イスラーム勉強会ブログ

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悔い戻る者たちの道しるべ【2】-(2) 放置されない罪について

2015年01月30日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
第二の罪は、放置されることのない、しもべの権利にかかわる罪です。あなたは次のアッラーの御言葉を聞いて驚きませんか?
「彼はおまえたちの罪の一部を赦し給う。」(ヌーフ章4節)
「ミン」は、部分的なことを意味します。彼はおまえたちの罪の一部を赦し給う、という意味です。代わって残りの罪は、ないがしろにされた権利が元の持ち主に返還されるか、不当な目にあった者が容赦するまでアッラーは赦し給いません。そのためムスリムたちは危険な思い込みに陥ってしまっています。ある者は思うままに罪を犯し、ハッジに行き、ハッジでアッラーがすべての罪をゆるしてくださると思い込みますが、誰がそんなことを言ったのでしょうか?ハッジやウムラ、断食斎戒や任意の礼拝、タウバやヒジュラは人間のアッラーに対する罪から母親から生まれたばかりの無垢な状態に戻るために設けられた機会で、罪をゆるしてもらえるための機会なのです。しかしあなたが他人に対して犯した罪は、(それが盗みであるなら)盗まれたものを持ち主に返したり、(暴力や中傷であれば)被害者の容赦が必要になってきます。そのためアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は亡くなった尊い教友のために祈りを捧げる前に、「彼に負債はあったのか」と確認されていました。
サラマ・イブン・アル=アウカア(アッラーの御満悦あれ)は言いました:
「われわれが御使い(アッラーの祝福と平安あれ)のもとに座っていたところに葬儀の集まりが現れました。彼らは彼に「葬儀の礼拝をなさっては」と言ったところ、彼は「彼(死んだ人)には負債はあるか?」と言われました。彼らが「いいえ」と答えると、「何か残したか?」と言われました。彼らが「いいえ}と答えてやっと彼は葬儀の礼拝をされました。次に違う葬儀の集まりが現れると、「アッラーの使徒様、(死んだ人に)礼拝してください」と言いました。彼は「彼に負債はあるのか?」と尋ねられて、彼らは「はい」と答えました。「では何か残していったか?」と尋ねられると、「3ディーナールです。」と答えました。彼が礼拝を捧げると、第三の集団が現れました。「礼拝を捧げてください」と言われて、「彼は何かを残していったか?」と尋ねると人々は「いいえ」と答え、「負債はあるか?」と尋ねると「3ディーナールです」と答えました。彼は「おまえたちの友のために礼拝を行いなさい』と言われました。アブークターダは「アッラーの使徒様、あなたが彼に礼拝を捧げてください。私が彼の負債を返済しますから」と言うと、彼は礼拝を捧げました。」(アル=ブハーリー)
殉教者であっても、借金は赦されなかったことを指していますね。つまり、他人の権利が絡んでいるもの、ということです。
ムスリムの多くが陥ってしまっているこの思い込み、つまりハッジに行けば生まれたての子のように無垢になれると思っていること。これは非常に危険です。しもべが持つ権利は、減らされることなく完璧に全うされなければいけないのです。これこそが放置されない罪、です。
物質的権利だけでなく、精神的権利も含まれます。
信仰者は、信仰者の悪口を言うと、言われた者が言った者から善行を奪うことを確信します。そのためもあって、人々が最も必要としていることをお話します:
アブーフライラによるとアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われました:
「破産者とはどういう人のことを言うかおまえたちは知っているか?」彼らが「われわれのうちの破産者とは、ディルハムも物品も持たない者のことをいいます、アッラーの使徒様。」アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた:「私の共同体の破産者とは、審判の日に自らの礼拝と斎戒と喜捨を持参してやって来るが、誰々を罵倒した、誰々を中傷した、誰々の金を取った、誰々の血を流させた、誰々を打ったと言う人がいる。ある者は座り込んで、彼の善行から報復をなし、またある者も彼の善行から成す。報復が済む前に善行が無くなってしまうと、(被害者の)罪を代わりに取ることになる。そして火に投げ込まれる。」(アッ=ティルミズィー出典)

アブーフライラによるとある男が言いました
「アッラーの使徒様、ある女性が礼拝と斎戒とサダカをたくさん行うけれども、その舌で近所の人を傷つけているそうです。」彼は言われた:「彼女は火の中にいる。」男は言った:「アッラーの使徒様、ある女性が斎戒とサダカと礼拝をあまりせず、サダカしてもわずかですが、その舌で近所の人を傷つけません。」彼は言われた:「彼女は楽園に居る。」(アハマド出典)

イブン・ウマルによると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた:
「ある女は猫のために火獄に入った。彼女は猫を縛り、餌を与えず、虫が食べられるように放すこともなかった。」(アル=ブハーリーとムスリム出典)

しもべの権利とは重大なものであることを強調します。それは必ず遂行されなければならないものです。
アッラーは仰せです:
「それでおまえの主にかけて、必ずわれらは彼らをそっくり尋問する。(92)彼らがなしていたことについて。(93)」(アル=ヒジュル章92~93節)

イムラーン・イブン・ヒッターンは言った:「私はアーイシャのことろに入り、彼女から知識を得ていたのですが、裁判官の話になって彼女は言いました:「私はアッラーの使徒様(アッラーの祝福と平安あれ)が次のように言われるのを聞きました:
「一粒のナツメヤシの実について二者の裁定などしなければ良かったのにと望む時間が最後の審判の日に公正な裁判官に来ることは確実だ。」(アハマド出典)
ですから、私たちは自分のたちのものではないものを取ることに注意しなければなりません。

これこそが、完遂され、そして悔悟が伴われるか被害者が赦すまで放置されない罪です。

これらの罪は完遂されるか容赦されることでしか消えないということで、二者が関係を元通りにした場合、アッラーは介入し給わないということです。私はあなたにある金額のお金を借りているがあなたは帳消しにしてくれた。これで話は終わりになります。しかしアッラーの館に巡礼に行って戻ってきたことで私の罪がすべて赦されたと思い込むことは非常に愚かです。あなたとその他のしもべの間で起きた罪は権利が返却されるか容赦されることでしか赦されません。これが放置されない罪です。
崇拝行為には儀式的なものと社交的なものがあります。私は礼拝、斎戒、ハッジなどの儀式的崇拝行為はそのための社交的崇拝行為が正しく行われないと(アッラーに)受け入れられないと強く信じています。

社交的崇拝行為が正しくないと、儀式的崇拝行為は受け入れられません。例えてみると、社交的崇拝行為は学年でその中には出席や教師に集中すること、宿題の提出、試験です。あなたがもしカリキュラムに出席してこなかったら、儀式的崇拝行為である3時間の試験時間に一体どのような価値があると思いますか?儀式的崇拝行為は、社交的崇拝行為の実を得る機会なのです。そのため社交的崇拝行為をなさなかった者の崇拝行為は受け入れられません。

宗教とは、まるで道徳的価値観の集合体のようです。道徳的に向上するとは信仰心が向上するということです。
私は社交的崇拝行為を促します。これこそは諸問題の問題であり、ムスリムが突っかかってしまった最大の隆起物なのです。
礼拝:
「まことに、礼拝は醜行と忌み事を禁じる。」(蜘蛛章45節)
斎戒:
アブーフライラによるとアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた:
「虚言や嘘の行いを止めない者。アッラーに彼の食事と飲み物を放置は不要である。」(アル=ブハーリー)
これらの儀式的崇拝行為は社交的崇拝行為が正しくならないとアッラーの許で受け入れられません。預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は道徳を次の3点で表してくださったことが分かります。ジャアファル曰く:「われわれは彼(ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ))の家系と正直さ、誠実さ、貞節さを知っています。彼があなたに語れば彼は正直で、社交すれば彼は信頼おける人。性欲がかき立てられても彼は貞操を守る人です。」

以上で、赦されない罪と放置されない罪の解説が終わります。残るのは赦される罪です。つまりあなたがアッラーに対して犯した罪です。これについては次回、詳しく解説します。
http://www.nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7185&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895
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預言者伝82

2015年01月23日 | 預言者伝関連
244.礼拝を重要視すること、そしてアブーバクルの礼拝引率:
  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は痛みがひどくなると、彼は「人々は礼拝を済ませたのか」と尋ねました。われわれが「いいえ。あなたがいらっしゃるのを待っています!」と答えると、「水桶に水を入れてくれ」とおっしゃいました。水が持って来られると、沐浴を済ませたアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は出かけて行かれたのですが意識を失ってしまいました。それから覚めると再び「人々は礼拝を済ませたのか」と尋ねたので、われわれは「いいえ。あなたがいらっしゃるのを待っています!」と答えました。人々はイシャーの礼拝のためにアッラーの使徒が現れるのをマスジドでずっと待っていたのでした。そこでアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は人々を引率して礼拝させるためにアブーバクルを送りました。ただアブーバクルは繊細な人だったので、ウマルに、「あなたが引率して礼拝しては」と言いましたが、ウマルは、「私よりもあなたが相応しい」と言いました。それから数日の間、アブーバクルが礼拝のイマームを務めました。

  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はわずかな回復を得ると、アル=アッバースとアリーに助けられながら、ゾホルの礼拝に出かけました。アブーバクルは彼の姿を見つけると、彼の後方に着こうとしたのですが、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は後方に移ってはいけないと合図しました。彼は、移動を手伝っていた二人にアブーバクルの隣に自分を座らせるよう命じました。そしてアブーバクルは立った状態で礼拝を開始し、隣のアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は座って礼拝に入りました。

  ウンム・アル=ファドル・ビント・アル=ハーリスは言いました:アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)がマグリブの礼拝時にアル=ムルサラーティ ウルファーをお読みになるのを聞きましたが、それ以降、アッラーが彼を捕らえ給う時が来るまで、私たちを引率して礼拝することはありませんでした。

245.別れの説教:
  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は説教台に座っていた時、次のようにおっしゃいました。頭を縛った状態で:「まことに、アッラーのしもべのうちに一人のしもべが、現世とアッラーの御許にあるもののどちらかを選ぶよう迫られたが、彼は彼の御許にあるものを選んだ」とおっしゃいました。アブーバクルはこの言葉の意味を理解しました。つまりアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はご自身のことをおっしゃっているのだと。そしてアブーバクルは泣いて、言いました:「いいえ、われわれの命と子どもをあなたのために捧げます」。

  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われました:「落ち着きなさい、アブーバクル。私にとって人々の中で最も人格的にも金銭的にもアブーバクル以上に信頼出来る者はいない。人々の中から親友を選ぶとしたら、私はアブーバクルを選ぶだろう。ただ、イスラームにおける関係の方が優れているが」。

  そしておっしゃいました:「人々よ、アブーバクルの戸以外のマスジドの全ての戸を閉じなさい。」。

246.アンサールのための遺言:
  アブーバクルとアル=アッバースが泣いているアンサールの集まりに通りかかったときのことです。アブーバクルは、なぜ泣いているのだ?と彼らに尋ねました。彼らは、われわれは、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)の集まりを(恋しいと)思い出しているのです、と言いました。アブーバクルはそのことをアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に知らせたところ、痛みを抑えるために頭を縛って表に出て、説教台に上りました。この日以降に彼がそこに上ることはありませんでした。まずアッラーを讃えて彼はおっしゃいました:
  「おまえたちにアンサールに良くするよう遺言する。まことに彼らは私の側近であり、近しい人たちである。彼らはすでに課せられたことを全うし、残るのはその報いである。だから、彼らのうちの善人を受け入れ、罪人は大目にみるように」。

(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P399~400)
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悔い戻る者たちの道しるべ【2】-(1) 赦されない罪について

2015年01月16日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
賞賛がアッラーにありますように。そして、最上の祈願と最上の平安が私たちの指導者ムハンマド、彼の家族、教友たちすべての上にありますように。

『罪とは』:罪の本質と、罪の出どころが何であるのかを考えてみましょう。罪とは強制されるものか、それとも任意でなされるものか。そして人間はどうすれば罪を断ち切ることが出来るのか。

アナスによると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われました:
≪すべてのアーダムの子孫は罪を犯すが、そのなかの善い罪人たちは、悔悟する人たちである。≫ (アハマド、アッ=ティルミズィー、イブン・マージャ)

私は、”人間は罪を犯すべきである”とは言いません。しかしアッラーは、人間の天性のひとつとして“欲望”を植え付け給うたことで、人間は油断してアッラーを忘れている間に己の欲望に負けてしまうことがあります。
ここで皆さんに、赦されることのない罪について説明します。それは、“アッラーに共同者を並べること”です(シルク ビッラー)。次に、“赦されるあなたとアッラーの間で犯された罪”、“放置されたままにならないあなたとしもべの間で犯された罪”があります。

クルアーン解釈の学者たちは、【まことにアッラーは彼に共同者を並べ立てられることは赦し給わない】(女性章48節)という節に続く説明として、「しもべが悔悟した場合以外は。」という言葉を付け足すことで合意しています。もししもべがシルクを犯したとしても、悔悟すればアッラーはそれを受け入れてくださるということです。多神教徒として死なないことが大切なのです。

”アッラーがしもべを赦し給わない”とはどういうことなのでしょうか。シルクを犯したしもべの罪の上にアッラーの慈悲がかからなくなることでしょうか。違います。アッラーの慈悲は、ありとあらゆるものに及んでいます。
シルクを犯すことは、アッラー以外のものへ向かって進むようなものです。病人は治療のために病院へ行かなければならないのに、病院ではなく工場へ行くようなことです。アッラー以外のもとには何もありません。恩恵も、成功も何もありません。何も持ちえない存在に進むようなものなのです。病人は工場へ行っても癒しを得ることは出来ません。
【まことにアッラーは彼に共同者を並べ立てられることは赦し給わない】(女性章48節)とアッラーは仰せですが、“おまえはアッラー以外のものに顔を向けて、一体どのようにしてアッラーから恩恵を得ようというのか。まことにおまえはアッラー以外の存在に顔を向け、彼以外の存在の満足を得ようとし、彼以外の存在を怖れ、アッラー以外の存在に願う。まことにこのような道はふさがっている。“ アッラー以外のものに顔を向けてもあなたは何も見つけることはできないし、あなたが顔を向けている存在は、あなたのために罪を赦す能力も持ち得ないのです。

かつて、あるカリフがマッカ聖域を訪れ、ある威厳ある学者に出会った時のことです。カリフは彼に言いました:「おまえの望みを言うが良い。」学者は、「アッラーにかけて、アッラーの館の中でアッラー以外の者に頼みごとをすることを恥ずかしく思います。」と言いました。館の外でカリフがこの学者に再びあった際、もう一度望みを言えと尋ねたところ、学者は「アッラーにかけて、私はそれ(現世の諸事)を持ち給う御方に頼まないのに、いかにそれを持ち得ない者に頼むというのでしょう」と言いました。カリフがしつこく言え、と言うので、学者は「では楽園に私をいれてください」と言ったのですが、カリフは「それは私にはできない」と言いました。学者はカリフに「では、私の望みはあなたのところにはないですね。私の望みは楽園への到達なのですから」と言いました。

つまり:人はアッラー以外の存在に顔を向ける時、実際は何もないところに顔を向けているということです。これはシルクを犯す者の問題でもあります。彼はたくさんの願い事をそれにし、その慈悲を願い、その懲罰を恐れ、その恩恵を待つ。しかし実際、それに到達してみると何もなかった、ということになります。心理学においてこの状況は非常に危険とみます。その名も失望です。シルクを犯す人たち(多神教徒)は常に失望状態にあり、アッラー以外のものに顔を向けるたびに失望するのです。

【たとえおまえたちが彼らに祈って呼んでも、彼らはおまえたちの祈りを聞かず、またかりに聞いたとしても、おまえたちに答えることはない。】(創始者章14節)

アッラーに祈る者は、強くその存在を信じ強く、彼が聞いてくださっていると信じ、強く己の願いに答えてくださると信じ、また強く己の願いに好んで答えてくださると信じています。

【言え、「わが主はおまえたちを気にかけ給わない、もしおまえたちの祈りがなければ。」】(識別章77節)
おまえたちがアッラーに祈るからこそアッラーはおまえたちを気にかけ給い、おまえたちを赦し、おまえたちを彼に近づけ給う。代わって彼以外に祈る者は、無に向かっているにすぎない、ということです。ここに問題があります。これは赦されない罪についてですが、この罪から悔悟出来る術はない、ということではありません。それからの悔悟は人がシルクから悔悟し、アッラーが彼を赦し給うときに成立します。しかしシルクに固執し続ける場合、悔悟はありません。
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預言者伝81

2015年01月09日 | 預言者伝関連
240.最後の派遣軍:
  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はウサーマ・イブン・ザイド・イブン・ハーリサをシャーム地方へ派遣しました。そしてまずアル=バルカーゥとパレスチナの地であるアッ=ダールーンに踏み入るよう命じました。

  ウサーマの軍に多くのムハージルーンとアンサールの教友が参加しました。その中で最年長の者はアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)によって送られたウマル・イブン・アル=ハッターブ(アッラーの御満悦あれ)です。彼の病は酷くなるばかりで、ウサーマの率いる軍はアル=ジュルフでテントを張ったままでした。結局、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が亡くなった後、アブーバクルがアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の望みを実現し彼の思いを完遂させるためにウサーマの軍を出発させました。

241.ウサーマ軍派軍への関心:
  病に苦しんでいたアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はウサーマを派遣することにおいて人々を待たせました。頭を縛って皆の前に姿を現したアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はミンバルの上に座りました。人々は、ウサーマが任命されたことについて、彼はまだ若く、ムハージルーンとアンサールの集団を率いることが出来るのか、と言っていたところでした。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はアッラーを讃え、彼に相応しい称賛の言葉を述べて、言いました:皆の衆、ウサーマの派遣を実現させなさい。自らの命にかけて誓うが、もし、彼がアミールに任命されたことでおまえたちが何か言うのなら、彼以前の、彼の父親に関して同じことを言ったことになる。彼(ウサーマ)はまことにアミールに相応しく、彼の父親もそれに相応しかった。このように言った後、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は場所を後にしました。これを聞いた人たちは出発の準備にすぐ取りかかりました。代わってアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の痛みは重くなっていきました。ウサーマは軍と共に出発し、アル=ジュルフというマディーナから約5.5kmの地に停留し、残りの人たちが追い付くのを待ちました。

  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の容態が良くなかったため、ウサーマはそれ以上進むのを中止し、人々はアッラーがアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に決め給うたことを待ちました。

  またアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は病に苦しんでいる時に、かつて彼が許可していたように、これからも使節団の訪問を許可すること、そしてアラブ半島に宗教を二つあるままにしてはいけないと遺言しました。

242.信徒たちのための祈願と、高圧、高慢にならないようにとの注意:
  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が痛みを訴えていたある日、数名の信徒がアーイシャの家に集まりました。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は彼らの訪問を歓迎し、導きと勝利と成功があるようにと祈願して言いました:おまえたちにアッラーへの畏れの念を持つよう遺言しつつ、アッラーにおまえたちをまもってくださり、後見してくださるよう、祈ろう。まことにわたしは彼から送られたおまえたちのための明白な警告者である。アッラーのしもべと彼の国においてアッラーに対して高慢にならないように。なぜならアッラーはわたしとおまえたちに次のように仰せだからである:「そうした来世の住まい(楽園)、われらはそれを地上で高圧も害悪も望まない者たちのためのものとした。そして(良き)結果は畏れ身を守る者のものである。」(物語章83節)、「火獄には高慢な者たちの住まいがないというのか。」(集団章60節)

243.現世における慎みと余分の金品に対する嫌悪感:
  アーイシャは次のように言いました:アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はそのせいで亡くなられた病に倒れていたときに次のようにおっしゃいました:「アーイシャよ、金をどうした?」5から7、または8か9(ディーナール)ほどあったのですが、彼はそれらを手のひらで転がして、おっしゃいました:「至高偉大なるアッラーはきっとムハンマドのもとにこれらのようなものがあるとは思い給わないだろう。さあ、施しなさい。」(イマーム・アハマド)

(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P397~398)
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