イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

68章解説【4】

2014年08月29日 | ジュズ・タバーラカ解説
34.まことに、畏れ身を守る者たちには、彼らの主の許に至福の園がある。
35.われらが帰依者たちを罪人(不信仰者)たちのようにするというのか。
36.おまえたちはどうしたのか。いかにして(そのように)判定するというのか。
37.それとも、おまえたちんは啓典があり、それ(その啓典)でおまえたちは学ぶ(調べる)のか。
38.まことにそれ(啓典)にはおまえたちに、まさにおまえたちが(好ましいものとして)選ぶもの(内容)があるのだと。
39.それとも、おまえたちにはわれらに対する復活(審判)の日まで達する(有効な)誓約があるのか。まことに、おまえたちには、まさにおまえたちが判定するものがあると。
40.彼らに問え、彼らのいずれがそれに関する保証人かと。
41.それとも、彼らには共同者たちがあるのか。それなら、彼らの共同者たちを連れて来させよ。もし、彼らが真実を語る者であるならば。
42.脛が露わにされ、彼らが跪拝に呼びかけられるが、できない日。
43.彼らの目は伏せられ、卑しめが彼らを捉える。かつて、彼らが健全だった時、彼らは跪拝に呼びかけられていたのであった。
44.それゆえ、おめたはわれを、この言葉(クルアーン)を嘘として否定する者と共に、構わずにそっとしておくように。われらは彼らの知らないところから彼らを徐々に追い込むであろう。
45.そして、われらは彼らを猶予する。まことにわが策略は強固である。
46.それとも、おまえが彼らに報酬を求めたため、それで彼らは負債に押し潰されているのか。
47.それとも、彼らの許には隠されたもの(不可視界の知識)があり、それで彼らは書いているのか。

次にクルアーンは、アッラーが畏れ身を守る者たちのために来世で準備してくださっているものの解明に移ります:
 「まことに、畏れ身を守る者たちには、彼らの主の許に至福の園がある」

不信仰状態にあり、そして預言者(アッラーの祝福と平安あれ)に対する敵対心でいっぱいだったクライシュの貴族と金持ちたちはこの聖句を聞いて、その多くが貧しかった信仰者たちに言いました:アッラーは君たちよりもわれわれを現世で厚遇し給うたのだ。もし来世が真実なら、来世でもアッラーはわれわれに厚遇し給うはずだ。そこでアッラーは次の御言葉で御返しになりました:「われらが帰依者たちを罪人(不信仰者)たちのようにするというのか」つまり二集団の差ははるかに大きいのに、どう考えたら各集団が同等になると考えられるのか?という意味です。クルアーンはその言葉を続けます:「おまえたちはどうしたのか。いかにして(そのように)判定するというのか」つまり、何を基に、信徒たちと罪人たちを同等とするという不思議な見解を出したのか?という意味です。

続いてクルアーンは彼らにこの見解の根拠を出すよう要求します:
 「それとも、おまえたちんは啓典があり、それ(その啓典)でおまえたちは学ぶ(調べる)のか。まことにそれ(啓典)にはおまえたちに、まさにおまえたちが(好ましいものとして)選ぶもの(内容)があるのだと。」

つまり、アッラーからおまえたちに啓典が下され、その中にあるおまえたちの主張するものを読んだのか、またはこの啓典の中におまえたちが選び、望んだものがあって、おまえたちの欲に沿っているのか、という意味です。

クルアーンは続けて彼らの主張が不当であると訴えます:
 「それとも、おまえたちにはわれらに対する復活(審判)の日まで達する(有効な)誓約があるのか。まことに、おまえたちには、まさにおまえたちが判定するものがあると。」

つまり、おまえたちにはアッラーから審判の日まで有効な、確実な誓約があるのか、そしてその誓約の中に、おまえたちがおまえたち自身のために判定するアッラーからの善きものや褒美があると。

続いてアッラーはその使徒に彼らに次のように言うよう命じ給います:「彼らに問え、彼らのいずれがそれに関する保証人かと」つまり、来世で彼らにも信徒たちが得る同等のものがあると保証する者は誰なのだと彼らに問え、という意味です。

クルアーンはその言葉を続けます:
「それとも、彼らには共同者たちがあるのか。それなら、彼らの共同者たちを連れて来させよ。もし、彼らが真実を語る者であるならば。」

共同者が意味するところは:アッラーの共同者であると彼らが信じていた偶像のこと。または信徒たちと不信仰者たちいずれもがアッラーからの恩恵を同等に与えられるという自分たちの意見を共有している不信仰な人たち。もし不信仰者たちがこの共同者たちに依存しているのなら、彼らを連れて来させよ。つまりこれは彼らに対する挑戦です。アッラーからの恩恵が彼らにあることを保証するような共同者などいないのです。

続いて聖句は彼らの行く末の来世における光景の描写に移ります:
 「脛が露わにされ、彼らが跪拝に呼びかけられるが、できない日。彼らの目は伏せられ、卑しめが彼らを捉える。かつて、彼らが健全だった時、彼らは跪拝に呼びかけられていたのであった。」

脛が露わにされるとは、アラブ世界でことの恐ろしさや酷さを意味します。ここでは極限の恐ろしさの中で偉大なことが露わにされる審判の日を指します。その時、不信仰者は崇拝と義務としてアッラーにスジュード(跪拝)するよう求められますが、跪拝のために曲がるべき関節がかちかちに固まってしまい行えません。その瞬間、彼らの悲嘆は増大し、視線は低くなり、激しい恥の念が彼らを覆います。健康だった彼らはかつて現世でアッラーに跪拝することに呼びかけられていたのに、拒否していました。

「それゆえ、おめたはわれを、この言葉(クルアーン)を嘘として否定する者と共に、構わずにそっとしておくように。われらは彼らの知らないところから彼らを徐々に追い込むであろう。そして、われらは彼らを猶予する。まことにわが策略は強固である。」

アッラーはその使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に語り給います:かのクルアーンを嘘だとする者たちをわれにまかせておくように。「われらは彼らの知らないところから彼らを徐々に追い込むであろう」彼らが気付かない間に彼らに罰を少しずつ少しずつ近付けよう。「そして、われらは彼らを猶予する」つまり、彼らを猶予して、罰を遅らせる。そうすることで彼らはさらに罪を犯し、そして罰も大きくなる。

「彼らを徐々に追い込む、彼らを猶予する」この二表現は、アッラーによる彼らに対する復讐の先延ばしのと彼らに健康を謳歌させて放置することの具体化です。そのため彼らはアッラーの恩恵を不信仰と罪の口実としながら、彼らは恩恵を受けていることが、彼らを罰に近付かせている原因になっていることに気付きません。それどころか、それが自らの滅亡の原因であるのに自分らは信仰者たちよりも厚遇されていると思い込みます。これはアッラーの慣行なのです。アッラーは不正者たちにすぐ復讐せず、いくらばかりか猶予して正道に帰る機会を与え給います。もし迷いの道を歩み続ける場合、罪をもって彼らを捕らえ給います:「まことにわが策略は強固である」つまり、われの罰は厳しい。策略とは、他人に害を加えることにおける詐欺です。策略という言葉がアッラーに関連付けられる場合、アッラーの敵、不信仰者たちの策略を破損させ、彼らの策略に対して報い給うという意味を持ちます。カイド(策略)は争いという意味も持ちますので:アッラーの彼らに対する争いは激しい、という意味にもなります。

アラブの多神教徒たちは、バドルの戦やその他の戦で彼らに不幸が訪れるまでこのような状態にありました。そのため彼らの多くが殺され、また仲間たちの間が引き裂かれました。

次に、前の話の続きに見えるような、多神教徒たちの行動についての聖句が述べられます:
 「それとも、おまえが彼らに報酬を求めたため、それで彼らは負債に押し潰されているのか。それとも、彼らの許には隠されたもの(不可視界の知識)があり、それで彼らは書いているのか。」

つまり:彼らが真実の受け入れを拒否する理由は、おまえがアッラーのメッセージを述べ伝えることに対する報酬を彼らから求めていることで、その報酬が彼らの経済的余裕を押し潰しているというのか。使徒よ、なぜおまえは彼らから報酬を求めるのか。それとも彼らは不可視界やアッ=ラウフ・アル=マハフーズの中に刻まれたものを見ることが出来て、自分たちが裁定するものを書いてそれを自分たちのための証拠にしているのか?

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP37~40)
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預言者伝72

2014年08月15日 | 預言者伝関連
225.カアブ・イブン・マーリクの試練、そして乗り越える(2):
  試練はこれまでのことに留まらず、この3人の男たちの妻のことにも及んでいました。彼らは、妻から離れるようにと命令を受け、それに忠実に従いました。

  そして次に、愛と約束の履行と忍耐と正しさにおけるこの試練の諸段階のなかでももっとも繊細な段階が訪れます。それは、ガッサーンの王が彼と仲の良かったカアブに手紙を送ったときのこと。カアブは、そこへの出席は名誉あることとされ、人々に競争されるガッサーンの会合に出ていました。アラブの詩人たちは長年にわたってこの会合の場で詩を披露していたのです。そんな中、人々の冷たい態度やアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に背を向けられたことから精神的に参ったカアブのところにガッサーンの王の使いが現れます。使いは携えて来た手紙をカアブに渡しました。その中には次のように書かれていました:『私は、おまえの仲間(アッラーの使徒)がおまえに冷たくしたと知った。アッラーはおまえを屈辱の立場にも軽視される立場にも置き給うたはずはない。だからこそ、われらがおまえをなぐさめよう。』これを呼んだカアブの内面に、嫉妬心がこみ上げてきました。窯にそのまま向かってこの手紙を彼はその中に放り投げて燃やしてしまいました。

  かの3名の信仰者たちの本当の姿がどのようなものであるかの明確化と、クルアーン中に彼らのことが永遠に刻まれたこと、そして信徒たちが今後もずっとそれらから学ぶこと、信仰の強靭さとイスラームの正しさを証明する証拠の確立がアッラーの御望みによって完遂されると、アッラーは彼らを解放し給い、7天の上から彼らの悔悟を受け入れ給いました。

  また、アッラーは、彼らが孤立していると感じることがないよう、彼らだけに悔悟をあてはめ給いませんでした。まず彼らを赦すとの言葉の前に、諸預言者たちの長と戦に出そびれなかったムハージリーンとアンサールに名誉を与え、位を高める目的で、彼らを御赦しなるとはじめにおおせになります:

  「アッラーは確かに預言者と移住者たちと援助者たちの許に顧み戻り給うた。彼らのうちの一部の者の心は逸脱しそうになったが、その後、彼らは苦難の時に彼に従った。そこで彼は彼らの許に顧み戻り給うたのである。まことに彼は、彼らに対し憐れみ深く、慈悲深い御方。また、取り残された三人の許にも(顧み戻り給うた)。大地は広いにもかかわらず、遂には彼らには窮屈となり、彼ら自身も彼らには窮屈で、彼らはアッラーからの逃げ場は彼の御許にしかないと考えた。その後、彼らが悔いて戻るようにと、彼は彼らを顧み戻り給うた。まことにアッラーこそよく顧み戻り給う慈悲深い御方。」(悔悟章117、118節)

(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P371~372)
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68章解説【3】

2014年08月08日 | ジュズ・タバーラカ解説
17.まことにわれらは彼らを試みた、ちょうど「園の持ち主たち」を試みたように。その時、彼らは早朝にそれを刈り取ることを誓った。
18.だが、彼らは除外しない。
19.それで、彼らが眠っている間に、おまえの主からの巡回(破滅)がそれ(園)を訪れた。
20.すると、それは朝には闇夜のようになっていた。
21.そこで、朝を迎え、彼らは呼びかけ合った。
22.「おまえたちの耕作地に早朝に出かけよ、もし、おまえたちが刈り取る者であるならば」。
23.そこで彼らは声を潜めて、出かけた。
24.「今日こそ、おまえたち(の意)に反して貧乏人がそこに入ることはない」と。
25.そして彼らは(貧乏人の)阻止が可能な者として早朝出かけた。
26.ところがそれ(変わり果てた自分たちの果樹園)を見て、彼らは言った、「まことにわれらは(道に)迷ったのだ」。
27.「いや、われらは(収穫を)禁じられたのだ」。
28.彼らのうち最も公平な者が言った、「『おまえたちに、賛美してはどうか』と私はおまえたちに言わなかったか」。
29.彼らは言った、「称えあれ、われらの主こそ超越者。まことにわれらは不正な者であった」。
30.それで彼らは非難し合いながらお互いに向き合った。
31.彼らは言った、「われらの災いよ。まことにわれらは無法者であった」。
32.「きっとわれらの主はこれ(園)よりも良いものをわれらに取替え給うであろう。まことにわれらはわれらの主に(御赦しと良きものを)期待する者である」。
33.このようなもので、懲罰は、ある。だが、来世の懲罰はさらに大きい。もし、彼らが知っていたならば。

財産や子孫、そしてそれらを持つ者たちの自惚れについて語った聖句の登場の後に、自分たちの物質的豊かさに自惚れて貧者に適切にふるまうことをやめたためにアッラーによって園が焼き尽くされるという罰を受けた園の持ち主たちに関する小話を語る聖句が続きます。クルアーンはこの小話をお金における自惚れから距離を置くことを訓戒するために述べているのです。なぜなら自惚れは損失を招くからです。まずクルアーン中の聖句を詳細に解説する前にこの小話を簡潔に紹介しましょう:

 かつてある善良な男が豊富な作物をもたらす園を所有していました。彼は作物を収穫する日には貧者たちを呼んで、ザカーとして、彼らに相応しい量の作物を与えていました。この善良なる父親が亡くなって、彼の息子たちが継ぐと、父親のような振る舞いはせずに、貧者たちには何も与えないことにしました。そこで息子たちは話し合い、習慣に逆らって、貧者たちがやって来ていつも通りの分け前を取ることがないよう、早朝に園へ行って作物を収穫することを誓いあいました。しかし夜になるとアッラーは園に自然災害を起こし給い、危害は作物すべてに及びました。

 至高なるアッラーはこの園の小話ついて仰せです:
 「まことにわれらは彼らを試みた、ちょうど「園の持ち主たち」を試みたように。その時、彼らは早朝にそれを刈り取ることを誓っただが、彼らは除外しない。」

 つまり、われらは嘘つき呼ばわりしているクライシュの多神教徒たちを預言者(アッラーの祝福と平安あれ)が帯びた使命で試みた、ということです。アッラーによる人類への試みは、豊かに恵みを与えて自惚れて創造主を忘れてしまうか、彼に感謝するか、また数々の災難を与えて失望して忘恩となるか、それとも忍耐して主に帰るか、といった形で現れます。「その時、彼らは早朝にそれを刈り取ることを誓った」とのアッラーの御言葉の意味は:朝の時間帯に、園の作物を刈り取ることを誓った、です。「だが、彼らは除外しない」つまり、貧者たちの分け前を除外しておいて、彼らのために置いておくようなことはしない、という意味です。またこの除外は、彼らは『インシャーアッラー(アッラーの御望みなら』と言わなかった、という意味とも言われています。これは、次の聖句に基づきます:「また、なににつけ、「私はそれを明日なすであろう」と断じて言ってはならない。ただし、「アッラーの御望みなら」が(言い添えて)あれば別である。」(洞窟章23~24節)

 続いてアッラーは彼らの園に起きたことを解明し給います:
 「それで、彼らが眠っている間に、おまえの主からの巡回(破滅)がそれ(園)を訪れた。すると、それは朝には闇夜のようになっていた。」

 彼らが眠っている夜の間に災難もしくはアッラーからの命令は園を覆いました。ターイフは夜にしか起きません。このターイフは園を焼き尽した稲妻やほかのものだったかもしれません。「すると、それは朝には闇夜のようになっていた」つまり、園は刈り終えられた土地のようになった、または暗い夜のようになっていた。なぜならサリームとは、非常に暗い夜を意味するからです。焼き尽くされたことで夜のような暗さ、黒さになったということです。

 続いてクルアーンは、園に行く準備をしている園の主たちを描写します:
 「そこで、朝を迎え、彼らは呼びかけ合った。「おまえたちの耕作地に早朝に出かけよ、もし、おまえたちが刈り取る者であるならば」。そこで彼らは声を潜めて、出かけた。「今日こそ、おまえたち(の意)に反して貧乏人がそこに入ることはない」と。そして彼らは(貧乏人の)阻止が可能な者として早朝出かけた。」

 朝になると彼らは呼びかけあった、ということです。「おまえたちの耕作地に早朝に出かけよ」つまり早朝に園に向かえ。「もし、おまえたちが刈り取る者であるならば」どうしても作物を刈り入れると言うのであれば。「そこで彼らは声を潜めて、出かけた」彼らは園に向かう際、貧者たちに気付けれないよう、声をひそめたということです。「今日こそ、おまえたち(の意)に反して貧乏人がそこに入ることはない」つまり、今日、誰も園に貧乏人を入れてはいけない。「そして彼らは(貧乏人の)阻止が可能な者として早朝出かけた」彼らはすでに皆で合意した目的のために早朝に出発しました。彼らは自分らには実行可能だと思い込んでいたのです。

 次にクルアーンは、園が焼き焦げているという彼らを驚愕させた出来事を描写します:
 「ところがそれ(変わり果てた自分たちの果樹園)を見て、彼らは言った、「まことにわれらは(道に)迷ったのだ」。「いや、われらは(収穫を)禁じられたのだ」。彼らのうち最も公平な者が言った、「『おまえたちに、賛美してはどうか』と私はおまえたちに言わなかったか」。彼らは言った、「称えあれ、われらの主こそ超越者。まことにわれらは不正な者であった」。」

 彼らは自分たちの園に到着すると、作物が焼き焦げているのを見て、お互いに尋ね合いました:これは自分たちの園なのか、それとも別人のものか?と。そして言いました:「まことにわれらは(道に)迷ったのだ」つまり、園への道を誤ってしまった。そこで、これが自分たちの園だと分かっている者が、道を誤ったわけではないと言います:「いや、われらは(収穫を)禁じられたのだ」つまり、われわれの園の豊かさをその作物が焼き焦げることで禁じられてしまった。「彼らのうち最も公平な者が言った」公平な言葉を語り、良い行動を取る者が言った:「『おまえたちに、賛美してはどうか』と私はおまえたちに言わなかったか」彼はそのように言うべきだと以前から注意していたのです:至高なるアッラーと、彼が悪者たちに復讐し給うことを思い起こして、貧者たちに園の作物を分け与えないというお前たちの悪い思惑から悔悟してアッラーに帰りなさい、と。「彼らは言った、「称えあれ、われらの主こそ超越者。まことにわれらは不正な者であった」」つまり、われわれはアッラーを不正から超越している御方と称えます、それどころか、われわれは園の分け前を貧者たちに配らないことを決めたことで己自身を損なってしまいました。

 そして罪を認めた兄弟たちは責め合い始めました:
 「それで彼らは非難し合いながらお互いに向き合った。彼らは言った、「われらの災いよ。まことにわれらは無法者であった」。」

 園の主たちはお互いに向き合って、非難しあいました:「われらの災いよ」この言い方は本来、破滅を求める祈願ですが、ここでは公開の念の表れとして使われています。「まことにわれらは無法者であった」つまりわれわれは度を越して罪を犯してしまった、それは貧者に園の作物の分け前を禁じたことでした。

 そしてこの小話は、自分たちの園よりも良いものをアッラーが恵んでくださることをアッラーに願うことで締めくくられます。彼らはアッラーの恩恵と慈悲を期待し、彼の御赦しがあることを願います:
 「「きっとわれらの主はこれ(園)よりも良いものをわれらに取替え給うであろう。まことにわれらはわれらの主に(御赦しと良きものを)期待する者である」。」

 アッラーはこの小話の直後に、この小話からくみ取れる訓戒を述べ給います:
 「このようなもので、懲罰は、ある。だが、来世の懲罰はさらに大きい。もし、彼らが知っていたならば。」

 つまり、アッラーの御命令に反し、貧者たちに相応しい分け前を禁じ、アッラーの恩恵を忘恩に替えた者には、このような形でアッラーの罰は実現するのである。そして、罪を犯した者に来世で準備されている罰は現世の罰に比べて更に激しく、大きいのである。「もし、彼らが知っていたならば」つまり、もし彼らが自分たちの悪行の結果がどのようなものであるか知っていたなら、この罰をもたらしてしまうことなど行わなかっただろう、ということです。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP31~34)
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預言者伝71

2014年08月01日 | 預言者伝関連
223.アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)のマディーナへの帰還:
  ローマ軍が国境に侵入して進撃するという案を実行に移すのをやめて引き揚げたという知らせが届くと、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はこのまま続いて敵の土地にはいる必要はないだろうと判断されました。なぜなら目的がすでに果たされたからでした。ドゥーマの太守であるキリスト教徒のアカイダル・イブン・アブドゥルマリクは、ローマ軍が彼のところにやって来た時には彼らを援助しました。そこでアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はアカイダルにハーリド・イブン・アル=ワリードを500の騎士と共に送った結果、ハーリドはアカイダルを捕虜にして、彼をアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に送りました。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はアカイダルがジズヤを納めることで彼の安全を保障し、その身を解放しました。

  そしてアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はそのままタブークに10数夜滞在した後にマディーナに帰って行きました。

224.あわれなムスリムの葬儀にて:
  アブドゥッラー・ズ・ル・ビジャーダインという教友がタブークで亡くなりました。かつて彼はイスラームに憧れていたのを彼の家族が禁じ、彼を苦しめて、挙句の果てに彼にぼろ布を着せて放置しました。その布しか身につけていなかったアブドゥッラーは家族から逃げてアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)のところへと向かいました。アブドゥッラーがアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に近いところまで到着すると、布を裂いて二部に分けて、一つを腰に巻いて体をo覆ってから、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に会いに行きました。アブドゥッラーはそのときに彼からズ・ル・ビジャーダイン(ビジャード(ぼろ布)を二つ持つ者)と呼ばれました。彼がタブークで亡くなると、暗闇の中、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)、アブーバクル、ウマルが葬儀の準備を始めました。一人が持つ灯りを頼りに歩み進みました。埋葬のために掘られた穴に入ったアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)にアブーバクル、ウマルが遺体を渡そうとしているとき、彼は言われました:おまえたちの兄弟をこちらに近づけなさい。遺体の向きを変えると彼はまた言われました:アッラーよ、私は彼に満足したまま今夜を迎えました。あなたもどうか彼に御満足ください。それを聞いていたアブドゥッラー・イブン・マスウードは、私も墓穴の主になりたかった(アッラーの使徒に祈ってもらえるため)、と言いました。

225.カアブ・イブン・マーリクの試練、そして乗り越える:
  疑っているわけでもなく、また不信感を持っているわけでもないのに戦に出そびれてしまった者たちのうちのカアブ・イブン・マーリク、マラーラ・イブン・アル=ラビーウ、ヒラール・イブン・ウマイヤの3名は、初期にイスラームに帰依し、イスラームのために奮闘した者たちでした。またマラーラとヒラールはバドルの戦にも出ていました。そんな彼らが戦に出そびれてしまったことは彼ら特有の性格でも習慣でもなかったのです。出そびれたという結果はアッラーの叡智、彼らの精神に対する試練、そしてムスリム全体の教育のため以外に起きたわけではありませんでした。そのうち、そのうちに・・という気持ちや弱い意志、すでに持ち得ている方法に過度に依存していたこと、真剣さ、そして早急に行おうという気持ちが無かったことが今回の原因でした。この出来事は、彼らよりも信仰心もアッラーとその使徒に対する愛情において負けてはいなかった兄弟である人たちをどれだけ傷つけてしまったのでしょうか。カアブがそのことについて語っています:

  『私は彼らとの準備のために出かけたのですが、何もせずに帰宅してしまいました。そして私は自分にこう言うのです:私には出来る、と。そして私はまだ何もせずに、物事がさらに真剣になるまでそのままでいたのです。信徒たちはアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)と一緒にいるというのに、私は何の準備もしていなかったのです。私は、彼の後の1日か2日後に準備して、彼らを追いかけよう、と考えました。私は、彼らが出発した後に、準備をするために出かけたのに、何もせずに帰宅しました。もう一度出かけたのですが、また何もせずに帰って来てしまったのです。

  人々はどんどん進んで、戦が終わったのに私はまだ同じ状態でした。私は出発して彼らに追い付こうと思いました。そうすればどんなに良かったか。しかし私にはそうすることが運命づけられていませんでした。』

  アッラーはこの3人の信仰心、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の愛、イスラームに対する誠実さ、安楽の時も苦難の時も人々に良くされる時も厳しくされる時もアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に近付いて彼に顔をそらされる時も誠実でいられるのか、試練し給うたのでした。信仰と信条と愛と感情に基づいた人間社会の歴史の中に同じようなものは見られない程の試練だったのです。

  彼ら3人は人々がアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)を嘘つき呼ばわりしたときには彼を信じました。そして偽信者は遠征しなかったことの言い訳をしたのに彼らは自分たちの意に反して自分たちに立証しました。

  カアブは長くはっきりとしたハディースの中で次のように言いました:

  『後方に留まった者たちはアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)のところにやって来て、言い訳を言い始め、誓いました。彼らは80数名ほどの男たちでした。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は彼らの表面を受け取り、彼らに忠誠を誓わせ、彼らのために罪の赦しを祈り、彼らの内面についてはアッラーにお任せしました。そして私が彼のところに行って、平安の挨拶を送りました。挨拶した瞬間、彼はお怒りの表情で微笑んで、言われました:こちらへ来なさい。私は歩いて行きました。そして彼の面前に座ると彼は言いました:何がおまえを留まらせたのか?おまえは自分の背を追って行ってしまったのではないか。私は、はい、そうですが、アッラーにかけて申し上げますが、もし私があなたさま以外の現世の民のところに座っていて、彼の怒りを買っても、私は論争の才能を授かっていますので、何かしら言い訳をして彼の許を後に出来るでしょう。しかしアッラーにかけて申し上げますが、私があなたさまが満足するような嘘の話をしても、アッラーはそのことで私の事で御怒りになりそうになることを私はよく存じています。そのためあなたさまが私に非をみとめるであろうことになっても私は正直にお話しして、そのことをアッラーが赦して下さることを切望します。アッラーにかけて申し上げますが、私には言い訳などありません。それ以上に、あなたさまから後方に留まってしまったときの私は今よりも力もあり、恵まれた状況にあったのです。』

  そして次に、恐ろしい期間が訪れます。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は人々に彼ら3人との会話を禁じたのです。信徒たちは聴き従う他の行動を取らなかったので、人々は彼らを避け、接し方を変えました。そのため大地は3人に違ったものに映りました。そのような状態は50夜続きました。マラーラとヒラールはおとなしく、涙しながら自分たちの家に引きこもりましたが、彼らよりも若く気丈だったカアブは信徒たちとの礼拝のために出かけ、誰も話しかけないのに市場に出入りもしました。

  ただ、こういった出来事があっても、アッラーの使徒に繋がる愛と忠誠心の絆に影響することはありませんでした。またアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)のカアブに対する親愛や慈悲にも影響することはないどころか、この叱責はカアブの持つ愛にさらなる増加をもたらしました。彼は言いました:

  『私が礼拝を終えたアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)のところに来て平安の挨拶を送るとき、私は心の中で、さて、挨拶の返事のために唇は動いただろうか、それともだめだったか?と言ったものです。そして私は彼の近くで礼拝して、彼をこっそりと眺めました。なんと私が礼拝を始めると彼は私を見ておられたのです。しかし私が彼の方を向くと、彼は顔を背けてしまいました。』

  現世はカアブを裏切り、その中に住むすべてのものが彼に背をむけたことははっきりしていました。カアブは言いました:『人々のとげとげしい態度が私に長く感じられると、私はアブークターダの(家の)壁に登りに行きました。彼は私の父方のいとこで私がとても好きな人物でした。彼に挨拶するとどうでしょう、アッラーにかけて、返事してくれませんでした。アブークターダ!アッラーにかけてのお願いだから、答えてくれ、私がアッラーとその使徒を愛しているいることを知っているだろう?アブークターダが黙ったので私はもう一度お願いしました。それでも彼は黙っていましたが、ついに言いました:アッラーとその使徒が最も良く御存知だろう。それを聞いた私からは涙が溢れ出ました。私は背を向けて壁を登りました。』

(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P368~371)
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