イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

79.引き離すもの章(アン・ナーズィアート)【2】

2007年08月30日 | ジュズ・アンマ解説
「泳ぐように(慈悲の使いに)滑走するものにおいて,」至高なるアッラーの命によって天から降りてくる天使のことだと言われ、ここでは彼らの天からの降下を水泳に似せています。

 「先を争って前進するものにおいて,」彼らは善行面でアーダムの子(人間)を凌ぐ天使たち、と言われます。

 「(主の命令で)事を処理するものにおいて(誓う)。」彼らは、地上の生き物におけるアッラーの命令を処理する天使たちと言われます。

 「その日(第一のラッパで الراجفة),震動(الرادفة)が(凡てのものを)揺がし,次のラッパ(で震動)が,続く。(不信者の)心は,その日戦き震え,目を伏せるであろう。」

 第一のラッパ(الراجفة)は、大地が混乱し、生き物を死滅させる第一の一声で、それはラッパへの息の吹き込みです。震動(الرادفة):第二のラッパです。このとき、人々は世界の主のために墓場から起き上がります。この様子を表現した節があります。「ラッパが吹かれると,天にあるものまた地にあるものも,アッラーが御望みになられる者の外は気絶しよう。次にラッパが吹かれると,見よ,かれらは起き上って見まわす。」(アッ・ズマル章68節)

 この光景は私たちの心に恐怖感を植えつけます。「(不信者の)心は,その日戦き震え,」あの日の恐ろしさに怯える不信仰者の心です。「目を伏せるであろう。」彼らの視線は虐げられたようであり、定まりません。

 クルアーンは、生き返りについて嘲笑し否定する不信仰者たちの言葉について語ります:

 「かれらは言う。「わたしたちは初め(生前)の状態に,本当に返るのでしょうか。何と,わたしたちは朽ち果てた骨になってしまったのに。」かれらは言う。「その場合(復活),損な戻りです。」」

 彼らは嘲笑しながら、「わたしたちは初め(生前)の状態に,本当に返るのでしょうか。」と言っていました。つまり、わたしたちは、死んだ後に生きた状態に戻るのか?という意味です。「何と,わたしたちは朽ち果てた骨になってしまったのに。」消滅しそうな骨になってしまった後に生き返るのか?「その場合(復活),損な戻りです。」来世に、生きた姿に戻されることが真実であれば、それを嘘だとしたわたしたちには損な話だ、と言う彼らの嘲笑的な言葉です。

 クルアーンは、彼らの否定する言葉と嘲笑に答えます:「(復活は),只一声の叫びである。」つまり、そんなにことを難しくする必要はない、それはただ、一声の叫びだけである、ということで、再生の合図である第二のラッパを意味しています。「見よ,かれらは目覚めて(地上に)現われる。」大地の中で死人として過ごした後に、地上に生きた状態で現れます。
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78.消息章(アン・ナバア)①

2007年08月29日 | ジュズ・アンマ解説
78.消息章(アン・ナバア)

 解説と学習

 伝えられたところによると、預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)が神の命令によって遣わされた際、多神教徒たちは「彼を遣わしたものは何か?」と互いに尋ね合いました。そして彼らは預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)が遣わされた理由のひとつである、人間の現世での行いを清算する日の最後の審判の知らせを含む啓示についての議論をしました。アッラーはこの章を「何事について彼らは尋ね合うのか。」の御言葉で始め給いました。これは「彼ら多神教徒たちは、死後の再生の真偽について尋ね合うのではなく、彼らはそれが起こるかどうかについて尋ね合っている。」という意味です。
 
 アッラーから発せられたこの疑問形の文章は、本来の「疑問」の意味を持っていません。なぜなら普段から疑問というものは、質問者が答えについて知らないことをもとに成立するからです。ですが、アッラーはすべてを知り給う御方なので、この意味の疑問詞はかれにふさわしくありません。ここの疑問詞に求められているのは、知らせられる内容を重大にすることです。「なんと彼らが尋ね合っていることは偉大であることか。」というような意味になり、次に来る節「偉大な消息に就いて」がその根拠です。「アン・ナバア 消息」は、有益な知らせを意味します。「偉大な消息」はここで、死後の再生を意味します。「それに就いて、かれらは意見が異なる。」は、死後の再生を真実とすることと、うそであるとすることに意見が分かれているという意味です。
 
 そして、宗教の数々ある目的はすべて、全人類が善行の報いに善を受け、悪行の報いに悪を受ける最後の審判日の秘密を知ることにつながっていることに疑いはありません。
 
 続いてクルアーンは、多神教徒たちの再生を否定する態度に対する忠告と警告に移ります。
 
 「いや、かれらはやがて知ろう。いや、いや、かれらはやがて知ろう。」
 
 事は、彼らの主張である「死後の再生は無い」ではない。彼らが実際に再生を事実として目にする際に、知ることになるだろう。事の重大さを増すためと、審判の日が起こることを確定させるためにクルアーンは何度かこの言葉を繰り返しています。
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79.引き離すもの章(アン・ナーズィアート) 【1】

2007年08月29日 | ジュズ・アンマ解説
解説と学習

 この章は、死後の再生と、その直後に起こる報酬と罰について説明していて、ファラオとその民に起こったことを例に、悪人たちの現世と来世における行く末を明らかにします。

 アッラーは、再生の日が起こることをいくつかの事柄で誓っていらっしゃいます。この誓いで章は始まります。

 「荒々しく(罪深い者の魂を)引き離すものにおいて(誓う),優しく(信仰深い者の魂を)引き出すものにおいて,泳ぐように(慈悲の使いに)滑走するものにおいて,先を争って前進するものにおいて,(主の命令で)事を処理するものにおいて(誓う)。」

 「荒々しく(罪深い者の魂を)引き離すもの(النازعات، النزع)において(誓う),」の「النزع引き離す」は、何かを強く引っ張ること、何かに深く沈ませること、引っ張ることと沈ませることに超過があることとをいいます。もしくは死の天使が、とても体に執着した不信仰者の魂をきつく引っ張り出すこと、とも言われますが、それは不信仰者に死が訪れると、必ず魂が体内から出る前に地獄の様子を見せ付けられ、そのときに魂が体内深くに逃げるように沈み、それを死の天使が強引に引き抜く、ということです。

 「優しく(الناشطات، النشط)(信仰深い者の魂を)引き出すものにおいて,」 (النشط)は、軽快に物事を行うこと、という意味を持ちます。死の天使が信者の魂を優しく簡単に引き抜くのですが、それは魂たちが聖なる世界への飛び立ちを望んでいるから、と言われます。その理由は、信仰者に死が訪れると、必ず来世の自分の居場所を目にするためです。魂たちは、体という牢獄からの脱出を望みますが、体への執着が軽いので死の天使は容易に魂を体から抜き出します。
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78. 消息 (アン・ナバア)⑤

2007年08月28日 | ジュズ・アンマ解説

【アラビア語・日本語意訳】

 クルアーンはこの後、敬虔な人たちが来世で手にする至福について語ります。「本当に主を畏れる者には,安全な場所(楽園)がある。緑の園や,ブドウ園,胸の脹れた同じ年頃の乙女たち,またなみなみと溢れる杯。そこではつまらぬ話や偽り言を聞かない。これらはあなたの主からの報奨,賜物の決算である。」

 服従と禁じられたものを避けることによって主を畏れた者たちには褒美があり、それは成功であり、至福の天国を得ること、業火から守られることです。そして彼らには緑の園とブドウ園という、生い茂った実のなる木々と大房のブドウを備えた園が与えられます。女性らしく成長し、胸元の膨らんだ、同じ年頃の乙女たちがそこ居て、彼らのために準備されたなみなみと飲み物が注がれた杯もあります。そこで彼らは正しくない言葉を聞くことも、罪を目にすることも、相手を嘘つき呼ばわりすることも、嘘を聞くこともありません。これらすべてを、アッラーは彼らの善い行為の報奨として彼らに与えられたのです。

 これらはクルアーンが述べる五感的至福ですが、この至福の本当のところは、私たち現世の者が感じ取れるものではありません。来世の至福は現世のそれに、種類面、継続面、で優ります。なぜなら、現世の至福というものは少なくて消え去ってしまうものだからです。預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)が来世の至福についてアッラーのお言葉として伝えたハディースがあります:「われは、善良なしもべたちのために、どの目も見たことがなく、どの耳も聞いたことがなく、どの人間の心にも想像されなかったものを準備している。」

 続いてクルアーンは、最後の審判の日におけるアッラーの威厳さを明らかにします。この日、権限はアッラーのみに属し、誰もそれを奪おうとしません。

 「天と地,そしてその間の凡てのものの主,慈悲深き御方(からの賜物であり),誰もかれに語りかけることは出来ない。」  アッラーは天と地とその間にあるものの主であられます。彼は慈悲あまねく御方、つまり恩恵を与える御方であられます。罪人の罰の軽減を求めたり、無罪者の報酬倍加を求めるためにかれに語りかける権利を持つ者は誰もいません。

 続けて、 「聖霊と天使たちが,整列して立つ日,慈悲深き御方から御許しを得て正しいことを言う者以外には,誰も口をきくことが出来ない。

 聖霊(大天使ジブリール)と天使たちが偉大なるアッラーを称えて列をなします。至高なる主からの御許しを得た正しいことを言う者意外、誰も話すことはありません。執り成しされることをアッラーに許された者の執り成しについてしか彼らは口をしないとも言われます。この者は現世で正しいことを言い、アッラーの唯一性を証言して「ラーイラーハ イッラッラー(アッラーのほかに神はなし)」と言っていました。

 そしてクルアーンは、再生が真実で疑いがないことと、この日のために善行で準備する機会がすべての人に与えられていることを明らかにします。  「それは真実の日である。だから誰でも望む者は,主の御許に戻るがいい。」

 最後の審判の日は真実の日です。なぜならそれに疑いの余地がないからです。そのため、誰でも主を戻りどころとして望む者は、アッラーへの信仰と服従をもってそうするべきです。  そしてこの章は、罪に溺れた再生を否定する人々に対する警告で終わります。

  「本当にわれは,懲罰が近いと,あなたがたに警告した。その日,人は,自分の両方の手が前もって行ったもの(所業)を見るであろう。不信者は,「ああ,情けない,わたしが塵であったならば。」と言うであろう。」

 アッラーは、人々にすでに近づいた罰について警告します。その日、各個人は天使によって記録された自分の善行、悪行を目にすることになります。「不信者は,「ああ,情けない,わたしが塵であったならば。」と言うであろう。」あぁ、現世で自分は埃でありたかった、そうであれば悪行をなすことも、義務を負うことも、清算されることも無かったのに。もしくは、この日わたしは埃でいたならば、清算のために生き返されることも無かったのに、という意味になります。

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78.消息章(アン・ナバア)④

2007年08月26日 | ジュズ・アンマ解説

アラビア語日本語意訳】 

 クルアーンは続けて、最後の審判の日の様子を表現します:「天は開かれて数々の門となり,」天はあらゆる方向から破れて、壁にある扉に見えるだろう、という意味です。クルアーンは、来世で天の現在の形と違うものになると明らかにしました。「大地が大地ではないものに変えられ,諸天も変えられる日,(人びとは一斉に)唯一の方,全知,全能の御方,アッラー(の御前)に罷り出るであろう。」(イブラーヒーム章48節)

 そしてアッラーは「山々は移されて蜃気楼のようになる。」と仰っています。山々は引っこ抜かれ、バラバラにされ、見る人にそれが存在するがしていなかったように思うほどに風に飛ばされます。そのため消される山々は、遠くから見ると水に見えても実際は水ではない蜃気楼のようです。

 続けてアッラーは、あの日の罪業者の行く末を明らかにします:「本当に地獄は,待ち伏せの場であり,」地獄は来世における罰の場所で、そこは罪業者の行く道です。AがBかを待ち伏せる、という表現は、AがBの道中に座り込む、という意味です。ここの「待ち伏せの場مرصاد」は監視、準備という意味を持ちますので、地獄は彼らの地獄入りを監視しているか、そこは彼らに準備された場所である、となります。

 「背信者の落ち着く所,」背信者の中に、罪業者と不信仰者が含まれ、彼らの行く着く場所が地獄ということです。

 「かれらは何時まで(أحقابا)もその中に住むであろう。」أخقاباはアラビア語で期間のこといい、彼らが終わりのない長い時間を地獄の罰の中で過ごすと意味になります。

 「そこで涼しさも味わえず,(どんな)飲物もない,」つまり、地獄では体を冷やす冷たいものを味わえず、彼らののどの渇きを軽減する飲み物を見つけることができない、ということです。

 「煮えたぎる湯と膿の外には。」とても高温になる水と、地獄の民の体から出ている膿と分泌物の外には、という意味です。

 「(かれらのため)相応しい報奨である。」彼らの罪業に相応しい報酬である、ということです。

 「本当にかれらは,(その行いに対する)清算を希望しないでいた。」自分たちの行いが清算されるとは思っても見なかった、という意味です。

 「またかれらはわが印を嘘であると言って,強く拒否した。」クルアーンのしるしを酷く嘘呼ばわりしました。

 「われは一切のことを,天の書に留めている。」彼らのすべての行いを、後ほどの清算のために書記で数え上げていらっしゃる、という意味です。

 続いて、火の中で罰を与えられている罪業者たちは軽蔑と非難の言葉を投げられながら言われます:「だからあなたがたは(自分の行いの結果を)味わえ。われは懲罰を増加するばかりである。」罪業者たちよ、あなたたちの主の罰を味わうがいい。あなたたちに罰が増やされる以外に何もないのだ、という意味です。増やされる罰の一つに、皮膚が焼けるたびに、そこに新しい皮膚が再生されることです。

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78.消息章(アン・ナバア)③

2007年08月25日 | ジュズ・アンマ解説

アラビア語日本語意訳

 アッラーは昼間を表現して、「昼を生計の手段として定めた。」と仰っています。つまり、昼間は生活と、糧を求めるために創られたということです。

  続いてアッラーは、「またわれは、あなたがたの上に堅固に7層(の天)(شدادا)を打ち建てた。」と仰っています。つまり、「人間よ、われはあなた方の上に7つの天を創造した。」という意味で、شدادはアラビア語で強く計画的に建てられたもののことをいいます。これに時間の経過が影響することはなく、その実態に就いてアッラーの他に知る物はいません。

 太陽について、「輝やかしい灯し火を(その中に)置いた。」と表現しています。アッラーは太陽を輝かしい灯火に似せており、これは油やアルコール、ガスで灯されます。灯火は自身で発光しますが、現代の科学は太陽が、ガスで出来た燃える塊であることと、内部で起こる核反応や核連鎖によってエネルギーを得ていることを発見しました。ですから科学は、クルアーンが語った「太陽は燃える塊であり、エネルギーを中心内部から得ている」という真実を発見したことになります。

 アッラーは雲を表現して「われは雲から豊かに雨(المعصرات)を降らせた。」と仰っています。「われは雲から多く豊かに降る雨を降らせた。」という意味です。アラビア語で雲の意味を持つ単語は一般的に(السحاب)ASsahabといいますが、ここでは(المعصرات)AlMuusirat(絞られるものという意味)が使われています。ここで理解できることは、影響を与える存在が雲を絞り、そこから水が落ちることです。この影響を与える存在は、雲からの降雨を手助けする風や雷です。

 続けてアッラーは、大地に生えるすべての植物について少ない言葉で明らかにします。「それによって,殻物や野菜を萠え出させ」つまり、この水で色々な種類の穀物と植物を生えさせるということです。「様々な園を茂らせる。」木が多く茂った園で、その葉はあまりの近さのためお互いを覆い合っています。

 クルアーンは、アッラーの御力の現象を数え上げた後、いくつかの最後の審判の日の光景について語ります。「本当に裁きの日は定められていて、」裁きの日は、最後の審判の日にあたり、定められた期限が設けられています。なぜ裁きの日と名付けられたかというと、その日にアッラーが創造物の間を裁いて、善を行った服従者に褒美を与え、悪を行った者に罰を与えるためです。

 最後の審判の日は、次の現象から始まります:「その日,ラッパが吹かれるとあなたがたは群をなして出て来る。」角の形をしたラッパが吹かれ、アッラーはそれを魂が体に戻るきっかけとしました。これは二度目のラッパ鳴りと呼ばれていて、人々は集団になって清算と報いのためにやって来ます。一度目のラッパ鳴りというものがありますが、これは死の前に訪れるもので、ラッパが吹かれた後、天と地の生き物が死滅します。これについてアッラーは次のように説明しています:「ラッパが吹かれると,天にあるものまた地にあるものも,アッラーが御望みになられる者の外は気絶しよう。次にラッパが吹かれると,見よ,かれらは起き上って見まわす。」(集団章(アッ・ズマル)68節)

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参考にしているアラビア語の解説書

2007年08月25日 | 参考アラビア語解説書名
現在参考にしている、アラビア語のクルアーン解説書をご紹介します。

アフィーフ・アブドゥルファッターフ・タッバーラ氏薯のジュズ・アンマ(クルアーン78~112章)タフスィールです。

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78.消息章(アン・ナバア)②

2007年08月24日 | ジュズ・アンマ解説

  【アラビア語日本語意訳

 そしてクルアーンの節は私たちを、再生の日に人間を生に戻すことが出来るアッラーの偉大な御力に目を傾けるために、私たち自身、私たちの生活や私たちを取り囲む世界に巡回させます。

 「われは大地を、広々(مهادا)としなかったか。」 مهاد は、敷かれるものという意味です。アッラーは大地を人間と動物の生活のための住処としました。つまり大地は、そこでの生活に調和があるよう、準備の上創造されたということです。

 そしてアッラーは山々を杭と表現しています。「また山々を、杭としたではないか。」これは大事な暗喩で、現代の地質学が証明していることです。

 そして至高なる御方は続けて、「われはあなたがたを両性に創った。」つまり、人類が残っていくため、大地を耕すために男性と女性に創造したということです。これは、アッラーの叡知ある、物事を整える能力を持ったアッラーの御力が存在する証です。

 その後至高なる御方は、「また休息のため、あなたがたの睡眠を定めた。」と仰っています。睡眠は、創造主の能力を証明する徴の一つです。 アッラーは夜を表現して、「夜を覆い(لباسا)とした。」と仰っています。アラビア語でلباسはもともと人間が身にまとうもののことをいいます。夜はその暗さで人間を覆うので、夜が覆いと表現されたわけです。服が暑さと寒さから人間を守るように、夜も体の疲れという害から、体を休ませて力を戻させる睡眠をもって人間を守ります。

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クルアーンの定義

2007年08月22日 | クルアーンの意味
クルアーンの定義:
「アル=クルアーンالقرآن 」は、「アル=キラーア القراءة、読むこと」と同じ意味を持つ動名詞です。クルアーンの著名さにもかかわらず、それ以外のものと区別するため、学者たちの間でまた違うクルアーンの定義が存在します。クルアーンにはたくさんの名称があり、「アル=キターブالكتاب 啓典」、「アル=ミスハフالمصحف  束ねられたページ」、「アッタンズィールالتنزيل 降下されたのもの」、「アル=フルカーンالفرقان (善悪を)区切るもの」、「アッズィクルالذكر 語られるもの」などがあります。

クルアーンは、アッラーの使徒(アッラーの平安と祝福がありますように)にアラビア語で降下された至高なるアッラーの御言葉で、クルアーン内の最短の章はその奇蹟です。クルアーンは片々の紙に記され、大勢の集団によって伝えられ、それを読むこと自体が崇拝行為であり、アル=ファーティハ章で始まり、アンナース章で終わります。
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クルアーンの特徴

2007年08月22日 | クルアーンの意味

クルアーンにはいくつかの特徴があります。

①編纂・意味の上で、これは至高なるアッラーの御言葉であること:

クルアーンには、他のものを失脚させる奇蹟さがあります。どういうことかというと、人間の力の範囲を超えた高い修辞力がクルアーンにあるということです。

②クルアーンすべてはアラビア語であること:

クルアーンはアラビア語以外の外国語を含んでいませんから、クルアーン解説本や他の言語に訳された本が訳者にとってどんなに正しくてもクルアーンと名づけられることはありません。なぜならクルアーンは、アラビア語特有の編纂・意味を含有して至高なるアッラーの御許から特別に下降されたからです。

③クルアーンは、時代を追うごとに大勢の人々によって語り継がれたこと:

クルアーンは、アッラーの使徒(アッラーの平安と祝福がありますように)を元に大勢の人たちに暗記され、伝わってきました。この方法だと、伝承経路の正しさに疑いの余地はありません。人々の暗記のほかに、クルアーンがジブリールが預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)の心にクルアーンをもたらした瞬間の人々の手書き保存されたものが次の世代に伝わっていることも伝承経路の正しさを証明します。

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