1520年にルネサンスの巨匠のラファエロ(ラファエロ・サンツィオ・ダ・ウルビーノ、Raffaello Sanzio da Urbino)が37歳で早世します。ローマの衰退が始まっていました。1527年に「ローマ劫略(Sacco di Roma、サッコ・ディ・ローマ)」が起こります。神聖ローマ帝国のカール5世の率いるドイツ軍がローマに侵略し、略奪と破壊の限りを尽くすのです。この頃、イタリアを巡って、ハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)が抗争を繰り広げていました。
反宗教改革が始まっていました。カトリック「派」は、活動の場をヨーロッパの外に見出します。日本に1549年、イエズス会(1534年、騎士であったイグナチオ・デ・ロヨラらが創設)のフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が布教にやって来たのもその脈落で理解されます。1542年、教皇パウルス3世によってローマに「異端審問所」が設けられます。ドミニコ会の修道士で哲学者で、コペルニクスの地動説を擁護したことで有名な「ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno)」は、1600年2月17日、ローマ市内のカンポ・デイ・フィオーリ広場(Piazza Campo dei Fiori、「花の野」の意)に引き出されて、火あぶりの刑に処されます。それは、まさに410年前のきょうでした。
ローマは活気を取り戻します。破壊されていた宗教施設は建て直されていきます。偶像崇拝とプロテスタント「派」が非難するテーマを持った絵画や彫刻が数多く制作されます。権力も富もあった教皇や枢機卿といったパトロン(芸術家の庇護者)が芸術家を育てていきます。「聖マタイの召命」(サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂)、「聖ペテロの逆さ磔」(サンタ・マリア・デル・ポポロ教会)などの作品を残したカラヴァッジオのパトロンであった「フランチェスコ・マリア・ボルボーネ・デル・モンテ(Francesco Maria Borbone Del Monte、1549年~1627年)」は、ローマ・カトリック教会の枢機卿でした。
「カラヴァッジョ:先進の画家 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio pictor praestantissimus)」(1987)などの著作のある、美術史家「マウリツィオ・マリーニ(Maurizio Marini)」らが監修し、上質の美術映画に仕上がった「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」を妻と一緒に「銀座テアトルシネマ 」に見に行ってきました。