北イタリアの東西に長いエミリア=ロマーニャ州の最も西に位置する県はピアチェンツァ県 (Provincia di Piacenza) です。その南に接して、パルマ県(Provincia di Parma)があります。そのパルマ県の北にピアチェンツァ県に接してコムーネ(基礎自治体)、「ブッセート(Busseto)」があり、ここはジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi)の出生地として有名です。
ヴェルディは、19世紀を代表するイタリアのオペラ作曲家であり、1813年10月10日に誕生しています。ブッセートは、当時パルマ公国を併合したフランス第一帝政(ナポレオン・ボナパルトの軍事独裁政権)の支配地域であり、ヴェルディはジョセフ・フォルテュナン・フランソワ (Joseph Fortunin François) という名を持っていました。
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ヴェルディの誕生日が10月10日であることから、ヴェルディ・フェスティバルがその日を挟んで毎年1か月ほど行われています。プログラムはヴェルディ尽くしで、パルマ王立歌劇場(Teatro Regio di Parma)のほかに、木組みの内装が美しいファルネーゼ劇場(Teatro Farnese)、ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale del Giardino)、アルトゥーロ・トスカニーニ・フィルハーモニー管弦楽団(Filarmonica Arturo Toscanini)の本拠地パガニーニ・オーディトリアム(Auditorium Niccolo Paganini)、さらにはブッセートのヴェルディ劇場(Teatro Giuseppe Verdi di Busseto)などを使ってオペラやコンサートが開かれています。
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パルマ音楽院の卒業生でイタリア各地の歌劇場の舞台に立っているあずささんと音楽院に在学中の瑠衣さんとパルマ王立歌劇場にやってきました。
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“regio”(レージョ)とは、「国王の、王室の、王立の」という形容詞です。そこで、“teatro regio”(テアトロ・レージョ)は、「王立劇場、王立歌劇場」ということになります。トリノ王立歌劇場(Teatro Regio di Torino)と区別するために、パルマ王立歌劇場(Teatro Regio di Parma、テアトロ・レージョ・ディ・パルマ)と呼ばれています。
オーストリア皇帝フランツ1世の娘で、フランス皇帝ナポレオン1世の皇后であったマリア・ルイーザ(Maria Luisa)は、ファルネーゼ劇場が手狭であることから、隣接した聖アレッサンドロ修道院の土地に新たに劇場を建てることにして、建築家の二コラ・べットーリ(Nicola Bettoli)に依頼します。ナポレオンがセント・ヘレナ島で死去した1821年に着工し、2度目の夫ナイペルク伯アダム・アルベルト(Adam Albert conte di Neipperg)が亡くなった1829年に竣工しました。経営は、パルマ公国、イタリア政府から地方自治体のパルマに移っていますが、王立という名は留めています。
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パルマ音楽院ことアッリーゴ・ボーイト音楽院(Conservatorio di Musica Arrigo Boito)は、1769年にフィリッポ・ディ・ボルボーネ(Filippo di Borbone)に仕えていたギョーム・デュ・ティヨ(Guillaume du Tillot)によって王立声楽学校として創立されましたが、1816年マリア・ルイーズが音楽院に改革しました。1888年この学校の院長を務めたアッリーゴ・ボーイト(Arrigo Boito)の名前を取って現在の名前になっています。彼は、ヴェルディのオペラ「オテロ」(1887年)、「ファルスタッフ」(1893年)などの台本作家でした。
この音楽院は、質の高い音楽教育を誇り、数多くの優れた音楽家を輩出しており、パルマ出身で世界的指揮者であったアルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini)もここの出身でした。学生は声楽だけで150人ほどもおり、ほとんどが東洋人のようです。東洋人は自国の大学を卒業してから留学する人が多く、当然レベルも高い。声楽科教授は10人ほどおり、スカラ座で活躍したプリマドンナであって、リリコ・レッジェーロからリリコのレパートリー、特にロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティのベルカントのレパートリーを得意としていたルチェッタ・ビッツィ(Lucetta Bizzi)さんもいるようです。
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この画像に収まっているのは、瑠衣さんの学友さんたちです。ほとんどが韓国からの留学生さんたちなのだと伺いました。
(この項 健人のパパ)