は「帰り着く場所」を差し置いて(現世の)生活に明け暮れるべきではない。それよりも、宗教を大切にすること。次の6項目によって、彼の宗教に対する同情心が完遂する:
  1.商売に良いニーヤ(意志)を持つこと。他人への懇願を控え、人々に対する下心を抑制し、家族を養うために働くことを商売時にニーヤする。こうすることで、奮闘努力する者たちの一員となれる。また、信者たちへの忠告もニーヤすること。
  2.製造業や貿易業に携わる際、数ある「ファルド・キファーヤ(誰かが行わなければならない義務。誰かが行えば、残りの者は罪とならないが、誰も行わない場合、全員が罪を被る。)」を行っていると意識すること。製造や貿易を誰も行わなかったら、生活が成り立たないからである。ただし製造には、より重要な分野と、装飾や至福を求めるための重要でない分野が存在する。そのため、より重要な製造業に精を出すべきである。
    クルアーンを教えることや崇拝行為から賃金を取ってはいけない。
  3.現世の市場のために来世の市場が置き去りにされないようにすること。来世の市場とは、マスジドのことである。そのため、一日の初めの部分から市場に入るまでを、自分の来世のために費やすべきである。善良な先代の商人たちは、一日の始まりと終わりを来世のために、中間は商売のために、と定めていた。ゾホルとアスルのアザーンが聞こえたら、生活を放棄して義務の遂行に忙しくするべきである。
  4.市場の中でアッラーの念唱を続けること。タスビーフやタハリールも欠かさないこと。
  5.市場と売買に異常なほどの注意を向けないこと。また市場に最初に入る人でも、そこから最後に出る人にもならないこと。
  6.ハラームを避けるだけではなく、疑わしいものからも身を守ること。ファトワーに頼るのではなく、心に引っかかるかどうかを見極めること。


※1ムスリムなど
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【稼ぎの徳とその勧めについて】

2009年06月25日 | 求める者たちの道しるべ
【稼ぎ、生活のマナー、そしてその徳とそれが有効になるためには。またそれらに関すること】

 知りなさい:至高偉大なるアッラーはその繊細な英知によって現世を稼ぐ場とされた。ときに生きるために、ときに来世のために。ここでは売買や製造のマナーそして稼ぐ必要性とその原因を数え上げ、解説する。

《稼ぎの徳とその勧めについて》

 アッラーは仰せになった:「昼を生計の手段として定めた」(消息章11節)。アッラーは稼ぐことを恩義として述べ給うた。「またあなたがたのため、そこに生計の道を授けた。だがあなたがたの(中)、感謝する者は僅かである」(高壁章10節)。ここでは恩恵として述べ給い、それに対して感謝するよう求め給うた。「主の恩恵を求めて祈(り巡礼中に商売す)るのは、あなたがたにとって罪ではない」(雌牛章198節)。

 ハディースによると、預言者(平安と祝福がありますように)は次のように言われた:「ハラール(合法)を求めることは、ジハード(聖戦)である。※1」また、「まことにアッラーは職業に就くしもべを好み給う。※2」他に、「誰でも、自分の手が成す職業で得る糧の良いもの以上の食べ物を食すことはない。まことにアッラーの預言者であったダーウードは自分の手の稼ぎから食べていた。※3」
 他のハディースによると:「ザカリーヤーは大工だった。※4」とある。

 ルクマーンが息子に次のように言ったと伝えられている:息子よ、ハラール(合法)な稼ぎを頼りにしなさい。そうしないと、三つの状態に襲われることになる:宗教(に対する姿勢)の弱化、理性の弱化、そしてプライドの喪失である。これらよりさらに重大なのは、人々に軽視されてしまうことである。

 アフマド・イブン・ハンバルが次のように尋ねられた:自分の家や部屋に座り込んで、「糧がやってくるまで私は何もしない」と言う男をどう思いますか。アフマドは答えて:これは知識を持ち合わせてない男だ、と言った。

 かつて預言者(平安と祝福がありますように)の教友たちは陸でも海でも貿易をし、ナツメヤシを育てていた。

 アブー・スライマーン・アッ=ダーラーニーは次のように言った:私たちが意図しているイバーダ(崇拝行為)は、両足などがあなたのために疲労することを指しているのではない。まず、自分のための2枚のパンを確保すること(糧を得る努力をする)から始め、そして祈り(崇拝行為に耽る)なさい。アブー・アッ=ダルダーゥが「あなたが商売とイバーダに献身したけれども、両者が統一されることはなかった。」と言ったのだから、あなたはイバーダを選ぶのですか?と言われたら、答えはこうだ。商売はそれ自身が求められているのではなく、人々の頼りを不要とし、家族を豊かにさせ、兄弟たちにも豊かさがあふれ出るようにすることが求められているのだ。もし「目的」がお金そのものとそれの収集、自慢などであれば、それは忌み嫌われることである。だからこそ、稼ぎが含まれる売買契約は次の4項目が含まれているべきだ:①有効性、②公平性、③誠意、④宗教への同情。

 ①有効性:売買契約であれば、次の3基礎が存在する:契約者、契約されるもの(商品など)、言葉。
      - 契約者に関して。商売人は気狂いと関係しないことが求められる。彼らは責任能力を負わないからである。彼らとの契約は無効となる。 
      - 契約されるものに関して。つまり移動される財産。犬はそれ自身が汚物なので売買は許されない。虫、楽器、泥などで作られた像なども禁じられる。他に空を飛んでいる鳥などの感触で譲渡できないものも禁じられる。
      - 言葉に関して。つまり、売り買いの確認の言葉である。

※1:ムスナド・アッ=シハーブ、アブー・ナイーム
※2:イブン・アディー
※3:アル=ブハーリー
※4:ムスリム

続く。
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食事にまつわるマナーの続き(終)

2009年06月11日 | 求める者たちの道しるべ
【兄弟姉妹に食事を振舞う際】
兄弟姉妹に食事を提供することは好まれる。アリー(アッラーのご満悦あれ)の言葉:私は奴隷を一人解放するよりも、一皿の料理のために兄弟を集めるのを好む。
無理して豪華なものを準備する必要はない。また食べてもらえるか許しを得るのではなく、そうせずに食事を提供すること。持ち得る全てのものを出すのが、「無理すること」である。
訪問者のマナーとして、「~~を食べたい」と料理名を出してリクエストしないこと。どちらがいいか選択肢を与えられた場合は、簡単に作れるものを選ぶこと。ただし、招待者があなたが希望している料理を用意に準備でき、その準備のために手を抜かないことが目に見えているときは別である。

【食事中の人たちの中に入らない】
人々が食事中であることを知ったならば、その中に入るのは良くない。意図せずにその場に遭遇してしまい、皆に「一緒に食べるか」と呼びかけられたら、皆が食べているものをきちんと見ること。もし彼らがあなたを食事に誘わないことに恥じらいを感じて誘っていると分かったなら、食事しないこと。もし彼らが本当にあなたと一緒に食べたいと望んでいることが分かったなら、食べることは許される。

【もてなしのマナー】
不真面目ではない、敬虔な人たちを招くこと。先代の人たちはこのように言っていた:敬虔な人の食べ物以外を食べないように、そして敬虔な人以外があなたの食べ物を食べないように。
また裕福ではなく、貧しい人たちを選ぶこと。
親類を招かないのはいけない。彼らを軽視することで、不仲や絶交のきっかけになってしまうからである。また友人、知人を順番に選ぶこと。招待することに、「見せびらかし」や「高慢さ」を決して意図せず、食事を提供する際のスンナを実行し、兄弟の心があなたに傾倒することを求め、信者たちの心に喜びを差し込むこと。招待に応じることが困難であることが分かっている人を招待しないこと。また招待に出席することでさまざまな原因によってその人が他の招待客から害を被る場合も。
招待に応じる際のマナー:ムスリムが招待する披露宴に呼ばれたなら、一日目に応じることは義務。それ以外の招待は、応じても断っても問題ない。裕福か貧しいかで招待に応じるのかを決めるべきではない。断食の断食をしていると応じられないというわけではないので、出席すること。任意で食を断っていて、断食を解くことで招待側である兄弟ムスリムが喜ぶ場合、解くのが良い。
しかし食事がハラーム場合は招待に応じないこと。同様に禁じられた敷物や容器、偶像などが含まれている場合も。また招待側が加害者、罪人、ムブタディウ(ビドアをする人)、招待を自慢してする人が絡んでいる場合も同じ。
「食べるため」だけを意志して招待に応じるのではなく、スンナに倣うためと意志し、信者である兄弟に恩義を尽くすためと意志すること。招待を断ったときにもしかすると周りの人たちに、「あの人は高慢だから(招待を断ったのだろう)」と言われるかもしれないので、誤解する人たちから自分自身を守ることも意志しておくこと。
出席したら謙遜した態度をとること。食事が出てくる場所を何度も見ないこと。それは大食である証拠だから。
【食事を出す際のマナー】
一つ:早く出すこと。それは客のもてなしの一つである。
二つ:他の食事の前に果物を出すこと。これは健康的によいことである。「また果実は、かれらの選ぶに任せ、種々の鳥の肉は、かれらの好みのまま。」(出来事章20,21節)
果物の後に出すといいものは肉類。特に焼いているものがいい。肉の次にいいのが、サリード(スープをパンに含ませた料理で預言者(平安と祝福がありますように)の好物だったと言われる)。次にお菓子。最後に冷たい水を飲むことで食事を終え、最後にきれいな水を客人の手に注ぐ。
三つ:持っているさまざまなものを出すこと。
四つ:食事をすばやく片付けるのではなく、客人自らが食事から手を離すまで待つこと。
五つ:充分な量の食事を出すこと。少ないと、男らしさに欠ける。
食事を出す前に、自分の家族の分をとっておくこと。客が帰るときは、家の入り口まで一緒に行くこと。これはスンナである。またもてなしの中で最もよいものは、明るい顔つきと、訪問時と帰宅時と食卓のところでよい話をすることである。
客として:招待側にきちんとした対応が足りなかったとしても、満足して家を出ること。これはよい性格であり、よい謙遜態度である。また家の主の満足と許しなしに家を後にしないこと。そして滞在している間、招待側の心に配慮すること。
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【食事のマナーなど】

2009年06月05日 | 求める者たちの道しるべ
【食事のマナーなど】
食事のマナーは、食前、食中、食後のものに分けられる。

食前のマナー:ハディースで述べられたように、汚れを取るために食べる前に手を洗うこと。地面に敷物を敷いた上に食べ物が置かれること。これは食事をテーブルの上に置くよりも預言者(平安と祝福がありますように)の行いに近い。そしてこの食事方法は、より謙遜的である。謙遜差を示すマナーは他に、敷物の上に座るときに、右足をおって左足に重心をかけるようなポーズをとること。食事を食べるのは、アッラーを崇めるための力を付けるため、というニーヤを持つこと。そうすることで食事がターア(崇拝行為)になる。預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:「・・・(胃の)1/3は食事に、1/3は飲み物に、1/3は呼吸のために」(アッ=ティルミズィーなど)

また大切なことに、空腹時にしか食事に手を伸ばさないこと、満腹になる前に食事から手を上げることがある。こうすることで、医者は不要となるだろう。他に、存在する糧に満足すること、少ない糧を不満に思わないこと、家族でも良いので食事を共にする人間を増やす努力をすること。

食事中のマナー:ビスミッラーで開始し、アルハムドゥリッラーで締めくくること。
右手で食べること、口に入れる一口を小さめにすること、よく噛むこと、口に入っている食べ物を飲み込む前に他の食べ物に手を伸ばさないこと。食べものを馬鹿にしないこと、自分の近くにあるものから続けて食べること。果物など種類が豊富なものは例外。手で食べるなら3指で。食べ物を落としたら、きちんとそれを拾うこと。

熱い食べ物に息を吹きかけないこと、タムル(デーツ、ナツメヤシ)を食べる場合、実と種を同じ皿に乗せないこと、種は手の甲に口から出して乗せ、捨てること。他の似たような食べ物でもそのようにすること、食事中に水を飲まないことは医学的にもよいこと。

飲む際のマナー:右手で器を取ること、飲む前に入っているものを確認すること、ガブガブと飲まず、穏やかに口に入れること。また立って飲まないこと、3回に分けて飲むこと。
預言者(平安と祝福がありますように)は3回に分けて飲まれていたという。つまり、口から容器を遠ざけ呼吸をすること。その際は容器に息を吹き込まないこと。

食後のマナー:満腹になる前に手を止めること。(昔は手で食べていたため)指をなめること。皿も(指などで残り物をきれいに取り)同様にすること。アッラーを賞賛する(アルハムドゥリッラーという)こと。預言者(平安と祝福がありますように)は次のように言われた:「まことにアッラーは食事をしてそのことでアッラーを賞賛し、飲み物を飲んでそのことでアッラーを賞賛するしもべに満足し給う。」(ムスリムなど)最後に、手を洗うこと。

【食事を共有し、食事のために大勢で集まる際に身に付けておきたいマナー】
「食事は始めるに相応しい人」(年長、徳のある人)が同席しているときは、その人よりも前に自分が食べ始めず、常に自分は後ろから追う立場であること。
黙って食事をせず、よい話をして盛り上がること。
食事をともにしている一人一人が、友人に対する親愛感を意図すること。友人に「食べろ」と無理強いせず、困らせないこと。
友人たちが食べている様をじっと見ないこと。彼らが恥ずかしがらないためである。
他人が気分を害することをしないこと。(料理が入っている大きな)皿の上で手をブラブラさせたり、頭を皿の上に持っていって、自分の口に食べ物を運ばないこと。口から何か出したいときは、食べ物と逆方向を向いて左手で受け取ることなど。
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【ズィクル(念唱)とドゥアー(祈願)などについて】

2009年05月28日 | 求める者たちの道しるべ
クルアーンの次に重要な舌で行われるイバーダ(崇拝行為)で至高なるアッラーのズィクル、そして苦難が取り除かれるようにと、かれに向けられた誠実なドゥアー(祈願)に勝るものはない。ズィクルの徳についてのアーヤ:
「だから、おまえたちはわれをズィクルせよ(想え)。そうすればわれもお前たちを想う。」(雌牛章152)
「立って、また座って、また横になってアッラーをズィクルする(想う)者たち」(イムラーン家章191)
「アッラーを多くズィクルする(想う)男たち、そしてズィクルする女たち」(部族連合章35)

預言者(平安と祝福がありますように)の言葉:
《至高偉大なるアッラーは仰せになる:われは、われをズィクルし、その唇がわれのために動くしもべと共にある》(アフマド、イブン・マージャ)

《アッラーをズィクルする集団を天使たちが囲い、慈悲が彼らを覆い、静けさが彼らに降下し、アッラーはかれの御許にいる者たちに彼らのことを話し給う》(ムスリム、アッ=ティルミズィー)

《至高なるアッラーのズィクル以外のための集いに参加し、解散した集団は、ロバの死体から解散したようなもの。かの集いは審判の日に彼らにとっての悲しみとなるだろう。》(アブー・ダーウードなど)

《至高なるアッラーをズィクルせず、また預言者(平安と祝福がありますように)に挨拶を送らないような会合に腰を下ろさないように。そんなことしたならば、それは審判の日に彼らにとっての悲しみになるだろう。》(アフマド、イブン・ヒッバーン)

ドゥアーの徳について:
アブーフライラ(御満悦あれ)が伝えている:《至高偉大なるアッラーにとってドゥアーよりも尊いものはない。》(アッ=ティルミズィー、イブン・マージャなど)

《もっとも尊いイバーダは、ドゥアーである。》(アル=ブハーリー)

《アッラーにおたずねしない者をかれは怒り給う。》(アッ=ティルミズィー、イブン・マージャなど)

《アッラーの恩恵からかれに懇願しなさい。まことにアッラーは懇願されることを好み給う。》(アッ=ティルミズィー)

ドゥアーにはマナーがある:
聖なる機会を探求すること。アラファの日、ラマダーン月、金曜日、深夜・・・など。
アザーンとイカーマの間、サラーの直後、慈雨が降っている最中、アッラーの道のための戦いの際、クルアーンを完読した際、サジダ時、イフタール時、心が感じ、震えるとき。

*ドゥアーに際してのマナーと、受け入れられるための条件:http://blog.goo.ne.jp/qurtaf/e/575f3f86467c41011a60f81fbcd80cc0

*ドゥアーが受け入れられる時間、状態、場所:http://blog.goo.ne.jp/qurtaf/e/bf6781f748cacf841929ce218deb0e02

じつは、機会の尊さは、「状態の尊さ」に由来する。深夜が良いのは、その時間に心が清く、空になるからで、サジダ時が良いのは、謙った状態にあるから。

またドゥアーのマナーに、キブラの方向を向いて、手を挙げ、顔を拭い、ドゥアー中は声を小さくすること、がある。

また、至高偉大なるアッラーの御名を唱えることで開始し、次に預言者(平安と祝福がありますように)に挨拶を送ること。ドゥアーの言葉で、韻を踏む必要は必ずしもない。

内面的なマナー-叶うための条件でもある-は、タウバ(悔悟)と奪われた権利を返還することである。
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【クルアーンのマナーとその徳について】など

2009年05月21日 | 求める者たちの道しるべ
クルアーンの最もすばらしい点は、それが至高偉大なるアッラーの御言葉であること。アッラーはクルアーンを幾度となく褒め称えている。たとえば:
「この書はわれが下した祝福されたもの」(家畜章92節)、
「まことにこのクルアーンは正しい道へ導く」(夜の旅章9節)、
「前方からも後方からもそれ(クルアーン)に虚偽は近づかない」(広げる章42節)

ウスマーン・イブン・アッファーンによるハディース:
《クルアーンを学び、教える者こそ、最も良い者である》(アルブハーリー)

アナスによるハディース:
《至高偉大なるアッラーには、(かれに属する)人々がいる。》アッラーの使徒よ、一体彼らは誰なのですか?と言われ、《クルアーンの人々である。彼らこそはアッラーの人々であり、特別なのである。》(アンナサーイー)

別のハディース:
《アッラーは、クルアーンを意識し考えた者の心を苦しめない》

などなど・・・他にもクルアーンの徳を扱ったハディースは多い。

【ティラーワ(読むこと)のマナー】
ウドゥーを保った状態で読むのがふさわしく、もちろん、ウドゥーのマナーも網羅しておくこと。胡坐をかいたり、横になったりせず、うつむいていること。また高慢さが漂うような座り方はしないこと。

最も好ましい状態は:
マスジド内で、サラー中、立った状態で読むこと。

読む長さについては、先代の習慣に相違がある。ある者は一日で読みきり、ある者は一日に何度も読みきっていたという。3日、毎週、毎月読みきっていた者もいる。彼らは集中してクルアーンを読むことや知識の拡散に努めていた。読むだけではなく、他の方法も使ってアッラーを崇めた。

一番良いのは:
大切な(現世的)仕事に支障をきたさず、体の害にならず、また丁寧に読み上げること・読解が失われないようにするのが一番良い。
アブドゥッラー・イブン・アッバースの言葉:クルアーン全てを早く読み上げるより、雌牛章とイムラーン家章を丁寧に、また熟考しながら読み上げることを好む。使える時間を見つけたときには、たくさんの報酬を勝ち取るためにクルアーンをたくさん読みなさい。

継続性について:可能な範囲でそうすること。

【音声を美しく、良くすることについて】
クルアーンを美しく読むことは好ましいことである。美声の持ち主でなくても、出来るだけ美しく読もうとする姿勢が大切。しかしメロディーを付けて読むことを、先代は嫌っていた。

ハディース:《公然と読まれるクルアーンより、隠れて読まれる方が良いのは、ちょうど公然と行われるサダカより、隠れて行われる方が良いのと同じ。》(アブーダーウード、アッ=ティルミズィー)→しかし、自分自身に聞こえる声で読むこと。

クルアーン暗記のためや、倦怠感や眠気を払いのけるために声を出して読むことに問題はない。
サラー中の読み方(長さ、声の出し方など)については、法学書を参照。

ミスハフ(本の形になったクルアーン)を持っている人は、クルアーンが放置された状態にならないように、毎日数アーヤ読むことが好ましい。

偉大なクルアーンを読む者は、アッラーがいかに被創造物にかれの御言葉を理解させ給うたかに注目するべき。そして読んでいるものが人間の言葉ではないと知ること。そして崇高なる話者の偉大さを想起し、かれの御言葉を熟考すること。熟考こそが、読むことの目的である。何度もアーヤを読むことでしか熟考が実現されないなら、何度でも読むこと。
アブーザッルによると、預言者(平安と祝福がありますように)がある夜、「あなたが仮令かれらを罰せられても、誠にかれらはあなたのしもべです」(食卓章118節)を繰り返し読まれた。(アフマド、アン=ナサーイー、イブン・マージャ)

クルアーンを読む者は、目を通す全てのアーヤに見合う解説を求め、理解しようとすること。「かれは、諸天と大地を創造し給うた」(家畜章1節)と読んだなら、かれの偉大さを思い知り、目に入る全てのものにかれの御力を見出そうとすること。

「あなたがたが射精するものを見たか」(出来事章58節)を読んだなら、一滴が肉と骨、血管と神経、さらには頭や手、足、といったものに分かれ、尊い性質である聴覚や視覚が現れていく様子についてよく考えること。

嘘呼ばわりする人たちについての部分を読んだなら、命令に不服従な場合の報復に対する恐れを想起すること。

理解を禁じる原因から遠ざかること。たとえば、ある文字を読まなかったとか、その文字は正しく発音されなかったと悪魔に囁かれ、結局何度も読むことで、意味の理解しようとする集中力が散ってしまう。

以上に、読む者がある罪にしがみついているとか、高慢であるとか、傾倒しやすい誘惑に試されていることも含まれる。これらは心の影の原因である。ちょうど鏡の上の袋のようで、真実が写し出されるのを妨げる。心は鏡と同じ、欲望は錆と同じ、クルアーンの意味は鏡に映し出される姿と同じ。欲望を取り除くことによる心の運動は、鏡が輝くのと同じ。

そして、自分には力も何もないと認めること。満足の気持ちを持って自分を見ないこと。自分は努力不足であると思う者の気持ちは、アッラーにお近づき出来る要因になるだろう。
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【サダカと、その徳、マナー】

2009年05月12日 | 求める者たちの道しるべ

サダカの徳は数多く、また有名です:

-アル=ブハーリー出典のイブン・マスウードのハディース。「あなたがたの中で、自分の財産より遺族に残す財産を好む者はいるか?」と言われた。皆は答えて、アッラーの使徒よ、私たちは皆、自分の財産のみを好みます。彼は、「自分の財産とは、施したもの。遺族の財産は残したもの。」と言われた。つまり、自分の遺族のために、彼らのためを思って貯める財産を自分の財産とは言わず、アッラーのためにサダカやザカーなど施したものだけがあなたの財産だといえる、ということです。後者はいつか必ず訪れる審判の日にあなたの役に立ちます。しかしその日に役に立たないものは、あなたの財産と名付けるのに相応しくないのです。

-アッ=サヒーハイン中のアブーフライラによるハディース。「良質な稼ぎの中から、ナツメヤシ一粒分のサダカを施した者、アッラーはこの者のサダカを右側で嘉納し給う。雌馬を山のように大きく育てる者のように、アッラーは(サダカの)持ち主のためにサダカを増大させ給う。」

-「まことにサダカは主の怒りを消し、悪い死に方からから守ってくれる。」

-「皆、サダカをしなさい。まことにサダカは業火から解放してくれるものだ。」

-「財産からサダカが足りないということはない。」お金が少ないのでサダカできない、というのはありえないということ。

-アーイシャ(アッラーのご満悦あれ)によると、預言者(平安と祝福あれ)一家が羊を一匹屠りそれを施した。預言者(平安と祝福あれ)はアーイシャに「何が残ったか?」と聞かれた。彼女は、羊の肩の部分が残っています、と答えた。預言者(平安と祝福あれ)は、「肩以外の全てが残っているのだ。」と言われた。→サダカとして施された肩以外の肉は全て自分たちの善行として残っているという意味です。

サダカのマナーは、ザカーのマナーに相応します。

貧者は、ザカーを受け取る方がいいのか、それともサダカを受け取る方がいいのかで意見が分かれているそうです。

もっとも良いサダカについて、アブーフライラによるハディースが説明しています:預言者(平安と祝福がありますように)はどのようなサダカがもっとも良いのか訪ねられたところ、「元気でケチ、貧困を恐れて、また豊かさを望んでいる状態で施すこと。また、喉元に魂がのぼって来て、あの人にはこれを(施しておいてくれ)、あの人にもこれを、あれはあの人のものだから、と言うまで遅らせないように。」と言われた。

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【ザカーのマナーなど】(5/8追加)

2009年05月05日 | 求める者たちの道しるべ
ザカーはイスラームを構成する柱の一つです。至高なるアッラーはこのザカーをサラーと結びつけ給いました。「礼拝〔サラート〕の務めを守り、定めの施し〔ザカ―卜〕をなし」(雌牛章43節)※ちなみにこのような表現は何度となくクルアーンに出てきます。

ザカーの種類等に関しては、法学書が参考になるでしょう。ここではザカーに関わるマナーのみを扱います。

あなたが来世を求める人ならば、ザカーについて次のことを考えてください。

①ザカーの目的を理解することです。それは3つあります。まず、アッラーへの愛を主張する者を、彼が愛しているもの(物質的財産・モノ)を支払わせることで試ること。身を滅ぼしてしまう吝嗇という性質は自分自身と無関係であると示すこと。財産という恩恵に対する感謝、です。

②ザカーを隠れて出すことで、見せびらかしや人のうわさから離れることです。ザカーを公に行うと、貧しい人を傷つけることになりますので気をつけましょう。もし、ザカーの義務を怠ったと疑われてしまうなら、公に渡しても傷つかないと分かる貧しい人に、大勢の人がいる前で差し出してください。そして他の人には隠れて渡してあげてください。

③ザカーを高慢な気持ちや相手を傷つけることで無効にしないことです。誰でも貧しい人に良くした場合、とくに何かを与えた場合、このようなことが起きがちです。よく考えたら、貧しい人こそがあなたに良くしてくれた(あなたの財産を清めてくれた)ということが分かるでしょう。ザカーを差し出すことは、財産という名の恩恵に感謝するということでもあります。貧しい人を貧しいという理由で嫌ってはいけません。なぜなら、金がその人の価値を決めるわけではないからです。

④「与える」という行為をたいしたことではないと決め込むことです。自分の行動を大げさに見ている人は、高慢になりがちです。「親切は、それがたいしたことではないと決め込まれること、急いで行われること、隠されること、この3つの条件が揃わない限り完遂されない。」とも言われています。

⑤ザカーが対象となっている財産から、自分が最も好み、大切に思い、上質なものを取り出すことです。「悪いものを図って、施してはならない」(雌牛章267節)

ここで2つの注意点が出てきます。まず、至高なるアッラーのみに偉大視される権利が属しているので、最も良いものもかれに差し出されるべきだということです。(もちろんアッラーはザカーで差し出されるものを必要とされる御方では決してありません。)誰でも自分の客に腐った食べ物を差し出したなら、受け取った側は気分を害するでしょう。次に、自分に対する権利です。ザカーをアッラーに差し出す本人は、そのうち審判でかれに会うことになります。ということは、最良のものを差し出すことは、自分のためにもなるのです。「あなたがたは愛するものを(施しに)使わない限り、信仰を全うし得ないであろう」(イムラーン家章92節)

イブン・ウマルは、自分の財産に対する愛情が強くなったときにそれをアッラーに捧げていたとの事です。こういう話が伝えられています:ある日、魚を食べたくなったイブン・ウマルのために皆は魚を探したのですが、一匹しか見つかりませんでした。それを手にした彼の妻が調理して、イブン・ウマルに差し出したところにある貧者がやって来ました。イブン・ウマルは貧者に、「それ(魚)を持って行きなさい。」と言うので彼の家族が、「私たちには彼に渡せられる他のものもあるというのに。」と言いました。イブン・ウマルは、「私はこれ(魚)が好きなのだ。」と言いました。

物乞いがアッ=ラビーウ・イブン・ハイサムの戸に立ったので、「彼に砂糖をあげなさい。」と言いました。しかし人々は、「彼にはパンを食べさせてあげましょう。その方が彼のためですよ。」と言いました。するとアッ=ラビーウは、「ダメだ、砂糖を上げなさい。じつに私は砂糖が好きなのだから。」と言ったと伝えられています。

⑥自分の出すザカーを清めるに相応しい人を探すことです。定められた8人(※)から選ばれます。彼らには特質があります:

(1)タクワー(畏敬)。アッラーを畏れる人々にザカーは渡されるべきです。彼らの悩みはこのザカーによってアッラーに跳ね返ります。かつて、アーミル・イブン・アブディッラー・イブン・アッ=ズバイルは額ずいている崇拝者たちを選んでいました。金貨銀貨が入った袋を彼らのサンダルの近くに置くのでした。ちょうど、物が置かれた気配はしても、どこに置かれたのかは分からない感じにです。アーミルは、ザカーをあなたの代わりに分配する人を送ればよいのに、と言われたことがありましたが、彼は貧者に自分や自分の使者が渡し主であると知られるのを嫌う、と言ったと伝えられています。

(2)イルム(知識)。学者に与えることは、知識と教えを広めることに役立ちます。つまり、シャリーアの強化につながります。

(3)アッラーおひとりからしか恩恵はないことを確信していることです。与えられる際に褒めることに慣れている人は、与えられないと文句を言うものです。

(4)貧しさで覆われていること、必要としていることが隠れていること、苦情を言っていないことです。「かれらは控え目であるから、知らない者は金持であると考える」(雌牛章273節)彼らは探されないと見つからない人たちです。各地域にこのような様子を備えた人がいないか尋ねるのがいいでしょう。

(5)家族を持っていること。もしくは病や借金で身動きできないことです。

(6)親族や血族であることです。彼らにザカーを渡すことは、彼らとの関係を強めることにもなります。以上の性質のうち、2つかそれ以上を集めたなら、あなたのザカーはより良いものになるでしょう。


(※)施し〔サダカ〕は、貧者、困窮者、これ(施しの事務)を管理する者、および心が(真理に)傾いてきた者のため、また身代金や負債の救済のため、またアッラーの道のため(に率先して努力する者)、また旅人のためのものである。これはアッラーの決定である。アッラーは全知にして英明であられる。(悔悟章60節)

(イブン・クダーマの「求める者たちの道しるべ」より)

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質問があったのでその答えを下に貼ります。

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> 質問1、【物乞いがアッ=ラビーウ・イブン・ハイサムの戸に立ったので、「彼に砂糖をあげなさい。」と言いました。しかし人々は、「彼にはパンを食べさせてあげましょう。その方が彼のためですよ。」と言いました。するとアッ=ラビーウは、「ダメだ、砂糖を上げなさい。じつに私は砂糖が好きなのだから。」と言ったと伝えられています。】について
>
> これは実際に周りのムスリムたちがそうするのをよく見ているのですが、私からするといつもちょっと疑問でした。この物乞いにとってはパンの方が役立つというのに、「自分の好きなものを差し出すこと」を自分が実践するために、相手の都合を無視しているように思えます。もし自分が受け取る立場だったら、砂糖よりもパンが欲しいです。
> それでも、自分が好きなものを差し出す方に、アッラーのお喜びはより多くあるのでしょうか?たとえそれが相手にとってあまり役立たないと思われても、あるいはそれ以上に役立つものが明らかにあったとしても、それは私たちの限られた能力においてそう感じるだけで、本当はこの物乞いにとってもパンより砂糖のほうが有益なんだ、ということなのでしょうか?

まずアッ=ラビーウの話についてですが、相手にとって一番良いものではなく、自分の好きなものを差し出すことを優先した彼の行いは良いはずですし、相手にとって良いものをきちんと考えて施したのであれば、それも良いはずです。アッ=ラビーウはクルアーンのアーヤを元に自分の信仰を完結させる手段として自分の好物を差し出したのであれば、インシャーアッラー、彼のニーヤは嘉納されるでしょう。もらう人のことを考えて施すものを選んだのであれば、そのニーヤも嘉納されるでしょう。要はそのときのニーヤだと思います。誰かのサダカに周りの人たちが意見しても、結局その人のニーヤを見通せるのはアッラーおひとりです。もちろん、そのときに渡した砂糖が物乞いにとって良いものだったのか
、それともパンの方がよかったのかも、渡す方も渡される側にも分からず、これもアッラーおひとりのみが御存知です。その物乞いが自分ではパンが欲しいのに砂糖をもらっても不満かもしれませんが、その砂糖が自分にとって良いものだったのか悪いものだったのかはアッラーのみが御存知で自分は後になっても分かるかどうかは不明なのです。
どちらにアッラーのお喜びがより多いのか、というと、私たちに分かることではないです。私たちは限られた能力しか与えられていないので、それ以上のことを理解することは不可能です。ですので、アッラーの御命令に出来るだけ従い、そのときの状況に合った一番良いと思う行動を取ればいいのではないでしょうか。相手にはパンが適切だろうと思ってパンを渡して、実はもらった側はグルテンアレルギーで食べると大変なことになってしまうとか、本人もそれを知らないとか、結局私たちには分からないのです。そのときのニーヤを大切に考えて、行動することだけが制限のある私たちに求められていることだと思います。

> 質問2、ザカーの受取人の特質のうち【(6)親族や血族であることです。彼らにザカーを渡すことは、彼らとの関係を強めることにもなります。】について
>
> 以前、身内の困窮者に対しては私たちは身内ゆえに扶養義務があるので、ザカーは与えられない。身内への援助はサダカでするものだ、と聞いて、ずっとそう思っていたのですが、身内(親族)でもザカーを使えるのですね。
> 例えば自分の親や子どもが困窮している場合には、それこそ扶養義務があるからザカーは使えないですよね?ザカーが使えるのは(逆に言えば扶養義務がないのは)どの関係からでしょうか?兄弟とか、伯父、叔母とか、従兄弟とか・・・?

裕福な妻が困窮している夫にザカーを施すことはスンナであり、妻や母親の立場にある女性が自分の子供にザカーを施すことは好ましい行為であり、合法です。なぜなら、夫や子供を扶養する義務は女性にないからです。
同様に、おじおば、兄弟姉妹、祖父祖母など、近親でありながら、扶養義務がない関係(条件によっては扶養義務が発生しますが)にある場合、ザカーは有効で、むしろ彼らを優先するべきです。
(扶養義務について)詳しくは法学書の家族法の部分に書かれていますので参考にしてください。
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質問に簡単に答えますね。

>⑥自分の出すザカーを清めるに相応しい人を探すことです。定められた8人(※)から選ばれます。彼らには特質があります:
→ この特質と言うのはザカーを渡す下の8人の条件にプラス更に推奨される特質と言うことでしょうか。8個の条件が先なのかこの6つの条件が先になるのか、または両方満たしていないといけないのか。。。です。

8個の条件が先です。8個の条件のうちどれかに属していれば、ザカーを受け取る資格を持ちます。6個の条件はあればよい、というだけで、全てを満たす必要はありません。

> (※)施し〔サダカ〕ザカーのことですか?は、貧者、困窮者、これ(施しの事務)を管理する者、および心が(真理に)傾いてきた者のため、また身代金や負債の救済のため、またアッラーの道のため(に率先して努力する者)、また旅人のためのものである。これはアッラーの決定である。アッラーは全知にして英明であられる。(悔悟章60節)

そうです、ザカーのことです。
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【サラートゥ=ル=ジュムア(金曜合同礼拝)と金曜日に関連したマナー】

2009年03月12日 | 求める者たちの道しるべ

【サラートゥ=ル=ジュムア(金曜合同礼拝)と金曜日に関連したマナー】

計15項目

①木曜日から、また(金曜)前日の夜から金曜日を迎えるための準備に取り掛かること。
 準備とは、掃除、洗濯など。

②金曜当日に、グスル(沐浴)をすること。サヒーハイン(アル=ブハーリーとムスリム)に由来。サラーに出かける直前に済ませるのが最も良い。

③体を清潔にすること、爪を切ること、スィワーク(ミスワークを使った歯の掃除もしくは普通の歯の掃除)、ゴミの片付け、香り付け、持っている服の中で最も良いものを着ること・・・などで、美しくあろうとすること。

④金曜のサラーに、タクビールを唱えながら歩いて行くこと。

⑤人で混んでいるところに無理やり入らないこと。二人でくっついているところに割り込まないこと。すいている場合は別。

⑥サラー中の人の前を横切らないこと。

⑦(サラーでは)最前列を求めること。

⑧イマームが現れたら、任意のサラーと、ズィクルを停止すること。そしてアザーンに応えること、説教を一生懸命聞くこと。

⑨ジュムア後、望むなら、2ラカー、または4ラカー、または6ラカーのスンナのサラーをすること。

⑩アスルが行われるまで、マスジドに留まること。マグリブまで留まるならさらに良い。

⑪金曜日という尊い時間を、心の同在とズィクルをもって大切にすること。

⑫預言者(平安と祝福あれ)祈願を多くすること。罪の赦しを求めるサラーを行うこと。

⑬洞窟章を読むこと。クルアーンを読むこと。

⑭可能な限り、サダカをすること。マスジドの外でサダカを。

⑮金曜日を来世の行いに割り当てること。そして現世のための行いを止めること。

イブン・クダーマの「求める者たちの道しるべ」より

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