イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

聖月を過ごすとは(4)

2019年08月04日 | 心の強化プログラム

クルアーンの教えを振り返ってみると、このような状況では忍耐しなさいとアッラーは私たちに教えてくださっています。悪い人には悪い態度で接しなさいとは仰せではありません。【あなたがたはアッラーと使徒に従いなさい。そして論争して意気をくじかれ,力を失なってはならない。耐えなさい。アッラーは耐え忍ぶ者と共におられる。】(8/46)と仰せですが、聖句の最後部分の「耐えなさい」が私たちが求めている結果です。 

聖月の最中にいる私たちは、アッラーに近づくための行為や罪の放棄、また崇拝行為によるメリットを得る努力といった自分たちの義務を知るべきです。私達自身と私たちの社会に対する態度を改善するためです。この実現には多大なる崇拝行為、ズィクル(アッラーの御名前を想起、唱える)を要します。私たちが社会において力を得、悪に悪で接する必要がないようにです。 

 

夜中に行う礼拝は強大な精神力を(つちか)います。私たちは自衛するための体力も必要ですし、社会に対応するための精神力も必要です。そこで、夜中に行う崇拝行為は、これらの力を付けるのに大いに役立ちます。また、ズィクル、クルアーン読誦も役立ちます。アラビア語がわからないためにクルアーンを読むのが難しいという人もいるでしょうが、その場合はクルアーンをたくさん聴いてください。たくさん読めないなら、たくさん聴きましょう。毎日30分のクルアーンを聴く時間を確保しましょう。現代はクルアーンをいろいろな方法で容易に聴くことが可能です。そしてサウムを加えておすすめします。サウムは強大な自我を磨く術であり、意志を強くするのに役立ちますので、週に12日のサウムを習慣にするのも良いでしょう。月木のサウムはスンナです。週2日が難しければ月木のいずれかを選択しても良いです。ラマダーン以外でもサウムする習慣を作りましょう。空腹と喉の乾きによって睡眠時間が短くなります。睡眠時間が減ると魂が強くなります。 

 

預言者様のスンナから「魂の栄養はつまり身体の欲求を退けることではない」ことを知っておかなければなりません。自我を磨き、欲に逆らうことは確かに必須ですが、私たちが現世に対して持っている必要を満たすことも忘れてはいけないのです。飲食物、結婚、子供は必要です。しかし、その必要姓を正しく導くのです。退けたり放棄したり無視はしません。聖法に合わせて必要を満たすのです。つまり、この聖月の日々に精神生活で目指すのは、その訓練であり、退けることではありません。預言者様はこのことをご自身の言動で教友たちに教えてくださりました。詳細は別の機会にお話します。 

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聖月を過ごすとは(3)

2019年08月04日 | 心の強化プログラム

アッラーに近づこうと努めるが兄弟を嫌うムスリムには何の益もありません。アッラーは彼をお(とが)めになるでしょう。なぜならアッラーは崇拝行為によって人間同士の関係を良くすることをお命じだからです。 

クルアーン啓示と預言者様が遣わされる前のマディーナには、アル=アウス、アル=ハズラジュの2族が居住しており、イスラーム前には彼らの間に相違、戦争が多く起きていました。 

イスラーム到来後、彼らは兄弟となり、敵・戦争相手から兄弟・強い絆変わりました。 

その兄弟愛についてクルアーンが言及するほどです。 

しかし、ある時、面白くない隣人のユダヤ人は彼らの間に仲違いのきっかけを作ったことにより、二部族の人たちはせっかく作り上げることのできた自分たちのつながりを一瞬にして忘れてしまい、剣を振り上げて喧嘩しそうになりました。人間というものは崇拝行為等で忙しくしていないと魂が尊大になってしまうものです。 

そこを彼らの知らせを受けたアッラーの使徒がお止めに入、おっしゃいました: 

『信徒たちよ。私がいるのに無明時代のやり方か。アッラーがおまえたちをイスラームに導き、厚遇(こうぐう)くださり、無明時代の諸事を絶ち、お前たちを背信から救い出し、おまえたちの心を通い合わせたくださった後にか。』 

すると彼らはアッラーの使徒の声掛けによって我を取り戻し、剣を捨て、抱き合い、泣いた、ということです。 

 

この話から、「アッラーに近づくための行為」は「崇拝行為の形」の話なのではなく、「自身の変化」であることがわかります。「欲の放棄」、「アッラーの道標に戻る」話です。ですから私たちはこの期間、私たちの魂を養ってくれる、かの崇拝行為を必要とします。単に、聖なる日々の中で、かの崇拝行為を捧げるだけ、ということではありません。私たちはこの期間に「祝福された人格者」になれるよう目指します。個人が人間関係をバラバラにしてしまうような諸問題を解決しないうちは「祝福された人格者」になれません。夫婦間、友人間、隣人間で問題があるなら解決しましょう。 

多くの人がこの期間に単独で善行を多くしようとしますがその影響が彼らの行動の中に見受けられません。私たちが隣人や家族や友人に対して「祝福された人格者」にならない限り、崇拝行為の祝福、今の聖なる期間の祝福を受益できません。 

 

アッラーはクルアーンの各所にて彼のしもべをその人格、人との接し方そして彼らの崇拝行為を使って描写し給うています。このことは、行う崇拝行為だけでなく他人との接し方くすることも「善良な人」になるために必要であることを表しています。 

アッラーのお言葉【だからその聖月中にあなたがたは互いに不義をしてはならない。は、イスラーム社会に属する人たち全てに向けられています。「誰も、己に不義をしてはならない」と仰せではないことに注目してください。聖句は、信徒たちはお互いを愛し、全体が一つであるかのように生活しなければならないという意味を持ちます。これはもちろん容易なことではありません。特に、自分は改善しようと思っても、周りがそうでない場合、特に難しく、改善した人は被害者となってしまいます。アッラーはこうなることを御存知です。では私たちはどうしたらいいでしょう?ある人は、「私は良い人とは良い態度で接し、悪い人には悪い態度で接する」と言いますが、これはアッラーの道標とは異なり、善人、人格者の行動ではありません。 

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聖月を過ごすとは(2)

2019年08月04日 | 心の強化プログラム

アッラーは仰せです: 

【本当にアッラーの御許で,(1年の)月数は,12ヶ月である。アッラーが天と地を創造された日(以来の),かれの書巻のなか(の定め)である.その中4(ヶ月)が聖(月)である。それが正しい教えである。だからその聖月中にあなたがたは互いに不義をしてはならない。】(悔悟章36節) 

「不義をしてはならない=自我を損なう」:自我を許された方法以外で使用することを指します。アッラーは人間とジンを彼に仕えさせるためだけに創造し給いました(【ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。】(51/56))が、自我に崇拝行為をさせずに悪行をさせること、これが聖句で言われる「自我を損なう」行為です。またこの行為は常に禁じられますが、聖月におけるその禁止が強調されることで、信仰者はその期間、更にアッラーに向き合おうとしなさい、お近づき行為に励みなさい、との意味があります。 

人間は生きている間、アッラーに仕えているか、その逆です。アッラーが私たちに罪を禁じ給う啓示は、私たちが常にお仕えしている状態にあるようにとのご命令です。「良き行為を成せとの命令は、すなわち、「魂を養うこと」です。なぜなら人間は魂と体でできており、体が成長のために栄養を要するように、魂もその向上のために栄養を要するからです。 

体が要する栄養の元来の姿は、人間が泥から創造されたことから理解できます。つまり身体の栄養は大地(植物や草を食む家畜等)から得られます。そして魂は、アッラーからやってきています。これについては聖句で幾度となく述べられています:【あなたの主が,天使たちに,「われは泥から人間を創ろうとしている。」と仰せられた時を思え。 (71) 「それでわれが,かれ(人間)を形作り,それにを吹き込んだならば,あなたがたは伏してかれにサジダしなさい。」】(38/71-72)聖句は私たちに人間は土泥でできた身体と、アッラーの吹き込みによる魂でできていることを教えてくれています。そしてこの2要素はそれぞれ栄養を要します。身体の栄養は身体を保ち、魂の栄養は人類全体を保ちます。 

人間が全ての願望を叶ようとすると、同じことをしようとする他人とぶつかります。そこで「魂の栄養」が体の欲求に制限を設けます。そして人間一人ひとりが個人の行為を制限することで、他人との関係に距離を保ちます。 

魂の栄養」は、体の欲に勝ちます。個人がその願望を叶えようとするところに「魂の栄養」は決まり事を定め、個人が他人を敬うようにしたり他人の満足や幸福のために努めるようにさせます。 

アル=アウス、アル=ハズラジュ2部族も、魂の栄養」を得た後は、他方を優先するようになりました。その例は、数々の戦の中にも見られました:負傷した戦士に水が運び込まれると、「私よりも兄弟を先に」と言いました。すると水が運び込まれた二人も「私より兄弟を先に」と言い、3人も同じことを言いました。最後の者に水が届けられると、その者はすでに亡くなっており、その前の者もすべてが亡くなっていたのです。彼らは自分の兄弟がまず水を飲むことを望みました。誰もが要しているだろう戦場における少量の水です。「魂の栄養」を得る前の彼らはお互いを殺そうとしていた人たちです。そして「魂の栄養」を得た後の彼らは、自分よりも他人を優先する人になったのです。599節は彼らに関して啓示されました。自分自身に先んじて(かれらに)与える。仮令自分は窮乏していても。】自分が必要としていても兄弟を優先しました。 

この期間に行う崇拝行為や善行の「形」について意味しているのではなく、社会の中で私たちが愛し合えるようにしてくれる「魂の栄養」について意味しているのです。 

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聖月を過ごすとは

2019年08月04日 | 心の強化プログラム

イスラームの暦には年に4つの聖月があります。 

独立したラジャブ(7月)、連続するズ=ル=カアダ11月)、ズ=ル=ヒッジャ12月)、ムハッラム1月)です。4つの聖月の存在について各月の名前は述べられていませんが、クルアーンに言及があります。名称については預言者様のハディースが言及しました。 

ラジャブ月(7月)はすでに経過し、現在、連続する3月を私たちは迎えています。 

=カア11月)、ズヒッジャ12月)はハッジ大巡礼)の月としての共通点があります。現在、ズ=ル=カアダ月の真っ只中にある私たち、「ハッジの祝福」、「聖月であるゆえの祝福の中を生きていることになります。 

ハッジの月であるズ=ル=ヒッジャについてもクルアーンが言及していますが、名称は出てきません:【巡礼(の時期)は周知の数月である。】(雌牛章197節)なぜなら、ハッジ行為は預言者イブラーヒーム様عليه السلامの時代から続いてきた、アラブ人の間では知られたものだからです。 

信仰者はこの期間、善行に励むよう促され、ハッジ予定の人たちは出発に備えた準備に入ります。ハッジは素晴らしい崇拝行為です。その他の崇拝行為は一人で行いますが、ハッジが素晴らしいのは兄弟姉妹という集団で行うものだからです。 

ハッジを擁する月の祝福は、ハッジに行く人たちだけに与えられているわけではありませんし、ハッジに行けない人には祝福がないということでもありません。 

ハッジは信仰者とアッラーのつながりを強くしますが、ハッジに行かない人にはこの期間に行えるアッラーにお近づきになれる善き行いが多々あります。ですから、ハッジに行けないと悲観する必要はありません。悲観する人たちがハッジに期待することは、預言者様の以下のハディースにあるように、「全ての罪が赦されること」ですが、そのための行為は他にもあることを知らないのかもしれません: 

アッラーのためにハッジ行い、みだらに振る舞うことをせず、罪を犯さなかった者は、母親から生まれた日のような状態に戻る。》(アル=ブハーリー) 

ここで強調したいのは、ハッジに行けない人にもすべての罪を赦していただけるような行為はたくさんある、ということです。ムスリム総人口のごく僅かな人だけがハッジに行っているわけですから、ここでは行かない人たちがこの期間に行える行為についてお話します。 

例:【礼拝は昼間の両端において,また夜の初めの時に,務めを守れ。本当に善行は,悪行を消滅させる。】(フード章114節)罪を許していただける行為です。 

例;《悪行を思いついたがしなかった者には、善行と書き留められる》(ハディース)しようとしていることが禁じられているものと気づき、アッラーのために放棄した場合。それが出来る環境にないためにしなかった場合は善行とみなされません。 

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心の強化プログラム【5】

2015年10月25日 | 心の強化プログラム
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において

前回いただいた質問の回答をします。

質問:私たちの結婚に不満足な海外在住のノンムスリムの義両親にできることはなんですか?

回答:ご主人はできる範囲での親孝行をしなければなりません。お祝い事があれば挨拶をしたり、連絡をとったり、訪問される際は暖かく迎えるなど、イスラームに反しない範囲でできることは全てしてください。向こうが連絡を絶っても、自分たちから連絡をとってください。

経済的、身体的援助も惜しまないでください。少なくとも3日に一度は電話をかけて、優しい言葉をかけてください。奥さんのほうも同じく振る舞い、そうすることで親孝行になるとともに、彼らにイスラームを知ってもらう機会になります。

海外に住んでいるとのことなので、誰かがその国に行く際に贈り物を託したり、日本に遊びに来てくださいと招待したり、自分たちが遊びに行くなどしてみてください。
質問者さんによると、結婚に満足していないことを理由に関係を切ってしまったということですが、そうだったとしても彼らの息子であるあなたの夫は、「私はお父さんお母さんが必要で、いつも心配をしているので、こちらから関係を絶つことはありません」と忍耐強く、伝え続けていってください。

クルアーンの中でも言われているように、彼らがあなたたちにシルク(多神崇拝)をするよう求めた場合は従う必要はありませんが、現世では、イスラームに関係すること以外では彼らに寄り添ってよく接してください。
イスラームをやめなさいとか、イスラームでいるかぎり親子の縁を切るとか言われても従うことはできません。だからといって彼らと関係を絶ってもいけません。それと親孝行は別です。孝行されるのは親の権利であり、子の義務です。ご両親がどんなにイスラームを嫌いであろうと、自分たちは自分たちの義務を果たしましょう。

ハディースにも親孝行に関するものがあります。
アスマーゥ・ビント・アビーバクル様(アッラーの御満悦あれ)という女性の教友は、アブーバクル様の娘で、アーイシャ様の姉妹ですが、母親が違います。アスマーゥ様の母親はムスリマではありませんでした。ある日、アスマーゥ様の母親が娘を贈り物を手にして訪ねますが、彼女は戸を開きませんでした。アスマーゥ様は預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)のところへ行って、「母が私を訪問する時、戸を開けても良いのでしょうか?彼女から贈り物を受け取っても良いのでしょうか?」と尋ねました。預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、「はい。彼女に戸を開け、贈り物を受け取りなさい。」とおっしゃいました。このハディースから、親が不信仰であっても、宗教上におけることで従順にはなれませんが、孝行はしなければならないことが分かります。

質問:私たちが断食をするのは、アッラーが御命令だからで、彼からの御褒美を願って、アッラーのためだけに行います。しかし、ムスリムではない人たちはこの考えが理解できないようです。そこで、彼らに、なぜ断食をするのかという説明を、「現世的な効用(胃腸の調子が良くなる等)」でしても良いでしょうか?

回答:断食はイバーダ(崇拝行為)なので、それを現世のものと結びつけるのは良くありません。なぜならイバーダは、”アッラーに完全に従う”というもので、私たちのアキーダ(信条)に基づくものなので、イバーダは決して現世のものと結びつくものではないのです。それを現世のものと結びつけて、ムスリムではない人たちに説明するのはよくありません。逆のやり方で説明した方がよいです。つまり、この質問を通じてアキーダに触れてもらい、アキーダがどういうものかを知ってもらうことです。
例えば断食は、1400年前に定められたにもかかわらず、現世的効用が発見されたのは現代になってからです。では、昔の人はなぜ断食をしていたのか、ということになり、辻褄(つじつま)が合わなくなってしまいます。その様な説明の仕方はしないで、まず第一に、”私たちはイバーダとして断食をする、アッラーがするよう命じているからする”と言いましょう。これが私たちが断食する理由なのですが、断食が実際にどれだけ私たちのためになっているかを現代の医学が証明している、と説明しましょう。その方が正しく理解してもらえるでしょう。

先程言ったように、相手のムスリムでない方も、”現世の利益があるから私たちは断食する”と言ったら、では昔の人はどうしていたのか?と疑問を持つでしょう。私たちは、自分のアキーダが弱いために、自信を持って説明できないのではないでしょうか。ですから、もっとアキーダを強化する必要があります。アキーダを強くすることで、質問者さんにアキーダに触れてもらえるような説明をできるよう目指しましょう。一般の人はアキーダがなんなのか、わかりません。私たちはアキーダが知識に基づいたものであることをわかってもらえるようにしましょう。

質問:いとこ同士の結婚はイスラームでは推奨されるのですか?

本当のところは、イスラームはいとこ同士の結婚を推奨しているわけではありません。ただ、子供達を結婚させるときに、親戚以外によい人がみつかならい時に、親戚の中で相手を見つけるということが起きているだけです。

イスラームは逆にいろいろな民族や人と交わることを奨励しています。クルアーン「人びとよ,われは一人の男と一人の女からあなたがたを創り,種族と部族に分けた。これはあなたがたを,互いに知り合うようにさせるためである。 」(49章13節) にある通りです。

預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、親戚の女性ともそうでもない方とも結婚さないました。

結論:いとこ同士の結婚はその国の習慣であって、イスラームで決められたものでも奨励されているものでもありません。逆に、他の人たちと交わることを奨励しています。

質問:”陰口(ギーバ)”と”第三者の評判を知るための相談”の違いはなんですか?

回答:陰口はハラーム、相談はハラールです。
まず、陰口と相談がそれぞれ何であるかを説明します。

陰口は、「その人が聞いて嫌がることをその人がいない場で話すこと」です。その人を褒めることは問題ではありません。嘘であろうと、本当であろうと、その人が聞けば嫌になることをその人がいない時に言うことが陰口です。

相談は、婚約相手、商売相手などの評判を第三者に聞くことです。尋ねられた人は、正直に答えなければなりません。外見は陰口に見えても、相談された場合は真実を言わなければなりません。

陰口も第三者に関する相談も、外から見れば、その人の不在時にその人について話すことにおいて同じです。しかし、イスラームにおいては前者は罪、後者はお咎めがありません。

二つの違いについて説明します。
私たちの利益を守るためにアッラーが定めてくださったさまざまな原則がイスラームです。この点を私たちはきちんと押さえておかなければなりません。

イスラームには様々な規則がありますが、それは私たちを制限するためでなく、私たちの利益を実現するためにアッラーが定めてくださったことです。

利益には、個人的利益と公の利益があります。個人の利益はほかの個人の権利とぶつかり合うことがほとんどです。かといって、公の利益だけを優先することもできません。そこでイスラームは、謙虚であることや、自分よりも他人を優先することが徳であると定めました。そうすることでお互いの利益がぶつかり合わないようにしました。

個人と個人の利益が反する場合、イスラームでは、相手を尊重をして自分の権利を喜んで放棄します。なぜかというと、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)の言葉にある通りです:アッラーにより好ましい人は、相手に対して親切な人である。他人のために自分の権利を放棄することは好ましいことなので、喜んで相手のためになることをするのです。

世界には、イスラーム以外にも教えや生き方があります。人間が作ったそのようなものと、創造主が作った生き方はまったく違います。

人間が作った生き方と、アッラーが人間のために作った生き方を比較することは、この勉強会のテーマではありません。ただこれから話す”陰口と第三者に関して相談することの違い”を勉強する上で確認しておきたいのは、アッラーが作り給うた教えは、人間が作り出した教え(生き方、法律など)と比べ物にならないもので、それは歴史が証明している、ということです。ムスリムだけでなく、ムスリムでない人たちもそのことを証明しています。どういうことかというと、アッラーの教えによって、かつて無知であった共同体が、数十年のうちに人類史上最良の共同体になったということです。

その数十年のあいだにアッラーの教えによって最底辺から最高の域に達した共同体に比べて、現代の世界を見ていただきたいと思います。皆さんがご存知のように現代は、昔と比べ物にならいほど科学や工業が発達しています。では人々の生活はどうかというと、いろいろなところで人殺し、破壊などが行われて、不安の中に生きています。それが、それぞれの共同体が従っている教えの違いなのです。

預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)の時代の共同体は、アッラーの教えに従って、命令を守り、禁止事項を避けていました。その結果、人類史上、最も素晴らしい共同体になりました。それに反して、現代の私たちは、ムスリムもそうでない人も含めて、アッラーの教えに従っていません。そのため、このような状態になっているのです。

質問の途中ですが、講義が終わりますので、次回にこの質問の回答の続きをします。陰口が禁じられる根拠と、ある人の評判を知るために相談することが許されることの根拠を説明します、インシャーアッラー。
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心の強化プログラム【4】

2015年08月13日 | 心の強化プログラム
イードは、アラビア語で、”戻る”という意味があります。

イードに関して学者たちは言いました:イードに新調した服を着たり、お菓子を食べるのがイードではない。悔悟しなかった信徒にイードはなし。アッラーを恐れた者にこそ、イードがある。

イードという機会に、アッラーと自分の関係を見直して、来世に備えることができます。

イードの礼拝(シャーフィイー学派の場合):
ムスリムにはイードに特別な礼拝があります。2ラクアで成り立っています。日の出約30分後以降に行われます。ファーティハ章を読む前に7度のタクビール、そしてタクビールとタクビールの間に心の中でスブハーナッラー、アルハムドゥリッラー、ラーイラーハイッラッラー、ワッラーフアクバルを読むくらいの間を空けます。

預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、女性もイード礼拝に参加するようおっしゃいました。通常、マスジドでの礼拝は女性には求められませんが、イード礼拝は別です。

教友ウンム・アティイヤ様(アッラーの御満悦あれ)のハディースによると、成人前の女子、月経中の女性、都合により普段からあまり外出しない女性たちが、イード礼拝に出るよう命ぜられました。月経中の女性は、礼拝の場には入れませんが、イード礼拝後の説教を聞くようにと言われています。

イードの礼拝に多くの徳がなかったならば、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は普段、外出することのない女性に礼拝に出ることを命ぜられることはなかったでしょう。

また、イード礼拝会場に行けなかったとしても、家で、一人でできます。

タクビールをたくさんすることについて:
イード=ル=フィトルの場合:シャウワール月に入った時点で、タクビールを開始し、イード礼拝前まで続けます。
イード=ル=アドハーの場合、巡礼者たちがアラファから出て~タシュリークの日11、12、13日のマグリブ直前までタクビールを続けます。

お祝い時に、親戚友人を訪問したり、喜びを共有することはムスリム以外の慣習でもありますが、それをする前に、”アッラーのご満足を求める”というニーヤを持つことで、すべてが崇拝行為になります。これがムスリムの訪問の特徴です。

質問1:信仰者は、試練が多い中でなぜ幸福を感じられるのか。
答え:二つのポイント
アッラーを特別に知っている人たちは、普通の人に見えないものが見えます。
1信仰者にとって試練とはどういうものか。
2信仰者は試練に対してどのような信条を持っているか。

試練は相対的で、一つの意味ではありません。ある時期にはそれが試練と理解され、違う時期には恩恵、ある人にとっては試練、違う人には恩恵ということもあります。ルクマーンとその息子の話を例にしましょう。彼は英知のあるとして有名な人です。

ルクマーンの息子が、
「アッラーがもし、私たちに良いことだけを定め給うのなら、どうして悪いことが起こるのですか」と、たずねました。
父は、「あとで答えよう」、と言いました。

ある時、ルクマーンは息子と一緒に旅をしていたところ、息子が途中で骨につまづいて怪我をして、歩けなくなってしまい、旅を中断しなければならなくなりました。
息子は言いました。
「アッラーは、良いことしかもたらし給わないと父さんは言ったけれど、なぜ悪いことが起きたのですか。」
しばらく何日かして治った後、旅路について、目的地の村に着くと、そこには地震が起きて、地上にあったものがすべて地下に埋まっていました。
父は言いました。
「あのまま、旅を続けて、村に着いていたら、私たちは、地震にあって死んでしまったことだろう。表面的には、おまえの怪我は災難だったけれど、実際には恩恵だった。」

この話だけでなく、こういうことは、私たちの現実世界でもよくあることです。時間が経ってから、”これで良かったのだ”ということはたくさんあります。

そのことを直接的に表現している言葉がクルアーンにあります:
「 وَعَسَىٰ أَن تَكْرَهُوا شَيْئًا وَهُوَ خَيْرٌ لَّكُمْ ۖ وَعَسَىٰ أَن تُحِبُّوا شَيْئًا وَهُوَ شَرٌّ لَّكُمْ ۗ وَاللَّـهُ يَعْلَمُ وَأَنتُمْ لَا تَعْلَمُونَ」
「自分たちのために善いことを,あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを,好むかもしれない。あなたがたは知らないが,アッラーは知っておられる。」(雌牛章216節)

洞窟章には、3つの物語が登場しますが、私たちが探っている意味がその中にあります。
船の持ち主の話、男の子殺しの話、崩れかかった壁をハディルが修復する話。

信仰者は、アッラーに対する信頼を持っていれば、常に幸福です。信仰者の試練というものは、常人の理解する試練と違うものです。

信仰者は、試練があるほど、アッラーに対する信頼が深まります。

預言者伝を見ると、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)が洞窟にアブーバクル様(彼にアッラーのご満悦あれ)と隠れていた時、アブーバクル様は、敵がこちらを見たら終わりだと言いましたが、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、二人でいれば、アッラーは三人目と言って、微笑みながら、アブーバクルを安心させました。試練があっても、信頼があれば、安心感が生まれます。

信仰者が、試練の多さに関わらず感じている幸福がどこから来るかというと、アッラーに対する偉大な確信・信頼であり、それが彼の幸福の根本になっています。

試練をくださったアッラーを見ると、アッラーの偉大さを見、それからくるご褒美を考える、そのために幸福を感じるのです。

例:父親か母親が校長を務める学校に通う子どもは、学校で何かあっても校長が守ってくれるので、誰もおそれません。この世界の主であるアッラーは、信仰者の保護者です。”アッラーが常に一緒におられる、助けてくださる”という確信・信頼の例です。

2ムスリムの試練にたいする信条。
忍耐者の報奨に関するクルアーンの言葉:
「إِنَّمَا يُوَفَّى الصَّابِرُونَ أَجْرَهُم بِغَيْرِ حِسَابٍ」
「よく耐え忍ぶ者は本当に限りない報酬を受ける。」(ズマル章10節)

ムスリムは、”試練があっても忍耐すれば、計り知れない報奨がある”と確信しています。

”ご褒美がもらえる”という確信が幸福感をもたらします。

例え話:ある女の人が指を切ってしまいました。普通なら痛いでしょう。しかし、その人は笑ったので、周りの人が驚いて言いました。「頭が狂ったのか」、と。彼女は、指を切ったことで報奨が得られると思うと嬉しくて笑ったのです、と言いました。

結論:信仰者の試練に対する態度は、そうではない人たちの態度と違います。信仰者は、試練そのものを見ず、その向こうにあるもの、その後にあるものを見ます。これに耐えれば、報奨がたくさんある、と見ます。アッラーに対する強い確信・信頼のために幸福感を得ます。

参加者からの質問:ムスリム(イスラーム教徒)とムウミン(信仰者)の違いとは?
答え:ムスリムはムウミンが到達したところにまだ到達していない人のことをいいます。
同じ意味で使われることもあります。区別される場合は、ムウミンは信仰が強まった人のことをいいます。今日の話題で使われたのはムウミンです。試練自体が、人をムスリムかムウミンかに分けます。ムスリムは耐えられないが、ムウミンは耐えられる、という形で分けます。
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心の強化プログラム【3】

2015年08月13日 | 心の強化プログラム
断食をするにあたっての困難をどのように耐え忍ぶかについてと、残っている質問の回答を行います。

前回まで、”断食における効用”を見てきましたが、やはり、断食には困難が伴うものです。

ムスリムの中には、体力の問題ではなく、意志の弱さのために断食に耐えられなくなって、食べてしまう人がいます。そういうことがないよう、意志を強くするための考え方を持つべきです。

私たちの日常生活の中で、目的のために何かを犠牲にするということはよくあることです。例えば、父親が大好きな妻や子どもを置いて、生活の糧を得るために遠くに旅に出るという困難に耐える場合があります。人間は、代償がないなか耐え忍ぶことができません。

さきほどの父親のように、断食する人は、断食を耐え忍べば報奨があるという確信があるため、飢えや喉の渇きを耐えしのげるようになります。

預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)の言葉に、断食の報奨がとても大きいことを示すものがあります。アッラーに代わって彼(アッラーの祝福と平安あれ)が語られた、ハディース・クドゥスィー:《断食はわれのためであり、われこそがそれに報いる。》→善行の報奨は通常、10倍になりますが、断食は数が決められておらず、アッラーが御好みに応じて倍加してくださる、つまり無制限に増えるということです。

断食は、他の崇拝行為に比べて報奨が多いのには理由がありますが、それは、それが隠れた崇拝行為だからです。例えば、礼拝は他人に見えますし、ザカーも、受け取った人がいくらもらったか分かりますが、断食は、した本人とアッラーにしかわかりません。

表面的には、のどが渇いて辛そうかもしれませんが、彼の心の中では、約束されている偉大な報奨で喜びに満ちていて、それが原動力になっているかもしれないのです。

断食の初心者などは、他の人よりも断食をより困難に感じるでしょうが、その分報奨が多いです。それは、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)がアーイシャ様(彼女にアッラーのご満悦あれ)に次のようにおっしゃった通りです:《あなたの困難に応じて、あなたの報奨は多くなります。》

学者たちは、断食に耐え忍んでいることを表に出さないことを奨励しています。自分がこれだけ頑張っていること、苦しんでいることを人に知らせない方がいいとうことです。そうしたからといって報奨が無くなるわけではありませんが、断食は、自分とアッラーとの親交を他人に知らせてしまうことで、また、アッラーとの内面的なつながりを人にさらけ出してしまうことで、”アッラーとつながっている”という感覚が少し薄れてしまうことになってしまいます。

ここからは、皆さんからの質問に答えます。答えきれない分は、次回以降に延ばします。

質問:いろいろある宗教はすべて善へと誘うものですが、なぜイスラームでないといけないのか、なぜイスラームを信じなければならないのか。

答え:まず、イスラームという単語の意味の解明をします。イスラームとは、”完全なる服従、帰依”を意味します。

つまりムスリムは、”己の創造主に完全に服従する人”のこと意味します。

イスラームの元になっている、”アスラマ”という動詞は、”完全にまかせる”という意味を持っています。

注意していただきたいのは、イスラームという言葉が、ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ)の時代に生まれたわけではない点です。アラブ人なら、イスラームが、単なる宗教の名前ではなく、もともと語源的な意味を持つことを知っています。しかし問題は、後世になって、外国の人たちが入信することによって、単なる宗教の名前・固有名詞のようなものになってしまっていることです。実際にはそうではなく、イスラーム以前のさまざまな天啓宗教にも、イスラームという名前が使われていたのです。

預言者ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ)以前のさまざまな預言者たちによってもたらされた天啓宗教は、しもべたちのアッラーに対する完全な服従・帰依という意味でイスラームという言葉を使っていました。

أَمْ كُنتُمْ شُهَدَاءَ إِذْ حَضَرَ يَعْقُوبَ الْمَوْتُ إِذْ قَالَ لِبَنِيهِ مَا تَعْبُدُونَ مِن بَعْدِي قَالُوا نَعْبُدُ إِلَـٰهَكَ وَإِلَـٰهَ آبَائِكَ إِبْرَاهِيمَ وَإِسْمَاعِيلَ وَإِسْحَاقَ إِلَـٰهًا وَاحِدًا وَنَحْنُ لَهُ مُسْلِمُونَ

「ヤァコーブが臨終の時,あなたがたは立ち会ったか。かれがその子孫に向かって,「わたしが亡き後,あなたがたは何に仕えるのか。」と言うと,かれらは,「わたしたちはあなたの神,イブラーヒーム,イスマーイール,イスハークの神,唯一の神(アッラー)に仕えます。かれに,わたしたちは服従,帰依(ナハヌ・ラフ・ムスリムーン)します。」と言った。 」(雌牛章133節)

رَبَّنَا أَفْرِغْ عَلَيْنَا صَبْرًا وَتَوَفَّنَا مُسْلِمِينَ

「主よ,わたしたちに忍耐を与え,ムスリムとして死なせて下さい。」(高壁章126節)

使徒ムーサーの言葉。
قَالَ الْحَوَارِيُّونَ نَحْنُ أَنصَارُ اللَّـهِ آمَنَّا بِاللَّـهِ وَاشْهَدْ بِأَنَّا مُسْلِمُونَ

「弟子たちは言った。「わたしたちは,アッラー(の道)の援助者です。わたしたちはアッラーを信じます。わたしたちがムスリムであることの証人となって下さい。」」(イムラーン家章52節)

過去の使徒・預言者たちが、イスラームという言葉を使ったことがわかるアーヤは、ほかにもたくさんあります。

イスラームというのは、創造主アッラーの命令に完全に従って帰依するということです。”さまざまな使徒・預言者を遣わし給うて、私たちがアッラーに完全に従うために道標となる啓典をくださったアッラーに完全に従う”、ということを示しています。

イスラームというのは、宗教の名前ではなく、唯一神アッラーに完全に従うという意味を持つ言葉なのです。

以下の2点をもとに、解明を続けます。

1. 天啓宗教の中でなぜ預言者ムハンマド様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)の教えなのか?

2. 天啓宗教以外の、人間が作った宗教ではだめなのか?

1について。簡単に言うと、イスラームは、ユダヤ教とキリスト教を否定するものではなく、補完するものであるということです。なぜなら、ユダヤ教とキリスト教には、後に来る使徒(ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ))に従えとの教義があるからです。

根拠:「وَرَحْمَتِي وَسِعَتْ كُلَّ شَيْءٍ ۚفَسَأَكْتُبُهَا لِلَّذِينَ يَتَّقُونَ وَيُؤْتُونَ الزَّكَاةَ وَالَّذِينَ هُم بِآيَاتِنَا يُؤْمِنُونَ الَّذِينَ يَتَّبِعُونَ الرَّسُولَ النَّبِيَّ الْأُمِّيَّ الَّذِي يَجِدُونَهُ مَكْتُوبًا عِندَهُمْ فِي التَّوْرَاةِ وَالْإِنجِيلِ」

「またわれの慈悲は,凡てのものにあまねくおよぶ。それ故われは,主を畏れ,喜捨をなし,またわが印を信じる者にそれを授けるであろう。かれらは文字を知らない預言者,使徒に追従する者たちである。彼はかれらのもっている(啓典)律法と福音の中に,記され見い出される者である。」(高壁章156~157節)

なぜ、ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ)の教えに従うよう呼びかけるのか、というと、イスラームが天啓宗教最後の教えであり、それ以前の教えは、最後の教えを信じるように呼びかけているためです。イスラームを信仰する上で重要な点として、ムスリムは、以前のすべての使徒・預言者たちを信仰しなければなりません。そのため、私たちは、以前の天啓宗教を否定しません。しかし、それらの宗教の中でも、イスラームを最後のものとして信じるよう命ぜられているので、イスラームへと誘うのです。

「الَّذِينَ آتَيْنَاهُمُ الْكِتَابَ مِن قَبْلِهِ هُم بِهِ يُؤْمِنُونَ」
「われがこれ以前に啓典を授けた者たちはよく信仰している。」(物語章52節)

「وَإِذَا يُتْلَىٰ عَلَيْهِمْ قَالُوا آمَنَّا بِهِ إِنَّهُ الْحَقُّ مِن رَّبِّنَا إِنَّا كُنَّا مِن قَبْلِهِ مُسْلِمِينَ أُولَـٰئِكَ يُؤْتَوْنَ أَجْرَهُم مَّرَّتَيْنِ」
「それがかれらに読誦されると,かれらは言う。「本当にこれは主から下された真理です。わたしたちはこれを信じます。わたしたちはこの(下る)以前からムスリムであったのです。」これらの者は2倍の報奨を与えられよう。」(物語章53~54節)

イスラーム以前の天啓宗教のユダヤ教徒やキリスト教徒がイスラームに帰依すると、2倍の報奨を得る理由は、彼らが以前に天啓宗教を信じ、さらに最後の宗教であるイスラームを信じるという、二つのことを信仰するからです。

私たちが、”イスラームを信じなさい”、と呼びかけるのは、アッラーが、”そうしなさい”と命じ給うているからです。すべてのアッラーからの教えというのは、常に改定されてきていて、イスラームはその最終版です。ですから、私たちは、最終版のイスラームを信じ、広めるのです。

では、2. 人間が作った宗教ではだめなのでしょうか。

まず、イスラームの特徴を簡潔に挙げます。

1. イスラームの起源が、創造主アッラーであること。これは、重要です。例えば、ある会社を訪問する時に、直接社長に会いに行けるケースの場合、部長や課長にわざわざ会いに行きません。創造主の教えに直接触れられるのなら、わざわざ被創造物の作った宗教に触れる必要はなく、ストレートに創造主の教えに行くのが適切です。

一方、人間の作った宗教の存在は、何を示しているでしょうか。人間は、本性として、アッラーを必要としていますが、一部の人たちには天啓宗教が伝わらず、己のアッラーへの必要を満たすために、自分たちで宗教を作り上げました。もし、彼らに天啓宗教が伝わっていれば、創造主の作り給うた宗教に納得して信仰していたはずであり、わざわざ自分たちで宗教を作る必要は生まれませんでした。なぜなら、人間は本性から、強力なものを得ると、それに劣るものを選ばないからです。強いものを得たら、それに劣るものをしません。そのため、創造主につながるものを得れば、それ以外は必要としないはずなのです。

2. イスラームが、人間の生活上必要なことをすべてカバーしている。

イスラームは、単に、善行を勧めるだけでなく、現世を繁栄させることや、来世を大切にすることも説く、包括的な教えです。

イスラームが包括的、というのは個人のことだけでなく、政治、経済、社会といったすべて、現世と来世を包括しています。

イスラームの教えの中には、下品なことを言う人を非難したり、現世の糧を稼がない人を非難したり、髪を整えない人を非難するものがあり、生活のことも教えているのがわかります。

3. 現実的な宗教である。

つまり、人間が与えられている本性を尊重している点です。欲を放置せず、しつけて正しい方向に向かせることを説きます。また、実行が難しい場合は例外事項がきちんとあります。水がなくウドゥーができない場合は、タヤンムムがあったり、立って礼拝できない場合は、座ってできたりします。そのため、イスラームは、地域や時代を問わない教えといえます。

4. どこから私はきたのか?これからどこへ行くのか?という質問にイスラームは答えてくれる。

この答えは、他の宗教には見当たりません。答えていても、理性的に受け入れられないものだったりします。しかし、イスラームは、詳細に教えてくれます。

イスラームには、ほかにもたくさんの特徴がありますが、時間の都合により、終了します。

質問:ラマダーン中にやる気が落ちてしまった。いろいろな崇拝行為に励みたいが、なかなかできない。

答え:自分を奮い立たせましょう。弱気になることはいたって普通で、アッラーがその人に奮闘努力の報奨を与える機会を与え給うているということですから、自分を奮い立たせて、報奨がより多くなるよう、努力しましょう。常にやる気が向上していれば、崇拝行為は恒常化して、サクサクこなすだけのルーティーンになってしまいます。しかし減るのは、アッラーの英知なのです。
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心の強化プログラム【2】

2015年06月29日 | 心の強化プログラム
インシャーアッラー、数日後に聖なるラマダーン月を迎えるので、ラマダーン月に関するお話と義務の斎戒断食についてお話します。

この義務の奇跡についてお話する前に、イスラームの義務には必ず何らかのメリットがあり、禁止には必ず何らかのデメリットがあることを皆さんに注目してほしいと思います。そのため、イスラーム法学書の多くが冒頭に掲げる法則は、“まことにアッラーはメリットがあることだけを命じ給い、デメリットがあることだけを禁止し給う”なのです。至高なるアッラーが御望みであれば、きっと私たちに、すべての彼の御命令に含まれている効用(禁止の理由であるデメリット、義務に含まれているメリット)を解明し給うたことでしょう。しかし、至高なるアッラーは、全ての効用を言及し給うことなく、命令と禁止を示し給うた事が、私たちには分かります。
アッラーがそれらを隠し給うた理由:
1.人類に研究する機会を与え、イスラームの奇跡が時間の経過とともに現れるようにするため。1400年前から現在に至るまで、イスラームの諸規則のメリットが科学的研究によって発見され続けています。かつて、それぞれの集団に送られた預言者たちは、アッラーから派遣されたことを証明する奇蹟を持っていました。しかし、最後の啓典であるクルアーンが下された際には、アッラーはその最後の啓典自体に「イスラーム法の諸規則における奇蹟」を入れられました。そうすることで、日を追うごとに人々に奇蹟が現れ、各時代に、“至高なるアッラーが存在し、この教えはアッラーからのものである”こと、“かれのみこそが崇拝されるに相応しい創造主アッラーである”ことを示す証拠になります。
ここでは、科学的研究が到達し解明された、クルアーンとスンナに述べられている奇蹟については述べません。本題に入る前に、このポイントに注目して頂く事が目的なのです。

2.諸規則のメリットが隠されていることにおける第二の叡智:諸規則が啓示された当時の人間の理解が、そのメリットを認知出来なかったからです。なぜなら、人間の理性で解明できる広範な科学的研究が、当時は存在していなかったためです。そのため、これら諸規則が啓示されると、教友たちは純粋に「崇拝行為」としてそれらを実践しました。彼らには、諸規則が持つメリットに関する知識は、例えば、禁酒は、理性を酩酊から守るためであると言明されているケースの様に、少ししかありませんでした。そして、諸規則のメリットが隠されていることにおける最大の叡智は、“崇拝の対象(アッラー)のために行う”という、崇拝する者の心の中に実現されるべき「しもべ性」なのです。ですから、私たちは、“アッラーが崇拝されるに相応しい御方だから、彼を崇拝する”のです。一方、崇拝行為の成果は、アッラーからの恩恵です。そのため、どのような崇拝行為も、“しもべ性を実現するためにかれを崇める”、と意識すべきです。私たちが諸規則の成果(メリット)をどんなに知り尽くしても、「しもべ性の実現」が、常にその目的であり続けます。しかし、多くの人たちがこのことを見逃してしまっています。例えば:断食が持つさまざまなよく知られたメリットに基づいて、ダイエットや健康のために断食を好む人がいますが、そのような人には、断食は崇拝行為であって、それ以外ではないと、そして私たちはアッラーのためだけへの崇拝を断食に意図していることを、注意しなければなりません。そこから得られるメリットは、感謝すべきアッラーからの一方的な恩寵なのです。

*断食における科学的奇蹟:
断食には、個人や社会に還元される肯定的な大きなメリットが多くあります。初めに、個人に帰る断食の肯定的影響である身体的、精神的、心理的影響について話します。
身体的影響:
断食は身体にマイナス影響を与えると思っている人が多くいます。しかし、研究結果はその逆のことを示しています。つまり、断食は免疫力を高め、身体を肥満のあらゆる危険から守ります。人は、食事が原因で肥満になることもあれば、環境や社会や人からのストレスで肥満になることもあります。食事に関して言えば、断食によって食事の量は確実に減ります。黎明から日没まで食事を断つためです。
心理的影響:
ラマダーンの断食はその他諸々の崇拝行為を伴います。罪の赦し乞い、クルアーン、ズィクル(念唱)、サダカの捻出など。預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、断食の月に善行を多くすること、その他の崇拝行為をお勧めになりました。これらはすべて、精神的プレッシャーを紛らわして、安楽をもたらしてくれます。また断食は、腎臓結石の生成から身体を保護してくれます。血液中のナトリウム値を上げ、カルシウム塩の結晶化を制止してくれるためです。

・断食は人間の性的欲求を弱めます。とくに若者については、その欲求が精神の不安定をもたらすことは知られています。未婚の若い男女が、特に、このことを悩んでいると思われますが、断食は、断食する人が持つ、性的欲望が原因となっているすべての不安定を除去することを科学が証明しています。
後世になって科学がそのことを証明しましたが、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は1400年前に次のようにおっしゃっているのです:≪若者たちよ、あなた方のうち、可能な者は結婚しなさい。出来ない者は、断食をすること。なぜなら、それは彼にとって欲を抑えるものになるのですから。≫預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、結婚できない者は、断食することで結婚出来る時まで乗り切りなさい、と助言されたということです。
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心の強化プログラム【1】

2015年05月24日 | 心の強化プログラム
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において

私たちの間にある多大な距離にもかかわらず、彼への愛において私たちを集め給うたアッラーに全ての称賛そして更なる称賛がありますように。

至高なるアッラーが私たちのこの集いを祝福してくださるよう祈ります。

またアッラーへの感謝の後、この集いの実現に寄与してくれたすべての姉妹たちにも感謝します。

姉妹たちへ:
信仰(イーマーン)とは人生の数ある恩恵の中でももっとも偉大なものです。なぜなら人生のすべての恩恵は継続することはなく、永続するのは信仰だけだからです。

信仰こそが人と共にあり続け、現世において人間を益します。なぜなら信仰者は現世で最も幸福な者だからです。また、信仰者は来世で信仰から益を得ます。なぜならアッラーの御満足を獲得するからです。信仰者の幸福は現世にも来世にもあるのです。

”信仰者は現世において一番の幸せ者だ”と私が言っていることと、私たちの生きている現実を比べてみましょう。

実際、こんにちのムスリムの多くが、他の人たちのように幸せを探しているのが分かります。彼らこそが真の幸せ者であると先ほど言ったのに、彼らが幸福を探しているというのはどういうことなのでしょうか?

答え:
幸福を与える信仰とは、創造主が被造物に望み給うた「真なる信仰」のことをいいます。イスラームはムスリムたちの間違いの責任は負いませんが、己の信仰と帰依を正す者が幸福となることを保証します。

それはどういうことなのか説明しましょう:
実際、幸福とは人間が人生において必要とする数々のものの一つです。私たちは生活の中で必要なものは市場から得るということを学んでいますので、野菜が要る時は八百屋へ行き、金(かね)が要る時は金屋へ行きます。

ではどこで幸福を買えばよいでしょうか?そしてその値段はいくらでしょうか?

ある人たちは幸福とはお金を集めることであると考えているのでお金を集めますが幸福を見つけられないことに気付きます。

そして他の方法で探そうとします。

結婚で幸せになれると思って結婚もしますが、結果はお金集めのときと同じです。

またある人たちは幸福とは子どもを得ることだと思っているので子どもを作りますが、同様に、幸福に辿りつけません。

そのためいつも結果はだいたい失敗に終わります。

その原因は、幸福実現において「思い込み」という道をとるためです。

ですからここで、幸福の本当の意味を定義する必要があります。

人生が過去と現在と未来であるなら、幸福者とは、自分のすべての行為が正しいと保証され後悔することがないので、自分の過去を悲しむ事もなく、また、来る未来を恐れることも、現在から不安を感じることもない人の事を言います。人生の各シーンに起こる一時的な喜びではなく、幸福とは人生の間に死ぬまで伴い続けるもののことをいうのです。

しかし私が過去を悲しまず、これから起こることを恐れず、生きている現在を心配しなくてよい保証を私はどこから得るのでしょうか?

それには多くの知識を要します。明日何が起こるのか?私は後悔することになるのか、そうではないのか?私を困らせることが起きるのか?私が今日なしたことを悲しまない明日の保証はどこにあるのでしょうか?私が嫌うニュースで驚かされることが起きない明日の保証はどこに?そして心配することなく穏やかに過ごせる今日をどのように保証するのでしょうか?

これらすべての質問に対する答えを私たちの創造主アッラーの道しるべ「クルアーン」の中に見つけることができます:

「そこでわが導きに従った者に恐怖はなく、彼らは悲しむことはない。」(雌牛章38節)

“恐怖はなく”は未来を恐れることはなく。“彼らは悲しむことはない“は過去のために悲しまない、という意味です。

「わが導きに従った者があれば、彼は迷うことはなく、苦しむこともない。」(ター・ハー章123節)

つまりアッラーがおっしゃっていることは、私たちが幸せである保証というのは「創造主であるアッラーに従う」ということです。

一方私たちは、現世でなぜ不安な日々があったり後悔したりする日々を送っているのでしょうか。

私たちはムスリムなのですが、日常生活で困難に直面しています。
私たちはムスリムなのになぜそのような困難に出会うのでしょうか。

人間が、人生を害する様々な事項から安全であるために授けられた、創造主の道しるべ(クルアーン)は、電気製品に添付されているカタログのようなものです。

電気製品を作った人がその製品についてもっともよく知っているものです。カタログにはその使い方や壊れた時の対処法などが細かく記されています。

創造主アッラーも、同じように、私たちがどのように生きていけばよいのかをカタログに記してくださったのです。それこそが、クルアーンです。

また電気製品にはカタログと一緒に保証書も付いています。保証書には私たちが正しく使えば損害はないことを保証するけれども、誤った使い方をすれば保証しないことが書かれています。

電気製品が壊れてしまって販売店に持っていっても、もし間違った使用方法が原因であれば保証はしてもらえません。

同様にアッラーは、私たちに、自分たち自身を、そして世界にあるすべてを誤った使い方をしないよう教えてくださっています。

アッラーはそのようなカタログと保証書を私たちに与え給いました。私たちが誤った使い方をした場合はもちろん保証し給いません。

「そこでわが導きに従った者に恐怖はなく、彼らは悲しむことはない。」(雌牛章38節)とあるように、アッラーの御命令に正しく従えば苦しみも悲しみも怖れを感じることもありません。

しかし、アッラーに背けば、悲しみや苦しみや恐れを感じることになるでしょう。

クルアーンにはハラールであること、ハラームであること、義務や禁止事項が載っています。アッラーは私たちがそれらに従うことを求め給うています。従っていれば苦しみも悲しみも怖れもありません。

これを歴史が証明しています。ウマル様(彼にアッラーのご満悦あれ)の時代、ある裁判官が辞任したいと申し出ました。その理由は、2年にわたり、誰も裁判事項を持ってくることがないからでした。これはウマル様の時代を生きた人たちがクルアーンに従っていたことを示しています。

これは、私たちが、私たち自身の間違った使い方をしたり、アッラーに背くことで、苦しみや恐れを抱くようになることを教えてくれます。

アッラーの教えに従っている人は、過去を後悔することも、未来に不安を抱くこともないと、アッラーによって保証されるのです。

しかしアッラーの教えに従うということは、今まで慣れていたいくつかの行為を捨てるための大いなる努力と忍耐を要します。

そのためアッラーの道を志したいと思う人は、初めに困難を感じます。なぜなら、アッラーの道しるべが禁じているいくつかの事柄に慣れてしまっているからです。

例えばヒジャーブや断食をしようとしても最初は難しいと思ったり困難に直面するでしょう。「このような困難があるのに本当に幸福なんて得られるだろうか?」と疑問に思うかもしれません。

しかし私たちは「真の幸福」と「思い込みの幸福」を区別しなければなりません。

自分が幸福であると思い込んでいるものは、一時的なものなので、いつか消えます。または時間が過ぎた後に、私はなぜあんなことが幸福だと思っていたのだろうと後悔するものであったりもします。

思い込みの幸福の例に、美味しい食べ物があります。

食べているときにはとても美味しいと思っていたのに、そのおいしさはすぐ消え去り、また、食べた後に、それが有害であると知って、食べたことを後悔することもあります。

お金も同じで、貯めれば幸福を得られると思っていたのに、貯まると、どこに隠そうかと不安の種になることもあります。

結婚も同じで、理想だと思った人、この人となら幸せになれると思って結婚したのに、そうではなかったと知って後悔することもあります。

このように「思い込みの幸福」は一時的あるいは後悔するものであって永続しません。終わらない幸福はアッラーによってのみ得られるのです。

また、アッラーの教えの中で、実行するのが困難なものは、実は”思い込みの困難”であるので、慣れていくと困難さは消えて、最後には「真の幸福」を与えてくれます。

自分の欲と困難に勝つためには、「信仰」が必須です。

「アッラーは私たちの過去も現在も未来も御存知で、私たちが幸福を得られるように様々な事を定め給うているのだと信じる」という信仰が必要であり、私たちはそれによって安心を得られます。

信仰は、心にアッラーが下さった光で、アッラーが下さった教えに反することを許さないという強い光になります。これに対して、アッラーの教えに反する心は信仰の光が弱いということになります。

イスラーム社会に見られる諸問題はイスラームのせいではなく、イスラームを実践できていないムスリムたちのせいで起きています。ムスリムではない人たちがこのような社会を見るとイスラームは不安定で問題が多いものだと誤解してしまいます。しかしイスラームはムスリムたちの違反行為の責任を負いません。電化製品に添付された保証書と同じです。

あまりアッラーの教えに従っていなかった男性がフランスに行き素敵な女性に会いました。恋愛関係になりましたが女性がムスリマでないので結婚できないと言って、クルアーンを彼女に渡し、これを習ってイスラームを学んでほしいと言いました。その後しばらくしても連絡がないのでクルアーンを読んだか?どうだったか?と聞くと、女性は大変気に入ったので私はムスリマになったと答えました。では私と結婚してくれるのかと男性が聞くと、私はムスリマになって、あなたが本当のムスリムではないことが分かったので結婚できないと言った、という話があります。

現在イスラームは、非ムスリム達からも不正を受けていますが、ムスリムからも不正を受けています。本当のイスラームは、は、私たちムスリムがその教えに正しく従えば、私たちも、周りも、世界も幸福になります。

本当のイスラームを理解し、実践し、自分の属している社会に還元することで周りにイスラームの本当の姿を見せて、イスラームを好きになってもらえるようにしましょう。周りの人たちは「ムスリム」の後進的な姿を見ているためにイスラームに否定的なのです。私たちが正しくイスラームの教えに従っていれば必ず人々は理解してくれるでしょう。
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