イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

徳島マスジド写真up

2008年05月28日 | その他
リフォームの話し合いに参加するために、昨日徳島マスジドに行ってきました。通訳などをするつもりでいましたが、日本語の出来る留学生さんが来ていたので、私の出番は無し。麦茶飲んでプラプラしたり、写真撮ってました。

徳島マスジドは、もともと工場(のようなもの)だったところをムスリムたちが買い取って誕生しました。 工場跡なのでムサッラー(礼拝場)として使いにくいわけですね。そこでリフォームが必要ということになったようです。 それでもマーシャーアッラー、昨日目にしたマスジドはサラー出来るようにきれいに掃除され、また整頓されていました。


正面から。どこから見ても工場です。






1階入ってすぐの男性用スペース。地面はコンクリートのため、冬は寒そうです。リフォームはまずこの1階部分からする予定です。







同じく男性スペースの写真。本棚には、アラビア語、日本語、英語、ウルドゥー語、ベンガル語、中国語の本が入っています。国際色豊かです^^







2階の女性用スペースの一部屋。絶対2階の方が広いです。
2階のリフォームはまだしなくても良さそうです。





置かれているのは、洗われた家具。

リフォーム後が楽しみです!
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岐阜モスク・岐阜インターナショナルイスラミックスクール(GIIS)寄付のお願い

2008年05月23日 | その他

岐阜在住の友人からうれしいお知らせが!

新しいアッラーの家が誕生しようとしています。お隣に子どもたちが学べるインターナショナルスクールを建てる計画もあるそうです。マーシャーアッラー!!その様子は地元の新聞にも紹介されました。

寄付金募集中ですので、以下のリンクや情報を参考に、ご協力お願いします。

皆さんにアッラーのご加護と祝福がありますように。

**************************************************
現在建設中の岐阜モスクの隣に、岐阜インターナショナルイスラミックスクール(GIIS)を開校しようというプロジェクトがあります。

HPはこちら

**************************************************
アルハムドゥリッラー、前回私の方から、徳島マスジド誕生のための寄付をこちらなどで募っらせていただいたところ、4月の終わりごろにマスジドとなる土地・建物が購入されました。現在、1日5回の礼拝や、キヤームッライル、講義などが行われています。その様子をおさめた写真などは近日中にインシャーアッラー、こちらでご紹介したいと思います。

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91. 太陽 (アッ・シャムス)【1】

2008年05月23日 | ジュズ・アンマ解説
 この章は、魂の罪業からの浄化を勧めることを述べていますが、そうすることにより勝利を得られるためです。また、不信と罪は魂を損ねてしまうということを読者に恐れさせます。マッカの不信仰者たちや彼らと同様の人たちにいつか、アッラーの使徒であるサーリフを嘘つき呼ばわりし、主に背いたサムードの民に訪れたような罰と破滅が与えられるだろうとする警告もあります。

 アッラーは、太陽と、太陽が昇るときの光においての誓いでこの章を始められます。「太陽とその輝きにおいて」太陽の素晴らしさ、創造の偉大さに注意を向けさせるためです。また太陽の熱と光とエネルギーは、地上に生をもたらします。太陽は、決められた一定の光と熱を発します。もし、ふだんよりも少ない熱しか太陽が発しなかったなら、地上のすべては凍り付いてしまったでしょう。また、普段以上の高熱を発したなら、森林は燃え、地上のほとんどの部分に日が付いてしまったでしょう。疑問:太陽はどこから燃える元を得るのでしょうか?もし、自身の内部にあるものを燃やしているなら、年々太陽の温度は下がるでしょう。しかし遠い過去へ遡ってみると、太陽は地球に一定の熱を与え続けていることが分かります。この熱の程度は、植物と動物が生きるのに丁度よいのです。

 それでは、太陽はどこからエネルギーの元を得るのでしょうか?そしてどのようにして一定の温度で燃え続けているのでしょうか?

 それは、至高なるアッラーの御技です。からのお力は偉大です。

 続けて、アッラーは月において誓われています。月は太陽を追い、太陽が沈んだ後に光を発します。「それに従う月において」アッラーが太陽の重要さを確定するために、どのように月と太陽を関連付けたかを考えてください。月に光は、太陽光から得られます。そして月はアッラーの徴の一つで、やわらかな光を送り出しています。その光によって、生き物に益をもたらします。またアッラーは月を、私たちが年数や時間を計算する手段として定めました。これらは、アッラーが存在と、アッラーの叡知の存在の証拠になります。また物質主義者が唱える“偶然によって世界は存在した”という言葉を否定します。

 またアッラーは、太陽を見る者たちに現す昼間において誓われています。「(太陽を)輝き現わす昼において」アッラーは昼間を人間が生きる糧を得る場とされました。人間は、自分の存在と命の継続を守ってくれる主の恩恵から糧を得ることを望みます。
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黎明の礼拝(サラートゥル・ファジュル)の徳

2008年05月21日 | 他の解説

ビスミッラー

 今回は、サラートゥル・ファジュルに関したハディースSPです。アラビア語が読める方は、
こちらをご参照ください。

 現在のファジュルの時刻は大体AM3:30~5:00。とても早いですが、眠くて、または疲れていて起きていなかったりしませんか?以下のハディースを読めば、きっと起きたくなるはずです!

 私たちはアッラーにお近づきできるようにとさまざまな宗教儀礼を行いますが、その中で最も大切なのはサラー(礼拝)です。アッラーの許で最も良い行いとみなされているものの一つが、決められた時間内にサラーを完遂することです。アル・ブハーリーとムスリムによると、イブン・マスウード(ラディヤッラーフ アンフ)は言いました:アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)に何の行いが一番いいのかを尋ねたところ、《時間内に行われるサラーである》と彼は言われました。

合同でサラートゥル・ファジュルを行う徳

 アッラーはクルアーンの中で早朝は重大な時間帯であるとしました。またこの時間帯において誓いも立てられています。偉大な者(アッラー)が何かにおいて誓いを立てることは、その“何か”も偉大であることを指します。アッラーは言われています:「暁において、10夜において」(89-1,2)アル・ブハーリーは次のアブーフライラのハディースを出典しています:アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《もし人々が(サラーへの)呼びかけと(合同礼拝時に作られる)第一列の重要さを知り、くじ引きでしかそれを得られなかったとしても、彼らはきっとくじ引きをしただろう。もし彼らがタクビールの重要さを知ったなら、それに急いだことだろう。もし彼らがイシャーとファジュルの重要さを知ったなら、這ってでもそれらを行っただろう。》

吉報の数々

 ①サラートゥル・ファジュル(黎明の礼拝)は最も良い礼拝の一つです。
 アル・バイハキーが出典した正しい伝承のハディースによると、預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《アッラーの許で最も良いサラー(礼拝)は、金曜のファジュルに行われる合同礼拝である。》

 ②寝床を後にし、サラーのために起きる人をアッラーは天使に見せ、よしとします。
 
 預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《家族や愛する者たちを置いて、サラーのために、寝床や布団を跳ね除ける人に私たちの主は感嘆された。主は「私の天使たちよ、わたしのしもべを見るがいい。彼はわたしの許にあるものを欲するがゆえに、またわたしに対する(咎めなどの)心配から、家族や愛する者たちを置いて、サラーのために寝床を後にし、布団を跳ね除けている」と言われる。》(ムスリム)

 ③ファジュルのサラーを合同で行うために急いで出かける人に、アッラーは暗闇の日(最後の審判)に光をお与えになります。
 
 ブライダ・アル・アスラミーによるとアッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《暗闇の中マスジドへ歩いて行く者たちに、審判の日に完璧な光が与えられることを吉報として伝えなさい。》(アッ・ティルミズィー、イブン・マージャ)

 ④ファジュルのファルド(義務)のサラーの前に行われる2ラカアは、現世にあるどんなものにも優ります。
 
 アーイシャによると預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《ファジュルの2ラカアは現世にあるどんなものにも優る。》(ムスリム)

 ⑤合同でファジュルのサラーを行えば、キヤームッ・ライル(深夜に行われる義務ではない礼拝で、大きな徳があるとされる)と同じ報酬が約束されます。

 ⑥天使が集まり、彼らは合同でサラーを行った人に祈願します。
 
 アブーフライラは言った:アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)がこのように言われるのを聞いた:《合同で行われるサラーは、あなた方が一人で行うサラーよりも25部分で優る。そして夜の天使と昼の天使がファジュルのサラーに集まる。》(アル・ブハーリー)

 ⑦ファジュルのサラー後に唱えられるズィクルには大きな徳があります。
 
 アブーザッルによると、アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《ファジュルのサラー後、足を曲げたまま、人と話す前に、『لا إله إلا اللهُ وحدهُ لا شريك له ، له الملك وله الحمد يحيى ويُميت وهو على كل شيءٍ قدير 』ラーイラーハ イッラッラーフ ワハダフ ラーシャリーカ ラフ、ラフルムルク ワラフルハムドゥ ユフイー ワ ユミートゥ ワフワ アラー クッリ シャイイン カディール(唯一で並ぶ者無きお方、アッラー以外に真に崇拝すべきものはなし。主権と賛美はかれにこそ属します。かれは生と死を与えるお方。そしてかれこそは全能のお方です。)と10回言う者に10の善行として書かれ、10の悪行が消され、10段分位を上げられるだろう。そして(これを言った)一日はすべての嫌悪される事柄から守られ、悪魔から護衛されるだろう・・・(以下省略)》(アッティルミズィー)

 ⑧サラーを完遂した人は、敬虔な者の一員として、また慈悲深いお方の使節団として書き留められます。

 アブーウマーマによると預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《家でウドゥー(小浄)を済ませてマスジドにやって来て2ラカアのサラーをファジュルの前に行い、ファジュルを行うまで座り、マスジドを後にした者のその日のサラーは、敬虔な者のサラーとして書き留められ、その者は慈悲深いお方の使節団の一員として書き留められる。》(アッ・タバラーニーの良好な伝承、アルバーニーが良好とした伝承)

 ⑨サラー後、あなたはアッラーの保護と安泰の中にあります。

 《ソブフ(ファジュル)のサラーを行った者はその日、アッラーと隣接する状態にある。》(アッ・タバラーニーの良好な伝承)

 ジュンドゥブ・ブン・スフヤーンによると、アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《ソブフのサラーを行った者は、(夜を迎えるまで)アッラーの保護下にある。》(ムスリム)

 ⑩ファジュルのサラーはあなたに大きな報酬を得る機会を与えてくれます。

 ファジュルを合同で行った者は、ハッジとウムラを行ったときの報酬を貰う機会を得る。この報酬はファジュルを行う者にしか与えられない。アナス・ブン・マーリクが預言者(平安と祝福がありますように)について伝えたことによると、《早朝に合同でサラーを行い、腰を下ろして太陽が昇るまでアッラーをズィクル(念唱)し、2ラカアのサラーを行った者には、ハッジとウムラの報酬が完全に完全に完全に書き留められる。》(アッティルミズィーによる良好な伝承、アル・アルバーニーが良好としたハディース)

 サハル・アル・ガーミディーによると、預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《アッラーよ、私のウンマ(共同体)のその早朝において祝福してください。》(イマーム・アフマド、アッティルミズィー、アブー・ダーウド、イブン・マージャ)

 ⑪ファジュルのサラーを合同で行う者に、天国入りがアッラーに約束されます。

 アブームーサー・アル・アシュアリーは言った。アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《アル・バラダイン(ファジュルとアスル)のサラーを行う者は天国に入る。》(アル・ブハーリー、ムスリム)

 アマーラ・ブン・ルワイバによると、預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《日が昇る前と没した後にサラーを行う者は(地獄の)火を触れることがない。》(ムスリム)

 これらが、アッラーのご満悦を求めてマスジドを行き来する者にアッラーがお与えになる吉報です。彼らは、睡眠と寝床の心地よさを後にし、またムハンマドさま(アッラーの祝福と平安がありますように)に追従することで偉大な報酬を寛大なアッラーから期待する者たちです。

 兄弟姉妹の皆さん、ぜひこの素晴らしい徳の数々を手にできるよう、努力しようではありませんか。アッラーが私たちを成功へと導いてくださいますように。

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 代わって、サラートゥルファジュルを放棄した場合に関するハディースをお知らせします。
 
-イブン・マスウード(ラディヤッラーフ アンフ)に拠ると、彼は言った:預言者(平安と祝福がありますように)のところで、朝まで眠った男の話が出た際に彼(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《その男は、悪魔が耳に放尿した者だ。》 (真正ハディース)
 
-預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《あなた方のうちで眠る者の後頭部に悪魔は3つの結び目を作る。彼は一つ一つの結び目に「夜は長いぞ」と言ってそれを打つ。(眠っていた者が)起きてアッラーを唱えると、一つ解ける。ウドゥーを行うと、一つ解ける。礼拝を行うと、すべての結び目が解けたことになり、活発かつ気持ちよくなるが、そうでない場合(起きなかった場合)、気分が悪く、怠けが生じる。》 (ムスリムより)

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90. 町 (アル・バラド)【2】

2008年05月10日 | ジュズ・アンマ解説

 「だが彼は,険しい道を取ろうとはしない。険しい道が何であるかを,あなたに理解させるものは何か。(それは)奴隷を解放し,または飢餓の日には食物を出して,近い縁者の孤児を,または酷く哀れな貧者を(養うこと)。

 つまり、人間は困難を越えなければならない道を取ろうとしない、ということです。“アカバ 険しい道”は、越えることが困難な山の中にある、でこぼこした道を意味します。また、地獄にある道のことをいうとも言われています。また、アッラーによる魂の訓練と悪魔の、善行における競り合いの例えである、とも言われています。「険しい道が何であるかを,あなたに理解させるものは何か。」この節は、内容をさらに確定させます。

 険しい道を取ることに:「奴隷を解放」することがあります。クルアーン中に“ファック fakk”という結び目をほどく・解放を意味する名詞と、“ラカバ raqaba”という首・奴隷を意味する名詞が出てきます。この名詞の登場から、奴隷化された人間は首を鎖で繋がれたために人間らしさを失い、家畜同様の位に成り下がってしまう様子が感じ取れます。

 イスラームのメッセージ時代のアラブ社会は、悲劇的な奴隷制度に悩まされていました。そこに奴隷問題を解決するイスラームが登場し、親切で慈悲的な方法でそれによる問題を覆いました。奴隷を解放することで罪滅ぼし(カッファーラ)が成立するようにし、また彼らを自由にすることを最も尊厳ある善行の一つとしました。これを行う人間は、主より報酬を得ることが出来ます。

  “アカバ 険しい道”を取ることは他に、「または飢餓の日には食物を出す」ことが挙げられます。つまり、飢饉時に貧者に食物を与えることです。なぜ飢餓の日と限定されているかというと、その日に財産を差し出すことは個人にとって非常に厳しいことだからです。特にこの貧者が「近い縁者の孤児」つまり親戚の孤児である場合です。「または酷く哀れな貧者を(養うこと)。」つまりとても困窮していて土以外に家を持つことが出来ない人です。富者が彼らのような必要としている人たちに財産を差し出すという犠牲行為には、魂の訓練と相当の努力が求められます。これこそが“険しい道”であり、人間が主の満足に到達するために入っていかなければならない道です。これらを行う者はいくつかの性質を備え持っている必要があります:

 「それから信仰する者になって忍耐のために励ましあい,互いに親切,温情を尽しあう(ことである)。これらは右手の仲間である。

 信仰は、アッラーの許で行いが受け入れられるための基本です。忍耐のために励ましあい、慈悲のために励ましあうことは、健全でマナーを遵守する社会を作ることを促します。

 彼ら忍耐ために励ましあい、またアッラーのしもべに慈悲をかけることを励ましあう信者たちは、「右手の仲間である。」つまり来世で幸せ者である、ということです。アラビア語における“右”は、不幸の反対である祝福を意味します。そのためクルアーンは天国の住人を「右の仲間」と名付け、また「右手の仲間」と名付けていますが、それは彼らが審判の日に自分たちの行いが記された帳簿を右手で受け取るためです。

 そして章の締めくくりに、審判の日には罰があると不信仰者に警告を与えます:
 「だがわが印を拒否する者,かれらは左手の仲間である。かれらの上には,業火が覆い被さるであろう。」ムハンマド(アッラーの平安と祝福がありますように)の預言者性を否定し、クルアーンの印を嘘であるとする者は、「左手の仲間である。」左手は右手の逆で、アッラーは地獄の民を「左の仲間」と名付けていますが、それは彼らが審判の日に自分たちの行いが載った帳簿を左手で受け取るからです。左手の仲間、「かれらの上には,業火が覆い被さるであろう。」つまり審判の日に、重なり合い被さる火があるだろうということです。

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90. 町 (アル・バラド)【1】

2008年05月08日 | ジュズ・アンマ解説
 この章は、人間は苦労や災難に悩むものとして創造されたことと、善行によって危機を乗り越えることにより来世で恩恵を入手できることを解明しています。

 至高なるアッラーは、まずマッカにおける誓いの言葉でこの章を始められました。「われはこの町において誓う。」この町の徳にちなんで誓われています。アッラーはこの町を聖域且つ安全とされました。そしてアッラーはこの町のマスジドを礼拝におけるキブラ(方向)とし、巡礼の行き先として人々に命じました。

 アッラーはムハンマド(平安と祝福がありますように)について章中で言及することで、彼に栄誉を与えています。彼(平安と祝福がありますように)がマッカに留まることで、この町はさらに誉れ高くなるとも仰っています。「あなたはこの町の(居住権を持つ)住民である。

 またアッラーは「生む者と生まれる者にかけて」誓っておられます。この文章が意図することは、アッラーのみご存知ですが、アーダムと生まれた者として理解できるでしょう。世代が次々に続き、子孫たちは先代の習慣や性格を継いでいきます。その中には、明確な神の強力なお力の証拠があります。

 続いて、誓いのこたえ(ジャワーブルカサム)が言及されます:「本当にわれは,人間を労苦するように創った。」つまり、人間は家畜の位から上昇できるよう、苦労と災難を味わうよう作られている、という意味です。人間の人生は、生まれてから死ぬまでさまざまな痛みに取り囲まれています。人間はこの意味を受け入れなければならず、自分の人生と思考をそれに合わせて調整する必要があります。そのため、苦難や問題の解決に驚くことはありません。

 人間は、虚栄をもたらす権力や富にとり憑かれ、度を越したり、不義をなすことがあります。ここでアッラーは仰ります:「彼(人間)は,何ものも,自分を左右する者はないと考えるのか。」つまり、この人間は自分が報復から逃れられると思っているのか、という意味です。彼の思い込みには意味はなく、彼はしっかりとアッラーの手中にあるのです。彼が自分の幾財産を善行のために差し出すように声をかけられると、「彼は,「わたしは大変な財産を費した。」と言う。」つまり、私はたくさんの金を差し出した、という意味になりますが、彼は大概の場合、自分の私欲を満たすためのみに金を費やしました。「彼は,誰もかれを見ていないと考えるのか。」つまり、彼は、かつてこの金を費やしたことをアッラーはお尋ねにならない、また費やした目的に報われないとでも思っているのか。それは善のためだったのか、それとも悪のためだったのか、お尋ねにならないと思っているのか、という意味です。

 続けてクルアーンは、アッラーの至福や、人間にお与えになった恩恵を解明していきます:

 「われは,かれのために両目を創ったではないか,また一つの舌と二つの唇を。更に二つの道をかれに示した(ではないか)。

 アッラーは人間に二つの目をお授けになりました。それは私たちの知っているような精巧さと奇跡的な構造を持ち合わせています。この目の恩恵により人間は生活を送ることができ、見るという楽しみで至福を味わいます。そのため人間はアッラーに視覚の恩恵を感謝し、禁じられたものを見ることがないように、視覚を守らなければなりません。またアッラーは人間に舌と唇をお与えになり、それにより味わうことと、話すことが可能になりました。もし言葉遣いを間違えてしまったときは、アッラーの恩恵を思い出さなければいけません。そのため、善いことのみ口にするようにしましょう。

 アッラーは人間に、善と悪を感じることの出来る力をお与えになり、また両者を区別する理性をもお与えになりました。「更に二つの道をかれに示した(ではないか)。」つまり、われは彼に善と悪の二つの道を見せしめ、明解にした、という意味です。そのため人間は不幸が潜む悪の道を辿るべきではなく、正しい道を辿るべきです。そして悪の道と天国を隔てる障害物を越えていかなければいけません。

(5/12に一部内容を変更しました。)
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信者についてなど

2008年05月03日 | 花嫁の冠【自我浄化】
 “ムウミン(信仰者)とは?”とたずねられたら、こう答えるがいい。
 “自分の恥を見つめ、しもべの一人にも恥と関連させない者(訳者注:自分は恥だらけであると認めるが、他人はそうではないと考える者)のことである”と。

 “騙される者とは?”とたずねられたら、こう答えるがいい。
 “しもべに恥を関連させるが、自分は恥と無関係であるとする者(訳者注:他人こそ恥だらけで、自分は無垢であると考える者)である”と。

 現代の人々が慣れてしまったことの一つに:罪深い人たち(*)と楽しんだり、彼らに安堵を感じていることがある。彼らが眉間にしわを寄せ、不快であることを顔で表したなら、そうすることで、罪人たちに否定的立場にあることを知らせることが出来たであろうに。

 “完全なる門”があなたに開かれたとしたら、あなたは決して、“つまらない事柄”に戻ることなどしないであろう。考えてみなさい。誰かに豪邸の門が開かれたとしたら、さてこの人は“ゴミ捨て場”に戻るだろうか?!・・・

 あなたから(悪を行う)創造物に対する愛情をかれ(訳者注:アッラー)が抜き取ってくださったとしたら、それはかれのあなたに対する配慮であるから、喜びなさい。そして、罪が起きたとしても、それと共に屈辱感が存在しなければいけない。あなたはかれに背き、かれはあなたを高めるとでも思うのか。決してそうではない。かれは尊厳をターア(仕えること)に結びつけ、また屈辱を罪に結び付けられた。そうすることにより、かれへのターアは光と誇りになり、覆いが取り除かれる。反対のことを言えば、罪は暗闇であり、屈辱であり、あなたとかれの間を隔てるものである。・・・

 あなたの息子が背いたら、シャリーアでしつけること。決して無視してはいけない。子供が悪さをやめるために、しかめ面で対応するように。信者が罪を行っている場合、恥や疑いを多く持つようになるが、そうなると暴露されるか、嘲笑されるだろう。人々がそう行った場合、彼らは確実に道を踏み違ったと言える。

 信者が罪を犯すと、巨大な穴に落ちたと言える。彼にとっての解決法は、あなたが背いた息子を接するように、彼にも同じように接することである。外見では彼を咎め、内心では彼に慈悲深くあること。そして見えないところで彼のために祈ることだ。

 現世の民に与えられたものを妬み、彼らの所有するもので心忙しくすることがどんなに無意味なことがあなたにはまだ分からないのか。そうしていると、あなたはかれらよりも無知であることになる。なぜなら彼らは与えられたもので多忙になり、あなたは与えられていないもので多忙になっているからである。

 目やにが溜まって病めば、あなたはその治療をするだろう。その原因は何かと言うと、あなたが現世の享楽を目で味わったためほかならない。それでもあなたは現世の(見せ掛けの)美しいものを見逃すまいと目の治療をし、40年間バスィーラ(心の視力)を病ませる。それでもあなたは治療をしないのか。

(*)アッラーの使徒(アッラーの平安と祝福がありますように)は言われた:《イスラエルの民に入った初めての欠点は、かつて男が出会った男に:おい、アッラーを畏れて、行っていることを止めろ。それは禁じられていると言ったが、後日また同じ男に出会い、まだ同じ状態であるのに、この男は彼を諭さなかったことである。これは、(罪を犯す男と)一緒に食事をし、飲み、座る者であること意味する。このようなことを彼らが行ったことにより、アッラーは彼らの心どうしをぶつけ合ったのである。・・・》

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