POWERFUL MOMが行く!
多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 





 「デリー(Delhi)」の南東200kmほどのところに「アグラ(Agra)」という都市があります。「タージ・マハル廟(Taj Mahal)」で有名なところです。インフラの整備が非常に遅れているインドに妻や子供を連れて行きたいとは思わないのですが、タージ・マハルには機会があれば一人で訪れてみたいとは思います。



 ムガル朝第5代皇帝のシャー・ジャハーン(Shah Jahan、1592年1月~1666年1月)は、1612年に宮廷貴族の娘のムムターズ・マハル(Mumtaz Mahal、本名 アルジュマンド・バーヌー・べーガム(Arjumand Banu Begum)、1595年4月~1631年6月)と婚姻しました。シャー・ジャハーンには、他に2人の妻、アクバラバディ・マハル(Akbarabadi Mahal )とカンダハリ・マハル(Kandahari Mahal)がいましたが、2人に情愛を示すことはなく、義務として各妻に1人の子をもうけたに過ぎなかったといいます。 しかし、ムムターズ・マハルとの間には、14人もの子供がいました(但し、成年まで育ったのは男子4人と女子2人)。17歳で結婚し、36歳で亡くなっていますから、ほぼ毎年のように子供を産んでいたことになります。

 しかし、その最愛の王妃は1631年、遠征先(夫と行動をともにしていました)で亡くなってしまいます。病気でした。シャー・ジャハーンは悲嘆にくれ、王妃を弔うためにタージ・マハルの建設に着手します。20年以上をかけ、この廟を完成させることになります。この廟の建設に没頭することで、悲しみを紛らわしていたのでしょうか。シャー・ジャハーンは1666年になくなっていますから、王妃が亡くなってから35年生きていたことになります。時が王妃を忘れさせてくれなかったとすれば、どんな気持ちで日々を送っていたのでしょうか。



 そんなシャー・ジャハーンは晩年、息子のアウラングゼーブによってアグラ城に幽閉されてしまいます。アウラングゼーブは、愛妃ムムターズ・マハルの子で帝位についていました。晩年のシャー・ジャハーンは毎日、アグラ城からタージ・マハルを眺め、涙を流して過ごしていたと伝えられています。

 現在、タージ・マハルでは、シャー・ジャハーンとその愛妃ムムターズ・マハルの棺は並べて安置されているそうです。
     
        (この項 健人のパパ)

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 インドは、インド政府観光局のページによると、大きく4つに分けられるようです。デリーをその中心とする「北部」、ムンバイ(旧名 ボンベイ)を中心とする「西部」、バンガロールやチェンナイのある「南部」、コルカタ(旧名 カルカッタ)を中心とする「東部」です。「東部」は、宗教問題で1947年にインドより分離独立した「パキスタン」から、1971年にさらに分離独立した「バングラデシュ」を挟んでいるために、真ん中あたりがくびれています。




 外務省の「インド」のページによると、インドの面積は3,287,263k㎡(インド政府資料に基づくため、国境争いのあるパキスタン、中国との係争地を含む)、人口は10億2,700万人(国勢調査は10年に1度しか実施されないので、2001年国勢調査に基づく。人口増加率から推定すると現在は11億3、000万人を超えている)です。面積、人口とも日本の9倍弱あります。



 大学生3年生の息子「優也」が日本から入る「デリー」は、インドの北部にあって、東のウッタル・プラデーシュ州と西のハリヤーナー州に挟まれています。インドの北部では、話される言語は主にヒンディー語で、その人種構成はイラン高原やイラク高原から移住してきた遊牧民を先祖とするアーリア人が多い。アーリア人はコーカソイドに属し、ヨーロッパ白人と先祖を同じくすると言われています。

 ウッタル・プラデーシュ州(Uttar Pradesh)は、面積 238,566 km²、人口 およそ1億7000万人です。日本の本州の面積 227,963km²にほぼ等しいと言えますが、それでもインドの州の中で、面積は5番目になります。インドでもっとも人口の多い州ですが、脊梁山脈を中央に持ち、平野部の割合が低い日本の本州の人口が1億200万人であるのと比べて、ガンジス川流域の平原の大部分を占めるウッタル・プラデーシュ州の人口が日本の1.7倍でも不思議ではありません。

 ハリヤーナー州(Haryana)、パンジャーブ州(Punjab)、ヒマーチャル・プラデーシュ州(Himachal Pradesh)、ウッタラーカンド州(Uttarakhand)の4州を合わせると203,813k㎡になり、これも日本の本州の面積に近づきます。

 ラージャスターン州(Rajasthan)は、インドで一番大きい州で、面積 342,236 k㎡。日本全土の面積(377,835k㎡)に近くなりますが、人口は2,500万人ほどで日本の人口の5分の1程度です。

 「ゴールデン・トライアングル」という言葉があります。北部で有名な三都市「デリー(Delhi)」、「アグラ(Agra)」、「ジャイプール(Jaipur)」を結ぶと三角形になることからそのように言われます。

 JTBのツアーに「浪漫紀行 ゴールデン・トライアングル5日間 デリー+アグラ+ジャイプール」というのがあります。デリーからアグラへ、アグラからジャイプールへ、ジャイプールからデリーへと午後をバスの移動時間にあて、三角形を描いて観光地を巡るツアーです。観光初日の午前中は、デリー市内観光(クトゥブミナール、フマユーン廟、インド門、ラクシュミーナーラーヤン寺院を見学)、午後は約200kmを約4時間かけてバスで移動です。。2日めの午前中は、アグラ観光(タージ・マハール、アグラ城)、午後は約230kmを約5.5時間かけてバスで移動です。3日めの午前中、アンベール城などを見学し、午後は約260kmを約4.5時間かけてバスでデリーに戻ります。



 アグラ(アーグラとも)はインドのウッタル・プラデーシュ州にあり、同州では最大の都市(人口はおよそ130万人とも140万人とも)です。人口130万人の都市を日本で探すと「福岡市」があります。世界遺産に登録されているタージ・マハル(Taj Mahal)、アグラ城(Agra Fort)があることで知られています。



 アグラは、デリーからは日帰りできると言います。個人旅行では、どのようにすればデリーからアグラに移動できるかを調べてみました。バスと鉄道があるようです。まずバスですが、Delhi Transport Corporation (DTC、デリー輸送公社) は、“Inter-State Bus Services”を行っており、北部の州の主な都市にはバスの連絡があります。



 これを見ると、アグラには 06:30, 07:00, 07:40 と日に3便あり、 マトゥラー(Mathura)を経由して行くようです。出発は3つある長距離バスターミナル(Inter-State Bus Terminal、I.S.B.T.)のうち、サライ・カレ・カーン(I.S.B.T. SARAI KALEY KHAN、Sarai Kale Khan Bus Stand、デリー南東部のインド国鉄「ニザムディン駅(Hazrat Nizammudin)」の近く)(残り2つは、カシミール・ゲート(I.S.B.T. KASHMERE GATE)とアナンダ・ビハール(I.S.B.T. ANAND VIHAR))のバス・ターミナルで乗車するようです。



 しかし、バスの評判は悪い。道が悪く、サスペンションは悪く、、、鉄道で行く方法を選択した方が賢明のようです。

         (この項 健人のパパ)

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 新潮新書に麻生太郎著の「とてつもない日本」があります。その中の記述です。

 平成17(2005)年の暮れ、外務大臣としてインドを訪問する機会があった。首都ニューデリーに滞在中、できたばかりの地下鉄を視察したのだが、この時インドの方々からうかがった話が今でも忘れられない。この地下鉄視察が日程に組み込まれたのは、日本の政府開発援助(ODA)を使って建設されたものだからであった。私たちが訪ねた駅には日本とインドの大きな国旗が掲げられており、日本の援助で作られたということが大きな字で書いてあった。改札口にも大きな円グラフが表示され、「建設費の約70パーセントが日本の援助である」と分かるように、青で色分けしてあった。その配慮に感激し、私は地下鉄公団の総裁(Elattuvalapil Sreedharan、エラットゥヴァラピル・スリーダラン)に御礼の言葉を述べた。



 三笠文庫の知的生きかた文庫、門倉貴史著の『「今のインド」がわかる本』の中の記述です。

 日本は、これまで中国に多大なODAを供与してきた。しかし、それは中国の国民には十分に伝えられていない。多くの中国人は、日本からのODAを受けている事実さえ知らないのである。ところが、インドは違う。インドは、政府が率先して、日本のODAの供与を国民に周知徹底するようにしている。たとえば、私がインドに出張したとき、ちょうどデリーメトロは日本からの円借款によって建設されているのだが、工事現場に看板があって、「日本からの援助によってメトロの建設が行われている」旨が明示されていたのだ。



 国際基督教大学近藤正規氏の「長期的な対印経済協力のあり方―インド・モデルの構築―」からです。

 日本の対印ODA の最大の成功例は、デリー地下鉄である。総工費2,570 億円のうち、1,628 億円が円借款の供与によって行われているこの案件の成功は、一にも二にも、デリー交通公社(DMRC: Delhi Metro Railway Corporation)のスリーダラン総裁のリーダーシップによると考えられている。インドでは非常に珍しく一部工期を前倒しするなど、ほぼ工期どおりに進捗している。この建設事業の成功の要因は、スリーダラン総裁が政治の介入を排除して、スケジュール厳守を徹底したことにある。現在、この経験を、バンガロールを始めとする他都市へ拡大する計画が日印両国間で進められており、まさに、「ベスト・プラクティス」となっている。



 「政府開発援助白書 2007年版 日本の国際協力」のコラム「日本方式をインドの地下鉄へ ~デリーメトロ建設に対する日本の支援~」からです。
 
 インドの首都デリーでは、地下鉄と地上・高架鉄道からなる大量高速輸送システム(デリーメトロ)の建設が急ピッチで進められています。インドの鉄道は、これまで長距離輸送に重点が置かれてきたため、首都デリーにおいても、郊外と市の中心部を結ぶ近距離鉄道や市内の鉄道網が整備されていませんでした。そのため、デリー近郊における交通手段はバスや自家用車に頼らざるを得ない状況で、道路の慢性的な渋滞と、車の排気ガスによる大気汚染に悩まされていました。

 こうした状況を受け、デリー州政府は交通混雑を緩和し、環境への負担が少なく、時間に正確で効率的な大量高速輸送システムとして、デリーメトロの建設計画を進めています。この事業の第1フェーズ(総延長約59キロ)に対し、日本政府は1996年度から6回にわたり総額約1,627億円の円借款を供与しました。2006年11月に全区間約65キロが開業し、2007年7月の時点で、1日当たり約60万人の市民に利用されています。さらに増大する交通需要に対応し、より便利な交通ネットワークを構築するために、第1フェーズで完成した路線の延伸工事(第2フェーズ(総延長約83キロ))が進められており、日本政府は2005年度からこの第2フェーズに対しても円借款(2006年度までに284.83億円)を供与しています。

 2011年に第2フェーズ部分が完成すると、6路線総延長約143キロとなり、デリー市内の基幹公共交通となることが期待されます。ちなみに東京メトロは8路線183.2キロ、大阪市営地下鉄は8路線129.9キロであることと比べると、分かりやすいかもしれません。


 デリー・メトロ(DELHI METRO)は、一部が完成し、すでに運行されています。現在は「キ」の字の形に路線が走り、上の横棒が「LINE 1」で、下の横棒が「LINE 3」、縦棒が「LINE 2」です。横棒と縦棒の交差するところに北から「カシミール門」と「コンノート・プレイス」という駅があり、乗り換え駅になります。下の地図の紫色の部分は地下、緑色の部分は路面または高架になります。






Line 1 (Dilshad Garden - Rithala、「カシミール門」を通り、デリーを東西に走る)

(東側から)Dilshad Garden → Jhilmil → Mansarovar Park → Shahdara → Welcome → Seelampur → Shastri Park → Kashmere Gate(カシミール門) → Tis Hazari → Pul Bangash → Pratap Nagar → Shastri Nagar → Inder Lok → Kanhiya Nagar → Keshav Puram → Netaji Subhash Place → Kohat Enclave → Pitam Pura → Rohini East → Rohini West → Rithala

Line 2 (Vishwa Vidyalaya - Central Secretariat、「カシミール門」と「コンノート・プレイス」を通り、デリーを南北に走る)

(北側から)Vishwa Vidyalaya → Vidhan Sabha → Civil Lines → Kashmere Gate(カシミール門) → Delhi Main → Chawri Bazar → New Delhi → Rajiv Chowk(コンノート・プレイス) → Patel Chowk → Central Secretariat

Line 3 (Indraprastha - Barakhamba Road - Dwarka、「コンノート・プレイス」を通り、デリーを東西に走る)

(東側から)Indraprastha → Pragati Maidan → Mandi House → Barakhamba Road → Rajiv Chowk(コンノート・プレイス) → R.K. Ashram Marg → Jhandewalan → Karol Bagh → Rajendra Place → Patel Nagar → Shadipur → Kirti Nagar → Moti Nagar → Ramesh Nagar → Rajouri Garden → Tagore Garden → Subhash Nagar → Tilak Nagar → Janakpuri East → Janakpuri West → Uttam Nagar East → Uttam Nagar West → Nawada → Dwarka Morh → Dwarka and Dwarka → Dwarka Sec-14 → Dwarka Sec-13 → Dwarka Sec-12 → Dwarka Sec-11 → Dwarka Sec-10 → Dwarka Sec-9

 ジェトロセンサーの2005年4月号にこんな記述があります。

 混雑しているときは切符を買うのはなかなか難儀である。普通に並んでいると左右からどんどん割り込まれてしまい、ルピーを握り締めた手を窓口にぐいっと押し込まないといけない。相変わらずのマナーには閉口してしまう。

 プリペイドのカードを入手した方がストレスが少なくなるのかも知れません。SUICA、PASMO、ICOCAに慣れてしまったので、外国でもこのプリペイドのカードがあるのは便利です。



 The Delhi Metro Rail Corporation today(18 July, 2007) announced that its smart cards can now be purchased for a minimum value of Rs 50 only against the earlier minimum of Rs 100. (プリペイドのカードは50ルピーから買えるようです。)The value of the card can be increased in multiples of Rs 50 upto a maximum of Rs 800. (チャージは50の倍数ででき、上限は800ルピーのようです。)The security deposit of Rs 50 which is refundable will continue to be charged, a DMRC spokesman said today. (デポジットで50ルピーが必要ですが、カードの返却で戻されます。)The card works as a prepaid device which will allow commuters to travel specified routes via rail without worrying about cash. (小銭の心配をしなくてもいいのがプリペイド・カードの一つの利点ですね。)

       (この項 健人のパパ)

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 PHP研究所刊の「驚異の超大国 インドの真実」という本があります。神戸市に生まれ、神戸とロサンゼルスに居を構えるインド人のビジネスマン、キラン・シン・セティ(Kiran Singh Sethi)氏が著者です。その中にこんな記述があります。(シン(Singh、「ライオン」の意)という名前がついていることから、シーク教徒のようです。シーク教徒は頭にターバンを巻くことから一見して分かります。但し、これはインド以外でのことで、インドではターバンを巻かないシーク教徒も多く見かけるようです。)

 「ときおりインド人が数字を得意にしていることに関して、「数千年前に、ペルシャでうんぬん…」なんて書いてある本も見かけるが、果たしてそれは本当だろうか。僕には、疑わしい。最近巷で流行っている「インド数学ドリル」とか、「インド式計算ドリル」なんていうのも、僕はインドで目にしたことがない。

 インド式計算とは、大雑把な説明をすると、例えば、2桁と2桁の掛け算をするときに
(1)九九は小学校のときに繰り返し覚えさせられるので反射的に答えが出せる。
(2)2桁どうしの足し算も比較的早く答えが出せる。
という人が多いことに着目して2桁どうしの掛け算を九九の掛け算と2桁どうしの足し算に分解して解こうとするものです。

 これには中学生のときに習う分配法則を利用します。例えば、53×47を分配法則の一つ「和と差の積」を利用して、(50+3)×(50-3)=50×50-3×3=2500-9=2491と計算する方法を言います。数を分解する必要があり、ある程度のロジック(思考を進めていく筋道)を必要とします。



 インド人は計算が速いかどうかについては私にはそんな場面に出くわしたことがありませんから、そうだともそうでないとも言えませんが、計算の速さだけでいうなら日本人で算盤を習っている人の計算の速さには驚嘆したことはあります。インド人は計算が速いからITで成功していると説明することには、疑問を呈さざるを得ません。計算が速い→数学が得意→IT産業の発展に寄与できる、という図式は短絡的すぎるのではないでしょうか。その図式が成立するならば、日本は算盤振興策を講じ、暗算の成績で理系大学の入試に変えたらいいでしょう。

 キラン・S・セティ氏は、インド人が数学が得意であることを否定せずに次のように述べます。

 「まだ計算機のなかった時代、たとえば、今から50年前の日本では、市場や商店でモノを売り買いする際には、ソロバンを使って、買ったものの総額やお釣の金額を計算していた。
 では、インドではどうだったのか。インドには、ソロバンはない。インドの人々は、すべてを暗算で計算していたのだ。売るほうはもちろん暗算ができなければ商売にならないし、買うほうにしてもごまかされずに商品を購入するためには暗算の心得が必要だった。
 人々は、勉強のために数学を学ぶのでなく、生きる知恵として数学を学び始めるのだ。インドの国民が数学に強くなった理由は、このようにシンプルなものだ。


 インドの南西部にカルナータカ州という地方行政区分があり、その州都が「ベンガルール(Bengaluru、以前はバンガロールと呼ばれていた)」です。ベンガルールは「インドのシリコンバレー」と呼ばれ、インドのIT産業の中心地です。



 ベンガルールには、インドを代表する軍需企業や陸海空軍の研究施設が集中していたこと、優秀な高等教育機関が多く存在していたことなどが要因となって、IT産業の中心地となったと言われています。外資系IT企業も優秀なIT技術者を求めてこの地に多く進出しています。

 キラン・S・セティ氏は、それを次のように分析します。

 「ベンガルールの人々は子どもたちに教育を受けさせるのに熱心で、それを適切な方法で与えることに成功したのだと思う。九九を覚えさせ、数学を学ばせ、ロジックを扱うことに長けた人々を育てることに成功したのだ。言うまでもなく、ソフトの開発は、ロジックの能力によっている。そうして、教育を受け、大学を卒業したIT技術者が、それこそ、毎年、何千万人も出てきているのだ。

 一定期間内に国内で産み出された付加価値の総額を表すものに、国内総生産(GDP、Gross Domestic Product)という指標があります。そのなかにIT産業がどの程度の割合を占めているのかわかりませんが、大きなものと言えるのなら、日本も国を挙げて数学教育に力を入れるべきでしょう。しかし、それは計算の速さではなく、ロジックを扱う能力に秀でさせるという方向で行われるべきものでしょう。

 残念ながら、日本はインドに勝ることはできません。インドのIT産業の優位は、IT技術者の能力にあるのではなくて、その賃金水準の低さにあるからです。アメリカのIT技術者の賃金の5分の1以下であると言われています。日本のIT技術者は、「日本語」を扱うことで守られている面があるのですが、英語を扱うアメリカのIT技術者はインドのIT技術者と争うことはできなくなってきています。

 ムンバイ(Mumbai)には、タタ財閥系のソフトウェア会社「タタ・コンサルタンシー・サービシズ(TCS、Tata Consultancy Services)」があります。そこが日本向けに事業展開をしています。そのサイトにある文言です。

 TCSは、日本で事業を開始した最初のインドIT企業であり、1987年より日本の国内マーケットへ向けて積極的にIT関連サービスを提供しています。
また、日本マーケットでの豊富な経験により、日本のお客様が必要とされている技術や専門性を的確に理解し、ビジネスゴールに直結する最適なソリューションをご提示させて頂くことが可能です。
 現在、500名以上のコンサルタントが日本向け案件を担当しており、オンサイトで働くTCSスタッフの30%は日本人で構成されています。TCSは『non-Japanese』エンジニアの日本語トレーニングにも力を入れており、サービスクオリティーの更なる向上を目指しています。
日本の市場に対する高い理解力をもつ日本人スタッフが、全世界で実績を持つグローバルカンパニーTCSのプロセスとクオリティーを持って問題解決に当たる、これがTCSのアドバンテージです。


         (この項 健人のパパ)

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 インドには、パルシー(Parsi、ペルシャ人を意味する)と呼ばれる社会集団があります。パルシーというグループに属する人たちの殆どがインド亜大陸西岸の都市「ムンバイ(Mumbai、マハーラーシュトラ州の州都。以前はボンベイと呼ばれていた)」に住み、高学歴の傾向があり、商業活動に従事する者が多いといいます。



 パルシーは、火を神聖視し礼拝する宗教、ゾロアスター教(拝火教)を信仰する人たちで、以前はイラン(ペルシャ)に住んでいましたが、国土がイスラム教徒に征服され、イスラム教への改宗を迫られたことから、インドに移り住んできました。

 インドに移住してきたパルシーの人たちは、経済活動を積極的に行い、地域にその地位を築いていきます。タタ財閥の創始者、ジャムシェトジー・ナッセルワンジ・タタ(Jamsetji Nusserwanji Tata、1839年3月3日~1904年5月19日)もパルシーでした。

 ジャムシェトジーは、イギリス系のホテルに友人と入ろうとして、追い出されます。インド人であるという理由からでした。この頃、「イギリス領インド帝国(British Raj、1877年~1948年)」の時代でした。ジャムシェトジーは、インド人も利用できるホテルの建設に取りかかり、豪華ホテル(現在5つ星)「タージ・マハール・パレス&タワー(Taj Mahal Palace & Tower)」を没する前年に完成させます。

(info) AppleWorldでの「タージ・マハール・パレス&タワー」(TAJ MAHAL PALACE & TOWER)の情報。

 タタ・グループの一つにインディアン・ホテルズ(Indian Hotels Company)があり、タタ・グループのサイトに次のようなプロフィールが載っています。

 The Indian Hotels Company and its subsidiaries are collectively known as Taj Hotels Resorts and Palaces, recognised as one of Asia's largest and finest hotel company. Incorporated by the founder of the Tata Group, Jamsetji N Tata, the company opened its first property, The Taj Mahal Palace Hotel, Bombay, in 1903. The Taj, a symbol of Indian hospitality, completed its centenary year in 2003. Taj Hotels Resorts and Palaces comprises 59 hotels at 40 locations across India with an additional 17 international hotels in the Maldives, Mauritius, Malaysia, United Kingdom, United States of America, Bhutan, Sri Lanka, Africa, the Middle East and Australia. 
 インディアン・ホテルズ・カンパニーとその子会社は、ひとまとめにして「タージ・ホテルズ・リゾーツ&パレス」として知られており、アジアにおける最大手で最もすばらしいホテル会社の1つと認められています。 タタ・グループの創業者、ジャムシェトジー・ナッセルワンジ・タタによって設立されたインディアン・ホテルズ・カンパニーは1903年に、その最初のホテル、タージ・マハール・パレス・ホテルをボンベイ(ムンバイ)にオープンさせました。インドのホスピタリティの象徴、タージ・マハール・パレス・ホテルは、2003年にその100年めの年を迎えました。タージ・ホテルズ・リゾーツ&パレスは、インド国内10か所の地に59のホテルを展開し、さらにモルディヴ、モーリシャス、マレーシア、イギリス、アメリカ合衆国、ブータン、スリランカ、アフリカ、中東、オーストラリアに17のホテルを運営しています。

         (この項 健人のパパ)

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 昨日(2008年6月25日)、妻「あみ」はアルバイトから夜遅く帰ってきた息子「優也」から「学校の休みにインドに行って来る。航空券は大学生協で予約してきた。」と聞いたそうです。

「お父さん、知っていた?」
「行くのは聞いていたよ。大学での授業絡みなんだそうだよ。」
「そうなの。」
「タタ財閥などの下調べに行くのだそうだよ。」
「授業で行くの?」
「いや、一人で行くんだと思うよ。」
「観光も兼ねているってわけ?」
「多分ね。」

 いま、インドと日本を結ぶ直行便は、日本航空(JAL)とエア・インディア(AI)が運行しています。LALは、JL471便が毎日運航(週7便)しており、東京11:50発、デリー17:35着です。AIは、AI307便が水・木・土・日曜日(週4便)と運行しており、東京12:00発、デリー16:55着です。

 朝起きてきた息子に尋ねると、エア・インディアの航空券を取ったそうです。生協では、燃油サーチャージを入れて、10万円程度だったようです。

 日本時間12:00出発、インド時間16:55到着。時差は3時間30分ありますから、16:55-12:00+3:30=8:25ということで8時間30分ほどの空の旅です。



 実は、息子の乗る予定のエア・インディアは、タタ・グループ(タタ財閥)と関係があるのです。エア・インディアの前身「タタ航空」の設立者の一人が、ジャハンギール・ラタンジ・ダーダーバーイ・タタ(Jehangir Ratanji Dadabhoy Tata、J.R.D Tata、1904年7月29日~1993年11月29日)です。

 エア・インディアのサイトには、こんな記述があります。
 Air India is India's national flag carrier. Although air transport was born in India on February 18, 1911 when Henri Piquet, flying a Humber bi-plane, carried mail from Allahabad to Naini Junction, some six miles away, the scheduled services in India, in the real sense, began on October 15, 1932. It was on this day that J.R.D. Tata, the father of Civil Aviation in India and founder of Air India, took off from Drigh Road Airport, Karachi, in a tiny, light single-engined de Havilland Puss Moth on his flight to Mumbai (then known as Bombay) via Ahmedabad.
 エア・インディアはインドの国営航空会社です。1911年2月18日郵便運搬用としてアンリ・ピケ(Henri Piquet)がアラハバッドと6マイル離れたナイニを結ぶ定期便の運行を開始しましたが、正式な航空交通の誕生は1932年10月15日、エア・インディアの創設者であり、近代航空産業の父でもあるジャハンギール・ラタンジ・ダーダーバーイ・タタ(J.R.D.Tata)がカラチの小さなDrigh Road空港を軽量単発小型機で出発し、アメダバッドを経由しムンバイに到着した、この日と言われています。

 He landed with his precious load of mail on a grass strip at Juhu. At Mumbai, Neville Vintcent, a former RAF pilot who had come to India from Britain three years earlier on a barn-storming tour, during which he had surveyed a number of possible air routes, took over from J.R.D.Tata and flew the Puss Moth to Chennai (then Madras) via Bellary.
 彼は大切な郵便荷物を乗せ、草生い茂るジュフの滑走路に着陸しました。ムンバイではすでに引退した英国空軍(RAF:Royal Air Force)パイロット、ネビル・ビンセント(Neville Vintcent)が、3年前にイギリスからインドに渡り曲乗りツアーをしながら、飛行可能なルート数を模索していたところでした。彼がJ.R.D.Tataに代わってアーメダバードを経由し後のマドラスであるチェンナイにプス・モス機で到着しました。

 ジャムシェトジー・ナッセルワンジ・タタ(Jamsetji Nusserwanji Tata、1839年3月3日~1904年5月19日)とともにタタ・グループの基礎を築いたラタンジ・ダーダーバーイ・タタ(Ratanji Dadabhoy Tata、R.D. Tata、ジャムシェトジーの従兄弟)の息子が「J.R.D タタ」でした。

 ジャハンギールは、フランス人を母親としてパリで生まれ、幼年期をフランスで過ごします。高校へ進む頃には航空学に興味を示すようになり、飛行機競技者を目指すようになります。その後、インドに渡り、叔父であるジャムシェトジー・ナッセルワンジ・タタの経営していた会社へ入り、活躍することとなります。34歳の若さでオーナーとなったジャハンギールは会社の多角経営化に乗り出します。

              (この項 健人のパパ)

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