POWERFUL MOMが行く!
多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 





 厚生労働省は2010年1月20日にスイスの製薬会社「ノバルティス・ファーマ株式会社」が製造するH1N1新型インフルエンザワクチン、「乳濁細胞培養A型インフルエンザHAワクチンH1N1「ノバルティス」筋注用」(海外での製品名は“Celtura”)とイギリスの製薬会社「グラクソ・スミスクライン株式会社」の新型インフルエンザ(A/H1N1)ワクチン「アレパンリックス(H1N1)筋注」(海外での製品名は“Arepanrix”)を日本で製造販売することを「特例承認」すると発表しました。特例承認は、薬事法の審査手続きを簡略化して承認するもので、今回が初の適用となります。

 「薬事法」の「第4章 医薬品等の製造販売業及び製造業」の第14条の3には「第14条の承認の申請者が製造販売をしようとする物が、次の各号のいずれにも該当する医薬品又は医療機器として政令で定めるものである場合には、厚生労働大臣は、同条第2項、第5項、第6項及び第8項の規定にかかわらず、薬事・食品衛生審議会の意見を聴いて、その品目に係る同条の承認を与えることができる。」とあります。

 これが特例承認で、「国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがある疾病の蔓延その他の健康被害の拡大を防止するため緊急に使用されることが必要な医薬品又は医療機器であり、かつ、当該医薬品又は医療機器の使用以外に適当な方法がないこと。」などを要件とします。

 厚生労働省は2009年10月6日、欧州の製薬大手、イギリスのグラクソ・スミスクライン社(GlaxoSmithKline、GSK)とスイスのノバルティス・ファーマ社(Novartis Pharma)の2社とおよそ5,000万人分(2回接種の場合で、1回接種となった現在ではおよそ9,900万人分に相当する)の新型インフルエンザワクチンについて、購入契約を締結しました。グラクソ・スミスクライン社のワクチンは従来の鶏卵を用いるワクチン(製品名:Arepanrix)であり、ノバルティス社のワクチン(製品名:Celtura)は、細胞培養法によるワクチンです。

 この輸入ワクチンの初回の出荷はノバルティス社が2月3日に234万回分、GSK社が2月5日に240万回分が可能なのだそうですが、厚生労働省は1月22日に、輸入ワクチンについて、現時点で配分を希望したのは全都道府県のうち山梨県1県にとどまったと発表しています。山梨県は「4医療機関が『需要があった場合に備えて』と最小単位の50回分ずつ希望した」結果、その配分希望数量は200回分(GSK社製ワクチン)のみだったようです。初回出荷の供給可能量474万回分を大幅に、本当に大幅に下回ったことになります。

 今月1月29日に9回目の出荷が予定されている国産ワクチンも、供給可能な649万回分に対し、引き合いはその8割ほどの520万回分になっているようです。国産ワクチンもだぶつき気味になっているのです。しかし、子供たちの冬休みが明けて3週間ほど経ち、第2の流行のピークが用意されている可能性もあります。



 厚生労働省は感染症サーベランス事業により、全国約5,000のインフルエンザ定点医療機関を受診したインフルエンザ患者数を週毎に把握しています。過去の患者発生状況をもとに基準値を設け、保健所ごとにその基準値を超えると注意報や警報が発生する仕組みになっています。

 大きな流行の発生・継続が疑われるときには、「警報」が発せられ、警報レベルを超えている保健所数の割合が70%以上のときは、赤色系3段階で「赤」が表示されます。2010年第2週ではいまだ「愛媛県」と「静岡県」が「赤」の段階です。一方で、「注意報」も解除された県は東北地方を中心に8県あります。「注意報」は、流行の発生前であれば今後4週間以内に大きな流行が発生する可能性があることを、流行発生後であればその流行がまだ終わっていない可能性があることを示しています。これによると新型インフルエンザの流行はまだ終結してはいないのです。

 1990年から2008年までの「インフルエンザによる死者数」の統計によれば、平均で年640人ほどが死亡しています。1995年、1999年、2003年、2005年には、年間のインフルエンザ死者数が1,000人を超えています。

 1990年・・・・・・448人
 1991年・・・・・・100人
 1992年・・・・・・177人
 1993年・・・・・・519人
 1994年・・・・・・・65人
 1995年・・・・1,244人
 1996年・・・・・・166人
 1997年・・・・・・815人
 1998年・・・・・・528人
 1999年・・・・1,382人

 2000年・・・・・・575人
 2001年・・・・・・214人
 2002年・・・・・・358人
 2003年・・・・1,171人
 2004年・・・・・・694人
 2005年・・・・1,818人
 2006年・・・・・・865人
 2007年・・・・・・696人
 2008年・・・・・・272人

 2009~2010年シーズンの新型インフルエンザによる死者数は、現在(2010年1月26日)までのところ、180人。180人目は、かわいそうに、愛知県名古屋市の4歳の基礎疾患のない男の子でした(名古屋市では8人目)。1月23日に発熱し、38℃台。嘔吐もします。1月24日も発熱が続きます。夕方にはいびき様の呼吸が出現し、心肺停止状態となります。緊急搬送され、蘇生が試みられますが、午後7時23分に死亡が確認されます。死因は、症状などからインフルエンザ脳症や心筋炎が疑われますが、現在のところ不明です。新型インフルエンザ感染は、1月26日に名古屋市衛生研究所で、PCR検査によって確認されています。

 新型インフルエンザによる年間の死者数は現在までのところ、季節性のインフルエンザの年間の死者数の平均値を超えるとは考えられませんが、それでもインフルエンザが若年者や高齢者、それに基礎疾患のある人たちにとっては死亡リスクの高い感染症です。このリスクを低減させるように個人も社会も行動しなければなりません。

 この死亡リスクの高くなる人たちを守るには、本人とその周辺の人たちがインフルエンザに対して十分な知識を身に付けることと重篤化を防ぐためにワクチンの接種を受けることが必要だといえます。子供たちに対しては学校教育において感染症対策の知識を保護者を含めてより一層普及させるべきでしょう。感染しない・させない、感染しても重篤化させない、ということです。

 重篤化を防ぐには、「ワクチン接種」という手段がありますが、その安全性と有効性が確実なものでないことが悩ましいところです。安全性とは、「副反応」の出現と関係します。ワクチン接種は「免疫の獲得」という生体反応を期待して行うのですが、それ以外の反応が「副反応」です。一般的には副反応を「副作用」と呼んでいます。「生ワクチン(弱毒化したウイルスを使う)」であれば、ときにウイルス感染に伴って症状が出現する場合があります。しかし、日本のインフルエンザワクチンは「不活化ワクチン(化学処理などによって殺したウイルスを使う)」です。

 不活化ワクチンで起る副反応は、ワクチンに含まれるウイルスの構成成分、免疫賦活剤(アジュバント、Adjuvant)、不純物(発育鶏卵培養法で作られたワクチンには卵の成分がごく微量残ることがあり、重度の卵アレルギーがあれば、アナフィラキシー・ショックを起こす可能性がある。細胞培養法で作られたワクチンにも培養細胞の断片が残る可能性はある)などに対する免疫反応が原因となって副反応が起ることもあります。

 副反応(副作用)の中で重篤な症状を顕わすものは、アナフィラキシー、ギランバレー症候群(GBS、Guillain‐Barre syndrome) 、急性散在性脳脊髄炎(ADEM、Acute disseminated encephalomyelitis)です。アナフィラキシー(anaphylaxis)とは 特定の起因物質により生じた急性で全身性のアレルギー反応です。

 アナフィラキシーは起因物質との遭遇(摂取、接触、注射、吸入など)で症状が始まります。すぐに始まる場合と数分から数十分後に始まる場合があります。初期には、口内や唇の痺れ、喉や胸部の狭窄感、眩暈、動悸、耳鳴、腹痛などの自覚症状があり、皮膚の紅潮、蕁麻疹、浮腫、喘鳴、冷汗などの他覚症状も現われます。血圧低下、意識障害、呼吸困難などを伴うこともあり、死亡リスクもあります。気道狭窄による窒息も生じます。

 厚生労働省が1月29日に発表したところによると、新潟県の高血圧症、心臓弁膜症などの基礎疾患があった80歳代の女性が新型インフルエンザワクチン接種後に死亡しました(厚生労働省「新型インフルエンザワクチンの接種後副反応報告」116例め)。新型インフルエンザワクチンの接種後に死亡した例は1月27日までに117例あります。その多くが「関連無し」や「評価不能」と報告医から評価されています。その中で、報告医がワクチン接種と死亡との間に「関連あり」としたのは初めてです。使用されたワクチンは、「デンカ生研」の「S5-A」。

 女性は1月26日に新型インフルエンザワクチンの接種を受けたといいます。接種後30分間は副反応が見られませんでしたが、接種約40分後、帰宅途中で路上に倒れたそうです。救急車で医療機関に搬送されましたが、死亡が確認されたそうです。死因は基礎疾患が原因であることも考えられるそうですが、アナフィラキシーショックも考えられ、報告医は「関連あり」と評価したようです。

 109例めには「ギランバレー症候群」の副反応の否定できないケースがあります。基礎疾患のない70歳代の男性は、ワクチン接種10日後頃より、表在覚(触覚・痛覚・温冷覚)に障害が現われ、進行したといいます。ワクチン接種20日後には、両下肢の筋力が低下したようです。顔面筋の筋力の低下も現われます。ワクチン接種24日後、入院します。検査所見からギランバレー症候群が強く疑われています。使用されたワクチンは「化血研」の「SL03B」。

 1月28日、下の息子「健人」(11歳)の新型インフルエンザワクチンの2回めの接種を受けてきました。使用されたワクチンは「北研」の「NB003B」でした。上記から見れば、まだ我が子は「ギランバレー症候群」発症の観察期間中ですが、JR東日本の「土・日きっぷ」(「土・日きっぷ」は2010年3月28日までの利用期間をもって終了)を昨日小遣いで買ってきて、きょう(土曜日)朝早く起きて1人で(私のお下がりの「デジカメ Cyber-shot」を持って、「マスク」をして)出かけて行きました。できれば、新幹線に乗って仙台に行きたいそうです。妻と誰が「鉄ちゃん」に育ててしまったのか、議論をしています。

               (この項 健人のパパ)

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 ローマはホテルの星の数の割には、ホテル代金が高いと言われています。そのローマに長期滞在を希望する夫は、「せめて1週間はいたいな」、「ネットにも繋げられないとね」と簡単に言います。最初は、「テルミニ駅周辺がいいな。アクセスがいいからね」、その次には、「ボルネーゼ公園の近くのホテル、「アルバーニ」がいいよ」、さらに、「バチカン市国周辺に泊まっていてもいいかな。サンピエトロ広場で朝の散歩ができるからね」とも言いました。ホテルに予算を掛けたくないというくせに、ホテル代金の高い場所を指定してくるのです。まったく!本来なら夫にホテルを調べさせた方がよかった気がします。その方が私の苦労がわかるでしょうからね。

 ホテルを決めるには、「ホテルの設備」以上にホテルのある地域の「治安」も、子連れ旅行では、重要な要素になります。ローマでは「スリ」、「引ったくり」などの犯罪に遭う確率がアジアの都市よりも格段に高いそうです。テルミニ駅周辺は治安がよくないと聞きます。悪いことは誇張されますから、それほどのことはないと思いますが、それでも子連れの旅行なので、できるならば避けたい。

 「ホテル・アルバーニ・ローマ(Hotel Albani Roma)」はボルゲーゼ美術館に近く、その周辺の治安も悪くはないのですが、宿泊料金が1週間も滞在すると高額になります。そこで、検討したのが郊外の宿泊料金の高くないホテルで観光スポットにアクセスのよいところです。「そんなところはないの?」と聞くと、思い浮かばない様子。仕方がないので、ホテル予約サイトの「アップルワールド」や「エクスペディア」で口コミを読んで評判を調べたり、アクセスをマップで調べたりで、探すことに1か月。とにかく、ホテル選びには苦労しました。

 「ホテル・アルバーニ・ローマ」は、問い合わせたところ、イタリアの消防法との関連で、多分部屋の広さと宿泊人数の規制の問題なのでしょうか、ダブルの部屋に我が子を「添い寝」させることができないことがわかりました。トリプルの部屋にするとコストはかなりかかってしまいます。

(info) エクスペディアでの「ホテル アルバーニ ローマ」(HOTEL ALBANI ROMA)の情報。

 最初はローマ地下鉄の郊外の駅の周辺を探し、いくつか候補を選びました。1つはテルミニ駅から東にVia Bachelet, 8 (ex Via Varese) , Rome にある「ホテル・アストリア・ガーデン(Hotel Astoria Garden)」というミニホテル。評判が高く人気なのか、ホテル予約サイト「ホテルクラブ」に問い合わせたところ、満室という返事が数日後に返って来ました。スペイン広場周辺のホテルも考えましたが価格面で断念。

(info) エクスペディアでの「ホテル・アストリア・ガーデン」(HOTEL ASTORIA GARDEN)の情報。

 テルミニ駅と結び、5駅めの地下鉄A線の駅「ポンテ・ルンゴ (Ponte Lungo)」(テルミニ駅まで所要時間約15分)から北に約500メートル(徒歩7分ほど)のところ、Via Assisi, 53, Romeにある「エクスプレス バイ ホリデイ・イン ローマ サン ジョバンニ(Express by Holiday Inn Rome - San Giovanni)」も考えました。問い合わせたところ、このホテルはアメリカ系のホテルのせいか「添い寝」に対して寛容で、添い寝OK。その点はよかったのですが、バスタブのある部屋はリーゾナブルな価格帯ではなく、スタンディング・シャワーのみなのだそうで、比較的寒い時期にイタリアに行くので、断念。

(info) エクスペディアでの「エクスプレス・バイ・ホリデイ・イン・ローマ・サン・ジョバンニ」(EXPRESS By HOLIDAY INN ROME SAN GIOVANNI)の情報。

 最後に行き着いたのが、バスで市内へ15分程度のところ、Via Degli Scolopi 31, Romeにある「エクセル・ローマ・モンテマリオ(Excel Roma Montemario)」。1週間の長期滞在になりますから、観光スポットへのバスの本数がどの程度あるか非常に気にかかるところです。夫は暢気に構えていて、「バス会社のサイトでは、路線図が見られないよ。」とよく調べもしないで言います。「そんなことないでしょ。ペナンでさえ調べられたのだから。」と苦情を言ったら、ようやく本気で調べ始めました。

 今度は夜中まで熱中してしまい、翌朝仕事に行くのに「眠い!」の連発。夜9時を過ぎると眠くなってしまう「幼稚園児」のような夫は、前日午前2時頃までパソコンに向かって起きていました。私がようやく眠くなる時間です。「地図オタク」の夫、「オタク心」が「眠気」に勝ったようです。

(info) エクスペディアでの「エクセル・ローマ・モンテマリオ」(EXCEL ROMA MONTEMARIO)の情報。

(ここから健人のパパ) 伝説上の王政ローマ第6代の王(在位:紀元前578年~紀元前535年)「セルウィウス・トゥッリウス(Servius Tullius)」は、外部からの侵攻に備えて、濠と土塁による防壁を築いたといいます。この防壁は「セルウィウスの城壁(Mura serviane、Servian Wall)」と呼ばれ、アヴェンティーノの丘、チェリオの丘などにその一部が残っているようです。

 古代ローマの中心部であったセルウィウスの城塞の内側にある丘を7つ挙げたものが「ローマの七丘(Sette colli di Roma、Seven hills of Rome)」です。テヴェレ川の東に位置する丘です。ほぼ南北に長い楕円形である「セルウィウスの城塞」のほぼ中心に「パラティーノの丘(Colle Palatino)」があります。フォロ・ロマーノ(Foro Romano、古代ローマ時代の遺跡で大小様々な遺跡が残こる)とチルコ・マッシモ(Circo Massimo、ローマの古代遺跡で大競技場のあったところ。現在は野原)の間に横たわります。

 その「パラティーノの丘」の真北には「クイリナーレの丘(Colle Quirinale)」があります。そこから時計回りに1時の位置に「ヴィミナーレの丘(Colle Viminale)」、2時に「エスクイリーノの丘 (Colle Esquilino)」、3時に「チェリオの丘(Colle Celio)」、7時の位置に「アヴェンティーノの丘(Colle Aventino)」、10時に「カピトリーノの丘 (Colle Capitolino) 」があります。

 ローマには「ローマの七丘」のほかにも数多くの高台があり、ポポロ広場の近くに「ピンチョの丘 (Colle Pincio)」、ローマの下町「トラステヴェレ地区(テヴェレ川の向こう側(西側)という意味)」の近くに「ジャニコロの丘 (Colle Gianicolo)」、緑豊かな住宅地区である「モンテマリオ地区」の近くに「モンテマリオの丘((Monte Mario)」などがあります。北の「モンテマリオの丘」と南の「ジャニコロの丘」の中間に「ヴァチカン市国」があります。「モンテマリオの丘」も「ジャニコロの丘」も「ヴァチカン市国」もテヴェレ川の西側です。



 「エクセル・ローマ・モンテマリオ」というホテルは、テヴェレ川の西側(観光スポットはテヴェレ川の東側)にあります。ローマ地下鉄のA線、B線とテヴェレ川で囲まれた地域に宿泊場所をとっていれば、健脚であれば、ローマのほとんどの観光スポットを徒歩で巡ることができます。しかし、それだけに宿泊料金は高い。ローマの公共交通機関は安価に利用できますから、観光スポットへのアクセスがよければ、観光スポットのある地域に宿泊場所をとらなくてもよいことになります。



 「エクセル・ローマ・モンテマリオ」は、モンテマリオ地区にあります。この地域にローマ地下鉄の駅はありません。ローマ地下鉄のD線が計画されてはいるのですが、開通はまだまだ先の話です。ローマはラツィオ州のほぼ中央に位置しますが、そのラツィオ州のほぼ北の端に「ヴィテルボ(Viterbo)」という都市があります。ラツィオ州ヴィテルボ県の県庁所在地です(ローマはラツィオ州の州都でローマ県の県庁所在地)。

 このヴィテルボとローマを結ぶ、およそ87kmの長さの「トレニタリア(Trenitalia)」のローマ近郊鉄道路線「FR3」線(Ferrovie regionali del Lazio)があります。FR3線はほぼ南北に走っています。ローマ近郊では、北からRoma Monte Mario(「ローマ・モンテ・マリオ」駅)、Gemelli(「ジェメリ」駅)、Roma Balduina、Appiano、Valle Aurelia(「ヴァッレ・アウレリア」駅、高架駅でその下に地下鉄A線の駅がある)、Roma San Pietro、Quattro Venti、Roma Trastevere(「ローマ・トラステヴェレ」駅)、Roma Ostienseという駅になります。

 ローマ市内の公共交通機関は、近郊鉄道、地下鉄、トラム(路面電車)、市バスとありますが、どれも1ユーロ(1回券、B.I.T、Biglietto Integrato a Tempo)で乗れて、チケットも共通です。鉄道と地下鉄は1ユーロで1回のみの乗車ですが、トラムとバスは乗り換えても75分間は乗っていられます。ローマ市内の公共交通機関のチケットは、地下鉄駅やタバコ屋(「タバッキ(tabacchi)」)、キオスクでしか発売されていません。“biglietto”と表示されているタバコ屋で1日券4ユーロ(B.I.G、Biglietto Integrato Gionaliero)を購入するのもいいのかも知れません。

 今回はローマに1週間滞在しますから、1週間定期(C.I.S、Carta Integrato Setimanale)を購入するのが便利です。16ユーロで、1日券の4枚分ですから、有利と言えます。

 「エクセル・ローマ・モンテマリオ」の前の「デリ・スコローピ通り」を北へ数分行くと、バス通り「トリオンファーレ通り(Via Trionfale)」があります。それを左(西)に折れて少し行けば、バス停「トリオンファーレ通りサクロ・クオレ・カトリック大学(Trionfale/Universita Cattolica Sacro Cuore)」があり、右(東)に折れて少し行けば、「トリオンファーレ通りモンテ・ガウディオ(Trionfale/Monte Gaudio)」があります。

 ローマの公共交通会社であるATAC(Agenzia per i Trasporti Autoferrotranviari del Comune di Roma)のサイトには、バスの路線図があります。それによると、バス停「トリオンファーレ通りサクロ・クオレ・カトリック大学」に停まるのは4路線、907(stazione la giustiniana←→Trionfale/Universita Cattolica Sacro Cuore←→stazione metro cipro、地下鉄A線の「チプロ(Cipro-Musei Vaticani)」駅に近い。ヴァチカン市国の北西の壁の近くにバス停がある。「ヴァチカン美術館 (Musei Vaticani) 」に近い)、911、913(stazione monte mario←→Trionfale/Universita Cattolica Sacro Cuore←→Giulio Cesare/Ottaviano、地下鉄A線の「オッタヴィアーノ」駅で「サン・ピエトロ大聖堂 (Basilica di San Pietro) 」に近い←→Giulio Cesare/Fabio Massimo、地下鉄A線「レパント(Lepanto)」駅に近い←→Cicerone/Cavour、カヴール広場のバス停で「サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)」に近い←→augusto imperatore)、991(barellai←→Trionfale/Universita Cattolica Sacro Cuore←→Giulio Cesare/Ottaviano←→dalla chiesa)です。

 「913番」の市バスの上りの時刻表を見てみます。始発駅「モンテ・マリオ駅」での時刻表です。

05:32 05:42 05:52
06:02 06:12 06:22 06:28 06:34 06:40 06:46 06:52 06:58
07:04 07:10 07:16 07:22 07:28 07:34 07:40 07:46 07:52 07:58
08:04 08:11 08:16 08:22 08:28 08:34 08:40 08:46 08:53
09:00 09:07 09:15 09:22 09:30 09:38 09:45 09:53
10:01 10:09 10:17 10:25 10:33 10:41 10:48 10:56
11:04 11:12 11:19 11:27 11:35 11:43 11:51 11:59
・・・

 日に140本あるそうです。多いですね。長くて10分待たなくてもバスがやって来るのでしたらアクセスに問題はないでしょう。(ここまで健人のパパ)

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 技術も芸術も「無」から生み出されることはありません。必ず先人の成果の上に「発展」があるのです。北イタリアの都市「パドヴァ」の「スクロヴェーニ礼拝堂」にはフレスコ画の連作(1300年代初頭の制作。200cm×185cmほどの作品が並ぶ)があり、その作家「ジオット」は宗教画に新風を吹き込みました。

 それまでの宗教画は、厳格な約束事が不文律としてあり、登場する人物には感情が表現されていませんでした。そこに感情を持った人物を描き込んだのは「西洋絵画の父」と言われる13世紀末から14世紀前半に活躍した「ジオット(ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone、1267年頃~1337年)」でした。16世紀末から17世紀初頭に活躍したカラヴァッジオ(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ、Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年~1610年)と比べれば、その写実の程度は劣りますが、カラヴァッジオはジオットの切り開いた道の上にいるのです。

 ヴェネツィアの40kmほど西にある「パドヴァ(Padova、Padua)」は、ヴェネツィア(「メストレ(Mestre)」駅)からイタリアの鉄道「トレニタリア(Trenitalia)」の普通列車「レジオナーレ(Regionale)」で30分ほど、特急列車「ユーロスターシティ(Eurostar City)」で15分程度で行くことができます。

 カラヴァッジオの最初のパトロン(経済的支援者)であった「フランチェスコ・マリア・ボルボーネ・デル・モンテ(Francesco Maria Borbone Del Monte)」枢機卿は、「天文学の父」と言われた「ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、1564年~1642年)」にパドヴァで数学教師として教鞭をとれるように便宜を図った人物でもあります。ガリレオは、1592年から1610年までパドヴァ大学で幾何学、数学、天文学を教えることになり、この時期に多くの画期的発見をしています。

 「エンリコ・デリ・スクロヴェーニ(Enrico degli Scrovegni)」は、パドヴァの名門貴族でしたが、貸金業を営んでいました。当時貸金業は罪深い職業であるとされ、これを職業とした者は聖体拝領(イエスの体と血に変わったパンとワインを信徒が分け合うこと)にあずかることもできず、贖罪を受けずに死ねばキリスト教徒として埋葬されることも許されなかったといいます。エンリコは自分の邸宅の隣に罪の浄化のために礼拝堂を建設します。それが「スクロヴェーニ礼拝堂(Cappella degli Scrovegni)」であり、エレミターニ市立美術館(Musei Civici degli Eremitani)に所属しています。

 エンリコ・スクロヴェーニはジオットのパトロンでもありました。スクロヴェーニ礼拝堂はレンガ造りの箱のような構造の礼拝堂で、外部には目立った装飾もありません。設計者は知られていませんが、ジオットである可能性もあります。その内部はジオットと彼の弟子たちによって描かれたフレスコ画で覆われています。フレスコ画のテーマはイエスの母マリアの誕生物語とイエスの生涯です。38場面で構成され、薄暗い室内に200cm×180cm程度の大きさのフレスコ画が紙芝居のように展開していきます。



 数回にわたってジオットのフレスコ画を紹介してきましたが、今回は「ノリ・メ・タンゲレ(Noli me tangere、我に触れるな)」で、場面36「復活のキリスト」です。ラテン語“tangere”は、英語では例えば“tangent”の語源です。数学の三角関数で「タンジェント」を学習しますが、これは「正接」と訳され、「1点で接触する線」=「接線」と関係があります。イタリア語では詩語で“tangere”(触れる)があります(現代語では「触れる」は“toccare”)。「ヨハネによる福音書」の第20章第11節~第18節の引用です。

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあったところに、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「私の主が持ち去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。

 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」 マリアは、庭師だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、「先生」と言った。
 イエスは言われた。「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のところへ私は上る』と。」

 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。




 ジオットの200年ほど後、カラヴァッジオの100年ほど前に活躍した「コレッジョ(アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジオ(Antonio Allegri da Correggio、1489年頃~1534年)」は、「ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)」を実に見事に描きます。高貴さを漂わせる2人の視線が絵の中央で出会います。深い悲しみの後での驚きがマグダラのマリアにあり、慈愛に満ちた表情が復活したイエスにあります。これはカラヴァッジオの描く「エマオの晩餐(Cena in Emmaus)」(1596年頃の作品)のイエスとは大きく異なります。



 イエスの2人の弟子がエマオ村に向かう途中に復活したイエスと出会いますが、イエスだと気づかずに夕食を共にします。食卓でパンを分け祝福する姿からイエスであることに気づくという場面を描いたものです。「エマオの晩餐」でカラヴァッジオの描いたイエスは高貴な人物というよりも、親しみを感じる、近所にいるごく普通の若者といった風情です。



 カラヴァッジオはマグダラのマリアを幾度か描いていますが、群像の中の1人として描かれたのではないのは「改悛のマグダラのマリア(Maddalena Penitente)」(1596)と「マグダラのマリアの法悦(Maddalena in estasi)」(1606)です。「改悛のマグダラのマリア」のマリアはまるで高校生の女の子に見えます。改悛するようなことはあるのでしょうか。床には真珠の首飾りなどの装身具が散らばっています。



 ヴェネツィアで活躍したティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio、1490年頃~1576年)も「ノリ・メ・タンゲレ」を描きます。ウフィツィ美術館所蔵である「ウルビーノのヴィーナス」という作品で有名なティツィアーノは、「田園の合奏(1510年頃、ルーヴル美術館所蔵)」、「聖愛と俗愛(1515年、ボルゲーゼ美術館所蔵)」、「フローラ(1515年頃、ウフィツィ美術館所蔵)」などと裸体画の作品を多く残しています。「改悛のマグダラのマリア」(1533年頃、ピッティ宮殿所蔵)も作品にあり、裸体に長い髪が絡みついています。

 この作品はマグダラのマリアがキリストを最初庭師と間違えたというヨハネ福音書の記述から、鍬を持っています。鍬はコレッジョの「ノリ・メ・タンゲレ」にもさりげなく描かれています。左手は「天上」を指差し、右手はマリアがすがりつくのを拒んでいますから、鍬は地面に置かれています。

 「ノリ・メ・タンゲレ」はコレッジオの描くものがすばらしい。

              (この項 健人のパパ)


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 きのう(1月21日)、新型インフルエンザの予防接種に妻とともに行ってきました。新型インフルエンザワクチンの優先接種者以外、つまり一般人への接種が2010年1月19日から私たちの県では始まっていました。厚生労働省のページにある記述です。

Q3.
 健康成人は、いつから接種できるのですか?
A3.
 すべての優先接種対象者グループ(高齢者まで)への接種が開始されている都道府県においては、1月29日に出荷される国産ワクチンから優先接種対象者以外の方々(健康成人など)への接種を開始できます。また、具体的な開始時期は、都道府県の判断により、さらに前倒しとすることも可能です。
 新型インフルエンザワクチンの接種スケジュールについては、各都道府県が、接種状況などを踏まえて設定することとしています。各都道府県で開始時期等に差異が生じる場合もありますが、都道府県ごとに状況は異なるため、全国一律にはならないことにご理解ください。


(参考) 「新型インフルエンザワクチンの接種開始の時期が早まるのか。

 2010年1月18日配信の「毎日新聞」からです。

 東京都は1月18日、19~64歳の健康成人向けの新型インフルエンザワクチンの接種を約半月前倒しして同日から開始すると発表した。この日から希望者全員が接種を受けられる。
 厚生労働省のスケジュールでは健康成人向けの接種開始は2月上旬から中旬になる見込みだったが、都は既に供給量が十分あるなどとして前倒しすることにした。


 2010年1月21日配信の「毎日新聞」からです。

 厚生労働省は1月20日、新型インフルエンザワクチンの優先接種対象以外の健康な19~64歳への接種について、35都道府県が今月中からの開始を決めたと発表した。茨城、埼玉、東京、山梨、滋賀、京都、鳥取、岡山、広島、福岡、沖縄の11都府県では1月19日までに接種が始まっており、大阪、北海道など24道府県も今月中に始める。2月開始は8県、時期未定が4県。
 現在流通しているのは国産ワクチンで、厚労省が1月15日、優先接種対象の各グループへの接種がすべて始まっていることを前提に、健康成人への接種前倒しを認めていた。20日に正式承認された海外2社の輸入ワクチンは、2月上旬から医療機関への供給が始まる。


 私の母は民舞の先生をしていて健康なのですが、高齢です。また、私の下の息子「健人」は気管支が丈夫でなく、風邪をひきやすい体質です。新型インフルエンザが通常の季節性のインフルエンザと比べて、重篤化するリスクが高いものではないことが判明してもこの2人をインフルエンザ感染から守らなくてはなりません。

 理想から言うと、人体の免疫システムを人工的に操作する「ワクチン」の接種という手段を用いるよりは、自然感染して自然治癒するのがいいのですが、感染しても重症化しないという自信もありません(十数年前にインフルエンザに感染して2日ほど寝込んだ。病院には行かなかった。いまその体力があるか疑問だ)し、家族に子供や高齢者がいると感染させてしまうリスクも高い。

 免疫を獲得するには、自然感染して自然治癒するのがいいというのは、ワクチン接種により獲得した免疫は6か月程度しか持たず、翌年の流行期の前に再度接種しなくてはならないのに対し、自然感染して獲得した免疫は半永久的であること、また、ワクチン接種により獲得した免疫には感染防止の効果はないこと(インフルエンザのウイルスは通常鼻腔内で繁殖しますが、その時点では免疫機構が働かない)からです。

 新型インフルエンザワクチンは、財団法人化学及血清療法研究所(熊本市、「化血研」)と財団法人阪大微生物病研究会(大阪府吹田市、「微研会」)、学校法人北里研究所生物製剤研究所(埼玉県北本市、「北研」)、デンカ生研株式会社(東京都中央区、「デンカ」)が国内生産をしています。その製造メーカーのひとつ「学校法人北里研究所生物製剤研究所」のホームページに次の記述があります。

 インフルエンザワクチンは現在不活化HAワクチンの皮下接種が行われています。インフルエンザ感染発症の予防には気道分泌型IgA抗体と下気道からのIgG抗体が重要です。全身のウイルス感染の抑制には、血中のIgG抗体が重要な役割を果たしているものと考えられています。現在使われている皮下接種ワクチンでは血中IgG-HI抗体が作られ、重症化防止には効果がみられますが、感染防止には問題があります。この問題を改善するために不活化ワクチンの鼻腔内接種や生ワクチンが開発されています。
 生ワクチンはすでに米国で実用化されております。経鼻接種型不活化ワクチン、あるいは免疫賦活剤(アジュバント)添加経鼻接種型ワクチンは開発が進んでおります。それらのワクチンの実用化が期待されています。


 厚生労働省は、「新型インフルエンザワクチンの接種後副反応報告及び推定接種者数について」という報告を公開しています(平成22年1月20日の報告が最新)。それには新型インフルエンザのワクチン接種から一定の期間内に死亡し、接種との関連を評価する必要のあるものを報告しています。報告されたものの半数弱が「関連無し」で、「評価不能」が半数を超えます。死亡例の報告数は115例になっています。死亡例は基礎疾患を持つ、主として高齢者が多数を占めます。各例には用いられたワクチンの製造メーカーが記載され、「化血研(ロット番号はSLで始まる)」のものが多い。次いで「微研会(HP)」、「デンカ(S)」、「北研(NB)」と続きます。

 「北研」のワクチンでの報告例は知る限りでは1例だけになります(ロット番号:NB002B)。112例めに挙げられています。幼稚園児の女の子がいました。2009年11月と12月に季節性インフルエンザワクチンの接種を受けましたが異常はありませんでした。定期予防接種でも異常反応は一度もなかったといいます。2010年1月4日に新型インフルエンザワクチンの接種を受けます。接種後に全く異常はみられませんでした。1月8日に保育園に登園します。登園時は特に変わりなかったそうですが、うつ伏せの状態で死亡していたところを発見されることになります。報告医は、一連の経過から、ワクチンとの関連性はないと考えているそうです。司法解剖が行われましたが、原因が特定されず、SIDS(sudden infant death syndrome、乳幼児突然死症候群)と診断されたといいます。

 下の息子は1月7日にかかりつけの小児科で1回目の新型インフルエンザワクチンの接種を受けました。「化血研」のものでした。今回、私たち2人はかかりつけの総合病院での接種です。小児科では予約制だったのですが、この総合病院では妻が電話で確認すると予約は必要ないとのこと。妻にワクチンの製造メーカーを尋ねるように頼むと「キタザトです。」と返事されたとのこと。

 国産のインフルエンザワクチンにだぶつきがあるいまならば、製造メーカーも選択できて、「免疫賦活剤(アジュバント)添加」の輸入ワクチンであることもありません。次は、「健人」の2度めのワクチン接種が小児科であります。「新型インフルエンザ」に振り回された半年がようやく終わりを告げます。

(参考) グラクソ・スミスクライン社のワクチンでアナフィラキシーショック多発

              (この項 健人のパパ)

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 教会の建築様式は、バシリカ式(バジリカ式、長堂式)、ロマネスク式、ゴシック式、ルネサンス式、バロック式と移り変わっていきます。つまらないですが、建築様式の暗記法を考えました。「しばし、遠いローマで自由に過ごし、午後は昼寝して、何とか頑張ろう。」 日本からは遠いイタリアのローマに観光に出かけていって、仕事の毎日から解放されますが、観光で疲れるので昼寝をして、体力を保ち、十分に観光地を見て廻ろうという意気込みを宣言しています。

 しばし→し(四世紀)ばし(バシリカ)
 遠いローマで→とおい(十一世紀)ローマで(ロマネスク)
 自由に過ごし→じゆうに(十二世紀)すごし(ゴシック)
 午後は昼寝して→ごごは(十五世紀)ひるねして(ルネサンス)
 何とか頑張ろう→なんとか(十七世紀)がんばろう(バロック)

 17世紀にローマは本格的なバロックの時代を迎えます。バロック建築は、空間を建築物だけではなく、彫刻や絵画などでも構成し、演劇的空間とも言うべき複雑で多様性に富んだものにする建築様式です。その様式を装飾が過剰とみた後世の人たちががポルトガル語で「Barocco(歪んだ真珠)」と呼んだ蔑称に「バロック(伊:Barocco、英・仏:Baroque)」という建築様式を表す言葉が始まると言います。

 その時代に、生まれた場所はみなローマではありませんが、ローマに惹きつけられてローマで活躍した3人の天才が現れます。画家のカラヴァッジオ(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ、Michelangelo Merisi da Caravaggio、ミラノ(北イタリア、Milano)生まれ)、彫刻家のベルニーニ(ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、Gian Lorenzo Bernini、ナポリ(南イタリア、Napoli)生まれ)、建築家のボッロミーニ(フランチェスコ・ボッロミーニ、Francesco Borromini、Francesco Castelli、ビッゾーネ(現スイス、Bissone)生まれ)です。



 ベルニーニとベッロミーニはライバルであり、聖堂建設を巡り、対立を深めます。その2人の運命を左右したのは、パトロンでした。パトロンとは、日本語の持つ意味とは異なり、芸術家などを経済的に支援し、後ろ盾となる資産家や実力者という存在でした。ベルニーニは、枢機卿シピオーネ・カッファレッリ=ボルゲーゼ(Scipione Caffarelli-Borghese、1576年~1633年)や教皇ウルバヌス8世(Urbanus V、在位:1623年~1644年、本名「マッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ、Maffeo Vincenzo Barberini」)の庇護を受け、その才能を大きく開花させます。しかし、ウルバヌス8世が亡くなって教皇インノケンティウス10世(Innocentius X、在位:1644年~1655年、本名「ジョバンニ・バッティスタ・パンフィリ、Giovanni Battista Pamphili」の時代になると、後ろ盾を失ったベルニーニに代わってボッロミーニが表舞台で活躍し始めます。

 ベルニーニは、1598年に生まれ、1680年(81歳)に亡くなった長命な芸術家で作品を多数残しましたが、ボッロミーニは、1599年に生まれ、1667年に自殺で亡くなります。67歳でした。それでも、当時としては長命なのかな。それに対し、カラヴァッジオ村の「ミケランジェロ・メリージ」は、この2人よりも30年ほども早い1571年に生まれます。「バロック絵画の先駆者」と位置づけされるように、バロックが花開く17世紀の初め、1610年に旅の途中で亡くなったのです。激情型の性格であったカラヴァッジオは喧嘩がもとで殺人を犯し、逃避行を続けていたのでした。38歳でした。1610年に亡くなったのですから、今年(2010年)は没後400年になります。

 東京都美術館では、「ボルゲーゼ美術館展」(1月16日~4月4日)が開催されています。京都国立近代美術館では、2009年10月31日~12月27日に開催されていました。「ボルゲーゼ美術館展」にベルニーニの大理石による彫像「シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の胸像」(高さ78cm)が展示されています。

 ボルゲーゼ枢機卿は、教皇パウルス5世(Paulus V、在位:1605年~1621年、本名は「カミッロ・ボルゲーゼ、Camillo Borghese」)の甥であり、1605年にローマ近郊に広大な敷地を購入し、教皇庁の迎賓館としても使われた白亜の館「ヴィラ・ボルゲーゼ」を建てます。これが現在の「ボルゲーゼ美術館(Galleria Borghese)」となっています。シピオーネ枢機卿が尽力して、教皇パウルス5世からカラヴァッジオの恩赦を獲得するのですが、カラヴァッジオはローマに戻る途中に亡くなってしまいます。




 この3人の作品を1日で鑑賞しようとするならば、「ナヴォーナ広場(Piazza Navona)」に行ってみるのもいいでしょう。広場の中央には、4つの大陸を流れる大河、インダス川(アジア)、ナイル川(アフリカ)、ラプラタ川(南アメリカ)、ドナウ川(ヨーロッパ)を擬人化した彫像4体がオベリスクの周りに配され、噴水となっている「四大河の噴水、Fontana dei Quattro Fiumi」があります。この彫像は、ベルニーニによって造られたものです。



 ローマ帝国でキリスト教が公認されたのは、313年です。ユダヤ教のラビ(宗教的指導者)であったナザレのイエスが形式主義に陥ったユダヤ教から離脱し、弱者の救済を訴えて布教活動を展開し、ユダヤ教徒との対立を生み、処刑されて亡くなります。紀元30年前後の頃だったと言います。イエスの教えは、やがてユダヤ人を離れ、ユダヤ人以外の中へと広がっていきます。2~3世紀になるとローマの都市生活者の中にキリスト教の信者が増えていきます。ローマのアグネス(アニェーゼ、Agnese di Roma)は、291年にローマの上流階級のキリスト教徒の一家に生まれます。

 きれいな女性に育ったのでしょう。ローマの長官の息子に見初められてしまい、しつこく言い寄られます。アグネスは、自分はすでに天上の花婿と結ばれているからと言ってこれを退けます。彼女がキリスト教徒であると知った長官は、アグネスを全裸でローマの街を引き回しますが、奇跡が起こり、髪がみるみる足元まで伸び、全身を覆います。アグネスは、娼家に送られてしまいますが、天使が現れてアグネスを輝く光で包み込み、人々の目から隠します。長官の息子が再び強引に迫りますが、待っていたのは「自分の死」でした。アグネスは「魔女」として「火刑」に処せられますが、炎はアグネスを襲わず、刑吏を襲います。それでも結局、首を刎ねられて亡くなります。

 アグネスは聖人に叙せられ、聖堂が建設されます。それが「聖アグネス聖堂(Chiesa di Sant'Agnese、チエーザ・ディ・サンタニェーゼ)」です。アグネスの骨はローマのサンタニェーゼ・フオリ・ラ・ムーラ聖堂(Complesso monumentale di Sant'Agnese fuori le mura「壁の外の聖アグネス記念堂」)に、頭蓋骨はアグネスの墓があるカタコンベの上に建てられたサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会(Chiesa di Sant'Agnese in Agone、サンタニェーゼ聖堂)にそれぞれ保存されていると言います。サンタニェーゼ聖堂は、その正面を「四大河の噴水」に向けています。

 サン・カルロ・アッレ・クワットロ・フォンターネ聖堂の設計で有名なボッロミーニは、このサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会のファサード(建築物の正面。フランス語に由来する。英語の“face”と同じ)も設計しています。

 「サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会」の裏手から東に数分のところに「サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂(Chiesa di San Luigi dei Francesi、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会)」があり、その左奥にあるコンタレッリ礼拝堂にカラヴァッジオによる「聖マタイと天使(San Matteo e l'angelo)」、「聖マタイの召命(Vocazione di san Matteo)」、「聖マタイの殉教(Martirio di San Matteo)」の三部作があります。



 その一つ「聖マタイと天使」は、縦長の絵で、3m×2m(295×195cm)の画布に描かれた油彩です。マタイは出現した天使を目撃し驚愕しています。カラヴァッジオの絵は、実に演劇的で「絵画」でありながら、「映画」をストップモーションで見ているような感覚にとらわれます。

 2007年に製作されていたイタリア・フランス・スペイン・ドイツの合作になる映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影(原題:Caravaggio)」がカラヴァッジオ没後400年記念として、2010年2月13日(土)より「銀座テアトルシネマ」でロードショー公開されます。1986年に製作されたデレク・ジャーマン監督になる映画「カラヴァッジオ」とは趣の違う映画です。「聖マタイの召命」などの名画誕生の秘密が描きこまれているようなので、是非時間を作って見に行きたいものです。

(参考) 「イタリアへ」-「カラヴァッジョ」を見に、「110オープン」バスで

              (この項 健人のパパ)

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 新約聖書を構成する福音書には「マリア」という名の女性が複数登場します。ナザレのイエスが布教活動を行った時代にはよくある名前であったのでしょう。イエスを産んだ女性の名がマリアですし、ダン・ブラウンの小説「ダ・ヴィンチ・コード」でイエスの子を産んだとされた女性(「マグダラのマリア」)もマリアです。その他にイエスが蘇生させた「ラザロ」に2人の姉がおり、その1人もマリア(「ベタニアのマリア」)です。さらに「ヨハネによる福音書」の記述によれば、「イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹でクロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、佇んでいた」(19章25節、Now there stood by the cross of Jesus His mother, and His mother’s sister, Mary [the wife] of Clopas, and Mary Magdalene.)とあります。

 コプト語で書かれている「ピリポによる福音書」(正典には含まれない)によると、「3人の者がいつも主と共に歩んでいた。それは母マリヤと母の姉妹と主の連れと呼ばれていたマグダラであった。母の姉妹と母と主の連れはみなマリアであった」(There were three who always walked with the Lord: Mary, his mother, and her sister, and Magdalene, the one who was called his companion. Her sister and his mother and his companion were each a Mary.)とあります。



 ヴァチカン美術館所蔵のカラヴァッジオの描く「キリストの埋葬(Deposizione nel sepolcro)」があります。3m×2m(300cm×203cm)の縦長の油彩です。磔刑で亡くなったイエスをゴルゴダの丘の麓の墓へ埋葬する場面です。画像は上半分です。女性が3人描かれています。大きく悲しみ、天に助けを求めているのがマリアの姉妹で「クロパの妻マリア」、修道女の姿をして我が子を抱きしめようと手を広げているのが「母マリア」、豊かな髪を後ろでまとめ悲しみに耐えているのが「マグダラのマリア」です。このマグダラのマリアは日本の街角でも見つけられそうな雰囲気を持っています。カラヴァッジオの描く人物には親近感が感じられます。

 イエスの遺体を引き取ったのは、「アリマタヤのヨセフ」と「ニコデモ」でした。ニコデモはパリサイ派で最高法院の議員であったのですが、イエスに共鳴した人物だったそうです。アリマタヤのヨセフは「金持ちで(「マタイによる福音書」)、身分の高い議員(「マルコによる福音書」)で、イエスの弟子でありながらユダヤ人を恐れてそのことを隠していた(「ヨハネによる福音書」)人物だったそうです。この作品でイエスの足を抱えているのがニコデモで、身体を支えているのがアリマタヤのヨセフなのだそうです。



 イタリア北部の「ヴェネト州(regione Veneto)」の都市「パドヴァ(Padova、Padua)」にはイエスの母マリアとイエスの生涯を扱ったジョットの描く連作壁画があります。「スクロヴェーニ礼拝堂」の四方の壁は壁画で埋まっています。右側の壁上部から始め、時計回りに3周して、背面の「聖霊降臨」で終わる全部で38場面から構成されています。場面31から場面34は、「尋問を受けるキリスト 」、「いばらの冠をかぶされ、むち打たれるキリスト」、「十字架の道行き」、「磔刑(La Crocifissione)」、「キリストの死への哀哭(il Compianto sul Cristo morto)」と続きます。

 場面31は、「尋問を受けるキリスト」です。共観福音書(共通する記述が多く、同じような表現もみられる正典とされた福音書)の1つに「マルコによる福音書」があります。この福音書はイエスの死後30数年ほど経った西暦65~70年頃に書かれたものとされています。マタイによる福音書もルカによる福音書もこのマルコによる福音書を下敷きに書かれたようです。その「マルコによる福音書」第15章第1節~第15節を引用してみます。

 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは長老、律法学者たち、および全議会と協議を凝らした末に、イエスを縛って引き出し、ピラトに渡した。ピラトはイエスに「あなたがユダヤ人の王であるか」と尋ねた。イエスは、「そのとおりである」とお答えになった。そこで祭司長たちは、イエスのことをいろいろと訴えた。ピラトはもう一度イエスに尋ねた、「何も答えないのか。見よ、あなたに対してあんなにまで次々に訴えているではないか」。しかし、イエスはピラトが不思議に思うほどに、もう何もお答えにならなかった。

 祭のたびごとに、ピラトは人々が願い出る囚人ひとりを赦してやることにしていた。ここに、暴動を起し人殺しをして繋がれていた暴徒の中に、バラバという者がいた。群衆が押しかけてきて、いつもの通りにしてほしいと要求し始めたので、ピラトは彼らに向かって「おまえたちはユダヤ人の王を赦してもらいたいのか」と言った。それは、祭司長たちがイエスを引き渡したのは、妬みのためであることがピラトにわかっていたからである。

 しかし、祭司長たちは、バラバの方を赦してもらうように群衆を煽動した。そこでピラトはまた群衆に「それでは、おまえたちがユダヤ人の王と呼んでいるあの人は、どうしたらよいか」と言った。群衆はは、また叫んだ、「十字架につけよ」。ピラトは「あの人は、一体どんな悪事をしたのか」と言った。すると、群衆は一層激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを赦してやり、イエスを鞭打った後、十字架につけるために引き渡した。


 ピラト(ポンテオ・ピラト、Pontius Pilatus)は、ローマ帝国の第5代のユダヤ属州総督(在任:26年~36年)です。福音書におけるピラトは、イエスに対し同情的な人物として描かれていますが、これは初期キリスト教会が親ローマ的で反ユダヤ感情を抱いていたことの反映なのだそうです。総督には裁判権があり、ユダヤの祭司から告発を受け、自らユダヤの王と名乗り人民を扇動したという罪状でイエスを磔刑に処します。



 場面32は、「荊の冠を被され、鞭打たれるイエス」です。「マルコによる福音書」第15章第16節~第20節を引用します。

 兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、荊の冠を編んで被らせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼をし始めた。 また、葦の棒でその頭を叩き、唾をかけ、跪いて拝んだりした。こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣を剥ぎ取り、元の上着を着せた。それから、兵士たちはイエスを十字架につけるために引き出した。



 場面33は「十字架の道行き」です。「マルコによる福音書」第15章第21節~第24節を引用します。

 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。イエスをゴルゴタ(その意味はしゃれこうべ)という所に連れて行った。イエスに没薬を混ぜた葡萄酒を差し出したが、お受けにならなかった。イエスを十字架につけた。籤を引いて、誰が何を取るかを定めたうえ、イエスの着物を分けた。

 没薬(もつやく、Myrrh)は、ある樹木から分泌される樹脂のことです。香として焚いたり、鎮静薬、鎮痛薬としても用いられていました。古代エジプトではミイラを作る際に遺体の防腐処理のために使用されていたともいいます。聖書では、東方の三博士がイエスに捧げた3つの贈り物の中に没薬があります。 また、イエスの埋葬の場面では遺体とともに没薬を含む香料が埋葬されたとされます。




 場面34は「イエスの磔刑」です。「マルコによる福音書」第15章第25節~第39節を引用します。

 イエスを十字架につけたのは、朝の9時頃であった。イエスの罪状書きには「ユダヤ人の王」としるしてあった。また、イエスと共に2人の強盗を、1人を右に、1人を左に、十字架につけた。こうして「彼は罪人たちの1人に数えられた」と書いてある言葉が成就したのである。そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスを罵って言った。「ああ、神殿を打ち壊して3日のうちに建てる者よ。十字架から降りて来て自分を救え」。

 祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって代わる代わる嘲弄して言った。「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架から降りてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスを罵った。昼の12時になると、全地は暗くなって3時に及んだ。3時にイエスは大声で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。

 そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った。「そら、エリヤを呼んでいる」。 1人の人が走って行き、海綿に葡萄酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った。「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」。イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスに向かって立っていた百人隊長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った。「まことに、この人は神の子であった」。




 ラテン語の「IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)」の頭文字をとると、“INRI”になります。これは「イエスの磔刑」の際に十字架の上に掲げられた「罪状書きの文」であり、イエスの磔刑を描いた絵画にはイエスの頭上に“INRI”という文字が記された札や銘板が描かれたり、ヨハネによる福音書19章19節~22節には、「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。」とあることから、紙に多くの文字が書かれているものもあります。

  ルーヴル美術館所蔵のイタリアの初期ルネサンス期の画家(パドヴァ派)「アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna」の描く「キリストの磔刑 (Crocifissione)」の部分です。67cm×93cmの板に描かれたテンペラ画です。ルネサンス期には、ラテン語の罪状書きのみが描かれ、単にINRI と略していることが多いのだそうです。




 ベルギーに近いフランスの都市「リール(Lille)」にはパリのルーブル美術館に次ぐ、フランスの第2の美術館「リール市立美術館(リール美術宮殿、Palais des Beaux-Arts de Lille)」があります。そこにバロック時代のフランドル出身の画家「アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck)」の描く「キリストの磔刑 (The Crucifixion)」があります。400cm×245cmと縦長の大きな絵画で画布に油彩で描かれています。罪状書きは、「ヨハネによる福音書」に従って、多くの文字が書き込まれています。

 イエス、ヨセフと母マリア、マグダラのマリアの頭が三角形を描くように配置されています。十字架にすがって泣き崩れているのが長い髪を特徴とする「マグダラのマリア」です。正典福音書におけるマグダラのマリアは悪霊に憑かれた病をイエスによって癒され、磔刑に処されたイエスを見守り、その埋葬を見届け、復活したイエスに最初に出会ったとされるのみなのですが、イエスの足に香油を注ぎ、その足を自らの「髪」で拭ったとされる「ベタニアのマリア」と混同され、「髪」がその特徴とされます。



 場面35は「キリストの死への哀哭」です。母マリアは青や紺色の衣やマントを着て描かれるのに対し、マグダラのマリアは緑色の下衣、朱色のマントを描かれることが多く、イエスの足を持つのがマグダラのマリアです。ジョットの描くマグダラのマリアも長い髪を垂らしています。「マルコによる福音書」第15章第40節~第47節を引用します。

 遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。彼女らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。そのほかに、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。

 すでに夕方になったが、その日は安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスの身体の引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。

 ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百人隊長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。百人隊長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。ヨセフは亜麻布を買い求め、イエスを取り降ろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石をころがしておいた。 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤは、イエスが納められた場所を見届けた。


 この続きはまた次回に。

              (この項 健人のパパ)

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 新型インフルエンザワクチンの第8回約700万回投与分の出荷が2010年1月15日(金)に予定されています。この出荷分は高齢者(65歳以上)を主な対象として想定しています。

 国産の新型インフルエンザワクチンは、大手製薬メーカーではなく、比較的小規模の4団体のみが製造しています。その4団体とは、財団法人化学及血清療法研究所(熊本市、「化血研」)と財団法人阪大微生物病研究会(大阪府吹田市、「微研会」)、学校法人北里研究所生物製剤研究所(埼玉県北本市、「北研」)、デンカ生研株式会社(東京都中央区、「デンカ」)です。

 2010年の初回の出荷分は、その39.6%を「北里」が製造し、「北里薬品」と「第一三共」が販売元で、32.1%を「阪大」が製造し、「田辺三菱」が販売元で、16.5%を「デンカ生研」が製造し、「アステラス」と「武田薬品」が販売元で、11.8%を「化血研」が製造し、「化血研」と「アステラス」が販売元になります。

 武田薬品工業(2008年売上高1億3,700億円ほど)、第一三共(9,700億円ほど)、アステラス製薬(8,800億円ほど)は国内の「3強」の製薬メーカーですが、自前ではインフルエンザワクチンを製造していません。「財団法人化学及血清療法研究所」、「財団法人阪大微生物病研究会」、「学校法人北里研究所生物製剤研究所」、「デンカ生研株式会社(売上高140億円ほど)」の製造したものを販売しているにすぎません。



 体内でインフルエンザウイルスが増殖するには、感染細胞からインフルエンザウイルスが外部に放出されることが必要ですが、それにはウイルスの細胞膜表面にある「ノイラミニダーゼ(Neuraminidase、NA)」という酵素が関係します。そのノイラミニダーゼを抑制することでインフルエンザウイルスの増殖を抑制できることが知られています。

 ノイラミニダーゼを阻害する抗ウイルス薬を「ノイラミニダーゼ阻害薬(Neuraminidase inhibitors)」といいますが、それにはオセルタミビル(商品名「タミフル(Tamiflu)」、経口薬)、ザナミビル(商品名「リレンザ(Relenza)」、吸入薬)、ペラミビル(承認申請中、点滴注射薬、日本における臨床試験は「塩野義製薬(2,100億円ほど)」が行う)。「タミフル」は、日本ではスイスの製薬会社「ロシュ」グループ傘下の「中外製薬(3,400億円)」が製造輸入販売元となっています。「リレンザ」は、グラクソ・スミスクライン社(日本法人がある。その売上高2,000億円ほど)が製造輸入販売元となっています。抗ウイルス薬のいずれにも「3強」は関係していません。

(追記)2009年1月13日の医療介護CBニュースからです。

 塩野義製薬は1月13日、インフルエンザ治療薬ラピアクタ点滴用バッグ300mgと同バイアル150mg(一般名=ペラミビル)の製造販売承認を取得したと発表した。ペラミビルの正式な承認取得は世界初。

 米バイオクリスト社から導入した塩野義製薬が国内で開発。成人のインフルエンザ感染での1回投与と、糖尿病などハイリスク因子を有する患者での1回または複数回投与について承認を取得した。小児への適応についても既に臨床試験が終了しており、年度内の追加申請に向けて準備を進めている。

 既存のタミフル(中外製薬)が1日2回、5日間の経口投与、リレンザ(グラクソ・スミスクライン)が1日2回、5日間の吸入なのに対し、1回の投与で済む。厚生労働省から優先審査品目に指定され、昨年10月後半の申請から約2か月で承認に至った。


 アメリカではFDA(米国食品医薬品局)の新型インフルエンザ流行に伴う緊急処置(EUA、Emergency Use Authorization)で「ペラミビル水和物」が使用されていますが、まだ正式な承認を取得していません。(追記終わり)

 2007~2008年シーズンの後半から、ノイラミニダーゼ蛋白の275番目のアミノ酸がヒスチジンからチロシン(H275Y)に置換していて、オセルタミビルに対して耐性を持っている(「タミフルが効かない」)季節性のA/H1N1亜型ウイルスが、世界各地で検出されることが非常に多くなっていました。この耐性を新型インフルエンザウイルスの中にも持つものが出てきています。

(参考) 「新型の「インフルエンザA」はタミフル耐性を獲得しはしないか。

 厚生労働省は、インフルエンザの流行動向を把握するため、医療機関の協力を得て、インフルエンザ患者から採取した検体について、ウイルスが「新型」か「季節性」かの型を確認する「ウイルスサーベイランス」を実施しています。山梨県衛生公害研究所では、7月~12月の間にPCR検査で新型インフルエンザが確認された552検体のうち46検体を抽出し、タミフル耐性の検査を行ってきました。その中で、2009年12月9日に採取された検体からタミフル耐性の遺伝子変異が認められた(オセルタミビル耐性マーカーH275Yが認められた)そうです。

 山梨県衛生公害研究所は、国立感染症研究所ヘ分離ウイルス株を送付し、感受性試験を依頼したところ、国立感染症研究所は「タミフル耐性」を確認しました。しかし、「リレンザ」に対しては、感受性があったそうです。山梨県では初めて確認されましたが、全国では、タミフル耐性を示す新型インフルエンザウイルスが31例確認されています。

 山梨県の3歳男児が感染したインフルエンザウイルスに「タミフル耐性」がありました(生じました)。

12月4日…発熱、咳などのインフルエンザ症状が現れ、受診。インフルエンザ迅速診断キットでA (+)、タミフルが処方されます。
12月9日…再度発熱し、タミフルが追加されます。抗生剤処方、検体を採取。数日で回復。その後、周囲に感染の広がりはなかったそうです。

 和歌山県環境衛生研究センターは、6月~12月の間に提供を受けた検体のうち、これまで104株のウイルスについて、タミフル耐性の検査を行いました。2009年11月20日に採取した検体からタミフル耐性の遺伝子変異が認められています。和歌山県では初めての確認です。

 和歌山県の8歳男児が感染したインフルエンザウイルスに「タミフル耐性」がありました(生じました)。

11月14日…発熱、咳などのインフルエンザ症状が現われ、受診。インフルエンザ迅速診断キットA (-)、タミフルが処方されます。
11月15日…咳の症状が増強します。
11月19日…症状改善しないため受診し、入院。インフルエンザ迅速診断キットA (-)。検体を採取し、タミフル、リレンザが処方されます。
11月20日…PCR検査で新型インフルエンザ陽性が判明します。
11月23日…回復し、退院します。

 この事例では、快復までに10日近くかかっています。上記2例では、「タミフル耐性」をインフルエンザウイルスが持っていたため、快復まで時間がかかったり、重篤化したりしたのでしょうか。それとも、タミフルを服用せずともインフルエンザからは重篤化のリスクを負わずに自然治癒するものなのでしょうか。

(参考) 「タミフルを飲まなくてもいいくらいに私は「健康」?それとも「不健康」?

 In the UK, the levels of illness are below what would be expected during an average winter. And with 360 deaths so far, questions are being asked about whether health officials over-reacted.

 The financial cost of preparing for the pandemic is yet to be calculated.

 However, it looks likely the bill will run into many millions of pounds as enough doses of Tamiflu and Relenza - the anti-viral drugs that can lessen the symptoms of the flu - and the vaccine were bought for the whole population.

 The UK government is now looking into whether it can stop purchasing the jabs it had placed orders for as experts predict a future rise is unlikely. Another option is selling them to other countries or donating them to the developing world.

 Meanwhile, the World Health Organization (WHO) has already announced it will review its handling of the pandemic.

 Council of Europe health committee chairman Wolfgang Wodarg has been one of the most vocal critics.

 He has said experts have been unduly influenced by the pharmaceutical industry, and questioned whether a virus that proved to be so mild could really be classed as a pandemic.
 (BBC News, 14 January 2010)

 奈良県で慢性閉塞性肺疾患の基礎疾患のある70歳代男性が新型インフルエンザ感染で亡くなりました。新型インフルエンザ患者(疑い例も含む) の死亡は155例めで、今回で奈良県では2009年10月26日、2010年1月3日に次いで3例めになります。

1月 9日…38℃の発熱があったが、受診しなかった。新型インフルエンザや季節性インフルエンザのワクチンの接種はしていない。
1月10日…呼吸困難により、救急車で病院に搬送され入院。37.4℃で、喘息症状で肺炎を併発していたが、意識は清明。インフルエンザ迅速検査でA型陽性。タミフルが投与される。6時間ほどして、心肺停止。蘇生術が開始され、人工呼吸器が装着される。
1月11日…死亡が確認され、直接の死因は肺炎。
1月12日…奈良県保健環境研究センターで、PCR検査が実施され、新型インフルエンザの感染が確認される。

 新型インフルエンザはその感染による入院患者数はピークを越え、減少傾向にありますが、まだ多い。週当たりに入院患者が200人を超えて急増し始める前の37週(2009年9月7日~13日)ほどのレベルになるにはまだまだかかりそうです。(上記のインフルエンザ感染に関するデータと下図は厚生労働省のページが出典です。)




           (この項 健人のパパ)

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 今回のイタリア旅行は19日間ので、まずローマに入り、1週間の滞在をした後は、フィレンツェに4日間の滞在を予定しています。イタリアではピザ、パスタ、ジェラート、生ハムを食べたいと張り切っている我が子「健人」もこの頃になるとそろそろイタリアン・フード(「イタ飯」)に飽きて「日本食」が恋しくなってきた頃かも知れません。健人は子供であるにもかかわらず、普段は魚の塩焼きの好きな「和食党」です。

 かなり前に、上の息子「優也」が未就学のときにヨーロッパを旅行しましたが、パリやロンドンではキッチン付きのアパートをJTBで手配してもらったこともありました。下の息子「健人」が生まれてからは行き先がアジアになり、シンガポールでも5歳の健人を連れて行ったときは、サービスアパートメントで自炊をしていました。

 「サービスアパートメント」とは「ホテル」に近い家具付きの賃貸住宅と言ったらいいのでしょうか、ある程度長期の宿泊が条件とされ、水道光熱費、電話基本料、インターネット接続料金などが賃料に含まれていることが多く、フロントサービス、ハウスキーピングサービス、リネン交換、コンシェルジュサービスなどホテル並みの付帯サービスがあるのが通常です。家具、インテリア、キッチン設備、洗濯機や乾燥機などの電化製品が部屋に付いているのも通常です。

 シンガポールで利用したのはシンガポール・シャングリラの近く、32, Orange Grove Road Orchard, Singaporeにある「ル・グローブ・サービス・アパートメント(Le Grove Serviced Apartments)」でした。このサービス・アパートメントは最低でも7泊しないといけませんが、私たちが宿泊したのは4日間でした。プロモーションをしており、7泊以上という条件を4泊以上に引き下げていたので利用しました。

 部屋は、居間と寝室が続いている「スイート(suite)」のような造りで、1ベッドルーム、1リビングルーム、バスルーム、トイレ、カウンター・キッチン、乾燥機付き洗濯機などがあり、無料の朝食(平日)、毎日のハウスキーピング、リネン交換サービス(日曜、祝日を除く)もあり、オーチャード・ロード、サンテック・シティ、シェントン・ウェイへのシャトルバスが正時に出ていました。

 観光にできるだけ時間を割きたいという夫は、あまり調理に時間を割かれるのは好みませんが、それでも調理に関心のある私は現地の食材を使って料理を作ってみたいのです。日頃からこだわりを持っている「塩」、「ダシ」、「醤油」などは日本から持参して後は現地で調達しようと思います。日本では「和食党」である夫も海外に出ればその国の食事にすぐに慣れてしまい、和食を恋しがることはない(本当のところは食に関心がない?)のですが、それでもイタリアで和食を口にできるのは嬉しいでしょう。

 シンガポールでは現地駐在の日本人が多いためか、日本の食材が手に入れやすく、スーパーマーケット「Cold Storage]で日本米(置いてあるが日本よりかなり高い)の代わりに中粒米のカリフォルニア米を買ってきてご飯を炊きました。もちろん、電気炊飯器などはありません。しかし、私は普段から急いでいるときは釜炊きや鍋炊きでご飯を作っている(その方が早く炊き上がる)ので、困難はありません。このときはキッチンに置いてあった「鍋」で炊きました。

 イタリアにも日本で言うところの「マンション(英語で“mansion”というと「豪邸」の意味)」の1室を貸す「レジデンス」タイプのホテルもあるようですが、意外と宿泊費以外の経費がかかる(清掃費や光熱費など)ようなので、ローマは断念しました。フィレンツェには、見所が多くあるので、とくに徒歩で美術館に通うことができる場所を考えました。その点で、「パラッツォ・デイ・チオンピ・スイーツ(Palazzo dei Ciompi Suites)」がよいのではないかと考え、ホテル予約サイト「エクスペディア」で予約しました。

(info) エクスペディアでの「パラッツォ・デイ・チオンピ・スイーツ」(PALAZZO DEI CIOMPI SUITES)の情報。 

 パリでは、セーヌ川の北側(右岸)で、市内の中心より少し東側に位置するマレ地区に「アパルトマン」を1週間借りました。14年ほど前、ユダヤ人の多く住む街と言われていたのですが、アパルトマンの近くに韓国人の経営する食料品店があって、そこで和食の食材を手に入れていました。韓国の食材で和食を作ることはそう難しくはありません。「ぼくは、洋食より和食の方がさっぱりしていて好きなんだよね~」という健人も「キムチ」は大好きです。私たち家族は、「日本食」というより「アジア食(「アジア飯」)」が好みに合っているのでしょう。

 イタリアには、市場(メルカート、il mercato)があちこちにあるそうです。イタリアでは新鮮な食材を容易に手に入れられそうなので、「アジア飯」に自炊で挑戦です。食材に困ったら、いまでは世界各地に進出している韓国人の経営している食料品店を探してみるつもりです。フィレンツェにはあるかな?

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 2人いる息子の下の「健人」が1月7日に新型インフルエンザのワクチンの接種を受けてきました。かかりつけの小児科で1時40分の予約をしていたので、妻も私も仕事を都合して出かけてきました。10分早く着いたのですが、15台程度入る小児科医院の駐車場には入ろうとする車が行列を作っており、駐車するのを断念。「今年初めての診療開始日なので混むのよ」と言う妻と健人を車から降ろし、私は車で数分のコンビニに避難。ついて行って、接種される新型インフルエンザワクチンの製造メーカーを知りたかったのですが、できませんでした(妻「あみ」の注記-もらった資料によると、「化血研」のロット番号SL08B。院内は、身動きが出来ないほどの大混雑で、約1時間待ってようやく接種完了)。

 国産の新型インフルエンザワクチンは、大手製薬メーカーではなく、比較的小規模の4団体のみが製造しています。その4団体とは、財団法人化学及血清療法研究所(熊本市、「化血研」)と財団法人阪大微生物病研究会(大阪府吹田市、「微研会」)、学校法人北里研究所生物製剤研究所(埼玉県北本市、「北研」)、デンカ生研株式会社(東京都中央区、「デンカ」)です。厚生労働省の公表した死亡例で見て、使用されたワクチンは「化血研」のものが多いので(それぞれのメーカーの出荷数がわからないので、「化血研」のワクチンに死亡する頻度が高いとは言えない)、もしそれが使用されたのであれば、より接種後に留意しなければならなかったからです。

 新型インフルエンザでは1月7日までで、疑い例を含めて、149名が亡くなっています。最近では、沖縄県の4歳になる基礎疾患のない保育園児が亡くなっています(146例め)。かわいそうなことです。昨年(平成21年)の12月30日に、1回目の新型インフルエンザのワクチン接種を済ませていたのですが、今年(平成22年)1月3白夜に39℃の熱を出します。翌1月4日朝に受診し、タミフルを処方され、昼に1回内服します。午後5時頃から痙攣が続くようになり、受診。インフルエンザ迅速診断では検査ではA型陽性でした。新型インフルエンザによる脳症が疑われ、1CU(集中治療室)に入院します。

 1月5日のPCR検査で新型インフルエンザへの感染が確認されます。呼吸不全のため、人工呼吸器に入っていましたが、その後、循環不全が出現し血圧が低下します。CTでは脳浮腫が著明で、出血も認められ、DIC(播種性血管内凝固症候群)を併発しました。脳浮腫の改善がみられないまま、午後10時45分に死亡します。死因は、新型インフルエンザによる脳症でした。

 今年に入って、基礎疾患のない福島県の30歳代男性(142例め)、動脈管開存症・肺高血圧症・鬱血性心不全・胸腹部大動脈瘤・心房細動といった基礎疾患のある兵庫県の50歳代女性(143例め)、慢性閉塞性肺疾患という基礎疾患のある大阪府の63歳男性(144例め)、筋ジストロフィー症の埼玉県の47歳男性(145例め)、大阪府の基礎疾患のない53歳男性(147例め)、奈良県の基礎疾患のない幼児(148例め)、神奈川県の脳梗塞などの基礎疾患のある73歳男性(149例め)が亡くなっています。死亡例149例のうち、基礎疾患がある例は107例で、急性脳炎と報告があったのは13例でした。

 ワクチンで免疫(抗体)を獲得するには、通常約2週間程度かかり,約5ヶ月間持続されると言われます。沖縄県の4歳の男の子の例では、新型インフルエンザのワクチン接種を受けていたのですが、家族4名中、本人を含む3名が新型インフルエンザ様の症状を呈しており、家族内感染が疑われる状況で、抗体の獲得が間に合わなかったことになります。実に残念です。

 新型インフルエンザのワクチンは国内生産分で需要分を用意できないことから、優先順位がつけられ、10月19日から接種を開始しています。
(1) 医師や看護師などの医療従事者(約100万人)、
(2) 妊婦(約100万人)と基礎疾患のある人(約900万人)、
(3) 小児(1歳~就学前、約600万人) と小学校低学年(約400万人)、
(4) 乳幼児(1歳未満)の保護者(約200万人)
 
 上記の優先接種者は2,300万人になりますが、日本の接種済みの人は12月25日現在で、1,490万人(ワクチンの出荷本数からの推計。11月6日約351万接種回数分、11月24日約386万接種回数分、11月30日約55万接種回数分、12月7日約572万接種回数分、12月18日約533万接種回数分、12月28・30日約447万接種回数分)。上記の優先接種対象者の65%ほどになり、実に高率です。日本の人口は1億2,700万人ほどですから、人口比では12%ほどになります。国立感染症研究所が全国約5,000医療機関を対象に行っているインフルエンザの定点調査で、第52週(12月21日~12月27日)の新規患者が、1医療機関当たり19.63(患者報告数94,228人)となりました(第28週以降の累積の推計患者数は約1,753万人)。これを合計すると、日本の人口の27%ほどの人が新型インフルエンザに対する抗体を獲得していることになります。

 日本と異なり、ヨーロッパの多くの国で接種は無料(日本では、1回接種なら3,600円。2回目は2,550円)です。それでも、ヨーロッパでは新型インフルエンザワクチンの接種率が低いといわれています。その理由は、新型インフルエンザワクチンの「安全性」に対する信頼がないことです。ワクチン接種時の発熱、頭痛、めまい、吐き気といった副反応(副作用)に対する不安です。さらに、アナフィラキシー・ショック、ギラン・バレー症候群などを恐れてのことかも知れません。

 平成22年1月8日(金)に厚生労働省で第4回新型インフルエンザ予防接種後副反応検討会が開催されました。専門家会議で明らかにされた報告によれば、1月5日までにアナフィラキシー・ショックで102件(専門家の検討で、接種との因果関係があると判断されたものはそのうちの46件)、脳炎・脳症で7件、ギラン・バレー症候群で5件あったそうです。アナフィラキシー・ショックはアレルギー症状の一種で、ワクチン接種で起ることがある副反応で、今回の新型インフルエンザワクチンでの発生率は10万件あたり0.6件。通常の季節性のインフルエンザワクチンでの発生率と大きく違わないことから、専門家会議は「重大な懸念はない」としました。

 埼玉県では、小学校高学年(4年~6年生。接種対象者約20万人)の優先接種開始日は12月18日(金)でした。明らかな発熱を呈している者やインフルエンザワクチンの成分によってアナフィラキシーを呈したことがあることが明らかな者などは、「接種不適当者(予防接種を受けることが適当でない者)」に該当し、ワクチン接種を受けることはできません。そのため、1月7日の接種に備えて、よく風邪をひく健人を冬休み期間中ほとんど家を出しませんでした。

 それでも、妻の話では接種前の検温では37.1℃(平熱は35.6℃、低体温)。1.5℃も高かったのですが、待合室の大混雑で熱が出たと考え、ワクチンを接種してもらったそうです。その後、私に用事があったので、車で健人を家に帰さず連れて歩くことにしました。異常が出たらそのまま病院に運べるからです。

 (1)心臓血管系疾患、腎臓疾患、肝臓疾患、血液疾患、発育障害等の基礎疾患を有する者、(2)予防接種で接種後2日以内に発熱のみられた者及び全身性発疹等のアレルギーを疑う症状を呈したことがある者、(3)過去に痙攣の既往のある者、(4)過去に免疫不全の診断がなされている者及び近親者に先天性免疫不全症の者がいる者、(4)気管支喘息のある者、(5)本剤の成分又は鶏卵、鶏肉、その他鶏由来のものに対してアレルギーを呈するおそれのある者といった明らかに「接種要注意者(接種の判断を行うに際し、注意を要する者)」に該当するわけではないので、大きく心配はしていなかったのですが、接種後しばらくして身体のだるさを訴え始めます。

 妻もインフルエンザワクチンの接種を受けると身体のだるさを感じる体質で、「大丈夫よ。季節性のワクチンでもだるくなったでしょう。あれと同じよ」と健人を励ましていました。用事を終えて、帰宅してからも改善は見られず、夕食後に早々と寝てしまいました。経過の観察が必要だと考えていましたが、特に体温を測っても平熱に戻っており、身体のだるさといった「自覚症状」以外に「他覚」される異常はありません。

 翌日も寝起きが悪く、依然として体のだるさを訴え、頭痛もすると言います。しかし、体温は高くありません。学校を休ませることも考えたのですが、今日から新学期。午前中で下校で、妻もきょうは家にいます。そこで、渋る健人を学校に送り出しました。仕事中に学校から引取りの電話もなく、妻からも健人の異常の電話もなく、夕方に帰宅すると、元気な様子の健人が迎えてくれます。

「学校はどうだった?」
「大丈夫だった。」
「身体がだるいのはどうなったの?」
「2時間目に直った。」
「いまは?」
「もう元気。」

 季節性のインフルエンザワクチンと同じような経過を辿って、健人の「新型インフルエンザワクチン」の接種が終了しました。

             (健人のパパ)


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 18世紀や19世紀の旅行者と同じように陸路ローマに入ってくる気分を味わうにはローマ地下鉄のA線(linea A della metropolitana di Roma)の駅「フラミーニオ(フラミニオ、Flaminio - Piazza del Popolo)」で降りて、ポポロ門(Porta del Popolo)を北から南へと通ってみるのもいいのかも知れません。

 「ローマは非常に楽しい夢だ。すべてが私を楽しませてくれる。石さえも語るように思える。見るものは尽きることがない」とローマを褒め称えた19世紀の哲学者で「ローマ人盛衰原因論」(1734年)の著者「モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu)」もこのローマの北の城門「ポポロ門」に「フラミーニア街道(フラミニア街道、Via Flaminia)」から入り、「ポポロ広場(Piazza del Popolo)」を目にしたことだと思われます(1728年から3年間、ヨーロッパ歴訪の旅に出ていた)。

 古代ローマ時代に主要都市を結ぶように作られた道路に「ローマ街道(strade romane)」があります。初期のローマ街道は、ローマからイタリア半島の主要都市を結ぶだけでした。その初期のローマ街道には、ローマからナポリを通りイタリア南部のプーリア州ブリンディジ県の県都ブリンディジ(Brindisi)に向かう「アッピア街道(Via Appia)」、ローマからイタリア北西部のリグリア州の州都ジェノヴァ(Genova)に向かう「アウレリア街道(Via Aurelia)」 、イタリア北東部のエミリア・ロマーニャ州リミニ県の県都リミニ(Rimini)に向かう「フラミニア街道」、ローマからイタリア中部のトスカーナ州の州都フィレンツェに向かう「カッシア街道(Via Cassia)」、ローマからからイタリア中東部のマルケ州アンコーナ県の県都アンコーナに向かう「サラリア街道(Via Salaria)」などがあります。



 このうち、19世紀までの旅行者で、フラミニア街道やカッシア街道をやって来た者たちがローマに入るには、北の城門「ポポロ門」を通ることになります。ポポロ門をくぐると大きく楕円形に広がる「ポポロ広場(Piazza del Popolo)」が見えたことでしょう。広場の中央には「オベリスク(obelisk)」が立ち、その周囲では4頭のライオン像が水を噴いています。このオベリスクはローマに立てられた最初のオベリスクで、アウグストゥス帝(Augustus、ローマ帝国の初代皇帝、在位:紀元前27年~紀元14年)が、エジプトの現在のカイロ近郊に存在した古代エジプトの都市ヘリオポリスからローマへ運び出した、高さ32.77mのオベリスクです。



 ポポロ門を入ってすぐ左手にサンタ・マリア・デル・ポポロ教会(Basilica di Santa Maria del Popolo)があります。この場所には皇帝ネロを埋葬するドミティアヌス家の墓(Mausoleo dei Domizi Enobarbi)があり、そこに生えている胡桃の木にはペテロを逆さ磔の刑に処した暴君ネロの悪霊が憑いていると人々に噂されていました。胡桃の木がカラスの群れの住処となっており、そのカラスを悪霊と考えていたようです。そこで教皇「パスカリス2世(Pope Paschal Ⅱ、Papa Pasquale Ⅱ、在位:1099~1118、ウルバヌス2世(UrbanusⅡ、第1回十字軍派遣を呼びかけた)を継いだ)」は、夢に現れた聖母マリアのお告げに従い、胡桃の木を切り倒して教会を建てたのが、この教会の始まりと言われています。

 “popolo”(ポーポロ)とは、イタリア語で「民(国民、人民、市民、住民、庶民、民衆)」の意味で、英語の“people”にあたり、“un popolo antico”で「古代人」、“popolo di Milano”で「ミラノ市民」になります。この教会を建てるにあたって、その建築資金にあてるため、市民に寄付を募ったので「ポポロ」という名で修飾されるようになったとか、近くに「ポプラ」の木があったためとか言われています。

 ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチの作品に「クォ・ヴァディス: ネロの時代の物語」(Quo Vadis: Powieść z czasów Nerona)があります。暴君ネロの時代のローマを舞台として、若いキリスト教徒の娘リギアと、ローマ軍の大隊長マルクス・ウィニキウスの間の恋愛を描いています。この作品を1951年にマーヴィン・ルロイ監督で映画化したのが、「クォ・ヴァディス(Quo Vadis)」です。ロバート・テイラー、デボラ・カー、ピーター・ユスティノフなどが出演しています。

 ローマ皇帝の暴君ネロは、ネロポリスという新しい首都を建設するため、ローマを灰燼に帰そうと決心し、ローマに火を放ちます。マルクスはローマが燃えていると知って戦車を駆って火の海に飛び込み、逃げ場を失っていた群衆を安全な場所に避難させ、リジアを無事見つけ出します。ネロの非道に群衆が立ち上がると、ネロは放火の犯人としてキリスト教徒に弾圧を加えます。使徒ペテロはローマを逃れますが、途中キリストに会い、「主よ何処に行き給うや(Quo Vadis?、クオ・ヴァディス)」と問うと、「余はローマに赴きて再び十字架にかからん」と答えます。ペテロは自分を恥じて、ローマに引き返し、捕らわれます。




 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「私の行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 イエスは答えられた。「私のために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは3度私のことを知らないと言うだろう。」 (ヨハネによる福音書13章36節~38節、「最後の晩餐」から)

 「ローマの大火」の責任を押し付けられた使徒ペテロは、処刑に際して、「主イエスと同じ姿では畏れ多い」と言って自ら望んで「逆さ磔(はりつけ)」になります。サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のチェラージ礼拝堂には「 カラヴァッジョ (カラヴァッジオ、Caravaggio)」の描く「聖ペテロの磔刑 (Crocifissione di San Pietro)」があります。油彩の2m四方ほど(230cm×175cm)の作品で、主祭壇の左手の壁の高いところに展示されています。同じカラヴァッジオによる右手の壁の「聖パオロの改宗 (Conversione di S. Paolo) 」と対をなしています。命じられたこと(ペテロを十字架にくくりつける)を必死にこなそうとする3人の姿に悲哀を感じてしまいます。カラヴァッジオの作品は「宗教画」であっても、「庶民」を描き、宗教画に見えないところがあります。



 ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵の「エマオの晩餐 (Cena in Emmaus)」(141cm×196cm、油彩)もカラヴァッジオの描く宗教画です。復活の日に2人の弟子がエルサレム近郊のエマオ村に向かう途中にイエスと出会い、イエスだと気づかずに夕食を共にしますが、食卓でパンを分け祝福する姿からイエスであることに気づくという場面を描いたものです。ここに描かれるイエスは「聖性」を持った人物というよりも近所にいる若者といった風情で描かれています。

 2人の弟子が、エマオという村へ行きながら、この一切の出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目が遮られて、イエスを認めることができなかった。イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、何のことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。
 その1人が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこの頃起ったことをご存じないのですか」。「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、業にも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。私たちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、このことが起ってから、きょうが3日目なのです。ところが、私たちの仲間である数人の女が、私たちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスの身体が見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使いが現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。それで、私たちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言った通りで、イエスは見当りませんでした」。
 イエスが言われた、「ああ、愚かで心の鈍いため、預言者たちが説いたすべてのことを信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者から始めて、聖書全体に渡り、ご自身について記してあることなどを説き明かされた。
 彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。そこで、強いて引き止めて言った、「私たちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家に入られた。一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、御姿が見えなくなった。
 (ルカによる福音書24章13節~31節)

           (この項 健人のパパ)

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