POWERFUL MOMが行く!
多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 





 ベルギー(Koninkrijk België、Royaume de Belgique、Königreich Belgien)は、いま政治的混乱の中にいます。オランダ語系住民とフランス語系住民の対立がその根底にあります。いまから20年ほど前の1993年に連邦制に移行し、オランダ語が公用語の北部のフランデレン地域(Vlaams Gewest、Région flamande、Flämische Region)と、フランス語と一部ドイツ語が公用語の南部のワロン地域(Waals Gewest、Région Wallonne、Wallonische Region)に大きく分かれることになります。

 2011年2月17日、ブリュッセル(Brussels)、ゲント(Ghent)、ルーベン(Leuven)などで、ベルギーの政治的混乱の長期化に抗議するデモが行なわれました。学生ら約5,000人が参加したそうです。2010年6月13日に総選挙が行なわれたのですが、12党が議会に議員を送り込み、単独では政権を樹立できず、各党が連立協議を続けるも合意には至っていません。そのために、前政権が暫定政権として存続したままに、8か月以上が経ってしまいました。

 ベルギーではフライドポテトを「フリット(patates frites)」と呼び、パンの代わりにフリットが料理の付け合わせに用いられます。街角にフリットスタンドが立ち、ベルギー人にとっては主食のようになっているのだそうです。ブルージュの Vlamingstraat 33, Brugge には、2008年4月にオープンした 、世界初の「フライドポテト博物館(Frietmuseum – BruggeAbsolutely incredible! Up until now there was no Frietmuseum in the whole world, which means that the Frietmuseum in Bruges is the first and only museum dedicated to potato fries.)」があります。それほど、ベルギー人はフライドポテトが好きなのでしょう。

 2月17日のデモは、23年間続いた政権を崩壊させたチュニジアの民衆蜂起が「ジャスミン革命」(ジャスミンはチュニジアを代表する花)と命名されたのに想を得て、ネットの世界ではベルギー名物の「フリット」から「フリット革命」と命名されたそうです。これで各党が歩み寄り政治的合意に至れば、歴史にその名が刻まれることになるのでしょう。

 私たちはまもなくベルギー、フランス、ポルトガル、スペイン、イタリアとヨーロッパの旅に出かけます。最初に訪れるヨーロッパの都市は、ブリュッセルと「ブルージュ(Bruges、Brugge、ブルッヘ)」。しかし、ブルージュで目的とするのは、「チョコ・ストーリー‐チョコレート博物館(Choco Story, The Chocolate Museum)」で、「フライドポテト博物館」ではありません。我が家では、フライドポテトを口にするのは年間で10回もありません。フライドポテトは油で揚げることから、コレステロール値の高い妻が敬遠しているのです。ベルギーではポテトを2度揚げするようですから、ますます敬遠せざるを得ません。

 デモでは、「分裂反対」を訴える若者に温かいフリットが無料配布されたそうです。他国の政治を揶揄できるほど日本の政治が安定しているとは全く言えませんが、「フリット革命」とではなく、「チョコレート革命」と名付けてもらっていれば、チョコレートを無料配布する列に妻が並んだのではないかと思ったりもします(Together with delicious Belgian chocolate, the Belgian potato fry is certainly the product that is the most characteristic of Belgian culinary expertise.)。どこの国の政治家もその国の将来を見据えて行動するのではなく、分裂志向の政争に走るものなのですね。

 また、マクラが長くなりそうなので、チョコレート博物館の紹介に戻ることにします。

 チョコレート博物館の1階のB室では、チョコレート・カップとその受け皿を見ることができます。スペインでは、チョコレートを飲むときには、「ヒカラ(jicara、“j”はスペイン語では、/h/の音になる)」と呼ばれる分厚いカップを用いたのだそうです。スペインのチョコレートはどろりとしていて、スプーンで一口ずつ飲むのだそうです。その受け皿が特殊な形をしています。カップを受け皿の上に載せて持ち歩いていると何かの弾みでカップをずり落としてしまうことがあります。それを防ぐための工夫で、「マンセリーナ(mancerina)」という名前を持った受け皿があります。受け皿の中央にカップを納める立ち襟状の輪をつけてあるのです。カップは皿の中央に嵌め込まれて固定され、滑り落ちることはありません。喩えるならば、徳利袴が皿と一体になっている感じです。

 この受け皿を考案したのは、ペルーの総統を1639年から1648年まで勤めた「マンセラ侯爵(Marques de Mancera)」だと言われています。侯爵はパーティで1人の女性がチョコレートの入ったヒカラ(チョコレートカップ)を皿から滑り落として(その当時、カップに持ち手はなかった)、ドレスをチョコレートで汚してしまうのを目撃します。そこで、侯爵は銀細工師に、受け皿の中央にカップが納まるように、固定具をつけたものを作らせます。この受け皿は、マンセラ侯爵の名にちなんで、「マンセリーナ」と呼ばれることになります。1640年頃だったといいます。

 ヒカラとマンセリーナ

 2階のC室では、ココアの木やココア豆について学ぶことができ、3階のD室では、なぜベルギーのチョコレートはこんなにも美味しいのか、なぜチョコレートは身体にいいのか、ベルギーのチョコレートの製造業者の歴史などを学ぶことができるそうです。

 妻は夢を語ります。「日本にもっとチョコレート文化を広げるために、チョコレート博物館を開きたいわね。1階にはコーヒーや紅茶やココアを飲むことができる喫茶店があって、メニューはチョコレートと飲み物のセットね。ココアは、単品で提供し、製菓用のチョコレートから作るの。いろいろな味のココアがあって、ココアって呼ばないで、ショコラ・ショーって呼ぶのね。通りに面して、ボンボンショコラを作るのを実演するブースがあるの。もちろんショップもあって、出来立てのボンボンショコラも並んでいるけど、製菓用チョコレートなどチョコレート材料や道具も手に入るの。チョコレートに関する書籍も豊富に揃えてあるの。喫茶店にはモニターが何台か天井からぶら下がってて、チョコレートに関する情報が字幕入りの映像で常時流れているわけね。2階から博物館で、チョコレートに関する展示物があるのね。ヨーロッパでいまも使われているチョコレートポットなども展示してあり、買うこともできるのよ。喫茶店のメニューに「モリニーヨ」を自分で回して泡立てるのも加えてもいいわね。ヒカラとマンセリーナで出てくるショコラ・ショーもあっていいわね、、、」

 夢は叶わぬものと考えるより、叶うこともあると考えて生きていくことは楽しいものです。夢の実現に備えて、知識を豊富に蓄えるということは必要です。たとえその夢が叶わなかったとしても、夢を見ていた楽しい記憶は残ります。今回のヨーロッパ旅行は、チョコレートを巡る旅になりそうです。

             (この項 健人のパパ)

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 観光で訪れた場所に感激したり、落胆したりすることがあります。多くはそのどちらでもないのですが、期待が大きすぎるとがっかりし、期待以上であるととても嬉しいものです。チョコレート博物館は今回の旅の目的地の「ブリュッセル(Brussels、Brussel、Bruxelles)」の他に、同じく目的地の「ブルージュ(Bruges、Brugge、ブルッヘ)」にもあります。

 Wijnzakstraat 2, Sint-Jansplein, Brugge に「チョコ・ストーリー‐チョコレート博物館(Choco Story, The Chocolate Museum)」はあります。その博物館に関しての「口コミ」によれば、“Don't waste your time and money!”(時間とお金を無駄にしないように。)とそのつまらなさを警告する人もいれば、“This is a good museum for chocolate lovers.”(ここはチョコレートの好きな人にはよい博物館である。)という人もいます。

 しかし、高評価する人も子どもは飽きるから連れて行かない方がよいと言います。チョコレート製造の歴史と過程についての展示をひたすら読む必要があるからだと言います。ならば、英語の読めない人にとっても退屈なものとなるのかも知れません。さらに、以前に別のチョコレート博物館に行ったことがあるのならば、ここに来るのは無駄だとも言います。

 3階にわたって展示があり、多くの部屋を巡り((you must) visit the rooms of the museum)、階段を何段も上り下りしなければならないのも不満を抱く理由になっています。8分間の映画がオランダ語と英語で上映されるのだそうですが、英語の聞き取れる人でもオランダ語での上映時間にあたれば、8分ほど待たねばなりません。さらに、チョコレート製造のデモが行なわれる部屋が狭く、混み合っていると何も見えないのだそうです。タイミングが悪いと次のデモが始まるまで30分ほど待たねばならないこともあるようです。

 ショップもあるのだそうですが、ブルージュの有名店のものがほとんど置いていないという不満も書き込んであります。これに6ユーロ(6.5ユーロとする人もいます)も出すのであれば、チョコレートを買った方がずっとましとまで言います。

 最大公約数で「口コミ」をまとめると、「チョコレート愛好家(chocoholic)」で、どのようにしてチョコレートが作られるのかを知りたい人((you can) talk about chocolate with experts)で、カカオ豆の歴史(a dull history of Cocoa beans)を退屈と思わず、大量にあるテキスト(too much text to read、(you can) consult a vast library containing works on cocoa and chocolate)を読み通すことができて、子どもが退屈するので子連れでなく、階段を何段も上り下りするので高齢でないのであれば、さらにチョコレートがなぜ身体にいいのかの証拠を知りたい人ならば特に、行く価値があるようです(Choco-Story, the Chocolate Museum is a source of data and historical, geographical and botanical information.)。チョコレートをつまむことができるだろうと軽く考えている人に対しては、とてもお勧めできないようです。

 「チョコ・ストーリー‐チョコレート博物館」の入っている「メゾン・ドゥ・クルーン(Maison de Croon)」という建物は、1480年頃に建てられたもののようです。15世紀後半は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)」が活躍を始める時代でした。この建物はもともとはワインを飲ませる居酒屋として建てられたもので、やがてパン、ケーキ、タルトを製造・販売する店になります。20世紀に入ると、職業安定所の本部になったり、警察学校の訓練所になったり、 「ベルギー自治体金庫(Crédit Communal de Belgique、現「デクシア(Dexia)」)」が入ったりしました。

 「チョコ・ストーリー‐チョコレート博物館」1階のA室では、樹高が4m~8mのカカオ豆の木(theobroma cacao、テオブロマ・カカオ、学名)を栽培作物とした人類の歴史が展示されています。カカオ豆の原産地については諸説があり、その1つは、アマゾン川の流域に繁茂していた常緑樹の「カカオノキ」は、人の手によって、「メソアメリカ(Mesoamerica)」へと広がっていったというものです。

 「メソアメリカ」は、メキシコから中央アメリカ北西部にかけての地域で、さまざまな高度文明(マヤ文明、アステカ文明など)が栄えた地域です。メキシコでは最古の文明である(異説あり)「オルメカ文明」の担い手であった「オルメカ族(Olmeca)」が、初めてカカオ豆を栽培した、といわれています。カカオ豆はすりつぶされ、トウモロコシの粉や香辛料などを加えて、水で溶いて、苦い水「ショコラトル」に加工されて、疲労回復に役立つとして、支配階級に供されていたそうです。

 乾燥したカカオ豆を炒って挽いて水で溶かして、唐辛子を入れ、アチョテ(achote、ベニノキの実)という着色料で赤く色をつけ、飲んでいたようです(今のように砂糖やクリームが加えられて、甘くてクリーミーなものになったのはヨーロッパに伝わってから)。

 メキシコは、カカオ豆の生産量では世界第9位の32万5千トン(2008年度)で、第1位の「コートジボアール」の122万3千トンの4分の1ほどです。カカオ豆の原産地はアメリカ大陸なのですが、いまではアフリカが主産地となり、全世界の生産量(359万2千トン)の70%ほど(252万トン)をアフリカが生産しています。

 1階ではさらにチョコレートポット(ココアポット)とチョコレートカップ(ココアカップ)について学ぶことができます。チョコレートポットは、ティーポットやコーヒーポットと同じような形をしていますが、蓋に穴があいています。チョコレートは、泡立てたものを飲んでいたらしく、チョコレートポットの蓋の穴に撹拌棒(Molinillo、モリニーリョ)を通して、それを両手で回し、泡立つまでかきまぜたようです。



 画像は、Pillivuyt(ピリビィ、1818年創業のフランスの業務用食器メーカー)社製のchocolatiere(ショコラティエール、ショコラを作る道具)です。18世紀に銀、銅、錫などの金属製や陶器製のショコラティエールが流行しました。ヨーロッパでチョコレート飲用の習慣が大衆化していく中で、上流階級の道具から、一般庶民の道具へと広がっていったといいます。

 このショコラティエールを使って、本格的な「ショコラ・ショー(Chocolat Chaud、hot chocolate、ホット・チョコレート、ココア)」を作ってみます。まず、ショコラ・ショーの基本的な作り方です。「ヴァローナ(Varlhona))」社の製菓用スイートチョコレート「ピュア・カライブ」150g を細かく刻み、琺瑯鍋に入れておきます。別の鍋で牛乳 300g を沸騰直前まで温め、それを刻んだチョコレートに少しずつ注いではかき混ぜ、チョコレートを滑らかに溶かしていきます。生クリーム 300g を牛乳にチョコレートを溶かし込んだものに加えて、混ぜ合わせ、鍋を中火にかけて、60℃~65℃に温めます。これを好みに合わせて、変化させていきます。分量比を変える、砂糖を加える、バニラエッセンスを加える、シナモンを加えるなどが考えられるでしょう。

 このまま飲んでもかまわないのですが、これを湯煎するなどして温めておいたショコラティエールに移し、先端がぎざぎざになっている攪拌棒のモリニーリョ(moussoir(ムーソワー)、moulinet(ムーリネ)、froth-maker(泡立て器))を両の手のひらで回転させて泡立てます。これをいただくのは、中世の貴族階級の気分かな。電動の泡立て器で泡立てると、現代人の気分?

 このモリニーリョは、1700年頃にメキシコで、スペイン人の手によって作り出されたようです。それまでは、カップからカップへと高い位置から幾度も注ぎ込むことで、泡立てていたといいます。

 妻「チョコレート博物館に行くの? 口コミにはお勧めでないと書かれているんでしょ。」
 私「チョコレートについて調べれば調べるほど、興味が沸いてきてね。」
 「私に行くのを諦めさせるために調べていたんでしょ。わかっているわよ。でも、ミイラ取りがミイラね。」
 「・・・」

 この話、マクラが長かった分、長くなってしまったので、次回に続きます。

         (この項  「仕事が忙しいのに何やってんだか」と言われている健人のパパ)

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 アメリカの法律家(弁護士、法学者、裁判官、検事など)の約半数が加盟(加盟は任意)しているアメリカ最大の全国的な法律家の組織に「アメリカ法曹協会(American Bar Association、ABA)」があります。そのABAが運営する サイト によれば、“Nearly every state has an ethical rule that calls upon lawyers to render pro bono services.”(ほぼ例外なくすべての州に、弁護士に、「プロボノ」による奉仕を求める倫理規定がある。)“For those states in which the ABA Model Rules of Professional Conduct have been adopted in whole or part, the pro bono responsibilitiy is usually defined in Rule 6.1. ”(アメリカ法曹協会の弁護士行動準則模範規程が(全部または一部)採用されている州では、「プロボノ」の義務は、“Rule 6.1”で通常定められている。 )とあります。

 この“Rule 6.1 - Voluntary Pro Bono Publico Service”では何が定められているかを冒頭部分だけを拾ってみましょう。“Every lawyer has a professional responsibility to provide legal services to those unable to pay.”(弁護士はみな、弁護士費用を支払うことができない人々に法律家としての労務を提供する職業上の義務がある。)“A lawyer should aspire to render at least 50 hours of pro bono publico legal services per year. ”(弁護士は、1年間に少なくとも50時間の「プロ・ボノ・プブリコ」による法律家としての労務を喜んで提供しなければならない)。

 “pro bono”(プロ・ボノ)は、“pro bono publico”(プロ・ボノ・プブリコ)を縮めたもので、ラテン語です。その意味は、“for the public goodness”(公衆への善行として)ということになるのでしょう。ここには「無償で」という意味は含まれませんが、“to those unable to pay”(弁護士費用を支払うことができない人々に)と言っているのですから、「無償」を前提とすることになります。無償での奉仕活動と聞けば、ボランティア活動が思い浮かびますが、「プロボノ」は、単純な労務を提供するのではなく、専門的な、自分が日常、職業として行なっている労務を無償で提供する「ボランティア活動」ということになります。

 弁護士3,900名ほどが会員となっている「第二東京弁護士会」には「会員の公益活動等に関する会規」があり、その会則で、所属する弁護士には、年間10時間以上の「プロボノ」が義務付けられています。この義務が果たせないときは、不足分の時間に5,000円を乗じたものを弁護士会に納入しなければなりません。

 最近では、「プロボノ」活動に従事する人の職業が、弁護士以外にも広がっているのだそうです。職種が拡大したきっかけは、「サービスグラント(Service Grant)」というマッチング・システムを構築した「タップルート財団(Taproot Foundation、2001年にアメリカのサンフランシスコに設立されたNPO)」です。“grant”は名詞として「助成金」という意味がありますが、動詞として使って、“grant a request”と言えば、「願いを聞き入れる」という意味にもなります。“We have designed the grant-making process for our Service Grant Program to address your needs and assess your fit and readiness for one our Service Grants.

 日本には、専門家としてのボランティア活動の「需要」と「供給」をマッチングする中間支援型NPOとして、2005年1月に活動を開始した「特定非営利活動法人 サービスグラント」(東京都渋谷区渋谷1-6-3)があります。そのサイトには、「サービスグラントは、プロボノワーカーとNPOをマッチングすることで提供される約6ヵ月間の「プロジェクト型助成」です。サービスグラントとは、NPOに対して「お金」を支援する助成金(グラント)と異なり、「スキル」や「ノウハウ」を提供することによってNPOを支援する「プロジェクト型助成」です。」とあります。

 プロボノ活動として「専門家としての労務」を提供していいと考える人は、この「サービスグラント」に登録をします。また、専門家としての労務を提供して欲しいと考える団体は「サービスグラント」に助成申請を出します。サービスグラントは、助成申請を審査して、「採択」を決定すると、登録されているプロボノワーカーの中から、適材となる人たちを選択し、プロジェクトチームを編成します。プロジェクトチームは、4名から6名で編成されています。

 具体的な活動を2010年7月1日にNHK「クローズアップ現代」で放送された「プロボノ~広がる新たな社会貢献のカタチ~」からみてみます。「プロボノワーカー(専門的知識を有し、プロボノ活動を希望し登録した人たち)」による支援を要請したNPOは、「NPO法人 日本アレルギー友の会」でした。日本アレルギー友の会は、「喘息やアトピー性皮膚炎で悩む方々を支える患者の会です。セルフコントロールをするための情報提供や、ピアカウンセリング(仲間同士の相談)を通じて、みなさまが前向きに自分らしく生きることができるようにサポートをしています。わたしたちもみなさまと同じ患者です。これまでに蓄積した経験と知識を活かして患者の現状や様々な情報を発信することで、「患者」と「医療」と「社会」をしっかりとつないでい」くNPO法人です。

 しかし、会員数が伸び悩み、その理由のひとつが「見づらいホームページ」だと考えていました。どう改善したらいいかわからず、長い間そのままにしていた、といいます。「プロボノ」活動に参加した6人の中にはホームページ制作会社のプロジェクトマネージャーがいて、彼を中心にした、ホームページのコンセプト作りが行なわれます。アレルギーに悩む患者への聞き取り調査で、「悩みを共有したいという患者たちの思い」を探り当て、「悩みを共有し、前向きに生きようというメッセージ」を発信するホームページを作り上げます(日本アレルギー友の会のサイトの「このサイトについて」というページには、「2010年のリニューアルは、特定非営利活動法人サービスグラントの助成によって行われました。」というコメントが入っています)。



 落語に「三方一両損」という言葉があります。3者(3両拾った拾い主の左官金太郎、落とし主の大工吉五郎、奉行大岡越前守)がそれぞれ1両ずつ損をして、紛争を解決する話です。「プロボノ」は、要望の解決に「三方一両得」ということになるのかも知れません。この仕組みは「サービスの受益者」であるNPO(Nonprofit Organization、非営利団体)、「サービスの提供者」である専門家(expert)、そして「活動資金の提供者」の三方に利益をもたらすことになります。

 無償の、質の高いサービスを受けるNPOが利益を受けるのは当然ですが、休日や帰宅後の時間などを利用して無償でサービスを提供する者も「会社」ではなく「社会」から評価されるといった自身の仕事へのポジティブなフィードバックが期待でき、また活動資金を提供する者も効率的な資金の運用が果たせるのです。企業の中には、プロボノ活動と企業の社会貢献を結び付けようとするところも現れているようです。従業員に就業時間内に「プロボノ活動」をすることを認めるなどするのです。

 「プロボノ」活動が日本では6年ほどと日が浅いために克服すべき課題は数多くあると思いますが、「三方一両得」になるように日本で順調に発展していくことを望んでいます。2011年2月11日に配信された産経新聞の次の記事に触発されて、幾度か耳にし目にした「プロボノ」に関して、この記事を書いてみました。

 コンピューター企業のソフト開発、金融機関の財務管理…。民間企業の社員が仕事で培った経験や知識を生かし、NPO(民間非営利団体)などを支援するボランティア活動「プロボノ」が浸透してきた。利益ばかりを追求する働き方を見直す機運の高まりなどが背景にある。企業が組織的に後押しする動きも出ており、社会貢献活動の新しい形として認識され始めた。

 「ベンチャー企業の志が刺激になった」 「自分の仕事が形になり感動した」

 NECが今月、プロボノで支援した企業2社を招いて開いた会合。出席したNECの若手社員は、支援先から活動報告を聞かされると一様に目を輝かせた。
 NECは昨夏、プロボノチームを作った。メンバーは若手中心の15人
(NECの「NEC社会起業塾」のページ)。支援先の1社は、採血による健康診断事業を首都圏で展開するケアプロで、もう1社は農業の収益性向上に向けて高糖度トマトを生産・販売するオリザ(オリザのサイトには「このウェブサイトは、NEC社会起業塾ビジネスサポーターのプロボノによって提供されました。」というコメントが入っています)だ。それぞれ医療と農業の構造問題解決を目指す社会起業家が作ったベンチャー企業だ。
 NECはケアプロの顧客情報をデータベース化。診断結果を時系列でグラフ化し、健康状態に応じて診療所を紹介する携帯電話向けプログラムも作った。4月から本格稼働し、ケアプロの川添高志社長は「顧客や広告収入の増加につなげたい」と意気込む。
 オリザ支援では、休日に栽培現場を訪れ、農業専門家にも取材してホームページを刷新。NEC側責任者の小林義明氏は「仕事で接点のなかった農業政策の問題を共有できた」と語る。
 2000年代以降、欧米で広がったプロボノは、金融機関などの「金もうけ主義」への反発もあって拡大し、日本でも注目されるようになった。希望する個人をNPOなどに仲介する特定非営利活動法人「サービスグラント」(嵯峨生馬代表)
(「嵯峨生馬」氏については、シブヤ大学の先生紹介ページで)の昨年の登録者数は約650人と、前年の2.5倍に急増している。
 最近は企業も積極的に参加。ゴールドマン・サックス証券が女性社員中心のチームを作って教育・子育て関連のNPOの財務の見直しを支援している
(ゴールドマン・サックス証券の「社員参加型の社会貢献活動‐プロボノ・プロジェクト」のページ)ほか、日本IBMも教育関連のNPOを支援している(日本IBMの「社会貢献‐学校/教育関係者とのコラボレーション」のページ)
 企業側にすれば、社員のやる気を引き出すと同時に取引先開拓やイメージアップも期待できる。サービスグラントの嵯峨代表は「寄付など従来の社会貢献事業を一歩進めた新しい形のボランティアで、地方にも広げたい」と話している。


               (この項 健人のパパ)

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 ベルギーに行くので、チョコレートに関する本をたくさん揃えて読んでいる妻が、これも目的地の1つである「リヨン(Lyon)」について調べている私に話しかけてきます。



 妻「ねえ、ゴディバのマーク知っている?」
 私「ゴディバにマークなんてあるの?」
 「知らない? 髪の長い女性が裸で馬に乗っているの。」
 「へえ。気がつかなかったなぁ。」
 「この女性がゴディバの名前の由来なの。」
 「創業者の名前じゃないんだ。」
 「そう。ノイハウスやベルナションとは違うの。」
 「そうなんだ。」
 「ゴディバ夫人は、領民のために裸で馬に乗ったのよ。領主である夫がそうすれば、重税を撤回すると言ったのよ。ひどい夫ね。」
 「え! それはピーピング・トムの話じゃないか。」
 「何、それ?」
 「裸で街中を巡ったら、重税を廃止すると約束された領主の奥さんはそれを実行するんだ。前もってそれを知った領民は、その日、窓をすべて閉ざして、まあ当時、窓はいまほど大きくはなかったし、数も少なかったんだけど、それに木製の戸がついていたので、それを閉めたんだね。部屋の中はほぼ真っ暗になったろうね。こうして、自分たちのために、死に値するほどの恥ずかしいことを敢えてしてくれる奥様に感謝の気持ちを示して、馬の蹄の音が遠ざかるのを待ったんだ。ところがね、中にはろくでもない男がいるもんで、トムという男が馬に乗って走る裸の奥さんを覗き見するんだ。品性卑しい、ということだね。神が怒ったのかな、トムは目が見えなくなるんだ。それで、人は彼を「覗き見トム」、ピーピング・トムと呼んで蔑んだそうだよ。領主の奥様は髪の長い女性で、その髪が裸身を覆い隠していたそうだよ。」
 「その話よ。」
 「そうなのか。ゴディバという名前だったんだ。でも、何でチョコレートのメーカーの名前になるの?」

 John Maler Collierの描くゴディバ夫人

(参考) イングランド中西部の「ウェスト・ミッドランズ州(West Midlands county)」にあり、人口で20番目(2011年のデータで、32万6千人)の都市「コヴェントリー(Coventry)」は、11世紀、「マーシア (Mercia) 」伯「レオフリック(Leofric)」が領主であり、その夫人が「ゴディバ(Godiva)」でした。1057年にレオフリックと死別した後、領主となったといいます(唯一の女性領主)。夫亡き後、10年以上生存していたといいます。レオフリックは968年生まれで、ゴディバは990年頃の生まれだといいます。年齢差は20歳以上。(参考の終わり)

 ゴディバの歴史は、本家の サイト の“THE GODIVA STORY”と、日本の サイト の「ゴディバの歴史」などにあります。

 「1926年、ベルギー、ブリュッセルでマスターショコラティエだったドラップス氏。自分の店を持ちたいという思いからそれまでの仕事を辞め、自宅の地下室を使いチョコレート会社を始めます。家族全員が会社の運営に協力し、4人の子供たちはそれぞれ製造、仕上げ、箱詰め、配送に携わっていました。」とあります。ここに出てくる「ドラップス氏」は、「ピエール・ドラップス(Joseph Draps)」です。“In 1926, Pierre Draps Senior created his first praliné chocolates, or pralines, in the small atelier of his Brussels home. Soon, the entire family including the four children helped their parents produce, finish, package and deliver their elegant chocolates, which were sold in the smartest department stores in Brussels.”とあるからです。

 「1937年、創業者のドラップス氏が亡くなり、その何ヵ月後かにドラップス夫人も亡くなります。残された子供たちは、自分たちの力で家業を守り続けます。ジョセフ・ドラップスは顧客の心を理解する才能を持っていました。ピエールは絶えず新しいチョコレートを開発する創造力を持ち、フランソワは滑らかなマジパンとおいしいゼリーの作り方をマスター。イヴォンヌは包装紙やリボンなど、美しいパッケージを開発します」とあります。ここで4人の子どもたちの名前が出てきます。「ジョセフ(Joseph)」、「ピエール(Pierre)」、「フランソワ(François)」、「イヴォンヌ(Yvonne)」です。ここに出てくる「ピエール」は、父親と同名の2代目「ピエール」になります。

 「1956年、「ショコラトリー・ドラップス」だった会社が「ゴディバ」となり、ブリュッセルのグランプラス広場に、「ゴディバ」第1号店がオープンします。「ゴディバ」の名は、ジョセフと妻ガブリエルによって命名されました。ジョセフは、季節のテーマや折々の出来事に題材を得て、創造性に富んだ粒チョコレートを次々と発表し、さらに、美しいディスプレイやラッピングでウインドウを飾りました。「ゴディバ」の名は瞬く間にベルギー中に拡がり、同時に、チョコレートは高級で個性的なギフトとなったのです。

 His son Joseph began working for the family business at the age of 14 and shortly after World War II took control of it. When he decided to open a shop of his own, he sought a distinctive name to give it and turned to his wife for ideas. She suggested Godiva, after the legendary countess who had protested high taxes by riding nude through Coventry, England, and Draps chose it for the new endeavor. (参考にしたサイト

 ガブリエルは、自己犠牲で民衆を救った「ゴディバ夫人」を尊敬していたといいます。創業から30年後のこの名称変更は功を奏します。ヨーロッパ世界ではよく知られた「ゴディバ」の名前は、本家の「ゴディバ夫人」よりもチョコレートのメーカーとして知られていくようになります。(あるサイトには、Cette notoriété est le premier objectif du couple. C'est pour ça qu'il a choisi un nom marquant et universel (c'est-à-dire facile à prononcer dans la plupart des langues). Mais pourquoi « Godiva » ? Tout d’abord pour la légende de cette Lady (voir encadré), ensuite parce que le nom suggère, à leur idée, luxe, qualité et générosité. Rapidement, Joseph Draps développe un réseau de magasins à travers le pays. とあります)

 「1958年、初の海外ショップがパリのサントノーレ通りにオープンし、以来、ゴディバは世界各国で店舗を展開しています。1972年には、ニューヨークの五番街に、日本では同年に初のショップがオープンしました。 1999年には香港へ進出、現在ではヨーロッパ、北米、アジアからドバイやロシアにいたるまで、世界中で愛されるプレミアムチョコレートブランドへと成長しました。

 Godiva Chocolatier traces its roots to 1926, when Pierre Draps started making chocolates in Brussels, Belgium, for sale to local shops. His son Joseph began working for the family business at the age of 14 and shortly after World War II took control of it.

 上記の記事によると、第二次世界大戦(World War Ⅱ)は、1939年9月1日の「ドイツのポーランド侵攻」によって始まりますから、「ジョセフ・ドラップス(Joseph Draps)」は、1926年以前の数年間に誕生していることになります。しかし、後述する東京新聞の記事では、三男である「ピエール・ドラップス(Pierre Draps)」は、1919年に誕生しているのですから、第二次世界大戦のやや前に14歳を迎えたジョセフは「弟」でなくてはなりません(ピエールは、1939年には19歳か20歳)。

(追記) 東京新聞は、2012年3月20日に次のような記事を載せます。「ベルギーの老舗チョコレートブランド「ゴディバ」の創業者の一人であるピエール・ドラップス氏は、1919年、チョコレート職人だった父の三男として生まれた。家族で経営していた店で10歳からチョコレート作りに従事した。1959年に、兄弟で「ゴディバ」を創業し、世界的なブランドに育て上げた。ピエール・ドラップス氏は、トリュフをはじめ多彩なチョコレートを開発し、「ベルギーチョコの父」と称された。 ゴディバは1979年に日本にも進出している。ベルギーメディアによると、ピエール・ドラップス氏は、2012年3月15日にスイスのリアツィーノ(Riazzino)で死去した。92歳であった。

 三男ということは、ジョセフが弟だとすると、ピエールの上にもう2人、男の子がいたことになります。この2人は家業を継がなかったのでしょうか、それとも早くに亡くなってしまったのでしょうか?「三男」を第3子という意味で捉えておくと、ピエールの上に姉2人(フランソワ、イヴォンヌ)がいて、その下に弟ジョセフがいることになり、整合性はとれます。(追記終わり。この記事は、GODIVAのサイトの記述が変わっていたことに気づき、2015年3月13日に一部書き換えています。) 



 妻が「ゴディバ・ジェムズ」を買ってきました。トリュフ、キャラメル、ショコラファンの3種類で、それぞれにミルクとダークがあるようです。私が口にしたのは、トリュフのダークで、これが美味しかった。お中元に人からもらったゴディバのボンボン・ショコラを特に感想を持たずに食べてしまって妻に叱られたのですが、今回は自然に口から「美味しい!」という言葉が漏れました。無駄に複雑にしていないストレートな美味しさ。無駄にいろいろなものを混ぜ合わせるといういまの流行に逆らって多くの食べ物がこの方向を目指して欲しいものです。

 キャビア(チョウザメの卵)、フォアグラ(ガチョウや鴨などの脂肪肝)、トリュフ(香りがあるが味はほとんどないボール状のきのこの一種)は「世界三大珍味」と称されます。チョコレートの「トリュフ(truffe)」は、形状が似ていることから、そう名付けられています。作り方を「斉藤美穂」さんの「フレンチ・ショコラ 究極のチョコレートレシピ」(1998年、文化出版局)から引用してみます。

 トリュフ20個分の材料は、製菓用チョコレート(例えば、甘酸っぱいフルーティな酸味を持ったヴァローナ社の「カラク」)…ガナッシュ用に100gとコーティング用に100g、生クリーム…80cc、蜂蜜…20g、無塩バター…10g、まぶすココア…適宜、です。

 まず、製菓用チョコレート、生クリーム、蜂蜜、無塩バターを溶かし合わせて、「ガナッシュ(ganache)」を作ります。それを球形状にして、湯煎して溶かしたチョコレートにつけてコーティングして、ココアをまぶして出来上がりなのだそうです。言葉で書くと簡単なのですが、成型して、冷蔵庫で冷やし、また加工するということが幾度か繰り返されます。ラム酒などの洋酒を加えてガナッシュを作ることもあるようです。蜂蜜の代わりに転化糖や水飴を用いることもあるようです。

               (この項 健人のパパ)



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 今回のヨーロッパ旅行は、行程1日めに「成田」を午後に出発し、行程30日めに「成田」に早朝帰ってくるものです。この大枠は、妻によって決められたのですが、その大枠の中でどこに行き、何をして、何を見るかについては、話合いが続けられ、何度も行程の書き換えが行なわれました。計画が立てられた当初は、ベルギーとイタリアだけが目的地だったのですが、ヨーロッパの他の国にも行ってみたいという妻の意向でヨーロッパ滞在の日数が大きく増えてしまいました。

 ベルギー、ドイツ、スイス、オーストラリア、フランスそしてイタリアが最初考えられましたが、移動を「LCC(ローコストキャリア、格安航空会社)」の「イージージェット(easyJet)」にしたので、なかなか上手くいきません。都合のいい便がなかったり、路線によっては意外と航空運賃が高かったりするのです。調べた中では、フランスのパリに入ると、人気の都市のためか航空運賃が高くコストを低く抑えることができません。息子「健人」を「ルーブル博物館」に連れて行きたいという妻のアイデアは、諦めざるを得ませんでした。

 計画は、フランス、スペイン、ポルトガルを提案する私の意向に沿って立てられることに結果的になりました。妻は、上の息子「優也」と2人で巡ったヨーロッパ旅行で行けなかったドイツの「ベルリン」に執着したのですが、そこからいかにコストをかけずにイタリアに到着するかのアイデアが出ず、頓挫して、西ヨーロッパの西部を巡るというアイデアに落ち着いたのです。

 行程1日めに、KLMのKL862便で「成田」を14時55分に発ち、まずオランダの「アムステルダム」に18時30分に着きます。日本とオランダとの時差「-8時間」を考えると、11時間35分の空の旅です。「アムステルダム」からは鉄道を使い、ベルギーの「ブリュッセル」に入ります(9B 9268、20:09発、22:40分着)。ブリュッセルでは3泊が予定されています(ベルギーでは「ブルージュ(Brugge)」にも2泊)。

 妻はブリュッセルからフランスの「パリ」に入りたかったようなのですが、これはコスト面から断念。ならば、スペインの「バルセロナ」に入って、「サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会、Temple Expiatori de la Sagrada Família)」を見に行こう、というアイデアも出たのですが、これもコスト面から断念。イージージェットのサイトで航空運賃をいろいろと調べて、ブリュッセル→リヨン(フランス)→リスボン(ポルトガル)→マドリード(スペイン)→ローマというコースをとれば、移動コストが低く抑えられることがわかりました。LCCは、曜日、時間で航空運賃が大きく違います(さらに、早めに購入すれば、非常に安価に抑えられる)。

 航空運賃のリストを作って、電卓を叩いて、トータルコストの計算を数日しました。しかし、昨日までの運賃が高くなってしまっていることもあり、やり直しで、速やかな決断を必要としました。「リヨン?知らないわ。」という妻の意見に、「リヨンは食の街だよ。君は関心を持つはずだよ。」と説得する場面もありました。妥協点は、リヨンには行くけれど、滞在は2日だけというもの。

 リヨンについては、ガイドブックに非常に情報が少ないのを不満に思っていた妻は、チョコレートに関する本を読んでいて、「リヨンはいい選択だったかも。もう少し滞在してもよかったみたい。」と言い出しました。

(ここから、妻「あみ」)

 今回の旅は、ベトナムで知り合った、ホンとジュディアにブリュッセルに逢いに行くのです。ホンは、戦乱のベトナムからボートで脱出し、ベルギーに渡り、医師として働くこととなります。しかし、そうなるまでには、相当な苦労をしたと聞いています。奥さんとなったジュディーは、ホンの勤める病院で看護婦として働いていたそうです。イギリス人の彼女は、とても楽天的で、数日間共に旅をしていただけで、その人間性の深さに惹かれました。2005年から6年の月日を隔て2人に無事に逢えるでしょうか?まだ連絡がついていません。

  (参考) 「「ベトナムへ」日記60-ホイアン、別れ

  (参考) 「「ベトナムへ」日記3-オープンツアーバス

 彼女たちが住むブリュッセルは、チョコレートの街として有名です。ゴシック様式の96メートルの塔を持った市庁舎の前に広がる「グラン・プラス(Grand-Place、グローテ・マルクト、Grote Markt)」(世界で最も美しい広場の1つと言われ、1998年にユネスコの世界遺産に登録された)という広場の近くには、「チョコレート博物館(Musee du cacao et du chocolat)」があります。

 チョコレート博物館は1、2階がありますが、その規模にがっかりする人もいるようです。でも、クッキーにでき立てのチョコレートをつけて試食ができて、「プラリーヌ(Praline、プラリネ)」の製作過程が説明つきで実演してもらえるということで、一応見学に行くつもりでいます。入場料は5ユーロのようです。

 ベルギー・チョコレートの「ショコラティエ(chocolatier)」で、「ノイハウス(Neuhaus)」の3代目店主であった「ジャン・ノイハウス(Jean Neuhaus)」は、1912年、焙煎したナッツ類に加熱した砂糖を和えてカラメル化したものをチョコレートの中に入れるという手法を編み出します(「ボンボン・ショコラ(Bon Bon Chocolat、プラリーヌ、Praline)」)。(Jean Neuhaus invested the "Praline"(Belgian specialty) in Brussels in 1912.)(チョコレート博物館のサイトから)

 この「中に詰め物をした一口サイズのチョコレート」という手法は、1915年にノイハウスの妻「ルイーズ・アゴスチーニ(Louise Agostini)」によって壊れやすい「プラリーヌ」を運ぶために考案されたチョコレート用の箱、「バロタン(Ballotin)」とともに世界中へ広まっていきます。(Some years later, his wife invested "the Ballotin", in which the pralines could be perfectly packed.

 ボンボン・ショコラは、構造的には饅頭に似ており、具(センター)を皮(クーベルチュール)で包んだものです。具材には、ガナッシュなどが用いられます。「ガナッシュ(Ganache)」は、チョコレートに生クリームやバター、牛乳、洋酒などを加えて、柔らかい食感にしたものです。混ぜ合わせるもので、多様な味を作り出すことができます。ピュレ(Purée)や蜂蜜などを練りこむこともあります。

 コーティングに使うチョコレートは、「クーベルチュール・チョコレート(chocolat de couverture、クーヴェルテュール・チョコレート)」と呼ばれ、ヨーロッパではカカオ豆の脂肪分であるカカオバターを32%~39%含むことなどが義務付けられています。カカオ豆の産地やバターの含有量などによって味が異なるものであり、ショコラティエの多くは、自作せずにクーベルチュール・チョコレートを製造する会社(例えば、カカオ産地指定のクーベルチュール・シリーズ、「グラン・クリュ(Grand Crus)」を製造する「ヴァローナ(VALRHONA)社」)から購入してブレンドなどしているのだそうです。



 チョコレートのレシピ集の“La Passion du Chocolat(A Passion for Chocolate、1989年に英語に翻訳された)”の著者(息子のジャン=ジャック・ベルナション(Jean-Jacques Bernachon)との共著)で、チョコレート専門店(チョコラティエ)である「ベルナション(Bernachon、ベルナシオン)」の創業者(1952年に創業)であった「モーリス・ベルナション(Maurice Bernachon)」は、カカオ豆を輸入し、自分たちでローストし、クーベルチュールを作っていたそうです(ともに故人。ジャン=ジャック・ベルナションは2010年4月21日に65歳で癌で逝去)。現在は、3代目の「フィリップ・ベルナション(Philippe Bernachon)」が奥さんのステファニー(Stéphanie)とともに「ベルナション」を運営しています。

 「ベルナション(Bernachon)」は、私たちがまもなく訪れる街、「リヨン(Lyon)」にあります。42, cours Franklin-Roosevelt, Lyon にある、サロン・ド・テも併設する「ベルナシオン」は、カカオ豆の状態から商品になるまで、すべての作業を自社で行っているのだそうです。ちょっとお高いのだそうですが、どんな味がするのかいまからとても楽しみです。ブリュッセルのグラン・プラスにある「ノイハウス(Boutique Neuhaus、住所:Grand Place 27, Brussels)」で、まずチョコレートをいただいて、その味を忘れないうちに、リヨンの「ベルナシオン」で味比べができます(私は味を覚えていられるのですが、夫はすぐに忘れる。ノイハウスには6年前のヨーロッパ旅行でも行ったのですが、夫は行ったことすら思い出せません)。

 個人的に、日本のチョコレートは、選べば、高いお金を出さなくても美味しい物が手に入ると思っています。味がシンプルなのが美味しい。ケーキは、ショートケーキが一番美味しいと感じ、カスタードプディングは、牛乳とたまごで作った、生クリームの入っていないもの、シュークリームは、パイ生地を使っていないものが流行に逆らって好みです。

 チョコレートは、海外の著名なものを高島屋などで購入したこともあるのですが、くどく感じてあまり美味しいとは感じませんでした。日本で感動したのは、かつて神戸三宮にあった「コスモポリタン」のホットチョコレートでした。また、自由が丘(東京都目黒区緑が丘2-25-7 自由が丘スイーツフォレスト)の川口行彦さんの「オリジンーヌ・カカオ(ORIGINE CACAO)」のショコラドリンクも絶品でした。

(ここまで、妻「あみ」)

 旅行先では、市場見学を楽しみとする妻は滞在日数が2日と少ないリヨンでも「市場(marché、マルシェ、青空市場)」に行きたいと考えているようです。リヨンの屋内市場(alles、アル)で有名なものは「リヨン中央市場-ポール・ボキューズ(Les Halles de Lyon-Paul Bocuse)」でしょう。採光がよい、ガラス張りの建物の中には、56軒のスタンドが並べられ、地元産の良質な食材が取り揃えられているのだそうです。2006年に改築されたときに、かつてこの中央市場でスタンドを出していた「ポール・ボキューズ」を讃えて「リヨン中央市場-ポール・ボキューズ」と改名されました。

 「フランクリン・ルーズベルト通り(Cours Franklin Roosevelt)」に面している「ベルナシオン」を正面に見て、左手に南に下る一方通行の「ゲクラン通り(Rue du Guesclin)」があります。この通りを6~7分ほど歩くと、「ラファイエット通り(Cours Lafayette)」に出るので、これを左に折れて東進して、数分歩くと、総ガラス張りの近代的な建物のリヨン中央市場(住所:102, Cours Lafayette Part-Dieu, Lyon)があります。

 「ベルナション(Bernachon)」と「ポール・ボキューズ(Paul Bocuse)」は関係が深い。ポール・ボキューズには一人娘、「フランソワーズ・ボキューズ(Françoise Bocuse)」がいますが、「ジャン=ジャック・ベルナション(Jean-Jacques Bernachon)」と1969年に結婚しているのです。3代目の「フィリップ・ベルナション(Philippe Bernachon)」は孫にあたることになります。

              (この項 健人のパパ)

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 妻「あみ」の記憶力は並外れています。私がいつ、どんな状況で、どんなことを言ったのか事細かに覚えています。結婚前、見に行った映画のタイトルとその日の行動とその日食べた物とその味と私が口にした言葉と、、、脅威です。その場しのぎでうかつな約束はできません。

 「あら、覚えていない方が不思議よ。記憶力が貧弱なんじゃない。」
 「いや、学問的なことは覚えていられるんだけどね。食べた物まではねぇ、、、」
 「きのう食べた物すら思い出せないのは、やはり不思議よ。」
 「いや、必要のないことは覚えないたちで、、、」
 「きのうのことは覚える努力をしなくたって、覚えているものよ。」
 「ゆうべどこに? そんなに昔のこと覚えてないね。ってやつだよ。」
 「なにそれ?」

 フランスの有名なシェフ「ポール・ボキューズ(Paul Bocuse)」は、辻調理学校の創立者になる前の「辻静雄」に向かって、「一流の料理人とは舌の記憶の確かさである」と言ったといいます。調理師の資格を持ってはいますが、料理人ではない妻を一流の料理人だとは言う気は全くありませんが、学生だった頃に、美味しい料理を出すと言われるレストランや料亭を食べ歩いたという妻は、食べ物の味に対する基準を舌に覚えさせているようです。

 「これは美味しいけれど、ナントカという店でイツイツ頃に食べたものよりは劣るわね。でも、コストパフォーマンスからいうと、こちらの方が上かな。高いお金を出すと、美味しいものが食べられるのは、当然だからね。」などと言います。「美味しかった?」と尋ねられて、「食べているときに尋ねてもらわなくちゃ。食べ終わってからでは、味を忘れているよ。」と答える私は、「味」に関する話題では太刀打ちできません。

 「考えごとしながら食事をするから、食べ物の味が分らないのよ。」
 「・・・」
 「真剣に食べ物と向かい合わなくちゃ。食べ物に対する礼儀よ。」
 「そこまで考える?」
 「考えるわよ。食材だって、美味しく食べて欲しいはずよ。」
 「・・・」

 「リヨン(Lyon)]の新市街3区からは「ソーヌ川(la Saône)」の西岸に沿って北上して7km程度、タクシーで20分ほど行ったところに、レストラン「ポール・ボキューズ(L'Auberge-Paul Bocuse)」があります。住所は、40 Rue de la Plage, Collonges-au-Mont-d'Or です。タクシー代に片道30ユーロほどは用意しておく必要があります。一番安いディナーコースが130ユーロほどするようですから、最低、30×2+130×人数を予算としなければいけないようです。3人で行くなら、少なくとも500ユーロほど必要とします。

 「ポール・ボキューズ(Paul Bocuse)」は、リヨン近郊の「コロンジュ・オ・モン・ドール(Collonges-au-Mont-d'Or)」の料理人の家系に生まれます。16歳から修業を積み始め、33歳で生家のレストラン「ポール・ボキューズ」を継いで、1961年(35歳)にはフランス文化の最も優れた継承者たるにふさわしい高度の技術を持つ職人に授与される称号である「国家最優秀職人章(Meilleur Ouvrier de France、MOF)」を授与されています(日本人では、1974年に辻静雄が授与されている)。

 辻静雄は、本郷(東京都)の和菓子屋を営む家に生まれますが、家業を継ぐことを拒み、早稲田大学仏文科を卒業後、大阪読売新聞社の記者となります。辻静雄は、女性や主婦に「家庭料理」を教える料理学校であった「日本割烹学校」に、1人のアメリカからの交換留学生の女性を案内するために訪れます。学校側から対応にあたったのが、学校の創立者「辻徳光」の娘「辻勝子」でした。この辻勝子と結婚することとなり、辻静雄は調理師の養成にかかわっていくことになります。同姓であったことと、辻徳光には「辻勲」という息子もいたことから、「辻」という名称を持った料理学校が2つ存在することとなっています。

 リヨンの南15kmほどのところにある「ヴィエンヌ(Vienne)」の14, boulevard Fernand Point, Vienne には、「ラ・ピラミッド(La Pyramide)」(2007年、ホテル併設)というレストランがあります。その「ラ・ピラミッド」 のオーナー・シェフであった「フェルナン・ポワン(Fernand Point)」は、辻静雄の誕生した1933年にミシュランガイドの三ツ星を獲得し、1955年に死ぬまでそれを守り続けたといいます。

 女性や主婦を対象とするのではなく、プロを養成するための学校をつくることを決意した辻静雄は、フランス料理に関する知識を深めるためにフランスに渡ります。辻静雄がラ・ピラミッドを訪れたときには、フェルナン・ポワンはすでに亡くなっていました。しかし、その妻、「マダム・ポワン(Madoと呼ばれていた)」によってラ・ピラミッドの三ツ星は維持されていたのです。料理人でないにも関わらず、その舌の記憶だけで、シェフに指示を出して夫の味を守り続けていたのです。辻静雄が終生、親しい仲となるポール・ボキューズは、このフェルナン・ポワンの弟子の1人でした。

 1960年、辻静雄は「調理師の養成学校」として「辻調理師学校」を創立し、拡大させていきます。「辻調理師専門学校」、「辻製菓専門学校」などの辻調グループ各校で学んだ人たちは、さらに上を目指して、辻調グループのフランス校で学ぶことができます。このフランス校がリヨン郊外にあります。第1フランス校の「シャトー・ド・レクレール(Château de l'Eclair)」と第2フランス校の「シャトー・エスコフィエ(Château Escoffier)」です。



 「シャトー・ド・レクレール(Château de l'Eclair)」、“L'École Technique Hôtelière Tsuji”は、リヨンの北北西、中心部から電車とバスを乗り継いで50分ほどかけて行く小さな村、リエルグ村(Liergues)の Rue Château de l'Eclair, Liergues にあります。シャトー・ド・レクレールは村の北、丘の上に建つ小さな城で、西に隣接して“CHATEAU DE L'ECLAIR”という銘柄のワインを生産するシカレックス社(SICAREX)があります。同じ敷地内にあるワイナリーと言ってよく、そのワイン貯蔵庫(カーヴ、cave)の上がレクレール校の学生寮になっています。村の周辺にはブルゴーニュワインのぶどう畑が一面に広がっています。

 妻「私、美味しいものを食べたいけれど、健康にも気を使いたいの。」
 私「フランス料理は、日本料理と比べて、脂肪分が多そうだね。」
 「私、定期的に健康診断を受けているけど、いつもコレステロール値では要注意なの。他は大丈夫なのにね。」
 「健康であるから、食べ物も美味しい、ということかな。」
 「美食は、身体を蝕むのよ。」
 「辻静雄さんは60歳で亡くなっているね。肝臓を悪くしたことで亡くなったというから、自分の舌にいろいろな味を覚えさせる中で、肝臓を痛めつけていたのかも知れないね。」
 「美味しい物は毎日でも食べたいけれど、それで命を縮めるのでは、食べるという営みを間違えていると思うわよ。」
 「食べるということは、まず生きるため、と言ったところかな。」
 「そう。」
 「辻さんは、正しいフランス料理を広めるために戦って亡くなったのだから、それは美食が過ぎたわけではなくて、名誉の戦死といったところじゃない?」
 「嘘っぽい味が大衆受けする時代の今にこそ生きていて欲しかったわよね。大衆に基準となる味を広めて欲しかった。健人には基準となる味を教えているつもり。だから、けっこう食べ物にはうるさいでしょ。しっかりした舌が育ってきているのよ。」
 「たしかに。」

 レクレール校での授業は、調理、製菓のそれぞれで、仕込みと調理実習、サービスの実習、フランス語の会話と文法などが行われます。学生は4つのグループに分けられ、レストラン運営のシュミレーションが行われます。ローテーションで、仕込み→実習→サービス→レストラン客の役割を果たします。授業は朝から晩まで続き、授業の後にも復習、予習、翌日の実習のミーティングなども必要になります。

 費用と時間を確保できるなら、例えば宝くじに高額当選したならば、学生生活をもう1度経験してみたい、という妻の進学先には「辻調理師専門学校」がいいのかも知れません。語学をしっかりと学んでみたいし、調理に対する自分の知識を確認してみたいという妻には、フランス語を学び、レストラン運営の実践的な基礎が学べるこの学校が最適な学校かも知れません。20歳前後の学生たちを中心に、大学出身者や調理以外の社会経験を積んだ人たちもいて、50歳代の人も学生の中にいることがあるようです。明日にでも、宝くじを買いに行かなくっちゃ、、、

               (この項 健人のパパ)

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