イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

思い込まないでください

2009年01月29日 | 他の解説

あの人は金持でいいな
あの人は幸せそうでいいよなぁ~
あの人は健康そのものだな
あの人に悩みなんてないだろうな
あの人には子供がいていいなぁ
あの人の家、でかくていいなあ
きれいでやさしそうな奥さんがいていいなぁ
かっこよくてやさしそうなだんなさんがいていいなぁ
成績が良くていいなぁ
美人でいいなぁ
背が高くていいなぁ
痩せてていいなぁ
いいなぁいいなぁいいなぁ

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いいなぁ・・・は、うらやむ気持ちを表す言葉であると同時に、思い込んでいることを表す言葉であると思う。
うらやましがる方は勝手にうらやましがってればいいかもしれないが、
うらやましがられる方は、うらやましがられていることが事実じゃない場合、非常に迷惑だと思う。
金持ちだと思い込んでいたら、実はそうでもなかったってこと、よくありませんか?
成績がいいからいいなぁと思っていたら、学校の勉強以外のことには何も知らず、また興味を持たない人だったってこともよくありませんか?
それが分かったとき、自分はなんて愚かな思い込みをしていたんだろうって苦しくなります。

皆それぞれ、悩み、問題、苦しみなどがあり、それらを背負って、一生懸命生きてると思う。

他人のことを思い込んで、うらやましがっても何も生まれない。
生まれるのは、誤解のみ。

誤解されるのはいい迷惑です。

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إياكم والظن فإن الظن أكذب الحديث

「思い込みに気を付けるように。本当に思い込みとは、言葉の中で一番の嘘である。」(アル=ブハーリー、ムスリムなど)

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كم من مشكلة وقعت بين الناس بسبب سوء الظن المبني على خطأ المعلومات المنقولة وعدم التحقق
والتبين منها. فمن صفات المؤمن التحقق والتبين.

間違って伝わった情報やその真偽を確かめないことが原因の誤解のために、多くの問題が人びとの間で起きてしまっている。
真たる信者の特質のうちにあるのが、「確かめること」、「はっきりさせること」である。(疑わしいときは、はっきりさせないといけない、ということ。)

コメント (2)

感謝

2009年01月29日 | 心に響くアーヤ

アッラーに感謝すること=かれの御意志に沿う行いをすること

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رَبِّ أَوْزِعْنِي أَنْ أَشْكُرَ نِعْمَتَكَ الَّتِي أَنْعَمْتَ عَلَيَّ وَعَلَى وَالِدَيَّ وَأَنْ أَعْمَلَ صَالِحًا تَرْضَاهُ وَأَصْلِحْ لِي فِي ذُرِّيَّتِي إِنِّي تُبْتُ إِلَيْكَ وَإِنِّي مِنَ الْمُسْلِمِينَ

「主よ、わたしと両親に対して、あなたが御恵み下された恩恵に感謝させて下さい。またあなたの御喜びにあずかるよう、わたしが、善行に勤しむようにして下さい。また子孫も、幸福にして下さい。わたしは悔悟してあなたの御許に帰ります。本当にわたしは、服従、帰依する者です。」

砂丘章15節

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本当に、すべての善行は、アッラーの恩恵により完遂されます。
私たちの感謝の気持ちも、アッラーが御望みにならなければ、生まれることはないのです。
「ドゥアーは、イバーダの髄」というハディースが意味するところを
心新たに実践したい今日この頃です・・・

コメント

ジャミール・ブサイナ(訂正・追加)

2009年01月28日 | 非宗教系

アラビア語の詩をご紹介。
もしかして初めて?
・・・
アラビア語の詩は美しい。

ジャーヒリーヤ期の詩に登場する単語は現代では使われないものが多く、解説なしでは意味不明。でも詩としての質はジャーヒリーヤのものがそれ以降の時代の詩より上をいくと思う。

何の詩が良いかなぁと考えて最初に頭に浮かんだ、ジャミール・ブサイナの詩の一部を載せます。恋愛もの。ブサイナを愛しすぎたゆえにジャミール・ブサイナと呼ばれた彼のブサイナに送った言葉で有名なものが以下。

愛する人のために右腕を切ってもいいという心意気が非常に印象的で頭に残っていたのだと思います。

・・・

ولو أرسلت ‏يوما بثينة تبتغي

يميني وإن عزت علي يميني

لأعطيتها ما جاء يبغي رسولها

وقلت لها بعد اليمين سليني

سليني مالي يا بثين فإنما

يبين عند المال كل ضنين
 
もしある日ブサイナが(使いを遣わして)私の右腕を求めたなら
その右腕がどんなに大切でも
それを求めてやって来た彼女の使いにかならず渡そう
そして「右手のほかにも(欲しいものを)頼んでほしい」と彼女に言うだろう
ブサイナ、私の財産を求めておくれ
財産ですべての物惜しみが判明するんだ

・・・

訳が下手なため全然いい雰囲気が現れてませんね・・・
う~ん、詩の訳って難しい。
次回は機会があったら、ジャーヒリーヤ期の詩をご紹介してみたいです。インシャーアッラー。
・・・
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聖なる地とは何を、どこを指しているのか

2009年01月24日 | 他の解説
聖なる地とトーラー的約束:

「聖なる地」の定義は、イスラエルの子孫の歴史の中で重要かつ複雑に多様化しており、トーラーが述べるところによると、「聖なる地」とは彼らが所有することを約束された地である。そしてこの約束は、―トーラーが述べるところによると―預言者イブラーヒームの時代に始まり、ムーサーの時代に実行されるまで続いた。

 聖クルアーンの食卓章の中に「アルドゥ・ムカッダサ:聖なる地」が登場する。その中でムーサーはイスラエルの子孫にそこに入るように呼びかける。代わって「アルドゥ・マウウーダ:約束された地」は何度もトーラー内の創世記に出てくる。また出エジプト記などにも繰り返し出てくる。

 ほとんどの学者と解説者が、クルアーンの意味することとトーラーの意味することを間違って理解することによって生じた宗教的間違いと歴史的間違いに陥っている。

 アッラーの御言葉:「またムーサーが、自分の人びとにこう言った時を思い起せ。「わたしの人びとよ、あなたがたが授かったアッラーの恩恵を心に銘じなさい。かれはあなたがたの中から預言者たちをあげ、あなたがたを王となされた。外のどの民にも授けられなかったものを、あなたがたに授けたのである。(20)わたしの人びとよ、アッラーがあなたがたのために定められた、聖地に入れ。あなたがたは、踵を返して退いてはならない。そうしたらあなたがたは失敗者になる。」(21)かれらは言った。「ムーサーよ本当にそこには、巨大な民がいる。かれらが出て行かなければ、わたしたちは決してそこに入ることは出来ない。もしかれらがそこから去ったならば、わたしたちはきっと入るであろう。」(22)主を畏れる2人は言った。―アッラーは2人を御恵みになられる―「(村の)正門から入ってかれらに当れ。一度入れば、本当にあなたがたこそ勝利するであろう。あなたがたがもし(真の)信者ならば、アッラーを信頼しなさい。」(23)だがかれらは言った。「ムーサーよ、本当にわたしたちはかれらがそこに留まる限り、決してそこに入れない。あなたとあなたの主が、2人で行って戦え。わたしたちはここに座っている。」(24)かれは申し上げた。「主よ、本当にわたしはわたし自身と兄弟の外は制御出来ません。ですからわたしたちを、この反逆の民から引き離して下さい。」(25)(主は)仰せられた。「ならばこの国土を、40年の間かれらに禁じよう。かれらは地上をさ迷うであろう。だからあなたがたは主の掟に背く民のことで悲しんではならない。」(26)」(食卓章20-26節)

 「われはかれと(その甥の)ルートを、万有のためにわれが祝福した地に救い出した。」(預言者章71節)

 「またわれは、猛威を奮う風(を起す術)をスライマーンに(授け)、かれ(スライマーン)の命令の下に、われが祝福する地に吹かせた。われは凡てのことを知るものである。」(預言者章81節)

「かれに栄光あれ。そのしもべを、(マッカの)聖なるマスジドから、われが周囲を祝福した至遠の(エルサレムの)マスジドに、夜間、旅をさせた。」(夜の旅章1節)

 「われはかれらと、われが祝福した都市との間に、(旅人が)見付け易い幾つかの町を設け、その旅程を定めた。「昼も夜も安全に旅をしなさい。」」(サバア章18節)

 「祝福された地」と「聖なる地」が登場するが、両者は一つなのか?アッラーがイブラーヒームに約束された地について語るトーラーの言葉を並べ終えるまでその答えを出すのを延ばそう。

 創世記17節:「わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。」

 創世記26節:「あなたがこの地にとどまるなら、わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し、これらの国をことごとくあなたと、あなたの子孫とに与え、わたしがあなたの父アブラハムに誓った誓いを果そう。」

 創世記28節:「あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。」

 出エジプト記3節:「それでわたしはあなたがたを、エジプトの悩みから導き出して、カナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの地、乳と蜜の流れる地へ携え上ろうと決心した。」

 出エジプト記33節:「はモーセに言われた、「あなたと、あなたがエジプトの国から導きのぼった民とは、ここを立ってわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にのぼりなさい。わたしはひとりの使をつかわしてあなたに先立たせ、カナンびと、アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとを追い払うであろう。あなたがたは乳と蜜の流れる地にのぼりなさい。」など。

 アッラーが預言者イブラーヒームにされた約束に基づいた、イスラエルの子孫に与えられると約束された聖なる地についての聖クルアーンとトーラーの言葉に類似点を見出すことが出来るだろう。

 ただ聖クルアーンは、アッラーがイブラーヒームとその子孫に土地を所有させる約束をされたと述べておらず、そう感じさせる表現も使っていない。もしトーラーの言うように主がイブラーヒームにカナンの地を所有させると約束されたのであれば、なぜアッラーは御自身の約束を完遂されなかったのか。イブラーヒームもイスハークも彼の子孫も誰もこの地を所有することはなかった。またアッラーはイブラーヒームと彼以降の彼の子孫を一つにされるとも約束されたが、イスマーイールもイブラーヒームの息子なので(地を)所有する権利があるのではないか。

 (以前の)創世記の議論の際に:至高なるアッラーはイブラーヒームとルートを不信の民から人間万有のためにアッラーが祝福された地へ救われたことが数回に渡ってクルアーンに出てくることを述べたが、アッラーがイブラーヒームにこの祝福された地を所有させるという約束をされたとはない。

 「わたしの人びとよ、アッラーがあなたがたのために定められた、聖地に入れ。」(食卓章21節)このようにムーサーは自分の民に言ったのだが、「聖」で限定された地が、「祝福された地」でなければならないわけではない。なぜなら、もしそうであるなら(聖地と祝福された地が同じであるなら)ば、きっと「聖」という言葉が何度も出てくるからである。アッラーが限定された民族のためでなく万物のために祝福された地の「祝福」は、宗教的精神的な祝福を意味し、物質的所有や独占を意味しない。もし所有を意味しているなら、全ての人がその地が自分たちに属すると主張したことだろう。ムーサーの言葉のところで停止しよう。「わたしの人びとよ、アッラーがあなたがたのために定められた、聖地に入れ。」この言葉の示すところはこの前後を読むことでしか理解できない。まず「入れ」という言葉は、征服しろ、攻めろ、そこにいるものを殺せ、という意味も、戦いを命ずる意味も含まない。「入ること」には一つだけではなく、様々な意味がある。もっと深い解説に入る前に、クルアーンにあるイスラエルの子孫が言った言葉:「本当にそこには、巨大(暴君、強力)な民がいる」(食卓章22節)に戻ろう。巨大な民とは誰なのか。彼らがいた聖なる地とは何なのか?

 彼らをカナンの民と仮定しよう。彼らが暴君であったとは知られておらず、もしそうだったとしたらアッラーはイブラーヒームとルートを彼らの地へ救われなかっただろう。またクルアーンもトーラーも、イブラーヒームがカナンの民に酷い目に合わされたと述べたことがない。

 (中略)

 次のクルアーンの節を見てみよう:「ならばこの国土を、40年の間かれらに禁じよう。かれらは地上をさ迷うであろう。」(食卓章26節)ムーサーとその民が聖なる地に入れず、彼らにその地が禁じられたことにおいてクルアーンとトーラーが一致していることが分かる。

 クルアーンの節の流れを注意深く見る人は、ムーサーの言葉「聖地に入れ」がアッラーの御言葉「この土地をかれらに禁じよう」からそう離れていないことが分かるだろう。彼らにとってムーサーの言葉は単にムーサーから彼らに対する試練である。そしてアッラーは預言者にこの民がどれほど腰抜けで頼りないかをはっきり示されている。彼らのムーサーに対する、「かれらが出て行かなければ、わたしたちは決してそこに入ることは出来ない」という言葉を想像してほしい。巨大な民がどのようにして自分の土地から子供、女性と出て行き、地を空にした後にイスラエルの子孫に「さあ、これがきれいになった土地です。こちらにいらっしゃり、ぜひ住まわれてください。」と言うことなどあり得るだろうか。

 ムーサーの民は、ムーサーが頼れるような巨大な民のいる土地に入って戦おうとする気持ちを持たない男たちである。この問題は、彼らの隠し事の暴露、また彼らのアッラーとムーサーと交わした契約と約束の放棄の範囲を超えるものではない。

 一つ目の仮定。ユダヤ人がムーサーから聖なる地に入ることを約束されたとしても、それはその地を占領することを意味しない。「そこには、巨大な民がいる」(食卓章22節)がその(占領することを意味しないことの)根拠となるのは「進入、入ること」が巨大な民との戦いを含んでいるかもしれないからである。しかし彼ら「巨大な民」は土地の持ち主ではなく、この地にやって来た時に戦争を経験した軍隊か兵士である。以上のことは、その民がギリシャのバルサタ(注:アラビア語発音)の民であるという意見に近くなるが、彼らが紀元前1150年、ちょうどムーサーがヨルダンとパレスティナの国境あたりに存在していた時期に海からパレスティナに向かってやってきた民であるとすべての歴史的研究が指しているからである。そのため、すべてのカナン族は一度も暴虐であると知られたことがないのである。

 二つ目の仮定。「正門から入ってかれらに当れ。一度入れば、本当にあなたがたこそ勝利するであろう。」(食卓章23節)この節は、ここで意図された聖なる地が城塞か、門を持った要塞化された小さな村であることを明言している。クルアーンの節が「正門から入って」とあることはつまり、力の中心や弱さがこの城塞か、要塞化された村の門にあることを指す。

 またクルアーンに述べられたように、神による土地の約束があるとすれば、この聖なる地が城塞か小さな要塞化された村以上のものを指さず、アッラーが万物のために祝福を垂れた地とは無関係であることが言えるかもしれない。

 また巨大な民は多神信仰の民で、ムーサーが自分の民に聖なる地に入るよう依頼したときに意図されたのがこの聖なる地を多神信仰から清め、ムーサーの純粋一神信仰を広めることだったかもしれない。

 しかしムーサーの民は誠実ではなかった。彼らの不誠実は、彼らがムーサーの命令に従わなかったとき、つまりムーサーが彼らを初めて試したときに確定したのである。

 ムーサーが彼らに聖なる地に入るよう依頼し、アッラーがそれを彼らに禁じる令が下るまでの物語は、イスラエルの子孫の預言者の命令に対する接し方を分かりやすく説明している数多くある根拠の一つである。

(ハサン・アル=バーシュ博士薯 「クルアーンとトーラー ~どこで合致しどこで相違するか」より)

http://www.biblioislam.net/Elibrary/Arabic/library/card.asp?tblid=1&id=17375
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サファル

2009年01月24日 | 他の解説
ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーミ

預言者と彼の一族、教友、彼によく従った者たちに平安と祝福がありますように。

西暦2009年1月27日からサファル(陰暦2月)に入ります。サファルの前の月であるムハッラムは4つある聖月の一つで、その徳などがハディースに幾度も述べられていますが、サファル月は聖月でもなく、その徳についても目だった言葉は残っていません。残っていたとしてもそのほとんどが嘘のハディースであると証明されています。

陰暦12ヶ月の中、4月が聖月であることを次のアーヤが示しています:「本当にアッラーの御許で、(1年の)月数は、12ヶ月である。アッラーが天と地を創造された日(以来の)、かれの書巻のなか(の定め)である。その中4(ヶ月)が聖(月)である。それが正しい教えである。だからその聖月中にあなたがたは互いに不義をしてはならない。」(悔悟章36節)

ちなみに「聖月に不義を犯してはいけない」ことは、アラブではイスラーム以前から常識でしたが、
彼らが月の扱いをかなり疎かにしていたことが分かっています。

彼らは聖月の神聖さを重々承知していたにもかかわらず、自分たちの都合に合わせて月の到来を遅らせたり早めたりしていました。
サファルをムハッラムに変えたり、サファルを一年おきに聖月にしたり。

また当時の多神教徒は、サファル月に悲観していた(悪運の月、バチが当たるとされた)、とも言われています。もちろん、特定の時期などがアッラーの計画を害することなどあり得ないことなので、この考えは正しくありません。

イスラームはこれらすべての醜悪な習慣、考え方を一掃しても、ジャーヒリーヤ期から残る聖月の名称や尊さは残し、それらは現代に至ります。

※参考サイト:サイド=ル=ファワーイド صيد الفوائد
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行い損ではないですか?もしかして。

2009年01月23日 | 心に響くアーヤ

قُلْ هَلْ نُنَبِّئُكُمْ بِالْأَخْسَرِينَ أَعْمَالًا
الَّذِينَ ضَلَّ سَعْيُهُمْ فِي الْحَيَاةِ الدُّنْيَا وَهُمْ يَحْسَبُونَ أَنَّهُمْ يُحْسِنُونَ صُنْعًا
أُولَئِكَ الَّذِينَ كَفَرُوا بِآيَاتِ رَبِّهِمْ وَلِقَائِهِ فَحَبِطَتْ أَعْمَالُهُمْ فَلَا نُقِيمُ لَهُمْ يَوْمَ الْقِيَامَةِ وَزْنًا
洞窟章103~105節

言ってやるがいい。「誰が行いにおいて最大の失敗者であるか、告げようか。」
つまり自分では善いことをしていると、かれらは考えているが、現世の生活においての努力が、凡て間違った道に行ってしまうような者たちである。
これらの者は、主の印、また主との会見を信じない者たちで、かれらの行いは無駄になり、われは審判の日にかれらにどんな目方も与えないであろう。

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☆「アッラーのため」とニーヤされたすべての行い→善行なので報酬をいただける。睡眠、食事、笑顔、外出、勉強、なぁんでもOK。歯を磨くときでさえ、「イバーダに耐える力作りのための食事をするために必要な歯を美しく磨き上げます」というニーヤを持てば歯磨きはイバーダ(崇拝行為)に早変わり!

☆「アッラーのため」とニーヤされず、ハラールでもハラームでもない行い→報酬も罰もない。つまり、なんとなく食べて、寝て、しゃべったらただそれだけということ。

☆「アッラーのため」ではなく、悪意を持った行い→言うまでもなく罪。表向き善行でも中身が悪いと悪行。(偽信仰だともっとヤバイ。)タウバ(悔悟)するまで現世と来世で懲罰を受ける可能性がある。

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アーヤにある、「自分ではいい事をしていると思っているが、実は最高の失敗者」、怖いですね。でも信仰があればとりあえず大丈夫そうです。(後に続いているアーヤを参照。)

私はもともとクリスチャンだったの。世の中に起こるたくさんの不幸で不公平な出来事を見るたびに、神様のことを疑ったわ。神様は慈悲と愛に溢れているはずなのに、どうして世の中はその逆のことばかりなのか、と。どうして悪人を残し給い、善人を召し給うのか、と。こう思っているうちに、無神論者になったわ・・・という某フランス人マダムたち。
彼女はこの世を楽しく、幸せに生きていきたいそうだ。そして、ヘルシーに。
いいですね。

私は彼女にこう言いたい(注意:言ってないし、言う機会ないです。):
現世はダール・ル・イブティラーゥ、ダール・ル・タクリーフ。つまり、試練の場、負責任の場。私たちは楽しく生活して死んで無になるためだけに創られてきてない。この世で苦難を受けるのは、試されるために創造された存在として当たり前のこと。これをどう美しく、罪なく乗り越えられるかを創造主は御覧になっている。だからどんなに苦しく辛いことが自分自身や周りに起こっても、それは試練であるから、忍耐が必要なら我慢し、解決を要するならそれに努めることが大切。もちろん、苦しむだけが私たち被造物の運命じゃない。創造主の御意志に沿おうとすることで、自己の全体的幸福が達成される。苦難を乗り越えることでも、創造主の試練に耐えたということで幸せを感じられるだろう。マダムのように、目の前の不幸のためにさらに不幸を感じて信仰を捨てて何の解決になるのか。結局、最後には最初に信じていた創造主の許へ召されるんですよ、マダム。

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買わないことで何とかなるなら

2009年01月22日 | その他

マイブームは、イスラエル支援企業のボイコット。
商品を手にとって、裏返して、メーカー名を確認・・・
某リストに載ってないものなら安心して買い物カゴヘ。
対象メーカなら商品棚に戻す。
今日なんて、今まで買ってたものがユニ・リーバだって事が判明して複雑な気持ちになった。何であんなにちっちゃく表示してあるの!
・・・まぁアルハムドゥリッラー、日本には日本製の商品、日本のメーカーが多いので、代替品を探す苦労をあんまりしなくて済むが、
途上国で上品質のモノといえば、外資系(の多くがイスラエル支援会社)のものがほとんどなので、難しいだろうなぁ。スーパー行けば、どぉーーんと並べてあってキラキラしている。
中東の空港内にある免税店にもいっぱい並べてある。
なんでみんなあんなにNidoとかTang買うんだろう?そんなに美味しいか?
自分の国に帰るんだから、美味しい牛乳飲んで、新鮮な果物食べればいいのに、と思うのは私だけなんだろうか。

次のコピペ読んで下さい。

私たちが商品を買うために支払ったお金は、世界のどこかで、誰かを迫害したり殺したりするために役立っているかもしれません。

私たちが商品を買うために支払ったお金は、胸クソ悪くなるような人物を儲けさせているかもしれません。

私たちが買った商品が生産される過程で、誰かが途方もない悲劇を経験しているかもしれません。

私たちは、商品を選ぶことができます。

私たちには注意深くお金を使う責任があります。

共感された方、ボイコットお願いします。
対象企業を知るには、こちらを参考にしてくださいね。

すごく個人的な意見だけど、
病院にまで入っているスタバは何とかならないんですかね。
「スーパー・サイズ・ミー」では、アメリカのとある病院内にマックがあると。
ビックリですね・・・( ´_ゝ`)
すごく不健康なのですが。

よろしくお願いします。

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日亜対訳注解聖クルアーンより

2009年01月19日 | 他の解説

日本ムスリム協会から「日亜対訳注解聖クルアーン」が出版されている。三田了一先生という方の生涯をかけた労作、と”改訂版によせて”に載っている。私も労作だと思う。この意訳クルアーンの日本語は分かりやすく、注解も素晴らしい。
てことで、70章を読み返していたときに目からうろこが出た三田先生の注解を抜き出しとこ。


☆70/17の「背を見せて、背き去った者を召還する」の注解

罪が4つの点から分析される。最初の2つは罪人の意思と心理から観察され、あとの2つは、現世の良い物の取得に対する現れ方である。
(イ)罪は正義を背にすることから始まる。まともに直面することを避け、臆病か無関心によって正義から逃げ出してしまう。
(ロ)しかし良心と正義の意識は、逃避を拒もうとし、またアッラーの御慈悲はあらゆる面でかれを改心させようとするが、罪の深い者はそれを強引に拒む。
(ハ)その結果、かれは富の蓄積のため一層貪欲になり、偽善や欺瞞が一層かれを罪に巻きこむ。
(ニ)物質的利益のために、他の人びとの利益を妨げることを顧みず、嫉妬や悪意のもとにそれをしまい込む。

☆70/27の「またかれらの主の懲罰を恐れる者」の注解

真にアッラーを畏れる者は、アッラーの意志、法則に反しないように用心する者で、自然かれはアッラーを愛し慕う。すなわち真の平安、大悟は、自分の意志とアッラーの意志とがつねに合致することにより得られる

明日も一日頑張りましょう。

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新徳島マスジド

2009年01月18日 | その他

昨日徳島に行って来ました。
徳島マスジドのリフォームは終了し、ピッカピカになっていました。
写真を二枚ほど貼っておきます。



床がピカピカ~
ウドゥー場もトイレもピカピカでした。



↑これは入り口。

マスジドがきれいになっているにもかかわらずまだ誰も使っていないようでした。
もしかするとオープニングセレモニーなるものがあり、その後に使用開始となるのかもしれません。

ちなみに本日18日に徳島駅前で行われたガザの人たちのための抗議デモに多くの人が参加したそうです。(私は昨日徳島に行っていて今日も足を運ぶのは難しかったのです。ぜひ参加したかったですが・・・)

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そこの君、清浄ぶらない

2009年01月16日 | 心に響くアーヤ

هُوَ أَعْلَمُ بِكُمْ إِذْ أَنشَأَكُم مِّنَ الْأَرْضِ وَإِذْ أَنتُمْ أَجِنَّةٌ فِي بُطُونِ أُمَّهَاتِكُمْ فَلَا تُزَكُّوا أَنفُسَكُمْ هُوَ أَعْلَمُ بِمَنِ اتَّقَى

かれは大地から創り出された時のあなたがたに就いて、また、あなたがたが母の胎内に潜んでいた時のあなたがたに就いて、最もよく知っておられる。だから、あなたがたは自分で清浄ぶってはならない。かれは主を畏れる者を最もよく知っておられる。

星章32節(53/32)

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「清浄ぶるな」・・・読むとたまにドキッとさせられる御言葉。
自分はいい子だと思い込むな、自分が偉いと思うな、いい気になるな、そんな感じ。
アッラーが私たちを御創りになり、子宮に留まっている頃の私たちの存在全てを熟知される御方なのだから、
かれのみが、誰の信仰が一番篤いのかを御存知であるのはあたりまえだろう。
創られた側である私や他の人が見抜けることではない。
自分の信仰の質を自分で判断
出来ないことくらい、少し考えれば誰でも気付くはずだ。
だから、
清浄ぶっている人が、一番の身の程知らずの者だといえると思う。

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