退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「残念な『マトリョーシカ=入れ子構造』」について

2018-04-19 01:52:30 | Weblog
晴れ。おだやか。

母親が病院に行くのに付き合う。

いつのまにか手術すると決めたようで。
医学的には「ガン」だけれど彼女の中ではそうでもなく(「信心」のせい)。

以前のPET検査では転移がないものの
数か月たっているのでもう一度ということになる。

「ガン」が以前とあまり変わりないことを医者は「幸い」だと言う一方。
今年「傘寿」になるのだから「顔面麻痺」のリスクを引き受ける意味があるのかどうか。

まして亡き父親が医者からさんざん「ガンじゃない」と言われた上で手術をして
「一時期の回復」もないまま死んだ同じ病院で。

母親の「決断」はこちらにとっては「意味不明」なまま。
それでも彼女の意志は尊重したいと思っての結果。

とはいえ彼女にそもそも「意志」はあるのかと思いつつ。
この「現実のデタラメぶり」には何とも。

帰りのコメダでは「残念な叔母」との「付き合い」の面倒臭さなど。
ウナギ屋に並んでいながら「ウンコやオシッコの話を大声でするのが恥ずかしい」と。

「どういう育ち方をしたんだろう」と言う彼女の問いに
「そういう育ち方をしたんじゃないの」と答える。

「今さら治るわけもないし」と。
おそらくこの種の「負担」をカバーしている人々は各地にいるのだろう。

「○○さん(母親)にあれこれ話すとスッキリする」というのが「残念な叔母の言い分」で。
それで仕方なく母親は「付き合っている」模様。

うーむ。

「残念な叔母」の「予備軍」として「上の妹」がいたりもして。
母親がいなくなったらどうなるのだろうとしばし考えた次第。

「緩衝材」になる存在がいなくなればぶつかるだけ。
やはり自分は「家族には向いてない存在」であることをあらためて。

ちなみに「母親の信心の趣味」にはあれこれ付き合った上でのことなのでよろしく。
その母親は上の妹の「占い好き」を笑っていたりするのも同様に。
コメント
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