イスラーム勉強会ブログ

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【今すぐ始められる崇拝行為】

2013年11月14日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
【今すぐ始められる崇拝行為】

1.イスラームにおける崇拝行為とは?
→وما خلقتُ الجن والإنس إلا ليعبدون
 「ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるためだけである。」(51章56節)
 クルアーンの中でアッラーが明解に仰せの通り、人間が創られた第一の目的がイバーダ(=崇拝行為)。
 崇拝行為は、アッラーが御好みになり、御満足する善行、善きマナーを身に付けること、アッラーとその使徒を愛すること、回りの人たちと良い関係を気付くことなども含む。
 イブン・タイミーヤ(西暦1200年頃に生きた、シャームの学者)による、イバーダの解説:
 「イバーダとは、アッラーが御好みになり、御満足する言葉、礼拝、ザカー、断食斎戒、巡礼、正直であること、信頼を守ること、親孝行、親戚付き合いを大切にすること、約束を守ること、勧善懲悪、不信仰者と偽信者との戦い、近隣者と孤児と貧者と旅人と奴隷と家畜に良く付き合うこと、ドゥアー、ズィクル、読書などの内面的・外面的行為である。
  また、アッラーとその使徒(祝福と平安あれ)の愛、アッラーに対する畏れ、アッラーへの回帰、アッラーのために教えを守ること、アッラーの裁定に忍耐すること、アッラーの恩恵に感謝すること、アッラーのお決めになったことに満足すること、アッラーにお任せすること、アッラーの御慈悲に希望を持つこと、アッラーの罰を恐れることなどもアッラーのためのイバーダである。」

2.イバーダをする目的とは?
→モラルの確立がもたらされる。
 礼拝は、醜行と悪事からする人を遠ざける。
 ザカーは、それを行う者を清める。
 礼拝断食は、畏れの気持ちを持たせる。
 精神浄化が達成される。

3.イバーダ成立の条件:
 【1】アッラーのためだけであること。
 【2】法に適ったものであること。アッラーが禁じ給うた事でイバーダは行えない。例えば、盗んだもので貧者を助けたり、家族を養うことはできない。
 【3】アッラーが定め給うた義務の全うを邪魔しないこと。イバーダ的行為のために義務の行為を放棄することは出来ない。

4.簡単にすぐできるイバーダ:
 【1】日々続けられるもの(アッラーが御好みのことの一つ:
  (( عَنْ عَائِشَةَ أَنَّ رَسُولَ اللَّهِ صَلَّى اللَّهم عَلَيْهِ وَسَلَّمَ قَالَ سَدِّدُوا وَقَارِبُوا وَاعْلَمُوا أَنْ لَنْ يُدْخِلَ أَحَدَكُمْ عَمَلُهُ الْجَنَّةَ وَأَنَّ أَحَبَّ الْأَعْمَالِ إِلَى اللَّهِ أَدْوَمُهَا وَإِنْ قَلَّ ))
 →良き行いに慣れることで、自信が付き、さらに、アッラーと自分の関係も強くなる。

 【2】ズィクル:アッラーの御名前を唱えることと同時に、アッラーを思い起こすことを指す。
  【1】(فَاذْكُرُونِي أَذْكُرْكُمْ وَاشْكُرُوا لِي وَلا تَكْفُرُونِ)だからわれを念じなさい。そうすればわれもあなたがたに就いて考慮するであろう。われに感謝し,恩を忘れてはならない。
  【2】( يَا أَيُّهَا الَّذِينَ آمَنُوا اذْكُرُوا اللَّهَ ذِكْراً كَثِيراً )あなたがた信者よ,アッラーをつねに唱念〔ズィクル〕しなさい。
  【3】(وَالذَّاكِرِينَ اللَّهَ كَثِيراً وَالذَّاكِرَاتِ أَعَدَّ اللَّهُ لَهُمْ مَغْفِرَةً وَأَجْراً عَظِيماً)・・・アッラーを多く唱念する男と女,これらの者のために,アッラーは罪を赦し,偉大な報奨を準備なされる。
  【4】 ( ألا أنبئكم بخير أعمالكم و أزكاها عند مليككم و أرفعها في درجاتكم و خير لكم من أنفاق الذهب و الورق و خير لكم من أن تلقوا عدوكم فتضربوا أعناقهم و يضربوا أعناقكم؟ ) قالو بلى . قال : (ذكر الله تعالى)
     アッラーの使徒(祝福と平安あれ)は言われた:皆さんの行いの中で、アッラーのもとでもっとも良く、もっとも清く、そして皆さんの位の中でもっとも高く、金と銀を施すよりも良く、敵と戦ってその首を切り、彼らも皆さんの首を切ることより優ることが何か知らせませんでしたか?
   皆、いいえと答えた。彼は言われた:至高なるアッラーを唱えることです。
  【5】クルアーンを読むこともズィクルである:
     (من قرأ حرفا من كتاب الله فله به حسنة , و الحسنة بعشر أمثالها , لا أقول ((الم)) حرف ولاكن ألف حرف و لام حرف و ميم حرف)
     アッラーの書から一文字読む者はそれが善行となる。善行は10倍である。アリフラームミームを一文字とは言わない。アリフで一文字、ミームで一文字、ラームで一文字なのである。
  【6】最も良いと言われるズィクルフレーズ:
     ●スブハーナッラー、アルハムドゥリッラー、ラーイラーハイッラッラー、アッラーフアクバル
     ●ラーハウラ ワラー クウワタ イッラー ビッラー
     ●アスグフィルッラー
     ●アッラーフンマ アラー サイイディナー ムハンマド

 【3】ニーヤ(意志)をアッラーに特化することで習慣がイバーダに変わる:
    例)朝ごはんを食べる→力を付けて、きちんと元気にアッラーにお仕えできるようにと食事を取ります
      掃除する→清潔を好まれるアッラーのために、自分も清潔であろう
      食事の準備→それを食べる人たちがアッラーにお仕え出来る力を付けられるような食事を作ります
      仕事に行く→他人に頼らず、また家族を養うのは男の仕事。そのアッラーより与えられた義務を全うするために仕事を頑張ります
      散歩する→アッラーに良質のイバーダを捧げられる力を付けるための運動として散歩します
      など
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バレル法

2011年10月28日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)

信仰しているし、意志もあるのに、どうして幸福を得られないのか?との疑問に関しての、マイブログ記事です♪

こちらをクリックして読んでください。

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悪質なハワーティルの見分け方についてのメモ。

2010年09月02日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
悪質なハワーティルの見分け方

70000にも及ぶハワーティル(頭に浮かんだ考え、心に浮かぶもの)の到来/一日

これらを見極めるために必要な3事項:

1)聖法:善悪は聖法で見極められる。どのようなハワーティルもまず聖法に照らし合わせてみる。
話題が逸れるが、「スンナ」を如何に扱うかについて。人によってスンナを低く見ることがある。「君、ファジュル前のスンナの礼拝は?」と聞かれて、「スンナだし、しないよ」と答える人。きっと悪気を持って言ったのではないだろうけど、この言い方は聞く人に自分がスンナを軽視しているような印象を与えてしまうだろう。このような言動は宗教を大きく害することになる。来世を求める信徒にとってスンナはとても大切なものである。
人はマクルーフを犯すまで、ハラームは犯さない。マクルーフを避けることは義務ではないが、マクルーフはハラームを覆っている幕のようなものなので、普段から避けているべき。

2)人によっては聖法をあまり知らないために聖法で見極めることが出来ないために違う見極める方法を必要とする。それは善良な先代の行動に照らし合わせること。さてこれ(ハーティル)は先代にとって良き事柄かどうか、と考えること。ある人にとっては1)の方が2)よりも容易かもしれないが。

3)直接、自分自身に提示してみる。もし、自然と惹かれるものであれば、たいていそれは悪質である。代わって実行したくなく、重い雰囲気を感じるなら、それは良質である。どちらも学者が禁じたり勧めたりしたというのではなく、自分が直接感じること。その根拠とは。クルアーン「またわたし自身,無欠とはいえませんが,主が慈悲をかけた以外の(人間の)魂は悪に傾きやすいのです。」(ユースフ章53節)安泰している魂の領域に達していない未熟な魂はたいてい、悪に傾くということである。つまりここの場合、自分の魂が応じない方向へ向けば、善に傾けるといえる。

では上記の1~3でハーティルが悪質と判明した場合。どのようにしてこのハーティルの害から身を守れば良いか。
悪質のハーティルは、悪魔か、自我(ハワー)か、アッラーからの(段階的な)罰である。「われはかれらが気付かない方面から,一歩一々(堕落に)導く」(筆章44節)もし人間がアッラーに対して、アッラーの事柄を軽視した行動をとった場合である。

「ハワーティルの出元が何であるかなんて知る必要などないじゃないか。悪質だと分かったらそれを放棄するだけでいいのでは」という人がいるかもしれない。
しかし私たちはアッラーを目指す修業者。私たちの道を阻むものはあらゆるところに落とし穴を作る。

悪質なハーティルはそれぞれ、その出元に合った治療法がある。
ではこの3種類のハワーティルの見極め方とは何だろうか。
昔の学者は言った。そのハーティルは、ズィクルで払しょくできるか?「アウーズビッラーヒミナッシャイターニッラジーム」「ラーイラーハイッラッラー…」などの言葉で去るならば、そのハーティルは悪魔から来ているという。悪魔はアッラーの御名が唱えられると逃げるからである。アッラーを唱える者の心を悪魔は唆せないのである。これが一つ目の見極め方。

では、ズィクルでもクルアーン読誦でも去らないハーティルだった場合は。ここで二つ目の見極め方である。「そのハーティルはある特定の罪の実行を命じているのか。それともそれ同等かそれ以上に大きい罪の実行を求めているのか」を知ること。「親族関係を断て」とハーティルが言う場合、これを1)に照らし合わせると、悪質なものと分かる。「親戚の誰誰は私の子供が生まれたときに祝ってくれなかったから、私はその人の結婚披露宴には行かない」というのははっきりとしたハーティルである。善か悪か?と考えれば、「親類の関係を断つのは大罪である」から、悪質である。ではここで悪魔からの加護をアッラーに求めてみよう。もしこのハーティルが去らなければ、それは悪魔とは関係ない。では心にこのハーティルよりも悪質なことを提示してみよう。「親戚のかの行事に参加し、途中で街に抜け出して悪さをやってみよう」そのとき、あなたの心は何を言うか。もし、「いいね!行ってやれ!」と返ってきたら、それは悪魔からである。もし「いや、その会合自体に私は顔を出さない」と返ってきたら、それは自我から来ている。なぜだろうか?悪魔は「敵」であって、彼の任務は「あなたを滅びさせること」。あなたがどのように(勘当されることでとか醜行とか飲酒とかで)滅びるかはあまり気にしないのである。とりあえずあなたが滅んでくれたらそれでいいので、ある特定の行為に応じなくても別にいいのである。しかし自我は頑固であり、ある特定の行為を求め続ける。だからこそ、他の悪行を受け付けれず、一つの行為をかたくなに求めていることが分かったら、それは自我から来ているということなのである。

では3つ目の見極め方。あるハーティルが現われ、それが悪質だと分かった場合。それはふと現われたか、悪行から悔悟しない間に現われたか?私たちは誰でも罪を犯してしまうもの。しかし問題は、その罪から悔悟しないことだ。ある伝承に拠ると、アッラーは天使に仰せになる:「わがしもべが悔悟するかもしれないからまだその罪を書き留めるでない」と。ここで言えることは、しもべが罪を犯してしまって後悔して赦しを求める代わりに、笑い、軽視することが大きな問題であることが分かる。「昨日はこんなことしちゃったよ~」と友人たちに漏らしたり。隠していればアッラーが覆って下るかもしれないのに。こういった者は新たな悪を欲することを罰とし受ける。なぜなら悪気がなく、状況を軽視しているからである。アル=ガッザーリーは言い残している:「もし悪質のハーティルが頑なに罪を要求しており、自分がまだ罪から悔悟を果たせていない場合は、それはアッラーがあなたを少しずつ堕落に導いていることを知りなさい。すぐに悔悟し、罪の赦しを請いなさい」

以上で3つの見極め方が分かった。

では治療法は。そのハーティルが悪魔からと分かったなら、「ズィクル」で治療を。最も簡単な方法である。「本当に悪魔の策謀は弱いものである。」(女性章76節)心に現れるハーティルの中で最も弱いのは悪魔から来るハーティルなのである。全ての悪の根源は悪魔だと私たちは言うし、クルアーンの中で悪魔は人類すべてを欺くとまで言っているが、アッラーは彼が弱いことを教えてくださっている。悪魔の策略は弱いと。

自我は、問題である。最も治療が難しいハーティルは自我から来るものである。そして最も危険なハーティルは、イスティドラージュ(知らぬ間に少しずつ起きる罰)から来るものである。

学者曰く、自我から来ているハーティルの治療は、乗る用の家畜を扱うようなもの。ときにそれは頑固である。ロバが道の真ん中に立ち止まり、どんなに叩いても、押しても引いても動かないことがある。悪に傾く自我もロバに似ている。ただロバは責任能力を持たないが。自我はロバのようにふと頑なになることがあるということである。頑固な家畜を扱う人は、どのようにそれを扱えばいいか知っている。二つ方法がある。1)餌を減らす2)仕事を増やす、である。餌を減らすことで、体内にある頑固な力を減らす。仕事を増やし疲れさせることで頑固な力を減らす。この方法でおとなしくなるわけである。悪に傾きやすい自我の治療も同じである。「餌を減らす」=「食事を減らす」。まだ少し食べたいな、というところでアッラーのために止めておくこと。月・木に斎戒するのがいいだろう。または月に3日の斎戒を。食事を減らすことでの精神鍛錬は力を呼び起こす。独力しながら、食事を軽減する。自我が何かを求める度に、「では今夜は礼拝に立つぞ」と言い聞かせる。1時間半ほど祈り、朝は斎戒をする。夜中起きていたからと言って仕事を休んではいけない。イフタールは軽めに摂り、努力する。これは3,4日続けてみて、自我がどのように降参するか確かめるといい。

野生の馬を誰かが馴らしているのを見たことがありますか。馬は乗っている人を必死に振り落とそうとする。自我も同じことをする。しかし調教師は頑なにに馬を馴らそうしつづける。馬から落とされても、また跨って馴らそうとするだろう。そのたびに馬は諦めて大人しくなる。自我も同じである。

もしハーティルが自分が犯した罪の直後に現われたものである場合。あなたは罪を犯し、アッラーに対して無礼を働いたのに謝らず、再度同じことをしているわけである。笑い、軽視している。信号無視をして、後方で警察官がメモを取っていたり、監視カメラで撮影された時、ある程度の心配が発生するのではないか。彼は単なる警察官であり、カメラである。あなたが天地を創造した御方に背くとき、心の中で何も感じないのか。先代の人々は、何かを犯してしまったら、天が自分に落ちてきてしまうのではと恐れていたものである。アッラーは度々赦し給う御方であることは十分承知している。しかしアッラーに対する後ろめたさがある。しかし罪を犯しても重要視しない者。アッラーがどのように自分を眺めておられるか考えない者。だからこそ、このような者は罪を犯した後にまた新しい罪を犯すべくハーティルが起きるのである。繰り返し繰り返しそのように起こり、最終的にムスリムとして死ねないかもしれないのである。そのため、悪のハーティルが起こった時、自分がまだ悔悟していないと分かったなら、すぐにアッラーに帰らなければならない。アッラーよ私を御赦しくださいと言わなければならない。2ラクアの悔悟の礼拝を捧げ、涙し、アッラーに赦しを請うのだ。そうすればかのハーティルは去ったことに気づくだろう。

(続く)
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天国における安息(アラビア語)

2010年07月07日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
転送されて来た、Dr.アーイド・アルカルニー先生の小話です。訳はないですが良かったので貼りつけておきます。

الراحة في الجنة

د.عائض القرني 


 
{ لقد خلقنا الإنسان في كبد }
يقول أحمد بن حنبل , وقد قيل له : متى الراحة ؟  قال : إذا وضعت
قدمك في الجنة ارتحت .
 
لا راحة قبل الجنة , هنا في الدنيا إزعاجات وزعازع وفتن وحوادث
ومصائب ونكبات , مرض وهم وغم وحزن ويأس .
 
طبعت على كدر وأنت تريدها      صفواً من الأقداء والأكدار
 
أخبرني زميل دراسة من نيجيريا , وكان رجلاً صاحب أمانة
أخبرني أن أمه كانت توقظه من الثلث الأخير , قال : يا أماه
أريد الراحة قليلاً . قالت : ما أوقظك إلا لراحتك , يا بني
إذا  دخلت الجنة فارتح .

كان مسروق . أحد علماء السلف . ينام ساجداً , فقال له أصحابه
لو أرحت نفسك . قال : راحتها أريد .
إن الذين يتعجلون الراحة بترك الواجب , إنما يتعجلون العذاب حقيقة .
إن الراحة في أداء العمل الصالح , والنفع المتعدي , واستثمار الوقت
فيما يقرب من الله .
 
إن الكافر يريد حظه هنا , وراحته هنا , ولذلك يقولون :
{  ربنا عجل لنا قطنا قبل يوم الحساب } .
 
قال بعض المفسرين : أي نصيبنا من الخير وحظنا من الرزق قبل
يوم القيامة .
 
{ إن هؤلاء يحبون العاجلة } , ولا يفكرون في الغد ولا في المستقبل
ولذلك خسروا اليوم والغد , والعمل والنتيجة , والبداية والنهاية .
 
وهكذا خلقت الحياة , خاتمتها الفناء , فهي شرب مكدر , وهي  مزاج
ملون لا تستقر على شيء , نعمة ونقمة , شدة ورخاء , غنى وفقر .

هذه هي النهاية :
{  ثم ردوا إلى الله مولاهم الحق ألا له الحكم وهو أسرع الحاسبين } .
 
فانظر أخى الحبيب  أين انت من هؤلاء
و أسال نفسك ماذا قدمت من أجل دين الإسلام
لا اتكلم عن عبادات ( صلاة وصوم و زكاة و حج )
بل فهم شامل لهذا الدين  و عن اعمال صالحة تلقى بها لله عز وجل

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外面と心の清らかさについてのメモ。

2010年06月29日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
外面と心の清らかさについてのメモ。

言うのを禁じられている事柄は、それを聞くことも同様に禁じられている。
悪口は、兄弟の死肉を食べるのと同じ行為であり、悪口を言わずとも聞くことは、
その悪口に参加していることになる。それが原因で心に闇が入り込む。
あなたの心はアッラーのもとでとても大切な存在であり、
アッラーはあなたの心がごみ箱になることを嫌い給う。
つまり、人間の汚い言葉であなたの心が埋まってしまうことである。
だからこそ、あなたの耳を汚い言葉から守ること。

汚い言葉とは、غيبةギーバ(悪口)やنميمةナミーマ(噂)。
ナミーマは、問題を発生させるために言葉を伝言すること。
「あの人があなたのことを~~と言っていたよ」
こう言う人は、あなたとかの人の間に問題を作ろうとしている。
この類の話は受け取らず、また他人に伝えてはいけない。
ナミーマから耳を守るのは、心に闇が入り込まないようにするためだが、
なぜならナミーマはは心に憎悪を齎し、心を汚すから。
つまり人を誤解してしまうということ。

聞かずそして言わぬこと。
話すこと以外に心に闇を齎す、「口」が関連していることに、「食べ物」がある。
アッラーを求める者よ、ハラームを口にすることに満足してはいけない。
食べ物は口に直接影響する。
ハラールを口にする者は、四肢が嫌がりながらもその者に従い、
ハラームを口にする者は、四肢が嫌がりながらもその者に逆らう。

あちこちから法見解を探して利子を手に入れようとしたり、
賄賂を受け取ったり(アッラーは賄賂を払う人と受け取る人を呪い給う)、
盗まれたお金を使ったり、
あなたに本来相応しくないお金を受け取ったり(他人がその地位ゆえに受け取るべきであった金品をあらゆる形で横取りすること)。
こういったお金は心を暗くする。

アッラーを目指す者は、口に対しても畏れの気持ちを忘れない。
それが合法かどうか、徹底的に調べる。
アッラーをまじめに目指していたかつての時代は、食べ物、衣服、住居の合法性の探求にこだわっていた。

欲望やحب التوسع(拡大に対する憧れ)の原因:欲望や自我に心が追従するようにあなたが仕向けたため。

あなたの中にある弱さの原因が分かれば、それに対峙しなければならない。そしてこのمنفذ入口を閉じること。

自分自身、妻、子供たちの口にハラールでないモノが入ることに満足してはいけない。ここで次の言葉が重要である:
「自分の心にたずねてみなさい。周りが法的判断を示しても。」
ハラールと裁定されても、最終的に心にたずねてみるべき。
その時にあなたがどう感じるか。

あなたの心を守るために、あなたはこのمنفذ入口を制限する必要がある。つまり、食べ物が入ってくる入口である。
このことに関する…ハラール希求をすすめる多くのハディースが伝わっている。

しもべがハラールを求めて出かけると、額から流れる汗に対しても報奨を彼はいただけるとか、
ハラール希求者は、アッラーの道において戦う者と同位であるとか、
ハラームを避けてハラールを求める者は、صديقون誠実な者たちの位に上り詰めるとか、
疑いのある1ディルハムを避けることは、10万ディルハムをアッラーの道のために費やすよりもアッラーに好まれるとか。
なぜか?

「感覚に影響を与えるモノ」からمنفذ入口を昼夜閉めても、他の閉めるべき入口が残っている。
それは、私たちが特に注意を払うべきものだ。
それは感覚的なもので、物質的入口ではない。
アッラーを志す学問の学者たちはそれを、الخواطرハワーティル(頭に浮かんだ考え等)と呼んだ。
つまり、心に浮かぶものである。

アッラーが好み給うすべてのطاعة服従行為は、خاطرハーティル(ハワーティルの単数)で始まる。
逆にアッラーが嫌い給うすべての罪もハーティル一つがきっかけ。
人間がこの思いつきに応じてそれらは起きる。

このハーティルは内面で起き、それには4つの源がある:
1.النفسナフス(自我):هواءハワーゥと呼ばれる。暑い中の斎戒中、冷たい水を見たときにそれを飲みたくなる気持ち(=ハーティル)はナフスから生まれる。
2.الشيطانシャイターン(悪魔):悪魔は人間の心にيوسوس囁きかけるゆえ、ワスワースと呼ばれる。
3.الملكマラク(天使):《天使は信者の心に向かい、善を勧め、それを約束し、それを美し見せる。そして悪魔が来ると彼は悪を勧め、それを約束し、それを美しく見せる。》もし信者が悪魔に従えば、罪を犯すことになる。これが結果なのである。天使のハーティルに従えば、服従行為に向かったことになる。天使からのハーティルを学者たちはاللمةランマと呼ぶ。
4.アッラーからのハーティル:アッラーをそれを心に投げ込み給う。الإلهامイルハーム(インスピレーション)と呼ばれる。

以上4つの源は心に注ぎこまれる。心にある入口にこの4つはハワーティルを流し込む。
求道者の心にも、一般の人間の心にも、多くのハーティルが生まれる。

7000のハーティルが一日の間に生まれていると言われる。
そしてそれらは上の4つに分けられる。
この多くのハワーティルは、善か悪に分かれる。
求道者としてあなたに求められているのは、善いハーティルを選ぶこと。
そしてそのハーティルが言うことによく耳を傾けること。
そうすることはالإدراكイドラーク認識に役立つ。
善のハーティルは、心のイドラークを広げると同時に心に善を望んでくれる。
悪を含んだハーティルは、それをあなたが制止し、変化させ、操縦し、それからあなたの心守らないと、悪の欲が動いてしまう。
善のハーティルは、善のالإرادةイラーダ(意志)に働きかけ、悪のハーティルは、悪のイラーダに辿りつかせる。
どちらにしてもあなたはこの2つのハーティルの間を往来する。

二者をどのように区別するか?

現代を生きる人間は忙しすぎる。
しかしあなたは求道者である。来世を求めているのだ。
来世とアッラーを求める者でいる限り、そのことで他の人たちとは違うのだ。
ここで今決意しなさい。
あなたは、人間がモノになってしまう世界に生きないことを。
あなたはアッラーのしもべになることを望んでいるのだ。
そうでなければ、あなたはこの世界の自然のしもべになってしまう。
他の人たちよりもよりよく生きなさい。

あなたは、人生に目的を持って生きる。
現代の若者は走り続けており、歌を聴き続け、予定をこなしてばかりいるが、
さていつ考えるのか?
人生の次のステップについて座って考えるのはいつなのか?
ここで問題にしているのは、人間が「生活の水車」に飲み込まれる危険性である。

自分をアッラーに近づけたり、精神を和らげてくれる美しい声や言葉を聞くのは問題でないことははっきりしているわけだが、
それが人生の中心事項になってしまわないように気をつけなければならない。
立ち止まって、「自分には任務があるのだ」と考える必要がある。
アッラーを求めるなら、自分が忙しさの水車に飲まれることに満足しないし、
任務を最良の形で遂行し、学生であれば優等生を目指す。
そこには「アッラーに近づくのだ」という目的がある。
自分が成功した貿易商であれば、それはアッラーに近づきたいという目的があるから。

ここで注意が必要。
私たちは浮かぶハーティルについて熟考せずに過ごさぬことが大切である。
あなたが自分の心を善悪両方のハーティルの集合場所にしてしまったら、
あなたの行動はしんのないものになってしまう。

続く。
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心の浄化についてのメモ

2010年05月17日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
タウバ(悔悟・改悛)=後悔、後悔=タウバ。
タウバを真剣にしようとした者の、タウバ後の状態とその前の状態は相違する。
ではアッラーに対面した心の状態とは?

サハル・アッタストリーがジュナイドに質問をした:
「タウバ成就のしるしとは、罪を覚えておくことでしょうか。」
「いや、罪を忘れることが、タウバ成就のしるしだ。」

どのように?
まじめにタウバしアッラーに帰る者には、後悔で満ちた長い時間が訪れる。
またアッラーの御前に立つことへの恐れに襲われるが、
努力してアッラーへの道を行けば、そうすることでズィクルの甘美さやターア(服従)の
素晴らしさといったアッラーの恩恵が、
罪の苦しさを追放してくれる。

タウバのニーヤで捧げた2ラクアの後に、しっかりとタウバすることは、
新しい1pが開かれることだ。

ガザーリー師は質問されて次のように言った:
「タウバが成立したら、果たしてそれは確実に嘉納されるのでしょうか。」
「アッラーは御自身に課したこと以外のことを課されることはないが、
しもべが真心込めてタウバした場合、アッラーはそれを嘉納し給わずにはいられない。
どのような場合であってもだ。」

罪には大小あるが、その中で最も大きいのは、自分の罪をアッラーの御赦しよりも
大きいと捉えてしまうこと。
この思考こそが大問題である。

タウバ終了後の次のステップは、
心と対面すること。

なぜ心となのか?
預言者(平安と祝福あれ)の誓いを思い出してみよう。
彼は、強く激しく誓われるとき、次のように言われていた:
「心と視線を変え給う御方に誓って」
アッラーは私たちの心を最も注目する場所にし給うた。
かれは私たちの外見ではなく、心と行為を御覧である。
アッラーは心をかれが注目する場所とし給うたのだ。
しかし人間が注目する部分は外見であるため、人間は外面にとても気を遣う。
ただ、他人への敬意のために、私たちが外見を美しくすることは大切だ。

では人々の主、アッラーはどこを見給うのか?
あなたのどこを御覧なのか?
心だ。

القلب في علم السلوك هو اللطيفة الرحمنية التي وضعها الله للإنسان
これで人間と他の被造物が区別される。
إِنَّا عَرَضْنَا الْأَمَانَةَ عَلَى السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ وَالْجِبَالِ فَأَبَيْنَ أَن يَحْمِلْنَهَا وَأَشْفَقْنَ مِنْهَا وَحَمَلَهَا الْإِنسَانُ ۖ إِنَّهُ كَانَ ظَلُومًا جَهُولًا
本当にわれは,諸天と大地と山々に信託を申しつけた。だがそれらはそれを,担うことを辞退し,且つそれに就いて恐れた。人間はそれを担った。本当に(人間は)不義でありかつ無知である。(33/72)

ここで言われているアマーナ(信託)がここで言っている「心」のこと。

心は重要な二つを含む:
①イドラーク(理解)②イラーダ(意志)

あなたが友人に会って会話を楽しみ、そのうち喧嘩してしまい、相手に襲いかかろうとするとき。
この瞬間、どのようなイドラークが起こっているか。
「怒り」「自我の勝利の渇望」「復讐」
これらに囲まれてしまっている。
あなたが相手を叩こうとしたり、醜い言葉を発するとき、何があなたにそうさせているのか?
心に生まれたイラーダである。
当初の落ち着いた気持ちをこのようにさせたのはイドラーク。
けんかをしたことがきっかけ。

喧嘩が始まって、「アッラーは忍耐を好み給う」「預言者(平安と祝福あれ)は自分のために怒ったことはなかった」と思いだすこと。
このカラール(決定)は最終的にあなたを喧嘩から遠ざける。
何からそれは生まれるか?
心からだ。
心は洞察し、決定を下す場所である。

ある話:
ある金持ちの貿易商が代理人を立ててモスクを必要とする者たちのために建てようとした。
建立のために代理人は走り回り、町の人々はこの代理人がモスクを建ててくれているのだと思い込んだ。
それを知った代理人は貿易商に赴き、「あなたにとって不公平な状態になっています。人々は私がモスクを建てたと思いこんでいますので、全員を集めて、本当のことを伝えようと思っています。」と言った。
貿易商は、「いや、そんなことしなくともよい。」なぜ?と聞かれて、「誰のために建てたモスクかは、その御方が最も御存知だから。」と言った。
一体どこから彼のカラールとイラーダが来たのか?
「心による洞察の理解」である。
この心構えこそが、アッラーを求める者がそれによってアッラーに近づくもの。
「本当に盲人となったのは,かれらの視覚ではなく,寧ろ胸の中の心なのである。」(22/46)

至高なるアッラーは、ハディース・クドゥスィーで次のように仰せになった:
「わたしの友がらに敵意を示すものには、わたしは誰に対しても戦いの宣言をする。
わたしの気に入ることをしてわたしに近づこうと望むしもべは、
自分に課された宗教的義務をきちんと果たすにしくはない。
定められた義務以外のよい行いに努めるしもべは、
ますますわたしに近づき、遂にはわたしの愛をかちうるであろう。
そしてわたしが彼を愛するようになれば、わたしは彼の聞く耳、
彼の見る目、彼の打つ手、彼の歩く足となろう。…」

このハディースから、人はアッラーによって見たり聞いたりするということ。
この心のイドラークに偉大さについてが今回のテーマ。
心がこのようになるためには、もちろん作業が必要。
この作業こそが、スルーク(求道)だ。
つまり、アッラーを求める道。

心に第一に必要なのは:
心に汚れを入れてしまう穴を塞ぐこと。
例えてみよう。ある部屋のたくさんの窓がすべて全開だ。そこに砂嵐が吹いたらどうなるだろうか?
きっと部屋は砂でいっぱいになってしまうだろう。
あなたが強力な掃除機を何台使って掃除をしても、
窓が開いたままでは砂が入り続け、意味がない。
あなたの心もこの部屋と一緒。
心はさまざまな病気にかかる。
妬み、見栄、高慢、地位追求など。
それらの病気の治療の前に、まず「窓の管理」が必要だ。

心に闇を入らせる穴は2種ある。
①五感的穴(視覚、聴覚、発声)②精神的穴

①見るものは直接心に影響し、それは保存される。暗い闇的なものを見たら、それは心に植え付けられてしまう。
反対に明るいものを見たら、そのままそれが心に植え付けられる。どちらでもないもの(木や家など)を見たら、
どの角度でそれを見たかで決まる。これらが目の心への影響。→禁じられた視線第一種

目は心に影響を与える。
禁じられた視線は呪われた悪魔が放つ弓の一つ。
アッラーをおそれてそれを避ける者の心にアッラーは甘美を与え給うだろう。

禁じられた視線第二種:
現世を重要視すること。アッラーが創造し給うたものを美しいと思って見ることを指しているのではない。
禁じられるのは、現世自体を偉大なものとして見てしまうこと。
大きなタワーを見てとても感心するようなもの。

禁じられた視線第三種:
アッラーの被造物を見下すこと。
自分よりも貧しい者を見下したりせぬよう。
あなたはアッラーを求める者なのだからしてはいけない。
あなたがその者よりお金や知識や血統を持っていようとも、
来世では必ずそれらについての清算を受けるのだから。
アブー・ラハブは優れた血筋の生まれだったが、それは彼の何の役にも立たなかった。

では何が人々の優越を決めるのか?
服従行為だろうか?
いや、ちがう。

また、罪人を見下してはいけない。
この視線は心に悪く影響するし、また禁じられている。
これは心を真っ暗闇にする。

ある熱心なユダヤ人信者の話:
500年もの間、一度もアッラーに背いたことがなかった男が、同じ民の中のアッラーに一度も従ったことがない男を見た。
両者が向かい合った瞬間、両人とも背を向けてしまった。
前者は後者に対する高慢さから彼に背を向けたわけだが、
アッラーは自分が他に優っていると思う者を決して赦し給わない。
逆に後者は、アッラーに対して恥いる気持ちを持ったため、信者に背を向けたのだ。
「私はどうやってこのお方に顔を向けたらいいんだ」と思ったのだ。
前者の信者は、崇拝行為の多さゆえ、彼が行くところには雲が付いてきて影を作るというカラーマを賜った人だった。
両者が分かれた瞬間から、もう雲は信者に付いて行かなくなった。
何が原因かというと、蔑視したからだ。

罪自体を蔑視してもよいが、罪人を蔑視してはいけない。
不信を蔑視しても、不信仰者を蔑視してはいけない。

以上、禁じられた視線3種:
①欲望に基づく視線②現世を偉大視する視線③被造物への蔑視

これらを捨て、心が輝くための視線を持つこと。
つまり、見ることが許されているものを、至高を持って眺めること。
愛情の目で、両親や学者を見ること。
罪人を同情の目で見ること。
信心深い人を尊敬の目で見ること。
以上は、心が光り輝く原因となる視線だ。

目は貴重なのだ。
なぜか?
なぜなら目はアッラーの後尊顔を見るために作られたからだ。

続く。
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タウバの修正についてのメモ。

2010年05月08日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
タウバの修正についてのメモ。

今回は、アッラーへの旅の第一歩である「タウバ(悔悟)の修正」について。
タウバは「戻ること」を指す。
以下の3事項が一つになったとき、タウバは成立する。
①イルム(知)②ハール(状態)③アマル(行動)

自分がしもべであり、審判の日にアッラーの御前に立つ運命であり、それまでは短い人生を死ぬまで続ける。
この自分が人生で何をやってきたかの清算をその日に受ける。
しもべは人生の終わりには、一人でアッラーの御前に立たなければならないことを知っている。
その日、一対一だけであり、通訳者も誰も介さずにアッラーに尋問されるのだ。
そしてアッラーはその時仰せになる:

しもべよ、あの日あのときあの場所で、われがすべての戸を閉め、あなたを他のしもべたちの目から隠したときに、
おまえはわれが満足しないことをしたのではないか?
他の被造物がそれを見たとしたら、おまえは恥ずかしがったのではないか?
どうしておまえはわれを、おまえを見る者たちの中でもっとも低めてしまったのか?
しもべよ、われ以外に見られたら恥ずかしいと思うのに、
おまえはわれからは恥ずかしがらないのか?
しもべよ、われはおまえを無から創り、多くの恩恵を与えた。
そしておまえに「ラーイラーハイッラッラー(=イスラーム)」を与え、おまえの母はそれを元にして
お前を育て、立派に成人したではないか。
それなのにおまえはわれに逆らったのか?
おまえはわれの恩恵にどのように接したのか?
そしてどのように感謝したのか?
おまえはわれに近くにいれるように願ったか?

ムスリムは誰でもこのような結末を知っている。
これが、「イルム」である。

私たちが言うことはすべて記録されている。
これらを聞くと誰でも胸が締め付けられるが、
それはアッラーからの恩恵だ。

あなたは「現世の民」を見たか。
彼らのある人は高い地位に就き、ある記者は彼が言うことを書き取ったり、
彼の姿を写真に収める者もいる。
人々が驚嘆していて、皆が彼を注目しているのだ。
しかし、用が済むと、皆去ってしまう。
重要でなくなると、放置してしまう。
しかしあなたはアッラーのもとでとても大切な存在である。
だからこそ二名の天使をあなたに遣わし、
あなたが成人してから死ぬまでの間の行動を彼らはすべて記録する。
記録された書物は審判の日にアッラーの御前で広げられる。
この事実という「イルム」に、違う「イルム」が加えられる。
それは、清算後の、天国行き・地獄行きのこと。

魂が喉元に届いたときが、与えられた猶予期間の終わり。
これが自分に与えられた境遇であることを熟知すること。

以上の「イルム」を得たのちにあなたは、
「後悔の念」「羞恥の念」「辱め」
を感じないか?
昨日までアッラーに背いていたのに。
私の醜業をアッラーは御覧になり、すでに記録されてしまったのだ。
かれの御前に立つ時、そのことを尋ねられてしまうのだ。

ある男が師匠に、「アッラーは私の恥ずかしい罪を赦し給うでしょうか」と言った。
「悔悟し、行いを改めれば」と言われた男はたいそう喜んだが、またたずねた。
「しかしアッラーは、私がその行為に耽っていた姿を御覧になっていたわけですよね」
と言って師匠が「全くその通り」と答えた瞬間、
男は大声を出して、ショックのあまり、死んでしまった。

この男は自分とアッラーの関係の悪さを恥じたのだ。
また、「アッラーは罪深い私を覆ってくださった。醜悪な行いの最中もアッラーは
私を暴露し給うことなく、私を隠してくださった。それなのに自分は・・」
と感じたのだろう。

この話をもう少し分かりやすくすると。
子が親に逆らい続けていると、親は子に
「このまえあげたプレゼント没収するよ!」と言って、
子から物を取り返そうとするだろう。

しかしアッラーはそうではなく、さらにたくさんのものを私たちにくださる。
そして私たちを猶予してくださるのだ。

ある人が現れると、その人に対する好意や敬意から皆が挨拶し、
「私にドゥアーしてください」と言う人もいる。
本物のムスリムはこのように言われた時、
「恥ずかしい」「後悔」する。
何に対する「後悔」かというと、自分自身のアッラーに対する怠慢に、だ。
心の中で感じているこの後悔の念こそが、
「ハール」である。

後悔の念は、人間の心にある決意をさせる。
それは、「逆らうのをやめること」。
つまり絶対に罪に戻らないこと。
絶対今度はアッラーに背かないという決心。
この後悔の念が生まれ、イルムとハールと罪の放棄が伴えば、
タウバは成立する。

もし罪が、人の権利に絡んでいる場合は、
以上の3つに、「所有者への権利の返還」が追加される。
金を盗んだら返す。返す金がないなら、放免してもらう。
もしゆるしてもらえなかったら、問題だ。

罪は3種類に分かれる。
①赦されるもの:自分とアッラーの間の罪。
②赦されないもの:シルク(アッラーに何かを配すこと)
③放置されないもの:上で言った、他人の権利が絡んだ罪
③にはとても注意を払わないといけない。
自分の周りを見て、確認してみること。

イブン・マスウードのところに来たある男が、犯してしまった酷い罪を彼に打ち明け、
「私は赦されるのでしょうか」と言った。
それを聞いたイブン・マスウードは顔色を変え、男から背を向けて去ってしまった。
数歩歩いて後ろを振り返ってみると、男は何と泣いていた。
イブン・マスウードは男に向かい、言った。
「あなたが正直な心でアッラーに顔を向けたのなら、アッラーはもうあなたを赦してくださっただろう」

次のことを知りなさい。
アッラーは天国に80の門を設け給うた。
そのうちの一つは閉じることなくいつも開いているが、
それは「タウバの門」。

大罪にはいくつかあるが。
あなたが罪を犯した直後の感情はどんな感じか?
→罪を繰り返して犯すのは大罪であるという考え方がある
→罪を犯しても罪悪感がなく、恥ずかしいと思わないのは、大罪であるという考え方がある

例え話で説明すると:
子供が何かを壊したときに、「こら!何したんだ!」と呼びつけても、
「こわしただけじゃん!」と言って子供が逃げてしまったら、
あなたはさわに怒るのではないか?
物を壊したことに対してでなく、罪悪感のない態度が問題なのではないか?
人間が何か罪を犯しても罪悪感を持たないことが問題なのだ。
サーリク(アッラーにたどりつく道を志す者)はこうあるべきでない。
本物のサーリクは、とても小さい罪にも胸を痛める。

サラフのある人は、ブハーフ(合法のことがら)に対してもイスティグファール(罪の赦しを請う)
をしていた。またターア(崇拝行為)後にもそうしていた。
どういうことかというと、ターア達成後に、
「アッラーのおかげで自分はこれを達成できたのだ」という気持ちを
抱かなかったことに対するイスティグファールである。
またラービア・アルアダウィーヤは言った:
「私たちのイスティグファールは、イスティグファールを必要としています」
どういうことか?
「アスタグフィルッラー(私はアッラーに罪の許しを請います)」と言っても
心が同在していない。
こんな状態でアッラーに罪の赦しを請うなんて、恥ずかしい、
ということである。

以上が、タウバが示すさまざまな意味。

まず今夜から始めること。
タウバには終わりがない。
自分の間違いを知り、認め、それらすべてからタウバしよう。
タウバの意志をもって、2ラクア捧げよう。
この話を読んで満足するのではなく、
これは行動の始まりなのだ。

2ラクア捧げたのちに、今までの罪を思い出すこと。
そして死が近づいていること。
そして墓に入れられる情景をイメージすること。
そしてアッラーの御前に立つことを思い出すこと。
そこにはアッラーと自分しかいないこと。
そこでアッラーにお願いをするのだ。
主よ、あなたの御前に私がいます。弱く、罪深いしもべがいます。
私はあなたに帰ります。主よ、御赦しください。慈悲を垂れてください。

このようにアッラーに顔を向けること。
その瞬間に心に感じるものに注目しなさい。
この礼拝とドゥアーの後、
イスティグファールを習慣化すること。
毎晩できるようになれば、
「愛される者の境地」に到達できる。

إن الله يحب التوابين ويحب المتطهرين
ここのタッワービーン(ターイビーンより意味が強い)は、意味誇張の形をとっている。
そう、何度もタウバするしもべをアッラーは愛し給う、という意味。
タウバを途中でやめてしまっても、そこから再開したらいい。
しかしアッラーを弄んではいけない。
どういうことか?
「罪の後にタウバすればいいや」と考えることだ。
そして何度もあきらめずにアッラーに帰ること。

続く。
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強い動機(バーイス)の意味についてのメモ。

2010年05月05日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
信者の心を動かすバーイス(باعث)=強い動機。

何が人間を服従する者にするのか。そして何が人間を前者と違う不努力者にするのか。
何が「礼拝は眠りに優るالصلاة خير من النوم」を聴いて、目を覚まし、甘い眠りから起き上がらせるのか。
何が信者を夜中、「どのようにすればアッラーに近くなれるか」と考えさせるのか。
何が人生すべてをアッラーのために捧げる人にそうさせるのか。
何がラマダーン中、人々に崇拝行為を熱中させるものは何か。
それは、バーイス。
それは、アッラーが人間が心に投げ込み給うもの。

何十年も怠ける人間や、礼拝を放棄し、ハラームを食べている人が急に改悛することは、ある。
モスクに行くようになり、人間関係を改善する。それを見た他人が、「アッラーが彼をお導き給うたのだ」と言う程だ。
この導きとは、何か。
これは、アッラーが人間の心に投げ込み給うたもの。
これを、バーイスという。

バーイスはちょうど、何かに招待されるようなもの。
招待カードに、「出席してください」と記されている。
カードを受け取ったあなたは、出席しようか、という気が起こるだろう。

アッラーからあなたに届いた招待カード。
アッラーはしもべにかれに顔を向けるよう促し給う。

なぜここで招待を受け取る話をするかというと、アッラーは人間にバーイスを投げ込むために、
いくつかの理由を作り給うたから。

教育者たちは言う:
アッラーに接近しようとするバーイス(強い動機)が心に生まれるきっかけは、以下の5事項。
①関心の惹き付け(الترغيب):例)アッラーに近づきたいと思わせる何かを聴くなど、
②恐れさせること(الترهيب)、
③憧れさせること(التشويق)、
④他人から受ける影響=善良な人々との同席
⑤特に理由なし

私にはバーイスが必要なのである。アッラーへ連れて行ってくれる強い動機が。
1~2日で礼拝を辞めたり、1~2週間や1~2ヶ月でタズキヤ(自我浄化)を辞め、バーイスを失ってしまう様。
熱意を求めて夜中の2ラクアの礼拝を捧げていたのに、
もうしなくなっていたりするのはなぜか?
バーイスがないのである。
ではバーイスはどこに行ってしまったのか?

バーイスは、理由もなく現れることがあると↑に書いたが、
極限の怠慢の中に現れることもあるし、
一生懸命探して、アッラーに投げ込んでいただけることもある。

理由なくバーイスが現れることがあるのなら、寝て待てばよいのか?
ある人は礼拝せず、いつするのか?と聞かれると、
「アッラーがお望みになれば、するよ」と言う。
仕事をせず、「導き給う御方は、糧も与え給うだろう?」と言う人。
間違った発言ではないが、アッラーはその原因を自分たちで作るよう仰せになった。
原因を放棄して待つのではなく、きっかけを自分で作ること。

私たちはバーイスを必要としている。
それはなぜか?
何ヶ月経っても、あなたの心にバーイスが生まれないこと。
そんな状態で死を迎えてしまったら一体どんなことになるだろうか。
なおムスリムに年年間もバーイスが訪れないことは十分ありえる。
80年以上生きたのに、一度も「アッラーに接近しよう」というバーイスが生まれなかった人は、いる。
その原因とは何だろうか?
それは、戸を叩いていないから。
アッラーの戸の前に立たないのが原因。

私たちには、原因が必要ということ。
あなたも私も心にバーイスが生まれることを望んでいる。
これをどのようにして手に入れるか。

学者たちは次のように言った:
人間の自我は、次の3つを原因に影響を受けたり、感情的になったり、受容的になる。
①おそれ②(貪欲的な)期待③憧れ

例)糖尿病の人がお菓子を食べたいと思っている。血糖が高いのに、自我は甘いものを熱望している。
その友人は注意して、食べるな、と言う。これを食べると、失明するかもしれないぞ、と言う。
このように言われたらどうするか?きっと食べるのをやめるだろう。

自我が欲しているのに、甘い菓子を放棄させたものは何か?
「おそれ」である。
クルアーン中に多くの地獄の話、痛々しい罰の話などが出てくるのは、
ハディースが墓の罰について語るのは、なぜか。
人間がそれらを語られる必要があるから。
人間として必要だから。

この「おそれ」を知ることで、自我は目を覚ます。
自我には脅迫されることが必要。
あなたがいつか死ぬことを思い出すとき。それは確かに真実だ。
死後、アッラーに対面し、清算を受け、かれはあなたの行為について細かく質問し給うのだ。
あなたがスィラート通過について思い出すとき。
そこを通りきって天国に行けるのか、
または途中で落ちてしまい、地獄行きになるのか。
この思考の際に、注意するのである。
あなたがこれらのことを思い出し、
かつ、それらが真実であることを確信していると、
その瞬間心は覚醒し、アッラーに接近しようと思うのである。
以上は、「おそれ」がバーイスを生むことの説明。

子供(=私たち)は学校抜授業を一気に理解できない。
しかし父親は言う:「良く復習して、試験に受かったら、自転車を買ってあげよう」
このとき子供は何を思うか?
約束されたものを手に入れるために、自我の中にある怠けを追い出そうとするだろう。
人間とは、こういうものなのだ。
「(貪欲的な)期待」は大いに自我を動かす。
では私たちのこの貪欲的さが向けられるべきものとは何か?
それは、アッラーの許にあるものに自我が期待するもの。

あなたが、アッラーがかれに接近する人たちのために準備し給うているものを読むとき。
天国の住民に与えられる恩恵、川、王権、永遠の至福、
その中で最も大きい、アッラーの御満足の獲得。
これらの贈り物をあなたは熱望しないのか?
天国で最も貧しい人は、現世の10倍のものを得ると言われる。
これらの事実はあなたの心を動かさないのか?

قل يا عبادي الذين أسرفوا على أنفسهم لا تقنطوا من رحمة الله إن الله غفور رحيم
「わたしのしもべたちよ」とアッラーが仰せ給うている。
この寛大さとは何か?
アッラーはこんな私たちにこのように接し給うている。
ハディースには、毎夜の最後の時間に、
「罪の赦しを求める者はおるか、悔悟する者はおるか、われに頼みごとがある者はおるか?」
とアッラーが仰せ給うことが載っている。
アッラーは日中に罪を犯した者のために夜中手を広げ給い、
夜中に罪を犯した者のために日中手を広げ給うのだ。

自分とアッラーの間で犯された罪について考えてみること。
アッラーが私を暴露し給うたなら、誰も私に挨拶をしてくれないだろう。
何度アッラーは私を助け給うたか。
このような事柄が、あなたの心に、このように接し給うた寛大な主、
アッラーを熱望する気持ちを起こさせるのだ。

子供に対する母親の視線。
人々があなたの子供を責めている。
なのにあなたの心には、「私の子を放っておいて!これは私の子」と
子供に対する愛情が募るばかり。
ある教友がキャンプで、子を見失った母親を見た。
彼女は子を探していた。
しばらくすると子が彼女のところに来、走って行った。
彼女も子に向かって走って行った。
2人は抱きしめ会い、彼女も子も泣いた。
それを見ていた教友たちも皆して泣いているのを預言者(平安と祝福あれ)がご覧になった。
「何があなた方を泣かせたのですか?」と言われた。
「この女性の、子に対する愛情です」と彼らは答えた。
「彼女が子を火に投げ入れると思いますか」と預言者(平安と祝福あれ)は言われた。
「いいえ、決して」と彼らは答えた。
「アッラーはあなた方に対して、この母親よりも慈悲深いのです」と言われた。

アッラーのこの繊細な対応・・・
私たちは主を熱望しないのか?

アッラーへの熱望は、
「私はこの主とどのような関係にあるのだろうか?」
と自問させる。

バーイスは、「おそれ」「憧れ」「(貪欲的な)期待」で生まれる。

アッラーへの「おそれ」から、かれの怒りに対する「おそれ」から礼拝する。
アッラーから頂ける恩恵に期待して、アッラーに接近する。
アッラーを愛し、熱望して、アッラーに接近する。
「善良な人々と時間を過ごすこと」で、アッラーに接近する。

「善良な人々と時間を過ごすこと」とは?
ボタンを押して得られるものではない。
彼らを眺め、関係を作ることが、彼らにアッラーにより与えられた
恩恵へ熱望を心に生む。

彼らも以前の善良な人々と同席していたのであり、
その以前の人たちも善良な人々と同席していた。
これは鎖のように続いているもの。

あなたは以前に、このような人たちとズィクルをして、
「この人たちのようにアッラーにお仕えできたらなあ」と思ったことはないのか?
だからこそ、彼らとの同席は、バーイスを生む。

ではバーイスが生まれたら気を付けるべき3事項。
①このバーイスの保存。バーイスはアッラーからあなたへの贈り物。これを尊く、偉大に見ること。
人によっては重要視しないために失ってしまう。バーイスを清算し、強化すること。
つまり、悪友を避け、アッラーが満足し給うことにひたすら対面すること。そして悪魔の
ささやきを無視し、それに遭う度にタアウウズすること、付き合う人を選ぶこと。
②バーイスは3つのことで強化される:
1.ズィクル
2.アッラーに御許にあるものについての思考(死後のことやアッラーにどう対面するかなど)
3.善良なる人との同席
③バーイスの要求に応えること:どのように応えるか。善行を急ぐこと。何か思いついたら、
すぐに実行する。悪魔は、「後でやろう」とさせる。「今は微力なので完遂できないだろう」
と思うのではなく、とにかくやり始めること。アッラーに接近する機会を待つのではなく、
心がそうしたいと思ったときに、すぐそうすること。

バーイスを獲得した後は、タウバ(悔悟、改悛)。
続く。
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欲求の意味についてのメモ

2010年05月03日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
欲求の意味についてのメモ。

イラーダ(意志、欲求)の動詞はアラーダ(أراد)。クルアーンに何度も出てくる。
من يريد العاجلة عجلنا له
من أراد الآخرة
など。

ドゥンヤー(現世)追求は:卑しい行為であり、火獄へ到達させる道。
ドゥンヤーは:地球上にある人間が欲するものすべて。

ドゥンヤー追求が嫌われる由縁とは?
ドゥンヤー追求が嫌われる意味とは何か?
→①心の依存:無目的にこの世を生きること、衣食住のためだけに生きること。
  ②心が依存しているもので体が忙殺される:人間の食事、努力、睡眠なのどのすべてのために体が奉仕すること。

本来人間は、この世から何を必要としているのか。
→最低限生きるために必要なものは、食物と飲み物など生命の維持に必要なもの。
 他に、恥部を隠す服、寒さや暑さから隠れるための住居など。
どんな人間も、衣食住が最低限必要。
この3つから、人間の生活は進化、進歩していった。

食物を得るために、農業や狩りが発達し、住居の改善のために工業や製造が発達し、衣服の改善のために、織物などが発達した。
これらが発展し続けた結果が現代に見られるものすべて。

この3つは常に人間に思考させた。
思考するにつれ、人間間の関係の発達にもつながると同時に、相違が起き、(食物や家畜を原因に)争うようにもなった。
現代になってもこの状況は変わらない。
食料問題や水不足問題が該当する。
争いを鎮めるために、規則や法が生まれた。
以上を、「発展」と呼ぶ。

この発展は人間の精神に影響を与え、理性と心がそれで忙しくなった。
「どうすれば○○を手に入れられるか。」「どうすればぼられずに済むか。」と考える。
人間は時間のほとんどをこのような思考に費やすようになった。
そして、「嫌悪の心」が生まれた。
その原因は、妬み、自尊心、自惚れなど。
これらの心情は、人間の心が現世に深く絡んだ時に生まれた。

人間は当初、素朴な衣食住を求めたが、それらが改善され、充実してゆくに連れ、
生活を味わい、楽しむようになった。
食べ物の種類が増えれば、他人が持つ食べ物を欲しがるようにもなった。
元来は恥部を覆うのみであった衣服は、人間を区別するものになり、
遂には衣服を製造するようにもなった。
今では来ている服の種類でその人の地位が決まる。
住居も同様。

人間同士の争いの起源とは?
スケールを小さくして、一つの家族の争いである、夫婦問題、親子問題の原因は?
国家問題も、社会問題も、地域問題もすべて、その要因が結局のところ、
「人間の欲」に帰することが分かる。
じっくりと熟考すれば分かること。

だからこそ私たちは一緒に、「アッラーに到達するための道」について考えるべき。
一口の食べ物を体という預かり物ほ保護のために食べようと考える人と、そうでない人の違い。
私たちは欲を持って食べてもよいが、「アッラーが私たちのために準備し給うた」食べ物を頂く
ことに対する感謝と称讃の意を持つこと。

アリー(御満悦あれ)はかつて質問された:
あなた様は冷水または真水をお飲みになりますか。(当時の清貧者たちは禁欲の念から冷水を避けていた)
アリーは答えて:私は冷水を飲む。彼はどうしてでしょうか?と聞かれて、
それを飲むことで、心底から感謝が生まれるからだ、と言った。

暑い中、乾ききった状態での斎戒解除時に冷水を飲むことで、
あなたのアッラーへの感謝と称讃の気持ちはどのようなものになるか?
きっと、心から「アルハムドゥリッラー!」と言うのではないか。
真水であれば普通に「アルハムドゥリッラー」と言うだろう。
アッラーへの感謝の気持ちを生むために、飲食する大切さ。

同質の衣食住を持つ2種の人間について。
一人はアッラーに感謝して食べ、もう一人は欲を満たすために食べている。
この二人の違いとは。
①アッラーの満足を得たい②自分の欲を満たしたい
この2種の欲求の違い。
では人間はドゥンヤーを楽しむべきではないのか。
決してそうではない。
自分が創造された目的を忘れ、欲を満たすためだけに生きることに要注意。
その害とは?
それは、現在私たちが経験している腐敗の数々。
それらすべての原因は、「自分を満足させること」である。

人間がその自我の要求すべてに応じる危険とは?
①その要求は終わることがない上、どんどん不可能なこともを要求してくる
  金を集めることに満足すると、賄賂や騙しを使ってまでも金を集めようとするなど。
②その要求を満たしても、その幸せは一時的である
  自我の幸福は一瞬で終わる。①にあるように、常に違う要求をしては違う幸福を求めるから。

代わって来世を求める者たち:この者たちはドゥンヤーで良いものを食べ、良い家に住み、良い服を着るかもしれない。
いわゆる、ドゥンヤーを満喫している、ということであるが、
ただ彼らは「アルハムドゥリッラー(アッラーに称讃あれ)」と言う。
彼らの幸福は一時的でなく、現世でも来世でも続く。
彼らが「アルハムドゥリッラー」と言う度に報奨がたまり、
審判の日にその報いを受け取る。
アッラーはこのように仰せ給うだろう:
「あなたはわたしに感謝し、称讃した。その報奨と渡そう」と。
لإن شكرتم لأزيدنكم
クルアーンにもあるように、「あなた方が感謝すれば、われはあなた方に必ずや増加しよう」
とアッラーは仰せ給うた。
以上のように、ドゥンヤーを楽しむということ。

次に要注意なのは、
「自我を所有するのであり、自我に所有されないこと」である。
アッラーの御満足のために、自我に騙されないという十分な可能性があっても、
悪を避けること。自我に「ダメだ」と強く言い切れること。
自我は本当に裏切り者だから。

続く。
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最もレベルの高い境地

2009年12月20日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
イブラーヒーム・イブン・アドハムについて伝えられたところによると、彼は言った:「最もレベルの高い境地とは、あなたの主に専心して、心、理性そして四肢のすべてでかれに安らぎを求めて、あなたの主以外に何も望まず、あなたの罪以外を恐れず、かれへの愛があなたの心に根を張り、それに何の影響も与えられなくなることである。あなたがその通りであれば、陸にいても海にいても平地にいても山にいても何も恐れることはなくなるのである。また、あなたの愛する御方との謁見への慕情は、喉を乾かした者が冷水を激しく求める気持ち〔と同様〕になり、また美味しい食べ物を欲しがる腹を空かせた人の気持ち〔と同様〕になる。また、あなたにとってアッラーを念じることは蜂蜜よりも甘く、夏の暑い日に飲みたくなる純粋な甘い水よりも更に甘いものになる。」
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