POWERFUL MOMが行く!
多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 





 西日本で有名な進学校に「愛光学園」があります。愛媛県松山市衣山5-1610-にあり、中高一貫教育を実践しています。2002年には創立50周年を迎えています。例えば、自由民主党所属の衆議院議員で、元内閣官房長官であった「塩崎恭久」氏は、出生地が愛媛県松山市であったことから、愛光中学を卒業しています。

 愛光学園は、ドミニコ会を設立母体とし、カトリック精神に基づいて「愛(Amor)と光(Lumen)の使徒」たる「世界的教養人」を育成することを目標としている学校なのだそうです。キリスト教において、禁欲的な信仰生活に入った人がイエス・キリストの精神にならって祈りと労働のうちに共同生活をおくる施設を修道院(Monastery、Abbey)といいますが、その修道院を運営する修道会の一つに「ドミニコ会(Ordo Praedicatorum、Ordine dei Frati Predicatori)があります。

 そのドメニコ会の修道士に「ジョルダーノ・ブルーノ(Filippo Giordano Bruno)」がいました。ナポリ大学で学んだブルーノは、ドミニコ会に入会し神学博士となります。独自の思想に傾斜したブルーノは、異端の嫌疑をかけられ、異端審問所の追及を逃れようとヨーロッパ各国を放浪せざるをえなくなります。スイス、フランス、イギリス、ドイツと転々とします。いろいろな地で数学者や哲学らと論争を巻き起こし、定住できませんでした。

 イタリアに戻ったブルーノは、パドヴァに滞在し、空席となっていたパドヴァ大学の数学教授の座を得ようとしますが、デル・モンテ枢機卿(カラヴァッジョの庇護者でもあった)の助力を得た「ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)」に教授職を持っていかれてしまいます。ヴェネツィアに入ったブルーノは、官憲によって逮捕され、ローマの異端審問所に引き渡されることになります。

 ローマに移されても、異端審問はなかなか行われませんでした。ブルーノが自説を撤回することを望んでいたのです。獄中で7年を過ごした後、異端審問が行われます。イエズス会の司祭で、ローマ・カトリック教会の枢機卿であった「ロベルト・フランチェスコ・ロモロ・ベラルミーノ(Roberto Francesco Romolo Bellarmino)」は、ブルーノが唱える説の撤廃を求めます。 

 ブルーノはこれを拒絶します。異端判決が下り、火あぶりの刑となります。異端審問の場で、ブルーノは「判決を聞く私よりも判決を下すお前たちの方が(恐怖に)震えているじゃないのか」と言ったといわれています。映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」の中では、この出来事を1シーンで描きます。「カンポ・デイ・フィオーリ広場(Piazza Campo dei Fiori)」に引き出され棒に縛り付けられたブルーノに、ベラルミーノはその説の撤回を迫ります。これに対し、ブルーノは、毅然と撤回を拒絶し、“Forse tremate più voi nel pronunciare questa sentenza che io nell'ascoltarla.”と言います。ブルーノの周りに積み上げられた薪に火が放たれます。

 科学の問題について、教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱した「ガリレオ・ガリレイ」も異端審問にかけられます。ドミニコ会の修道士がローマ教皇庁の「検邪聖省(以前の異端審問所)」にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えたのです。このときは、ベラルミーノ枢機卿は、無罪の判決を下します(1616年)。

 ガリレオは、地動説の解説書である「天文対話」を執筆します(1630年)。出版されると(1632年)、再度異端審問にかけられ、有罪の判決が下されます。ベラルミーノ枢機卿は1621年に死去していました。終身刑を言い渡されますが、軟禁に減刑になり、フィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘で1642年、没します。

 1600年2月17日、ブルーノの焚刑を見にカンポ・デイ・フィオーリ広場に集まった群衆の中にカラヴァッジョがいます。その目には、貴族や聖職者に対する怒りが感じられます。しかし、この時代は、いや今も、絵画を注文したり、購入したりするのは富裕な人たちです。カラヴァッジョの生きた時代の16世紀末から17世紀前半は、富裕な人たちは貴族や聖職者たちでした。カラヴァッジョのとれる抵抗は、聖職者がその権威を強化しようとして発注する宗教画の中に庶民を描くことでした。




 長靴の形をしたイタリア半島のふくらはぎのあたりに「ロレート (Loreto) 」という町があります。フィレンツェのあるトスカーナ州のほぼ東、アドリア海にほど近いマルケ州アンコーナ県の町です。この町には、「聖なる家(La Santa Casa、サンタ・カーザ)」があります。「聖なる家」は聖母マリアが生まれ育ち、天使ガブリエルから受胎を告知されたときに住んでいた家であり、幼少のイエスと暮らした家とされます。

 ナザレにあった「聖なる家」は、イスラム教徒から難を逃れるために天使が運んだといわれています。各地を転々とし、最後にロレートに落ち着きます。ロレートは聖地を訪れる巡礼者の目的地の一つとなります。カラヴァッジョの描く「ロレートの聖母子(Madonna di Loreto)」(1604年頃の作品)は、巡礼者の親子を温かく迎えています。

 泥にまみれた足裏を鑑賞者に向けていますが、庶民の巡礼者にとっては身近に感じられるものであったことでしょう。宗教画は聖職者の支配の道具ではなく、庶民の信仰の拠りどころであったのです。聖母マリアは、娼婦マッダレーナ・アトニエッティ(Maddalena Antonietti)をモデルとして描かれたといい、カラヴァッジョの庇護者「デル・モンテ枢機卿」を激怒させたといいます。映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」の中でもそのように描かれます。

 イタリア語“Campo”は「野原」、“Fiore”は「花」(男性名詞、複数形がfiori)の意味で、“dei”は「de(~の~)+i(男性複数名詞の定冠詞)」です。つまり、カンポ・デイ・フィオーリ(Campo dei Fiori)は、「花の咲く野原」の意味になります。この場所には処刑場がありました。皮肉ですね。人々の心を救うはずのキリスト教が人々を抑圧する道具となったことと重なります。

 いま、カンポ・デイ・フィオーリ広場には、月曜日から土曜日までは食料品が中心の朝市が開かれ、日曜日には雑貨や衣料品の市が開かれるようです。しかし、いつでも花屋は開店しており、花の香りを漂わせているそうです。それを広場の中心で、「ジョルダーノ・ブルーノ」の像が見つめています。

               (この項 健人のパパ)

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