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 「アッシジ(Assisi)」にある「サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)」の美術修復主任の「セルジオ・フセッティ氏(Sergio Fusetti)」は、ジョットの描いた連作壁画の中の1枚に秘かに「悪魔」が描かれているのを確認したといいます。

 サン・フランチェスコ大聖堂は、「アッシジのフランチェスコ(Francesco d'Assisi)」の功績を称えるために建設されたもので、1226年10月3日にフランチェスコが亡くなると、その2年後の1228年には、ローマ教皇「グレゴリウス9世(Papa Gregorius IX、在位:1227年~1241年)」によって、すでに建築が始まり、1253年に一応の完成をみたようです。
 
 大聖堂は、上堂部分はゴシック様式、下堂の部分はロマネスク様式で築かれ、上堂内部はルネサンス初期の画家「ジョット(Giotto)」による「聖フランチェスコの生涯」が、28場面のフレスコ画で描かれています。ジョットがこの作品を描いたのは、1296年から1298年にかけてといわれています。



 ジョットのフレスコ画は、上堂の入り口を入って、右奥から始まります。大聖堂の「身廊(nave、サン・フランチェスコ大聖堂は「単廊式」で、側廊を持たない)」は、4つの交差ヴォールトからなります。そのため、左右それぞれ4面の壁があり、それぞれの面に3場面が描かれます。第1場面から第12場面までが、入り口から見て右の壁に、第17場面から第28場面までが左の壁になり、第13場面から第16場面までの4場面は、入り口の壁に描かれています。
 


 「悪魔」が描かれているとされる第20場面は、左の壁にあり、上の画像で言うならば、左手前の場面になります。悪魔が描かれているのではないかと言い出したのは、美術史家の「キアーラ・フルゴーニ氏(Chiara Frugone)」で、雲の中に埋め込むように、「鷲鼻(hooked nose)」で「黒みを帯びた角(dark horns)」を持ち、「意味ありげな笑みを浮かべた(sly smile)」悪魔の横顔があると主張しています。




 第20場面には、フランチェスコが昇天する場面が描かれています。「小さき兄弟の修道会」(Ordo fraterorum minororum)を創立したフランチェスコは死期が迫っているのを知ると、弟子の修道士たちにポルツィウンコラに自分を運ばせます。1226年10月3日、ポルツィウンコラの裏の「トランジト礼拝堂(Cappella del Transito)」でフランチェスコは亡くなります。



 上堂部分の連作フレスコ画は高いところに掲げられているので、サン・フランチェスコ大聖堂に赴いても、ジョットが「悪魔」を描き込んだかどうかは知ることができません。さて、みなさん。第20場面の上部部分の雲を拡大しましたので、円内に「悪魔」が描き込まれているか確認してみてください。

(この項 健人のパパ)

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 大きな教会堂には、「礼拝堂(伊語:cappella、英語:chapel)」という空間がいくつも並んでいることがあります。「身廊(伊語:navata、英語:nave)」というミサが執り行われる空間(椅子が多く並んでいる)の両脇に、礼拝堂がいくつも展覧会場のブースのように並んでいます。礼拝堂の多くは、三面が壁で、身廊に向かって開いています。正面にはステンドグラスが嵌められている場合もあり、また壁には多くフレスコ画などの壁画や額に入った絵画があります。



 フランチェスコの死後、2年経った1228年に建築が始まり、25年後の1253年に完成した「アッシジ(Assisi)」の「サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)」の礼拝堂の建設に関しては、ほとんど記録が残されていません。そのため、個々の礼拝堂の建設がいつ行なわれたのかは知られていません。聖堂の建設時に礼拝堂の入口は設けられます。礼拝堂の建設費用を出す者がいれば、礼拝堂が造られます。

 サン・フランチェスコ大聖堂の「下部聖堂(下堂、 basilica inferiore)」の「翼廊(伊語:transetto、英語:transept)」の左右には、「オルシーニ家(Orsini。中世ローマの有力貴族で、コロンナ家とローマの覇権を争った)」によって寄進された礼拝堂が2つあります。右翼にある「サン・ニコラ礼拝堂(Cappella di San Nicolò)」と左翼にある「サン・ジョヴァンニ・バッティスタ礼拝堂(Cappella di San Giovanni Battista)」です。

 サン・ニコラ礼拝堂(バーリの聖ニコラの礼拝堂)は、サン・フランチェスコ大聖堂が完成してからおよそ40年後の1296年前後に建設が始まったのではないかといわれています。「ナポレオーネ・オルシーニ枢機卿(Napoleone Orsini Frangipani、1263年~1342年)」が依頼主でした。礼拝堂には多く聖人の名前が付けられます。

 フランチェスコが騎士になる夢をかなえようとして目指したイタリア南部の「プッリャ州(Puglia)」の州都は「バーリ(Bari)」です。バーリの守護聖人はサンタクロースの元ともいわれる「ミラの聖ニコラウス(Nicola di Mira、バーリのニコラ、Nicola di Bari)」です。ニコラウスは、没落し娘たちの結婚のための持参金を用意できなくなった商人の家に、夜中に窓から密かに持参金に相当する多額の金を投げ入れたという伝承で知られ、サンタクロースはこの伝承から発展したとする説もあります。ニコラウスは裕福な家庭に育ち、多額の遺産があったのです。

 ニコラウス(270年頃~345年または352年)は、現在のトルコの地中海に面した「アンタルヤ県」の「パタラ(Patara、デムレ(Demre)の付近)」で生まれ、現在のシリアの「ミラ(Mira)」で大主教をつとめ、亡くなります。1087年に、聖ニコラウスの聖遺物がミラからバーリに移されます。ミラは、いろいろな宗教が許容されていたとはいえ、イスラム教国のオスマントルコの支配下に移っていたのです。ニコラウスの聖遺物を収めるため、バーリに「サン・ニコラ聖堂(Basilica di San Nicola)」の建築が始められ、1098年に完成をみます。バーリは、多くの巡礼者を集めることとなり、この地方の経済の中心地となります。



 サン・ニコラ礼拝堂には、聖ニコラの8つの物語が描かれています。その一つが「聖ニコラウス、無実の三人を死刑から救う」です。中世イタリアの年代記作者「ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine、1230年?~1298年)」の著した、キリスト教の聖者や殉教者たちの列伝である「黄金伝説(Legenda aurea)」は、第3章を「聖ニコラウス」にあてています。それによると、「金に目のくらんだ執政官が3人の無実の騎士の首をはねるよう命じた。それを聞いた聖ニコラウスは処刑場に急ぎ、死刑執行人の手から剣をもぎ取って投げ捨て、無実の者たちを解き放った」とあります。




 この出来事は絵画「ヴォルガの舟曳き」で有名なロシアの画家「イリヤー・エフィーモヴィチ・レーピン(Ilya Yefimovich Repin、1844年~1930年)」も描いています。「ミラの聖ニコライ、無実の三人を死刑から救う」(Saint Nicholas of Myra in Lycia、1889)です。ニコラウスはロシア語では「ニコライ」になります。



 サン・ニコラ礼拝堂の向かいにあるサン・ジョヴァンニ・バッティスタ礼拝堂(洗礼者ヨハネの礼拝堂)は、聖人ヨハネ(ヨハネを伊語で言うなら、ジョヴァンニ)の名がつけられています。フランチェスコの洗礼名が「ジョバンニ(Giovanni)」でした。夫ピエトロが商用で留守の際にフランチェスコの母ピカ(ヨハンナ)は出産したことから、ひとりで名付けたのですが、これを気に入らなかったピエトロは我が子を「フランチェスコ」と呼びました。

 この礼拝堂はオルシーニ枢機卿が若くして亡くなった弟「ジョヴァンニ・ガエターノ・オルシーニ(Giovanni Gaetano Orsini)」を祭るために建てたといいます。オルシーニ枢機卿は死後この礼拝堂に葬られることを望んでいたそうです。オルシーニ枢機卿はアヴィニョンで1342年に亡くなります(ローマ教皇の座が、ローマからアヴィニョンに移されていた「アヴィニョン捕囚」(1309年~1377年)の時期)。しかし、葬られたのはローマの旧「サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)」にあった「サン・マルツィアーレ礼拝堂(Cappella di San Marziale)」でした。



 サン・ジョヴァンニ・バッティスタ礼拝堂には、シエナ派の画家「ピエトロ・ロレンツェッティ(Pietro Lorenzetti、1280年~1348年?)」の描く「祭壇画(altarpiece)」があります。祭壇画は、キリスト教会の祭壇の飾りで、祭壇の背後の枠の中に取り付けられている、宗教的題材を描いた絵やレリーフをいいます。この礼拝堂には3枚の絵画からなる「三連祭壇画(triptych、トリプティク)」があり、中央にマリアとイエス、右手にフランチェスコ、左手に洗礼者ヨハネが描かれています。

 礼拝堂の話しをマクラにして、ジョットの連作フレスコ画「聖フランチェスコの生涯」の第6場面「フランチェスコ、インノケンティウス3世に力を貸す」に話しを発展させようとしたのですが、数日かけて仕事の合間にいろいろと調べながら記事を書いているうちに、礼拝堂の話しから抜けられなくなってしまいました。またまた仕切り直しです。




                   (この項 健人のパパ)

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 そして、フランチェスコはもはやなにも言わない。いつも歌っている。ますます懸命に歌っている。ペルージアの牢獄、アッシジでの病気、スボレートでの夢。この三つのひそやかな傷口をとおって、野心という名の汚れた血が流れでてゆく。残るのは、いまや目的を失くしたあの陽気さだけだ。友だち、娘たち、賭事。それらも前ほど楽しいものではない。この地上にあって若さを謳歌し、人から賞めたたえられる以上の喜びが望みなのだ。月日が過ぎてゆく。祭も続けば、どれもこれも似たりよったりに見えてくる。祭に顔を出しはするが、いわば、心はそこにない。心がそこになくても、なにかすることはできるものだ。人生の真盛りを過ごし、話しあい、仕事をし、人を愛しながらも、心がまったくそこにないことさえある。(クリスティアン・ボバン「いと低きもの 小説・聖フランチェスコの生涯」から)

 フランチェスコの生きざまは、「チェラーノのトンマーゾ(Tommaso da Celano、1200年?~1265年?)」の著した聖人伝(hagiography)から知ることができます。トンマーゾ(トマス、Thomas of Celano)は、「フランシスコ会(小さな兄弟会、Ordine francescano、Ordo fraterorum minororum)」の修道士でした。

 1181年(1182年という説もある)に生まれ、1226年に亡くなったフランチェスコとトンマーゾの生きていた時代とは26年ほど重なります。トンマーゾはフランチェスコの20歳ほど年下なのです。トンマーゾは1215年にフランチェスコの活動に加わったのですが、1221年には新しく修道会を立ち上げるためにドイツに送られ、そこで過ごしたために、フランチェスコと直に接触できる可能性のあったのは、6年という期間に限られてしまうことになります。

 トンマーゾはローマ教皇「グレゴリウス9世(Papa Gregorius IX)」によって、聖人の公式の伝記作者として選ばれます。トマーゾはフランチェスコをよく知っている人物やフランチェスコの情報を知っている人物に取材を重ねたといいます。そうして書き上げたのが「第一伝記(幸いなるフランチェスコの生涯、Vita Beati Francisci)」です。

 さらにその後に集められた資料に基づき、トンマーゾは「第二伝記(Memoriale Desiderio Animae de Gestis et Verbis Sanctissimi Patris Nostri Francisci)」を著します。資料はフランチェスコの弟子たちの記憶に基づくもので、記憶は事実そのものではなく事実の解釈であり、人により異なり、また記憶は時間とともに変容するものであり、そのため、第一伝記と第二伝記の記述では矛盾の生じることもあります。

 トンマーゾの聖人伝によれば、フランチェスコの回心(神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る信仰体験)は、いくつものエピソードを経て、数年かけて達成されます。人の心は左右に触れながら、一定の方向に定まっていくものであり、急激な心境の変化で回心するというのは信じがたいものがあります。しかし、多くの聖人伝における回心は、啓示が突如訪れたり、急激な心境の変化という形をとっています。第一伝記は、フランチェスコが亡くなってまもなく書かれたものであり、フランチェスコを直接知る人たちが多く生きていたために、トンマーゾは事実と大きく異なることを書くことはできなかったのかも知れません。

 フランチェスコは騎士に憧れ、2度、戦いに加わろうとします。1度目はアッシジとペルージャとの戦いであり、このときは実際に戦闘に参加して捕虜になってしまいます(1202年)。2度目は、シチリア王国に遠征する教皇軍に参加しようとイタリア半島の東南にある「プッリャ(Puglia、プーリャ)」を目指します。このときは、「神の声」を聞いて断念します(1205年)。

 騎士になることに興味を失い、遊び歩くことも楽しくなくなって、自分の生き方を模索していたフランチェスコは、アッシジの城壁の外にある「サン・ダミアーノ教会(Chiesa di San Damiano)」に立ち寄り、教会堂で祈りを捧げているときに、また「神の声」を聞きます。「早く行って私の壊れかけた家を建て直しなさい」と。

 しかし、フランチェスコは「金持ちのボンボン」でした。金を集めれば、教会の修復ができると考えていました。父親の商売物の布地を父親に無断に売り払って、お金を手に入れ、サン・ダミアーノ教会の司祭に、教会を修復する資金にしてくれと差し出したのです。司祭はその金を受け取ろうとしませんでした。23・4の若者が工面できる額ではなかったのです。それを受け取ることに危険を感じたのでしょう。

 フランチェスコは、自力で教会を修復することにしました。司祭に教会の宿泊施設に住む許可をとりつけ、粗末な食事を取りながら、教会の修復をし始めます。フランチェスコはアッシジがペルージャとの戦いに備え、城壁を補強したときに、それに参加し、その技術を習得していたのでしょう。肉体労働をあまりしたことがなかったであろう、商人の息子のフランチェスコは本格的な肉体労働のつらさとその達成感を同時に知ったことでしょう。

 父親ピエトロは、商用で家をしばらく留守にしていましたが、留守を任せていたフランチェスコが商売物を売り払って、家を出たことに激怒します。父親の激怒を知り、フランチェスコは身を隠します。しかし、フランチェスコは身を隠している間に精神的に成長を遂げます。信念の人となったのです。フランチェスコはアッシジの町に粗末な服を着て超然と現れます。

 町の者たちは、すっかり様子の変わったフランチェスコに狂人の扱いをし、嘲弄します。息子フランチェスコが町に現れ、嘲笑されていることを知った父親はフランチェスコを連れ帰り、人目に付かないように、また逃げ出さないように鎖をつけて閉じ込めます。

 父親はまた商用で長期間家を留守にすることになりました。その機会に、母親ピカ(ヨハンナ)は息子フランチェスコの鎖を解いて、サン・ダミアーノ教会に戻らせます。敬虔なキリスト教徒だった母親は、フランチェスコの強い宗教心を感じとっていました。

 フランチェスコの両親の像

 アッシジのフランチェスコが誕生したとされる地に立つ「フランチェスコの両親の像」(1984年、Roberto Joppolo作)の母親ピカの手に握られているのがフランチェスコにつけられていたその鎖です。

 商用から帰ったピエトロは、息子の生き方を肯定する妻にも怒りをあらわし、フランチェスコを連れ戻そうとします。しかし、フランチェスコはすでに信念を固めていて、戻ろうとはしません。ピエトロは、この世間体の悪いフランチェスコを廃嫡にする決心をします。ベルナルドーネ家から追放するのです。フランチェスコ・ベルナルドーネをただのフランチェスコにするのです。ピエトロにはもうひとり、息子がいました。フランチェスコの弟「アンジェロ(Angelo)」です。アンジェロもこの兄を恥じていました。ベルナルドーネ家はこの下の息子に継がせればいいのです。



 廃嫡の手続きは、フランチェスコが宗教生活にある者だと判断されて、教会の法廷で行なわれることになりました。司教館(現在の「サンタ・マリア・マジョーレ(Santa Maria Maggiore))の前の広場、「司教館広場(Piazza del Vescovado)」(現在はジョバンニ・ディ・ボニーノ通り(Via Giovanni di Bonino))が法廷となりました。

 ピエトロは、フランチェスコに対し、「今の生活を改め、家に帰りなさい。そうしなければ、もう息子ではない。いま持っている金は私のだから、すべて返しなさい」と主張します。フランチェスコは、「あなたが私との縁を切ったことで、これからは、父ピエトロ・ベルナルドーネではなく、「天にまします我らの父よ」と言うことができます。あなたの物であるお金だけではなく、この服もお返しします」と言って、着ていた衣服をすべて脱ぎ、お金とともに父の前に置きました。

 トンマーゾは、事の成り行きを見守っていた人の中には、フランチェスコの信念をようやく理解して、感動に目を潤ます者も多くいたと述べています。父ピエトロは、いまだ息子フランチェスコが理解できず、怒りに青ざめた顔で、衣服と金を手にし、広場を立ち去ったといいます。


             (5)フランチェスコ、キリスト教に回心する

 自分の生き方を模索し、その方向を見出したフランチェスコ、自分の思うように生きられない息子に同情する母ピカ、自分の望むように生きない息子に失望する父ピエトロ。サン・フランチェスコ大聖堂のジョットの連作フレスコ画「聖フランチェスコの生涯」は、28場面から構成されていますが、第5場面まで見てきました。続きはまた。

               (この項 健人のパパ)

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 ヨーロッパには、10世紀頃から15世紀頃にかけて、いろいろな時代にいろいろな地域に、詩曲を作り、歌って各地を巡った人々がいました。「吟遊詩人」といわれる人々です。詩人であり、作曲家であり、歌手であったといえるでしょう。今で言うなら、シンガーソングライターといっていいのかも知れません。11世紀頃には、南フランスの宮廷から「トルバドゥール(Troubadour)」と呼ばれた吟遊詩人が現れます。トルバドゥールは、カタルーニャ(スペインの南東部)、プロヴァンス(フランス南東部)、イタリア北部・中央部などを中心に巡っていました。トルバドゥールは、貴族出身の者が多く、各地の宮廷などを遍歴し、騎士道精神に基づく恋愛や十字軍を主題とする歌を歌っていたようです。


 チマブエの描くフランチェスコ

 アッシジにフランチェスコが生まれたのは、1181年(1182年という説もある)で、青年期を迎えるときには、12世紀から13世紀へと入っていきます。アッシジにも吟遊詩人「トルバドゥール」は巡って来ていました。若きフランチェスコは、多くの若者たちと同じように、旋律に乗った、アーサー王と円卓の騎士たちの英雄的な行為を聴き、騎士道への強い憧れを抱いたことでしょう。

 南フランスのプロヴァンスがトルバドゥールの故郷だといわれています。プロヴァンスの宮廷からトルバドゥールと呼ばれた吟遊詩人が現れたといいます。フランチェスコの母親ピカ(通称。本名は、ヨハンナ(Johanna))は、プロヴァンスの出身でした。真偽のほどは定かではないのですが、プロヴァンスの貴族の出身だともいわれています。

 クリスティアン・ボバン(Christian Bobin)の「いと低きもの 小説・聖フランチェスコの生涯(Le Très-Bas)」(平凡社、1995年)には次のように描かれます。

 ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ、これが父親の名前である。布地と毛織物の商人。彼の父もすでにこの商売をしていた。息子は父の財産と服飾への興味を受け継いだ。ピカの奥方、これが母親の名前である。彼女はアッシジの生れではない。もっとずっと遠くからやって来た。プロヴァンス地方で暮らしていたのだ。フランチェスコの父親は商売でかの地におもむき、帰ってくるとき、その腕に全世界の黄金を抱えていた。つまり、この美しい女性の愛を得たのであり、それはおそらく彼がなしとげた最良の仕事、かつて彼の指がとらえた最も繊細な布地であった。この妻こそ、フランチェスコの父親の天才がなしとげたわざだった。

 フランチェスコの祖父ベルナルド(Bernardo)は近郊の農村からアッシジに出てきて、布地を扱う商人になります。その子ピエトロ(Pietro di Bernardone)はその事業を拡大し、南フランスに出かけて毛織物など布地を仕入れ、中部イタリアで売り捌きました。ヨーロッパ各地の商人は、東方からの物産が集積される南フランスに赴いては買い付けを行っていました。

 ベルナルドーネ家は、織物商として相当な財産を築き上げていましたが、属する階級は庶民階級でした。裕福になったフランチェスコの父ピエトロには、上流階級に対する強い憧れがあったでしょうし、文化的先進国のフランスにも強い憧れがあったでしょう。それが結実したのが娶った妻「ヨハンナ」であったのかも知れません。

 フランチェスコの両親の像
(1984年、Roberto Joppolo によって作られたこの銅像は、Francesco が誕生したといわれる場所に立っています。フランチェスコの父 Pietro di Bernardone と母 Pica です。Pica は、Pietro の手によって監禁された Francesco を解放するために外した鎖を持ち、Pietro は、相続権を放棄した Francesco が捨てた服を持ち、大きな喪失感にとらわれた表情をしています。)

 2人の間に初めての子が誕生します。男の子でした。農民からの出世物語が始まっていました。第1章は「父ベルナルド」、第2章は「私ピエトロ」、第3章は「我が子」にあてられるはずでした。ベルナルドーネ家は、農民から商人へ、そして上流階級へ。そうなるはずでした。

 しかし、ベルナルドーネ家をやがて継ぐことになる長男に夢を託していたであろうピエトロに誤算がすでに始まっていました。南フランスでの商用を優先して妻の出産に立ち会わず、家を留守にしていたことでつまづきが始まります。敬虔なクリスチャンであった妻が我が子に、ヨルダン川でイエスらに洗礼を授けた「洗礼者ヨハネ(Giovanni Battista)」にちなんで、「ヨハネ(羅語:Johannes。伊語では、ジョバンニ(Giovanni))」と名づけてしまったのです。自分の名が「ヨハンナ」であったことから、「ヨハネ」と名づけることに躊躇はなかったでしょう。

 ヴェロッキオ「キリストの洗礼」(部分)

 自分の夢を実現させるはずの長男の名が「ジョバンニ」になっていたことにピエトロは驚いたことでしょう。ヨハネは「らくだの皮衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物」(「マタイによる福音書」3章)とする人物であったのです。荒野での洗礼活動を始めたのはヨハネであり、その持つイメージは荒野での厳しい苦行者でした。自分の望む我が子の将来の姿とは対極にありました。

 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて言った、「悔い改めよ、天国は近づいた」。預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。このヨハネは、らくだの皮衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。(「マタイによる福音書」3:1~3:4)

 ピエトロは、我が子を「ジョバンニ」とは決して呼ばず、「フランチェスコ(Francesco)」と呼びます。イタリア語では、「フランス人」を“francesi”といいます。ピエトロは、南フランスのプロヴァンスの文化に強い憧れを持っていたことから、この響きを選んだのでしょう。「フランチェスコ」の後に「フランチェスコ」やその女性名「フランチェスカ(Francesca)」は多く現れますが、「フランチェスコ」の前に「フランチェスコ」はおそらくいませんでした。

 ベルナルドーネ家の長男フランチェスコは、物質的に恵まれた環境の中で成長していきます。当時の商人階級に属する人に文字の読み書きのできない人は多くいました。上流階級へ属することを息子に期待するピエトロは我が子に読み書きや算術を習わせ始めます。聖ジョルジョ教会の建物の一角が教室であり、神父たちが初等教育を担当していました。教科書として、「旧約聖書」の詩篇が用いられていました。その中で聖書に接することはありましたが、神学教育を受けたわけではないので、宗教に強い関心を抱くということはありませんでした。

 フランチェスコの生きた時代は、封建制(国王と諸侯、諸侯と騎士の主従関係が双務的契約を前提としていた)が確立した時代でした。厳しい身分制度があったのです。王侯、貴族という世俗的支配階級と高位聖職者(貴族の出身)という宗教的支配階級、それに騎士が上流階級に属し、農民、職人、商人、それに下級聖職者が庶民階級に属していました(さらに、その下に農奴がいた)。商人は豊かな経済力を身につけ、さらに政治的権力を得ても「庶民階級」であることに変わりはありません。父ピエトロが我が子フランチェスコに上流階級に属する努力を要求したのも無理からぬものがあります。

 庶民階級から上流階級に昇格する手段が「騎士」になることでした。本来騎士は叙任されるもので、生まれついての身分や階級ではありませんでした(封建制が進むにつれて封建領地をもった階層に固定されていく)。

 シチリア島やイタリア半島南部を支配していた「シチリア王国」を征服した(1194年)神聖ローマ帝国の「ハインリヒ6世(Heinrich VI)」が1197年(フランチェスコが15歳か16歳のとき)に突如としてシチリアで急死します。コムーネと呼ばれる都市国家に分裂しているイタリアにしばしば進駐し影響力を行使していた神聖ローマ帝国の皇帝が亡くなったのです。帝国の支配を脱して新しい政治体制を作り出そうとして、各地で反乱が勃発します。
 
 1198年、神聖ローマ帝国のアッシジ総督であったスポレート(Spoleto、アッシジの南にある)公「ウルスリンゲンのコッラード(Corrado di Urslingen、Conrad of Urslingen、ウルスリンゲンのコンラード)」は、アッシジの支配権を教皇インノケンティウス三世(在位1198~1216)に委譲するために(1201年に教皇領となり、1213年より教皇庁が直接統治)、当時教皇が滞在していたナルニに赴きます。コッラード侯の不在を突いて、アッシジ市民は立ち上がり、神聖ローマ帝国の支配体制を支えていた貴族たちを追放し、市民自身による自治政府を樹立します。

 市民たちは町の小高い丘の上に立ち、総督の居城となっていた「城砦(ロッカ・マッジョーレ)」を破壊し、その石材を町を守るために築かれていた城壁を補強するために利用しました。貴族たちは、アッシジと敵対していた隣のペルージャ(Perugia)に亡命していきました。

(参考) 「「アッシジへ」 - 城砦「ロッカ・マッジョーレ」からはアッシジの町が見渡せます。

 まもなく、アッシジはペルージャと戦うことになります。アッシジからの亡命を余儀なくされた貴族たちは、ペルージャの援助を得て、アッシジに戻り、その失った地位や財産を回復しようとしたのです。しかし、一方が圧倒的に軍事力に勝るということはなく、数百人程度の騎士が小競り合いを幾度となく繰り広げたようです。

 武勲をあげ、騎士になる機会がフランチェスコにやって来ました。父親ピエトロも我が子に武具や馬を買い与えたことは想像できます。しかし、1202年、フランチェスコは、「コレッストラーダの戦い(Battaglia di Collestrada)」で、ペルージャ側の捕虜になってしまいます。「コッレストラーダ(Collestrada、コレストラーダ)」は、ペルージャの分離集落(frazione)で、テヴェレ川の東にある地域です。アッシジとペルージャのほぼ中間にあります。

 フランチェスコが解放されたのは、捕虜になってからおよそ1年後でした。アッシジとペルージャの間で、一時的に和議が成立し、その機会に父親ピエトロが高額な身代金を支払うことで釈放されたのでした。しかし、もともと身体の丈夫でなかったフランチェスコは、捕虜となっていた間に健康を損ねていました。アッシジに帰ってから、病床につくことになります。このことがフランチェスコに生き方を考える時間を与えることになります。

 前回の記事の「「アッシジへ」-「サン・フランチェスコ大聖堂」で「ジョット」の連作フレスコ画を見る(2)」と重複する内容です(一部、前回の記述と矛盾する)が、回心する前のフランチェスコについて詳細に述べてみました。
     
                 (この項 健人のパパ)

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 はじめてこの町をおとずれたのは、1954年の夏で、アッシジのとなりのペルージャという、これも中世のままの町の大学で、イタリア語の夏期コースに出ていたとき。友人の運転するスクーターのうしろに乗せてもらって、やはり坂ばかりのペルージャの丘を降り、しばらく平野を走ると、アッシジの丘が前方に見えた。丘のいちばんふもとの辺りの、「大修道院」と土地の人が呼ぶ教会の巨大な橋梁をおもわせる建築に、まず、目を奪われた。

 それから、何度、この町をおとずれたことだろう。11回、というあたりまでは勘定して得意になっていたが、そのあとは、数はどうでもよくなった。ローマから、たしか200キロ近くあって、車で行っても、ちょっとした一日仕事である。留学生はお金がないから、だれか車をもっている友人が、アッシジに行こう、と言ってるのを耳にすると、すりよって行って、連れてって、と懇願した。何度行っても、平野からあの大修道院を眺めると、ああ、アッシジだと思って、心がふくらんだ。
(須賀敦子さんのエッセイ「アッシジに住みたい」から)

 アッシジの「サン・フランチェスコ大聖堂」では、ローマの教会や聖堂とは異なり、観光客に混ざって、修道士や神学校の学生を多く見かけます。濃い茶色の修道衣をまとったその服装で、観光客とは違う存在であることが見てとれます。また、その人種を見ると世界各地からやって来ているようにも見てとれます。フランチェスコの生き様は、キリスト教徒でなくても理解しやすく、その人間性は魅力的です。フランチェスコの存在がアッシジを人を惹きつける魅力的な町としていることに間違いはありません。



 サン・フランチェスコ大聖堂の上堂の壁面には、ジョットの描く「聖フランチェスコの生涯」という28場面の連作フレスコ画があります。上下2層からなる大聖堂の下堂から入ると、やがて中庭に出ます。その中庭には上堂に上る階段があり、ファサード-身廊-翼廊-後陣(アプス)からなる上堂の翼廊に入ることができます。



 翼廊から見て、身廊の左の壁から「聖フランチェスコの生涯」の物語が始まります。第1場面は、フランチェスコは裕福な家庭に生まれたことを示し、第2場面は、フランチェスコは騎士に憧れを抱いていたことを示しています。この最初の2場面はすでに紹介しました(参考:「アッシジへ」-「サン・フランチェスコ大聖堂」で「ジョット」の連作フレスコ画を見る(1) )。今回は第3場面から見ていきたいと思います。

 12世紀から13世紀にかけて、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝は対立していました。主に北イタリアにおいて、貴族たちや都市はその旗色を明確にしました。「皇帝派(伊語:Ghibellini(ギベッリーニ)、英語:Ghibelline(ギベリン))」であった「アッシジ(Assisi)」は、教皇派(伊語:Guelfi(グエルフィ)、英語:Guelph(ゲルフ))であった「ペルージャ(Perugia)」と争うことになります。

 騎士に憧れを抱いていたフランチェスコは、武具を揃え、その戦いに参加することになります。父親が戦いに参加することに反対したかどうかは定かではありませんが、戦いに参加して武勲を上げることは、父親にとっても本人にとっても、プラスに働くはずだったでしょう。本人の社会的評価も上がり、父親の政治的影響力も増したことでしょう。

 しかし、アッシジはペルージャに1202年、「コレッストラーダ(Collestrada)」の戦いで敗退します。フランチェスコは捕虜となります。父親は賠償金を支払って、フランチェスコを釈放させますが、釈放までには1年という期間がかかりました。賠償金の額が高額だったのでしょうか、戦場に行くことを反対していたとするならば、父親の怒りだったのでしょうか。

 ペルージャの牢獄で1年を送る中で、フランチェスコは病気になりました。病気になったことで父親に賠償金を支払って釈放させる気を起こさせたのかも知れません。釈放されてからもしばらくは病気が癒えることはなく、陽気な「ボンボン」も憂鬱を感じたことでしょう。牢獄にいたときから、自分の生き様について、深く考えるようになっていたのかも知れません。その時間は十分にあったのですから。

 フランチェスコの父親、「ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ(Pietro di Bernardone)」は毛織物商人であり、たびたびフランスに出かけていたといいます。フランチェスコが生まれたときも留守をしており、母「ピカ(Pica)」は、生まれた子に「ジョヴァンニ(Giovanni)」という名前をつけますが、仕事上フランス語が非常に堪能で、フランスびいきだった父親は、その名が気に入らず、「フランチェスコ(Francesco)」と呼びます。

 そんな父親ですから、諸外国の事情に詳しく(13世紀のカペー朝のフランスは、ローマ教皇との連携を図り、王権を強化していた)、すでにアッシジ対ペルージャの戦いの勝敗の行方を見通しており、それゆえ、フランチェスコが戦場に行くことを強く反対したかも知れません。言うことを聞かなかった息子に腹を立てて、容易には賠償金を支払わなかったのかも知れません。いろいろな想像ができます。跡継ぎにしようと考えていたでしょうから、放蕩には目をつぶっていたのかも知れず、手に焼く息子だったのかも知れません。

 病を得たあたりから、フランチェスコはたびたび「神の声」を聞くようになります。それは実際は思索的になっていたフランチェスコの「心の声」だったのかも知れません。「神の声を聞く」ということは心的な体験であり、目撃者がいるはずもなく、フランチェスコが人に語らなければ、人の知るところとはなりません。フランチェスコの心的態度が、徐々に実在としての「神」を受け入れるようになり、「神」の存在を人に伝えられるようにもなっていったのでしょう。

 ある夜、フランチェスコは不思議な夢を見ます。十字架のしるしのある立派な武具が置かれた荘厳な建物を見て、フランチェスコは誰の建物なのかを尋ねます。それに対する答えが「おまえとおまえの騎士たちのものだ。」というものでした。自分の栄華を確信して、フランチェスコは、今度はシチリア王国に遠征する教皇軍に参加しようと「プッリャ(Puglia、プーリャ)」を目指します。

 しかし、アッシジからわずか南に行った「スポレート(Spoleto)」で体調を崩してしまいます。ここで、再び不思議な夢を見ます。「おまえは何故、隷(しもべ)のために主(あるじ)を、従者のために王を忘れようとしているのか」と問いかける声を聞きます。「では、いったいどうしたらいいのですか」と問い返すと、声はアッシジに戻るようにと告げます。


          ((3)フランチェスコ、荘厳な建物の夢を見る)

 帰郷したフランチェスコは、1206年、「サン・ダミアーノ教会(Chiesa di San Damiano)」の十字架から「早く行って私の壊れかけた家を建て直しなさい。」との声を聞き、教会の修復を始めます。しかし、声の意図したことは具体的な、教会という「建物」ではなく、制度としての、「堕落した教会の建て直し」でした。フランチェスコには、そこまでは理解できませんでした。理解したとしても、自分にはその力があるとは考えなかったでしょう。


          ((4)フランチェスコ、教会改革の使命を受ける)

 フランチェスコは、謙虚さに目覚め、やがて「清貧」をその生き方にしていきます。

                (この項 健人のパパ)

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 文章を書くことに素人の私は、文字を削ることができません。饒舌にはなるのですが、思いが集約できなくて、その思いを充分に伝えることができません。アッシジは、幾度でも訪れたい町です。その思いを記事にしてきました。でも、内容がまとまらず、破綻することもしばしば。そこで、今回は、そのマクラを須賀敦子さんのエッセイで始めることにしました。

 イタリア中部の小都市、アッシジは坂の町である。どこへ行くにも、坂ばかり。中世以来の街並がつづくなかを、ゴシックのアーチをくぐったり、修道院の高い壁にそって、坂を上がったり降りたりしながら、ときどき、曲り角などで、思いがけなく眼下にひらける景色に見とれることもある。(企業情報誌の季刊誌「Mr. & Mrs」に掲載された「アッシジに住みたい」から)

 アッシジの旧市街は小さな町です。ローマを朝に立ち、アッシジに1泊して、翌日の夕刻にアッシジを出るならば、充分にアッシジを「見て」回ることはできます。しかし、その行程ではフランチェスコやキアラの思いを感じることはできません。「アッシジには行った」と日記帳に書き留めることしかできません。アッシジに行ったからには、何かを感じて帰りたいものです。もっと時間が必要なのです。心の中でフランチェスコやキアラが生きた時代に時を遡る、そんな余裕が必要なのです。




 アッシジは、十三世紀の初頭に清貧の修道生活を始めて、多くの人たちに愛されたフランチェスコゆかりの町である。しかし、当のフランチェスコが死ぬと、修道士たちは莫大な財産を築きあげ、大修道院は、いわばその「堕落」の象徴といえるかもしれない。でも彼らの「堕落」のおかげで、私たちは、かけがえのないジョットの壁画をはじめ、すばらしい街並まで楽しめるのだから、不平はいえない。フランチェスコの生涯を物語る大壁画は、とてつもなく高いところにあるから、ひどく見にくいのだけれど、それでも行くたびに、長いこと立ちどまってしまう。(「アッシジに住みたい」から)



 サン・フランチェスコ大聖堂は、上部聖堂(上堂、basilica superiore)と下部聖堂(下堂、basilica inferiore) の上下2層からなり、それに修道院が付随して、一体となっています。大聖堂は、アッシジの町(旧市街)の北西の斜面に築かれ、斜面を有効に利用するために上下2層にしたもののようです。

 大聖堂は、アッシジのフランチェスコの功績を称えるために建設されたもので、1226年10月3日にフランチェスコが亡くなると、その2年後の1228年には、ローマ教皇「グレゴリウス9世(Papa Gregorius IX、在位:1227年~1241年)」によって、すでに建築が始まり、1253年に一応の完成をみたようです。

 フランチェスコの思いを継承した「アッシジのキアラ(Santa Chiara d'Assisi)」は、時には、「もう一人のフランチェスコ(alter Franciscus)」と呼ばれていましたが、1253年8月11日に亡くなります。キアラは、この大聖堂の完成を見届けているのかも知れません。キアラは、完成した大聖堂を見て、どのような感慨を抱いたのでしょうか。

 大聖堂は、上堂部分はゴシック様式、下堂の部分はロマネスク様式で築かれ、上堂内部はルネサンス初期の画家「ジョット(Giotto)」による「聖フランチェスコの生涯」が、28場面のフレスコ画で描かれています。ジョットがこの作品を描いたのは、1296年から1298年にかけてといわれています。



 ジョットのフレスコ画は、上堂の入り口を入って、右奥から始まります。大聖堂の「身廊(nave、サン・フランチェスコ大聖堂は「単廊式」で、側廊を持たない)」は、4つの交差ヴォールトからなります。そのため、左右それぞれ4面の壁があり、それぞれの面に3場面が描かれます。第1場面から第12場面までが、入り口から見て右の壁に、第17場面から第28場面までが左の壁になり、第13場面から第16場面までの4場面は、入り口の壁に描かれています。



 大聖堂上堂の入り口から入って、ジョットのフレスコ画を見る場合には、まず、右の壁の奥に向かってから、時計回りにフレスコ画を楽しむのがよい方法だと思われます。大聖堂下堂の入り口から入ると、やがて中庭に出ることになりますから、「後陣(アプス、apse)」を見上げて、左手の階段を上ると、大聖堂上堂の翼廊に入ることができます。その左側の壁から第1場面が始まります。この方法もよいのかも知れません。



 ジョットの描くフレスコ画の第1場面は、フランチェスコが聖なる人の扱いを受けている場面です。一人の男がフランチェスコの進む道の上に自分の服を脱いで敷いています。敬意の表し方の1つなのだそうです。

 フランチェスコが生きた時代は、市民階級が政治へ大きく関与するようになった時代でした。地域間の交流が盛んになり、人や物の移動が増え、商人や職人からなる市民階級が裕福になり、発言力を増していく時代でした。それとともに対立も生まれ、皇帝派対教皇派、封建領主対新興市民階級、自治都市対自治都市などの闘争が行われます。

 裕福であり、政治力もあったであろう毛織物商人の家庭に生まれたフランチェスコは、いわゆる「お坊ちゃん」の扱いを受け、その富裕のおこぼれにあずかろうとする取り巻きもいたと想像できます。その文脈で考えると、この場面を別の意味で捉えることもできそうです。この時点では、フランチェスコはまだ「回心」(神に背いているという「罪(sin)」を認め、神に立ち返るという信仰体験)をしてはいず、当然「聖性」を持ってはいません。

 フランチェスコは、死後、やがてイタリアの守護聖人となります。そのため、ローマ教会の意向に合わせて、フランチェスコの若い頃の生き様は書き換えられたことでしょう。フランチェスコは回心以前から人格的に優れた人物であり、尊敬された人物である必要があったのです。ジョットがこの第1場面を描いたときには、フランチェスコが亡くなってから70年が経っていました。フランチェスコの生涯は、美談化され、伝説化されていました。


            ((1)フランチェスコ、純朴な人から尊敬を受ける)

 第2場面は、フランチェスコが貧乏な騎士に自分のマントを与えている場面です。フランチェスコは貴族の騎士に出会います。その貴族は貧しく、その地位に相応しくない、みすぼらしい服装をしていました。騎士に憧れを抱いていたフランチェスコは、その騎士に敬意を払い、自分の身に着けていた外套を与えたといいます。

 フランチェスコは、裕福な家庭に生まれましたが、ただの平民階級の出身でした。欲しいものが容易に手に入ったであろうフランチェスコにも、貴族という身分は手に入りませんでした。騎士は憧れの対象であり、戦いで武勲を上げ、騎士と同等の尊敬を得たいと考えたのも当時の若者たちの抱いたであろう気持ちからは当然の成り行きだったでしょう。


         ((2)フランチェスコ、落ちぶれた騎士にマントを与える)

 フランチェスコは、アッシジのすぐ隣の都市国家「ペルージャ(Perugia)」との戦いに参加することになります。まだ、フランチェスコは「神の声」を聞くことはありませんでした。

              (この項 健人のパパ)

(追記) dezire さんが、アッシジの町を写真で紹介してくださっています。
フランチェスコを生んだキリスト教の巡礼地・アッシジの街の風景」をご覧ください。(追記の終わり)



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 「アッシジ(Assisi)」で見るべきものは、「ポルツィウンコラ(Porziuncola)」であるとたびたび述べてきましたが、それでも、「アッシジで一つしか訪れることができないとしたら、どの場所を選びます?」という質問をされたら、即座に「サン・フランチェスコ大聖堂」と答えるでしょう。やはり、アッシジを代表する建物は、「サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)」であることには間違いありません。



 アッシジの町を欧米人(特にカトリック教徒)の間で有名にしているのは、「サン・フランチェスコ大聖堂」があるからです。しかし、この大聖堂は町(旧市街)の中心にはありません。アッシジの旧市街(城壁に囲まれた地域)はビール瓶をちょっと太めにして、反時計回りに45度ほど回転させたような形をしています。大聖堂は旧市街の北西部の端、ビール瓶の首のところにあります。



 アッシジの町は、他宗教の指導者にとっても、よく知られた場所です。

 2001年9月11日にアメリカ合衆国で、ハイジャックされた航空機を使った4つのテロ事件、「アメリカ同時多発テロ事件」が発生すると、ローマ教皇「ヨハネ・パウロ2世」は、高まる宗教対立の風潮を心配して宗教対話を呼びかけ、世界の宗教指導者を招き、「平和の祈り」を捧げる集会を2002年1月24日、「アッシジ」で開催します。集会には、カトリック、東方正教会、イスラム、ユダヤ、仏教、ヒンズー、ゾロアスター教などから約250人の代表が参加したといいます。

 これを遡ること16年前、1986年10月27日、ヨハネ・パウロ2世は、世界の宗教者に呼びかけて「世界平和の祈りの集い」をアッシジで開催しています。26年5ヶ月と2週間(1978年10月16日~2005年4月2日)という長い教皇在位期間を誇るヨハネ・パウロ2世は、宗教間の問題に温和な態度で臨み、諸宗教や文化間の対話を呼びかけ、またその場を積極的に設けた教皇でした。

 2011年10月27日、ローマ教皇「ベネディクト16世」は列車でローマを出発し、アッシジに到着後、「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会(Basilica di Santa Maria degli Angeli) 」に赴き、講話を行う予定です。「真理の巡礼、平和の巡礼」と名付けられており、「世界平和と正義のための考察、対話、祈りの日」となるそうです。1986年10月27日から25週年になることを記念したいというベネディクト16世の意向によるもののようです。


     (サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のファサード上部で金色に輝くマリア像)

 その日の午後、サン・フランチェスコ大聖堂への巡礼が始まります。この巡礼は、「熱心に平和を求め、正義と平和の構築に取り組むすべての人の歩み」を象徴するのだそうです。巡礼は、ひとりひとりが祈り、黙想を行うために、沈黙のうちに行われます。サン・フランチェスコ大聖堂に至ると、その前で、「世界平和と正義のための考察、対話、祈りの日」の締めくくりとして、平和のための共通の約束がなされる予定です。

 聖フランチェスコの精神をよく伝える祈りであるとされる「平和の祈り」は、聖パウロ女子修道会のページ「祈りのひととき」によると、次のようなものです。

○○○神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
○○○憎しみのあるところに愛を、諍いのあるところに赦しを、分裂のあるところに一致を、
○○○疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
○○○闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
○○○慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、
○○○愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
○○○わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからからゆるされ、自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。


 「ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ(Pietro di Bernardone)」とその妻「ピカ(Pica)」の息子として、1182年(1181年という説もある)、アッシジに生まれた「ジョヴァンニ(Giovanni)」は、父親からは「フランチェスコ(Francesco)」と呼ばれていました。

 裕福な商人の家庭に育ったフランチェスコは、放蕩な生活を送ったのですが、あるとき、騎士になろうとして、対ペルージャ戦に参加します。しかし、捕虜になり、父親が支払った賠償金で解放されます(1203年)。挫折を味わうことになったのです。

 フランチェスコは丈夫な身体には恵まれてはいませんでした。1年あまり牢獄に繋がれていた間に身体を壊し、解放されてアッシジに戻ってからも療養生活を送らざるを得ませんでした。それでも、騎士になる夢を捨てきれず、病が癒えると今度は教皇軍のシチリア王国遠征に参加します。しかし、アッシジから南へ60kmほどしか行かない「スポレート(Spoleto)」で、再び病を得ます。


           ((4)フランチェスコ、教会改革の使命を受ける)

 帰郷したフランチェスコは、1206年、「サン・ダミアーノ教会(Chiesa di San Damiano)」の十字架から「早く行って私の壊れかけた家を建て直しなさい。」との声を聞き、教会の修復を始めます。次第に互いを兄弟と呼ぶ同志が増えていき、「小さき兄弟の修道会」(Ordo fraterorum minororum)と名乗ることになります。


            ((23)クララ修道会の修道女たちの最後の別れの挨拶)

 フランチェスコは死期が迫っているのを知ると、弟子の修道士たちにポルツィウンコラに自分を運ばせます。1226年10月3日、ポルツィウンコラの裏の「トランジト礼拝堂(Cappella del Transito)」でフランチェスコが亡くなると、その亡骸は、木の枝に載せられて、アッシジの町に運ばれます。アッシジの町では、キアラや他の修道女たちが待っていました。

 「ファヴァローネ・ディ・オフレドゥッチオ(Favarone di Offreduccio)」とその妻「オルトラーナ(Ortolana)」の娘として、アッシジで生まれた「キアラ(Chiara、クレア(Clare)、クララ(Clara)とも)」は、フランチェスコの活動を知るようになります。18歳になると(1212年)、キアラは家を出て、フランチェスコの力をかりて、信仰生活に入ります。キアラは、聖フランチェスコに最初に帰依した者の一人であり、フランチェスコ会の女子修道会「クララ会(清貧の女性修道会)」の創始者ともなります。




 どうも話にまとまりがなく、拡散していきます。キリスト教徒でない私は、調べて知ったことをすべて書いてしまいたくなります。でも、今回のテーマは「サン・フランチェスコ大聖堂」でした。大聖堂は、上下2層に分かれ、上の聖堂(大聖堂上堂)には、ジョットの作と推定される「聖フランチェスコ伝」という28枚の連作フレスコ画が描かれています。その4枚めと23枚めを紹介しました。次回は、拡散しないように、ジョットの連作フレスコ画について記事を書いて見たいと思います。

(参考) 「「イタリアで」 - パドヴァの聖アントニオとアッシジの聖フランチェスコ
 
                (この項 健人のパパ)

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 “indulge”という語があります。他動詞としては、「甘やかす、大目に見る」という意味があります。その名詞形が“indulgence”で、「甘やかし」という意味になります。“indulgence”はまた「免償(めんしょう)」という「訳」も持ちます。「免償」とは、「償い(つぐない)」を「免ずる」ことで、「犯した罪などに対して、金銭、品物または何らかの行為で埋め合わせをすること」を「本人の功労や事情、また関係者の面目やとりなしなどによって、しなくてもよいことにすること」でしょう。

 カトリック教会では、洗礼を受けた後に犯した罪(sin)の「赦し(ゆるし、penance)」を得るためには、3つの段階を踏まなければならないようです。まず、犯した罪を悔いて反省すること(後悔)、次に司祭(priest)に罪を告白すること(告白)、そして罪の赦しに見合った償いをすること(償い)の3つです。償いの内容については、司祭から「償いとして~」と言われるようです。昔は、長期にわたる償いも命じられていたようです。やがて、その償いを免除したり、期間を短くしたりすることが行なわれるようになります。それが、「免償」の始まりだったのです。まさに“indulgence”だったのかも知れません。「大目に見てもらう」のです。

 人格を持たない遺伝子は、地球が形成されその上に生命が誕生したときから地球自体が消滅するまで永遠に続いていくものです。その遺伝子を運ぶ私たちには人格があり、また尽きる命を持っています。「命が尽きたとき、その先は?」と宗教心を持つ私たちは考えます(仏教では「来世思想」です)。敬虔な「カトリック教徒」は、この世において「償い」を成し遂げないまま死んでしまうと、次の世でその分、苦しまなければならないと信じています。「全免償」(完全な免償。一部免除されるものは「部分免償」)を受ければ、「償い」を成し遂げたことと同等となるのです。



 免償を受けるためには、種々のことを行なわなければなりませんが、その中の一つに、「指定された大聖堂、教会堂、巡礼地へ巡礼する」というのがあります。「アッシジ(Assisi)」の「ポルツィウンコラ(Porziuncola)」は、「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂(Basilica di Santa Maria degli Angeli、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会)」の中にある小さな礼拝堂ですが、「全免償」を受けられる礼拝堂です。

 この「アッシジの赦し」を受けるためには、いくつかの条件があります。免償は、自分自身のためであるか、死者のためでなければなりません。生存している他者のためには受けることはできません。まず、期間が限定されていて、7月26日から8月9日(8月2日を挟んで前後8日間)に「赦しの秘跡」に与らなくて(あずからなくて)はいけません(「秘跡(sacrament)」とは具体的には「儀式」のこと)。具体的には、その期間に司祭に罪を告白する必要があるわけです。「神の恩寵に与っている状態」であることが必要なようです。

 つぎにミサに参加し、聖体拝領に与ることが必要となります。「ミサ(イタリア語:messa、英語:mass)」は、カトリック教会で、信徒が参加して、司祭が執り行う儀式です。「聖体拝領」では、信徒は口に授けられる「ホスチア(英語:host、ラテン語:hostia)」という無醗酵の薄いウエハース(unleavened wafer)をいただくようです。さらに、「聖杯(カリス、charice)」に入れられた、水で薄めたワインを飲むか、それに「ホスチア」を浸していただくようです。

 次に、例えば、ポルツィウンコラを訪れて、いくつかの祈りを唱えることが必要になります。まず、「私は信じます。唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべての物の造り主を。、、、」と信条を唱え、「天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。御国が来ますように。、、、」と主の祈りを唱えることなどが行なわれます。

 アッシジのフランチェスコが生きた時代、「罪の赦し」を得るためには、巡礼に出かける必要がありました。その赴く先は、「エルサレム」。いまとは異なり、それは危険を伴う長い長い旅であったことでしょう。巡礼者は聖地の教会に寄付をするお金を持っていたでしょうし、当然旅費も持っていたでしょう。強盗の格好の標的になったことは想像に難くありません。その道程で、信者は一層宗教心を深めていったことでしょう。

 フランチェスコは、1216年、ローマ教皇「ホノリウス3世(Honorius III、在位1216年~1227年、キリスト教の布教のためドミニコ会やカルメル会を承認し、フランシスコ会の会則を認可した)」を滞在していた「ペルージャ(Perugia)」に訪ねます。フランチェスコは、教皇に、「ポルツィウンコラに詣でた者は、罪の赦しが得られると宣言して欲しい」と訴えます。

 フランチェスコが布教の対象としたのは、「貧しい人たち」でした。当然、貧しい人たちには聖地に巡礼に行く費用が工面できるわけもありません。日々の糧を得るのも困難だったはずです。その者たちを救うために、フランチェスコの願いは必然でした。しかし、その願いを聞き入れることは、罪の赦しを得るハードルが極端に引き下げられることになります。



 教皇を囲む枢機卿たちは大いに反対したことでしょう。しかし、フランチェスコの願いを教皇は聞き入れます。ただし、ポルツィウンコラの献堂記念日にあたる8月2日という1年に1度だけという限定がつけられたようです。「竣工(しゅんこう)」という言葉があります。「工事が竣わる(おわる)こと」で、建築工事や土木工事が完了することをいいます。キリスト教では、「竣工」という言葉を使わず、「献堂」と言います。

 ポルツィウンコラは、フランチェスコが建てたものではありません。ベネディクト会の修道院から、フランチェスコが布教を始めて間もない頃(1208年頃)に譲り受けたもので、ナラの木が生い茂る森の中に朽ちるに任せて放置されてあったものです。それをフランチェスコは祈りの場として自分で修復していったようです。8月2日の献堂記念日とは、修復が完成した日を言うのでしょうか。

(参考) 「「アッシジで」 - 「ポルツィウンコラ(Porziuncola)」を見ずに帰るなんて

 アッシジを訪れたら、「ポルツィウンコラ」は必見だと考えますが、ここはカトリック教徒の祈りの場。カトリック教徒でない観光客は、充分すぎる配慮を見せなくてはなりません。この配慮のできない者は訪れるべきではないとすら考えます。

 この事情を知らなかった、ということのないように、ポルツィウンコラを見ることを勧めている私は記事を書いてみました。実際、私が訪れたときも、カトリック教徒の真摯な雰囲気が感じられて、遠巻きでポルツィウンコラを見ることしかできませんでした。

                (健人のパパ)

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 昔、洋の東西を問わず、戦いでは「旗(はた)」が立てられました。棒の先にくくられ風に翻る数多くの旗は、戦いの雰囲気を盛り上げます。混乱する戦場では、自隊のいる場所を知る「標(しるべ)」となります。ヨーロッパ中世の騎士は、戦いのとき、小隊の隊長は馬上槍(ランス、lance)の先に二等辺三角形や先端が燕尾状(さらにフォーク状のものも)になった旗「ぺノン(pennon)」を、また、中隊の隊長は台形になった旗「バナー(banner)」をつけていました。

 戦国時代、武田信玄が「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)」と記された「旗指物(軍旗)」を用いたことはよく知られています。赤壁の戦いを扱った中国映画「レッドクリフ」では無数の旗が翻るさまを見ることができます。

 数が多いことを「八」という数字で表すことができます。「八幡(やはた)」は「八旗」であり、「数多くの旗」を意味します。日本の「神」には、旗を「憑代(よりしろ)」として依り憑く(よりつく)「誉田別命(ほんだわけのみこと)」がいます。誉田別命は、武士から武運の神「武神」として崇められていました。それを祭っている神社が「八幡宮(はちまんぐう)」です。

 京都府の南部にある「八幡市(やわたし)」の「男山(おとこやま)」の山頂に神社「岩清水八幡宮」があります。陰陽道では、鬼が出入りする「艮(うしとら、北東)」の方角である「鬼門」は「延暦寺」が護っているのに対し、「坤(ひつじさる、南西)」の方角にあたる「裏鬼門」を守護するのは岩清水八幡宮です。

 岩清水八幡宮の境内は、山上の「上院」と山麓の「外院」に分かれます。上院には、岩清水八幡宮の本殿があり、外院には、「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」を祭る「高良神社」などがあります。本社に縁故の深い神を祀った小規模な神社を「摂社(せっしゃ)」といいますが、高良神社は摂社にあたります。

 鎌倉時代から室町時代にかけての歌人であった吉田兼好が著した「徒然草」の第52段に「仁和寺にある法師」があります。

 「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
 さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。


 (高齢になるまで石清水八幡宮に参拝したことがないのを情けないと思った僧が思い立って、独りで歩いて参拝に行った。麓の八幡宮付属の寺や社を拝んで、これだけのものと思い込んで、帰って来た。そして、仲間の僧に向かって次のように言った。「長年思い続けて来たことをやっと果たせました。八幡宮は噂に聞いていたより凄くて、実に尊いものでした。それにしても、参拝の人たちがみな山へ登って行ったのは、山の上にどんなことがあったのでしょうか。行って見たかったのですが、神社へ参拝するのが本来の目的なのだと思ったので、山の上までは見ませんでした。」
些細なことでも、それに詳しい人を知っていたいものである。)

 アッシジについては、「フランチェスコの生誕の地、アッシジという丘陵の街へ」、「“Sulga”社のバスで、ローマからアッシジ(Assisi)へ」、「アッシジ(Assisi)の旧市街にローマからアクセスするには」、「アッシジの住民の足、apm社のバスで旧市街を巡るには」、「城砦「ロッカ・マッジョーレ」からはアッシジの町が見渡せます」という記事を書いてきました。そのあらまほしき「先達(せんだち)」になれるでしょうか。

 「ローマ(Roma)」から「アッシジ(Assisi)」に行くには、鉄道駅、地下鉄駅、長距離バスのターミナルのある「ティブルティーナ駅(Stazione Tiburtina)」にまず行く必要があります。そこから“Sulga”社のバスでは3時間ほど、イタリアの鉄道“Trenitalia”では2時間ほどでアッシジに着くことができます。バスは「旧市街」に、列車は「新市街」に着きます(新市街からはローカルバスで旧市街に行けます)。



 アッシジは、ウンブリア平原に浮かんだ2つの地域からなっています。1つは「旧市街」で「スバシオ山(Subasio)」の西の中腹に楕円形に広がっています。「サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)」を主なものとして、「サンタ・キアーラ修道院(Basilica di Santa Chiara、サンタ・キアラ修道院)」などの関連修道施設群があります。

 もう1つは旧市街の南西に5kmほど離れて、「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂(Basilica di Santa Maria degli Angeli、サンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ聖堂)」周辺に広がった「新市街(Frazione Santa Maria Degli angeli、分離集落サンタ・マリア・デリ・アンジェリ)」です。

 イタリアの鉄道「トレニタリア」の「アッシジ」駅から踏切を渡って南に徒歩で10分ほど、バスならば2分ほど(30分に1本の運行なので、駅からは歩いた方がよい)のところに聳え立つ「サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂(サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会)」は、大きなドーム(「クーポラ(cupola)」)を持つ教会で、アッシジのほとんどのところから見えます。

 サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会は、その当時のアッシジの町(現在の旧市街)から遠く離れた平原にぽつんとたたずむ小さな小さな(どれぐらい小さいかというと、「6畳間」ほど)礼拝堂だった「ポルツィウンコラ(Porziuncola)」というお堂を保護するために、建てられたものなのです。


       (アッシジの土産物屋で売られている「ポルツィウンコラ」)

(YouTubeで、ポルツィウンコラはご覧になれます。→ここをクリック

 ポルツィウンコラは、わずかな土地(“small portion of land”)を意味するのだそうで、フランシスコ会の創設者「ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Bernardone、アッシジのフランチェスコ)」がベネディクト会の修道院(the Abbot of St. Benedict of Monte Subasio)から譲り受けたものです。

 フランチェスコが布教を始めて間もない頃(1208年頃)に譲り受けたときには、ポルツィウンコラはナラの木が生い茂る森の中に朽ちるに任せて放置されてあり、それをフランチェスコは祈りの場として自分で修復していったようです。活動の場をやがてほかに移していたフランチェスコは死期が迫っているのを知ると、弟子の修道士たちにポルツィウンコラに自分を運ばせます。

 1226年、フランチェスコが亡くなる(ポルツィウンコラの裏に「トランジト礼拝堂(Cappella del Transito)」があり、そこでフランチェスコは亡くなったようです)と、修道士たちはポルツィウンコラの周りに小さな小屋を立てて住み始めます。数年後には「食堂(refectory)」なども建てられたそうです。「ポルチコ(portico、前廊、柱で支えられた屋根つきの玄関)」や宿泊設備も備えられていったようです。



 やがて、アッシジのポルツィウンコラには巡礼者が数多く殺到するようになり、彼らを収容するにはあまりにも小さいということになります。ポルツィウンコラを収容する教会堂の建設の必要性が認識されるようになり、カトリック改革を推進したローマ教皇「ピウス5世(Pope Pius V、1566~1572)」はその建設を命じ、1569年3月25日に着工することになります。

 アッシジで「ポルツィウンコラ(Porziuncola)」を見ないのは、高良神社に行っておきながら、八幡宮を見逃すようなものと言えるのかも知れません。

              (この項 健人のパパ) 

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 イタリアを国として「イタリア(Italia)」と呼べるようになったのは、長いイタリアの歴史から見るとごく最近のことです。1861年に「トリノ(Torino、1865年にフィレンツェに遷る)」を首都として、現在の「イタリア共和国(Repubblica Italiana)」のほぼ全土(ヴェネト州は1866年に、教皇領は1870年に併合)を領域とした「イタリア王国(Regno d'Italia)」が成立したのです。

 150年前の3月17日、イタリア議会において、「サルデーニャ王国(Regno di Sardegna)」の王、「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II)」がイタリア王国の成立を宣言したことから、今年(2011年)はイタリアの各地で、式典や関連イベントが開催されています。

 イタリア王国が「ローマ(Roma)」を占領し首都と定め、教皇領が完全に消滅した1870年(普仏戦争に敗北したフランスが、守護していたローマ教皇領から撤退)から遡ること700年以上前の1182年(異説あり。1181年とするものがある)、「アッシジ(Assisi)」の町に、後にフランシスコ会を創設したカトリック修道士「フランチェスコ(Francesco d'Assisi)」となる「ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Bernardone)」が誕生します。

 織物商人を家業としていた裕福なベルナルドーネ家に男の子が生まれます。母親ピカ(Pica)は「ジョヴァンニ(Giovanni、ヨハネ)」という名でこの男の子に洗礼を受けますが、取引のために、特にフランスによく赴いていた父親ピエトロ(Pietro)は誕生した男の子を「フランチェスコ(Francesco、フランソワ)」と呼びました。父親がそう呼んだため、周辺もそれに倣ったといいます(異説あり)。

 1152年に神聖ローマ皇帝となった「フリードリヒ1世(Friedrich I. Barbarossa、赤髭王)」は、「コムネ(comune)」と呼ばれる都市国家に分裂しているイタリアにしばしば進駐し影響力を行使しようとします。コムネは神聖ローマ皇帝やローマ教皇からある程度の独立を得ており、多くは防衛のために町を城壁で囲んでいました。支配を強化しようとする神聖ローマ皇帝やローマ教皇との間で対立・抗争を繰り広げた時代にフランチェスコは生まれたのです。

 神聖ローマ帝国(Sacro Romano Impero、962年~1806年)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部などを領土としていた国家です。800年12月25日のミサで、ローマ教皇レオ3世(Papa Leone III)は、現在のフランス・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・イタリア北部などを領土としていた「フランク王国(Regno dei Franchi)」の国王「カール大帝(Carlo Magno)」に、「ローマ皇帝」として帝冠を授けます。

 このフランク王国は843年、西フランク王国(→フランス)、中フランク王国(855年再分割)、東フランク王国(→ドイツ)の3つに分割されます。962年2月2日、ローマ教皇ヨハネス12世(Johannes XII)は、東フランク王国の国王「オットー1世(Otto I)」に、「ローマ皇帝」として帝冠を授けます。世界史の一般的な学説は、この時をもって神聖ローマ帝国の誕生としています。

 フランチェスコが青年期を迎える頃、アッシジの町の貴族層(Boni homines)は神聖ローマ帝国と結びつき、勃興する商人層を中心とする市民層(homines populi)はローマ教皇側につき、両者のあいだで抗争が続いていました。フリードリヒ1世によってアッシジの統治者に任命されたスポレート公「ウルスリンゲンのコッラード(Corrado di Urslingen、Conrad of Urslingen)」と貴族層は、抗争に破れ、アッシジから追い出されます。アッシジは市民層が権力を掌握し、コムネを宣言することになります。

 

 時代を行ったり来たりしたので、話に収拾がつかなくなりました。アッシジの町の一番高いところの丘の上に立つ「ロッカ・マッジョーレ」の映像をお見せして、ロッカ・マッジョーレの話題は仕切りなおしにさせて下さい。

               (この項 健人のパパ)

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