退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「経済に関する考察ふたつとあらためて『憲法二十五条』の意味」について

2019-10-07 02:05:35 | Weblog
晴れ。やや風が吹く。

ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大「そろそろ左派は<経済>を語ろう」を読む。

それなりの「富」を手に入れた先行世代が「脱成長」を掲げるのに対し
「景気がいい」という「経済成長」なくしてはやっていけないというお話。

すでに「ありふれた貧困」に対してあまりに鈍感な「左派」に
「経済的には圧倒的に不平等であるわが国の現実」を知れと。

「供給」の側ばかりでなく「需要」からも見てみれば。
マルクスの言った「搾取」が今また「現実」になっているのだと。

「階級」が出来上がっていることについても。
なぜかメディアではこの種のことが採り上げられないのは確かで。

「貧しさの罠」から抜け出せないのは「自己責任」ばかりではない。
とりあえずそういう声を上げていく人々はもっと増えてもいいかも。

マル激を観る。

今回は「最低賃金」から見えるものについて。
生活保護より少ない賃金しか得られていない事実があったり。

東京や神奈川で1000円を超える一方東北や九州ではまだ790円ぐらい。
いわゆる「都会」と「地方」での「生活費」がほぼ同じであることも。

これでは地方の若者が「都会に行く」のも止めようがない。
年間で40万円くらいの「格差」があるのだから。

中小企業は「最低賃金の上昇」に反対している模様。
とはいえ「最低限」を保障できない企業は「企業」なのかという疑問も。

「エネルギー革命」の時には平気で炭坑労働者を切り捨てた過去があるのに。
政府が負担を軽減するという手段もあるのだけれど。

とにもかくにも「普通の暮らし」をするのが実は相当に難しい現実が浮かび上がる。
「夫が主に稼ぎ妻はパートで支える」という「昭和幻想」の影響も大きいのか。

少なくとも「未来への希望」がなければどうしようもなく。
「結婚」も「子育て」も「贅沢」になっている事実のみが残る。

ひとつだけハッキリしているのは「緊縮財政」はダメだということ。
「楽しい今」がなければ「楽しい未来」などない。

「金をかけるべき分野」に関する選択の間違いがありそうな。
そして「貧しい人々の団結」が一層必要な気がするのだが如何。

根本的におかしいのは「最低限」が確保されていないことに尽きる。
われわれは憲法二十五条の意味を理解しているのだろうか。

曰く「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。
これは主権者である国民からの権力への「命令」であることを。
コメント
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