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イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

美しいクルアーン読誦…

2010年06月30日 | 心に響くアーヤ
涙もの!この女の子はマウフーバです。アッラーの御言葉を聞く者の心に沁み込ませる読み方を与えられたのでしょう。マーシャーアッラー。アッラーが彼女を守り給い、彼女を指導した親御さんに祝福を賜いますように。

Amazing Quran Recitation By a Little Girl (Convert)


識別(25)章61節~77節

天に諸星座を配置し,その間に太陽と照らす月を置かれた御方に,祝福あれ。 (61)

かれこそは,反省し,感謝しようとする者のために夜と昼を設け,交替させた方である。 (62)

慈悲深き御方のしもべたちは,謙虚に地上を歩く者,また無知の徒(多神教徒)が話しかけても,「平安あれ。」と(挨拶して)言う者である。 (63)

また主の御前にサジダ(または)起立して,夜を過す者。 (64)

また,「主よ,地獄の懲罰をわたしたちから追払って下さい。本当にあの懲罰は,苦しみの極みです。 (65)

本当にそれは悪い住まいであり,悪い休み所です。」と言う者である。 (66)

また(財貨を)使う際に浪費しない者,また吝嗇でもなく,よくその中間を保つ者。 (67)

アッラーとならべて,外のどんな神にも祈らない者,正当な理由がない限り,アッラーが禁じられた殺生を犯すことなく,また姦婬しない者で
ある。だが凡そそんなことをする者は,懲罰される。 (68)

復活の日には懲罰は(罪に応じ)倍加され,その(地獄で)屈辱の中に永遠に住むであろう。 (69)

悔悟して信仰し,善行に励む者は別である。アッラーはこれらの者の,いろいろな非行を変えて善行にされる。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。 (70)

悔悟して善行に勤しむ者は,本気でアッラーに悔いている者である。 (71)

嘘の証言をしない者,また無駄話をしている側を通る時も自重して通り過ぎる者。 (72)

また話題が主の印に及べば聾(唖)者か盲人であるかのように,戯らに知らないふりをしない者。 (73)

そして,「主よ,心の慰めとなる妻と子孫をわたしたちに与え,主を畏れる者の模範にして下さい。」と(祈って)言う者。 (74)

これらの者は,その耐え忍んだことにより高い階位の住まいをもって(楽園の中に)報われよう。またそこで歓迎と挨拶の言葉をもって迎えられよう。 (75)

そこに永遠に住むのである。何とよい住まい,何とよい休み所であることよ。 (76)

(不信者に)言ってやるがいい。「あなたがたがわたしの主に祈らないなら,かれはあなたがたを,構って下さらないであろう。あなたがたは
本当に(主を)嘘つき呼ばわりしたが,やがて免れられない(懲罰が)下るであろう。」 (77)
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外面と心の清らかさについてのメモ。

2010年06月29日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
外面と心の清らかさについてのメモ。

言うのを禁じられている事柄は、それを聞くことも同様に禁じられている。
悪口は、兄弟の死肉を食べるのと同じ行為であり、悪口を言わずとも聞くことは、
その悪口に参加していることになる。それが原因で心に闇が入り込む。
あなたの心はアッラーのもとでとても大切な存在であり、
アッラーはあなたの心がごみ箱になることを嫌い給う。
つまり、人間の汚い言葉であなたの心が埋まってしまうことである。
だからこそ、あなたの耳を汚い言葉から守ること。

汚い言葉とは、غيبةギーバ(悪口)やنميمةナミーマ(噂)。
ナミーマは、問題を発生させるために言葉を伝言すること。
「あの人があなたのことを~~と言っていたよ」
こう言う人は、あなたとかの人の間に問題を作ろうとしている。
この類の話は受け取らず、また他人に伝えてはいけない。
ナミーマから耳を守るのは、心に闇が入り込まないようにするためだが、
なぜならナミーマはは心に憎悪を齎し、心を汚すから。
つまり人を誤解してしまうということ。

聞かずそして言わぬこと。
話すこと以外に心に闇を齎す、「口」が関連していることに、「食べ物」がある。
アッラーを求める者よ、ハラームを口にすることに満足してはいけない。
食べ物は口に直接影響する。
ハラールを口にする者は、四肢が嫌がりながらもその者に従い、
ハラームを口にする者は、四肢が嫌がりながらもその者に逆らう。

あちこちから法見解を探して利子を手に入れようとしたり、
賄賂を受け取ったり(アッラーは賄賂を払う人と受け取る人を呪い給う)、
盗まれたお金を使ったり、
あなたに本来相応しくないお金を受け取ったり(他人がその地位ゆえに受け取るべきであった金品をあらゆる形で横取りすること)。
こういったお金は心を暗くする。

アッラーを目指す者は、口に対しても畏れの気持ちを忘れない。
それが合法かどうか、徹底的に調べる。
アッラーをまじめに目指していたかつての時代は、食べ物、衣服、住居の合法性の探求にこだわっていた。

欲望やحب التوسع(拡大に対する憧れ)の原因:欲望や自我に心が追従するようにあなたが仕向けたため。

あなたの中にある弱さの原因が分かれば、それに対峙しなければならない。そしてこのمنفذ入口を閉じること。

自分自身、妻、子供たちの口にハラールでないモノが入ることに満足してはいけない。ここで次の言葉が重要である:
「自分の心にたずねてみなさい。周りが法的判断を示しても。」
ハラールと裁定されても、最終的に心にたずねてみるべき。
その時にあなたがどう感じるか。

あなたの心を守るために、あなたはこのمنفذ入口を制限する必要がある。つまり、食べ物が入ってくる入口である。
このことに関する…ハラール希求をすすめる多くのハディースが伝わっている。

しもべがハラールを求めて出かけると、額から流れる汗に対しても報奨を彼はいただけるとか、
ハラール希求者は、アッラーの道において戦う者と同位であるとか、
ハラームを避けてハラールを求める者は、صديقون誠実な者たちの位に上り詰めるとか、
疑いのある1ディルハムを避けることは、10万ディルハムをアッラーの道のために費やすよりもアッラーに好まれるとか。
なぜか?

「感覚に影響を与えるモノ」からمنفذ入口を昼夜閉めても、他の閉めるべき入口が残っている。
それは、私たちが特に注意を払うべきものだ。
それは感覚的なもので、物質的入口ではない。
アッラーを志す学問の学者たちはそれを、الخواطرハワーティル(頭に浮かんだ考え等)と呼んだ。
つまり、心に浮かぶものである。

アッラーが好み給うすべてのطاعة服従行為は、خاطرハーティル(ハワーティルの単数)で始まる。
逆にアッラーが嫌い給うすべての罪もハーティル一つがきっかけ。
人間がこの思いつきに応じてそれらは起きる。

このハーティルは内面で起き、それには4つの源がある:
1.النفسナフス(自我):هواءハワーゥと呼ばれる。暑い中の斎戒中、冷たい水を見たときにそれを飲みたくなる気持ち(=ハーティル)はナフスから生まれる。
2.الشيطانシャイターン(悪魔):悪魔は人間の心にيوسوس囁きかけるゆえ、ワスワースと呼ばれる。
3.الملكマラク(天使):《天使は信者の心に向かい、善を勧め、それを約束し、それを美し見せる。そして悪魔が来ると彼は悪を勧め、それを約束し、それを美しく見せる。》もし信者が悪魔に従えば、罪を犯すことになる。これが結果なのである。天使のハーティルに従えば、服従行為に向かったことになる。天使からのハーティルを学者たちはاللمةランマと呼ぶ。
4.アッラーからのハーティル:アッラーをそれを心に投げ込み給う。الإلهامイルハーム(インスピレーション)と呼ばれる。

以上4つの源は心に注ぎこまれる。心にある入口にこの4つはハワーティルを流し込む。
求道者の心にも、一般の人間の心にも、多くのハーティルが生まれる。

7000のハーティルが一日の間に生まれていると言われる。
そしてそれらは上の4つに分けられる。
この多くのハワーティルは、善か悪に分かれる。
求道者としてあなたに求められているのは、善いハーティルを選ぶこと。
そしてそのハーティルが言うことによく耳を傾けること。
そうすることはالإدراكイドラーク認識に役立つ。
善のハーティルは、心のイドラークを広げると同時に心に善を望んでくれる。
悪を含んだハーティルは、それをあなたが制止し、変化させ、操縦し、それからあなたの心守らないと、悪の欲が動いてしまう。
善のハーティルは、善のالإرادةイラーダ(意志)に働きかけ、悪のハーティルは、悪のイラーダに辿りつかせる。
どちらにしてもあなたはこの2つのハーティルの間を往来する。

二者をどのように区別するか?

現代を生きる人間は忙しすぎる。
しかしあなたは求道者である。来世を求めているのだ。
来世とアッラーを求める者でいる限り、そのことで他の人たちとは違うのだ。
ここで今決意しなさい。
あなたは、人間がモノになってしまう世界に生きないことを。
あなたはアッラーのしもべになることを望んでいるのだ。
そうでなければ、あなたはこの世界の自然のしもべになってしまう。
他の人たちよりもよりよく生きなさい。

あなたは、人生に目的を持って生きる。
現代の若者は走り続けており、歌を聴き続け、予定をこなしてばかりいるが、
さていつ考えるのか?
人生の次のステップについて座って考えるのはいつなのか?
ここで問題にしているのは、人間が「生活の水車」に飲み込まれる危険性である。

自分をアッラーに近づけたり、精神を和らげてくれる美しい声や言葉を聞くのは問題でないことははっきりしているわけだが、
それが人生の中心事項になってしまわないように気をつけなければならない。
立ち止まって、「自分には任務があるのだ」と考える必要がある。
アッラーを求めるなら、自分が忙しさの水車に飲まれることに満足しないし、
任務を最良の形で遂行し、学生であれば優等生を目指す。
そこには「アッラーに近づくのだ」という目的がある。
自分が成功した貿易商であれば、それはアッラーに近づきたいという目的があるから。

ここで注意が必要。
私たちは浮かぶハーティルについて熟考せずに過ごさぬことが大切である。
あなたが自分の心を善悪両方のハーティルの集合場所にしてしまったら、
あなたの行動はしんのないものになってしまう。

続く。
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106章解説

2010年06月24日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
106章解説
1.クライシュ族の準備のため、
2.冬と夏のかれらの隊商の準備のため、(そのアッラーの御恵みのために)
3.彼らに、この聖殿の主に仕えさせよ。
4.飢えに際しては、彼らに食物を与え、また恐れに際しては、それを除き心を安らかにして下さる御方に。

 (象章のテーマである)アブラハとその軍隊による聖殿破壊は、アラブ人たちにとってのカアバをさらに神聖なものとし、カアバと巡礼客達に奉仕するクライシュ族の者たちの地位向上に影響を与えました。アッラーの聖なる館の民である彼らは、そこに住み着くことで尊厳と保護を与えられました。そのことは地上における安全な大地の行き来にも繋がりました。当時、アラブの間では強奪や略奪が頻繁に起こっていたものの、クライシュ族の誰もそういった害に遭うことはありませんでした。またこの安全はキャラバンを使った二つの貿易の旅に彼らを駆り立てました。一つは冬にイエメンへ。もう一つは夏にシャームへ。この貿易により、クライシュ族は豊かな富に恵まれることになりますが、注意すべき点は、彼らの土地は農耕に向いているわけではなく、また彼らは何か特別な手工業を担っていたわけでもなかったことです。安全に基づいた貿易がクライシュ族の基本的な糧の収入方法だったのです。

 至高なるアッラーは、クライシュ族に安全と糧の恩恵を施し給いましたが、アッラーを崇めることを拒否し自惚れる彼らの状態には驚かされます。本来なら、彼らはアッラーを崇め、頂戴した恩恵に感謝すべきであり、またかれに何者も配するべきではありません。

 アッラーはこの章を次の御言葉で始め給います:
 「クライシュ族の準備(إيلافイーラーフ)のため、冬と夏のかれらの隊商の準備のため、」

 つまり:アッラーの館が崩壊から救われ、アブラハとその軍隊が追い出されたことで彼らが何も得られなかったことは、クライシュ族に年二回の連結した貿易の旅を準備する結果になった。彼らは安心して糧を貿易から得られ、誰からも脅されて怖がることはない…アッラーは以上のことを、「彼らのために」成し給うたのではなく、アッラーが御自身の館を守るためだったのです。アッラーが御自身の館を守り給うという事実は、冬はイエメンへの旅を、そして夏にはシャームへの旅をクライシュ族に準備されるという出来事が付随しました。

 イーラーフという言葉が繰り返されていますが、クライシュ族の地位を示し、意味を誇張するための方法です。

 「彼らに、この聖殿の主に仕えさせよ。」つまり、カアバの主である至高なるアッラーを崇めるよう彼らに命じなさい、という意味です。アッラーが、「彼らの主に仕えさせよ」と仰せにならず、「この聖殿の主」と仰せになったことを熟考してみてください。これはまず、アッラーが当時クライシュ族だけに与えた恩恵と諸特徴の背景に集中されます。彼らはこの聖殿の名において、安全な貿易を満喫しており、危険に出くわしても、「私たちはアッラーの館の隣人だ」と言うことで悪さをしようとする者たちを鎮めていたのでした。

 クライシュ族に対するアッラーの恩恵には制限などありません。彼らがアッラーから頂戴したすべての恩恵のためにかれを崇めることがなくても、身に馴染んだ冬と夏の容易にしてもらえた安全な旅という境遇のためにかれを崇めるべきでしょう。

 「飢え(جوعジューゥ)に際しては、彼らに食物を与え、また恐れ(خوفハウフ)に際しては、それを除き心を安らかにして下さる御方に。」:ジューゥもハウフも、意味を強調する非限定の形が使われています。つまり、二つの旅によって、クライシュ族の土地が農耕地ではないために今までに晒されていた激しい空腹から食べさせ給い、アッラーが滅ぼし給うた象の主から来る大きな恐怖やあらゆる敵から彼らを救い給うたということです。その後アッラーはさらなる恩恵…つまりムハンマド(平安と祝福あれ)を預言者として遣い給うたこと…をクライシュ族に垂れます。人々は彼を求めてあらゆる国からマッカにやって来るようになりますが、クライシュ族はそれによって入る利益が増え、貿易もさらに盛んになりました。またアッラーの恩恵によって兄弟となった人々を恐怖から安全にし給いました。

 クルアーンが飢えに際して食事を与え、次に恐れに際して安心を与えたとの言葉の順番になっている点を熟考してみてください。実はこれは、食べ物を求める本能が数ある本能中で最も強く、最も現われやすく、そして安全を求める本能が次にくると心理学が証明していることなのです。

 つまり糧と恐怖から安心でいられることという恩恵は、アッラーが人間に与えられた最も偉大な恵みであるといえます。それらは崇拝と感謝と称賛がアッラーに相応しいと思わせるに十分なものです。代わってアッラーに仕えることを拒否し、アッラーが人間に行きわたらせ給うた数多くの恩恵を忘れることは、それらが消えてしまうことに繋がります。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P178~180)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2937~2939)

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107章解説

2010年06月10日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
107章解説
1.あなたは、審判(宗教、教え)を嘘であるとする者を見たか。
2.彼は、孤児に手荒くする者であり、
3.また貧者に食物を与えることを勧めない者である。
4.災いなるかな、礼拝する者でありながら、
5.自分の礼拝を忽(いるか)せにする者。
6.(人に)見られるための礼拝をし、
7.慈善を断わる者に。

 イスラームの本質と、イスラームは信仰箇条や語られるだけの言葉だけでなく、人生における道しるべ、振る舞いであることを解明するためにこの章は啓示されました。誰でもイスラームの指導を応用せず、それを言うことから実践に移せない者は、「教えを嘘であるとする者」です:

 「あなたは、審判(宗教、教え)を嘘であるとする者を見たか。かれは、孤児に手荒くする者であり、また貧者に食物を与えることを勧めない者である。」

 また、現世における不幸や反逆や迷いなどの最も大きな原因は、審判の日および清算の日を信じず、否定することです。その日の到来を人々が心から信じたならば、誰も違反行為や不信、神によって定められた義務の無視、マナー違反などは起きなかったでしょう。なぜなら、報いに対する恐れや罰を使った脅迫は来世の存在を信じない者には意味がないからです。そのため、この章の冒頭で「審判を嘘であるとする者」という表現が登場します。

 同時に至高なるアッラーは「見たか」という言葉で章を開始し給いましたが、ここには疑問の中に驚嘆と、聞く者に「審判を嘘であるとする者」が持つ性質がどのようなものかを知りたがらせる意味があります。「審判(ディーン)」は、来世における報奨と罰や、イスラームという宗教ということもできます。「見たか」から分かるように、「見ること」は、「知ること」と指します。つまり:来世における報い、もしくはイスラームを嘘だとする者を知っているか?となります。あなたがもしその者を知りたいのなら次のような者のことだ、「孤児に手荒くする者」。つまり孤児の権利に反して横暴に追い返し、また食事を与えず、良くしてあげないことです。

 続いて、「審判を嘘であるとする者」の性質を見て行きます:「また貧者に食物を与えることを勧めない者である。」至高なるアッラーは貧者に与えられる食事を「貧者の食べ物(タアームルミスキーン)」と呼び給い、まるでこの食事は、金持ちが彼らに余分に差し出したものではなく、貧者のために、裕福な者に課せられた困窮者に対する扶養義務によってアッラーが貧者に所有させ給うたもののようです。

 そして他人に貧者に食物を与えることを勧めない者は、普段から彼らに食べさせていないのです。「また貧者に食物を与えることを勧めない者である。」このアッラーの御言葉は、貧しい困窮者に自身の財産を気前よく与えないことを指しています。また、貧者がお金を要した際、あなたが彼に与えられるものを見出せなかったら、人々に彼が要するものを渡すよう頼む必要があることも指しています。そこには、他人から集めることでも信者たちに貧者たちを救済するようにとの要求があります。

 続いてクルアーンは、礼拝の本質を軽視しながら礼拝する者たちを罰と滅亡で警告します:「災いなるかな、礼拝する者でありながら、自分の礼拝を忽せにする者。」

 「災い(ワイル)なるかな」:来世における滅亡と罰を受けるに相応しい人に向けられた言葉です。礼拝を「忽(いるか)せる者」は、礼拝から注意をそらし、そして軽視するので定められた時間内に行いません。それか放棄してしまい、結局礼拝しません。または礼拝に含有されているアッラーへの畏敬の念、醜行と悪事から遠ざける効用といった意味を無視します。次にある通りです:「本当に礼拝は,(人を)醜行と悪事から遠ざける。」(蜘蛛章45節)

 「(人に)見られるための礼拝をし、」:「見せかけ」とは、人間が人々に本来とは違う姿を見せることです。ここで言われている人々は、アッラーの御満足を求めてではなく、信者に見られて、彼らの一部であると思われるために礼拝します。そのため彼らは礼拝から報奨を望むことはなく、罰を恐れることもないのです。

 「慈善を断わる者に。」:「慈善(マーウーン)」とは、ザカーか、人々が生活の中で一緒に利用している必需品を指します。鍬や、バケツや、鍋や、縄や、着火機などです。または:物を貸すことです。アブドゥッラー・イブン・マスウードは次のように言っています:すべての親切はサダカです。アッラーの使徒(平安と祝福あれ)の時代における「慈善(マーウーン)」とはバケツや鍋を貸し出すことだと私たちは理解していました。(アン=ナサーイー出典)

 この章は、親愛を同胞間に広め、社会に安全と平安を齎す相互扶助の大切さを大いに訴えていると理解できます。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P181~183)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2940~2942)

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108章解説

2010年06月03日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
108章解説
1. 本当にわれは、あなたに潤沢を授けた。
2. さあ、あなたの主に礼拝し、犠牲を捧げなさい。
3. 本当にあなたを憎悪する者こそ、(将来の希望を)断たれるであろう。

このスーラはマッカで啓示され、またクルアーンの中で最も短いものです。

 預言者(平安と祝福あれ)のある敵たちは、彼(平安と祝福あれ)の男の子が亡くなると、「ムハンマドは(男の)後継者を失ったぞ。これで彼の名は途切れるから、彼の任務を引き継ぐ者がいなくなった」と言っていました。男児を持つことで自慢するアラブの環境に見られるこの種の皮肉は、多くの人間に影響を与え、もしかすると預言者(平安と祝福あれ)もそのために心を痛めていたかもしれません。こういった中、預言者(平安と祝福あれ)をなぐさめ、また彼の敵に返答し、宗教の徳が子のそれに勝ることを明解にするこのスーラが啓示されました。

 アッラーはこのスーラの中で預言者(平安と祝福あれ)を「潤沢(カウサル)を授けた」ことでなぐさめ給いました:「本当にわれは、あなたに潤沢(カウサル)を授けた」カウサルとはつまり、豊潤な恵みです。
 この豊潤な恵みは、彼(平安と祝福あれ)に特別に与えられた預言者性や、数億もの人間が読誦し、その中から導きや慈悲を求めるクルアーンである啓示を授与されることを指しています。
 またこの恵みは彼(平安と祝福あれ)の慣行や、追従者が学び、またそれに倣う芳香漂う彼の生き様にも現われています。
 他にも、預言者(平安と祝福あれ)の名声が高められたことや、彼の地位の高さにもそれは体現されています。大勢の信者たちは、愛情と真心を込めて彼らの礼拝の中で彼のために慈悲と祝福があるようアッラーに祈っています。「アッラーフンマ・サッリ・アラー・ムハンマド」「アッラーフンマ・バーリク・アラー・ムハンマド」と。
 この恵みは、来世における至福にも体現されます。その一つが天国の川です。それはアッラーによってさまざまな長所を与えられており、そのそばで預言者(平安と祝福あれ)と追従者たちがその水を飲むであろうことがと真正ハディースによって伝えられています。

 アッラーがその預言者に特別に与え給うた膨大な恩恵の解明がなされた後、至高なるアッラーは彼(平安と祝福あれ)にその溢れる恩恵に感謝し、真心込めて崇拝に打ち込むよう命じ給いました。至高なる御方は仰せになります:「さあ、あなたの主に礼拝し、犠牲を捧げなさい」つまり、あなたの礼拝すべてをあなたの主のために捧げ、アッラー御一人のためだけに犠牲を捧げなさいということです。かつてマッカの不信者たちは自分たちの礼拝や犠牲を多神に捧げていましたが、多神信仰の根を断つことを望み給うたアッラーは、御自身の預言者にアッラーの唯一性に基づいて語りかけ給いました。そうすると同時にアッラーは預言者の追従者たちにも語りかけ給い、彼らの心から多神の穢れを拭い去ろうとし給いました。

 アッラーは使徒ムハンマドに「カウサル」を授け給いましたが、これには彼と彼の共同体にとっての恩恵が含まれています。この恩恵を眼前にした信者たちは、そのお返しに礼拝と感謝と、貧者を養うための犠牲を捧げなければいけません。

 続けてクルアーンは、アッラーが御自身の預言者のために準備し給うた高い地位の解明に移ります。それは、彼が部族から聞かされていた「男児を持たぬ男」という言葉から生まれる苦しみを追い払ってくれるものでした。「本当にあなたを憎悪する者こそ、断たれるであろう。」つまり、あなたを忌み嫌う者こそが断たれるのであるが、それは名を呼ばれなくなることだ、ということです。

 アッラーは確実に御自身の約束を果たし給うたため、かれの敵たちの名声は消え、彼らの跡は無くなってしまいました。なぜなら彼らは、アッラーが損失と滅亡を望み給うた不信行為や間違いや悪に勤しんでいたためです。その代わりに、ムハンマド(平安と祝福あれ)の名声は大地の隅々に広がって行きました。なぜなら彼は、アッラーが不信の大軍と不正と悪への呼びかけに勝つことを望み給うたアッラーへの誘いの任務、つまり真実と善というメッセージを背負っていたからです。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P184~186)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2943~2945)

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