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 ミケランジェロ・メリージ(Michelangelo Merisi)は、イタリア北部、ミラノに1571年という絶妙な時代に生まれます。時代が彼を祝福したのです。彼が破滅的な性格をしていなければ、「巨匠」と歴史は評価したことでしょう。そして、日本人の多くが彼の名前を知ることになったでしょう。しかし、そうではなかったことで、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロと比べ、その知名度は非常に低い。

 1520年にルネサンスの巨匠のラファエロ(ラファエロ・サンツィオ・ダ・ウルビーノ、Raffaello Sanzio da Urbino)が37歳で早世します。ローマの衰退が始まっていました。1527年に「ローマ劫略(Sacco di Roma、サッコ・ディ・ローマ)」が起こります。神聖ローマ帝国のカール5世の率いるドイツ軍がローマに侵略し、略奪と破壊の限りを尽くすのです。この頃、イタリアを巡って、ハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)が抗争を繰り広げていました。

 1520年、ドイツ(神聖ローマ帝国)の神学者「マルティン・ルター(Martin Luther)」は、教会の聖職位階制度を否定し、聖書に根拠のない秘跡や慣習を否定し、人間が制度や行いによってでなく信仰によってのみ義とされるというプロテスタント「派」の中心的な教義を著します。ローマ教皇を中心とする既存の体制の否定です。ローマは、キリスト教世界の中心から、キリスト教カトリック「派」の中心へと降格していくことになります。キリスト教世界は中心が一つの円から次第に中心を二つ持つ「楕円」へとなっていくのです。

 しかし、40年ほどの時の経過がローマを復活させます。1563年に「トレント公会議(トリエント公会議、Concilium Tridentinum)」が幕を閉じます。プロテスタントとの決定的な分裂を回避し、妥協点を見出すことにあった公会議は、20年ほど断続的に開催されるうちに変容し、聖職者の世俗化を防止する対策が決定されましたが、七つの秘跡すべてについて聖書における根拠を主張して有効とし、恩寵が「義」の根本であることを認めながらも、人間の協働にも意味を認めるなど、キリスト教カトリック「派」の正当性が確認されて終わります。

 反宗教改革が始まっていました。カトリック「派」は、活動の場をヨーロッパの外に見出します。日本に1549年、イエズス会(1534年、騎士であったイグナチオ・デ・ロヨラらが創設)のフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が布教にやって来たのもその脈落で理解されます。1542年、教皇パウルス3世によってローマに「異端審問所」が設けられます。ドミニコ会の修道士で哲学者で、コペルニクスの地動説を擁護したことで有名な「ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno)」は、1600年2月17日、ローマ市内のカンポ・デイ・フィオーリ広場(Piazza Campo dei Fiori、「花の野」の意)に引き出されて、火あぶりの刑に処されます。それは、まさに410年前のきょうでした。



 カンポ・デイ・フィオーリ広場は、ナヴォーナ広場から南へ徒歩7分ほどのところにあり、平日の午前中は市(メルカート)が立ち、生鮮食品や花などが売られているようです。「思想の自由」に殉じたブルーノの像がカンポ・デイ・フィオーリ広場の中央で、人々を見下ろしています。その昔は広場のまわりに宿屋が並んでいたそうです。世俗化した教皇の代表的存在であるローマ教皇「アレクサンデル6世 (Alexander VI、在位:1492年~1503年)」の愛人だった「ヴァノッツア・カタネイ(Vannozza Catanei)」が一時、その多くを所有していたといいます。信念に殉じたブルーノと世俗化した教皇に思いを至るにはこの広場に立ってみるのもいいかも知れません。

(参考) 「サンタ・マリア・デル・ポポロ教会」で「聖ペテロの逆さ磔」を見る

(参考) 「イタリアへ」-「カラヴァッジョ」を見に、「110オープン」バスで

 ローマは活気を取り戻します。破壊されていた宗教施設は建て直されていきます。偶像崇拝とプロテスタント「派」が非難するテーマを持った絵画や彫刻が数多く制作されます。権力も富もあった教皇や枢機卿といったパトロン(芸術家の庇護者)が芸術家を育てていきます。「聖マタイの召命」(サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂)、「聖ペテロの逆さ磔」(サンタ・マリア・デル・ポポロ教会)などの作品を残したカラヴァッジオのパトロンであった「フランチェスコ・マリア・ボルボーネ・デル・モンテ(Francesco Maria Borbone Del Monte、1549年~1627年)」は、ローマ・カトリック教会の枢機卿でした。

 王が絶対的な権力を行使した16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパは「絶対王政」の時代でした。この時代に、カトリック教会の反宗教改革運動が進行します。絵画は建築物と一体となって「演劇的空間」を作り出し、権力者の「威厳」を強化する道具ともなりました。後世の美術史家が「バロック(baroque)」と呼んだ、静的で端正であったルネサンス美術を否定したような、この動的で派手な美術形式は破滅的な人生を送ったカラヴァッジオにふさわしいものでした。



 「カラヴァッジョ:先進の画家 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio pictor praestantissimus)」(1987)などの著作のある、美術史家「マウリツィオ・マリーニ(Maurizio Marini)」らが監修し、上質の美術映画に仕上がった「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」を妻と一緒に「銀座テアトルシネマ 」に見に行ってきました。

 神戸大学大学院人文学研究科准教授で美術史家の「宮下 規久朗」氏の著作、「カラヴァッジョへの旅-天才画家の光と闇」(角川選書、2007年)を既に読んでいた私たちは十分に楽しめました。その絵画は大きさとともに十分に知ってはいたのですが、映画の中で作画過程とともに見せられると、画集で見るのとは大きく異なり、感動を覚えます。やはり、バロックの先駆けであったカラヴァッジョはその場とともに鑑賞すべきなのでしょう。「演劇的空間」にあってこその絵画と思われます。今度のイタリア旅行が一層楽しみになりました。

 しかし、映画は「カラヴァッジョ」を知っている者が見て初めて十分楽しめる内容でした。観客をカラヴァッジョを知っているヨーロッパ人と想定しているのでしょう。説明を省いています。多くの日本人にはカラヴァッジョは馴染みが薄い。映画の軸となる「死」のイメージは、1577年にミラノで流行した「聖カルロのペスト」を知っていた方がより理解できます。このペストの流行でミラノの人たちの5分の1ほどが亡くなったといいます。難を避けて、ミラノの近くのカラヴァッジオ(Caravaggio)村に一家は疎開しますが、ペストで父と祖父を失います。



 言論の抑圧、表現の制約、権威の光と影が描かれます。時代背景の理解が必要でしょう。映画の中でもブルーノの火あぶりの刑が描かれます。これも「死」のイメージを形成します。「ベアトリーチェ・チェンチ(Beatrice Cenci)」も描かれます。ベアトリーチェとその母親は、サンタンジェロ城橋の処刑台で父親殺しの罪で斬首されます。ベアトリーチェは頻繁に父親から虐待を受けていました。当局に助けを求めたのですが、何の手も打たれなかったといいます。ローマの人たちの同情を無視し、ローマ教皇クレメンス8世はチェンチ家の財産の私財化を望んで、処刑したといいます。これがほとんど説明もなく描かれます。会話(字幕)を注意深く聞き取らなくてはいけません。

 ヨーロッパ人ではない私たちには難しい映画であるという面も持った映画でした。月曜日の午前10時10分からという上映回だったせいか高齢者や女性が多く、満員だったのですが、上映途中で飽きてしまった人もいたらしく、隣りの席の男性の貧乏ゆすりが妻を悩ませていました。東京では単館上映です。この選択は間違いではなかったようです。カラヴァッジョは「マニア」のもの?

              (この項 健人のパパ) 

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