(注) ロンリープラネット社(Lonely Planet)は、今から40年ほど前の1972年に、創業者「トニー・ウィラー(Tony Wheeler)」と「モーリン・ウィラー(Maureen Wheeler)」の二人が、ロンドンを出発し、陸路でアジアを通って、オーストラリアに至る新婚旅行の間に書き留めていた日記をもとに、1973年に「Across Asia on the cheap」という旅行ガイドブックをシドニーで自費出版したことに始まります。ロンリープラネット社からは、2009年5月出版の“Philippines Travel Guide 10th Edition”がおよそ28米ドルで発売されていました(アマゾンでは通常配送無料で2,260円)。11版は3年後の2012年5月のようです。
19世紀、フィリピンで貧困層出身の「アンドレス・ボニファシオ(Andrés Bonifacio)」らがスペインからの独立を目指して結成した秘密組織「カティプナン(Katipunan、人民の子らの最も尊敬すべき至高の協会(Kataas-taasang Kagalang-galangang Katipunan ng mga Anak ng Bayan、KKK))」の指導権を握った有産階級出身の「エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)」が香港亡命中に作成させたものがフィリピン国旗となっています。
まず、中部ルソン地方(Central Luzon、首都マニラの北に接した地域)の7州のうちの3州で、北から並べてみます。
・タルラック州(Lalawigan ng Tarlac)、
・パンパンガ州(Lalawigan ng Pampanga)、
・ブラカン州 (Lalawigan ng Bulakan)
次に、カラバルソン地方(CALABARZON、首都マニラの南に接した地域)の全5州です。この地方名は所属する州の名前の一部を並べて名づけられています。
・カヴィテ州(Lalawigan ng Cavite)、
・ラグナ州(Lalawigan ng Laguna)、
・バタンガス州(Lalawigan ng Batangas)、
・リサール州(Lalawigan ng Rizal)、
・ケソン州(Lalawigan ng Quezon)
1993年4月に営業を開始した沼田市中心商店街の大型商業ビル「グリーンベル21(Green Bell 21)」(群馬県沼田市下之町888)は、商圏の人口が少ないことで、キーテナントだった「沼田サティ」が2002年8月に撤退し、その後に進出した「サンバード長崎屋」も2008年5月に閉鎖し、現在の中核店舗「エーコープ沼田店」も2010年5月28日に閉店します。
「フェルナンド・マルティンス・デ・ブルォン(Fernando Martins de Bulhão)」は、1195年にポルトガル、リスボンの非常に裕福な貴族の家系に生まれます。両親はフェルナンドに貴族の身分を継がせることを望み、神学校に入学させようとしますが、フェルナンドはこれを拒み、1210年にリスボン郊外の聖ヴィンセント・デ・フォーラ修道院(Abbey of St. Vincent de Fora、アウグスティノ修道会の所属)に入ります。
モロッコに向かったフランシスコ会宣教師が殉教したという知らせを聞いたフェルナンドは衝撃を受け、学究生活を捨てて宣教活動を行う決意をします。フェルナンドは、フランシスコ会に移り、修道士生活の創始者とされる「聖アントニウス (Anthony the Great、エジプトのアントニウス、Anthony of Egypt)」にならって名前を「アントニウス(アントニオ、ポルトガル語:António)」に改めます。
神に祈りを捧げる「礼拝(worship)」のための専用の空間を「礼拝堂(chapel、cappella)」と言います。主祭壇を囲む礼拝のための空間は「聖堂」と呼ばれて、礼拝堂とは区別されます。礼拝堂は、ミケランジェロの「最後の審判」の壁画のある「システィーナ礼拝堂(Cappella Sistina)」やイエスの母マリアとイエスの生涯を扱ったジョットの連作壁画のある「スクロヴェーニ礼拝堂(Cappella degli Scrovegni)」が有名ですが、必ずしも独立した建物であるとは限りません。カトリックの大聖堂では、大聖堂の側廊などに空間をとり、礼拝堂を設置することが一般に行われています。
パドヴァの「サンタントニオ聖堂(Basilica di sant'Antonio)」の「主祭壇(high altar)」の背後に「宝物礼拝堂(Treasury Chapel、Chapelle du Tresor、聖遺物礼拝堂、Cappela della Reliquia)」があります。この礼拝堂には「聖アントニオ」の「聖遺物(relic)」が展示されています。「聖遺物」とは、イエス・キリストや聖人の遺骸や遺品を言います。この礼拝堂には、聖アントニオの「顎」と「舌」が展示されています。「説教(sermon)」の非常に上手であったアントニオに相応しい聖遺物と言えるのでしょう。
聖遺物で有名なのは何といってもトリノの「聖ヨハネ大聖堂(Cattedrale di San Giovanni Battista)」に保管されている「トリノの聖骸布(Shroud of Turin)」でしょう。「聖骸布(Holy Shroud)」とは、磔刑に処されて亡くなったイエスの遺体を包んだとされる布を言います。ローマ教皇「ベネディクト16世」は2010年5月2日、「トリノの聖骸布」が10年ぶりに公開されている大聖堂を訪問、聖骸布の前で4分ほどの祈りを捧げました。教皇はその後、大聖堂そばのサンカルロ広場で野外ミサを行っています。
サンタントニオ聖堂には最奥にある「聖遺物礼拝堂」を含めて「礼拝堂」が5つあります。まず、聖堂に入って左手(北面)の「翼廊(transept)」に「聖アントニオ礼拝堂(Saint's chapel)」、その左手に「黒髪のマリア礼拝堂(Chapel of the Dark-haired Madonna)」、その奥に「福者ルカ・ベッルーディ礼拝堂 (Blessed Luca Belludi' chapel)」があります。そして、「聖人礼拝堂(聖アントニオ礼拝堂)」」の「身廊(nave)」をはさんだ向かい側の「聖ヤコブ礼拝堂」です。
「パドヴァのアントニオ(Sant'Antonio di Padova、1195年~1231年)」も「アッシジのフランチェスコ(San Francesco d'Assisi、1181年~1226年)」も「聖人(英語:Saint、イタリア語:Santo)」です。「聖人」とは、イエス・キリストの模範に忠実に従って生き、その教えを完全に実行した人たちのことであり、神と人間との仲介役となり、人々の祈りを聞き入れてくれるように神のそばでとりなしを行ってくれる存在であるとされます。
聖人は「ローマ教皇庁列聖省(Congregation for the Causes of Saints、現長官:アンジェロ・アマート大司教(Archbishop Angelo Amato))」の調査の結果を受けてローマ教皇が公に聖人の列に加えると宣言する(列聖、canonization、canonizatio)ことで誕生します。「列聖式」はローマの聖ペトロ大聖堂で盛大に執り行われます。教皇庁列聖省が調査を宣言すると、その人物は「尊者(Venerable)」となります。さらに、列聖省が調査の結果、その人物の生涯が英雄的で、福音的な生き方であったことを公認すると「福者(Blessed、Beatus)」と呼ばれることになります。
最も貧しい人々のために活動する「神の愛の宣教者会(Missionaries of Charity)」の創立者、「マザー・テレサ(Mother Teresa)」は亡くなってから6年後に列福されています。この「福者」の中から「聖人」が選ばれていくことになります。それには何十年という時の流れが必要となります。マザー・テレサが「列福」されたのは異例の速さだったと言われるほどで、多くは歴史が長い時間をかけて選別していくのです。
フランシスコ会の1221年会則に大幅な改編を加え、ローマ教皇をその頂点とする権力構造にフランシスコ会を組み入れた「ウゴリーノ・ディ・コンティ(Ugolino di Conti)」枢機卿は、1227年、教皇グレゴリオ9世となります。グレゴリオ9世はフランチェスコを1228年には列聖します。フランチェスコが亡くなって21か月後のことでした。その年には、フランチェスコの功績を讃えるために、アッシジの町の北西の斜面を利用して聖フランチェスコ聖堂の建築が始まります。2年後の1230年にはフランチェスコの遺骸がこの聖堂に移されます。
「ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone)」の描く
「聖痕を受けるフランチェスコ(Stimmate di San Francesco)」
イエスは弟子たちに、全世界に福音(Gospel、「神の国が到来した」というイエスのメッセージ)を宣べ伝え、弟子とするように命じました。「ミッション(mission、福音宣教)」とは、全世界にイエスの福音を宣べ伝えることをいいます。ローマの北に位置するウンブリア地方の町「アッシジ(Assisi)」の裕福な商人の家に生まれた「ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Bernardone)」は、若い頃は放蕩な生活を送っていたのですが、20歳代中頃に度々神の声を聴くようになり、やがて、福音を説いて、弟子たちとともに各地を放浪し、説教を続けることになります。このジョヴァンニが「アッシジのフランチェスコ」なのです。
アルフレッド・ヒッチコック監督の「めまい(Vertigo)」(1958年に公開)の舞台ともなった「ミッション・ドロレス教会(Mission Dolores Church、Mission San Francisco de Asis)」は、18世紀後半にフランシスコ会の「フニペロ・セラ修道士(Fray Junípero Serra)」が建立します。もとからの居住者であったネイティヴ・アメリカン(インディアン)に宣教し改宗させる拠点としたものでした。
フランチェスコは修道会を設立した頃の初志に立ち返ることを望み、1221年会則を起草します。しかし、ローマ教皇庁の圧力により、後に教皇グレゴリウス9世(Papa Gregorius IX、在位:1227年~1241年)となる、インノケンティウス3世の甥であった「ウゴリーノ・ディ・コンティ(Ugolino di Conti、1143年~1241年)」枢機卿の手によって、大幅に改編を加えられ、1224年の「総会(general Chapter)」でフランシスコ会の正式の会則とされてしまいました。
フランチェスコは自分の手から離れてしまった修道会を高弟の「コルトナのエリアス(Elias of Cortona)」に委ね、数名の弟子を連れて「アルヴェルナ山(Monte Alverna)」に入り、祈りと瞑想の生活を送ることになります。
数人の弟子を連れて山に入ったフランチェスコを鳥たちは迎え入れます。茶色の服装は鳥に警戒心を与えなかったのでしょう。フランチェスコの周りに群れて降りてきます。フランチェスコは鳥たちを相手に「説教」を始めます。フランチェスコは行動力はありましたが、説教はあまり上手ではありませんでした。鳥を相手にその練習をしたのでしょうか。しかし、弟子たちの目には鳥すらも師の説教を聴き入ると映ったことでしょう。画家「ジョット(Giotto)」はこの出来事をアッシジの「聖フランチェスコ聖堂(Basilica di San Francesco)」のフレスコ画にし、作曲家「リスト」は、「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ(St.Françios d'Assise, la prédication aux oiseaux)」 という10分ほどのピアノ曲を作曲しています。