イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

ズィクルと親愛

2008年07月05日 | 花嫁の冠【自我浄化】
 現世の煩いを重視し、来世の煩いを捨てた人はちょうど、ライオンが襲いに来たにもかかわらずノミに刺されたことに心を奪われる人のようである。アッラーの存在を軽視する人は、つまらないことで忙しくする。しかしかれを軽視しない人は、かれ以外のことで忙しくすることは決してない。あなたの最良の状態とは、来世を得るために現世を失うことである。あなたは現世のために来世を手放しているのだ!

 兵士が恐れをいだくとは、なんと醜いことだろうか。清貧を装いながら現世を求める者のなんと醜いこと。

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 かれの愛の甘さを知る前にこの世を去ることがないように。その甘さは、食べ物や飲み物にあるのではない。なぜなら、不信仰者と動物もそれらをあなたと共有するからである。天使とズィクル(アッラーを想う、アッラーの御名を唱える)の素晴らしさを共有し、アッラーのために彼らと一緒になることを目指しなさい。魂は欲望が放つものを受け入れ続けることは出来ない。魂が現世のごみ溜めに沈むと、ムハーダラに適さなくなる。それは、汚い人たちが罪の汚れでアッラーのハドラに入り込めないためである。だからあなたは恥事から心を清めなさい。そうすれば、不可視の戸が開かれるだろう。そしてアッラーに悔悟し、ズィクルと共にかれの許に帰りなさい。ドアをたたき続ければ、いつか開かれるものだ。親切心がなければ、私は決してこのことをあなたに伝えなかったのだ。

 このドアは、あなたをかれのお近くまで運んでくれる。アッラーの唯一性を心が当惑しないようにしなさい。ズィクルする者の最初のレベルは、かれの唯一性を思い起こすことである。彼らがアッラーを想うとき、ドアが開かれるが、それ(かれの唯一性)を思い起こしているからである。当惑の心を持ちならがズィクルすると、追い出されてしまう。そうならないようにするには、二つの欲望を絶つことに頼るといいだろう:腹(食欲)と性欲である。あなたの魂以外にアッラーにおいてあなたに反抗するものはない。

 あなたはなぜこんなにも被造物に愛着を持っているのだろうか。そしてなんとあなたは真実(アッラー)に持つ愛着度が低いのだろうか!

 あなたにアッラーに対する親愛のドアが開かれたなら、あなたはきっと不思議な光景を目にするだろう:夜中の2ラカアの祈り、病人を見舞うこと、貧者にサダカすること、あなたの兄弟であるムスリムに協力すること、道から害を取り除くこと・・・これらはすべて親愛である。しかし剣には前腕が必要であり、あなたにとってズィクルより有益なイバーダ(崇拝行為)はない。なぜならそれは、年寄りやキヤームやルクーウやスジュード(すべて礼拝の動作の名前)が出来ない病人にも可能だからである。

高慢者と愚か者など

2008年07月01日 | 花嫁の冠【自我浄化】
 誰でも自分の旅立ちが近いと知ると、食料を集めようと急ぐ。
 
 誰でも他人の自分に対する誠意が自分のためにならないと知ると、自分で誠意に力を入れる。

 誰でも計算せずに支出する人は、知らぬ間に損をする。

 また誰でも物事を人に任せたあとにその人の裏切りを知ると、その人を免職にする。
 あなたの魂もこれと同様である。魂はあなたを裏切ったのだから免職とし、魂の行くあらゆる道を窮屈なものにしなさい。

 もし自分の中に、“拒否”、“欲望”、“不注意”を見つけたなら、それらはあなたの特徴であり、“悔悟”、“畏敬”、“清貧”を見たなら、それらはアッラーの御業である。

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 高慢な者がするように、降下してきた助けを払いのけてはいけない。慈雨は、高山の頭に降り注ぐものではなく、へこんだ大地に降り注ぐものだろう。高慢者の心も同じで、彼らから移動してきた慈悲は謙遜者たちの心に降り注ぐ。高慢者とは誰か:よい服を着ない人ではなく、真実を否定する人のことをいう。

 大臣や現世の友だけが高慢の持ち主であると思わないように。夕食を持たない人(貧しい人)も高慢さを持っているかもしれない。なぜなら、彼は汚し、更正せず、アッラーの権利に対して高慢な態度を取ったからである。

 捕虜や牢屋に入っている者だけが災難者であると思わないように。アッラーに背いて、この純正な王国に罪という名の汚れを持ち込んだ者こそが災難者である。 

 ディーナールやディルハムを費やした人は多いが、涙を費やした人は少ない。

 愚か者とは、死んだ息子のために泣き、アッラーから得られなかったもののために泣かない人のことをいう。例えば:私はアッラーを忘れさせてきたもののために(このせいでアッラーのことを忘れてしまったので)泣いているんだ。だが、ここで彼は、彼を忙しくさせていた(アッラーを忘れさせていた)ものを取り上げてくださったアッラーに帰り、喜ぶべきだ。醜いことといえば、白髪が生えてきたというのに子供レベルの脳をあなたが持っていることである。またあなたはアッラーがあなたに望んでおられることを理解しない!もしあなたが理性の持ち主であるなら、(人々に)泣かれる前に、自分のことを泣きなさい。子供や妻や召使や友人はあなたが死んだから泣くのではなく、あなたの死のせいで得られなくなるもののために泣くのである。だから、あなたは彼らを泣くことにおいて追い抜き、こう言いなさい:あなたたちが私のために泣く前に、アッラーから頂いたチャンスを失ってしまったことに対して私が泣くことは私にとってふさわしいことだ、と。 

幸せ者と不幸者

2008年06月28日 | 花嫁の冠【自我浄化】
 人生の前部が失われたら、その後部を守るべきであることを知りなさい。10人の息子のうち9人が死んで、一人だけ子が残った女性がいるとしよう。この人は最後に残った息子に愛情を注ぐではないか。あなたはすでに寿命のほとんどを失くしたのだから、残されたものを大切にしなければいけない。それは微量の水滴(のよう)だ。

 アッラーに誓って言うが、年齢というものは、あなたが生まれた日から始まるのではなく、あなたがアッラーを知った日から始まる。

 幸福なる人々と不幸なる人々の間は開いている:幸福なる人々がアッラーに背く人を見かけると、表向きには彼を否定し、心の中で彼のために祈る(*)。不幸なる人々は彼に恨みを晴らすかのように彼を否定する。恥を公表して彼の尊厳を傷つけるかもしれない。信者とは、公から兄弟を公から覆い、二人きりのとき(他人に知られないため)に助言するものである。不幸なる人々は正反対のことをする:誰かが罪を犯すのを目にすると、彼から戸を閉めてしまう。そして彼の罪を暴く。彼らの視覚に光がもたらされることはない。彼らはアッラーに遠く離されてしまった人たちである。

 もし誰かの理性を試してみたいのであれば、特定の人について彼に話してみるといい:悪いことを繰り返して口にし、「そんなやつの話はやめよう、そいつは~~していたんだし」と言うようであれば、この人の内部は荒廃していて知などないと思え。しかし第三者についていいことを話すか、いい人であろうと思わせる話し方をして「たぶん彼は間違えたんだろう」とか「きっと事情があったんだろう」と言う人。このような人の内部は栄えていると思え。信者は、自分兄弟である信者の尊厳を守ることに勤めるものである。

(*)アブッ・ダルダーゥが罪を犯したために人々に罵倒されている男に通りかかった。「もしこの男が井戸に落ちてしまっていたら、あなたたちは彼を助けようとしないのか?」と言った。人々は「そんなことはない。」と言った。アブッ・ダルダーゥは続けて、「それなら、あなたたちの兄弟を罵るのをやめて、悪行からあなたたちをお守りになったアッラーを賞賛しなさい。」と言った。人々が「ではあなたはこの男を否定しないのですか?」と言うと、「私は彼の行いを否定する。もしそれを止めれば彼は私の兄弟である。」とアブッ・ダルダーゥは答えた。

信者についてなど

2008年05月03日 | 花嫁の冠【自我浄化】
 “ムウミン(信仰者)とは?”とたずねられたら、こう答えるがいい。
 “自分の恥を見つめ、しもべの一人にも恥と関連させない者(訳者注:自分は恥だらけであると認めるが、他人はそうではないと考える者)のことである”と。

 “騙される者とは?”とたずねられたら、こう答えるがいい。
 “しもべに恥を関連させるが、自分は恥と無関係であるとする者(訳者注:他人こそ恥だらけで、自分は無垢であると考える者)である”と。

 現代の人々が慣れてしまったことの一つに:罪深い人たち(*)と楽しんだり、彼らに安堵を感じていることがある。彼らが眉間にしわを寄せ、不快であることを顔で表したなら、そうすることで、罪人たちに否定的立場にあることを知らせることが出来たであろうに。

 “完全なる門”があなたに開かれたとしたら、あなたは決して、“つまらない事柄”に戻ることなどしないであろう。考えてみなさい。誰かに豪邸の門が開かれたとしたら、さてこの人は“ゴミ捨て場”に戻るだろうか?!・・・

 あなたから(悪を行う)創造物に対する愛情をかれ(訳者注:アッラー)が抜き取ってくださったとしたら、それはかれのあなたに対する配慮であるから、喜びなさい。そして、罪が起きたとしても、それと共に屈辱感が存在しなければいけない。あなたはかれに背き、かれはあなたを高めるとでも思うのか。決してそうではない。かれは尊厳をターア(仕えること)に結びつけ、また屈辱を罪に結び付けられた。そうすることにより、かれへのターアは光と誇りになり、覆いが取り除かれる。反対のことを言えば、罪は暗闇であり、屈辱であり、あなたとかれの間を隔てるものである。・・・

 あなたの息子が背いたら、シャリーアでしつけること。決して無視してはいけない。子供が悪さをやめるために、しかめ面で対応するように。信者が罪を行っている場合、恥や疑いを多く持つようになるが、そうなると暴露されるか、嘲笑されるだろう。人々がそう行った場合、彼らは確実に道を踏み違ったと言える。

 信者が罪を犯すと、巨大な穴に落ちたと言える。彼にとっての解決法は、あなたが背いた息子を接するように、彼にも同じように接することである。外見では彼を咎め、内心では彼に慈悲深くあること。そして見えないところで彼のために祈ることだ。

 現世の民に与えられたものを妬み、彼らの所有するもので心忙しくすることがどんなに無意味なことがあなたにはまだ分からないのか。そうしていると、あなたはかれらよりも無知であることになる。なぜなら彼らは与えられたもので多忙になり、あなたは与えられていないもので多忙になっているからである。

 目やにが溜まって病めば、あなたはその治療をするだろう。その原因は何かと言うと、あなたが現世の享楽を目で味わったためほかならない。それでもあなたは現世の(見せ掛けの)美しいものを見逃すまいと目の治療をし、40年間バスィーラ(心の視力)を病ませる。それでもあなたは治療をしないのか。

(*)アッラーの使徒(アッラーの平安と祝福がありますように)は言われた:《イスラエルの民に入った初めての欠点は、かつて男が出会った男に:おい、アッラーを畏れて、行っていることを止めろ。それは禁じられていると言ったが、後日また同じ男に出会い、まだ同じ状態であるのに、この男は彼を諭さなかったことである。これは、(罪を犯す男と)一緒に食事をし、飲み、座る者であること意味する。このようなことを彼らが行ったことにより、アッラーは彼らの心どうしをぶつけ合ったのである。・・・》


花嫁の冠の著者について

2008年04月28日 | 花嫁の冠【自我浄化】

 花嫁の冠を訳してはじめておきながら、著者の紹介をするのを忘れていました。
 手元にある本書には詳細が載っていなかったのですが、彼のほかの著書を解説したもの(ブーティー博士によるアル・ヒカム アル・アターイーヤの解説)の前書きの中にあったので紹介します。

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 彼は、タージュッディーン(教え・宗教の冠)という尊称を持っていた。名前は、イブン・アターイッラー アッサカンダリー アル・マーリキー(イブン:息子、アターイッラー:アッラーの贈り物、アッサカンダリー:サカンダルの者、アル・マーリキー:マーリキー法学に倣う者)。ヒジュラ暦709年(西暦1309年)没。ヒジュラ暦7世紀の著名な師に数えられる存在だった。エジプトで学業を始め、タフスィール(クルアーン解説)、ハディース、語学、文学をさまざまな師たちから学んだ。そして彼は、模範的に学問を実践する人生を素晴らしく全うし、また、魂の浄化にも努めたが、ある二人の尊い学者の支えによりそれは叶った。この二人は、シャリーアと、アッラーが名付けられた〈内部にある罪〉を治療する魂浄化の基礎を融合した。(お二人の名前などは省略)

 イブン アターイッラーの名は、シャリーアの著名な学者として知れ渡った。彼は人間を魂や欲望から解放するシャリーアの真実と真髄に染まった。またシャリーアによってアッラーの御前で正直者であれるように人間は洗練され、アッラーに完全に満足し、また完全にかれを信頼し、すべてをお任せする(ようになる)。アル・アズハルで彼は教壇に立ち、シャリーアの各学問を教えた。彼に手によって多くの有名な学者が輩出された。たとえば、アル・イマーム タキーユッディーン アッサバキー、アル・イマーム アル・カラーフィーなど・・

 彼が進言や訓戒のために腰を下ろすと、彼の言葉は聞く者の心を奪った。そしてその者たちの魂は彼の言葉に激しく揺さぶられた。彼と同じ時代を生きた同位の人たち、また彼の後の世代の人たちがこのことを証言している。彼らの学派や学問を得た源が同じだったというわけではないにも関わらずだ。


魂、現世

2008年04月27日 | 花嫁の冠【自我浄化】
 仕事に手を抜いたり、甘美を選ぶことがないよう、気を付けたまえ!(訳者注:すべてのものには、最良・良・不良などと位付けが出来、選択肢が与えられたなら、最良を選ぶのではなく、あえてそうでないものを選ぶようにとの忠告。レベルが低くてもそれで満足することにより、修行が達成されるという考え方。)

 あなた自身の魂(ナフス)にも気をつけなさい。魂があなたを破滅に導こうとし、しかも死ぬまでその主(あるじ)から離れないのだから。ラマダーン月になると悪魔は縛られる(ため、悪さを出来ない)(*)。だがあなたはラマダーン月に人を殺し、または盗みを働く人を見かけるかもしれないが、これらの悪行は、”魂”が原因であるためである。そのため、もし魂が罪に傾いたら、アッラーの罰(があろうであること)と、魂の行いのせいでアッラーとのつながりが切れてしまうことを思い出させなさい。

 毒入りの蜂蜜があるとしよう。これは甘いと知られていながら、害があるため放棄される。預言者(平安と祝福がありますように)は言われている:《現世は、甘美で青々としているものだ。》(**)そして次のようにも言われている:《(現世は)汚い死体捨て場である。》(***)

 不注意者たちにとっての現世は、甘く青々とした魅力的なもの。理性ある者たちにとっては、汚れた死体捨て場(のようである)。

 現世は魂(ナフス)にとって、青々としており、心の鏡にとって、腐った死体置き場である。

 ”甘美で青々としている”は、警告の言葉であり、”腐った死体置き場”は、それ(現世)から逃げるように、という意味である。だからこそあなたたちは現世の甘さに騙されてしまわないように気をつけなさい。現世の(甘い部分にとらわれてしまった場合の)結果は苦いのだから。

(*)アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《ラマダーンがやって来ると、天国の門は開かれ、業火の門は閉ざされ、悪魔たちは縛られる。》(アル・ブハーリーとムスリム出典)

(**)アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《本当に現世は甘く青々としている。そしてアッラーはあなたたちをそれ(現世)を治める代理者とされた。かれはあなたたちがどのように動くか見ておられる。だから、現世をおそれなさい。女性もおそれなさい。》(ムスリム出典)

(***)アル・ヒンディーが『カンズ・ル・ウンマール』内で、アリーより伝わる言葉を紹介している。《現世は死体置き場である。誰でもそれを求める者は、野犬たちと交わることに忍耐するがよい。》(8564)

罪について

2008年04月25日 | 花嫁の冠【自我浄化】

 次の事柄が罪の中に含まれることを知りなさい:(アッラーとの)約束に背くこと、(アッラーとの)親愛の絆がほどけること、主より(他を)好む・選ぶ、欲に追従すること、羞恥の衣を脱ぐこと、アッラーが満足されないことでかれに挑戦すること。

 表面に見える影響:体のあらゆる部分に濁りが現れる、目が生き生きとしなくなる、仕事が面倒になる、神聖なものを守ることを放棄する、欲望を追い求める、(アッラーに)お仕えすることから喜びが消える。

 内面的な影響:心の硬化、魂が頑固になる、欲望で胸が苦しくなる、(アッラーに)お仕えすることから甘美さがなくなる、あなたをアッラーから離れさせ、忙しくさせるものが多く現れ、インスピレーションが訪れなくなる、欲という名の王国による征服、疑いが交差する、帰り処と長い清算を忘れる。

 ・・・・・・・

 罪があなたの目の前でまじまじと現れたなら、アッラーに助けを求め、かれの許に避難しなさい。そして、「アッラーよ、罪業の惨めさから、名誉あるあなたへの奉仕へと私をお運びください」と言いなさい。 

 ・・・・・・・

 あなたにとっての現世を例えてみると、田舎に出て努力し、糧を備蓄した人のようである。将来のあの日のためのあなたに有益になるものを手に入れたということだ。もし、欲望という名の蛇と、罪という名の蠍をかき集めたなら、あなたは滅びてしまうだろう。人々が食料を彼らが必要になるときに備えて貯蓄していることさえあなたは知らず、あなたを害する罪を貯めつづけるとは、どういうことだろうか!蛇を家に持ち込んで育てている人を見たことがあるか?あなたはまさにそれを行っているのだ。

 あなたに一番害があり、心配なのは、些細な罪である。なぜなら、大罪であれば、その大きさのためにあなたは悔悟するかもしれないが、小さな罪だとそうではないからだ。例えてみると、一匹のライオンに出くわしたところアッラー助けられ、その後に50匹の狼に遭遇して、食べられてしまう人のようだ。アッラーは言われている:「そしてアッラーの御目には重大なことを,軽く考えていた。」(御光章15節)大罪はアッラーにとって卑しいものである。あなたが小さい罪に固執すれば、それらはやがて大罪になる。なぜなら、毒はその少なさで死なせるからである。小さい罪は火から出る火花のようである。この小さな火は、町ひとつを燃え尽くすこともある。

 


心は木

2008年04月14日 | 花嫁の冠【自我浄化】
 あなたは魂の修行を望んでいるというのに、あなたを負かしそうなほどの欲で魂を強めてしまっているではないか。あなたは無知になってしまったのか。

 ”心”は木であり、ターア(主にお仕えする)という名の水を注がれる。それに付く実は、あなたが知ることになる様々な事柄である。

 ”目(視覚)”から得られる実りは、訓戒であるべきで、”耳(聴覚)”から得られる実りは、クルアーンを聞くことであるべきだ。また”舌”から得られる実りは、ズィクルであるべきだ。”両手両足”から得られる実りは、善行に努力することであるべきだ。

 もし”心”が乾ききり、実りが落ちてしまったならば、ズィクルを多くしなさい。そして、「治癒が見つかるまで、私は治療を受けない」と口にして、人々に「治療を受けなければ、治癒を見出せないぞ」と人々に言われてしまう病人のようであってはならない。

悔悟を怠ると糧が止まる

2008年04月12日 | 花嫁の冠【自我浄化】

 肝に銘じなさい:罪にはくれぐれも気を付けるよう。それは糧の享受が止まる原因になりかねない(*)。だからこそ、常にアッラーに悔悟(する姿勢)を求めなさい。願いが受け入れらたなら良いし、しかしそうでないならば、アッラーにお助けを求めなさい。そしてこう言いなさい:

رَبَّنَا ظَلَمْنَا أَنفُسَنَا وَإِن لَّمْ تَغْفِرْ لَنَا وَتَرْحَمْنَا لَنَكُونَنَّ مِنَ الْخَاسِرِينَ


「主よ,わたしたちは誤ちを犯しました。もしあなたの御赦しと慈悲を御受け出来ないならば,わたしたちは必ず失敗者の仲間になってしまいます。」(高壁章23)

 くれぐれも、40年生きてきて一度もアッラーの戸を叩いたことがない者(注:一度も悔悟をしたことがないの意)のようであってはならない。

(*)イマーム・アフマドによる伝承より。預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)は仰った:《しもべは自分の犯す罪が原因で糧を禁じられることがある。》同様に、”悔悟”と”イスティグファール(罪の赦しを求めること)”は、アッラーからの贈り物を享受できるための条件の中に入る。「わたしは言いました。『あなたがたの主の御赦しを願え。本当にかれは、度々御赦しなされる。かれは、あなたがたの上に豊かに雨を降らせられ、あなたがたの財産や子女を増やし、またあなたがたのために、様々な園や(水の流れる)河川を設けられる。」(ヌーフ章10~12)


花嫁の冠より【2】

2008年03月29日 | 花嫁の冠【自我浄化】

 あなたが心の更正を望むとは、驚きだ。体の各部は、禁じられたものを見たり、言ったり(陰口悪口)など好き放題やっているというのに。あなたに似ているのは丁度、毒で治療をする者か、黒色で服を洗おうとする者だ。

 あなたに必要なのは、ハルワ(Khalwah、独りになること)とウズラ(Uzlah、人や物から離れること)である。ウズラを習慣とする人は、名誉を得、ウズラを真剣に行った人は、数々の恩恵である真実の才能を手に入れる。

 その兆候は: 覆いが剥がれること、心の蘇生、親愛の実現である。

 そのため、あなたは行いをより善くするべきであり、その数を増やすことが大切である:質(善さ)のない数の多い行いは、安い値が付けられた多量の衣服のようである。数は少ないが質の善い行いは、高額で数の少ない衣服のようである。同じく、一個のルビー。小さく、高額だ。誰でもアッラーのために心を多忙にさせ、次々と出現する欲望を適切に処理した者は、礼拝と斎戒を多くする者よりも徳がある。

 心に畏敬の念のこもっていない礼拝を行う者は、丁度、王様に100個の空箱を贈ったために罰を受けてしまう者のようである。礼拝を心を込めて行う者は、王様に1000ディーナールの価値があるルビーを贈ったことにより、いつも王様に思い出してもらえる者のようである。

 礼拝に入ったならば、あなたは至高なるアッラーにお助けを求めるのである。そしてアッラーの使徒(アッラーの平安と祝福がありますように)に話しかける。なぜならあなたは「アッサラーム アライカ アッユハンナビー ワ ラフマトゥッラーヒ ワ バラカートゥフ(預言者よ、あなたに平安と、アッラーのご慈悲と祝福がありますように)」と言っているからである。

 夜中に2ラカー(ラカア:礼拝単位)捧げる方が、昼間に1000ラカー捧げるより善い。あなたが夜中に礼拝に立つのは、あなたの(行いの)秤にそれを見出したいほかに理由はないだろう。さて、僕(しもべ、奴隷)というものは、仕事をさせるためだけに買われるのだろうか。あなたは、食べて、寝るために買われる僕を見たことがあるか?あなたは、買われた一人の僕に過ぎない。アッラーは仰っている:「本当にアッラーは,信者たちからその生命と財産を贖われた。かれらのため(の代償)は,楽園である。かれらはアッラーの道のために戦い,殺し,また殺される。」(悔悟章111節)

*タージュッディーン ブン アターイッラー アッサカンダリー薯のタージュルアルース(花嫁の冠)より