イスラーム勉強会ブログ

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預言者伝84

2015年02月27日 | 預言者伝関連
250.アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はどのように現世を去ったか:
  現世の諸王が恐れていたお方、アラブ半島を支配し、教友たちが命と子どもと財産を捧げるほどのお方であったアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は現世をお去りになりました。わずかの金貨や銀貨も、奴隷も、何も残して行かれることはありませんでした。ただ、白メスらくだと武器とサダカされた土地のみが残されました。

  また亡くなった際、あるユダヤ教徒に30サーアの大麦と引き換えに彼の盾が質として置かれていました。彼は亡くなるまで、返済するための術を見つけられなかったことになります。

  またお亡くなりになった病の間に40人の奴隷を解放されました。また6から7ほどお持ちであったディーナールを妻のアーイシャ(アッラーの御満悦あれ)に命じてサダカさせました。

  信徒たちの母であるアーイシャは言いました:アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)がお亡くなりになったとき、私の家には肝臓を持つ者(生き物、人間)が食べられるようなものは私の棚にあった等分された大麦しかありませんでした。私は長い間それを食べたのですが、計ってみるとなくなってしまいました。

  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はヒジュラ歴11年ラビーウ・ル・アッワル月12日月曜日の正午過ぎに63歳で亡くなられたとの説が強力です。その日は信徒たちにとってもっとも暗く、寂しさに満ちたものでした。人類にとっての試練でもありました。

  教友アナスとアブー・サイード・アル=フドゥリー(お二人にアッラーの御満悦あれ)は言いました:
  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)がマディーナにいらした日、そのすべてから光が発せられました。彼がお亡くなりになった日には、そのすべてが暗くなりました。泣くウンム・アイマンが、「御使い(アッラーの祝福と平安あれ)の何があなたに涙を流させるのか?」とたずねられて、彼女は「私はアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)がいつかお亡くなりになることを承知していました。私が泣くのは終わってしまった啓示のためなのです」と言いました。

251.教友たちはどのように死の知らせを受け取ったか:
  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の死は教友たちの上に稲妻のように下りました。激しく彼を慕い、子どもたちが親許で生活する以上にアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の近くでの親愛にあふれた生活に慣れていたため知らせはとても衝撃的でした。アッラーは仰せです:

  「おまえたちの許におまえたちに自身の中から使徒が確かにやって来たのである。おまえたちが悩むことは彼にとって辛く、彼はお前たちに心を砕き、信仰者たちに対して憐れみ深く、慈悲深い。」(悔悟章128節)

  教友たち一人一人が他の誰でもない自分こそがアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に最も気に入られていたと思っていたため、教友たちの一部は死の知らせを信じませんでした。その先頭がウマル・イブン・アル=ハッターブで、「アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)がお亡くなりになった」と言う者を拒絶し、マスジドへ行って人々に語り出して、「アッラーが偽信者どもを滅ぼし給うまでアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はお亡くなりにならない」と言いました。

252.アブーバクルの断固とした立場:
  アッラーが預言者の後継者として準備給うた者、決断と英知ある立場を持つ者こそがアブーバクルでした。彼はかの瞬間に必要とされる、動ずことも消えることもない強固な山のような人物でした。知らせを受け取るとそのままマスジドの門へと向かいました。そこではウマルが人々に語っているのが見えましたが、何にも目を向けることなくアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が横たわっているアーイシャの家に入っていきました。アブーバクルはお顔にかかっていた布をめくり、口づけして言いました:「父と母をあなたのために犠牲に捧げます。アッラーがあなたに運命づけ給うた死を確かにあなたは経験されました。しかしこれ以降、あなたに死が訪れることはないのです。」そして布を再びお顔にかけました。

  部屋を出たアブーバクルはまだ話しているウマルのところへ行って、「落ち着きなさい、ウマル!黙りなさい。」と言いましたが、ウマルは話し続けました。黙らないのを見たアブーバクルは人々に話しだしました。アブーバクルが話すのを聞きはじめた人たちはウマルを放置しました。まずアッラーを讃えて言いました:

  「人々よ。ムハンマドを崇めていた人。ムハンマドは確かにお亡くなりになった。アッラーを崇める者。アッラーは死なず生き続ける御方だ。」次にアッラーの御言葉を読み上げました:

  「そしてムハンマドは一人の使徒にすぎず、かつて彼以前にも使徒たちが逝った。それなのに、もし彼が死ぬか、殺されるかしたら、おまえたちは踵を返すのか。そして踵を返す者がいたとしても、アッラーをわずかにも害することはない。いすれアッラーは感謝する者たちに報い給う。」(イムラーン家章144節)

  この光景を見た人は言いました:
  「アッラーに誓って。人々はアブーバクルがこの節を読み上げるまでそれが前に啓示されていたことを知らなかったようだ。人々はアブーバクルからこの節を取って、口で何度も読んだ。」
  ウマルは言いました:
  「アッラーに誓って。アブーバクルがそれを読んで私は衝撃を受けた。私は大地に崩れ落ちてしまい立っていられなかった。その時に私はアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が確かにお亡くなりになったのを知ったのだ。」

253.カリフとなるアブーバクルへの忠誠:
  信徒たちはカリフとなるアブーバクルに忠誠を誓いました。悪魔は彼らの一致団結の中に入りこんでまとまりをほどくことはできませんでした。また私欲が各人の心の中で遊ぶこともありませんでした。信徒たちが一団となって規律を保ち、そして彼らには彼らの諸事を司るリーダーがいる中でアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は現世を去って行かれました。その諸事の第一のものが、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の葬儀と埋葬でした。

254.信徒たちはどのように使徒を見送り、彼に祈りをささげたのか:
  人々は落ち着きを取り戻すとともに、当惑や感情の高まりは消え去っていきました。そして自分たちの使徒が教えてくれたように、現世を去った人とのために行うことで忙しくしていました。

  彼(アッラーの祝福と平安あれ)のご家族が担った彼(アッラーの祝福と平安あれ)の清めと包装が済むと、彼(アッラーの祝福と平安あれ)のベッドが彼の家に置かれました。なぜならアブーバクルはかつてアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が次のように言われるのを聞いたと彼らに話したためでした:命を掴まれた使いは掴まれた場に埋葬される。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)がお亡くなりになった寝床は持ち上げられ、その下に穴が掘られました。以上は教友アブータルハ・アル=アンサーリーが行いました。

  続いて順番に人々が祈るために入ってきました。男性陣が終わると、女性が入り、女性陣も終わると、子どもたちが入りました。なお誰もアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の葬儀のための礼拝の導師を務めませんでした。

  これは火曜日のことでした。

  マディーナでの悲しい一日でした。ビラールが黎明のアザーンを行いました。御使い、と述べるときには号泣しました。すると信徒たちの悲しみはさらに大きくなりました。彼らはこのアザーンをアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)とともに聞くことに慣れていました。信徒の母であるウンムサラマは言いました:なんという災難なのでしょう。これ以降に私たちに起こる災難は些細なことでしかないはずです、彼(アッラーの祝福と平安あれ)を失ったという災難を思い起こせば。

  ファーティマ(アッラーの御満悦あれ)は御使い(アッラーの祝福と平安あれ)が埋葬された際に言いました:
  「アナスよ、あなたたちはアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の上に土をかけることに何も感じないのですか。」

  彼らはアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)を慕っていましたが、泣き嘆くことはありませんでした。なぜならかつて彼がそれを厳しく禁止されたためでした。

(参考文献:「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P403~407)

悔い戻る者たちの道しるべ【3】-(1) 赦される罪について

2015年02月20日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
賞賛がアッラーにありますように。そして最上の祈願と最上の平安の挨拶が私たちの指導者ムハンマド、彼の家族、教友たちすべての上にありますように。

人間のアッラーに対する罪とは?:
アッラーは私たちに礼拝、断食、巡礼、喜捨のような崇拝行為を義務とし給うたとともに、(見ることを禁じられたものから)視線を低め、舌をコントロールすることも義務とし給いました。罪(ザンブ)は、イスムとウドゥワーンという言葉でクルアーンに登場します。ウドゥワーンとは、兄弟の命、尊厳、財産に危害を加える形での罪、イスムは飲酒のように人間と主の間で犯される罪です。許されていない女性をじっと見たり、アッラーが満足し給わない言葉を話したりすることもイスムです。つまり人間の諸権利に関係しない、アッラーの諸権利に関係する罪のことをいいます。
 
では、ザンブとイスムに違いはあるのでしょうか。
アナス(アッラーの御満悦あれ)によると預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は言われました:《全てのアーダムの子孫は間違いを犯すが、その中の善い間違いを犯す者は悔悟する者である。》(アハマド、アッ=ティミズィー、イブン・マージャによる伝承)

よって、ザンブは間違いを犯すこと。
ではイスムとウドゥワーンの違い何でしょうか。

 ウドゥワーン:アッラーが定め給うた一線を超えてしまうことで兄弟である人間に危害を加えることです。被害者がムスリムであってもそうでなくても同じです。アブーフライラ(アッラーの御満悦あれ)によると預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は:≪騙す者は我々の仲間ではない》(ムスリム伝承)、《己に望むことを兄弟に望むようになるまでは、誰も真の信仰を得たとはいえない》(アル=ブハーリーとムスリム伝承)後者のハディースは、「己に望むことを、人類上の兄弟に望むまでは」にも解釈できます。

 ウドゥワーンとは、被害者がムスリムであろうと無かろうと、全ての人間に危害を加えることであると説明しました。実際には非ムスリムに危害を加える方がムスリムに危害を加えるよりもさらに罪深いのです。ムスリムがムスリムから害を受けた場合、「誰々に~~された」と言うだけですが、非ムスリムがムスリムから害を受けた場合、その罪がイスラーム全体を批判するきっかけになってしまうことが根拠です。あなたは数多くあるイスラームの裂け目の中にいるのです。ムスリム一人一人はイスラームの大使です。振る舞い、動き、静けさ、立場、売買の仕方などのすべてが顕微鏡にかけられ、大きく映し出されてその人のイスラーム度が示されます。
そのため、アッラーは次のように仰せです:
「民に対する憎しみがおまえたちを公平でなくなるように仕向けさせることがあってはならない。」(食卓章8節)
さて、信仰者にとっての第一の敵とは誰でしょうか?不信仰者です。しかし敵であっても不正に接してはいけないのです。
「公平にせよ。それが畏敬により近い。」(同上)

至高なるアッラーは不信仰者であっても虐げられた者、被害者の祈りに応じ給います。祈る者がどんな人物であるかではなく、アッラーの公正さによって、応じ給うのです。ドゥアーするのに相応しくない人物であっても彼が必要としているなら、アッラーは彼に応じ給います。被害者には公正の名のもとに応じ、必要としている者には慈悲の名のもとに応じ給うのです。そのため被造物がどのようなものであっても、それらに対する敵対行為は赦されない罪なのです。

代わってイスムとは、例えば人が部屋の中でアッラーに背く時、彼はアッラーに罪の赦しを乞う必要が生まれます。アッラーの権利に関係している罪の場合です。礼拝、断食斎戒、喜捨、巡礼などがそうです。この類の罪が犯され、アッラーがしもべの真面目な悔悟、悔悟における誠実さ、悔悟への執着を御覧になる時、アッラーは罪がどんなに多くても赦してくださります。

教友アナス・イブン・マーリクはアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が次のように言われるのを聞いたと言いました:祝福多き至高なるアッラーは仰せになった:≪アーダムの子よ、おまえがわれに祈り、願ったなら、おまえ(の罪すべて)を躊躇なく赦す。アーダムの子よ、おまえの罪が点の頂点に達して、そしておまえがわれに罪の赦しを求めればわれは躊躇なくおまえを赦す。アーダムの子よ、おまえが地球を埋める罪でわれのもとにやって来て、われに何者も配さずにいたなら、われはおまえにそれを埋める赦しを与える。≫(アッ=ティルミズィー伝承)

このハディースの意味は次のアッラーの御言葉が由来しています:
「言え、「己自身に仇して度を越したわがしもべたちよ、アッラーの御慈悲に絶望してはならない。まことに、アッラーは罪をそっくり赦し給う。まことに、彼こそはよく赦し給う慈悲深いお方。」(集団章53節)

しかし、「そしておまえたちの主の御許に悔いて帰り、」(同章54節)と続いている内容に注意してください。
まことに多くのムスリムが聖句の前半だけを理解する傾向があります。例えば:
「わがしもべたちに告げ知らせよ、われこそはよく赦す慈悲深い者であることを。」(アル=ヒジュル章49節
「そして、わが懲罰、それは痛苦の懲罰であると。」(同章50節)と続きます。

「言え、「己自身に仇して度を越したわがしもべたちよ、アッラーの御慈悲に絶望してはならない。」とアッラーは仰せの後、

「まことに、アッラーは罪をそっくり赦し給う。まことに、彼こそはよく赦し給う慈悲深いお方。(53)そしておまえたちの主の御許に悔いて帰り、彼に帰依せよ、おまえたちに懲罰が訪れる前に。そうなれば、おまえたちは援けられない。(54)」(集団章53~54節)

悔悟にまつわる意味、アッラーによる赦しと慈悲の約束はしもべがアッラーに帰ることと結びついているため、悔悟がない場合は慈悲に与れないことになります。アッラーの慈悲にはあなたがアッラーに帰ることが条件付けられているのです。

こんなたとえ話があります。師匠のいる青年がいました。師匠が青年に言います。「息子よ、凡ての悪行にそれぞれの罰があるのだよ。」この青年は、アッラーに対する罪の中に足を踏み入れたことで、ヒジャーブ(遮り)に陥ってしまいました。特に、普段からアッラーと関係が親密な者にとって最も大きな罰こそがアッラーが御自身を彼から遮ってしまうことです。それは、丁寧に育てられた男の子にとっての大きな罰が父親に批判されることであるのと丁度同じです。ですから、洗練された者の罰は繊細なのです。

さてこの青年はアッラーに対して罪を犯したためにアッラーから遮られてしまいました。そのために忍耐しきれないほどの苦しみに襲われてアッラーに嘆きました。「主よ、私はあなたに背いたのにあなた私を罰し給うていません。」この青年に対する罰は物質的なものではありませんでした。アッラーは仰せになります。「しもべよ、われはおまえを罰したがおまえは気づいていない。」アッラーに対して犯した罪には信仰者たちが知るいくつかの罰がありますが、その一つはアッラーがあなたを遮ってしまうことです。

アッラーは英知なる御方ですから、しもべを辱めるような罰は与えず、遮ることでしもべを罰し給います。アル=ハサン・アル=バスリーがこう言っています。「礼拝に立っても何も感じない者、クルアーンを読んでも何も感じない者、アッラーを念じても何も感じない者、これらの者は、アッラーに遮られた者である。」ヒジャーブ(隔たり)は信仰者にとって最大の罰であるどころか、最後の審判の日における最大の罰です。
「断じて、彼らは彼らの主(に見(まみ)えること)から、その日、遮られた者である。」(量をごまかす者たち章15節)
逆はこうです。
「その日、(信仰者たちの)顔は輝き、(顔は)その主の方を仰ぎ見る。」(復活章22~23節)

信仰者が現世でアッラーの道を志すとき、アッラーが彼を罰するなかでも最大のものは彼をアッラーから遮ってしまうことなのです。人の前では健康で元気ですが、礼拝に立っても道は閉ざされてしまっているのです。この罰は洗練された信仰者の罰、遮りの罰です。アッラーはその英知であなたのための教育的懲罰を選んで与え給います。ヒジャーブ(遮り)がその中のひとつです。不安、恐怖、心配もそうです。これらすべてはあなたがアッラーに対して犯した罪に対する罰です。

信仰者は何か痛みを感じるたび、自分が何を成したためにこうなったのだろうと自問するべきです。そうすれば正しい道を行くことが出来るでしょう。常に自分を責めるということです。これは最も進歩し上昇した魂の一つで、自責する魂です。その上にあるのは、安らいだ魂です。
「安らいだ(信仰者の)魂よ。」(暁章27節)
アッラーは自責する魂にも誓い給いました:
「復活(審判)の日に誓おうではないか。(1)そして自責する魂に誓おうではないか。(2)」(復活章1~2節)

ですから私はいつもフトバ後に、あなたたちが清算される前に自分自身を清算しなさい、あなたたちの行いが量りにかけられる前に自分自身の行いを量っておきなさい、と言っています。誰でも自分自身を現世で厳しく清算した者の来世の清算は楽なものになるでしょう、そして誰でも自分自身を現世で簡単に清算した者の来世の清算は厳いでしょう。

赦されるのはあなたがアッラーに対して犯した罪です。その中でも目立つのはイバーダート(崇拝行為)における怠慢です。しかしアッラーの慈悲、赦し、許容、恩恵のようなアッラーの御許からのものは信者が赦しを求めてアッラーに帰らない限り得ることは出来ないのです。

http://nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7186&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895&w=%D9%85%D9%86%D9%87%D8%AC%20%D8%A7%D9%84%D8%AA%D8%A7%D8%A6%D8%A8%D9%8A%D9%86&aw=

預言者伝83

2015年02月06日 | 預言者伝関連
247.列を成して立つ信徒たちへの最後のまなざし:
  アブーバクルは人々を引率して月曜日まで礼拝していました。その日、信徒たちは列をなして黎明の礼拝を捧げていた時。アッラー使徒(アッラーの祝福と平安あれ)がお部屋のカーテンを上げて、信徒たちを眺めました。信徒たちが主の御前に集団で立っている姿を。そしてご自分が植えた宣教と聖戦で成った果実、預言者がいる、いないに関わらず礼拝を遵守する共同体の誕生を。彼の目は確実にこの素晴らしい光景と彼以前の預言者や宣教者に与えられなかった成功に喜びを得ました。またこの宗教と至高なるアッラーへの崇拝がいつもつながっていて預言者が死んでも切れることがないことに安堵しました。喜びで心がいっぱいになっていることはアッラーのみが御存知です。その顔からは光が発せられていました。教友たち(彼らにアッラーの御満悦あれ)は言いました:
「預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)がアーイシャの部屋のカーテンをめくられて、立っていた彼はわれわれを見ていらっしゃいました。お顔は清らかでした。そして微笑まれてから、笑われました。そんな彼を見たわれわれは喜びのあまりどうかしてしまうのではと思ったほどでした。また預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)が礼拝にお出になると思ったのですが、お前たちの礼拝を終わらせなさい、とわれわれに合図なさってから、カーテンを戻されて、その日のうちにお亡くなりになりました。」(アル=ブハーリー)

248.墓崇拝と墓をマスジドにすることの警告:
  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が最後に話された言葉:
「アッラーがユダヤ教徒とキリスト教徒に死を与え給いますように。彼らは彼らの預言者たちの墓をマスジドにした。アラブの地に2つの宗教を残したままにしてはならない。」(アル=イマーム・マーリク)

  アーイシャとイブン・アッバース(アッラーの御満悦あれ)は言いました:
アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に病のしるしがあらわれると、小さい布を顔面に投げかけました。苦しくなるとそれを顔からよけて、「アッラーがユダヤ教徒とキリスト教徒に死を与え給いますように。彼らは彼らの預言者たちの墓をマスジドにした。」と言われて、彼らの所業を警告されました。(アル=ブハーリー)

249.最後の遺言:
  アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に死が訪れたときの全般的な遺言は、「礼拝を。そしておまえたちの右手が所有するものを。」でした。この遺言で胸からがらがらと音がするほどでしたし、舌が溢れ出そうになるほどでした。(アル=バイハキー、アハマド)

  アリー(アッラーの御満悦あれ)は言いました:アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は礼拝と喜捨と右手の所有するものについて遺言しました。

  アーイシャ(アッラーの御満悦あれ)は言いました:私が彼を見舞いに行くと、彼は目を空に向けて、「上方におわす親しき御方のもとに、上方におわす親しき御方のもとに。」とおっしゃいました。

  またアブドゥッラハマーン・イブン・アビーバクルが入室しました。その手には柔らかなナツメヤシの葉があり、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はそれを見ておられたので、私は彼がほしがっているのだと思い、それを取り、振って、彼(アッラーの祝福と平安あれ)に手渡しました。彼(アッラーの祝福と平安あれ)はそれを使って丁寧に口内を清掃されてから、私に手渡そうとしたのですが、彼(アッラーの祝福と平安あれ)の手から葉は落ちてしまいました。

  彼女は次のようにも言いました:彼(アッラーの祝福と平安あれ)は水の入った桶をお持ちで、手を水の中に入れて、顔を拭いて、言われました:「アッラーのほかに神はなし。まことに死には苦しみがある。」そして左手の指を拡げて:「上方におわす親しき御方のもとに。上方におわす親しき御方のもとに。」と亡くなって水の中で手が傾くまで言い続けました。

  アーイシャは次のようにも言いました:病に苦しんでおられたアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はその頭を私の膝の上に置いていました。しばらくの眠りから覚めると、部屋の上部に視線を向けて、「おっしゃいました:上方におわす親しき御方のもとに。」とおっしゃいました。これがアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が最後に口にした言葉です。

(参考文献:「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P401~402)