POWERFUL MOMが行く!
多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 





 ジョヴァンニ・バリオーネ(Giovanni Baglione、1566年~1643年)は、カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年~1610年)と同年代に活躍した画家で5歳年長でした。ローマにあって、カラヴァッジョの敵対者となり、カラヴァッジョを「名誉毀損」で告訴までしましたが、カラヴァッジョの最初の伝記を残したのも彼でした。カラヴァッジョは、自画像を残していませんが、バリオーネは,カラヴァッジョが鏡に映した自分自身をモデルに、「病めるバッカス(Bacchio malato)」(67cm×53cm、ボルゲーゼ美術館)の絵を描いたと述べています(“Le vite de’pittori, scultori et architetti dal pontificato di Gregorio Ⅷ del 1572 in fino a’tempi di papa Urbano Ⅷ nel 1642”)。




 ドイツのベルリンには、「ベルリン美術館 (Staatliche Museen zu Berlin)」という美術館・博物館群があります。プロイセン王家の歴代のコレクションを基礎としています。そのベルリン美術館を構成する美術館の一つに「絵画館(Gemäldegalerie)」がありますが、ルネサンス芸術の区画には、カラヴァッジョの「勝ち誇るアモール(愛の勝利、Amor Vincit Omnia)」が、ジョヴァンニ・バリオーネの「聖なる愛と世俗的な愛(聖愛と俗愛、Amor sacro e Amor profano)」と並べられて展示されています。



 英語圏でキューピッド(Cupid)といわれるローマ神話の「愛の神」は、ギリシアでエロス(Eros)、イタリアでアモール(Amor)またはクピード(Cupido)と呼ばれます。カラヴァッジョは、その庇護者の1人であった銀行家の「ヴィンチェンツォ・ジウスティニアーニ侯爵(Vincenzo Giustiniani、1564年~1637年) 」のために「勝ち誇るアモール」を描いたといいます。バイオリン、リュート、楽譜、鎧、直角定規、コンパス、ペン、月桂冠などが描かれています。直接的にはジウスティニアーニ家の偉業の暗示であったようですが、愛は学問、地位など人間の営為すべてに勝るという寓意ともとれます。




 しかし、このキューピッドにはかわいらしさはありません。その笑みもはにかんでいるのか歪んでいます。私は、好きにはなれない作品です。しかし、当時のローマの芸術家には大いに注目されたようです。ミケランジェロの彫像「勝利の天才」を念頭において制作されたものと言われており、「銀座テアトルシネマ 」で上映中の映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」の中でも、バリオーネがカラヴァッジョに向かって「模倣ではないか」と非難しています。



 
 ヴィチェンツォの10歳年上の兄であったベネデット・ジュスティニアーニ枢機卿(Benedetto Giustiniani、1554年~1621年)」は、すでに著名であったジョヴァンニ・バリオーネに、この絵に対抗する絵画の制作を依頼します。バリオーネの「聖愛と俗愛」は、カラヴァッジョの「勝ち誇るアモール」を完全に意識しており、敬虔なカトリックであったといわれるバリオーネは、素行のよくないカラヴァッジョを非難するように、ルシファー(Lucifer、サタン、悪魔)とキューピッド(俗愛)との間に割って入り、カラヴァッジョの描いたアモールにそっくりなキューピッドを攻撃する構図となっています。身に付けている鎧もカラヴァッジョの描いたものとそっくりです。しかし、この絵はベルリン美術館にあるものとは異なります。ローマのバルベリーニ宮殿の「国立古典美術館(Galleria Nazionale d'Arte Antica di Palazzo Barberini)」にあるものです。

 この悪意に満ちた作品にカラヴァッジョは激怒したといいます。カラヴァッジョの周辺にいた人物に非難されたバリオーネは、別の作品を仕上げます。それが現在ベルリン美術館に展示されている作品です。




 身に付けていた鎧はカラヴァッジョの作品に描かれていたものとは異なるように描き直されていますが、代わりに、前作では背中を向けていたサタンがこちらを振り返っているように描き直され、その顔はカラヴァッジョにそっくりです。挑戦的ですね。しかし、画風はカラヴァッジョの影響を受けています。それほど、当時はカラヴァッジョの画風は衝撃的で多くの芸術家に影響を与えていたようです。バリオーネはやがてカラヴァッジョ風を脱却していきます。

 映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」はテレビ用に製作された(90分×前・後編)ものを編集して130分ほどの映画にしたもののようですが、テレビ放映時、カラヴァッジョをよく知っているイタリア人は楽しんだことでしょう。

            (この項 健人のパパ)

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 コーヒー(coffee、caffè、カッフェ)は、コーヒーノキ(pianta del caffè)の種子(コーヒー豆)を焙煎し、挽いた粉末からカフェインなどを含む成分を抽出し、湯または水の中へ溶解させた飲料です。コーヒー豆の原産地は、アフリカの東北部、現在のエチオピアだといわれています。アラブ人が、アビシニア高原から持ち帰ったことから飲用習慣が世界中に広がることになります。

 まず、イスラム世界でよく知られる飲み物となります。アラブ人は数百年という長い時をかけて、コーヒーを豊かな芳香を持った飲み物に仕上げました。アラブ人のコーヒーの飲み方は、例えば、トルココーヒーはごく小さく挽いたコーヒー豆を水から煮立てて、砂糖を加えて上澄みを飲むようです。濾すという過程がないようです。味が濃くて雑味があり、風味に欠けると思うのですが、どうでしょう。

 イタリアでは、画家「カラヴァッジョ(Caravaggio、1571年~1610年)」の生きていた時代の1605年、ローマ教皇クレメンテ8世(Clemente Ⅷ、Clemens Ⅷ、クレメンス8世。フランスとスペインを和解させた。「ジョルダーノ・ブルーノ」の処刑を許した。「ベアトリーチェ・チェンチ」を処刑して市民の暴動を招いた)は、教皇として初めてコーヒーを飲み、キリスト教徒がコーヒーを飲むことを認めたといいます。宗教が民衆の口にするものまでに口を出した時代でした。

(参考) 「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」でカトリック教会の「異端審問」を見る

(参考) 「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」で「ベアトリーチェ・チェンチ」の悲劇を知る

 イタリアでは、「コーヒー(カフェ、カッフェ)」といえば、「エスプレッソ(espresso)」をさします。エスプレッソは、コーヒーの抽出方法で、イタリア語“espresso”は、「速い」という意味。深煎りしたコーヒー豆を微細に挽き、高気圧(9気圧)の下で約90℃のお湯を用いて、短時間(20秒~30秒)に抽出したものです。なぜ、加圧し90℃程度のお湯で抽出するかというと、この条件下で最適にコーヒーの成分を抽出でき、この条件を外れると雑味も出てしまうのだそうです。エスプレッソが豊かな芳香を持っているのは、芳香が含まれるコーヒー豆の脂質がこの条件下で十分に抽出できるからだといいます。

 日本では、「エスプレッソ」という抽出方法のコーヒーを飲もうとすると、そう指定しなければなりません。その方法では提供していない店もあります。日本では、アメリカと同様に、ドリップやサイフォンでコーヒーを淹れるのが一般的なのです。しかし、日本にもイタリアのようにエスプレッソで淹れるコーヒー店があります。「セガフレード・ザネッティ」もその一つです。

 イタリアには、コーヒーを焙煎する業者が700社以上あるといいます。その中で質のいいものを提供している大手の業者では、イリカフェ社(Illy Cafe、1933年にトリエステでフランチェスコ・イリー(Francesco Illy)が創業)、セガフレード社(Segafredo Zanetti、1973年にボローニャでマッシモ・ザネッティ(Massimo Zanetti)が創業)、ラヴァッツァ社(LAVAZZA、1895年にトリノでルイジ・ラヴァッツァ(Luigi Lavazza)が創業)が有名です。カフェ・ラバッツァは今は原宿店しかありませんが、以前大宮のルミネにもあって幾度か通いました。



 「セガフレード・ザネッティ」は、コーヒーの焙煎メーカーで、イタリアのボローニャに本部を持ち、「バール(bar、軽食喫茶店)」をチェーン展開していて、ヨーロッパに200以上の店舗を持ち、日本では20店舗あります。営業形態は、世界規模で展開するコーヒーのチェーン店「スターバックス (Starbucks) 」に類似します。最近、スターバックスのコーヒーの味に満足を得られなくなった私は、このセガフレードやタリーズ(TULLY'S COFFEE)にコーヒーを飲みに行くことが多くなっています。



 セガフレード・ザネッティに10回通ったので、「クラブ・ミオ・バール(Club Mio Bar)」に入会できる資格ができました。Coffee Cardに10個のスタンプが押されたので、エントリーカードを受け取り、ネットで登録しました。埼玉県入間郡三芳町大字上富2204にある関越自動車道の三芳PA(上り線)内にある「Pasar三芳」の店を受け取り店舗にしたので、夫に連れて行ってもらい、「カード・ロッソ(Card Rosso)」を受け取りに行ってきました。「カード・ネロ(Card Nero)」に昇格するには、500回も通わなくてはなりません。さらに「カード・オロ(Card Oro)」になるには、1,000回です。毎日1回通っても、3年ほどかかります。そんなに通うかな?



 エスプレッソは、1杯280円で、1,000杯飲むと30万円ほどかかります。でも、金色のカード(カルテ・ドーロ、Carte d'oro)を持っているとステータスかな。10%の割引もあるしね。



 「Pasar三芳」にあるセガフレード・ザネッティは、フード・コートの中にある小さなストール(店)で、座席は共通です。バールの雰囲気を味わうことはできません。でも、ここの店員さんの淹れてくれたカプチーノは美味しかったな。店員さんの腕によって、味にばらつきが感じられます。上手な人にあたったんですね。
 


 埼玉県では、新座市東北2-39-10のドゥーセット弐番館1Fにある「志木店」、朝霞市西原1-2-2のリーヴ北朝霞ビル1Fにある「北朝霞店」があり、その他に東京都港区高輪3-26-27のルミネザキッチン品川1Fにある「品川店」、東京都新宿区歌舞伎町1-30-1の西武新宿ペペ1Fにある「西武新宿ぺぺ店」の4店舗に通い、スタンプを10個ゲットしました。バールの雰囲気を味わうことができます。バールといっても、スタバを経験していると大きく変わりませんけど、、、



 セガフレード・ザネッティがスターバックスと違うのは、フードメニューが充実していることです。まず、「パニーノ(panino、複数形がパニーニ(panini))」があります。「ハム・チーズ・ベーコン(Ham & Cheese & Bacon)」、「カプレーゼ(Caprese)」、「シュリンプ・ポテト(Shrimp & Potato)」、「カルボナーラ・きのこ(Carbonara & Mushroom)」といった種類があります。この他に、サンドイッチ、ホット・サンドイッチ、アンティパスト(前菜)、そして、ドルチェ(ケーキの類)があります。

 カプレーゼというのは、トマトとモッツァレラチーズのサラダをいいます。私はこれを注文しました。パン生地の間に挟まれています。“Caprese”とは、「カプリ島民の」という意味で、もともとはこのあたりの郷土料理であったようです。カプリ島 (Isola di Capri) は、ナポリの南約30kmにあります。今回のイタリア旅行は、北イタリアが中心で南イタリアには行きません。でも、いずれは行きたいですね。

もっと、日本に「セガ」(セガフレード・ザネッティ)が増えるといいですね。

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 2月15日の月曜日に東京都千代田区丸の内2-4-1の「丸の内ビルディング35階」にある「RISTORANTE HiRo CENTRO(リストランテ・ヒロ・チェントロ)」のイタリアンランチを「銀座テアトルシネマ 」で上映中の映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」を見た後、楽しんで来ました。



 「銀座テアトルシネマ 」の近くで、食べ物にお金をかけたがらない夫の反対に遭わないイタリア料理の店を前日午前2時頃までネットで探しました。夫は書籍にはお金をかけるのですが、食べ物には栄養素をバランスよく取れれば、コストはかけない方がいいという人です。「ランチ、どこで食べようか。」の問いかけに、「え、考えてないけど。行き当たりばったりだね。目についたところでいいよ。」

 パンツェッタ・ジローラモさんが「食べちゃおイタリア」(光文社、1998年)という著書の中で言っています。

 「“食べる”ことについての、僕らみんなのスタンスは様々だ。ただ生命維持のための栄養摂取として食べる人もいれば、反対に食べることこそ人生最大の楽しみ也、という人もいる。

 夫は前者に限りなく近く、私は後者に近い。夫は食べることに関心は薄いのですが、「美味い」「不味い」は言う。夫の父親は食べることの好きだった人で、夫の子供時代、よく父親に連れられていろいろな店に行ったそうです。夫の父親は家庭でもよく料理を作るのを楽しんでいたそうで、夫がそんな人の子だとは信じられません。夫の父親は40歳代に亡くなってしまったので、私は会ったことがないのですが、食に関心が強く、旅行好きの私と趣味が一致するので、会いたかった。きっと、夫とよりも話が合ったことでしょう。とても残念です。

 私と同じで、薄味好みで化学調味料を使った味付けを嫌う夫は、外食に高いコストをかけても外れることも多いと思っているようで、それならば多少味付けに我慢しても安ければいいと考えているようです。そのうえ、食事にかける時間を削って読書をしたがる夫は、よく「松屋でいい。サラダも付いてご飯も美味しく、注文してすぐに出てくるからね」とまで言います。

 でもね、本当に久しぶりに2人で映画を見に来たのだから、いま見た映画の感想をゆっくりと落ち着いたお店で語り合いたいのよ。あなたの合理主義にはロマンがないのね。目的地から次の目的地に直線で行きたがる、それも早足で行きたがるあなたはせっかち!あなたには意味の感じられない「そぞろ歩き」も人生には必要よ。

 イタリアには「パッセッジャータ(passeggiata)」という言葉があります。法政大学工学部建築学科教授「陣内秀信」さんの「イタリア小さなまちの底力」(2000年、講談社)から引用してみます。

 イタリア都市を理解する上で、重要なキーワードとして、「パッセッジャータ」という言葉がある。日本語に訳すと 「散歩」となるが、これでは雰囲気がまったく伝わらない。日本の散歩は、自然に触れられる落ち着いた場所を、一人で瞑想にふけり、あるいは犬を連れてのんびり歩くというイメージだが、イタリアのパッセッジャータは、都市空間の中の社会化された一種の集団パフォーマンスとして成立する。

 どの町にも、夕食前のひととき、老若男女の市民がどっと繰り出し、友人たちと練り歩く華やかな街路空間というものが、必ずある。時間帯は、季節によって多少異なるが、夕方のほぼ六時から八時頃までで、お酒落して同じ道筋を行ったり来たりするのがミソである。そして居心地よく、しかも晴れがましい気分で滞留できる広場とリンクしていることが多い。町によっては、昼食前の時間帯にもやはりパッセッジャータが行われる。


 2月17日はあいにく雨が降っていました。夫と手組んで銀座周辺を「そぞろ歩き」したかったのですが、手に持つ傘が私たちの間を裂きます。相合い傘もよかったのですが、持っている傘は軽量の折り畳み傘で径の小さいもの。一つの傘に入ると肩に雨がかかってしまいます。残念!

 リストランテ・ヒロ・チェントロでは、リクエストして窓際の席にしてもらいました。真下の方には東京駅が見えます。新幹線も見えます。小学5年生の我が子「健人」は、いま、夫からのお下がりであるデジカメに夢中で、小遣いで3,000円のJR東日本の「土・日きっぷ」を買っては、土・日に新幹線に乗ってムービーを撮りに出かけています。次回は、健人を連れてきて、上から眺める新幹線を見せてあげようかな。



 ヒロ・チェントロでは、「カメリエール(cameriere、ウェイター)」にいろいろと質問してみました。最初に出てきたパンの脇に小皿に入ったオリーブオイルが付いていたので、尋ねてみました。

「フルーティな香りがするし、軽い感じのオリーブオイルだけどが、どこのものなの?」
「いま、瓶をお持ちしますね。」
「イル・レッチェート(IL LECCETO)と読むのかしら。」
「そうですね。当店ではこれを使っています。」

 イル・レッチェート(IL LECCETO)社のオリーブオイルは、トスカーナ州シエナ郊外の65軒の栽培農家(olivocoltore)からなる協同組合によって生産されるエクストラバージンオリーブオイルなのだそうです。無農薬で栽培されたオリーブを手摘みで採取して、ノンフィルターで仕上げているようです。「ノンフィルター」は、数か月かけてゆっくりと雑物を自然沈殿させ、その上澄みを出荷するもののようです。

 遊離オレイン酸の割合が低いので、酸化しにくく、安定した高品質なオイルなのだそうです。フラントイオ種(Frantoio、40%、フルーティな品種)とモライオーロ種(Moraiolo、40%、辛みのある品種)、レッチーノ種(Leccino、20%、繊細な味と香りのある品種)が合わさっているようです。日本では、250mlほどのものが1,500円程度で売られているようです。

 パンにはお塩がかかっており、そのパンを夫が気に入りました。そこでまた質問。

「このパンにかかっているお塩、どこのものなの? 私もお塩に凝っていて、何種類も揃えているの。」
「厨房の話ですと、メキシコ産が97パーセントで、それに日本の塩を3パーセントとブレンドしているそうです。」



 Pranzo A(プランツォ、昼食、1,500円)をいただきました。メインディッシュ(Primo Piatto)は「飯蛸とハニーキャベツのプッタネスカソーススパゲッティーニ」か「本日のスパゲッティーニ」(菜の花と地鶏のスパゲッティーニ)でした。2人だったので、それぞれ取ってみました。



 「スパゲティ・アッラ・プッタネスカ (Spaghetti alla Puttanesca)」は、アンチョビなど小魚(その代わりに今回は飯蛸)に、トマトソース(Salsa Pomodoro、サルサ・ポモドーロ)、ケイパー(cappero、カッペーロ、カッペーロの実をワインビネガーと塩で漬け込んだもの)、オリーブ、赤唐辛子、黒胡椒などで味付けしてあります。



 「飯蛸とキャベツ」の方は、パスタにキャベツなのでどんな味なのかとちょっと警戒しながら注文したのですが、キャベツの甘みが意外にも唐辛子などの香辛料とマッチして、ドライトマトも入っており、おいしいと感激しました。「菜の花と地鶏」の方は、3種類のチーズがからめてあり、ソースにケイパーを加えてあり、チーズを重く感じさせないで、こちらもおいしくいただけました。欲を言えば、もう少しお肉の量があったらうれしいと思います。



 「甘い」という意味と同時に「甘味」という意味も持つ「ドルチェ(dolce、複数形はドルチ(dolci))」は、デザートです。そのデザートは、「マスカルポーネ (mascarpone、クリーム・チーズ。ティラミスの材料)」がイチゴ(fragola、フラゴーラ)にかかっています。

 イタリアは東端でスロベニアと国境を接しています。国境を接するのはフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州で、州都は「トリエステ(Trieste)」です。このまちに、フランチェスコ・イリー(Francesco Illy)の創立した(1933年)「イリカフェ社(illycaffè S.p.A)」があります。イリカフェ社は、エスプレッソマシン専用のコーヒーを製造・販売する企業です。厳選されたアラビカ種のコーヒー豆を100%使用して、苦味と酸味の絶妙なバランスを作り出す「イリー・コーヒー」は、多くのバールで使われています。

 イリカフェ社はブラジルのセラード地区(広大な高原エリア。ブラジル全土におけるコーヒー豆の生産量の約15%を占める)の現地農園に技術者を派遣し、栽培から販売までを指導しているそうです。そこで生産された高品質コーヒーは市場価格以上の値段で買い取られるので、他の生産者も高品質コーヒーの栽培に挑戦することになり、セラード地区以外でもクオリティーの高いコーヒーの生産が進んでいるのだそうです。



 食後のコーヒーに、デカフェのカプチーノを頼んでみました。私たち2人はコーヒーが好きなのですが、午後に飲むとその日の夜は眠れなかったり眠りが浅かったりするように少し前からなってしまいました。お昼を過ぎたら、カフェインレスのコーヒーしか悲しいことに飲めません。

「コーヒーはどこのものなの?」
「イリーです。」
「ああ、やっぱり。お願いがあるの。デカフェがあったら、それにしてもらいたいんだけど。」
「ございますよ。」
「まあ、嬉しい! 置いてないところが多いのよ。」
「健康志向の外国人のお客さまが注文することがあるものですから。」

 カプチーノ、美味しくいただきました。映画も満足、お食事も満足。いい一日でした。でも、この夫、心の中では思っているかも知れません。「松屋」に入ったなら、栄養的には同等で、1,800円ほど浮いて、それで本が1冊買えたのに、と。「食」も絵画、彫刻、建築と並んで、れっきとした文化なのですよ。「読む」だけでなく、「食べて」も文化を学ばなくっちゃね!

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 西日本で有名な進学校に「愛光学園」があります。愛媛県松山市衣山5-1610-にあり、中高一貫教育を実践しています。2002年には創立50周年を迎えています。例えば、自由民主党所属の衆議院議員で、元内閣官房長官であった「塩崎恭久」氏は、出生地が愛媛県松山市であったことから、愛光中学を卒業しています。

 愛光学園は、ドミニコ会を設立母体とし、カトリック精神に基づいて「愛(Amor)と光(Lumen)の使徒」たる「世界的教養人」を育成することを目標としている学校なのだそうです。キリスト教において、禁欲的な信仰生活に入った人がイエス・キリストの精神にならって祈りと労働のうちに共同生活をおくる施設を修道院(Monastery、Abbey)といいますが、その修道院を運営する修道会の一つに「ドミニコ会(Ordo Praedicatorum、Ordine dei Frati Predicatori)があります。

 そのドメニコ会の修道士に「ジョルダーノ・ブルーノ(Filippo Giordano Bruno)」がいました。ナポリ大学で学んだブルーノは、ドミニコ会に入会し神学博士となります。独自の思想に傾斜したブルーノは、異端の嫌疑をかけられ、異端審問所の追及を逃れようとヨーロッパ各国を放浪せざるをえなくなります。スイス、フランス、イギリス、ドイツと転々とします。いろいろな地で数学者や哲学らと論争を巻き起こし、定住できませんでした。

 イタリアに戻ったブルーノは、パドヴァに滞在し、空席となっていたパドヴァ大学の数学教授の座を得ようとしますが、デル・モンテ枢機卿(カラヴァッジョの庇護者でもあった)の助力を得た「ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)」に教授職を持っていかれてしまいます。ヴェネツィアに入ったブルーノは、官憲によって逮捕され、ローマの異端審問所に引き渡されることになります。

 ローマに移されても、異端審問はなかなか行われませんでした。ブルーノが自説を撤回することを望んでいたのです。獄中で7年を過ごした後、異端審問が行われます。イエズス会の司祭で、ローマ・カトリック教会の枢機卿であった「ロベルト・フランチェスコ・ロモロ・ベラルミーノ(Roberto Francesco Romolo Bellarmino)」は、ブルーノが唱える説の撤廃を求めます。 

 ブルーノはこれを拒絶します。異端判決が下り、火あぶりの刑となります。異端審問の場で、ブルーノは「判決を聞く私よりも判決を下すお前たちの方が(恐怖に)震えているじゃないのか」と言ったといわれています。映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」の中では、この出来事を1シーンで描きます。「カンポ・デイ・フィオーリ広場(Piazza Campo dei Fiori)」に引き出され棒に縛り付けられたブルーノに、ベラルミーノはその説の撤回を迫ります。これに対し、ブルーノは、毅然と撤回を拒絶し、“Forse tremate più voi nel pronunciare questa sentenza che io nell'ascoltarla.”と言います。ブルーノの周りに積み上げられた薪に火が放たれます。

 科学の問題について、教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱した「ガリレオ・ガリレイ」も異端審問にかけられます。ドミニコ会の修道士がローマ教皇庁の「検邪聖省(以前の異端審問所)」にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えたのです。このときは、ベラルミーノ枢機卿は、無罪の判決を下します(1616年)。

 ガリレオは、地動説の解説書である「天文対話」を執筆します(1630年)。出版されると(1632年)、再度異端審問にかけられ、有罪の判決が下されます。ベラルミーノ枢機卿は1621年に死去していました。終身刑を言い渡されますが、軟禁に減刑になり、フィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘で1642年、没します。

 1600年2月17日、ブルーノの焚刑を見にカンポ・デイ・フィオーリ広場に集まった群衆の中にカラヴァッジョがいます。その目には、貴族や聖職者に対する怒りが感じられます。しかし、この時代は、いや今も、絵画を注文したり、購入したりするのは富裕な人たちです。カラヴァッジョの生きた時代の16世紀末から17世紀前半は、富裕な人たちは貴族や聖職者たちでした。カラヴァッジョのとれる抵抗は、聖職者がその権威を強化しようとして発注する宗教画の中に庶民を描くことでした。




 長靴の形をしたイタリア半島のふくらはぎのあたりに「ロレート (Loreto) 」という町があります。フィレンツェのあるトスカーナ州のほぼ東、アドリア海にほど近いマルケ州アンコーナ県の町です。この町には、「聖なる家(La Santa Casa、サンタ・カーザ)」があります。「聖なる家」は聖母マリアが生まれ育ち、天使ガブリエルから受胎を告知されたときに住んでいた家であり、幼少のイエスと暮らした家とされます。

 ナザレにあった「聖なる家」は、イスラム教徒から難を逃れるために天使が運んだといわれています。各地を転々とし、最後にロレートに落ち着きます。ロレートは聖地を訪れる巡礼者の目的地の一つとなります。カラヴァッジョの描く「ロレートの聖母子(Madonna di Loreto)」(1604年頃の作品)は、巡礼者の親子を温かく迎えています。

 泥にまみれた足裏を鑑賞者に向けていますが、庶民の巡礼者にとっては身近に感じられるものであったことでしょう。宗教画は聖職者の支配の道具ではなく、庶民の信仰の拠りどころであったのです。聖母マリアは、娼婦マッダレーナ・アトニエッティ(Maddalena Antonietti)をモデルとして描かれたといい、カラヴァッジョの庇護者「デル・モンテ枢機卿」を激怒させたといいます。映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」の中でもそのように描かれます。

 イタリア語“Campo”は「野原」、“Fiore”は「花」(男性名詞、複数形がfiori)の意味で、“dei”は「de(~の~)+i(男性複数名詞の定冠詞)」です。つまり、カンポ・デイ・フィオーリ(Campo dei Fiori)は、「花の咲く野原」の意味になります。この場所には処刑場がありました。皮肉ですね。人々の心を救うはずのキリスト教が人々を抑圧する道具となったことと重なります。

 いま、カンポ・デイ・フィオーリ広場には、月曜日から土曜日までは食料品が中心の朝市が開かれ、日曜日には雑貨や衣料品の市が開かれるようです。しかし、いつでも花屋は開店しており、花の香りを漂わせているそうです。それを広場の中心で、「ジョルダーノ・ブルーノ」の像が見つめています。

               (この項 健人のパパ)

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 十数年前のイタリア旅行で嵌ったのがカプチーノ。カプチーノ(カップッチーノ、cappuccino)は、エスプレッソ(espresso、深煎りの微細に挽いたコーヒー豆を圧力をかけて短時間で抽出したもので、コクがある)に、クリーム状に泡立てた牛乳を加えたものをいいいます。シナモンやココアパウダーで風味付けされていることもあります。駅のバール(bar、喫茶店)などで立ち飲みをしていました。最近では、毎朝カプチーノを1人で楽しんでいます。

 コーヒーの淹れ方は食物栄養専攻であった学生の頃、厳しい教授から本格的に習ったので、素人ながら香り高いものを楽しんでいるのですが、タリーズでコーヒー・スクールが開催されているというので、自分の知識を更に深めたいと参加してきました。タリーズコーヒー(Tully's Coffee)は、1992年にシアトルで発祥し、高品質を追求して、世界各国の厳選した豆を使用しているコーヒーショップです。

 コーヒー・スクールは3コースに分かれており、私は今回は、コース1「簡単!おいしい!<コーヒーの淹れ方・楽しみ方>」に参加しました。コース1は、コーヒー豆の知識、ハンドドリップの方法、アレンジコーヒーを扱っていました。アレンジコーヒーとは、コーヒーにいろいろな物を混ぜ加えて味わいを変えたものです。



 コーヒーや器具を見て、触って、淹れて、飲んでという体験する内容でした。コーヒーの知識は、神戸のUCCの「コーヒー博物館」で勉強した経験がありますので、ちょっと物足りない部分もあったのですが、実技は久しぶりなので楽しめました。その内容は、UCCのサイトで「コーヒーの淹れ方」の動画見て知ることができます。

 神戸に私たちが行ったのは、4月でしたが、普段見られないというコーヒーの花の開花を楽しむことができました。次回は、本格的なコーヒースクールに参加したいね、と夫と話していましたが、ここ数年、日常に追われ、実現していません。

 タリーズのスクールでは、ペーパードリップのセットの仕方からという基本的なことも習うのですが、人によって淹れたコーヒーの味や香りがこんなに違うのかしらという経験をして来ました。



 これも、近々訪れるイタリアの事前準備です。今回は、イタリアのエスプレッソ・マシンを購入してこようと思っています。イタリアのマンマたちが家庭で使用している「モカ・エクスプレス (Moka Express、部品のゴムパッキンを交換すれば、半永久的に使用出来るそうです)4人用(日本で3,700円程度で買えます。ゴムパッキンは340円)」を購入して使用してみたいと考えています。実は前回、時間の余裕がなく、購入し損ない、苦い思いをしています。

 「極楽イタリア人になる方法」や「パスタとワインと豚のシッポ」などの著作のある「パンツェッタ・ジローラモ(Panzetta Girolamo)」さんのお話しを「食べちゃおイタリア!」(光文社、1998年)から聞いてみましょう。

 聞くところによるとバールの原型は、カッフェだそうだ。きっと観光でイタリアにいらした皆さんが、史跡見物や買い物に疲れて、よいしょっと腰掛けてカプッチーノなぞ召し上がった、グランカッフェなんたら、バールなんとかこそ、実際には今僕のお話ししているバールより由緒正しいんだろう。イタリアのカッフェ第一号店といわれる、ヴェネツィア、ピアッツァ・サン・マルコの“カッフェ・フロリアン”。その昔多くのインテリたちが出入りしたという、ローマの“カッフェ・グレーコ”、ナポリの“カッフェ・ガンブリヌス”。歴史に名が登場するのは、全て“カッフェ”なのである。

 それが戦後、アメリカの影響で“バール”と呼ばれるようになった時、同じバールでも、カッフェ時代の名残も色濃い酒落たバールと、今では庶民の間にすっかり根をおろした泥臭いバールに枝分かれしていったらしい。そして後者での話題は、かつての文学、芸術、政治談議からは遥か彼方、この前の日曜日のカルチョ(サッカー)、近所の噂、新聞の受け売り合戦へと進化(?)を遂げたのである。


 そういえば、バールでパニーニも食べ損なっています。「パニーノ (panino、複数形はパニーニ (panini)) 」は、パン(pane、パーネ)で具材を挟んだイタリア料理です(パニーノ・インボッティート(panino imbottito、具材の詰められたパン))。ヨーロッパで言うところのサンドイッチです。ヨーロッパのサンドイッチは、食パンに具材が挟みこんであるとは限りません。パンに深い溝を切り込み、そこに具材を挟んであります。日本のような、パンを薄く切り、その間に具材を挟んだ物は「トラメッツィーノ(tramezzino。tramezzoは部屋を区切る仕切り、tramezzinoはそれの小型版。仕切られたパン)」と言われます。

 東京でパニーニが流行り始めてから、かれこれ一年ほどたつだろうか。皆さんにも、もうすっかりお馴染みのことでしょう。でも例えば紀ノ国屋なんかで「パニーニ一つください」、なんて注文してるのを見ると笑っちゃう。だってパニーニはパニーノの複数形だ。一つだったら「パニーノ」と言わなくちゃあいけません。

 まあそんな文法的なことはさておいたとしても、高級スーパーやお酒落なカフェのパニーノなんて、僕にはまるでピンとこない。だってパニーノは、僕らイタリア人にとって最も日常的な軽食の代表だからだ。酒落た場所なんて緑のない子供の頃から大変お世話になってきた、マンマの味の次に控える懐かしい心のよりどころ、そして発育期には欠かせないバランス栄養食なのだ。


 今回のイタリア旅行は、イタリアの庶民の生活を旅行者ではあっても、じかに感じる旅にしたいと考えています。

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 ローマのユダヤ人居住区(ローマ市内を流れる「テヴェレ川(Tevere)」に浮かぶ「ティベリナ島(Isola Tiberina)」の北の対岸に広がっていた。1555年に、ローマ教皇パウルス4世によってローマにゲットー((ghetto、ユダヤ人居住区)が築かれている)と接するチェンチ宮(Palazzo Cenci)に住む「フランチェスコ・チェンチ(Francesco Cenci)」という貴族がいました。その暴力的気質と不道徳極まりない行跡でローマ中で有名でした。裁判沙汰になることも度々あり、貴族でなければ幾度となく牢獄に入れられ、ことによっては死刑に処せられていたことでしょう。

 その娘に「ベアトリーチェ・チェンチ(Beatrice Cenci、1577年~1599年)」がいました。7歳の時に、母「エルシリア(Ersilia Santacroce)」が亡くなると、修道院の寄宿学校に入り、穏やかな生活を8年間過ごします。しかし、15歳のとき、チェンチ宮に戻ります。このときから、ベアトリーチェに地獄が始まります。

 ミラノに生まれ、カラヴァッジョ村に育ったミケランジェロ・メリージは、ローマに出て、カヴァリエール・ダルピーノの工房で働き始めます(1593年)。映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」(「銀座テアトルシネマ 」で上映中)では、絵画を買い求めに来たフランチェスコ・チェンチの乗りつけた馬車の中からベアトリーチェは、カラヴァッジョに声をかけます。父親は工房の中に入っていました。馬車から降りるように誘ったカラヴァッジョの申し出をベアトリーチェは父フランチェスコを恐れて断ります。

 このシーンで、類稀ない美しい女性に成長したベアトリーチェをフランチェスコは他の男が寄りつかないように軟禁状態にしていたことを描きます。精神に異常をきたしていたフランチェスコは美しい娘の精神と肉体を痛めつけることに快楽を覚えていたのです。ついに、快楽のはけ口を娘の体に求めるようになります。彼女に同情した継母「ルクレツィア・ペトローニ」や家来たちは、ベアトリーチェに手を貸し、フランチェスコを屋敷のベランダからの墜死を装って殺害します。

 バルコニーから転落して死亡したには傷が不自然で、遺体の埋葬を急ぐ遺族に対し、周囲は疑惑を感じます。殺害されたのではないかという噂に、警察当局も動き出し、フランチェスコの遺体は掘りおこされ、検死にかけられ、家長殺しは露見します。

 ことの顛末は、映画の中の敵役「ラヌッチョ・トマッソーニ」の口から、カラヴァッジョに語られ、それを聞いたカラヴァッジョは「貴族社会の不条理」に激怒します。映画の中では彼の激情はすべて正当な理由のあるものとして描かれています。



 ベアトリーチェは断頭の刑を言い渡されます。処刑の直前、チェンチ家と縁のあった枢機卿が画家「グイド・レーニ(Guido Reni)」とともに、牢獄を訪れます。ベアトリーチェの肖像を描かせるためでした。断頭の刑ゆえに、髪をまとめてターバンを頭に巻かれたこの女性の悲しみが伝わってきます。ベアトリーチェが刑死してから200年ほど後に生まれたイタリアの画家「アキッレ・レオナルディ(Achille Leonardi)」は、この出来事を「牢獄のベアトリーチェ(Beatrice Cenci in prigione)」として描きます。



 処刑は公開で行われました。1599年9月11日、サンタンジェロ橋の広場で、ベアトリーチェとその義母「ルクレツィア」は断頭台に立ちます。ベアトリーチェは22歳、肖像画を描いたレーニは24歳でした。この経験が彼に何らかの影響を及ぼしたのでしょうか。生涯独身を貫くほど女嫌いで、賭博に明け暮れたといいます。しかし、その残した作品は光彩を放ちます。かつては名門貴族の館であった「バルベリーニ宮殿」の2階のフロアは「国立古典絵画館」として使われており、そこにグイド・レーニによる「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」があります。深い、深い悲しみが描かれています。



 映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」の中では、カラヴァッジョはこの処刑を見て、「ホロフェルネスの首を斬るユディト(Santa Caterina d'Alessamdria)」の制作に取りかかったと描かれます。しかし、映画は必ずしも歴史にすべて忠実に作られるものではありません。そこには虚構が存在することも許されます。この作品が製作されたのは 1595年~1596年頃だと考えられています。ベアトリーチェの処刑(1599年)に先立っています。

 映画の中で描かれるのはわずか3シーン。でも、それにはこの悲劇が凝縮されています。

 カラヴァッジョ自身が生来持っていたであろう「暴力性」と「残虐性」がこのテーマを選ばせたというのが本当のところでしょうが、映画では貴族社会の不条理を描いたと表現されています。ユディトの嫌悪の表情がよく見て取れます。人の首をこのような体勢でしかも女性が切り落とせるとは思えませんが、この絵を見た者に大きなショックを与えたことでしょう。画布に油彩で描かれた145cm×195cmのこの作品は、「ローマ国立美術館」に展示されているようです。



 フィレンツェのウフィツィ美術館には、女性画家「アルテミジア・ジェンティレスキ (Artemisia Gentileschi)」の描く「ホロフェルネスを殺すユディト(Giudetta che decapita Oloferne)」があります。カラヴァッジョの作品よりも20年ほど後に制作されたものですが、リアリティはこちらの方が高い。アルテミジア・ジェンティレスキもカラヴァッジョ同様に日本人には馴染みが薄く、知られていませんが、「アルテミジア(Artemisia)」(アニエス・メルレ監督、1997年、フランス・イタリア合作)という映画が作られるほどヨーロッパでは知られています。

 男性社会に対するアルテミジアの怒りが表現されているこの作品も興味あるものですが、私個人としてはカラヴァッジョの作品の方が清楚な女性が犯す殺人として興味を持ちます。アルテミジアの強い怒りの前に自分が犯した犯罪(絵画の師匠が弟子の女性に手を出す)でもないのに男性の一員としてこうべを下げざるを得ないのです。

 「ユディト(Judith、Giuditta)」はカトリック教会の旧約聖書の1つである「ユディト記」に登場するユダヤ人女性です。アッシリアの王ネブカドネザルが派遣した司令官「ホロフェルネス」は軍勢を率いてユダヤへやってくるとベトリアという町を囲みます。ベトリアの美しく魅力的な女性であったユディトは、着飾ってホロフェルネスのもとに赴き、エルサレム進軍の道案内を申し出ます。酒宴でホロフェルネスは泥酔し、やがて天幕のうちに2人だけとなります。ユディトは侍女を招き入れ、眠っていたホロフェルネスの首を切り落とします。司令官を失った派遣軍は敗走することになります。

 普段はやさしい女性でも追い詰められると怖いかな。この先もおとなしく生きていこう。

             (この項 健人のパパ)

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 ミケランジェロ・メリージ(Michelangelo Merisi)は、イタリア北部、ミラノに1571年という絶妙な時代に生まれます。時代が彼を祝福したのです。彼が破滅的な性格をしていなければ、「巨匠」と歴史は評価したことでしょう。そして、日本人の多くが彼の名前を知ることになったでしょう。しかし、そうではなかったことで、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロと比べ、その知名度は非常に低い。

 1520年にルネサンスの巨匠のラファエロ(ラファエロ・サンツィオ・ダ・ウルビーノ、Raffaello Sanzio da Urbino)が37歳で早世します。ローマの衰退が始まっていました。1527年に「ローマ劫略(Sacco di Roma、サッコ・ディ・ローマ)」が起こります。神聖ローマ帝国のカール5世の率いるドイツ軍がローマに侵略し、略奪と破壊の限りを尽くすのです。この頃、イタリアを巡って、ハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)が抗争を繰り広げていました。

 1520年、ドイツ(神聖ローマ帝国)の神学者「マルティン・ルター(Martin Luther)」は、教会の聖職位階制度を否定し、聖書に根拠のない秘跡や慣習を否定し、人間が制度や行いによってでなく信仰によってのみ義とされるというプロテスタント「派」の中心的な教義を著します。ローマ教皇を中心とする既存の体制の否定です。ローマは、キリスト教世界の中心から、キリスト教カトリック「派」の中心へと降格していくことになります。キリスト教世界は中心が一つの円から次第に中心を二つ持つ「楕円」へとなっていくのです。

 しかし、40年ほどの時の経過がローマを復活させます。1563年に「トレント公会議(トリエント公会議、Concilium Tridentinum)」が幕を閉じます。プロテスタントとの決定的な分裂を回避し、妥協点を見出すことにあった公会議は、20年ほど断続的に開催されるうちに変容し、聖職者の世俗化を防止する対策が決定されましたが、七つの秘跡すべてについて聖書における根拠を主張して有効とし、恩寵が「義」の根本であることを認めながらも、人間の協働にも意味を認めるなど、キリスト教カトリック「派」の正当性が確認されて終わります。

 反宗教改革が始まっていました。カトリック「派」は、活動の場をヨーロッパの外に見出します。日本に1549年、イエズス会(1534年、騎士であったイグナチオ・デ・ロヨラらが創設)のフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が布教にやって来たのもその脈落で理解されます。1542年、教皇パウルス3世によってローマに「異端審問所」が設けられます。ドミニコ会の修道士で哲学者で、コペルニクスの地動説を擁護したことで有名な「ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno)」は、1600年2月17日、ローマ市内のカンポ・デイ・フィオーリ広場(Piazza Campo dei Fiori、「花の野」の意)に引き出されて、火あぶりの刑に処されます。それは、まさに410年前のきょうでした。



 カンポ・デイ・フィオーリ広場は、ナヴォーナ広場から南へ徒歩7分ほどのところにあり、平日の午前中は市(メルカート)が立ち、生鮮食品や花などが売られているようです。「思想の自由」に殉じたブルーノの像がカンポ・デイ・フィオーリ広場の中央で、人々を見下ろしています。その昔は広場のまわりに宿屋が並んでいたそうです。世俗化した教皇の代表的存在であるローマ教皇「アレクサンデル6世 (Alexander VI、在位:1492年~1503年)」の愛人だった「ヴァノッツア・カタネイ(Vannozza Catanei)」が一時、その多くを所有していたといいます。信念に殉じたブルーノと世俗化した教皇に思いを至るにはこの広場に立ってみるのもいいかも知れません。

(参考) 「サンタ・マリア・デル・ポポロ教会」で「聖ペテロの逆さ磔」を見る

(参考) 「イタリアへ」-「カラヴァッジョ」を見に、「110オープン」バスで

 ローマは活気を取り戻します。破壊されていた宗教施設は建て直されていきます。偶像崇拝とプロテスタント「派」が非難するテーマを持った絵画や彫刻が数多く制作されます。権力も富もあった教皇や枢機卿といったパトロン(芸術家の庇護者)が芸術家を育てていきます。「聖マタイの召命」(サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂)、「聖ペテロの逆さ磔」(サンタ・マリア・デル・ポポロ教会)などの作品を残したカラヴァッジオのパトロンであった「フランチェスコ・マリア・ボルボーネ・デル・モンテ(Francesco Maria Borbone Del Monte、1549年~1627年)」は、ローマ・カトリック教会の枢機卿でした。

 王が絶対的な権力を行使した16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパは「絶対王政」の時代でした。この時代に、カトリック教会の反宗教改革運動が進行します。絵画は建築物と一体となって「演劇的空間」を作り出し、権力者の「威厳」を強化する道具ともなりました。後世の美術史家が「バロック(baroque)」と呼んだ、静的で端正であったルネサンス美術を否定したような、この動的で派手な美術形式は破滅的な人生を送ったカラヴァッジオにふさわしいものでした。



 「カラヴァッジョ:先進の画家 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio pictor praestantissimus)」(1987)などの著作のある、美術史家「マウリツィオ・マリーニ(Maurizio Marini)」らが監修し、上質の美術映画に仕上がった「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」を妻と一緒に「銀座テアトルシネマ 」に見に行ってきました。

 神戸大学大学院人文学研究科准教授で美術史家の「宮下 規久朗」氏の著作、「カラヴァッジョへの旅-天才画家の光と闇」(角川選書、2007年)を既に読んでいた私たちは十分に楽しめました。その絵画は大きさとともに十分に知ってはいたのですが、映画の中で作画過程とともに見せられると、画集で見るのとは大きく異なり、感動を覚えます。やはり、バロックの先駆けであったカラヴァッジョはその場とともに鑑賞すべきなのでしょう。「演劇的空間」にあってこその絵画と思われます。今度のイタリア旅行が一層楽しみになりました。

 しかし、映画は「カラヴァッジョ」を知っている者が見て初めて十分楽しめる内容でした。観客をカラヴァッジョを知っているヨーロッパ人と想定しているのでしょう。説明を省いています。多くの日本人にはカラヴァッジョは馴染みが薄い。映画の軸となる「死」のイメージは、1577年にミラノで流行した「聖カルロのペスト」を知っていた方がより理解できます。このペストの流行でミラノの人たちの5分の1ほどが亡くなったといいます。難を避けて、ミラノの近くのカラヴァッジオ(Caravaggio)村に一家は疎開しますが、ペストで父と祖父を失います。



 言論の抑圧、表現の制約、権威の光と影が描かれます。時代背景の理解が必要でしょう。映画の中でもブルーノの火あぶりの刑が描かれます。これも「死」のイメージを形成します。「ベアトリーチェ・チェンチ(Beatrice Cenci)」も描かれます。ベアトリーチェとその母親は、サンタンジェロ城橋の処刑台で父親殺しの罪で斬首されます。ベアトリーチェは頻繁に父親から虐待を受けていました。当局に助けを求めたのですが、何の手も打たれなかったといいます。ローマの人たちの同情を無視し、ローマ教皇クレメンス8世はチェンチ家の財産の私財化を望んで、処刑したといいます。これがほとんど説明もなく描かれます。会話(字幕)を注意深く聞き取らなくてはいけません。

 ヨーロッパ人ではない私たちには難しい映画であるという面も持った映画でした。月曜日の午前10時10分からという上映回だったせいか高齢者や女性が多く、満員だったのですが、上映途中で飽きてしまった人もいたらしく、隣りの席の男性の貧乏ゆすりが妻を悩ませていました。東京では単館上映です。この選択は間違いではなかったようです。カラヴァッジョは「マニア」のもの?

              (この項 健人のパパ) 

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 礁溪の「山泉大飯店(Sun Spring Resort)」の副総理で支配人のジェシーさんに「國立傳統藝術中心はとても面白いですよ」と勧められ、前回の台湾旅行(2008年10月)では行こうとしてみたのですが、時間切れで行くことができませんでした。今回の台湾旅行ではジェシーさんのオフのときにその案内でようやく見学することができました。Thank you very much for your kindness, Jessie. We had a very good time in Jiaosi, Yilan and Luodon.

(参考) 「台湾へ再び」-「羅東」の「国立伝統芸術センター」へ



 台湾の東北部で、南北と西の3方を山に、東を海に囲まれた「蘭陽平野」を中心とした地域は宜蘭県という行政区画になります。台湾島を東西に分ける脊梁山脈である「中央山脈」に水源を持つ「蘭陽渓」の沖積作用により形成された蘭陽平野は肥沃な土壌で農業が盛んです。しかし、冬の北東からの季節風の時期には、ぐずついた天気になることが多く、雨が多い。

 宜蘭市の降水量
01月 160mm
02月 180mm
03月 130mm
04月 130mm
05月 220mm
06月 190mm
07月 146mm
08月 240mm
09月 440mm (9月から11月にかけて雨が多い。東京都の雨の多い8月の降水量は390mm)
10月 440mm
11月 360mm
12月 190mm

 それでも、今回、「山泉大飯店」にいる間に雨に降られることはありませんでした。私の普段の心がけが良かったかな。それとも、お客さんに親切なジェシーさんの普段の心がけが良かったのかな。多分、後者でしょうね。

 宜蘭県は最近まで、海岸沿いまで山地が迫る地勢のために台北からのアクセスが悪く、開発が遅れていました。そのために、「礁溪温泉(しょうけいおんせん、チャオシーおんせん)」は日本人にはあまり知られていません。しかし、2006年に北宜高速道路の雪山トンネルが開通し、台北市内と宜蘭県の入り口の礁溪郷まで車で30分ほどで結ばれるようになりました。

 「礁溪」から「羅東」へ向かう列車の中でジェシーさんに尋ねてみました。

「あなたのホテルに泊まるお客さんで多いのはどこの国の人ですか。」
「台湾人ですね。」
「大陸の人たちは?」
「います。ツアーですね。」
「他には?」
「韓国人、日本人です。」
「韓国に留学経験があって韓国語には不自由しないから、お客さんが韓国人だと不便はないでしょう。日本語はどうですか。」
「すこしならね。」
「日本人は温泉が部屋に引いてあるから喜ぶでしょう。」
「そうですね。ツアーで花蓮に行く途中で立ち寄ってくれるんです。」
「日本人の個人客は少ない?」
「ええ、見所はあるのですが、、、」
「チャオシー自体も設備やホテルが充実してきていますよね。」
「新しいホテルやコンドミニアムが建築中です。」

 私たちは「山泉大飯店」を足場として台湾北部を観光して巡るという旅のスタイルを提案してみることにします。基隆市の「八堵」駅から宜蘭県蘇澳鎮の「蘇澳」駅に至る台湾鉄路管理局の鉄道路線を「宜蘭線(ぎらんせん、イーランせん)」といいます。「礁渓」駅 から南下すると、(4.7km)→「四城」→(3.7km)→「宜蘭」→(5.8km)→「二結」→(1.2km)→「中里」→(1.8km)→「羅東」と停まっていきます。

 「呉沙」という人物がいます。呉沙(1731年~1798年)は「清國」の福建省漳州に生まれます。40歳を過ぎた頃(1773年、乾隆38年)に台灣に移住します。呉沙は、「淡水」と「基隆」で、台湾に古くから居住する人たち(平埔族。台湾先住民のうち平野部にすむ民族を指す総称。噶瑪蘭族(クバラン族)、凱達格蘭族(ケタガラン族)など。MRT新北投駅から歩いて約10分のところに「凱達格蘭文化館」がある)と交易をします。

 1787年に、呉沙は一群の移民を率いて蘭陽平野の開墾を始めます。福建省の漳州移民を中心として、泉州族と客家族を加えて、武力で現地の開発を進めます。アメリカ大陸に移民したイギリス人などのヨーロッパ人がネイティブアメリカン(インディアン)と抗争を繰り広げたのと同じような状況があったわけです。しかし、呉沙はやがて古くから居住する人たちとの友好関係を築き上げ(その転機になったのは天然痘が古くから居住する人たちの間で流行したときに呉沙が薬を提供したことだと言われる)、共存関係を保ちながら開墾を続けます。呉沙は「宜蘭の開拓の父」と言われることになります。

 南アメリカ(ラテンアメリカ)に移民したスペイン人やポルトガル人は、北アメリカ(アングロアメリカ)に移民したイギリス人などと異なり、積極的に先住民との婚姻をすすめます。ヨーロッパ人とラテンアメリカの先住民(インディオ)との混血である人々はメスティーソと呼ばれます。少数派となっていく先住民は、そのアイデンティティを犠牲にして、多数派になっていくしかなかったのです。台湾では、高山族と異なり、平埔族はこの道を選択します。

 「呉沙」(その子「呉化」)によって拓かれた宜蘭県の観光地は、まず、「羅東(らとう、ルォードン)」を紹介してみましょう。羅東で訪れるといい場所は、「国立伝統芸術センター(「國立傳統藝術中心)」と「羅東夜市」だと思います。「国立伝統芸術センター」に行って、夜になったら「羅東夜市」に行くというのはどうでしょう。「羅東夜市」では、ショッピングで(私の感想では)面白いものに遭遇しなかったのですが、食べ物ではいろいろなものに出会いました。「羅東夜市」の話は次回にすることにしましょう。



 羅東駅は西口と東口があります。「羅東夜市」などのある羅東の中心部に行くには西口(前站)で、「国立伝統芸術センター」に行くには東口(後站)になります。駅前の乗り場からタクシーで行くなら200元ほどがかかります。少し歩けば、「国立伝統芸術センター」に行くバスも出ています。ただし、本数は少ない。今回はタクシーで行きました。



 2004年にオープンした「國立傳統藝術中心(国立伝統芸術センター)」は、総面積24haあり(東京ディズニーランド 51ha、東京ディズニーシー 49ha)、劇、音楽、舞踏、工芸、雑技などのテーマに沿って、21の建物と景観エリアが設置されています。人形劇や台湾オペラなど台湾の伝統芸能や台湾各地の工芸を楽しむことができます。統一グループがコンペで運営委託権を得て、運営しています。統一グループは、台湾などで、「セブン-イレブン(ライセンス契約、台湾全土に4,800店舗ほど)」、「スターバックス(合弁、220店舗ほど)」、「ミスタードーナツ(合弁)」、ドラッグストア(药妆店)の「健是美(300店舗ほど)」などの事業を展開しています。

 夫の話してくれたことを盛り込んで記事を書いていたら、長くなってしまいました。国立伝統芸術センターの話は次回に続いてしまいます。それではきょうはこの辺で、、、

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 国立感染症研究所感染症情報センターの報告によると、例年に比べ、インフルエンザによる急性脳症の発生報告が急増しているそうです。インフルエンザ脳症の患者の報告数は、1シーズン当たり40~50例前後なのだそうですが、2009年~2010年シーズンは、まだ終わっていないのにすでに患者数は280例以上になり、例年の6~7倍になるのだそうです。

(参考) 我が子の命を守るために親として「インフルエンザ脳症」を知る。

 2009年7月6日から2010年1月22日までに報告された脳症の症例のうち、新型インフルエンザウイルスによる脳症と確認され、経過の報告された120例(新型によるインフルエンザ脳症は240例)ほどの80%強が治癒・軽快したのですが、7%弱が死亡し、12%ほどが後遺症を残したようです。インフルエンザ脳症になりやすい年齢層は、5~9歳で、特に多いのは7歳で、患者数全体の14%ほどなのだそうです。



 埼玉県の過去3年の経験によれば、2007年~2008年シーズンと同じような経過を辿れば、インフルエンザの流行はあと2か月ほどかけて終息していきますが、2006年~2007年シーズンと2008年~2009年シーズンと同じ経過を辿れば、流行の第2のピークを迎えることになります。この流行は季節要因によるものも関係すると思われますから、油断はできないわけです。

 インフルエンザウイルス感染で死亡する原因には、脳症、肺炎、心筋炎などがあります。気管や気管支上皮細胞に、傷害を起こす傾向の強い新型インフルエンザウイルスは、上気道に常在する細菌の肺への重度な感染を生起する可能性があります。細菌性肺炎を防止するための肺炎球菌ワクチンも高齢者には接種を奨励する必要があるようです。肺炎は、インフルエンザウイルスによる肺炎と細菌感染による細菌性肺炎に分けられますが、後者の方が頻度が高い。

 山口県の新型インフルエンザワクチンの優先接種の対象とする基礎疾患のない50歳代の男性が「重症肺炎(新型インフルエンザ肺炎)」で亡くなりました。山口県では4例目の死亡事例であり、新型インフルエンザ感染者の死亡の192例目になります。新型インフルエンザワクチン、季節性インフルエンザワクチンともに、接種をしていないと報告されています。

・発症初日(1月25日)…発熱のために診察を受ける。インフルエンザ迅速診断キットによる検査が実施されるが、A型B型ともに陰性。
・発症2日め(1月26日)…発熱が続くために病院をかえて診察を受ける。重症肺炎のために、他の病院に緊急搬送され、入院する。この際にもインフルエンザ迅速診断キットによる検査は、A型B型ともに陰性。
・発症10日め(2月3日め)…1週間近く症状が改善しないため、PCR法による病原体の遺伝子検出検査を実施した結果、A型陽性、新型H1陽性となり、新型インフルエンザの感染が確認された。
・発症10~12日め(2月3日~2月5日)…人工呼吸器を装着のため、抗インフルエンザウイルス薬「ラピアクタ」を点滴により投与する。
・発症14日め(2月7日)…20時40分、死去。

(参考) インフルエンザA型判定の「簡易検査」の信頼性は低いのか。

 2010年1月27日に、塩野義製薬(大阪市)は、抗インフルエンザウイルス剤「ラピアクタ点滴用バッグ300mg」(薬価:5,792円)、「ラピアクタ点滴用バイアル150mg」(薬価:3,117円)を発売しました。中外製薬の「タミフル」(経口薬)、グラクソ・スミスクラインの「リレンザ」(点鼻薬)に続く第3のインフルエンザ治療薬となります。タミフルやリレンザと同じノイラミニターゼ阻害薬ですが、短回投与(1回の投与)で十分な効果が臨床試験で示されているといいます。

 ペラミビル(製品名:ラピアクタ)は、塩野義製薬がアメリカのBioCryst社(バイオクリスト社)から導入し、国内で開発したといいます。厚生労働省から優先審査品目に指定され、2009年10月末の申請から約2か月半後の2010年1月13日にスピード承認されました。1月22日には保険適用となっています。通常は、300mgを15分以上かけて点滴で静脈に注入します。これは成人の場合で、年齢や症状に応じて、量と回数を調整することになります。

 ペラミビルは、2009年10月23日にアメリカにおいて「緊急使用許可、Emergency Use Authorization、EUA)」という処置が行われ、緊急使用が必要な新型インフルエンザ感染の疑われる入院患者で、点滴静注が適切であると考えられる場合に限定して投与されていました。ペラミビル(製品名:RAPIACTA for Intravenous Drip Infusion、ラピアクタ)は、新型インフルエンザに感染して重症化した山口県の患者にも投与されたのですが、間に合わなかったのかその効果を発揮しなかったようです。

 191例めは、千葉県の基礎疾患のない15歳の男性でした。新型インフルエンザウイルスによる急性心筋炎が死亡原因とされます。
1月11日…37.6度の発熱があり、咽頭痛の症状があった。
1月12日…自宅で呼吸停止状態になり、救急搬送される。集中治療室(ICU)で人工呼吸器、体外心肺を装着される。インフルエンザ迅速検査で、A型陽性となりタミフルを投与される。
1月14日…PCR検査で新型インフルエンザ陽性となり、新型インフルエンザ患者と確定される。
2月 8日…ICUに入ってから27日経ったが、10時42分、かわいそうに死去。

(参考) インフルエンザウイルス感染で「ウイルス性心筋炎」になってしまうと

 新型インフルエンザウイルスの感染者は現状では減少傾向にありますが、家族の一員に感染が疑われる時はその様子を注意深く観察し、早めの受診を心がける必要があります。

           (この項 健人のパパ)

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 「山泉大飯店」での2日めにジェシーさんが「宜蘭(イーラン、Yilan、ぎらん)」に美味しいお店があるので案内してあげると言ってくれました。宜蘭駅から徒歩10分ほどのところにの宜蘭初の総合ショッピングモール「蘭城新月広場(LUNA PLAZA)」があります。その6階から11階はホテル(「蘭城晶英酒店(SILKS PLACE YILAN、シルクスブレイスイーラン)」)で、5階までは大型スーパーとデパートが入店しています。大型スーパーとは、「カルフール(Carrefour、家樂福)」です。



 カルフール(Carrefour S.A.)は、世界各地にスーパーマーケットチェーンを展開している売上高で世界2位のフランス企業です。日本では、2000年に日本法人のカルフール・ジャパン株式会社を設立し出店します。しかし、業績が悪化し、2005年にカルフールブランドを残し(6店舗)、イオンに売却します(カルフールブランドは2010年3月10日にライセンス契約の終了で消滅)。

 しかし、日本では水の合わなかったカルフールも台湾では元気です。台湾全土に65店も出店しています。そのカルフールが宜蘭の「新月廣場」に入っています。そのすぐ脇(西側)にジェシーさんがお勧めの「武藏坊日本料理」があります。いま、地元の人たちに人気のあるお店なのだそうで、台北からも「雪山隧道」を通って1時間以上かけてやってくるのだそうです。



 「武藏坊日本料理」は、「羅東」(宜蘭縣羅東鎮公正路130號)で「何 錫侑(か せきゆう、He Xiyou)」が1997年に始めます。それに先立ち、何錫侑は日本の懐石料理の真髄を極めるために単身で日本に向かいます。東京都武蔵野市にあってJR東日本と西武鉄道が停まる「武蔵境」に3年暮らし、その腕を磨いたことから、開いた日本料理の店の名を「武蔵坊」と名づけます。



 2006年には、兄の後を追って日本で修業した弟の「何政憲」が「宜蘭」(宜蘭市舊城南路縣府一巷8號)に「宜蘭店」を開きます。2008年には何錫侑にその腕を認められて、「黄達文」の店が「武藏坊日本料理礁溪店」(宜蘭縣礁溪卿中山路二段198號)となります。



 「武藏坊日本料理」は「礁溪店」もあるのですが、ジェシーさんに紹介されたのは「宜蘭店」の方でした。「礁溪店」はホテルから徒歩で10数分のところにあり、礁溪駅の近くなので散歩がてら見に行ってきました。メニューは「宜蘭店」とは違います。それぞれが独自のメニューを出しているのでしょうか、次回の台湾では「羅東店」に行ってみるのもいいのかも知れません。



 「武藏坊日本料理宜蘭店」は、店員さんの対応も非常に良いもので、台湾人のblogでも味や価格とともに好評価を得ています。「台湾に行って、日本料理?」という考え方もあるかも知れませんが、異国で台湾人の考える「日式料理(日本料理)」を味わってみるのもいいものでしょう。



 ジェシーさん、いろいろと美味しいお店を紹介していただいてありがとうございます。コース料理、とても美味しかったですよ。





(追記) 「武藏坊日本料理宜蘭店」は現在は「九穀日本料理」と店名を変え、営業しております。(追記終わり)

(参考) 「九穀日本料理」のサイト


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