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POWERFUL MOMが行く!
多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 





 「次の旅行、どこに行く? 行きたいところ、ある?」という妻「あみ」の質問に対して、私の答えは「フィリピン」。
「テーマは何?」
「歴史だね。特にスペインとの関係かな。」
「それって、前から狙ってたでしょ。本棚にフィリピン語の本が並んでいるものね。」

(注) フィリピンの人口はおよそ9,000万人で、その民族構成はマレー系が90%以上を占め、民族的には単一民族に近いのですが、使用言語は100以上であると言われています。国民を統合するには共通言語が必要であり、ルソン島南部を中心に用いられている言語でそれを母語とする人口比率が格段に多い「タガログ語 (Tagalog) 」を基にした「フィリピン語 (Filipino) 」が公用語と憲法で定められています(アメリカの植民地であった時期が長く、英語を理解する人たちも多いことから英語も暫定的に公用語とされている)。もし、フィリピンに行くとしたら、首都「マニラ(Manila、Maynila)」であり、このフィリピン中西部の都市で話される言語はフィリピン語です。

 「健人がそれなりにリスクを回避できる年齢を待っていたのさ。」
「やっぱり、治安が悪いんでしょ。」
「イメージであって、実際のところはわからないさ。」
「イスラム武装勢力とはいまのところ、上手くいっているの?」

(注) フィリピンでは、ミンダナオ島(フィリピンは大きく3つの地域に分けることができ、北のルソン島、中部のヴィサヤ諸島、南のミンダナオ島)のイスラム社会をキリスト教徒中心のフィリピンから独立させることを目的とする武装組織「モロ・イスラム解放戦線(MILF、Moro Islamic Liberation Front)」が活動を続けています。2009年7月17日にインドネシアのジャカルタで発生した外資系高級ホテル(リッツ・カールトンとJWマリオットホテル)連続爆破事件に関与しているとされる東南アジアのテロ組織「ジェマ・イスラミア(JI、Jemaah Islamiyah)」と強い結びつきがあるのではないかと言われています。

 「わからないな。日本人の多くはもうフィリピンを観光の目的地とは考えていなくて、出版社もフィリピンの旅行ガイドを出すのを止めたところもあるよ。」
「売れない本を出す余裕はいまの出版社にはないわよね。」
「そうだね。どうやって情報を収集するかな。」
「ロンリープラネットなんかが旅行ガイド出してないの。外国人は自己責任でリスクをコントロールして、バックパッカースタイルで旅行してるから、あるはずよ。」

(注) ロンリープラネット社(Lonely Planet)は、今から40年ほど前の1972年に、創業者「トニー・ウィラー(Tony Wheeler)」と「モーリン・ウィラー(Maureen Wheeler)」の二人が、ロンドンを出発し、陸路でアジアを通って、オーストラリアに至る新婚旅行の間に書き留めていた日記をもとに、1973年に「Across Asia on the cheap」という旅行ガイドブックをシドニーで自費出版したことに始まります。ロンリープラネット社からは、2009年5月出版の“Philippines Travel Guide 10th Edition”がおよそ28米ドルで発売されていました(アマゾンでは通常配送無料で2,260円)。11版は3年後の2012年5月のようです。

 「地球の歩き方がフィリピンを出しているんだけど、情報は複数で確認しないとね。」
「情報提供者の思い込みで正しくなかったり、古い情報ですでに変わってしまっていたりするわよね。」
「観光スポットの本家本元のサイトが古い情報を更新をせずに残していたりもするからね。」
「何を信用したらいいのかわからないわよね。」



 「来年3月頃にはもう一度イタリアに行くから、行くとしたらその前ね。行ってもいいのか、研究しておいて。私、フィリピンのことは殆ど知らないから。知っているのは、コラソン・アキノさんの長男、ベニグノ・アキノさんが最近、大統領になったことくらいかな。あんまり興味ないかも。」という妻の興味を引くためにフィリピンの研究です。まずは「国旗」からです。

 19世紀、フィリピンで貧困層出身の「アンドレス・ボニファシオ(Andrés Bonifacio)」らがスペインからの独立を目指して結成した秘密組織「カティプナン(Katipunan、人民の子らの最も尊敬すべき至高の協会(Kataas-taasang Kagalang-galangang Katipunan ng mga Anak ng Bayan、KKK))」の指導権を握った有産階級出身の「エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)」が香港亡命中に作成させたものがフィリピン国旗となっています。

 1897年、スペインに対する武装蜂起による革命政府を樹立していたエミリオ・アギナルドは亡命先の香港から帰国し、1898年6月12日にカヴィテ州カウィトでフィリピンの独立を宣言し、自らフィリピン共和国初代大統領に就任しますが、それに備えて作成されたものでした。

 国旗の左手にある3つの星(これはルソン諸島、ヴィサヤ諸島、ミンダナオ諸島を表している)の中央にある太陽(日本人は太陽を赤く描きますが、西洋では黄色く描くことが多い)は、8本の光条を放っていますが、この8本は独立革命の勃発に際して、スペイン総督府によって戒厳令(法律の効力を停止し、行政権や司法権を軍隊の権力下に移行する命令)の下に置かれた最初の8つの地方を表しているのだそうです。この地方が革命の舞台となったのです。その8州を並べてみます。



まず、中部ルソン地方(Central Luzon、首都マニラの北に接した地域)の7州のうちの3州で、北から並べてみます。
 ・タルラック州(Lalawigan ng Tarlac)、
 ・パンパンガ州(Lalawigan ng Pampanga)、
 ・ブラカン州 (Lalawigan ng Bulakan)
次に、カラバルソン地方(CALABARZON、首都マニラの南に接した地域)の全5州です。この地方名は所属する州の名前の一部を並べて名づけられています。
 ・カヴィテ州(Lalawigan ng Cavite)、
 ・ラグナ州(Lalawigan ng Laguna)、
 ・バタンガス州(Lalawigan ng Batangas)、
 ・リサール州(Lalawigan ng Rizal)、
 ・ケソン州(Lalawigan ng Quezon)



妻「黄色い太陽なんだ。」
私「そう。アルゼンチンも黄色い太陽が国旗に描かれているよ。」
「フィリピンもアルゼンチンもスペインの植民地だったわよね。関係あるの?」
「ないと思うね。スペインの国旗には太陽は描かれていなし、アルゼンチンの国旗の太陽は、インカ帝国の太陽神なんだ。」
「そうなの。」
「インカ帝国の太陽神インティは、ウルグアイの国旗にも描かれているよ。」
「アルゼンチンの東にある国よね。ここもスペインの植民地だったわよね。」
「そう。」
「日本のように太陽を赤く描く国旗はないの?」
「バングラディシュは緑地に赤い太陽だね。」
「緑ってことはイスラムと関係あるの?」
「イスラム教徒が多いけど、それではなくて、緑の大地を表しているようだよ。」
「白地に赤の日本の国旗にデザインはそっくりね。」
「そうだね。」
「でも、国旗の話しで終わりなの。面白くないわよ。」
「・・・」
「ね、国旗の話しでフィリピンに行きたくなると思うと思う?」
「・・・」

                 (この項 健人のパパ)

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 榛名山、妙義山とともに、上毛三山の一つである「赤城山」は、群馬県のほぼ中央にあります。その北東方向およそ35kmのところに「男体山」があり、男体山の北西の麓に「戦場ヶ原」があります。この戦場ヶ原で、男体山の神と赤城山の神がそれぞれ「大蛇」と「大百足」になって戦い、男体山の神が勝利したという伝説があります。赤城山の北にある「老神温泉」(群馬県沼田市利根町)は、このとき落ち延びてきた「大百足」になった神が傷を癒した後に「大蛇」の神を追い返した(「追い神」)ことから名付けられたといいます。

 2005年3月3日に放映された、NHKの番組「難問解決!ご近所の底力」のタイトルは「温泉街に春を呼べ」でした。TBS系の報道番組「Nスタ」のメインキャスター「堀尾 正明」さんがNHK退職前に進行役を勤めていた番組で、問題を抱えている「お困りご近所」さんがスタジオに登場し、以前同じような問題を抱えていた人たちの解決法を参考に問題を解決していくという内容でした。「寂れた温泉街の復活」を考えるものでした。
 
 妙案を出すのは、宮城県の「東鳴子温泉」の人たち。東鳴子温泉で始めたのが「田舎暮らし体験(グリーン・ツーリズム)」との連携。旅館と地元の農家が協力して、温泉客たちとコメ作りを企画し、5月の田植え、夏の草取り、秋の収穫と脱穀作業などの一年を通じての農作業の体験を行いました。田植えのときはわずか5人で始めたこの「コメ作り」は、口コミで輪が広がり、収穫の時には30人もの参加者を集めるほどの大盛況となります。田舎暮らし体験をするため、年に何度も東鳴子温泉に宿泊に来てくれる「リピーター」を増やすことに成功したと言います。

 1993年4月に営業を開始した沼田市中心商店街の大型商業ビル「グリーンベル21(Green Bell 21)」(群馬県沼田市下之町888)は、商圏の人口が少ないことで、キーテナントだった「沼田サティ」が2002年8月に撤退し、その後に進出した「サンバード長崎屋」も2008年5月に閉鎖し、現在の中核店舗「エーコープ沼田店」も2010年5月28日に閉店します。

 1週間ほど前に(2010年5月13日)、私の暮らす地域の自治体活動の1つで、沼田市への研修旅行に参加してきました。沼田市交流促進課交流促進係係長「中村一喜」さんのお話を聞きました。「グリーン・ツーリズムで地元の農家さんに協力を求めてきたのですが、人の手も借りたい時期にお客さんに対応することは難しいということで、市役所の退職者にその対応をお願いできるか検討中です。多くが農作業の経験者ですから。」

 沼田市は、多くの地方都市と同様に、農業においては後継者不足から担い手の高齢化が進み、耕作放棄地が増えていて、野生鳥獣の住処や隠れ場所となって、農作物被害を増加させています。市民の就業先が建設関連であることが多いのに、経済の低迷が続いて公共事業の削減が続き、建設関連会社は窮地に追い込まれています。建設関連会社が雇用を継続できなければ、一層人口の都市への流出が加速してしまいます。

「耕作放棄地は多いんですか?」
「多いです。多いんですよ。あちこちにあります。」

 沼田市も手を拱いているわけではありません。株式会社ツムラ(東京都港区赤坂二丁目17番11号)は、薬用入浴剤などに「当帰(トウキ)」を使用しています。ツムラは、薬草の輸入を中国に85%以上頼っています。ところが、中国では薬草の乱獲が始まっていて、甘草、麻黄、芍薬、当帰などを産する土地で乱獲された結果、砂漠化が進行しているそうです。

 輸出規制するという中国側の動きに対して、国内で安定供給してくれる地域をツムラは求めています。それに手を挙げたのが、沼田市のようです。当帰栽培は、(1)こんにゃく栽培の農業機械を併用できること(2)連作障害にも有効であること(3)利根沼田地域の冷涼な土地が栽培に適している(4)規格適合品は全量買い上げられ販路が確保されていること などの利点があるようです。

 兵庫県には、「漢方の里」として地域おこしを進めている「丹波市山南町」があります。江戸時代末期から始まったといわれる薬草栽培の歴史がある山南町には山南町薬草組合トウキ生産部会が、2000年8月に発足しています。山南町には薬草の情報発信と観光の拠点施設として、丹波市立「薬草薬樹公園リフレッシュ館」が設置されています。薬草をブレンドした「薬草風呂」には、年間10万人ほどが入浴に訪れているようです。



 ♪南に険し 赤城山 気高く強く そびえ立ち~

 南郷小学校の校歌です。沼田市利根町根利767にあった「根利小学校」は、林業労働者の流出で児童数が激減し、2003年に南郷小学校と統合し、廃校になりました。その南郷小学校も、少子化による児童数の減少で、2004年に利根東小学校に吸収統合となりました。沼田市利根町日影南郷にあるRC造りの旧南郷小学校の廃校利活用について、私たちは沼田市を訪れたのです。旧南郷小学校では、埼玉県の東松山で学習塾の先生と生徒約50名が2009年8月14日から4日間、夏期合宿を実施したそうです。

「ここに宿泊したのですか?」
「いえ、宿泊することもできるのですが、学習塾にとっては生徒さんはお客さんですから、市内に宿泊して、ここに昼間通ってきていました。」
「宿泊するとしたら費用はいくらかかるのですか?」
「宿泊費はとれないんですよ。旅館業法とのからみもあるんです。民業の圧迫になってもいけませんしね。」
「ただでいいのですね。」
「ええ、沼田を知ってもらうという効果を期待しています。それに、建物は利用しないでおくと傷むのもはやいのです。床が傷んできてますね。床下の湿気が床板をこのようにしてしまったのです。」
「そうですね。」
「皆さんにこの施設を有効利用していただきたいのです。」

 さあ皆さん、沼田に行きましょう。私たちの飲み水を湛える森のある地方が荒廃するとやがてそれは私たちに大きく影響を及ぼしてきます。それには沼田市に吸引力のある地域になる自助努力をしてもらうことと私たちが地方を地方の人たちと楽しむことが必要なのかも知れません。

※ りんごの家「山口果樹園」の山口浩輝さんコメントありがとうございました。
(参考サイト)「本気で生え抜きアグリビジネス! 群馬県沼田市 りんご フルーツ栽培 山口浩輝のブログ」

               (この項 健人のパパ)

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 「フェルナンド・マルティンス・デ・ブルォン(Fernando Martins de Bulhão)」は、1195年にポルトガル、リスボンの非常に裕福な貴族の家系に生まれます。両親はフェルナンドに貴族の身分を継がせることを望み、神学校に入学させようとしますが、フェルナンドはこれを拒み、1210年にリスボン郊外の聖ヴィンセント・デ・フォーラ修道院(Abbey of St. Vincent de Fora、アウグスティノ修道会の所属)に入ります。


「幼な子イエスを抱く聖アントニオ」(聖アントニオは幼な子と、また白いユリとともに描かれることが多い。図像学からは白いユリとともに描かれる聖人は聖アントニオである)

 家族や友人の説得を避け聖書研究や文学研究などの学究に身を捧げるために、希望して配転されたコインブラの修道院で、1219年に司祭に任命されたフェルナンドは、モロッコに宣教へと向かう5人のフランシスコ会宣教師を応接します。

 モロッコに向かったフランシスコ会宣教師が殉教したという知らせを聞いたフェルナンドは衝撃を受け、学究生活を捨てて宣教活動を行う決意をします。フェルナンドは、フランシスコ会に移り、修道士生活の創始者とされる「聖アントニウス (Anthony the Great、エジプトのアントニウス、Anthony of Egypt)」にならって名前を「アントニウス(アントニオ、ポルトガル語:António)」に改めます。

 アントニオは数ヵ月後許可を得てモロッコ宣教に向かいますが、現地に着いてすぐに病気になってしまいます。結局、ポルトガルに送り返されることとなりました。1221年、アントニオが乗った船は嵐に遭って、「シチリア」の「メッシーナ」に漂着します。メッシーナの女子修道院で厚遇を受けたアントニオは、そこで気力と体力を回復していきます。

 フランシスコ会のメンバーであったアントニオは、「総会」に参加すべくアッシジにやって来ます。アントニオの所属する教区が「ロマーニャ」に決まり、「フォルリ」の近く、「モンテパオロ」の修道院に配置されます。アントニオは近くの丘の麓にあった洞穴を住まいとし、修道院に通い始めます。聖餐式を行いながら、すすんで雑用を引き受けました。アントニオは謙虚に生きることを好んでおり、洞穴で学究と祈りを行っていました。

 1222年、フォルリの教会でロマーニャの修道士に対する「叙階」が行われます。その際に「説教」が行われました。招待されていたドメニコ会の修道士に説教が依頼されますが、準備がされていないということで断られ、急遽アントニオが代役に指名されます。修道士仲間は、「説教」を自分がするのを避けるために、この新参者を「説教者」に指名したのです。

 最初、アントニオは辞退しますが、それは叶わず、聴衆の前に立たされます。アントニオは平明で明確な言葉で語り始めます。説教家には、教義や聖典について高度で専門的な知識や見識が必要であり、さらにそれをわかりやすく教え伝える能力も必要でした。それを備えていたアントニオの弁舌に聴衆はすぐに魅了されていきます。同僚に雑用をもくもくとこなす役に立つ男としてしか見られていなかったアントニオの人生が大きく変わっていきます。

 アントニオは、1225年にフランスにやって来て、「モンペリエ」、「トゥールーズ」、「アルル」、「ブールジュ」などで活動を続けていました。1226年、「リモージュ」で宣教活動をしていたアントニオの元に知らせが届きます。10月3日の夕刻にフランチェスコが亡くなったという知らせでした。「マルセイユ」から帰途につきます。

 アントニオは、フランチェスコの墓に祈りを捧げ、次期の総長を決める「総会」に参加します。新総長の「ジョヴァンニ・パレンティ」によって、アントニオは北イタリアのほとんどを占めるロマーニャ管区の管区長に任命されます。大変に有能であったアントニオは30歳には大司教ともいうべき地位になっていたのでした。アントニオは精力的に「説教」を各地で行う一方で、修道院を訪れ、そこに暮らす修道士たちにねぎらいの言葉をかけて回ります。

 1228年、アントニオは「パドヴァ」にやって来ます。アントニオの「説教」を聴きに集まる人たちの数は非常に多くて、どの教会もその人数を収容はできませんでした。そこで、アントニオは彼らを引き連れて、広々とした草原に行って「説教」をしたと言います。パドヴァの町の人たちだけではなく、パドヴァの周辺の他の町から、また城や村からも集まったのです。

 1231年、アントニオは、腎臓機能が著しく低下して起こる「腎不全」などが原因の「水腫(むくみ。体内に余分な水分が溜まるという症状)」を起こします。アントニオは、療養のため、パドヴァの北にある「カンポザンピエーロ(Camposampiero)」の森に、2人の修道士を付き添いとして向かいます。胡桃の木の下に質素な庵を作り、そこで起居します。ある日、食事を取ろうとしていたときに、急激に症状が悪化し、アントニオはテーブルにうち伏します。

 死期を悟ったのかアントニオは、パドヴァの「サンタ・マリア・マーテル・ドミニ教会(現在はサンタントニオ聖堂の一部となっている)」に戻りたいと訴えます。2人の修道士は、移動が症状をさらに悪化させることは承知していたのですが、アントニオの強い希望に仕方なく、牡牛が引く荷台に乗せてパドヴァへと向かいます。

 途中、アントニオに会いにやって来た修道士と出遭い、その強い助言に従って、「アルチェッラ (Arcella)」の「クララ会(アッシジのキアラ(Chiara d'Assisi)が創設した女子修道会)」の修道院に立ち寄ることにします。快復が不可能なまでに病状の悪化することを恐れたのでした。

 修道院に入ったアントニオは、「赦しの秘蹟」という儀式を求めます。「詩篇(旧約聖書に収められた神への賛美の詩)」をいくつか口ずさんだアントニオは、目を見開き、空(くう)を長いこと見つめています。「何をご覧になっているのですか。」とお付きの修道士に尋ねられ、「主を」と答えて、やがてアントニオは息をひきとります。6月13日、享年36歳でした。

 修道士たちはアントニオの死を隠そうとします。しかし、その試みも空しく、子どもたちが「アントニオさんが亡くなってしまった!」と町中に触れ回ってしまいます。クララ会の修道女たちは、アントニオの遺骸をこの地に安置することを望みます。付き添っていた修道士は、アントニオの遺志に従って、パドヴァに遺骸を移動させようとしますが、住民たちはいかなる手段を用いてもそれを阻止すると主張します。

 この何とも人間くさい話をここで止めて、次の表現に変えたいと思います。アントニオが亡くなったとき、子どもたちは通りに出て、泣き叫び、天使は地上に降りてきて、教会という教会の鐘を打ち鳴らして、その死を悼んだといいます。アントニオはそれだけ民衆に親しまれていました。アントニオは「説教」を通じて、民衆の中に溶け込んでいたのでした。

 数多くの敬虔な信者らは、アントニオを納めた棺から離れずに、パドヴァのサンタ・マリア・マーテル・ドミニ教会へと伴って行きます。司教は「追悼ミサ」を行い、アントニオの遺骸を大理石の櫃に横たえて埋葬します。

 フランシスコ会を始めた「アッシジのフランチェスコ」が亡くなって5年後、「パドヴァのアントニオ」もその後を追うように亡くなります。上品さを漂わせたアントニオと放蕩な時代を送ったこともあるフランチェスコ、学究を志す学者肌のアントニオと行動的なフランチェスコ、説教の非常に上手だったアントニオと説教が決して上手だとは言えなかったフランチェスコ、遠慮深く表に立とうとはしなかったアントニオと人を魅了して止まなかったフランチェスコ、政治力のあったアントニオと政治には無関心だったと思えるフランチェスコ、対照的な2人が歴史舞台から去っていきました。しかし、現代においても2人の聖人の人気に衰えはないようです。それは清貧に生きたという志しの高さが尊敬を集めているためなのでしょうか。



 サンタントニオ聖堂の付属施設のかなり奥に入り込んだところに「聖アントニオ博物館」があります。聖堂自体にはかなりの観光客が入っていたのですが、博物館には私と妻と我が子「健人」のみ。貸し切り状態でした。画像は目立たない博物館入口に立つ妻と子です。

                 (この項 健人のパパ)

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 神に祈りを捧げる「礼拝(worship)」のための専用の空間を「礼拝堂(chapel、cappella)」と言います。主祭壇を囲む礼拝のための空間は「聖堂」と呼ばれて、礼拝堂とは区別されます。礼拝堂は、ミケランジェロの「最後の審判」の壁画のある「システィーナ礼拝堂(Cappella Sistina)」やイエスの母マリアとイエスの生涯を扱ったジョットの連作壁画のある「スクロヴェーニ礼拝堂(Cappella degli Scrovegni)」が有名ですが、必ずしも独立した建物であるとは限りません。カトリックの大聖堂では、大聖堂の側廊などに空間をとり、礼拝堂を設置することが一般に行われています。



 パドヴァの「サンタントニオ聖堂(Basilica di sant'Antonio)」の「主祭壇(high altar)」の背後に「宝物礼拝堂(Treasury Chapel、Chapelle du Tresor、聖遺物礼拝堂、Cappela della Reliquia)」があります。この礼拝堂には「聖アントニオ」の「聖遺物(relic)」が展示されています。「聖遺物」とは、イエス・キリストや聖人の遺骸や遺品を言います。この礼拝堂には、聖アントニオの「顎」と「舌」が展示されています。「説教(sermon)」の非常に上手であったアントニオに相応しい聖遺物と言えるのでしょう。

 聖遺物で有名なのは何といってもトリノの「聖ヨハネ大聖堂(Cattedrale di San Giovanni Battista)」に保管されている「トリノの聖骸布(Shroud of Turin)」でしょう。「聖骸布(Holy Shroud)」とは、磔刑に処されて亡くなったイエスの遺体を包んだとされる布を言います。ローマ教皇「ベネディクト16世」は2010年5月2日、「トリノの聖骸布」が10年ぶりに公開されている大聖堂を訪問、聖骸布の前で4分ほどの祈りを捧げました。教皇はその後、大聖堂そばのサンカルロ広場で野外ミサを行っています。



 話を戻します。宝物礼拝堂には3つの「壁龕(へきがん、niche、像や飾り物などを置く壁の窪み)」があり、中央の壁龕にはこの聖アントニオの「顎」と「舌」が装飾を凝らした容器に入れられて納められています。その手前には拝観のための通路があり、欄干には6体の像が配されています。左脇の聖フランチェスコ、右脇の聖ボナヴェントゥラ、そしてその間に「信仰(Faith)」、「改悛(Penance)」、「謙譲(Humility)」、「慈愛(Charity)」の像が置かれています。

 1263年、サンタントニオ聖堂建設の第二段階が終了します(聖堂の建設は聖アントニオの亡くなった翌年の1232年に始まりますが、竣工までには80年ほどかかり、1310年に完成をみます)。建設開始より30年ほどかけて第二段階が終了した時点で、フランシスコ会士を集めてパドヴァで開催された「総会(General Chapter)」の際に、「ボナヴェントゥラ(Bonaventura)」総長らは聖人の遺骸をサンタ・マリア・マーテル・ドミニ教会から聖堂に移すことになります。聖人の棺を初めて開けることになり、アントニオが訪れた数多くの教会から提供されて遺体を覆っている「聖遺物」を取り除いていきます。そこで、立ち会っていた会士たちを驚愕させることが起ります。それは聖アントニオの「舌」が腐敗しないで残っていたのです。それが「宝物礼拝堂」に展示されているのです。



 サンタントニオ聖堂には最奥にある「聖遺物礼拝堂」を含めて「礼拝堂」が5つあります。まず、聖堂に入って左手(北面)の「翼廊(transept)」に「聖アントニオ礼拝堂(Saint's chapel)」、その左手に「黒髪のマリア礼拝堂(Chapel of the Dark-haired Madonna)」、その奥に「福者ルカ・ベッルーディ礼拝堂 (Blessed Luca Belludi' chapel)」があります。そして、「聖人礼拝堂(聖アントニオ礼拝堂)」」の「身廊(nave)」をはさんだ向かい側の「聖ヤコブ礼拝堂」です。



 先を急いだため、パドヴァのアントニオが亡くなった前後の話を飛ばしてしまいました。次回はその話をしたいと思います。記憶を記録にして残そうとして、パドヴァの話を始めましたが、忙しくて更新もままならず、ミラノで「最後の晩餐」を見た話に辿り着くまでには妻が新たな旅行の計画を立てそうで、中途半端の旅行記になるのを恐れています。

               (この項 健人のパパ)

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 昨日(2010年5月13日)、私の暮らす地域の自治体活動の1つで、沼田市への研修旅行に参加してきました。沼田市は枝つきメロンを反時計回りに90度回転させたような形をしており、南北に長い枝の部分には、上杉氏、北条氏、武田氏などの戦国大名により争奪が繰り広げられ、結局は真田氏の居城となった「沼田城」の跡地である「沼田公園」があります。また、この枝に当たる地域は桜で有名で、「発知(ほっち)のヒガンザクラ」や「上発知のシダレザクラ」は一見の価値がありそうです。メロンの実に当たる地域には、老神温泉郷があり、また、この地域は赤城山の北の裾野で、広大なりんご園が多数あります。火山灰の土壌なのですが灌漑設備が整備されたことで広大な農地となっており、レタスの一大供給地ともなっています。

 沼田市交流促進課交流促進係係長「中村一喜」さんのお話を聞きました。「沼田市では、新宿区長が沼田市の出身でいらっしゃることから、交流を進めていて、白沢町地内の高平公益社が所有する用地に植林事業が行われました。新宿区の温室効果ガスを削減する取り組みの一環で、カーボンオフセットの実施ということになります。」

 え? 「公益社」って何? 「カーボンオフセット」って? 知らない用語が飛び交います。知らなくても日常生活には困ることのない響きを持った用語なのですが、私の中の好奇心が「それではダメ!」と叫んでいました。帰宅するとすぐにパソコンを開いて、調べることとなってしまいました。イタリア旅行の記事も満足にかけないほど時間がないのに何をしているのでしょうね。

 1945年に台湾の羅東で生まれた「中山弘子」さんは、父の郷里の群馬県沼田市に引き揚げ、高校卒業まで沼田市で育ちます。1967年、日本女子大学を卒業し、東京都庁に就職します。労働行政、子ども・女性行政、消費者行政、また、目黒区・中野区で区政に携わります。2002年、前区長の小野田隆氏が区民税滞納発覚などにより突然の辞職。急遽行われた区長選挙で、「明るく住みよい新宿の街を創ること」を目的として発足した「新しい新宿を創る区民の会」に新宿区長選挙への出馬を要請されます。東京都庁を退職し、選挙で勝利を収め、23区初の女性区長となります。2006年、再選されます(2期目の任期満了日2010年11月11日)。

(参考) 「台湾へ再び」-「羅東」の「国立伝統芸術センター」へ

     ついに「國立傳統藝術中心」(「国立伝統芸術センター」)を見学

 2008年、東京都新宿区は、長野県伊那市の森林の手入れをすることで、二酸化炭素の吸収量を増やす事業に乗り出しました。新宿区内で排出する二酸化炭素の増加分と、伊那市での森林整備での二酸化炭素吸収量を相殺(オフセット)し、新宿区の排出量の削減とする「地球環境保全協定」を結んだのです。新宿区は、二酸化炭素を吸収する樹木の生長を図るために、2009年から5年にわたり、毎年30haの間伐をします。適切に間伐をしないと、樹木の生長が鈍くなるのです。この事業で二酸化炭素の吸収量が毎年約2,000トン増えると見込まれているようです。具体的には、新宿区民がヒノキやアカマツなどの枝打ち作業や下草刈りを行います。切り出した間伐材は、新宿区で使う印刷用紙の材料などにするようです
    
 「カーボンオフセット (carbon offset)」とは、経済活動や生活などを通して「ある場所」で排出された二酸化炭素(温室効果ガス)を「他の場所」で吸収しようとする活動を言い、発生した二酸化炭素を何らかの方法で吸収して相殺し、実質的な二酸化炭素の排出を抑制しようとするものです。具体的には、植林(新宿区と沼田市の例)、森林保護(新宿区と伊那市の例)などがあります。

 村やなどの村落共同体で総有した土地を「入会地」と言います。沼田市白沢町高平のゴルフ場跡地は、百数十軒で総有していた入会地で、地元農家らでつくる社団法人「高平公益社」が所有していました。その約17haの敷地を新宿区は「新宿の森・沼田」として借用し、本年度から3年計画で新宿区民らがコナラやブナなどを植えました。本年度、植林する面積は5.6haで、7,000本のコナラを植えるそうです。10年間で約700トンの二酸化炭素の吸収を見込んでいるようです。

 2005年、沼田市は白沢村と利根村を編入しましたが、それ以前、沼田市の森林率は62%、白沢村は民有林面積の率が高く、森林率は56%、利根村は国有林面積の率が高く、森林率は90%です。編入後の沼田市の森林率は65%ほどのようです。 森林には「水を育み洪水を防ぐ」「山崩れや雪崩などの災害を防ぐ」「沿岸部や川岸の魚の生育環境を整える」などの働きがあります。流域に降った雨を土壌に蓄え、ゆっくりと川に流して、安定した川の流れを保ち、洪水や渇水を緩和する働きが期待されて「水源涵養保安林」が指定されます。

 日本の人口の約4分の1が集中する首都圏では、水需要の大部分は利根川からの取水によって賄われています。東京都の水源は、ほとんどが河川水(地下水の比率は0.2%)で、78%が利根川・荒川水系、19%が多摩川水系です。森林の保護は急務です。双方に利益のある、この「カーボンオフセット」という取り組みが上手くいくことを願っています。




 沼田市には、天然記念物に指定されている「吹割の滝」があります。この瀑布は、高さ7m、幅30mほどで、水しぶきを飛散させていることから「東洋のナイヤガラ」と言われています。片品川が、岩質の軟かい部分を浸蝕し、多数の割れ目を生じさせて、このような瀑布になったそうです。

               (この項 健人のパパ)

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 「パドヴァのアントニオ(Sant'Antonio di Padova、1195年~1231年)」も「アッシジのフランチェスコ(San Francesco d'Assisi、1181年~1226年)」も「聖人(英語:Saint、イタリア語:Santo)」です。「聖人」とは、イエス・キリストの模範に忠実に従って生き、その教えを完全に実行した人たちのことであり、神と人間との仲介役となり、人々の祈りを聞き入れてくれるように神のそばでとりなしを行ってくれる存在であるとされます。

 カトリック教会では、聖人への崇敬はキリスト教信仰の一部をなしています。プロテスタントでは、神のそばにいて神と人間の媒介としての役割を担う「聖人」という概念がありません。聖書に立ち返ることを主張するプロテスタントには、聖書に根拠を持たないものは認めないのです。

 聖人は「ローマ教皇庁列聖省(Congregation for the Causes of Saints、現長官:アンジェロ・アマート大司教(Archbishop Angelo Amato))」の調査の結果を受けてローマ教皇が公に聖人の列に加えると宣言する(列聖、canonization、canonizatio)ことで誕生します。「列聖式」はローマの聖ペトロ大聖堂で盛大に執り行われます。教皇庁列聖省が調査を宣言すると、その人物は「尊者(Venerable)」となります。さらに、列聖省が調査の結果、その人物の生涯が英雄的で、福音的な生き方であったことを公認すると「福者(Blessed、Beatus)」と呼ばれることになります。

 最も貧しい人々のために活動する「神の愛の宣教者会(Missionaries of Charity)」の創立者、「マザー・テレサ(Mother Teresa)」は亡くなってから6年後に列福されています。この「福者」の中から「聖人」が選ばれていくことになります。それには何十年という時の流れが必要となります。マザー・テレサが「列福」されたのは異例の速さだったと言われるほどで、多くは歴史が長い時間をかけて選別していくのです。

 「聖人」になるためには、「奇跡」を起こしていなくてはなりません。その資格要件は厳しいものです。まず「福者」になるために、殉教者の場合を除いて、一つの奇跡が必要です。教皇庁の調査委員会が資料を集め、厳密に調べ、その調査資料に基づいて、列聖省の専門委員会を経て、枢機卿委員会での会議にかけられます。「福者」に値すると判断されると、教皇が列福の教令に署名し、列福式をもって「福者」と宣言されます。福者の列に加えられた後、もう一つの奇跡があると、「聖人」に値するかが同様な手続きを踏んで判断されるのです。これからすると、聖人は立証が可能な二つ以上の奇跡を起こしていることになります。

 1226年、パリのほぼ南へ350kmほどのフランス中部の町「リモージュ(Limoges)」で宣教活動をしていたアントニオの元に知らせが届きます。10月3日の夕刻にフランチェスコが亡くなったという知らせでした。アントニオはフランス南部からイタリア北部にかけての地域で活発な活動をしていた「カタリ派(Cathares、10世紀半ばに現れ、12世紀の終わりには南フランスの都市「アルビ(Albi)」に由来して「アルビ派(Albigenses)」ともよばれる)」に対抗するために送り込まれていました。カタリ派は、新約聖書の章句に固執し、原始キリスト教団の生活を理想化し、教会とその位階制を否定していたことから、ローマ教皇庁によって異端とされます。



 アントニオは、1225年にフランスにやって来て、モンペリエ(Montpellier、マルセイユの北西160kmほどのところにあり、かつては地中海に臨む海港都市であった)、トゥールーズ(Toulouse、歴史的建築物が多い、人口(約40万人)でフランス第4位の都市)、ル・ピュイ=アン=ヴレ(Le Puy-en-Velay、1000年以上の歴史をもつ司教座都市)、アルル(Arles、ゴッホが晩年を過ごした町で、ローマ時代の遺跡がある観光都市)、ブールジュ(Bourges、パリの南230kmほどのところにあり、中世には交易の中心地であった)、リモージュ(Limoges)などで活動を続けていましたが、マルセイユ(Marseille、フランス最大の貿易港であり、人口(約80万人)でフランス第2位の都市)から帰途につきます。

 フランシスコ会の1221年会則に大幅な改編を加え、ローマ教皇をその頂点とする権力構造にフランシスコ会を組み入れた「ウゴリーノ・ディ・コンティ(Ugolino di Conti)」枢機卿は、1227年、教皇グレゴリオ9世となります。グレゴリオ9世はフランチェスコを1228年には列聖します。フランチェスコが亡くなって21か月後のことでした。その年には、フランチェスコの功績を讃えるために、アッシジの町の北西の斜面を利用して聖フランチェスコ聖堂の建築が始まります。2年後の1230年にはフランチェスコの遺骸がこの聖堂に移されます。



  「ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone)」の描く
             「聖痕を受けるフランチェスコ(Stimmate di San Francesco)」

 聖人に列聖されるにはいくつか「奇跡(miracle、miracolo)」を行っていなくてはなりません。フランチェスコが亡くなる2年前の1224年、フランチェスコは「アルヴェルナ山(Monte Alverna)」で断食しながら祈りをささげていた時に、十字架に架けられた「熾天使(Seraph、Serafino)」を見ることになります。そのとき、熾天使はフランチェスコの身体にイエスの磔刑の傷跡を押しつけたといいます。聖痕(stigmata)とは、イエスが磔刑となった際についたとされる傷と同じ位置に現れた信者らの身体の傷を言います。フランチェスコは、聖痕示現者になり、両手、両足、脇腹に聖痕を持つことになります。これも「奇跡」とされます。


  「ジローラモ・テッサーリ(Girolamo Tessari)」の描く
       「聖餐式で跪くラバ(La mula si prostra davanti all'Eucarestia)」(1515年制作)

 パドヴァのアントニオも「奇跡」を行っています。溺死者を蘇生させるということを幾度か行ったそうです。水面に頭を出し、聴き入る魚に説教をしたこと、ラバに聖餐式を行ったことなどの「奇跡」は絵画の題材ともなっています。魚に説教することができたことと関係するのでしょうか。聖アントニオは、「漁師」の守護聖人です。また、理由はわかりませんが、「養豚業者」の守護聖人でもあります。

 人が聖人に列聖されるのは死後のことです。1226年に亡くなった「アッシジのフランチェスコ」は1228年に、「パドヴァのアントニオ」は1232年に、教皇グレゴリオ9世によって列聖されています。アントニオが亡くなったのは1231年ですから、翌年には列聖されたことになります。アントニオは生前から民衆にそして教皇庁に人気の高い人でした。

 時を少し戻します。アントニオがフランスのマルセイユを冬に発ってアッシジに着いたときには春になっていました。フランチェスコの墓に祈りを捧げ、次期の総長を決める「総会(Chapter)」に参加します。新総長の「ジョヴァンニ・パレンティ(Giovanni Parenti)」によって、アントニオは北イタリアのほとんどを占めるロマーニャ管区の管区長に任命されます。大変に有能であったアントニオは30歳には大司教ともいうべき地位になっていたのでした。

 アントニオは精力的に「説教」を各地で行う一方で、修道院を訪れ、そこに暮らす修道士たちにねぎらいの言葉をかけて回ります。その足跡は、現在はスロベニアと国境を接するイタリアの東の端の町「トリエステ(Trieste)」にも及びます。

 1228年、アントニオは「パドヴァ(Padova)」にやって来ます。アントニオの「説教」を聴きに集まる人たちの数は非常に多くて、どの教会もその人数を収容はできませんでした。そこで、アントニオは彼らを引き連れて、広々とした草原に行って「説教」をしたと言います。パドヴァの町の人たちだけではなく、パドヴァの周辺の他の町から、また城や村からも集まったのです。それも夜のうちから集まり始めたと言います。1~2時間の「説教」を聞くために人々は大変な努力を払ったのです。



 ようやく、アントニオがパドヴァに結びつくことになりましたが、この続きは次回に。今回のイタリア旅行で訪れることができたパドヴァのサンタントニオ聖堂の紹介に入ることができます。

             (この項 健人のパパ)

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 妻が息子「健人」に話しかけています。「今度の連休、お父さんもお母さんも忙しくて、どこにも連れて行ってあげられないの。また一人で行く?」「いいよ。鎌倉に行きたい。」「鎌倉に行きたいの?じゃあね、お母さん、大船に用事があるから、ホテルとって藤沢に泊まろう。」「いいね。」「2日間あれば、結構なことができるわよ。」

 話がまとまったようです。今度は私が話しかけます。「お小遣い、まだ充分残っている?」「ない。」「だよな。何回も出かけてるから。」「うん。」「スポンサーになってあげるから、ブログに記事書いて。」「記事?」「お父さんもお母さんも忙しくて記事が書けないんだよ。」「イタリアでお金使ったからね。」「そう、働かなくっちゃね。」「いいよ。」ここでも話がまとまりました。

 以下は、「健人」のデビュー記事です。しばしお付き合いください。


       藤沢駅に入線する500形

 藤沢に一人でやって来ました。今日は仕事帰りの母と藤沢駅で待ち合わせです。待ち合わせするのは、今日ホテルに泊まるためです。翌日、ホテルから母は大船に行き、ぼくは鎌倉に遊びに行きます。新宿から藤沢に来るには2つの方法があります。1つは湘南新宿ラインで来る方法で、もう1つは小田急線で来る方法です。

 では、どちらの方がいいでしょうか。速さでは湘南新宿ラインです。一番速い特別快速で49分です。一方、小田急は快速急行で55分です。運賃はどうでしょうか。湘南新宿ラインは950円。一方、小田急線はなんと570円です。たった6分の差で380円の差です。しかも、小田急線ならその380円に220円を足すだけで「えのしま」というロマンスカーに乗れます。お小遣いがちょっと多く減りますが、小田急線で来ました。

 で、話は戻ります。母と合流するのは20時頃なのですが、いま17時30分頃です。ちょっと時間が余りすぎなので、七里ヶ浜に行きます。電車に揺られて19分、七里ヶ浜に着きました。ここで夕日が出てくるのを待ちます。「七里ヶ浜」は神奈川県鎌倉市の南西部にある浜で「渚百選」の一つになっていてサーフィンの名所としても有名です。夕日がきれいに見られる場所です。


        七里が浜からの夕日

 夕日が出てきました。夕日ってきれいですよね。富士山も見えてきれいです。さて、数分たって19時頃になりました。藤沢に戻ります。夕食にマックでえびフィレオを食べて、母と合流しました。藤沢駅の近くにある「東横イン」に行き眠くなってきたので、ぐっすり寝ました。

 朝が来ました。藤沢駅から江ノ電に乗ります。最初に向かうのは、江ノ島にある「扇屋」という和菓子屋です。扇屋は「江ノ電もなか」という物を売っているのですが、早くしないと売切れてしまうそうです。扇屋は駅を出て右に曲がってまた右に曲がってまっすぐ歩くと古い江ノ電の車両が家の中に置いてあります。そこが扇屋です。「江ノ電もなか」は1つ130円で売っています。お味の方はどうでしょう?名物に、、、なのかな。


         扇屋

 さあ「江ノ電もなか」を買ったら、今度は「鎌倉高校前」駅に行きましょう。鎌倉高校前は1997年に「関東の駅百選」に選ばれています。


         鎌倉高校前駅からの眺め

 いい景色ですね。渚に沿って道路がまっすぐ走っています。その道路と並んで線路が続いています。それを駅のホームから眺めることができます。関東の駅百選に選ばれる理由がよくわかりました。次は「鎌倉大仏」に向かいます。鎌倉大仏は長谷駅が最寄駅で駅からちょっと歩きます。


       鎌倉大仏

 やっと着きました。拝観料は200円です。あれ、イメージより結構汚いなと思いました。木が生えてるところがあったので見ていたら、リスがいました。大仏を見終わったら、鶴岡八幡宮に向かいます。鶴岡八幡宮は鎌倉駅が最寄り駅です。人ごみのなかを結構歩きます。着きました、鶴岡八幡宮。


        鶴岡八幡宮

 今度は江ノ島に戻ります。江ノ島駅でおり、橋を渡り江ノ島に着きました。これから「江ノ島展望灯台」に向かうのですが、もなかを買いに行くさい、間違えて逆の方向に行ったせいかそろそろ疲れてきたので、階段ではなく「江ノ島エスカー」で登ることにしました。370円のセット券を買って登ります。展望灯台の前に来たのですが、すごく混んでいて10分ほど待ちました。エレベーターで昇っていきました。


        江ノ島展望灯台からの眺め

 いい眺めでした。いつもなら屋外展望室に出ても見ることができるのですが、今日は強風で行けませんでした。それにしてもかなり揺れました。船よりはよかったですけど。さてそろそろ帰ります。その前にまた七里ヶ浜に行きます。


        夕日の七里が浜

 七里ヶ浜でゆっくりしていたら乗る予定の特急に遅れそうになりました。それでも無事に江ノ島に着いたのですが、逆に母との待ち合わせ時間に早すぎました。あちこち行っていろいろできた2日間でした。

(追記)「江ノ島もなか」はかなり甘かったです。薄い味が好きな自分達には合いませんでした。



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 アメリカ西海岸に「サンフランシスコ(San Francisco)」という都市があります。フランシスコ会の修道士が会の創設者「聖フランシスコ」を街の名につけたのが地名の由来とされています。サンフランシスコには「ミッション地区」と呼ばれる地域があり、ドロレス通り(Dolores Street)と16番街の通り(16th Street)が交わる角に「ミッション・ドロレス教会(Mission Dolores Church)」が建っています。1791年に完成したこの教会は、現存するサンフランシスコの教会としては最も古いものです。

 イエスは弟子たちに、全世界に福音(Gospel、「神の国が到来した」というイエスのメッセージ)を宣べ伝え、弟子とするように命じました。「ミッション(mission、福音宣教)」とは、全世界にイエスの福音を宣べ伝えることをいいます。ローマの北に位置するウンブリア地方の町「アッシジ(Assisi)」の裕福な商人の家に生まれた「ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Bernardone)」は、若い頃は放蕩な生活を送っていたのですが、20歳代中頃に度々神の声を聴くようになり、やがて、福音を説いて、弟子たちとともに各地を放浪し、説教を続けることになります。このジョヴァンニが「アッシジのフランチェスコ」なのです。

 アルフレッド・ヒッチコック監督の「めまい(Vertigo)」(1958年に公開)の舞台ともなった「ミッション・ドロレス教会(Mission Dolores Church、Mission San Francisco de Asis)」は、18世紀後半にフランシスコ会の「フニペロ・セラ修道士(Fray Junípero Serra)」が建立します。もとからの居住者であったネイティヴ・アメリカン(インディアン)に宣教し改宗させる拠点としたものでした。

 フランシスコ会などの「托鉢修道会(Mendicant orders)」は、中世中期に、広大な土地を所有し経営を行って荘園領主化していった修道会の腐敗に対する反省として生まれたものです。既存の教会や修道会に対して厳しい批判をすることもあって、従来の聖職者と衝突をし、その多くはローマ教皇の力により解散させられていきます。しかし、フランシスコ会、ドミニコ会などはローマ教皇から認知され、ローマ教皇を中心とした支配体制の中に徐々に組み込まれていきました。

 フランチェスコは修道会を設立した頃の初志に立ち返ることを望み、1221年会則を起草します。しかし、ローマ教皇庁の圧力により、後に教皇グレゴリウス9世(Papa Gregorius IX、在位:1227年~1241年)となる、インノケンティウス3世の甥であった「ウゴリーノ・ディ・コンティ(Ugolino di Conti、1143年~1241年)」枢機卿の手によって、大幅に改編を加えられ、1224年の「総会(general Chapter)」でフランシスコ会の正式の会則とされてしまいました。

 フランチェスコは自分の手から離れてしまった修道会を高弟の「コルトナのエリアス(Elias of Cortona)」に委ね、数名の弟子を連れて「アルヴェルナ山(Monte Alverna)」に入り、祈りと瞑想の生活を送ることになります。




 数人の弟子を連れて山に入ったフランチェスコを鳥たちは迎え入れます。茶色の服装は鳥に警戒心を与えなかったのでしょう。フランチェスコの周りに群れて降りてきます。フランチェスコは鳥たちを相手に「説教」を始めます。フランチェスコは行動力はありましたが、説教はあまり上手ではありませんでした。鳥を相手にその練習をしたのでしょうか。しかし、弟子たちの目には鳥すらも師の説教を聴き入ると映ったことでしょう。画家「ジョット(Giotto)」はこの出来事をアッシジの「聖フランチェスコ聖堂(Basilica di San Francesco)」のフレスコ画にし、作曲家「リスト」は、「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ(St.Françios d'Assise, la prédication aux oiseaux)」 という10分ほどのピアノ曲を作曲しています。

 

 フランシスコ会の一員であった「パドヴァのアントニオ」にも同じような逸話があります。アントニオが「リミニ(Rimini、アッシジの北に位置し、アドリア海に面する町。)」という町にやって来て「説教」を始めようとすると異教徒たちが妨害します。そこで、海に向かって説教を始めると、それを聞こうとして海の魚たちが岸辺にひしめき合い、水面から顔を出したといいます。アントニオの「説教(sermon)」は素晴らしいものでした。その説教を聞いた異教徒たちは改宗するのを躊躇わなかったといいます。アントニオは奇跡も起こします。同じリミニの町で、「ボンビッロ(Bonvillo)」という異教徒がアントニオを辱めようとしてあることを試みます。

 その異教徒は自分の飼っていたラバに3日間餌を与えませんでした。そのラバを町の広場に連れ出し、こう言ったのです。「アントニオよ、お前は聖餐のパンを持って向こうの隅に立て。こちらの隅にはラバの餌の麦を置こう。オレのラバがどちらを選ぶか見てみようじゃないか。お前の言うことが正しいかはすぐにわかるさ。」 多くの人々が注視する中、ラバはアントニオと餌と三角形をなす位置に連れて行かれ、放たれました。この挑戦的な異教徒には自信がありました。当然、腹を空かせたラバは餌の麦に脇目もふらず向かうであろうと。

 この仕打ちに大きく反感を抱いていたのでしょうか、ラバは餌に目もくれずにアントニオの元に向かい、前脚の膝を地面につけてひざまずく格好すらしたのです。それは聖餐の時に人々がする仕草でした。

 群衆からどよめきが起こります。この出来事があって、ボンビッロはいまだ福音を信じていなかった多くの仲間を誘い、改宗したといいます。アッシジのフランチェスコはアントニオの知性と聖性を知って信頼し、修道士に説教の仕方を教えてくれるように手紙を書きます。1224年、ボローニャの修道院でアントニオの講義が始まりました。しかし、この年、フランチェスコは修道会の活動から身を引き、山に籠もることになりました。

 教皇、神父、修道士といった特権的な聖職者を必要としない聖書中心の信仰生活への回帰という努力は、この後、歴史が幾度となく経験し、16世紀に入り、「宗教改革」という形で結実します。「プロテスタント」の誕生です。しかしそれには、まだ300年ほども待たなくてはならなかったのです(マルティン・ルターが「95ヶ条の論題」を発表しローマ教会の堕落に抗議したのは1517年)。

 話はさらに長くなり、終わるきっかけが見つかりません。ポルトガルに生まれたアントニオがなぜ「パドヴァのアントニオ」と呼ばれるようになり、パドヴァの町の守護聖人になったのかという本来の目的に筆が向くまでしばらくお付き合い下さい。



              (この項 健人のパパ)

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