イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

悔い戻る者たちの道しるべ【11】-(2)

2016年08月18日 | 悔い戻る者たちの道しるべ

そのようになるためには、ムスリム社会はその個々人を次のアッラーの御命令の方法で全ての罪から守る必要があります:

「おまえたちのうちやもめ(独身者)を結婚させよ」(御光章32節)

 

法学者たちは言いました:複数形での命令の場合、ウンマ全体に向けられた命令と解釈します。それぞれの社会は若者を(姦淫から)守る方策をとるべきです。つまり、住まいを確保したり、結婚しやすくしたり、真理確立のための協力、若者のための働き場の確保のための協力、彼らを守るための協力といったことが必要で、すべて社会の責任になります。

そのためこの命令はウンマ全体に向けられた命令なのです。またウンマに向けられた命令はウンマの統治者に向けられているということでもあります:「おまえたちのうちやもめ(独身者)を結婚させよ」(御光章32節)

 

「枯渇させる」という表現がありますが、私たちは罪の根源を枯渇させる必要があります。私は欧米全体のエイズ問題の取り組み方に困惑させられます。彼らは他の選択肢や薬についてのみ研究し、一秒でも罪や姦淫や理性に反した行為こそが人間とこのような病の間を隔ててくれるものであることを考えません。彼らは結果に取り組むだけで、その原因には取り組んでいません。

 

ある町に汚染された水があり、数え切れない病気が存在すると仮定します。町に関係している人たちは全員で医者や病院や器具を準備しようとしています。しかし汚染水のことは誰も考えていません。彼らが汚染水を堰き止めれば問題は終結するのにです。ですから罪の根源を枯渇させることは罪を犯した罪人たちを治療するよりも容易なのです。これらの社会に対して困惑を覚えます。罪の原因は可能な限りの美しさで存在しており、可能な限りの活発さを持っています。そして私たちは若者たちに「悔悟しなさい」と言うのです。ですから、社会全体が若者の道徳心を守っていき、彼らの結婚への道を容易にしてあげなければならないのです。30歳以降や35歳以降ででしか若者が結婚できないウンマはそれに応じて苦悩するのです。

 

司会:では結婚以外の例を挙げてみましょう。先生、ある人たちは利息を扱う銀行を使用することで生まれる罪に落ちてしまっています。この代替は何でしょうか?あなたがイスラーム銀行が代替だとおっしゃるとしたら、誰がその銀行がイスラーム法に則ってやってくれると保証してくれるのでしょうか?など。他にも人の周りにまとわりつく疑わしい新しい事項がたくさんあり、その中に落ちてしまうことで罪に落ちるのか、落ちないか、など。

 

先生:問題に真髄に触れましたね。今日、人間が悩む二つの問題があります。性の問題と、お金の問題です。今日の若者にとってお金を稼ぐことは大きな悩みです。続くのが性の問題です。性に関してはその罪に落ちてしまう可能性のある諸事について述べました。お金については、若者に仕事を提供することが必要です。教友ウマル様(アッラーの御満悦あれ)が総督に次のように言いました:おまえのところに盗んだり略奪した人が連れてこられたら何をする?(総督は言って)私のその手を切ります。(ウマル様は言って)では。おまえの臣民の中から腹を空かせている者や失業者が私のところに来たらおまえの手を切ろう。(ウマル様はまた言って)まことにアッラーはその被造物の空腹を抑え、彼らの恥部を覆い、手工業を提供しするために私たちを彼の代理とし給うたのだ。私たちが彼らにそれらを履行すれば彼らの感謝を得る。まことに手というものは仕事をするために創られたのである。服従の中に仕事を見出せないと、罪の中で数々の仕事なすことになる。だからこそ罪において(手が)忙しくなる前に服従において忙しくさせなさい。

英知ある言葉ですね。

 

どんな罪にも必ずそれを成す者には戦いがあるとアッラーが脅迫し給うたことにも注目しましょう。次の聖句は利息を貪ることに関連しています:

「それでもおまえたちが行わないならば、アッラーと彼の使徒からの戦いがあると知れ。」(雌牛章279節)

 

アッラーが利息を貪る者に戦いを挑むことは注目に値しないでしょうか。お金がお金を生むと少人数の手中にのみ収まり、多くの人の手には渡りません。すると不正や破廉恥なことが広がります。売春宿、盗難、詐欺などです。私たちはどうすれば良いのでしょうか?仕事がお金を生まなければいけないのです。お金がお金を生むのではなく。私たちは二つの道の前にいます。仕事でお金を稼ぐか、利息でお金を稼ぐかです。仕事でのお金儲けは若者に仕事の機会を与えます。どうか商業施設をオープンしてください。すると店員や運び人、乗り物を直す人、倉庫を貸してくれる人などが望まなくても必要になってきます。他人を使うどのような仕事でも構いません。利息による収入はその主一人だけのものになります。まるでお金は人々の間を巡るものだとアッラーがお望みになったかのようです。また私たちは結婚の要因を容易にすることで若者たちに結婚するよう奨励しましょう。住まいの確保、家具の確保など。利息ではなく仕事を通じた投資も奨励しなければなりません。つまり私たちは若者たちを姦淫から守ると同時に必要と貧困から若者を守ることで悔悟のきっかけを提供したことになるのです。

 

つまり罪を呼ぶことから遠ざかることは悔悟継続のため、悔悟が真面目で有効かつ定着するための適切な治療であるということです。

次回は真面目な悔悟を違う面から見ていきます。また悔悟継続の方法つまりイスティグファール(罪の赦し請い)の継続も扱います。これは真面目な悔悟定着要因の一つです。


悔い戻る者たちの道しるべ【11】-(1)

2016年07月28日 | 悔い戻る者たちの道しるべ

司会:

先生、誠実かつ正直な悔悟について話を進めます。悔悟の後、また罪を犯してまた悔悟をする人。人が悔悟する限り、至高偉大なるアッラーはその人とその悔悟を受け入れ給うということを見てきました。では先生、人は罪と罪を誘引する諸事からどのようにして自分を守れば良いのでしょうか?

 

先生:

教友アブドゥッラー・イブン・マスウード(アッラーの御満悦あれ)によると預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:《まことに正直は篤信へと導く。そしてまことに篤信は楽園へと導く。正直な男は本物の正直者となるまで正直で居続ける。そしてまことに嘘は罪へと導く。そして罪は火獄へと導く。嘘つきな男は本物の嘘つきになるまで嘘をつき続ける。》(アル=ブハーリー、ムスリム、アッ=ティルミズィー、アブーダーウード、アハマド、マーリク、アッ=ダーラミー伝承)

 

真実の探索において正直でいれば、それにたどり着きます。悔悟において正直でいれば、それにつながる道がどれかを暗示されます。知識において正直でいれば、数あるそれらの源泉にたどり着きます。これらはまるで神の法則、アッラーの被造物の中で行われるアッラーの慣行のようです。正直は篤信へと導きます。人はアッラーの許で本物の正直者と記されるまで正直で居続けます。つまり、正直を実践するということです。

 

他に、「正直はあらゆるものへと導く」という伝承もあります。至高偉大なるアッラーは仰せです:

「まことにこのクルアーンはより兼直なものへと導く。」(夜行章9節)

 

ここでは「何へと導くか」を制限する表現はありません。「無制限」というとろこに修辞が込められていることがあります。私が悔悟において正直でいると、アッラーが私を悔悟の要素へと導いてくださります。(例えば)この家の中で足を踏み外してしまう場合、私はそこに入るべきでは無いし、ある特定の若者たちと罪を犯してしまう場合、彼らと付き合うべきではありません。この本を読む中で何か罪がある場合は、私はその本を読むべきではありません。この番組を続けて見ることでアッラーに背いてしまいアッラーとの間に隔たりができてしまう場合、私はこの番組を見るべきではありません。ですから、罪の出処を知り、罪の諸原因から遠ざかる以外に悔悟を確固たるものにする術はありません。罪の諸原因から遠ざかることは悔悟する信仰者の最大の砦です。もう一つが「代替」です。この「代替」は必須です。アッラーが私の中に置き給うた幾つかの本能的欲望を満たすことで私はアッラーに近づけます。つまり自我が女性を求めるので結婚する、自我が財産を求めるので働く、という形でアッラーに近づくことができます。私が罪と思われることから遠ざかり、代替を準備することで私はこの悔悟において己自身を守ったことになります。教友アブーサイード・アル=フドリー(アッラーの御満悦あれ)によると預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:

《おまえたち、道に座ってはいけない。彼らは言った:アッラーの使徒さま、私たちには皆で話せる場がありません。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃった:道を話し場にするというなら、道にその権利をあげなさい。彼らは言った:その権利とは何ですか?彼はおっしゃった:視線を下げること、害の排斥、サラーム(の挨拶)への応答、善を勧め、悪を禁じることである。》(ムスリム、アル=ブハーリー、アブーダーウード、アハマド伝承)

 

以上により罪との決別が必須であることがわかります。信仰者の生活における詳細な分析を見てみましょう。(例えば)私はこの場で犯してしまった罪はこの友人関係、このパーティー、この出会いが原因だと考えます。私は罪の諸原因を見つける時、信仰者から成る健全な環境の中に身を置くことがその代替になると知るのです。至高なるアッラーは仰せです:

「そして彼の主にその御顔を求めて朝に夕に祈る者たちと共に忍耐自制せよ。今生の装飾を望んで、おまえの両目が彼らから逸れてはならない。また、われらがその心をわれらの想念(唱名)から逸らせたために己の欲望に従うことになった者に従ってはならない。そして彼の件は度を越していた。」(洞窟章28節)

 

重要な点があります。人は食べ物を見ることなくそれについて聞くことも香りを嗅ぐこともない状態で4つの壁に覆われたままでいてもお腹は空くということです。なぜならその食べ物への動機は内的なものだからです。そのため私たちは緊急時にはアッラーが禁じ給うたものを食べることが許されるのです。アッラーは仰せです:

「ただし、反逆者でなく、無法者でもなく余儀なくされた者には罪はない。」(雌牛章173節)

 

しかし性への動機は内的なでなく、外的であり、外からやってきます。そのため私たちの宗教には強制的姦淫というものが全く存在しません。この種の動機は外的誘惑から発生します。そのため視線を低めた者は頑丈な砦に身を置いたことになります。破廉恥な行為から遠ざかった者は頑丈な砦に身を置いたことになります。アッラーが御満足にならない芸術行為から遠ざかった者は頑丈な砦に身を置いたことになります。篤信者たちの中に身を置いた者は頑丈な砦に身を置いたことになります。私が罪の原因を知り、それらから遠ざかることでじぶんを守ったことになります。ただ次の考えは別です。私がしつこく勧めていることですが、それは、アッラーが人間の中に置き給うたどんな欲望にも必ずそのための清らかな流れ道を作り給うているということです。つまりイスラームには禁欲が全く存在しません。さまよいながら思い込んでいる人たちはアッラーに悔悟するということはつまりすべてを自分に禁じることだと思い込んでいて、悔悟しないことには自由があり、制限がなく、多くのことを人生の中に見つけ出せると考えています。

 

あなたが悔悟をすると、アッラーはあなたの中に置き給うたすべて(の欲望)に清らかな流れ道を作ってくださることであなたは禁欲の心配をしなくてよくなります。あなたがアッラーへ悔悟する人であれば、私は罪の原因から遠ざかることと、法的な代替の準備を強調するだけです。そうすることで本当に悔悟の道を歩むためです。


悔い戻る者たちの道しるべ【10】-(4)

2016年05月13日 | 悔い戻る者たちの道しるべ

”人々と接すれば彼らの権利をないがしろにせず、人々に話しかければ嘘をつかず、人々に約束をしたらそれを破らない者。彼こそはムルーア(男らしさ※)が完結し、廉潔さが現れ、彼との兄弟付き合いが義務となり、彼の陰口を話すことが禁じられる者である。”(教友の言葉)※アラブ民族の間に伝わる伝統的な男らしさの概念

 

もしある人が他人の権利をないがしろにしたり、嘘をついたり、彼らと交わした約束を守らなかったりした場合、彼の廉潔さは崩れ落ちます。しかし学者たちは、廉潔さを崩し落とさないけれどもそれに傷を付ける数多くの事柄があると述べています。例えば、卑劣な者たちとの付き合い、路上で守るべきマナーを遵守しない、女性について話す、ナツメヤシ一粒分でも秤をごまかそうとする、非合法なものから一口だけでも口に入れようとする、などです。他にも、路上での放尿、外を裸足で歩くこと、路上での飲食。学者たちは廉潔さを傷つける多くのシーンを挙げています。しかし私がここで皆さんに言いたいのは、低劣な者との付き合いについてです。次のアッラーの御言葉がその意味を示しています:

「信仰する者たちよ、アッラーを畏れ身を守り、誠実な者たちと共にいよ。」(悔悟章119節)

 

これこそが、人を罪から守ってくれるものです。99人の人を殺した男についての先述の有名なハディースには預言者(アッラーの祝福と平安あれ)からの教訓があります。つまり、違う世界が罪人を利息の地とその環境から遠ざけた、ということです。ですからあなたも善良な環境にいなければアッラーの御命令にまっすぐに決してなれなません。あなたが誰と付き合っているかであなたが誰か私には分かるのです。

 

司会:

善良ではないかもしれない環境にいる人たちに失望感を与えてしまうのでは?

 

先生:

ここで指針があります:劣悪な環境で生活するという運命の中に私が置かれている場合は、周りの人々とは違う高い礼節を身につける必要があります。理性上だけの話ではありません。私は周りの人々とともに生活していますが、彼らが陥ってしまっているような過ちに溺れず、彼らが入りきっている欲望にも溺れず、彼らの卑しさと同じにもなりません。満足できない環境で生活する人はいますが、それはその人の運命です。しかし己の礼節で周りの人たちの汚点から遠ざかることで、アッラーはその人の追従姿勢にお力添えしてくださります。

 

司会:

反逆的で罪深い環境で罪を犯してしまったけれども悔悟したい人についてはどうでしょうか。この環境を捨てない形で彼に示すことのできる指針はありますか?

 

先生:

アッラーが仰せの言葉を私も言いましょう:

「われらがその心をわれらの想念(唱名)から逸らせたために己の欲望に従うことになった者に従ってはならない。」(洞窟唱28節)

 

身体は彼らと共にあっても、彼らには従わない。この御言葉には大きな教育的指針が含まれています。

 

司会:

何にも逆らえない若い女性について。飲酒する父親が彼女に言います:酒を持ってこい、と。このようなことがたいていの場合、起きています。しかし彼女はアッラーの道標を辿ろうとし、アッラーへの服従に忠実で、アッラーに逆らうことを拒否し、アッラーの御満足を切願しています。彼女はどうすれば良いのでしょうか?

 

先生:

質問に答える前に、この混合状態の中にあるアッラーの英知を解明しましょう。劣悪な父親から清廉な女の子が生まれることもあれば、劣悪な女の子が善良な父親から生まれることもあります。これらから見える英知は、劣悪な父が規律正しい清らかな娘を見ることで、もしかすると「アッラーを思い起こすかもしれない」ことです。アッラーが善良な人と劣悪な人を一つの家族に混ぜ給うたのは、善良な人が劣悪な人に気づきを与え、彼の模範となるほかにありません。それに何人もの父親がその娘のおかげで導かれていますし、妻の手によって更正した夫も数多くいます。まさにこの混合状態には素晴らしい教育的英知があるのです:あなたが教師だとしたら、良い生徒と悪い生徒を隣同士に座らせたでしょう。そうすることで悪い生徒が良い生徒から良き態度の一部でも学び取ってくれるかもしれないからです。しかし悪い生徒2名を隣同士に座らせて起こるのは爆発です。ですから混合状態はアッラーの偉大なる英知の一つなのです。私たちはこのアッラーを知る清らかな若い女性に次のように助言しましょう:あなたがアッラーと強固につながる時、このつながりがあなたに高レベルの英知と抵抗を与えてくれるでしょう。ほかにも真理における雄弁な舌も与えてくれるでしょう。もしかするとアッラーは劣悪な環境にいるこの若い女性を父親の更正のためにまっすぐの道に導き給うかもしれないのです。信仰の真実は、周りに向かってそれを体現することでしか信仰者の心に留まっていることはありません。信仰者は否定的でなく、自分の殻に閉じこもっているだけでもなく、人生から撤退している人もでもありません。

ある飲酒している父親は息子が礼拝しているのを見かけるたびに彼を殴っているのですが、息子は懲りずに父親を何十年もかけて悔悟するまで助言し続けたことで父親が息子の価値を思い知ったという話を私は知っています。

ほかにも、シャームの酒場の持ち主の話も知っています。彼の娘は父親の(糧から得られる)食べ物を一切口にしませんし、父親から金銭をもらうこともしません。もし彼女が巨額が欲しいと父親に頼めば、父親は躊躇なく娘に与えられるのにです。しかし娘は父親の糧が非合法であるのを知って、アッラーの御命令に従おうとしたのです。信仰者とは、自分の知らぬ間に己のまっすぐな姿勢によって偉大な宣教者になっている人なのです。行動による宣教は舌による宣教よりもより影響があります。貞節、信頼、正直も宣教なのです。

 

司会:

次回も「正直な悔悟」についての話を続けます。


悔い戻る者たちの道しるべ【10】-(3)

2016年04月22日 | 悔い戻る者たちの道しるべ

司会:アル=ブハーリーとムスリムのハディース集に収録されている、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)にたどり着く伝承の鎖が正しいと評価されたハディースの中に3度罪を犯し、悔悟したしもべが登場するものがあります。他の伝承の後部に、「彼は望むとおりに行動するがいい」というのもあります。さて、本当に望むまま自由に行動してもよい、ということなのでしょうか?罪を犯して悔悟し、そしてまた罪を犯して悔悟する、といった具合に。

 

先生:私はこのハディースの最後部の言葉を正しく理解できていればと思っています。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は、教友ウスマーン様(アッラーの御満悦あれ)が苦境の軍隊を準備したとき、彼について次のようにおっしゃいました:《ウスマーンが行ったことのために、彼が今日以降、害を被ることはないだろう》。

 

預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)がまるで:彼(ウスマーン)はアッラーにお近づきになれた地位に上り詰めた、つまり罪を犯すことが少なくなったとおっしゃっているかのようです。誰でも罪の後に悔悟し、また罪の後に悔悟し、また罪の後に悔悟することで、まるでこれ以上は罪を犯さない状態にたどり着いたかのように。代わって、とても長く生きて、その間に罪を犯しては悔悟し、罪を犯して悔悟して、アッラーとの関係が弱まる、という理解は私はしておらず、おそらくこれが正しいかと思います。他にも、教友アリー(アッラーの御満悦あれ)による言葉もあります:おまえたちの中で最善の者は、災難に襲われても何度も悔悟する者、と言いました。ではまた(罪に)戻るのはどうですか?と尋ねられると、アッラーに罪の赦しを請うて、悔悟すれば良いと答えると、ではまた(罪に)戻るのはどうですか?と尋ねられました。アッラーに罪の赦しを請うて悔悟すれば良い、と答えると、ではいつまでですか?と尋ねられました。悪魔こそが疲れる存在になるまで、と言いました。

 

あなたの兄弟に対してあなたは悪魔の力になってはいけません。悪魔に対して、あなたの兄弟の力になってください。これこそが、”信仰者は罪人たちに望みを寄贈する”という言葉の意味です。

 

99人の男を殺した人、さて彼に悔悟はありますか?と尋ねられた修道士は、「いいえ」と答えました。すると彼はこの言葉をきっかけに100人目を殺してしまいました。他の学者の返答は、「罪を犯している土地を離れて、善良な人たちのいる土地に移るのが良い」でした。もう一人の学者は問題の根幹に取り組みました。アッラーが次のように仰せのようにです:「信仰する者たちよ、アッラーを畏れ身を守り、誠実な者たちと共にいよ。」(悔悟章119節)

 

本物の学者は罪の原因、悪い環境、不良な友、身の回りの誘惑といったものを探します。これら全ては人間を罪に突き動かします。ですから、あなたがもし人間の水準を上げたいのなら、罪の原因から遠ざけてください。罪の諸原因からの逃避は、罪そのものからの逃避に勝るのです。アッラーは次のように仰せです:

「また姦通に近づいてはならない。」(夜の旅章32節)

なぜ、”姦通してはならない”ではないのでしょう?

アッラーは、次のようにも仰せです:

「それがアッラーの諸法度である。それゆえ、それに近づいてはならない。」(雌牛章187節)

なぜ、”それを超えてはならない”ではないのでしょうか?なぜなら罪は”炎”だからです。細かい例を挙げましょう。とある国の電気大臣は8000ボルトの電流の存在を国民に警告しなければなりません。この電流には制限区域があり、その中に入った人は真っ黒に焦げてしまいます。大臣は電流に触れることをを禁ずる警告板を置くのでしょうか?違いますね、もちろん、電流に近づくことを禁じる文句ですね。そのため、アッラーは次のように仰せなのです:

「姦通に近づいてはならない」

 

性欲は、しっかりした山の天辺にある岩に似ています。あなたはそれを押そうと思えば、押せます。しかし押してしまえば、その岩は谷の下へ転げていくだけです。醜行へと導くさまざまなものをあなたが甘く見ていると、その中に落ちてしまうのです。ですから私は人々に悔悟を薦める際、罪のきっかけになることや、劣悪な環境、不良な友人、有害な読み物、アッラーが御満足にならない映画を観ることなどから遠ざかるようにも言います。これらすべては背徳行為に人を導きます。勇敢であることとは、罪の原因から遠ざかることです。イーサー様(アッラーの平安あれ)は素晴らしい言葉を残されています:「尊い者とは、罪自体からではなく、罪の原因から逃げる者のことをいうのだ」。視線を低めることや、異性と二人きりの場を持たないことは、恥部を守る方法になります。実践することで破廉恥な行為から離れていられる方法はたくさんあります。私は人々をアッラーに誘う時、悔悟するように言います。しかし同時に、罪であろうと思われる事柄や罪がなされる場、罪深い人たちから遠ざかることも明確にしなければなりません。まことに学者たちは次のように言っているのです:「卑劣な者たちとの付き合いは、廉潔に傷を付ける」


悔い戻る者たちの道しるべ【10】-(2)

2016年03月25日 | 悔い戻る者たちの道しるべ

司会:

「悔悟の意志が至高偉大なるアッラーからのものであるなら、罪の意志はどこから来るのか?」と議論してくる人がいます。さて、アッラーは私たちが罪を犯すことを御望みなのでしょうか?

 

先生:

そのようなことはアッラーにふさわしくありません。

 

「まことにアッラーは醜行を命じ給わない。おまえたちはアッラーについて、おまえたちの知らないことを言うのか」(高壁章28節)

 

「多神を崇拝する者たちは言うであろう。「もしアッラーはが望み給うたならば、われらもわれらの祖先も多神を拝まず、なにも禁じなかったであろう」。こうして彼ら以前の者もわれらの威力を味わうまで嘘として否定した。言え、「おまえたちにはわれらに出して見せるような知識があるのか。まことにおまえたちは憶測に従っているにすぎない。まことにおまえたちは妄想しているにすぎない」。」(家畜章148節)

 

この聖句は、ジャブル(万事は強制されて起こるとの考え方)が否定される根拠です。ジャブルは間違った信条でもあります。ジャブルかもしれない、との思い込みは確実な迷いです。

 

「そしてアッラーはおまえたちの許に顧み戻ることを望み給うが、欲望に従う者たちは、おまえたちが大きく片寄り、偏向することを望む。」

 

彼が私たちを御創りになったのは、私たちを慈しみ給うためです。その根拠は次の聖句です:

「ただし、おまえの主が慈悲をかけ給うた御方は別である。そのために彼は彼らを創り給うた。」(フード章119節)

 

「私たちが罪を犯すことをアッラーが望み給うている」と思い込むこと。その思い込みはとても不可能なことです。彼は私たちのために善を、導きを望み給うています。私たちは私たちが成す行為に価値が付くよう、「選択できるという恩恵」を与えられた被造物です。人間は選ぶことを求められているのです。罪の基本は、この講義集の始めの頃に扱ったように、欲望が植え付けられ且つ道標が与えられている中で、道標に従わずに欲望のまま行動することです。丁度、ハンドルはありませんが強いモーター(ここでは欲望)の付いた乗り物に乗るようなものです。ハンドルは道標です。ハンドルなしで動く乗り物の行く末は危険な事故の他にありません。どんな人間も、アッラーによってその中に据え置かれた欲望において行動しますが、それは元来、中立です。それによって諸天と大地の主に近づくためです。欲望は私たちを高めるためのはしご、または私たちを落とす階段に相当します。以上が罪の基本です。「選択を求められること」は、天使にも、その他の物質にもありません。また、動物にも責任能力がありませんから、罪も悔悟もありません。人間とジンは他のすべての被造物と違って、成す行為に価値が付くよう、「選択できるという恩恵」を与えられたのです。そして諸天と大地の主に到達させるはしごになる「欲望」が植え付けられました。そこで道標に従わず、欲望のままに行動することで数々の罪に陥ってしまうのです。以上は、罪の哲学です。

 

一般の民衆の間には背信行為となる言葉(諺など)が幾つかあります。飲酒する人があなたに言います:限られた場所での決められた杯数。誰が言ったのでしょう?これは悪魔の言葉です。一般の民衆が言う言葉はすべてクルアーンに照らし合わせるべきです。相違がなければ良しとし、相違があれば蹴飛ばしてしまいましょう。正しい信仰が必須です。正しい信仰こそが善行の素です。偏向ある信仰は、偏向ある行為とともにあります。

 

つまり、私たちは自分たちの信仰を正し、浄化して、アッラーのことを知る必要があるということです。

 

《イブン・ウマル(ウマルの息子)よ、おまえの宗教を大切にしなさい。まことにそれは、おまえの肉であり、血である。真っ直ぐにある人たちから習い、傾いた人たちから習ってはいけない。》

 

http://nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7193&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895&w=%D9%85%D9%86%D9%87%D8%AC%20%D8%A7%D9%84%D8%AA%D8%A7%D8%A6%D8%A8%D9%8A%D9%86&aw=


悔い戻る者たちの道しるべ【10】-(1)

2016年02月11日 | 悔い戻る者たちの道しるべ

前回は誠実な悔悟についてお話しました。後戻りのない悔悟です。しかし、イスラームは現実的な上、(さまざまな状態にある)全ムスリムに達するのがイスラームですから、今回は違う話題に移ります。元来あるべき姿、また完璧なのは、「悔悟が誠実であること」、そして「後戻りが発生しないこと」ですが、ある若者が私たちに、「私はまた過ちを犯してしまいました。どうしたら良いですか?」と訴えてきたら、どうでしょうか。彼にアッラーの御慈悲など無いと失望させるのが叡智ある返事であると思いますか?それとも、至高偉大なるアッラーの御慈悲の数ある扉を彼の眼の前に開いてあげるのが良いと思いますか?これこそが、今日のテーマです。完璧なのは、前回お話したことです。つまり、「悔悟が誠実であること」、「後戻りしないこと」です。なぜなら、(悔悟によって)アッラーの御慈悲のドアの向こうに入ったからです。そして完璧なのは、「罪を犯したしもべがアッラーとともに新しい1ページを開くこと」です。もし、足を踏み外してしまったなら、それは人間の弱さだということです。そして再び罪を犯してしまったら、彼にはアッラー以外に誰がいるというのでしょう。悔悟の受け入れなど無いのだと失望した瞬間、人間は不道徳になります。まるで大きな迷路に迷い込んだかのようになるのですが、その中でのアッラーの御慈悲は彼にとって救助綱です。反逆者たちがそれをつかみます。安全弁や救助船のようでもあります。ですから、講義を聞いてくださっている兄弟姉妹の皆さん、もし、罪を再度犯してしまったら、悔悟も改めてください。あなたにはアッラー以外の御方はいないのですから。

 

「また、彼こそは彼のしもべたちの悔い戻りを受け入れ、悪事を免じ、」(協議章25節)

 

真正ハディースの中で、教友アブー・フライラ様(アッラーの御満悦あれ)は言いました:私は預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)が次のようにおっしゃるのを聞きました:

 

《とあるしもべが罪を成した、または罪を犯した(とおっしゃった)。そして言った:主よ、私は罪を犯しました。または罪を成しました(と言った。)ゆえ私をお赦しください。そして彼の主がおおせになった:罪を赦しそしてそれを罰する主がいることをわがしもべが知ったのか、ではわがしもべを赦そう。そして(しもべは)アッラーが御望みの時間を過ごしたのち、罪を成した、もしくは罪を犯した。そして言った:主よ、私はまた罪を犯しました。または罪を成しました(と言った。)ゆえ御赦しください。彼(アッラー)は仰せになった:罪を赦しそしてそれを罰する主がいることをわがしもべが知ったのか、ではわがしもべを赦そう。そして(しもべは)アッラーが御望みの時間を過ごしたのち、罪を成した、もしくは罪を犯した。そして言った:主よ、私はまた罪を犯しました。または罪を成しました(と言った。)ゆえ御赦しください。彼(アッラー)は仰せになった:罪を赦しそしてそれを罰する主がいることをわがしもべが知ったのか、ではわがしもべを赦そう。彼は好きに行動すれば良い。》(アル=ブハーリー)

 

まるで、正直者かつ信じられるお方である預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)はアッラーの御慈悲が広く、私たちが必ずそこに到達でき、そこへ逃避し、それによって己を守り、彼の御慈悲に傾倒することを強調してくださっているかのようです。他のハディースには、教友ウクバ・イブン・アーミル様(アッラーの御満悦あれ)による、ある男が預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)を訪れて次のように言ったと伝えています:

 

《アッラーの使徒様、私たちの誰かが罪を犯します。彼は:それは記される、とおっしゃいました。男は、そして罪の赦しを請い、悔悟します、と言うと、彼は:彼は赦され、悔悟が受け入れられるとおっしゃいました。男は、また罪を犯します、と言うと、彼は:それは記される、とおっしゃいました。男は、そして罪の赦しを請い、悔悟します、と言うと、彼は:彼は赦され、悔悟が受け入れられる。おまえたちが飽きるまでアッラーが飽き給うことはない、とおっしゃいました。》(アル=ハーキムとアッ=タバラーニー)

 

司会:信仰者に悔悟のドアは開かれていますね。信仰者の信仰の完璧さ、信仰の崇高さ、信仰の輝きとして、悔悟はアッラーの御赦しのもと受け入れられるものであり、悔悟が繰り返されても、罪が繰り返されてもアッラーは悔悟を受け入れてくださると強く確信することです。

 

先生:ですからアッラーは次のように仰せなのです:

 

「そしてアッラーはおまえたちの許に顧み戻ることを望み給うが、」

 

そしてこれはアッラーの御意志です。

「欲望に従う者たちは、おまえたちが大きく片寄り、偏向することを望む。」(女性章27節)

 

ハディース・クドゥスィーには次のようにあります:

《彼らが悔悟すればわれは彼らの愛しい存在になり、もし彼らが悔悟しなくとも、われは彼らの医者となろう。われは彼らを罪業や恥から清めるために彼らを災難で試す。善行一つはわれの許で10倍そしてさらに倍加し、悪行は一つは一つにし、赦そう。母親がその子に対してよりも、われはわがしもべに対し親愛深いのである。》


悔い戻る者たちの道しるべ【9】-(2)

2016年01月14日 | 悔い戻る者たちの道しるべ

とある学者が話したお話をこの話題に付け加えます:町中のとある家の扉が開きました。そこから少年が泣きながら出てきました。その後ろからは母親が追いかけてきていて、少年を追い出し、最後にドアを閉めました。母親は家の中に戻り、少年はそう遠くない場所へと歩いて行きました。少年は立ち止まって考えました。彼は、出てきた家以外に逃られる場所がないことと、お母さん以外に受け止めてくれる人がいないことを悟りました。少年は悲しい表情で家に戻りました。震えているドアを枕に、そして頬をドアの敷居に置いて、眠りに落ちました。しばらくすると母親が出てきました。少年がこのような状態でいるのを見つけて思わず駆け寄って、頬に口づけし、涙を流しました。「ぼうや、私から離れてどこへ行こうというの。私の他に誰がおまえをかまってくれるの。私に逆らってはいけないと言ったでしょう。おまえが私に逆らうことで、おまえを慈しんだり、心配したり、良いことをおまえに望んだりすることとは逆のことを私にさせないでおくれ。」そして少年を家の中に入れました。さあ、ここで「おまえが私に逆らうことで、おまえを慈しんだり、心配することとは逆のことを私にさせないでおくれ。」という言葉を熟考してみてください。また、教友イブン・ウマル様(アッラーの御満悦あれ)による預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)の次のお言葉も熟考してみてください:《私たちはとある戦でアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)と共にいました。その際、ある集団を通り過ぎて、おっしゃいました:アッラーはそのしもべに対して、母親がその息子を慈しむよりも慈悲深いのではないか…》(イブン・マージャ)

 

あまねくものに行き渡った至高偉大なるアッラーの御慈悲に比べて母親の慈悲はどの位置にあるのでしょうか。

この話題に関連することとして、アッラーに満足していただこうとする者は、誠実な悔悟へと急ぐことが挙げられます。すでに皆さんには、悔悟の特徴に、「知」と「状態」と「行為」があると述べました。ですから、知が深くあるほど、そしてしっかりしているほど、そして強くあるほど、後悔の念は激しく、後悔の念が激しいほど、悔悟は強固でその時間は長くなります。「誠実な悔悟」は非常に容易ですが、それを堅持することが重要です。人生のあらゆる局面でなにかにたどり着くのはとても容易なことですが、そこに留まっていられることが重要なのです。頂点に立つことは容易ですが、頂点に留まり続けることこそが重要なのです。勝つことは容易ですが、勝ち続けることこそが重要なのです。繰り返しますが、本当に容易な悔悟とは、初めに行う悔悟なのです。

 

司会:第二の悔悟というものがあるのでしょうか?

 

先生:罪を犯すと、悔悟を破ったかのような状態になります。その時、再び悔悟することに多々なる困難を見出すことになります。私は、この講義を続けて聴いてくださっている人たちに、誠実な悔悟を決心して行ったならば、それを行ったことが重要なのではなく、それを継続し続けることにあるのだ、ということを忠告したいと思います。

 

聖なるアッラーの館に巡礼を果たした人はどうでしょう。黒石に近づき、「主よ、私は常にあなたにお仕えすることを誓います」と言った後に、今までと同じ状態に戻った場合、まるで彼は誓いを破ってしまったことになります。アッラーは信仰するしもべたちを責め給うかのように仰せになります:

「またわれらは、彼らの大半に約定(の履行)を見出さず、また、彼らの大半がまさに邪な者であることを見出した。」(高壁章102節)

 

誠実な悔悟の基本は、継続と安定です。人間がアッラーと共にいれば、アッラーからの力を感じることができます。アッラーは次のように仰せではなかったでしょうか:

「あなたにこそわれらは仕え、あなたにこそ助けを求める。」(開端章5節)

 

預言者ユースフ様(アッラーの平安あれ)は言われました:

「もし、あなたが私から彼女らの策謀を遠ざけ給わなければ、私は彼女らに心が動き、無知な者(たちの一人)となるでしょう。」(ユースフ章33節)

 

信仰者が正しくアッラーを信仰し、誠実な悔悟を成したのであれば、悔悟した状態で居続けられるためのアッラーからの御援助を求めるべきです。なぜなら、悔悟したのに、悔悟を破った人は信仰者に数えられないからです。

 

司会:先生、人は、罪そのものから悔悟するのですか?それとも、至高偉大なるアッラーに対する不服従から悔悟するのですか?

 

先生:信仰の道を歩んでいるところでふととある罪に足を外してしまった場合はその罪自体から悔悟します。しかし元来からアッラーから遠ざかっている人は、アッラーが禁じ給うたすべてのものからの悔悟を要します。そういった人が悔悟を欲する場合、限定なしにすべての罪から悔悟し、アッラーの御命令に忠実になることが好ましいです。代わって、信仰の道を歩む人の場合で、とある事柄で足を踏み外してしまった時は、その罪だけから悔悟をします。

 

司会:悔悟の構成要素の一つに、他人の権利が絡んだものがある場合、それを実行するか、その人を放免することも述べておくべきですね。

 

先生:過去の講義で、悔悟の構成要素が「知」と「状態」と「行為」であることをお話しましたが、「行為」は3部に分けられます。まず:今後この罪を二度と犯さないという決心と、今現在、この罪から抜け出すこと、そして過去を修正することつまり諸権利をその持ち主に返還することです。

 


悔い戻る者たちの道しるべ【9】-(1)

2015年12月17日 | 悔い戻る者たちの道しるべ

司会:今日は、”心からの誠実な悔悟”についてお話しいただきます。”誠実な悔悟”とは何でしょうか?その構成要素は?その条件は?

 

先生:”誠実な悔悟”とは、その放棄がないことを言います。初期段階の悔悟ほど罪人に容易です。彼とアッラーの間にあった覆いが一秒のうちに剥ぎ取られ、アッラーが彼の心に”アッラーは赦してくださった”という感覚を投げ込み給い、アッラーもその事実を受け入れ給うたことで山のような重みから解放されるようなものです。人間はアッラーに悔悟の受け入れを懇願すると、アッラーはそれを受け入れ給うことで御応え下さります。人は言います:主よ、私はあなたに悔悟します。アッラーは仰せになります:しもべよ、われはそれを嘉納する。アッラーがある預言者たちに語り給うたという話が伝承されています:ダーウードよ、われが背く者たちを待っており、彼らが罪を放棄することを熱望していることを彼らが知れば、彼らの手足は私への愛のためにバラバラになり、私への熱情のために必ずや死ぬであろう。以上は 背く者たちに対するわれの望みであるが、では(アッラーを求めて)やってくる者たちではどうであろうか?

 

司会:しもべを必要とし給わないアッラーに讃えあれ!

 

先生:ある知識者がアッラーを求めて言いました:主よ。あなたの御慈悲が「私は至高なるおまえたちの主である」(フィルアウンの言った言葉)と言った者のものであるとしたら、「至高なる私の主を讃えます」と言った者へのあなた御慈悲はどのようなものなのでしょうか?あなたの御慈悲が「おまえたちに私以外の神がいるのを知らない」(フィルアウンの言葉)と言った者のものであるとしたら、「アッラーの他に神は無し」と言った者へのあなたの御慈悲はどのようなものなのでしょうか?

 

誠実な悔悟の熟した成果の一つは、アッラーが地球の隅々にいるものたちと天使に罪人の全ての間違いと罪を忘れさせ給うことです。その条件は、背いたしもべがアッラーに帰ることです。そこで諸天と地で呼びかけ人が、「皆の衆、誰々を祝いなさい。彼はアッラーと和解した」と呼びかけるのです。

 

私は本当に、誠実な悔悟は信仰者の披露宴と感じています。最大の喜びの日です。つまりアッラーと新しい一ページを捲るのです。過去は忘却とともに折り畳まれます。”おまえが諸天と地を埋めるほどの罪でわれの前に現れてもわれは気にすることなくおまえを赦そう”とアッラーは仰せなのです。

 

「言え、「己自身に仇して度を越したわがしもべたちよ、アッラーの御慈悲に絶望してはならない。まことに、アッラーは罪をそっくり赦し給う。」」(集団章53節)

 

あなたの罪がどんなに大きくても、アッラーの御慈悲はあなたの罪よりも大きいのです。至高偉大なるアッラーは次のようには仰せにならなかったのでしょうか:「だが、わが慈悲は全てを広く包む。」(高壁章156節)

 

誠実な悔悟とは、己の罪のせいで激しく苦しんだしもべによって結ばれるものです。彼は生きている間このような罪を二度と繰り返さないと決心するのです。この誠実な悔悟こそが悔悟する者の胸を押し付ける重みが取り除かれたことを感じさせるのです。

 

修辞力に富んだお言葉を話されていた預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、背中に食物と飲み物を乗せたラクダに乗った田舎者についておっしゃいました。疲れを感じた彼は休憩のために腰を下ろしました。目が醒めると、そこにラクダはおらず、彼は死を覚悟しました。彼はショックのあまり泣き出してしまうのですが、泣き疲れて眠ってしいました。目が醒めると今度はラクダが目の前にいるではありませんか。喜びのあまり、「主よ、私はあなたの主であなたは私のしもべです!」と間違って叫んでしまったほどでした。教友アナス様(アッラーの御満悦あれ)によると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:《ある男が荒野の中、食物と飲み物を乗せたラクダに乗っていたが、いなくなってしまい、失望してしまい、木の下の影で横になった。すでにラクダのことは諦めていたが、目の前にそのラクダが現れた。彼は鼻皮をつかんで、喜びのあまり、「アッラーよ、あなたは私のしもべで、私はあなたの主です:」と間違えてしまった。まことにアッラーはこの男よりもしもべの悔悟を喜び給うのだ。》(ムスリム)

 

誠実な悔悟は、深いところにある悔悟です。まず、激しい後悔で始まり、次には表現できない幸福が続きます。学者たちが誠実な悔悟について言った中でも特に素晴らしいのがイブン・アル=カイイム(アッラーの御慈悲あれ)のものです:”あなたがとても気に入っている人物が敵にさらわれてしまい、あなたと彼の間に隔たりができてしまいました。あなたは敵が彼を酷い方法で痛めつけたり、さまざな方法で苦しめることを知っています。あなたが彼にとって彼らよりもふさわしいのに、です。この人物はあなたが植え、育てました。ふと彼は敵の手から逃れて、約束の時間を設けることもなくあなたの目の前に現れました。彼はドアの前であなたを褒め称え、歓喜し、助けを求め、あなたについてこようとしています。このような人物に対するあなたの喜びは一体どれほどの大きさであるでしょうか。あなたは彼を自分にとって特別な人物とし、あなたの近くにいることに満足し、誰でもない彼を優先したのです。しかしあなたが彼を存在させたのでもなく、創造したのでも、あなたの恩恵を豊かに与えたのでもありません。至高偉大なるアッラーこそがしもべを存在させ、創造し、形作り、彼の恩恵を豊かに彼に与え給うたのです。その上彼はそれをしもべに完遂することを御好みなのです。そうすることでしもべは彼の恩恵を表わすことになります。しもべはアッラーからそれを享受し、彼に感謝し、恩恵の主の愛される存在となり、彼に従順で崇める人となり、そして彼の敵に立ち向かい、彼のために怒り、敵に背きます。”

 

以上の素晴らしい言葉は、信仰者がアッラーに悔悟する際に知っておくべきアッラーの本質を語っています。

 

教友アブーフライラ様(アッラーの御満悦あれ)によるとアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:

《まことにアッラーは、おまえたちの誰かが乗り物を失くしたのちにあらためてそれを見つけるよりも、おまえたちの誰かの悔悟を喜び給う。》(アッ=ティルミズィー)

 

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悔い戻る者たちの道しるべ【8】-(3)

2015年11月26日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
先生:大切なポイントがあります。姦淫のために石打ちの刑に処せられる女性とはどういう人をいうと思いますか?

司会:「私は姦淫しました」と自発的に言う人でしょうか。

先生:皆さんは、未婚の姦淫者が受ける罰が100回の鞭打ちであることをご存知かと思います。しかし既婚の姦淫者の罰は、死に至らしめる石打ちの刑です。「姦淫者に刑が執行されるのはいつだろう?」と思う人がいるかもしれません。姦淫の現場を目撃した男の4人の証人がいる姦淫者は、人々の前で、ドアを閉じず姦淫しました。ドアを閉じていれば罰を免れていたのです。つまり石打ちの刑は既婚の姦淫者のものではなく、「既婚の破廉恥な姦淫者」、「人の見えるところで姦淫する者」のための罰なのです。

司会:しかし預言者伝には、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)を訪れて、「私は姦淫しました」と言った人がいます。

先生:これは、私が話したことと矛盾しません。人間は己の罪の告白をしなければならないという宗教的義務を負いません。しかし、かの先人たちが持っていた深い篤信が彼らに罪の自白をさせたのです。普通の信徒は罪を犯したら導師に伝える義務を負っているのか、というと、答えは「いいえ」です。罪を犯したら、アッラーが覆って下ったことを受け止めれば良いのです。しかし例外が幾つかあります。私は常に法規定と例外を区別します。己の罪を自白し、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)に死に至らしめる石打ちの刑の執行を願い出たというのは、例外なのです。

司会:それは、罪の暴露と捉えられませんか?

先生:いいえ。また違うものです。信徒は取り調べ抜きに罪を自白する義務はありません。なぜなら至高偉大なるアッラーの覆いを受け入れたからです。これはしもべたちのための慈悲です。アッラーが覆ってくださったのだと感じることは、アッラーが彼にチャンスを与え給うたということなのです。

このような話が伝承されています:盗みの現行犯らしき男がウマル様のところに来て次のように言いました:「アッラーに誓って、これは初めてなのです」ウマル様:「嘘をついたな。まことにアッラーは初め(の罪)を暴露し給わない。もしかしたら8回目ではないのか。」…アッラーの人間に対する御慈悲として、アッラーは人間にチャンスを与え給います。ですから、信仰者は罪から悔悟するとアッラーが覆ってくださったと感じるのです。

とある男がウマル様に会った時の話です。彼の姉妹が姦淫を犯してしまったため、鞭打ちの刑が執行されました。そして求婚者が現れたので、兄弟である男がウマル様に助言を求めて現れたということです:「信徒の長様、彼(求婚者)に彼女の過去を話すべきでしょうか?」ウマル様:「アッラーに誓って、もし彼に話したら、お前を殺してやろう!」…以上にように、アッラーは覆うことを好み給います。私にはアッラーが覆ってくださった自分の罪をさらけ出す義務はないのです。

アッ=スィッディーク様(アブーバクル様)がミルクをを飲んで、それが合法でないお金からのものだと知ると吐き出しました。さて、吐き出すという行為は法で定められたことなのでしょうか?いいえ。個人的判断です。

ウマル様が公然にヒジュラし、多神教徒たちを挑発しましたが、これは法で定められたことでしょうか。いいえ。法規定は、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)が内密にヒジュラした際に行ったことです。もし預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)がウマル様のようにヒジュラし、多神教徒たちを挑発していたら、危険への突入を義務化し、警戒することを禁止したはずです。そして彼の共同体は滅亡することになっていたでしょう。

預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は法施行者です。私はいつも法規定と個人の判断を区別します。時に個人の判断が非常に洗練されていることがありますが、それは決して法規定ではありません。

司会:姦淫し、己に極刑を望んだ女性と彼女の悔悟について預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:(彼女の悔悟は)マディーナの住人の悔悟に相当する。

先生:それは正しいですし、個人の見解と言えます。

私たちは、ムスリム全般を対象に話しています。間違いを犯しても、法的機関に報告する必要は誰にもありません。しかし法的機関に案件が寄せられた時は違います。極刑に値する行為が報告された場合、アッラーが定め給うた刑を執行する義務が生まれます。ただ、信徒はアッラーが覆ってくださっている以上、己の罪を法的機関に報告する必要はありません。

話は変わりますが、人は「赦し」というものを知りません!誰かが公衆の面前で罪を犯した後に悔悟しても、その人の評判は審判の日まで汚れたままです。そしてその罪の面影も審判の日まで残り続けます。勇敢さとは、弱っていた時に犯してしまった罪を覆い隠すことです。アッラーに悔悟した際には、アッラーは悔悟を受け入れてくださいます。そして私の評判は無傷のまま残ります。しかし前述した例である預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)時代の刑の執行を要求した女性に関しては、彼(アッラーの祝福と平安あれ)は彼女の悔悟を大きく評価しましたが、結果的に彼女がとった立場にすぎません。すでに私は個人の立場と法の立場の違いを解明しました。

ある時、二人の教友が「嘘つきのムサイラマ」の捕虜になってしまいました。ムサイラマは自分が預言者であると主張した人物です。彼は捕虜の一人に言いました:私がアッラーの使徒であるとを証言するか?言われた教友が答えます:私は何も聞かなかった。彼の頭は切られてしまいました。もう一人に言いました:私がアッラーの使徒であると証言するか?もう一人の教友は、彼がアッラーの使徒であることを証言しました。この二つの立場について預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は何とおっしゃったのでしょうか?彼はおっしゃいました:第一の者は、アッラーの教えを大切にしたため、アッラーは彼を大切にし給うだろう。第二の者について、皆さんどう思いますか?彼はおっしゃいました:第二の者は、アッラーからの許可を使ったのである。アッラーは彼に彼が負えないことを課し給いませんでした。それゆえ自分の宗教が原因で殺されることから自分の頭を助けることが与えられる最低限のレベルですが、真実のために己を犠牲にすることは最高のレベルなのです。最低限レベルはやむを得ないけれど、最高レベルは自発的なものです。イスラームという宗教の偉大さをごらんになりましたか?(アッラーは)あなたが負えないことを課し給わないのです。

教えは犠牲を捧げる人たち、中庸を守る人たち、優れた人たち、意志を持っている人たちを覆います。私は罪を強要され、殺されることを脅される時、ある方法もしくはその他の方法で死を免れることができます。それによってアッラーに咎められることはありません。教友アンマール様(アッラーの御満悦あれ)が不信を表す言葉を放った時、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:気にすることはない。彼らがまた戻って(同じことをして)きたら、同じことをしなさい。

アッラーは仰せになりました:
【ただし強制された者で、彼の心が信仰に落ち着いているならば別である。】(蜜蜂章106節)

これこそ、アッラーの教えです。アッラーの教えはすべての被造物を覆うのです。

またある時、私がこの出来事にコメントした際、次のように言いました。自分の信条のために命を犠牲した第一の者はとても大きな報奨を得、第二の者は報奨を得ましたが、身の安泰を望んだため、少ないです。彼らの行為に応じた位があるのです。

私たちはこの回で罪は罪であることと、罪を公にすることは別個の罪であること、アッラーはあなたの罪を隠し給い、その望み給うた叡智によってあなたに悔悟のチャンスを与え給うたことから、自分の罪を法的機関に報告する必要はないことを強調したいのです。そして私たちのイスラームには醜行の拡散という名のものも、罪の自白もないことも。罪とはそこから悔悟するためのものです。ですから人々の間に広めないのです。

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悔い戻る者たちの道しるべ【8】-(2)

2015年11月06日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
司会:マスジドや聖マスジド内で罪を犯す人はどうでしょうか。

先生:聖マスジドの中で罪を「ニーヤ(意志)する」だけで「罪」になります!アッラーはその寛大な御方なので「行為」にのみ報い給いますが、アッラーの館である聖マスジドだけは別なのです。

「そしてそこで不正による逸脱を望む者、われらは彼に痛苦の懲罰から(の一部を)味わわせるであろう。」(大巡礼章25節)

あるのはニーヤ(意志)だけです。
アッラーは次のようにも仰せです。

「信仰する者たちの間で醜行(姦通の噂)が広まることを好む者たち」(御光章19節)

この節で言われている人は醜行を行ったわけではありませんし、声に出したわけでも、噂をしたわけでもありません。しかし信仰する者たちの間で醜行が広まるのを心底から望んでいます。そのような人は、「この人はムスリムじゃない」と言いますが、彼は信仰する者たちのとは別の塹壕にいます。さて、地球上に自分の娘のスキャンダルを望む母親がいるでしょうか?もしそのような母親が見つかったとしたら、きっとその人は娘の母親ではないでしょう。娘のスキャンダルを望む母親は、けっしてその娘の母親ではありません。同様に、信仰する者たちの間に醜行が広まるのを望む信仰者は、はっきりと信仰者ではないと言えます。信仰する者は信仰する者たちの社会や名声のために心配し、彼らの間に醜行が広まるのを嫌います。また、スキャンダルを好む愚かな集団もいます。なにかスキャンダルの知らせを掴むとそれを何としてでも広めようとします。代わって信仰する者は「覆う者」です。そのように預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)から伝わっています。教友サフワーン・イブン・ムフリズ・アル=マーズィニー様(アッラーの御満悦あれ)によると彼は言いました:私がイブン・ウマル(アッラーの御満悦あれ)の手を取って歩いていると、ある男が現れて言いました:貴方は、アッラーの使徒様(アッラーの祝福と平安あれ)がナジュワー(アッラーに対する独り言的訴え)についてどうおっしゃるのを聞きましたか?彼(イブン・ウマル)が答えて言いました:私はアッラーの使徒様(アッラーの祝福と平安あれ)が次のようにおっしゃるのを聞きました:《まことにアッラーは、信仰する者をお近づけになり、その上に彼の庇護をかけ給い、そして彼を覆い隠し給い、仰せになる:おまえはこの罪を知っているか?おまえはこの罪を知っているか?と。彼(信仰する者)が、はい、主よ、と答えて認めさせる。そのため彼は己の破滅を知るのだが、アッラーは仰せになる:それら(の罪)をわれらは現世で覆い隠した。そして今日、おまえのためにそれらを赦そう。そして善行の書が与えられる。不信仰者と偽信仰者について言えば、証人たちが次のように言う:【その証人たちは,「これらの者は,主に関して偽った者です」と言うであろう。見なさい。アッラーの怒りが不義者に下る。】(11章18節)》(アル=ブハーリー)

しもべを悔悟に近づけ、アッラーの御慈悲に近づけるのは、罪を犯してもそれを人々に晒さないことです。ですから皆さんが罪という災難に見舞われたらそれを覆い隠してください。

若者たちに言っておきたいことがあります。「昨日、◯◯をしてしまったよ」と悪の蔓延を望んでいるわけでもないのに話のネタに友人にこんなことを言うかもしれません。この行動の法規定は何でしょうか?これには大きな疑いがあります。なぜなら若者同士が集まると、友の間違い・罪の話に耳を傾けて、まるでそれらが自然で普通でありふれたこととみなしてしまうからです。しかし、具体的にせずに知識人に質問をする場合、社会の安全が保障されます。

司会:覆い隠すことも質問することも必須ですね。

先生:質問し、覆い隠してください。罪をさらすことは別箇の罪であり、アッラーに対する大胆な行為です。