150年前の3月17日、イタリア議会において、「サルデーニャ王国(Regno di Sardegna)」の王、「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II)」がイタリア王国の成立を宣言したことから、今年(2011年)はイタリアの各地で、式典や関連イベントが開催されています。
イタリア王国が「ローマ(Roma)」を占領し首都と定め、教皇領が完全に消滅した1870年(普仏戦争に敗北したフランスが、守護していたローマ教皇領から撤退)から遡ること700年以上前の1182年(異説あり。1181年とするものがある)、「アッシジ(Assisi)」の町に、後にフランシスコ会を創設したカトリック修道士「フランチェスコ(Francesco d'Assisi)」となる「ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Bernardone)」が誕生します。
1152年に神聖ローマ皇帝となった「フリードリヒ1世(Friedrich I. Barbarossa、赤髭王)」は、「コムネ(comune)」と呼ばれる都市国家に分裂しているイタリアにしばしば進駐し影響力を行使しようとします。コムネは神聖ローマ皇帝やローマ教皇からある程度の独立を得ており、多くは防衛のために町を城壁で囲んでいました。支配を強化しようとする神聖ローマ皇帝やローマ教皇との間で対立・抗争を繰り広げた時代にフランチェスコは生まれたのです。
神聖ローマ帝国(Sacro Romano Impero、962年~1806年)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部などを領土としていた国家です。800年12月25日のミサで、ローマ教皇レオ3世(Papa Leone III)は、現在のフランス・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・イタリア北部などを領土としていた「フランク王国(Regno dei Franchi)」の国王「カール大帝(Carlo Magno)」に、「ローマ皇帝」として帝冠を授けます。
フランチェスコが青年期を迎える頃、アッシジの町の貴族層(Boni homines)は神聖ローマ帝国と結びつき、勃興する商人層を中心とする市民層(homines populi)はローマ教皇側につき、両者のあいだで抗争が続いていました。フリードリヒ1世によってアッシジの統治者に任命されたスポレート公「ウルスリンゲンのコッラード(Corrado di Urslingen、Conrad of Urslingen)」と貴族層は、抗争に破れ、アッシジから追い出されます。アッシジは市民層が権力を掌握し、コムネを宣言することになります。