退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「漢詩の名作集に登場する意外な人物たちあるいは『オリンピック』を代表とするイベントが消す『現実』」について

2019-10-25 02:12:39 | Weblog
雨。終日降る。

「漢詩の名作集」の続きを読む。

成島柳北が「那耶哥羅=ナイヤガラ」を漢詩にしているのに驚く。
蘇東坡、李白、王維、朱熹、陸游、杜牧らの作品もあり。

頼山陽、佐久間象山、室鳩巣、安積艮齊のそれも。
明日読了予定。

NHKスペシャル「東京ブラックホールⅡ」の再放送を観る。

過去のリアルな記録映像に「現在」をはめ込む映像にふむふむ。
オリンピックのために「犠牲」になったものの多さよ。

何より地方から集めた人々を「食い物」にして
その場限りのイベントのために「消費」した事実が印象に残る。

「オリンピックに金をかける前にもっと他の分野に」という意見が
実に「国民の半数以上」だった事実を忘れずに。

ただしいったんTVでオリンピックが放映されると
そうしたことが忘れ去られてしまったことも同様。

ひたすら「先進国ぶり」が演じられるために。

さて今回のオリンピックにはいったいどのような意味があるのだろう。
敢えて言うなら「崩壊寸前の社会を誤魔化すため」。

例えば原発事故によって増え続ける汚染水の処理がどうにもならないことや
地震・台風による災害にあえぐ「被災地の現実」を無視すること。

ラグビーのワールドカップを代表とする「イベント」を楽しめるのが
実は「限られた階層」である「現実」を「ないもの」にすること。

つまり。

相変わらず「現実に対する認識」がどうにも出来にくい国柄らしい。
「スポーツを楽しむ」以前に「苦しい生活」があることを。

そうした生活が「災害以前」に「普通にあったこと」も。
「TVの映像」はそうした「現実」を反映しなくなって久しい。

少なくとも前回のオリンピックには「先進国ぶり」という「大義名分」があった。
繰り返すが今回のそれに何かあるのかどうか。

かつて水俣の現状を描いた土本典昭が撮った東京の現実の中に
「都会を楽しむ暇もない」まま働いている地方出身の若い女子たちがいて。

「お蔵入り」になった映像を発見し教えてくれた番組のスタッフに感謝。
もっとも「彼女たちのその後」も気になるのだけれど。

「貧しさ」がまるで「穢れ」であるかのように消される事実よ。
その一点でいいから「そういうことがあるのだ」と覚えておきたいもの。
コメント
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