イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

悔い戻る者たちの道しるべ【6】-(3)

2015年07月30日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
心の学者たちは、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)の罪とは、”彼が段階を追ってアッラーのことを知る度に、そのレベルに到達する前の自分のことを恥じること”、と示しています。預言者(アッラーの祝福と平安あれ)は、アッラーのことを、回数を重ねる毎に知っていくのです。例えば、あなたがある人のことを、とある程度の人であると思い込んでいたけれど、実際にはそれ以上であることを知って、彼に相応しくない思い込みをしてしまったことを罪に思う、というような感じです。ですから、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)の罪とは、”彼の魂がアッラーを知りたいと渇望する度に、そして実際にアッラーの完璧さを目の当たりにして、さらに上のレベルに上り詰めたときに、広範囲で包括的な目線で過去を見て、己がかつてあったレベルのことをアッラーに対して恥ずかしく思うこと”、ということでしょう。これが、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)が己の罪から70回~100回の赦しを請うておられたことの解説なのでしょう。


司会:これは、一般の人たちが思っていることに近いかもしれません。無謬の聖なるアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)でさえも罪の赦し乞いをしているのに、私たちはどうでしょうか。私たちは、罪の赦し乞いと悔悟を多くし、一時間毎に悔悟しなくてはいけません。


先生:もう少しわかりやすくしましょう。篩の目に穴が空いているとします。穴の直径が1センチだとすると、スイカはこの穴を通りませんし、ヤシの実も通りません。しかしレンズ豆なら通ります。つまり、人間ひとりひとりに、正しさのレベルがあるということです。絶対に犯さない罪があれば、軽視する罪もあります。預言者たちは完全に罪を犯すことから守られていて、彼らの篩は平らな屋根のよう(に穴がない)です。しかし私たちは、ひとりひとり、それぞれの信仰心に合った正しさのレベルがあるのです。つまり人の持つ正しさのレベルは、ある特定の罪を通過させませんが、それよりも小さな罪は通過させます。そこで私たちは信仰する者として、すでに犯してしまった、または、通過させてしまった罪の赦し乞いをしなければなりません。この篩の目が小さくなるごとに、信仰者は向上します。信仰心は、まるでとても大きな輪のようです。その中に入る人は誰でも信仰者です。しかしこの大きな輪の中には違う輪があって、それに入る人はまっすぐな人です。この二つ目の輪にある中心は、預言者たちです。その中に入れば、無謬です。預言者たちは無謬で、アッラーに近い者たちは保護されている者たちです。無謬と保護の違いは何でしょうか?預言者はアッラーによって無謬とされており、また彼に代わって伝達するので間違えません。わた、私たちは預言者から教えを得ることをアッラーに命じられてもいるからです。ではアッラーに近しい者たちが守護されているとはどういうことでしょうか?”己の罪の害を被らない”ということです。つまり、すぐに罪から悔悟し、アッラーに赦しを乞うているということです。一般的には、大きな罪ではなく、意図や計画なしに犯してしまった小さな罪において言われます。そのため、”預言者は無謬であり、アッラーに近しい者たちは保護されている”と言われるのです。また、罪だと分かっていながら罪を犯す者は、アッラーの許では放り投げられた者です。


司会:では、もう一度質問させてください。過去に犯してしまった罪はどのように改めれば良いのでしょうか。後悔、罪の赦し乞い、二度と繰り返さないという決意を含んだ悔悟、ですね。


先生:罪が、人間やその他の被造物の権利に関係している場合、修正しなければなりません。返さなければならない借金、不正かつ敵意を持ってある言葉を言ってしまったなら、その言葉から悔悟しなければなりません。そのため、過去の罪は修正されなければなりません。8節を超えると思われる、クルアーンの中にあるアッラーのお言葉は、私たちたちの関心を引き寄せます:
「それから、まことにお前の主は、無知ゆえに悪をなし、それから後で悔いて戻り、(行状を)改めた者たちに対し、まことにおまえの主はその後には、よく赦し給う慈悲深い御方。」(蜜蜂章119節)


彼は、いつ赦し給うのでしょうか?あなたが信仰し、悔悟し、改める時です。「私はアッラーに悔悟した」だからアッラーはあなたを赦し給う、というのは違います。まず初めに信仰し、第二に悔悟し、第三に罪を修正しなければいけません。


私が罪から抜け出した時、兄弟から不当に奪った権利を返す時、兄弟の不在時に彼の悪口を言ってしまったことの赦しを彼から得る時、私が信仰し、罪から抜け出し、改める時、私は、信仰と悔悟と改めの後、アッラーが私の罪を赦してくださることを望みます。これは苦い現実です。居心地の良い幻想よりも苦い現実の方が良いと思うので、私はいつも真実を話すのです。


司会:では、過去の罪の修正は、おっしゃった条件と姿の上に成り立つということですね。己が陥っている罪からの脱却、それに二度と戻らないという決心、これが前述なさった悔悟の真の姿ですね。知と状態と行為。

http://blog.goo.ne.jp/qurtaf/c/5eb92c3cac400d0acef39a4ddc08b378
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シャウワール月6日間のサウムの徳

2015年07月25日 | その他
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/fd/3a84dfa3e6e044cfdc7109216b8932a4.jpg
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イード・ムバーラク☆ラマダーン月が明けました☆

2015年07月18日 | その他
同胞の兄弟姉妹のみなさんへ
アッサラームアライクム!
イードおめでとうございます!
今年のラマダーンはいかがでしたか?頑張れましたか?
先輩からいただいたありがたいメッセージを今年も皆さんにも。:
イードに、自分が持っている中で最も良い服を着る(女性は他の男性に見せてはいけませんが)のはスンナです。ですが、イードは、新しい服を着た人の為のものというわけではなく、アッラーのご命令に従うことが増える人の為のものだ、と言われます。また、アッラーのご命令に逆らうことがなかった日は、すべてイードだとも言われます。自分がなぜイードを喜んだのか、考えてみましょう。
 
もう断食をしなくても済むからでしょうか?それとも、至高なるアッラーのためにたくさんの崇拝行為ができたからでしょうか?それとも、至高なるアッラーに、無事に、崇拝行為を完遂させていただいた感謝からでしょうか?それとも、イードを迎えるまで、生かせて頂いたからでしょうか?それとも、至高なるアッラーが、ラマダーン中に、地獄の日から救ってくださる大勢の人の中に,入れていただいたと思えるからでしょうか?
 
至高なるアッラーに、ラマダーン中の、自分の崇拝行為が受け入れられた証拠は、ラマダーンの前と後で、自分がよい方に変わることだと言われます。今からの自分を観察してみましょう。ラマダーン中に始めたことを一つでも継続してみましょう。シャウワールのスンナの断食も忘れずに!
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イード=ル=フィトルのスンナ行為・奨励行為

2015年07月16日 | ラマダーン特集
イード=ル=フィトルのスンナ行為・奨励行為
イード前夜に、ズィクル、礼拝、クルアーン読誦、イスティグファール(罪の赦し乞い)などをして過ごすこと。夜の最終1/3部で行うことで達成されるますが、より良いのは、夜通しで上記の行いをすることです。根拠は、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)の次の言葉:
  《フィトルとアドハーの前夜に報奨を願って過ごす者は、心が死ぬ日にその心が死なない。》
  イシャーとファジュルの礼拝を合同で行うことでも達成されます。
  また、イード前夜のドゥアー(祈願)にアッラーは応じ給うとされ、金曜前夜やラジャブ月第1日とシャアバーン15日前夜同様に、奨励されます。

グスルをする、香水を付ける、スィワークをする、男性は最も良い服を着る。これは、金曜に行うことからの類推であり、アッラーの恩恵とそれに対する感謝のあらわれです。
  また、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、イード当日に香水をつけられました。ただし、女性は香水をつけません。
  また、金曜日のように、清潔であることを心がけ、爪を切り、悪臭を取り除きましょう。

早朝、イード礼拝に行く間と、礼拝が始まる前までタクビールを唱えます。
  タクビールのフレーズ→ http://bit.ly/1Marqg8

支障がなければ、ファジュル礼拝後、徒歩で、早めに、静かに落ち着きを持って、イード礼拝場に向かいましょう。根拠:アリー(アッラーの御満悦あれ)の言葉:《イード(礼拝)へ歩いて行くのはスンナである。》 預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、イードにも葬儀にも何かに乗って行かれたことはなかったからです。

イード礼拝に出かける前に、食事をとること。食べ物は、奇数のナツメヤシであること。アナス(アッラーの御満悦あれ)によると、《アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は、フィトルの日、ナツメヤシをお食べになるまでは、お出かけになりませんでした。》

人々がイード礼拝に出かける前に、ザカートゥ=ル=フィトルを払うこと。イブン・アバース(アッラーの御満悦あれ)は言いました:アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は、無意味な言動や卑猥な行いからの斎戒者の清めとして、また貧者の食物として、ザカートゥ=ル=フィトルを定められた。(合同)礼拝の前にそれを遂行した者は、それは受け入れられるザカートとなり、礼拝後に遂行した者は、それはサダカの中のサダカとなる。》

家族を豊かに養うこと、できる範囲内で普段以上にサダカすること。

会う人々に喜びに満ちた顔で接すること。親族、友人を訪問すること。

http://shamela.ws/browse.php/book-384/page-1376#page-1370
から抜粋
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預言者伝【番外編7】

2015年07月02日 | 預言者伝関連
アリー・イブン・アビーターリブ(アッラーの御満悦あれ)は次のようにも言いました:

《彼(アッラーの祝福と平安あれ)は、喜びを常とし、性格は容易で、感情は繊細で、下品でなく、粗野でなく、うるさくなく、多く非難することはなく、吝嗇ではありませんでした。ご自身が欲しないことには無関心で、(人に何かを与えることから)失望されることはなく、それについて応じることもありませんでした。彼は、次の3つからご自身を放棄されていました:議論、高慢、己に関係のないこと。また次の3つから人々を放棄されていました:誰も非難せず、咎めず、人の弱点を探さず、人の報奨を願うときにのみ話されました。彼が話されると、同席の者たちは、頭を下げていましたが、まるで彼らの頭上に鳥がいるかのようでした。彼が沈黙すると、彼らは話しました。彼らは、彼の前で言い争うことはなく、彼の前で話す者が話し終えるまで、彼らは聞き入りました。彼の前での彼らの会話は、彼らの最初(で最善)の者の話でした。彼は、彼らが笑うことで笑われ、彼らが驚くことで彼も驚かれました。また、来訪者の話し方や質問の粗暴さに耐えられたのですが、教友たちは来訪者をわざわざ連れてくるのでした。そして彼は言われました:おまえたち、用事を求める者を見たら、援助しなさい。また彼は、身丈にあった、適切な褒め言葉だけを受け取りました。また、話している者が度を越さない限り、その話を遮ることはありませんでした。その時は、禁止の言葉をかけるか、立ち去りました。》



《人々の中で最も胸が広く、正直で、人付き合いが丁寧で、付き合えば寛大なお方です。彼を見る者は、自然と彼を敬い、彼と交わって、彼を知ると、彼を愛するようになります。彼を描写する者は、次のように言いました:彼以前にも、彼以後にも、彼のような人を見たことがない(アッラーの祝福と平安あれ)。》


アッラーは、彼(アッラーの祝福と平安あれ)に、美の衣を御着せになり、愛情と畏怖を投げかけ給いました。ヒンド・イブン・アビーハーラは彼を描写して言いました:

《彼は、偉大で、偉大な者として接せられ、その輝くお顔は、満月の夜の月の輝きのようでした。》



また、アル=バラーゥ・イブン・アーズィブ(アッラーの御満悦あれ)も彼を描写して言いました:《アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は、中位の背丈でした。私は、彼が赤色の上着を羽織っておられるのを見ましたが、彼よりも美しいものを見たことがありません。》アブーフライラ(アッラーの御満悦あれ)も描写して、次のように言いました:《彼は、中くらいだけれども、それよりも少し高い背丈で、肌はとても白く、髭は黒く、口元は美しく、まつ毛は長く、肩幅の広いお方でした。彼のような人を、前にも後にも見たことはありません。》アナス(アッラーの御満悦あれ)も言いました:《アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の手の平よりも柔らかいディーバージュ(絹織物の一種)や絹に触れたことはありません。また、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の香りより芳しい香りを嗅いだこともありません。》

(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P422〜424)



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