POWERFUL MOMが行く!
多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 




 フランス中東部のアルザス地方のドイツ語の方言に「アルザス語(Alsatian、アルセイシャン)」があります。そのアルザス語に“Kut'zig”という語があり、それは「頭をむき出しに、帽子を被らずに」(bareheaded)という意味があるそうです。“Kut”はドイツ語の“Hut”(帽子)と関連があるのでしょうね。


 アルザス地方にはワインの銘醸地を巡ってくれる乗り降り自由のホップオンバス“Kut'zig”があります。この命名は、「髪に風を受けながら、ブドウ園を巡る」(The Kut'zig will get the wind in your hair while you're exploring the best of the vineyards!)ということなのだそうです。つまり、雨が降っていなければ、バスの天井を開け、オープントップ(open-top bus)になるということです(私たちが乗ったときには、降ったり止んだりで、開くことはありませんでしたが)。



                     (エギスハイム(Eguisheim、エギスアイム)のバス停前のKut'zig)

 このホップオンホップオフバスには、時計回り(B CIRCUIT)と反時計回り(A CIRCUIT)のコースがあります。A CIRCUITは、コルマール駅前(COLMAR Gare)→COLMAR Place Scheurer Kestner→リボヴィレ(RIBEAUVILLÉ Gare Routière、リボーヴィレ)→HUNAWIHR Parc NaturOparC→リクヴィール(RIQUEWIHR Poste、リクビール、リクビル)→ケゼルスベール=ヴィニョーブル(Kaysersberg-Vignoble、カイゼルスベルク)→テュルクアイム(TURCKHEIM Porte de France、テュルクハイム)→エギスアイム(EGUISHEIM Place de Gaulle、エギスハイム)→VOEGTLINSHOFFEN→コルマール駅前(COLMAR Gare、下車のみ)→COLMAR Place Scheurer Kestner(下車のみ)と巡ります。1周するのに2時間15分ほどかかり、また現在は3時間おきの運行なので、A CIRCUITに再度乗るにはコルマールからは45分ほど待つことになります。



 その歴史が400年ほど前の1626年に遡り、13代にわたって続いてきた家族経営のワイナリー「トリンバック(Trimbach)」は、リボーヴィレにあります。トリンバックは、ワインインポーターのENOTECA(アサヒグループ)が日本では扱っています。



 アルザスのワインメーカーに「Famille Hugel」(ファミーユ・ヒューゲル)があります。wikiによると、ヒューゲルはその生産するワインの80%近くを輸出に振り向けています(Hugel is highly export-oriented, with almost 80 percent of the wines produced being exported.)。日本の輸入代理店は「ジェロボーム株式会社」です。ジェロボームの主要株主は、ファミーユ・ヒューゲル社、ファミーユ・ペラン社ポル・ロジェ社で、家族経営のワイナリーを専門に扱う日本のワインインポーターです。ヒューゲルは、毎年200万以上もの人々が訪れる美しい街リクヴィールの旧市街の中心にセラーとテイスティング・ルームを構えています。



 私は、2017年5月27日にコルマールに一人でやってきて30日に夫と合流するためにバルセロナに移動するまでいました。そのときに訪れたワイナリーの一つがヒューゲル。リクヴィール(Riquewihr)にあります。今回は夫も一緒の再訪になりました。前回はこの“Kut'zig”がまだ運行していず(new way to visit the heart of the Alsace wine route))、宿泊ホテルでアドバイスをもらい、旅行案内所で尋ねて106番のバスでやって来ました。



 “Kut'zig”は、コルマール駅前からスタートします。コルマール駅前のバス停は駅出口の左側と右側の2か所にあって、“Kut'zig”の乗り場は駅出口を背にして右側にあります。106番のバス停も右側にあります。ちなみに、私たちはスイスのバーゼルから、長距離バス“flixbus”で移動してきましたから、コルマール駅前に到着したのは左側のバス停でした。



 “Kut'zig”の運行は、7月、8月、9月は、水曜日から日曜日までと祝日。シーズンの始まる6月とシーズンの終わる10月初旬は、金曜日から日曜日までと祝日のみとなります。10月中旬から5月までは、“Kut'zig”の運行はなく、この時期は106番のバス(時刻表は、こちら(PDF)から)を利用することになります。また、シーズンでも7・8・9月の月曜日・火曜日(祝日を除く)、6月と10月初旬は、月曜日から木曜日(祝日を除く)も106番のバスを利用することになります。このバスも日曜日の運行はありません。



                     (リクヴィール(Riquewihr)のバス停前の106番のバス)

 106番は、Colmar を 7:00、7:40、11:10、12:10、14:10、16:10、17:10、(18:10、19:10)に出て、Riquewihr におよそ 30分後に到着し、さらにおよそ 10分後に Ribeauvillé に到着します。Ribeauvillé からは、(6:00、6:40、7:55)、9:00、13:00、15:10、17:00、18:20 のバスを利用して Colmar に戻ってくることになるでしょう(時刻表は、2019年10月現在)。



          (“Scol.”とあるのは、学校休業日には運行しません(fonctionne UNIQUEMENT en période scolaire))

 Colmar - Ribeauvillé 間を往復するには、“TICKET DUO”(Billet Duo(Un aller retour dans journée)、往復切符、その区間では乗り降り自由)を手に入れることになります。バス運転手から現金で買い求めます。2人用の“2 PASSENGERS”で14.00€しました(料金は、2019年9月現在。1€=120円で換算すると、一人当たり840円)。



            (感熱紙に印字されたもので、乗るときに提示します)

 “Kut'zig”は、一人当たり15.00€でした(料金は、2019年9月現在。1€=120円で換算すると、一人当たり1,800円)。



            (感熱紙に印字されたもので、QRコードで管理されていますので、読み取り部分にかざします)

     (この項、未完)


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 昔、TBSテレビで大橋巨泉氏が司会を務める「クイズダービー」という番組がありました。その回答者のひとりに珍回答をすることの多い篠沢秀夫学習院大学教授がいました。レギュラー回答者を11年間(1977年~1988年)続けました。


 篠沢秀夫教授はフランスのワイン産地を巡る旅を「ワインの里の物語」に著しています(2000年)。1996年8月末から9月にかけてのブルゴーニュ・プロヴァンス・ツアーと1998年9月始めのボルドー・ガスコーニュ・ラングドック・ツアーをメインとして、1991年6月のフランス政府観光局の委嘱を受けてのガスコーニュ地方旅行、9月のボーヌでの講演、11月のボーヌのワイン祭への参加(このとき、1年間フランスに滞在していた)、1996年3月の「ブルゴーニュ・ワインの騎士団」叙任式への参加の経験を基に記述しています。



 妻「あみ」と私は北イタリアを巡った後に、2018年10月22日にフランス、リヨン(Lyon)へとやって来ます。ボーヌ(Beaune)を起点としてブルゴーニュ地方を1週間ほど見て廻ることになります。29日リヨンからボルドー(Bordeaux)に飛びます。ボルドーには数日の滞在です。滞在日数の少なかったボルドーについて、篠沢教授の「ワインの里の物語」を参考にボルドー・ワインとその周辺を勉強してみることにします。


 今回の旅行は、北イタリア、ピエモンテ州のアルバ(Alba)という街で行われる「白トリュフ祭り(Fiera di Tartufo Bianco)」(10月6日から11月25日まで)の会期中の土曜日と日曜日に開催される「白トリュフマーケット(Mercato Mondiale del Tartufo Bianco d‛Alba)」を見学して、フランス、パリのポルト・ドゥ・ヴェルサイユ見本市会場(Paris Expo Porte De Versailles)で行われる世界最大のチョコレートの祭典「サロン・デュ・ショコラ(Salon du Chocolat)」(10月31日から11月4日まで)に行き、その間にブルゴーニュ地方とボルドー地方にも行こうというもの。


 成田からコペンハーゲン経由でミラノ(Milano)に入り、バスでトリノ(Torino)に移動し、そこからアルバへ。バローロ(Barolo)を訪れ、白トリュフ祭りを見る。ブラ(Bra)を訪れ、ラ・モッラ(La Morra)のレストランで白トリュフを賞味し、トリノに戻り、街を散策。アスティ(Asti)からバルバレスコ(Barbaresco)に往復、ピアチェンツア(Piacenza)、パルマ(Parma)、ヴェネツィア(Venezia)からリヨンへ。この目まぐるしいスケジュールを組んだために、ボルドー滞在の日数が激減。ボルドー滞在の主たる目的がワイン博物館(La Cité du Vin)とサンテミリオン(Saint-Émilion)だけになってしまいました。



 何とも残念なので、篠沢教授の「ワインの里の物語」の記述を頼りに彼の体験をこのblogで追体験をしようというのです。では、ボルドーの街を紹介する彼の記述で今回は終わりにします。




 ボルドーは深く長い入り江の奥の港である。近代の巨船はもはや入れない。その石造りの船着場は広い川に面す。ジロンド河は大西洋に注ぐまでまだ60キロも流れなければならない。道幅も広い。その道の内陸側に立ち並ぶ4階や5階の建物は主に18世紀のものだ。パリの中心地が19世紀半ばのオスマン計画でできているのは名高いが、一目であの古いパリよりさらに古いのが分かる。それでいて皆現に使っているのがゆかしい。ある角に大きな建物が広場を前にして立つ。まわりには高層近代ビルはないから雲流れる青空に堂々と聳えている。昔の税関、今の博物館だ。また、河を背にしてゆるやかに上る広大な道がある。両側の建物はいずれも由緒を感じさせるが、とりわけやがて右側に坂の上まで続く巨大な石積みの建物が目立つ。グラン・テアートル(大劇場)である。坂の上が広場となり、それに面して正面玄関がある。1780年完成の大建築だ。これが百年後にパリのオペラ座の模範となったといわれる。 (近代文芸社刊「ワインの里の物語」より)


 画像は、グラン・テアートル(Grand-Théâtre de Bordeaux)の道路を隔てた向かいにあるメゾン・ジョルジュ・ラルニコル(Maison George Larnicol)のショーケース。ブルターニュ、カンペール(Quimper)生まれのショコラティエ「ジョルジュ・ラルニコル」のお店です。フランスでは20店舗以上展開されているようです。M.O.F.(Meilleur Ouvrier de France、フランス国家最優秀職人賞)の称号を持っているそうです。妻「あみ」からは歴史的建造物より、「食」に関するものの方がよい、ということでこの画像になりました。




                          (この項 健人のパパ)



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 2012年7月30日、イギリスの「フィナンシャル・タイムズ(The Financial Times)」が「オリンピックがロンドンをゴーストタウン化させている(Games turn London into‘ghost town’)」という記事を載せています。

 オリンピックのせいで、観光客がロンドン市内の小売店やホテル、劇場などに足を運んでいないというのです(visitors who would normally flock to the capital's shops, hotels and theatres stay away)。そのために、ロンドンの都心部が「ゴーストタウン」化しているそうです(The Olympics is creating a“ghost town”effect in central London)。

 オリンピックが短期的な景気浮揚効果をもたらすという予想には疑問が呈せられたことになるようです(casting doubt on expectations of a short-term economic boost from the games)。しかし、「2012年、ロンドンを訪れる外国人観光客は、オリンピック開催のせいで減少するかもしれない」という別の予測も1年前にはされていました。

 過去の経験からみて、オリンピック開催で必ずしもその年度の外国人観光客が増えるとは限らないようなのです。北京オリンピックが開催された2008年に中国を訪れた外国人観光客は2007年より2%少なかったそうです。しかし、オリンピックで世界的に注目されることから、翌年以降外国人観光客が増加することはあるようです。

 ロンドンは、2010年の統計によると、年間1,470万人の外国人観光客が訪れたそうです。



 フィナンシャル・タイムズの記事は続けます。「オリンピックはすでにロンドンに外国人観光客を10万人も惹きつけた(The games have attracted as many as 100,000 foreign visitors to London)」が、「通常の年ならば、推定30万人が来ていたはずだ(the estimated 300,000 foreign tourists who could be expected in a typical year)」と言います。この30万人という見積もりがどの期間で得られるかが分からない表現です。

 ロンドンオリンピックは、2012年7月27日から8月12日まで開催されます。17日間です。ロンドンを訪れる1470万人を365日で割ると、およそ1日に4万人が訪れていることになります。単純な思考ですが、これに17日を掛けると68万人が得られ、この「30万人」がオリンピック開催期間中の外国人観光客数を指さないだろうことは想像がつきます。

 では、27、28、29、30日の4日間を指すのでしょうか。ならば、16万人です。それともこの記事を書いた記者は、日々の観光客数に関する詳細なデータを持っており、そこから、この時期の4日間の観光客数を30万人と割り出したのでしょうか。

(8月4日追記) 8月2日のAFP配信の記事によれば、ロンドンを8月に訪れる外国人観光客は、毎日30万人に達するそうです(国内観光客は80万人)(London has approximately 300,000 foreign and 800,000 domestic visitors every day in August.)。これが正しいとすると、ロンドンは8月だけで、900万人ほどの外国人観光客を集めることになります。それが、激減しているとすれば、政治的に問題になりそうなほど、観光業にとって大打撃となります。

 ロンドンは、人気の観光地としての魅力を失ったわけでは決してありません。ロンドンを訪れたいと考えている人たちは、ロンドン市内の混雑とホテルの宿泊料金の高騰を避けるために、8月を避け、オリンピックとその後に続くパラリンピックも終わる9月まで旅行を先延ばしにしているようなのです(Many holidaymakers are meanwhile delaying their trips to London until September, following the end of the Olympics and Paralympics. ※holidaymaker(vacationer)=休日の行楽客)。ホテルの宿泊料金が高騰しているのなら、何もその時期ではなくてもよいと考えるのは消費者としては賢いと言えます。(追記終わり)

 ロンドンオリンピックでの客足の増加を予想して、ホテルは宿泊料金を大幅に上げたといいます(The hotels put up prices heavily earlier in the year)。そのために、大手のツアー主催者の中には手を引いたところもあったようです。このことを聞くに、一攫千金を夢見た観光業者の自業自得の面もありそうです。

 「オリンピック開催期間中のロンドンのホテルの宿泊料金は6月中の2週間で25%ほど下落した(prices in London during the Olympics had fallen around 25 per cent in a two-week period in June)」と言います。ロンドンに行くのは今なのでしょうか。時間とお金があれば、行きたいところです。いや、待てよ。25%下落といっても、通常よりなのか、上昇した宿泊料金からなのか、調べてからがよさそうです。

               (この項 健人のパパ)

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 ベルギー(Koninkrijk België、Royaume de Belgique、Königreich Belgien)は、いま政治的混乱の中にいます。オランダ語系住民とフランス語系住民の対立がその根底にあります。いまから20年ほど前の1993年に連邦制に移行し、オランダ語が公用語の北部のフランデレン地域(Vlaams Gewest、Région flamande、Flämische Region)と、フランス語と一部ドイツ語が公用語の南部のワロン地域(Waals Gewest、Région Wallonne、Wallonische Region)に大きく分かれることになります。

 2011年2月17日、ブリュッセル(Brussels)、ゲント(Ghent)、ルーベン(Leuven)などで、ベルギーの政治的混乱の長期化に抗議するデモが行なわれました。学生ら約5,000人が参加したそうです。2010年6月13日に総選挙が行なわれたのですが、12党が議会に議員を送り込み、単独では政権を樹立できず、各党が連立協議を続けるも合意には至っていません。そのために、前政権が暫定政権として存続したままに、8か月以上が経ってしまいました。

 ベルギーではフライドポテトを「フリット(patates frites)」と呼び、パンの代わりにフリットが料理の付け合わせに用いられます。街角にフリットスタンドが立ち、ベルギー人にとっては主食のようになっているのだそうです。ブルージュの Vlamingstraat 33, Brugge には、2008年4月にオープンした 、世界初の「フライドポテト博物館(Frietmuseum – BruggeAbsolutely incredible! Up until now there was no Frietmuseum in the whole world, which means that the Frietmuseum in Bruges is the first and only museum dedicated to potato fries.)」があります。それほど、ベルギー人はフライドポテトが好きなのでしょう。

 2月17日のデモは、23年間続いた政権を崩壊させたチュニジアの民衆蜂起が「ジャスミン革命」(ジャスミンはチュニジアを代表する花)と命名されたのに想を得て、ネットの世界ではベルギー名物の「フリット」から「フリット革命」と命名されたそうです。これで各党が歩み寄り政治的合意に至れば、歴史にその名が刻まれることになるのでしょう。

 私たちはまもなくベルギー、フランス、ポルトガル、スペイン、イタリアとヨーロッパの旅に出かけます。最初に訪れるヨーロッパの都市は、ブリュッセルと「ブルージュ(Bruges、Brugge、ブルッヘ)」。しかし、ブルージュで目的とするのは、「チョコ・ストーリー‐チョコレート博物館(Choco Story, The Chocolate Museum)」で、「フライドポテト博物館」ではありません。我が家では、フライドポテトを口にするのは年間で10回もありません。フライドポテトは油で揚げることから、コレステロール値の高い妻が敬遠しているのです。ベルギーではポテトを2度揚げするようですから、ますます敬遠せざるを得ません。

 デモでは、「分裂反対」を訴える若者に温かいフリットが無料配布されたそうです。他国の政治を揶揄できるほど日本の政治が安定しているとは全く言えませんが、「フリット革命」とではなく、「チョコレート革命」と名付けてもらっていれば、チョコレートを無料配布する列に妻が並んだのではないかと思ったりもします(Together with delicious Belgian chocolate, the Belgian potato fry is certainly the product that is the most characteristic of Belgian culinary expertise.)。どこの国の政治家もその国の将来を見据えて行動するのではなく、分裂志向の政争に走るものなのですね。

 また、マクラが長くなりそうなので、チョコレート博物館の紹介に戻ることにします。

 チョコレート博物館の1階のB室では、チョコレート・カップとその受け皿を見ることができます。スペインでは、チョコレートを飲むときには、「ヒカラ(jicara、“j”はスペイン語では、/h/の音になる)」と呼ばれる分厚いカップを用いたのだそうです。スペインのチョコレートはどろりとしていて、スプーンで一口ずつ飲むのだそうです。その受け皿が特殊な形をしています。カップを受け皿の上に載せて持ち歩いていると何かの弾みでカップをずり落としてしまうことがあります。それを防ぐための工夫で、「マンセリーナ(mancerina)」という名前を持った受け皿があります。受け皿の中央にカップを納める立ち襟状の輪をつけてあるのです。カップは皿の中央に嵌め込まれて固定され、滑り落ちることはありません。喩えるならば、徳利袴が皿と一体になっている感じです。

 この受け皿を考案したのは、ペルーの総統を1639年から1648年まで勤めた「マンセラ侯爵(Marques de Mancera)」だと言われています。侯爵はパーティで1人の女性がチョコレートの入ったヒカラ(チョコレートカップ)を皿から滑り落として(その当時、カップに持ち手はなかった)、ドレスをチョコレートで汚してしまうのを目撃します。そこで、侯爵は銀細工師に、受け皿の中央にカップが納まるように、固定具をつけたものを作らせます。この受け皿は、マンセラ侯爵の名にちなんで、「マンセリーナ」と呼ばれることになります。1640年頃だったといいます。

 ヒカラとマンセリーナ

 2階のC室では、ココアの木やココア豆について学ぶことができ、3階のD室では、なぜベルギーのチョコレートはこんなにも美味しいのか、なぜチョコレートは身体にいいのか、ベルギーのチョコレートの製造業者の歴史などを学ぶことができるそうです。

 妻は夢を語ります。「日本にもっとチョコレート文化を広げるために、チョコレート博物館を開きたいわね。1階にはコーヒーや紅茶やココアを飲むことができる喫茶店があって、メニューはチョコレートと飲み物のセットね。ココアは、単品で提供し、製菓用のチョコレートから作るの。いろいろな味のココアがあって、ココアって呼ばないで、ショコラ・ショーって呼ぶのね。通りに面して、ボンボンショコラを作るのを実演するブースがあるの。もちろんショップもあって、出来立てのボンボンショコラも並んでいるけど、製菓用チョコレートなどチョコレート材料や道具も手に入るの。チョコレートに関する書籍も豊富に揃えてあるの。喫茶店にはモニターが何台か天井からぶら下がってて、チョコレートに関する情報が字幕入りの映像で常時流れているわけね。2階から博物館で、チョコレートに関する展示物があるのね。ヨーロッパでいまも使われているチョコレートポットなども展示してあり、買うこともできるのよ。喫茶店のメニューに「モリニーヨ」を自分で回して泡立てるのも加えてもいいわね。ヒカラとマンセリーナで出てくるショコラ・ショーもあっていいわね、、、」

 夢は叶わぬものと考えるより、叶うこともあると考えて生きていくことは楽しいものです。夢の実現に備えて、知識を豊富に蓄えるということは必要です。たとえその夢が叶わなかったとしても、夢を見ていた楽しい記憶は残ります。今回のヨーロッパ旅行は、チョコレートを巡る旅になりそうです。

             (この項 健人のパパ)

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 観光で訪れた場所に感激したり、落胆したりすることがあります。多くはそのどちらでもないのですが、期待が大きすぎるとがっかりし、期待以上であるととても嬉しいものです。チョコレート博物館は今回の旅の目的地の「ブリュッセル(Brussels、Brussel、Bruxelles)」の他に、同じく目的地の「ブルージュ(Bruges、Brugge、ブルッヘ)」にもあります。

 Wijnzakstraat 2, Sint-Jansplein, Brugge に「チョコ・ストーリー‐チョコレート博物館(Choco Story, The Chocolate Museum)」はあります。その博物館に関しての「口コミ」によれば、“Don't waste your time and money!”(時間とお金を無駄にしないように。)とそのつまらなさを警告する人もいれば、“This is a good museum for chocolate lovers.”(ここはチョコレートの好きな人にはよい博物館である。)という人もいます。

 しかし、高評価する人も子どもは飽きるから連れて行かない方がよいと言います。チョコレート製造の歴史と過程についての展示をひたすら読む必要があるからだと言います。ならば、英語の読めない人にとっても退屈なものとなるのかも知れません。さらに、以前に別のチョコレート博物館に行ったことがあるのならば、ここに来るのは無駄だとも言います。

 3階にわたって展示があり、多くの部屋を巡り((you must) visit the rooms of the museum)、階段を何段も上り下りしなければならないのも不満を抱く理由になっています。8分間の映画がオランダ語と英語で上映されるのだそうですが、英語の聞き取れる人でもオランダ語での上映時間にあたれば、8分ほど待たねばなりません。さらに、チョコレート製造のデモが行なわれる部屋が狭く、混み合っていると何も見えないのだそうです。タイミングが悪いと次のデモが始まるまで30分ほど待たねばならないこともあるようです。

 ショップもあるのだそうですが、ブルージュの有名店のものがほとんど置いていないという不満も書き込んであります。これに6ユーロ(6.5ユーロとする人もいます)も出すのであれば、チョコレートを買った方がずっとましとまで言います。

 最大公約数で「口コミ」をまとめると、「チョコレート愛好家(chocoholic)」で、どのようにしてチョコレートが作られるのかを知りたい人((you can) talk about chocolate with experts)で、カカオ豆の歴史(a dull history of Cocoa beans)を退屈と思わず、大量にあるテキスト(too much text to read、(you can) consult a vast library containing works on cocoa and chocolate)を読み通すことができて、子どもが退屈するので子連れでなく、階段を何段も上り下りするので高齢でないのであれば、さらにチョコレートがなぜ身体にいいのかの証拠を知りたい人ならば特に、行く価値があるようです(Choco-Story, the Chocolate Museum is a source of data and historical, geographical and botanical information.)。チョコレートをつまむことができるだろうと軽く考えている人に対しては、とてもお勧めできないようです。

 「チョコ・ストーリー‐チョコレート博物館」の入っている「メゾン・ドゥ・クルーン(Maison de Croon)」という建物は、1480年頃に建てられたもののようです。15世紀後半は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)」が活躍を始める時代でした。この建物はもともとはワインを飲ませる居酒屋として建てられたもので、やがてパン、ケーキ、タルトを製造・販売する店になります。20世紀に入ると、職業安定所の本部になったり、警察学校の訓練所になったり、 「ベルギー自治体金庫(Crédit Communal de Belgique、現「デクシア(Dexia)」)」が入ったりしました。

 「チョコ・ストーリー‐チョコレート博物館」1階のA室では、樹高が4m~8mのカカオ豆の木(theobroma cacao、テオブロマ・カカオ、学名)を栽培作物とした人類の歴史が展示されています。カカオ豆の原産地については諸説があり、その1つは、アマゾン川の流域に繁茂していた常緑樹の「カカオノキ」は、人の手によって、「メソアメリカ(Mesoamerica)」へと広がっていったというものです。

 「メソアメリカ」は、メキシコから中央アメリカ北西部にかけての地域で、さまざまな高度文明(マヤ文明、アステカ文明など)が栄えた地域です。メキシコでは最古の文明である(異説あり)「オルメカ文明」の担い手であった「オルメカ族(Olmeca)」が、初めてカカオ豆を栽培した、といわれています。カカオ豆はすりつぶされ、トウモロコシの粉や香辛料などを加えて、水で溶いて、苦い水「ショコラトル」に加工されて、疲労回復に役立つとして、支配階級に供されていたそうです。

 乾燥したカカオ豆を炒って挽いて水で溶かして、唐辛子を入れ、アチョテ(achote、ベニノキの実)という着色料で赤く色をつけ、飲んでいたようです(今のように砂糖やクリームが加えられて、甘くてクリーミーなものになったのはヨーロッパに伝わってから)。

 メキシコは、カカオ豆の生産量では世界第9位の32万5千トン(2008年度)で、第1位の「コートジボアール」の122万3千トンの4分の1ほどです。カカオ豆の原産地はアメリカ大陸なのですが、いまではアフリカが主産地となり、全世界の生産量(359万2千トン)の70%ほど(252万トン)をアフリカが生産しています。

 1階ではさらにチョコレートポット(ココアポット)とチョコレートカップ(ココアカップ)について学ぶことができます。チョコレートポットは、ティーポットやコーヒーポットと同じような形をしていますが、蓋に穴があいています。チョコレートは、泡立てたものを飲んでいたらしく、チョコレートポットの蓋の穴に撹拌棒(Molinillo、モリニーリョ)を通して、それを両手で回し、泡立つまでかきまぜたようです。



 画像は、Pillivuyt(ピリビィ、1818年創業のフランスの業務用食器メーカー)社製のchocolatiere(ショコラティエール、ショコラを作る道具)です。18世紀に銀、銅、錫などの金属製や陶器製のショコラティエールが流行しました。ヨーロッパでチョコレート飲用の習慣が大衆化していく中で、上流階級の道具から、一般庶民の道具へと広がっていったといいます。

 このショコラティエールを使って、本格的な「ショコラ・ショー(Chocolat Chaud、hot chocolate、ホット・チョコレート、ココア)」を作ってみます。まず、ショコラ・ショーの基本的な作り方です。「ヴァローナ(Varlhona))」社の製菓用スイートチョコレート「ピュア・カライブ」150g を細かく刻み、琺瑯鍋に入れておきます。別の鍋で牛乳 300g を沸騰直前まで温め、それを刻んだチョコレートに少しずつ注いではかき混ぜ、チョコレートを滑らかに溶かしていきます。生クリーム 300g を牛乳にチョコレートを溶かし込んだものに加えて、混ぜ合わせ、鍋を中火にかけて、60℃~65℃に温めます。これを好みに合わせて、変化させていきます。分量比を変える、砂糖を加える、バニラエッセンスを加える、シナモンを加えるなどが考えられるでしょう。

 このまま飲んでもかまわないのですが、これを湯煎するなどして温めておいたショコラティエールに移し、先端がぎざぎざになっている攪拌棒のモリニーリョ(moussoir(ムーソワー)、moulinet(ムーリネ)、froth-maker(泡立て器))を両の手のひらで回転させて泡立てます。これをいただくのは、中世の貴族階級の気分かな。電動の泡立て器で泡立てると、現代人の気分?

 このモリニーリョは、1700年頃にメキシコで、スペイン人の手によって作り出されたようです。それまでは、カップからカップへと高い位置から幾度も注ぎ込むことで、泡立てていたといいます。

 妻「チョコレート博物館に行くの? 口コミにはお勧めでないと書かれているんでしょ。」
 私「チョコレートについて調べれば調べるほど、興味が沸いてきてね。」
 「私に行くのを諦めさせるために調べていたんでしょ。わかっているわよ。でも、ミイラ取りがミイラね。」
 「・・・」

 この話、マクラが長かった分、長くなってしまったので、次回に続きます。

         (この項  「仕事が忙しいのに何やってんだか」と言われている健人のパパ)

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 ベルギーに行くので、チョコレートに関する本をたくさん揃えて読んでいる妻が、これも目的地の1つである「リヨン(Lyon)」について調べている私に話しかけてきます。



 妻「ねえ、ゴディバのマーク知っている?」
 私「ゴディバにマークなんてあるの?」
 「知らない? 髪の長い女性が裸で馬に乗っているの。」
 「へえ。気がつかなかったなぁ。」
 「この女性がゴディバの名前の由来なの。」
 「創業者の名前じゃないんだ。」
 「そう。ノイハウスやベルナションとは違うの。」
 「そうなんだ。」
 「ゴディバ夫人は、領民のために裸で馬に乗ったのよ。領主である夫がそうすれば、重税を撤回すると言ったのよ。ひどい夫ね。」
 「え! それはピーピング・トムの話じゃないか。」
 「何、それ?」
 「裸で街中を巡ったら、重税を廃止すると約束された領主の奥さんはそれを実行するんだ。前もってそれを知った領民は、その日、窓をすべて閉ざして、まあ当時、窓はいまほど大きくはなかったし、数も少なかったんだけど、それに木製の戸がついていたので、それを閉めたんだね。部屋の中はほぼ真っ暗になったろうね。こうして、自分たちのために、死に値するほどの恥ずかしいことを敢えてしてくれる奥様に感謝の気持ちを示して、馬の蹄の音が遠ざかるのを待ったんだ。ところがね、中にはろくでもない男がいるもんで、トムという男が馬に乗って走る裸の奥さんを覗き見するんだ。品性卑しい、ということだね。神が怒ったのかな、トムは目が見えなくなるんだ。それで、人は彼を「覗き見トム」、ピーピング・トムと呼んで蔑んだそうだよ。領主の奥様は髪の長い女性で、その髪が裸身を覆い隠していたそうだよ。」
 「その話よ。」
 「そうなのか。ゴディバという名前だったんだ。でも、何でチョコレートのメーカーの名前になるの?」

 John Maler Collierの描くゴディバ夫人

(参考) イングランド中西部の「ウェスト・ミッドランズ州(West Midlands county)」にあり、人口で20番目(2011年のデータで、32万6千人)の都市「コヴェントリー(Coventry)」は、11世紀、「マーシア (Mercia) 」伯「レオフリック(Leofric)」が領主であり、その夫人が「ゴディバ(Godiva)」でした。1057年にレオフリックと死別した後、領主となったといいます(唯一の女性領主)。夫亡き後、10年以上生存していたといいます。レオフリックは968年生まれで、ゴディバは990年頃の生まれだといいます。年齢差は20歳以上。(参考の終わり)

 ゴディバの歴史は、本家の サイト の“THE GODIVA STORY”と、日本の サイト の「ゴディバの歴史」などにあります。

 「1926年、ベルギー、ブリュッセルでマスターショコラティエだったドラップス氏。自分の店を持ちたいという思いからそれまでの仕事を辞め、自宅の地下室を使いチョコレート会社を始めます。家族全員が会社の運営に協力し、4人の子供たちはそれぞれ製造、仕上げ、箱詰め、配送に携わっていました。」とあります。ここに出てくる「ドラップス氏」は、「ピエール・ドラップス(Joseph Draps)」です。“In 1926, Pierre Draps Senior created his first praliné chocolates, or pralines, in the small atelier of his Brussels home. Soon, the entire family including the four children helped their parents produce, finish, package and deliver their elegant chocolates, which were sold in the smartest department stores in Brussels.”とあるからです。

 「1937年、創業者のドラップス氏が亡くなり、その何ヵ月後かにドラップス夫人も亡くなります。残された子供たちは、自分たちの力で家業を守り続けます。ジョセフ・ドラップスは顧客の心を理解する才能を持っていました。ピエールは絶えず新しいチョコレートを開発する創造力を持ち、フランソワは滑らかなマジパンとおいしいゼリーの作り方をマスター。イヴォンヌは包装紙やリボンなど、美しいパッケージを開発します」とあります。ここで4人の子どもたちの名前が出てきます。「ジョセフ(Joseph)」、「ピエール(Pierre)」、「フランソワ(François)」、「イヴォンヌ(Yvonne)」です。ここに出てくる「ピエール」は、父親と同名の2代目「ピエール」になります。

 「1956年、「ショコラトリー・ドラップス」だった会社が「ゴディバ」となり、ブリュッセルのグランプラス広場に、「ゴディバ」第1号店がオープンします。「ゴディバ」の名は、ジョセフと妻ガブリエルによって命名されました。ジョセフは、季節のテーマや折々の出来事に題材を得て、創造性に富んだ粒チョコレートを次々と発表し、さらに、美しいディスプレイやラッピングでウインドウを飾りました。「ゴディバ」の名は瞬く間にベルギー中に拡がり、同時に、チョコレートは高級で個性的なギフトとなったのです。

 His son Joseph began working for the family business at the age of 14 and shortly after World War II took control of it. When he decided to open a shop of his own, he sought a distinctive name to give it and turned to his wife for ideas. She suggested Godiva, after the legendary countess who had protested high taxes by riding nude through Coventry, England, and Draps chose it for the new endeavor. (参考にしたサイト

 ガブリエルは、自己犠牲で民衆を救った「ゴディバ夫人」を尊敬していたといいます。創業から30年後のこの名称変更は功を奏します。ヨーロッパ世界ではよく知られた「ゴディバ」の名前は、本家の「ゴディバ夫人」よりもチョコレートのメーカーとして知られていくようになります。(あるサイトには、Cette notoriété est le premier objectif du couple. C'est pour ça qu'il a choisi un nom marquant et universel (c'est-à-dire facile à prononcer dans la plupart des langues). Mais pourquoi « Godiva » ? Tout d’abord pour la légende de cette Lady (voir encadré), ensuite parce que le nom suggère, à leur idée, luxe, qualité et générosité. Rapidement, Joseph Draps développe un réseau de magasins à travers le pays. とあります)

 「1958年、初の海外ショップがパリのサントノーレ通りにオープンし、以来、ゴディバは世界各国で店舗を展開しています。1972年には、ニューヨークの五番街に、日本では同年に初のショップがオープンしました。 1999年には香港へ進出、現在ではヨーロッパ、北米、アジアからドバイやロシアにいたるまで、世界中で愛されるプレミアムチョコレートブランドへと成長しました。

 Godiva Chocolatier traces its roots to 1926, when Pierre Draps started making chocolates in Brussels, Belgium, for sale to local shops. His son Joseph began working for the family business at the age of 14 and shortly after World War II took control of it.

 上記の記事によると、第二次世界大戦(World War Ⅱ)は、1939年9月1日の「ドイツのポーランド侵攻」によって始まりますから、「ジョセフ・ドラップス(Joseph Draps)」は、1926年以前の数年間に誕生していることになります。しかし、後述する東京新聞の記事では、三男である「ピエール・ドラップス(Pierre Draps)」は、1919年に誕生しているのですから、第二次世界大戦のやや前に14歳を迎えたジョセフは「弟」でなくてはなりません(ピエールは、1939年には19歳か20歳)。

(追記) 東京新聞は、2012年3月20日に次のような記事を載せます。「ベルギーの老舗チョコレートブランド「ゴディバ」の創業者の一人であるピエール・ドラップス氏は、1919年、チョコレート職人だった父の三男として生まれた。家族で経営していた店で10歳からチョコレート作りに従事した。1959年に、兄弟で「ゴディバ」を創業し、世界的なブランドに育て上げた。ピエール・ドラップス氏は、トリュフをはじめ多彩なチョコレートを開発し、「ベルギーチョコの父」と称された。 ゴディバは1979年に日本にも進出している。ベルギーメディアによると、ピエール・ドラップス氏は、2012年3月15日にスイスのリアツィーノ(Riazzino)で死去した。92歳であった。

 三男ということは、ジョセフが弟だとすると、ピエールの上にもう2人、男の子がいたことになります。この2人は家業を継がなかったのでしょうか、それとも早くに亡くなってしまったのでしょうか?「三男」を第3子という意味で捉えておくと、ピエールの上に姉2人(フランソワ、イヴォンヌ)がいて、その下に弟ジョセフがいることになり、整合性はとれます。(追記終わり。この記事は、GODIVAのサイトの記述が変わっていたことに気づき、2015年3月13日に一部書き換えています。) 



 妻が「ゴディバ・ジェムズ」を買ってきました。トリュフ、キャラメル、ショコラファンの3種類で、それぞれにミルクとダークがあるようです。私が口にしたのは、トリュフのダークで、これが美味しかった。お中元に人からもらったゴディバのボンボン・ショコラを特に感想を持たずに食べてしまって妻に叱られたのですが、今回は自然に口から「美味しい!」という言葉が漏れました。無駄に複雑にしていないストレートな美味しさ。無駄にいろいろなものを混ぜ合わせるといういまの流行に逆らって多くの食べ物がこの方向を目指して欲しいものです。

 キャビア(チョウザメの卵)、フォアグラ(ガチョウや鴨などの脂肪肝)、トリュフ(香りがあるが味はほとんどないボール状のきのこの一種)は「世界三大珍味」と称されます。チョコレートの「トリュフ(truffe)」は、形状が似ていることから、そう名付けられています。作り方を「斉藤美穂」さんの「フレンチ・ショコラ 究極のチョコレートレシピ」(1998年、文化出版局)から引用してみます。

 トリュフ20個分の材料は、製菓用チョコレート(例えば、甘酸っぱいフルーティな酸味を持ったヴァローナ社の「カラク」)…ガナッシュ用に100gとコーティング用に100g、生クリーム…80cc、蜂蜜…20g、無塩バター…10g、まぶすココア…適宜、です。

 まず、製菓用チョコレート、生クリーム、蜂蜜、無塩バターを溶かし合わせて、「ガナッシュ(ganache)」を作ります。それを球形状にして、湯煎して溶かしたチョコレートにつけてコーティングして、ココアをまぶして出来上がりなのだそうです。言葉で書くと簡単なのですが、成型して、冷蔵庫で冷やし、また加工するということが幾度か繰り返されます。ラム酒などの洋酒を加えてガナッシュを作ることもあるようです。蜂蜜の代わりに転化糖や水飴を用いることもあるようです。

               (この項 健人のパパ)



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 今回のヨーロッパ旅行は、行程1日めに「成田」を午後に出発し、行程30日めに「成田」に早朝帰ってくるものです。この大枠は、妻によって決められたのですが、その大枠の中でどこに行き、何をして、何を見るかについては、話合いが続けられ、何度も行程の書き換えが行なわれました。計画が立てられた当初は、ベルギーとイタリアだけが目的地だったのですが、ヨーロッパの他の国にも行ってみたいという妻の意向でヨーロッパ滞在の日数が大きく増えてしまいました。

 ベルギー、ドイツ、スイス、オーストラリア、フランスそしてイタリアが最初考えられましたが、移動を「LCC(ローコストキャリア、格安航空会社)」の「イージージェット(easyJet)」にしたので、なかなか上手くいきません。都合のいい便がなかったり、路線によっては意外と航空運賃が高かったりするのです。調べた中では、フランスのパリに入ると、人気の都市のためか航空運賃が高くコストを低く抑えることができません。息子「健人」を「ルーブル博物館」に連れて行きたいという妻のアイデアは、諦めざるを得ませんでした。

 計画は、フランス、スペイン、ポルトガルを提案する私の意向に沿って立てられることに結果的になりました。妻は、上の息子「優也」と2人で巡ったヨーロッパ旅行で行けなかったドイツの「ベルリン」に執着したのですが、そこからいかにコストをかけずにイタリアに到着するかのアイデアが出ず、頓挫して、西ヨーロッパの西部を巡るというアイデアに落ち着いたのです。

 行程1日めに、KLMのKL862便で「成田」を14時55分に発ち、まずオランダの「アムステルダム」に18時30分に着きます。日本とオランダとの時差「-8時間」を考えると、11時間35分の空の旅です。「アムステルダム」からは鉄道を使い、ベルギーの「ブリュッセル」に入ります(9B 9268、20:09発、22:40分着)。ブリュッセルでは3泊が予定されています(ベルギーでは「ブルージュ(Brugge)」にも2泊)。

 妻はブリュッセルからフランスの「パリ」に入りたかったようなのですが、これはコスト面から断念。ならば、スペインの「バルセロナ」に入って、「サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会、Temple Expiatori de la Sagrada Família)」を見に行こう、というアイデアも出たのですが、これもコスト面から断念。イージージェットのサイトで航空運賃をいろいろと調べて、ブリュッセル→リヨン(フランス)→リスボン(ポルトガル)→マドリード(スペイン)→ローマというコースをとれば、移動コストが低く抑えられることがわかりました。LCCは、曜日、時間で航空運賃が大きく違います(さらに、早めに購入すれば、非常に安価に抑えられる)。

 航空運賃のリストを作って、電卓を叩いて、トータルコストの計算を数日しました。しかし、昨日までの運賃が高くなってしまっていることもあり、やり直しで、速やかな決断を必要としました。「リヨン?知らないわ。」という妻の意見に、「リヨンは食の街だよ。君は関心を持つはずだよ。」と説得する場面もありました。妥協点は、リヨンには行くけれど、滞在は2日だけというもの。

 リヨンについては、ガイドブックに非常に情報が少ないのを不満に思っていた妻は、チョコレートに関する本を読んでいて、「リヨンはいい選択だったかも。もう少し滞在してもよかったみたい。」と言い出しました。

(ここから、妻「あみ」)

 今回の旅は、ベトナムで知り合った、ホンとジュディアにブリュッセルに逢いに行くのです。ホンは、戦乱のベトナムからボートで脱出し、ベルギーに渡り、医師として働くこととなります。しかし、そうなるまでには、相当な苦労をしたと聞いています。奥さんとなったジュディーは、ホンの勤める病院で看護婦として働いていたそうです。イギリス人の彼女は、とても楽天的で、数日間共に旅をしていただけで、その人間性の深さに惹かれました。2005年から6年の月日を隔て2人に無事に逢えるでしょうか?まだ連絡がついていません。

  (参考) 「「ベトナムへ」日記60-ホイアン、別れ

  (参考) 「「ベトナムへ」日記3-オープンツアーバス

 彼女たちが住むブリュッセルは、チョコレートの街として有名です。ゴシック様式の96メートルの塔を持った市庁舎の前に広がる「グラン・プラス(Grand-Place、グローテ・マルクト、Grote Markt)」(世界で最も美しい広場の1つと言われ、1998年にユネスコの世界遺産に登録された)という広場の近くには、「チョコレート博物館(Musee du cacao et du chocolat)」があります。

 チョコレート博物館は1、2階がありますが、その規模にがっかりする人もいるようです。でも、クッキーにでき立てのチョコレートをつけて試食ができて、「プラリーヌ(Praline、プラリネ)」の製作過程が説明つきで実演してもらえるということで、一応見学に行くつもりでいます。入場料は5ユーロのようです。

 ベルギー・チョコレートの「ショコラティエ(chocolatier)」で、「ノイハウス(Neuhaus)」の3代目店主であった「ジャン・ノイハウス(Jean Neuhaus)」は、1912年、焙煎したナッツ類に加熱した砂糖を和えてカラメル化したものをチョコレートの中に入れるという手法を編み出します(「ボンボン・ショコラ(Bon Bon Chocolat、プラリーヌ、Praline)」)。(Jean Neuhaus invested the "Praline"(Belgian specialty) in Brussels in 1912.)(チョコレート博物館のサイトから)

 この「中に詰め物をした一口サイズのチョコレート」という手法は、1915年にノイハウスの妻「ルイーズ・アゴスチーニ(Louise Agostini)」によって壊れやすい「プラリーヌ」を運ぶために考案されたチョコレート用の箱、「バロタン(Ballotin)」とともに世界中へ広まっていきます。(Some years later, his wife invested "the Ballotin", in which the pralines could be perfectly packed.

 ボンボン・ショコラは、構造的には饅頭に似ており、具(センター)を皮(クーベルチュール)で包んだものです。具材には、ガナッシュなどが用いられます。「ガナッシュ(Ganache)」は、チョコレートに生クリームやバター、牛乳、洋酒などを加えて、柔らかい食感にしたものです。混ぜ合わせるもので、多様な味を作り出すことができます。ピュレ(Purée)や蜂蜜などを練りこむこともあります。

 コーティングに使うチョコレートは、「クーベルチュール・チョコレート(chocolat de couverture、クーヴェルテュール・チョコレート)」と呼ばれ、ヨーロッパではカカオ豆の脂肪分であるカカオバターを32%~39%含むことなどが義務付けられています。カカオ豆の産地やバターの含有量などによって味が異なるものであり、ショコラティエの多くは、自作せずにクーベルチュール・チョコレートを製造する会社(例えば、カカオ産地指定のクーベルチュール・シリーズ、「グラン・クリュ(Grand Crus)」を製造する「ヴァローナ(VALRHONA)社」)から購入してブレンドなどしているのだそうです。



 チョコレートのレシピ集の“La Passion du Chocolat(A Passion for Chocolate、1989年に英語に翻訳された)”の著者(息子のジャン=ジャック・ベルナション(Jean-Jacques Bernachon)との共著)で、チョコレート専門店(チョコラティエ)である「ベルナション(Bernachon、ベルナシオン)」の創業者(1952年に創業)であった「モーリス・ベルナション(Maurice Bernachon)」は、カカオ豆を輸入し、自分たちでローストし、クーベルチュールを作っていたそうです(ともに故人。ジャン=ジャック・ベルナションは2010年4月21日に65歳で癌で逝去)。現在は、3代目の「フィリップ・ベルナション(Philippe Bernachon)」が奥さんのステファニー(Stéphanie)とともに「ベルナション」を運営しています。

 「ベルナション(Bernachon)」は、私たちがまもなく訪れる街、「リヨン(Lyon)」にあります。42, cours Franklin-Roosevelt, Lyon にある、サロン・ド・テも併設する「ベルナシオン」は、カカオ豆の状態から商品になるまで、すべての作業を自社で行っているのだそうです。ちょっとお高いのだそうですが、どんな味がするのかいまからとても楽しみです。ブリュッセルのグラン・プラスにある「ノイハウス(Boutique Neuhaus、住所:Grand Place 27, Brussels)」で、まずチョコレートをいただいて、その味を忘れないうちに、リヨンの「ベルナシオン」で味比べができます(私は味を覚えていられるのですが、夫はすぐに忘れる。ノイハウスには6年前のヨーロッパ旅行でも行ったのですが、夫は行ったことすら思い出せません)。

 個人的に、日本のチョコレートは、選べば、高いお金を出さなくても美味しい物が手に入ると思っています。味がシンプルなのが美味しい。ケーキは、ショートケーキが一番美味しいと感じ、カスタードプディングは、牛乳とたまごで作った、生クリームの入っていないもの、シュークリームは、パイ生地を使っていないものが流行に逆らって好みです。

 チョコレートは、海外の著名なものを高島屋などで購入したこともあるのですが、くどく感じてあまり美味しいとは感じませんでした。日本で感動したのは、かつて神戸三宮にあった「コスモポリタン」のホットチョコレートでした。また、自由が丘(東京都目黒区緑が丘2-25-7 自由が丘スイーツフォレスト)の川口行彦さんの「オリジンーヌ・カカオ(ORIGINE CACAO)」のショコラドリンクも絶品でした。

(ここまで、妻「あみ」)

 旅行先では、市場見学を楽しみとする妻は滞在日数が2日と少ないリヨンでも「市場(marché、マルシェ、青空市場)」に行きたいと考えているようです。リヨンの屋内市場(alles、アル)で有名なものは「リヨン中央市場-ポール・ボキューズ(Les Halles de Lyon-Paul Bocuse)」でしょう。採光がよい、ガラス張りの建物の中には、56軒のスタンドが並べられ、地元産の良質な食材が取り揃えられているのだそうです。2006年に改築されたときに、かつてこの中央市場でスタンドを出していた「ポール・ボキューズ」を讃えて「リヨン中央市場-ポール・ボキューズ」と改名されました。

 「フランクリン・ルーズベルト通り(Cours Franklin Roosevelt)」に面している「ベルナシオン」を正面に見て、左手に南に下る一方通行の「ゲクラン通り(Rue du Guesclin)」があります。この通りを6~7分ほど歩くと、「ラファイエット通り(Cours Lafayette)」に出るので、これを左に折れて東進して、数分歩くと、総ガラス張りの近代的な建物のリヨン中央市場(住所:102, Cours Lafayette Part-Dieu, Lyon)があります。

 「ベルナション(Bernachon)」と「ポール・ボキューズ(Paul Bocuse)」は関係が深い。ポール・ボキューズには一人娘、「フランソワーズ・ボキューズ(Françoise Bocuse)」がいますが、「ジャン=ジャック・ベルナション(Jean-Jacques Bernachon)」と1969年に結婚しているのです。3代目の「フィリップ・ベルナション(Philippe Bernachon)」は孫にあたることになります。

              (この項 健人のパパ)

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 妻「あみ」の記憶力は並外れています。私がいつ、どんな状況で、どんなことを言ったのか事細かに覚えています。結婚前、見に行った映画のタイトルとその日の行動とその日食べた物とその味と私が口にした言葉と、、、脅威です。その場しのぎでうかつな約束はできません。

 「あら、覚えていない方が不思議よ。記憶力が貧弱なんじゃない。」
 「いや、学問的なことは覚えていられるんだけどね。食べた物まではねぇ、、、」
 「きのう食べた物すら思い出せないのは、やはり不思議よ。」
 「いや、必要のないことは覚えないたちで、、、」
 「きのうのことは覚える努力をしなくたって、覚えているものよ。」
 「ゆうべどこに? そんなに昔のこと覚えてないね。ってやつだよ。」
 「なにそれ?」

 フランスの有名なシェフ「ポール・ボキューズ(Paul Bocuse)」は、辻調理学校の創立者になる前の「辻静雄」に向かって、「一流の料理人とは舌の記憶の確かさである」と言ったといいます。調理師の資格を持ってはいますが、料理人ではない妻を一流の料理人だとは言う気は全くありませんが、学生だった頃に、美味しい料理を出すと言われるレストランや料亭を食べ歩いたという妻は、食べ物の味に対する基準を舌に覚えさせているようです。

 「これは美味しいけれど、ナントカという店でイツイツ頃に食べたものよりは劣るわね。でも、コストパフォーマンスからいうと、こちらの方が上かな。高いお金を出すと、美味しいものが食べられるのは、当然だからね。」などと言います。「美味しかった?」と尋ねられて、「食べているときに尋ねてもらわなくちゃ。食べ終わってからでは、味を忘れているよ。」と答える私は、「味」に関する話題では太刀打ちできません。

 「考えごとしながら食事をするから、食べ物の味が分らないのよ。」
 「・・・」
 「真剣に食べ物と向かい合わなくちゃ。食べ物に対する礼儀よ。」
 「そこまで考える?」
 「考えるわよ。食材だって、美味しく食べて欲しいはずよ。」
 「・・・」

 「リヨン(Lyon)]の新市街3区からは「ソーヌ川(la Saône)」の西岸に沿って北上して7km程度、タクシーで20分ほど行ったところに、レストラン「ポール・ボキューズ(L'Auberge-Paul Bocuse)」があります。住所は、40 Rue de la Plage, Collonges-au-Mont-d'Or です。タクシー代に片道30ユーロほどは用意しておく必要があります。一番安いディナーコースが130ユーロほどするようですから、最低、30×2+130×人数を予算としなければいけないようです。3人で行くなら、少なくとも500ユーロほど必要とします。

 「ポール・ボキューズ(Paul Bocuse)」は、リヨン近郊の「コロンジュ・オ・モン・ドール(Collonges-au-Mont-d'Or)」の料理人の家系に生まれます。16歳から修業を積み始め、33歳で生家のレストラン「ポール・ボキューズ」を継いで、1961年(35歳)にはフランス文化の最も優れた継承者たるにふさわしい高度の技術を持つ職人に授与される称号である「国家最優秀職人章(Meilleur Ouvrier de France、MOF)」を授与されています(日本人では、1974年に辻静雄が授与されている)。

 辻静雄は、本郷(東京都)の和菓子屋を営む家に生まれますが、家業を継ぐことを拒み、早稲田大学仏文科を卒業後、大阪読売新聞社の記者となります。辻静雄は、女性や主婦に「家庭料理」を教える料理学校であった「日本割烹学校」に、1人のアメリカからの交換留学生の女性を案内するために訪れます。学校側から対応にあたったのが、学校の創立者「辻徳光」の娘「辻勝子」でした。この辻勝子と結婚することとなり、辻静雄は調理師の養成にかかわっていくことになります。同姓であったことと、辻徳光には「辻勲」という息子もいたことから、「辻」という名称を持った料理学校が2つ存在することとなっています。

 リヨンの南15kmほどのところにある「ヴィエンヌ(Vienne)」の14, boulevard Fernand Point, Vienne には、「ラ・ピラミッド(La Pyramide)」(2007年、ホテル併設)というレストランがあります。その「ラ・ピラミッド」 のオーナー・シェフであった「フェルナン・ポワン(Fernand Point)」は、辻静雄の誕生した1933年にミシュランガイドの三ツ星を獲得し、1955年に死ぬまでそれを守り続けたといいます。

 女性や主婦を対象とするのではなく、プロを養成するための学校をつくることを決意した辻静雄は、フランス料理に関する知識を深めるためにフランスに渡ります。辻静雄がラ・ピラミッドを訪れたときには、フェルナン・ポワンはすでに亡くなっていました。しかし、その妻、「マダム・ポワン(Madoと呼ばれていた)」によってラ・ピラミッドの三ツ星は維持されていたのです。料理人でないにも関わらず、その舌の記憶だけで、シェフに指示を出して夫の味を守り続けていたのです。辻静雄が終生、親しい仲となるポール・ボキューズは、このフェルナン・ポワンの弟子の1人でした。

 1960年、辻静雄は「調理師の養成学校」として「辻調理師学校」を創立し、拡大させていきます。「辻調理師専門学校」、「辻製菓専門学校」などの辻調グループ各校で学んだ人たちは、さらに上を目指して、辻調グループのフランス校で学ぶことができます。このフランス校がリヨン郊外にあります。第1フランス校の「シャトー・ド・レクレール(Château de l'Eclair)」と第2フランス校の「シャトー・エスコフィエ(Château Escoffier)」です。



 「シャトー・ド・レクレール(Château de l'Eclair)」、“L'École Technique Hôtelière Tsuji”は、リヨンの北北西、中心部から電車とバスを乗り継いで50分ほどかけて行く小さな村、リエルグ村(Liergues)の Rue Château de l'Eclair, Liergues にあります。シャトー・ド・レクレールは村の北、丘の上に建つ小さな城で、西に隣接して“CHATEAU DE L'ECLAIR”という銘柄のワインを生産するシカレックス社(SICAREX)があります。同じ敷地内にあるワイナリーと言ってよく、そのワイン貯蔵庫(カーヴ、cave)の上がレクレール校の学生寮になっています。村の周辺にはブルゴーニュワインのぶどう畑が一面に広がっています。

 妻「私、美味しいものを食べたいけれど、健康にも気を使いたいの。」
 私「フランス料理は、日本料理と比べて、脂肪分が多そうだね。」
 「私、定期的に健康診断を受けているけど、いつもコレステロール値では要注意なの。他は大丈夫なのにね。」
 「健康であるから、食べ物も美味しい、ということかな。」
 「美食は、身体を蝕むのよ。」
 「辻静雄さんは60歳で亡くなっているね。肝臓を悪くしたことで亡くなったというから、自分の舌にいろいろな味を覚えさせる中で、肝臓を痛めつけていたのかも知れないね。」
 「美味しい物は毎日でも食べたいけれど、それで命を縮めるのでは、食べるという営みを間違えていると思うわよ。」
 「食べるということは、まず生きるため、と言ったところかな。」
 「そう。」
 「辻さんは、正しいフランス料理を広めるために戦って亡くなったのだから、それは美食が過ぎたわけではなくて、名誉の戦死といったところじゃない?」
 「嘘っぽい味が大衆受けする時代の今にこそ生きていて欲しかったわよね。大衆に基準となる味を広めて欲しかった。健人には基準となる味を教えているつもり。だから、けっこう食べ物にはうるさいでしょ。しっかりした舌が育ってきているのよ。」
 「たしかに。」

 レクレール校での授業は、調理、製菓のそれぞれで、仕込みと調理実習、サービスの実習、フランス語の会話と文法などが行われます。学生は4つのグループに分けられ、レストラン運営のシュミレーションが行われます。ローテーションで、仕込み→実習→サービス→レストラン客の役割を果たします。授業は朝から晩まで続き、授業の後にも復習、予習、翌日の実習のミーティングなども必要になります。

 費用と時間を確保できるなら、例えば宝くじに高額当選したならば、学生生活をもう1度経験してみたい、という妻の進学先には「辻調理師専門学校」がいいのかも知れません。語学をしっかりと学んでみたいし、調理に対する自分の知識を確認してみたいという妻には、フランス語を学び、レストラン運営の実践的な基礎が学べるこの学校が最適な学校かも知れません。20歳前後の学生たちを中心に、大学出身者や調理以外の社会経験を積んだ人たちもいて、50歳代の人も学生の中にいることがあるようです。明日にでも、宝くじを買いに行かなくっちゃ、、、

               (この項 健人のパパ)

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 西ドイツがイスラエルに対し、第2次世界大戦中のユダヤ人虐待およびホロコーストに対する賠償金として30億ドイツマルクを払う条約に署名した年、1952年に生まれた楠田枝里子さんは、1974年、東京理科大学理学部応用化学科を卒業すると、日本テレビにアナウンサーとして入社します。日本テレビ系列で放送されていたトーク番組「おしゃれ」の久米宏とともに勤めていた司会を最後に、7年間勤務した日本テレビを1981年に退社し、フリーランスになります。日本テレビ退社後、最初の司会担当番組はフジテレビの「なるほど!ザ・ワールド(1981年10月~1996年3月)」でした。

 楠田枝里子さんは、ドイツ再統一の年、1990年から勤めていた、日本テレビの「世界まる見え!テレビ特捜部」の司会を2009年9月28日放送分をもって降板しました。長引く不況で広告収入が激減したテレビ業界では、番組制作の経費節減を図っています。ギャラの高いタレントを使うと制作費がかかるので、司会には、タレントではなく局アナを充てることで、経費を減らしているのだそうです。日本テレビは、「番組の若返りを図りたい」という理由で、楠田枝里子さん(現在、59歳)に司会から降りてもらうことを伝えたようです。「世界まる見え!テレビ特捜部」の司会は日本テレビアナウンサーの西尾由佳理さん(現在、33歳)が担当することになりました。

 ゲストとしていろいろな番組に顔を出すこととなった楠田枝里子さんは、先日、「ライオンのごきげんよう」のゲストとなりました。「ライオンのごきげんよう」は、フジテレビ系列で平日の13時から13時30分に放送されているトークバラエティ番組です。2010年12月に放送20周年を迎えた、小堺一機さんが司会を勤める長寿番組です。この番組には前身があり、1984年に始まった「ライオンのいただきます」が幾度かのリニューアルを経たものです。

 この「ライオンのいただきます」が、テレビ朝日系列の「徹子の部屋」とともに、平日の13時15分から13時30分に放送されていた、日本テレビ系列の「おしゃれ」の視聴率を低迷させ、1987年に(13年間続いた)、その放送の幕を閉じさせます。楠田枝理子さんが司会を辞めてから6年後のことでした。

 楠田枝里子さんはエッセイストとしても活躍し、文春文庫の「不思議の国のエリコ」(1987年)、「気分はサイエンス」(1989年)、「センチメンタル・マシーン」(1991年)、「パンとサーカス物語」(1992年)、「ナスカ 砂の王国」(新版、2006年)、「飛んだ旅行記」(1996年)、新潮文庫の「青いサーカステントの夜」(1989年)、河出書房新社の「ピナ・バウシュ中毒」(2003年、ピナ・バウシュ(Pina Bausch)はドイツのバレエダンサー)、光琳社出版の「消しゴム図鑑」(1998年)、幻冬舎の「チョコレート・ダイエット」(2004年)、中央公論新社の「チョコレートの奇跡」(2011年)、ほるぷ出版の「うさちゃんのニュース」(1996年)、文化出版局の「ぼくはおおきなくまなんだ」(1979年)などの著作があります。

 小学館発行の月刊女性ファッション雑誌「CanCam(キャンキャン)」(1981年創刊)の1987年1月号から3年間にわたり連載された「エリコの飛んだ旅行記」は、単行本を経て、1996年に「飛んだ旅行記」として文庫化されます。「飛んだ旅行記」は、楠田枝里子さんが仕事やプライベートで世界各国を飛び回って体験した旅行記です。理系大学(「東京理科大学」)に進学したのですから理系的思考の人であるのか、30歳中頃の著作であるせいなのか、体験した事実を早口に話すような記述になっており、テンポの良さを感じます。旅行記は26話からなっており、各話の最後には「教訓」とやらが記述されています。22話の「寝るか、学ぶか」に載っている教訓は次のものです。

   立ってるものは、スチュワーデスでも使え。

 長いマクラでしたが、「ライオンのごきげんよう」で述べられたことは、この「寝るか、学ぶか」に載っていることと同じでした。会話を再現してみたかったのですが、それは難しく、「飛んだ旅行記」(文春文庫」)から引用して、構成しました。

 初めての海外旅行で、私ほど効率良く飛行機を利用した客も、珍しいのではないだろうか。
   …
 ドイツに向かう飛行機の中で、私は大きく地図を広げていた。急にとれた休みに旅をしようと決めたのはいいが、チケットを押さえるのが手いっぱいで、タイム・スケジュールを組む暇がなかった。どこを、どう回ろうか。うまく目的地にたどりつくことができるのか。不安は増大するいっぽう。


小堺一機「なんで最初の海外旅行がドイツだったのですか。」
楠田枝里子「童話に興味があったんです。」
小堺「そうなんですね。ドイツはグリムが誕生した童話の国ですものね。」

 とりわけ気懸かりなのは、言葉の問題である。英語は中学の頃から授業を受けてきたといっても、しゃべるとなると首をひねってしまう。だいいち、英語が通じないかもしれない。ドイツ語は、少しかじりはしたが、小学生の読み書き程度で、簡単な挨拶だって、会話には全く自信がない。
 言葉が通じない、では文字通り話にならない。


小堺「ドイツ語は知っていたのですか。」
楠田「大学で学んではいたんですけど、勉強していたからって、話せるわけではありませんよね。」
小堺「そうです。そうです。会話は別ですよね。」

 うーん、どうしようと思い悩んだ末に、ひらめいたことがあった。
 そのとき、ちょうど、ルフトハンザ航空の飛行機に乗っていたのが、幸運であった。乗務員はほとんどがドイツ人である。


 「ルフトハンザドイツ航空(Lufthansa)」は、ノルトライン=ヴェストファーレン州の「ケルン(Köln)」に本拠を置くドイツ最大の国際航空会社です。航空輸送量を表す指標に「旅客キロ」というのがあります。旅客1名を1キロメートル輸送した場合、1旅客人キロといいます。世界の航空会社を国際線のみで比較すると、「定期便旅客キロ(Scheduled Passenger - Kilometres Flown)」で1,000億旅客人キロを超える航空会社は、「エミレーツ航空(Emirates)」、「ルフトハンザ(Lufthansa)」(スターアライアンスメンバー)、「エール・フランス(Air France)」(スカイチームメンバー)、「ブリティッシュ・エアウェイズ(British Airways)」(ワンワールドメンバー)のみです。4社が肩を並べてます。ルフトハンザは、2011年1月24日で日本就航50周年を迎えました。

 私は、スチュワーデスの呼び出しボタンを押す。カツカツカツ、と大柄の女性が、一番後ろの私の席にやってきた。
「すみません、水を一杯ください」
 この「すみません」だけでも、なかなか難しい。「エントシェルディゲン・ズィー・ビッテ」
“Entschuldigen Sie bitte!”と言うのだが、早口言葉みたいに、舌がもつれる。緊張しきっているから、なおさらである。
 幾度か繰り返して、どうやら通じたらしく、コップに水が運ばれてきた。
 冷たい水を一気に飲みほし、勇気を得た私は、バッグから辞書を取り出して、作文を始めた。
 一文できあがると、またボタンを押す。


 楠田枝里子さんは、次から次へとお願いや質問を考え出し、辞書を引いて作文し、幾度となくコールボタンを押して、スチュワーデス(CA、キャビン・アテンダント)を呼び出します。「すみません、毛布をもう一枚、持ってきていただけますか」、「フランクフルトまで、あとどのくらい、かかりますか」などと。幾度となく呼び出されると、CAも不審に思い始めます。

 その次にボタンを押すと、私の前にアシスタント・パーサーが現れて、「用事じゃなくて、何かわけでもあるんじゃないですか」と聞いてきたのだ。
 私は素直にあやまって、事情を話さざるを得ない状況になった。
「すみません。生まれて初めて、外国へ行くんです。ドイツ語が通じるかどうか、とても心配で、皆さんで練習させて頂いていました。


小堺「よく、そこまでドイツ語で説明できましたね。」
楠田「日本語の話せる方だったんです。」
小堺「なるほど。」

 ここで楠田さんの試みも終わりを告げたかというと、思いがけない展開が待っていたのです。休憩に入っているなど手の空いているCAがかわるがわるやって来て、隣の空いていた座席に座り、楠田さんとドイツ語で会話をしてくれるようになったのです。「ミュンヘンに行ったら、今の季節はバス・ツアーで簡単に行けますから、ぜひノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein、Neu=New(新)+schwan=swan(白鳥)+stein=stone(石))を見てらっしゃい」、「ニュルンベルクで途中下車して、名物の焼きソーセージを食べるのも、いいわね。おいしいんですよ」などと旅行のアドバイスももらったそうです。

私「いい話しだろう。ルフトハンザのキャビン・アテンダントは質がいいのかな。」
妻「彼女はきっとビジネス(クラス)に乗っていたのよ。ビジネスは(エコノミー・クラスと比べて)扱いが格段にいいのよ。」
私「他の航空会社でも同じことが起りうると?」
妻「ビジネス(クラス)には何度か乗ったことがあるけど、キャビン・アテンダントに余裕があって、お客さんとの会話を楽しんでいる感じなの。」
私「そうなのか。いい話だと思ったんだけどね。」
妻「ポジティブな人は、いい経験をするということね。」
私「まあね。」

 スチュワーデス本来の仕事ではないのだから、迷惑なことだろうが、ここだけの話、これはなかなか良い方法である。パリへ行くならエールフランス、ミラノヘ行くならアリタリア、というふうに、目的地の航空会社の飛行機に乗って、飛行時間をフルに活用する、というのは。(帰路はJALを選べば、日本のペースをいち早く取り戻せる。ただし、これを実行してスチュワーデスに怒鳴られても、当方は一切関知しないから、そのつもりで。)

妻「ビジネスで1回旅行するくらいなら、エコノミーで何度も行きたいわね、私は。」
私「これはそういう話では、、、」
妻「日本テレビに勤めていたら、そうは休みがとれないから、フリーになったのかもね。」
私「君と同じように旅行好きなんだそうだよ。」
妻「一人旅なのよね。」
私「君も行くじゃないか、ベトナム2週間とかね。」
妻「貧乏旅行よ。何度も行きたいからね。」

 何日かかけてこの記事を作ってきたのですが、話がずれて終わりました。伏線をいくつか張ったのですが、予想外の方向にずれて、、、話が落ちなくなりました。

(追記) 楠田枝里子さんは、「Eriko Kusuta's World」という公式ホームページを持っています。

 2012年11月21日の日記です。
今日は、テレビ朝日の「アイスNo.1決定戦」の収録。やっぱり5時間くらいかかっちゃったのですが、あ~~、面白かったあ~~~。会場もとってもいい雰囲気で、楽しくお仕事させていただきました!!

 2012年12月12日の日記です。
そうそう!「アイスNo.1決定戦」の放送が、15日、今週土曜日に迫りました!!人気のアイスの頂点を極めるのは、どの商品か。テレビ朝日で、夜7時ちょっと前からの2時間スペシャルです。ぜひご覧になってくださいね!

 元気に活躍されていますね。

              (この項 健人のパパ)

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 フランスには、「地域圏(région)」という地方行政単位があります。アメリカ合衆国で言うならば、「州」にあたるといっていいかも知れません。アメリカの州は、最も面積の広い(1,718,000k㎡)「アラスカ州」から最も狭い(4,000k㎡)「ロードアイランド州」まで50州ありますが、フランスの地域圏は、フランス本土には、最も面積の広い(45,000km²)「ミディ=ピレネー地域圏」から最も狭い(8,000k㎡)「アルザス地域圏」まで22あります(他に海外地域圏が4つ)。




 西でスイスとイタリアに接する「ローヌ=アルプ地域圏(Rhône-Alpes、面積約44,000k㎡)」に私たちの今回の家族旅行で訪れる予定の「リヨン(Lyon)」があります。リヨンには近郊を含めて、176万人ほどが住んでおり、リヨン市のみの人口はおよそ48万人です(面積はおよそ48km²)。

 リヨンは都市圏としてはフランス第2の規模を持つのだそうですが、例えば、大阪市の人口はおよそ267万人で、その面積はおよそ222km²です。リヨン市のみで比較すると、その面積もその人口も5分の1程度です。大阪にあるような賑わいのある繁華街というようなものはなく、落ち着いた雰囲気のこじんまりとした街のようです。

 そんなこじんまりとした街なのですが、年間およそ600万人(データのとり方によっては800万人以上とも)が訪れるフランス第2(1位はもちろんパリ)の観光都市であり、その60%ほどがビジネス客なのだそうです。リヨンでは、国際会議が数多く開かれ、展示会などのイベントもよく開催されるようです。毎年12月8日には、400万人もの観光客を集めるという「光の祭典(Fête des lumières)が行われます。




 過去に人類を脅かした伝染病に「ペスト(plague)」があります。これに罹ると内出血により皮膚が黒ずんできて、致死率も高かったことから「黒死病(The Black Death)」とも呼ばれました。ペストは本来クマネズミなどの間で流行する伝染病でしたが、ネズミの血を吸うノミによって人間へと感染を広げていきました。

 14世紀、ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになり、イタリアに運ばれた毛皮についていたノミがペスト菌(Yersinia pestis)を持っていたことから、ヨーロッパ世界へと感染が広がっていきます。1347年にシチリア島のメッシーナに発症者が出ると、翌1348年には早くもアルプス山脈を越えてしまいます。14世紀後半のヨーロッパの人たちは3度の大流行と幾度もの小流行を生き延びなくてはなりませんでした。14世紀の大流行では、ヨーロッパの人口の少なくとも30%が失われたと言います。

 ペストがアルプス以北のヨーロッパで、1348年から1353年に流行した際、リヨンの人々がフルヴィエールの丘(colline de Fourvière)にあるノートルダム聖堂のマリア像に祈りを捧げたところ、流行が治まったといいます。人々はこれに感謝し、マリア像のあるフルヴィエールの丘に面した窓際に捧げ物としてロウソクを灯した(ともした)ようです。それが現在の、リヨン市内の家々の窓際はろうそくの灯りで彩られ、建物や道路はイルミネーションで飾られる、という「光の祭典」という行事になって行きます。

 しかし、12月8日に「光の祭典」が開催されるようになったのにはもう1つエピソードがあるようです。1852年9月8日に、フルヴィエールの古い礼拝堂で、聖母マリア像をその頭上に頂いた新しい鐘楼のお披露目の予定があったのですが、ソーヌ川の氾濫でそのお披露目は3か月後の12月8日に延期になってしまいました。ところが、待ちに待った12月8日も激しく降り続く雨で、延期せざるを得なくなりました。しかし、待ちきれないリヨン市民は次々に自宅の窓にロウソクの灯をつけ、あっという間にリヨンの街全体が窓辺のロウソクで輝くようになったといいます。

 これには異説があり、フルヴィエールの丘の鐘楼に設置されるはずの黄金の聖母マリアの像の制作を依頼された彫刻家は、予定日までに像を完成させられず、依頼した教会はお披露目を「聖母の無原罪のやどり」である12月8日まで延期することに決定します。しかし、3か月後のお披露目当日、雨が激しく降り続き、大司教は鐘楼の完成を祝別したものの、明かりを灯すことは断念せざるを得ませんでした。やがて、夜が更けると、雨も止み、教会の人々は眼下の街中の家々の窓際に、何千というロウソクが灯されているのを目にすることになります。この光景を見て、教会は鐘楼と聖母像に明かりを灯し、鐘楼と聖母像はリヨンの夜闇に明るく浮かび上がったといいます。

 みなさんはどちらのエピソードがお気に召したでしょうか。

 日本、橋本龍太郎首相、フランス、ジャック・シラク大統領、アメリカ、ウィリアム・ジェファーソン・クリントン大統領、イギリス、ジョン・メージャー首相、ドイツ、ヘルムート・コール首相、イタリア、ロマーノ・プローディ首相、カナダ、J・ジャン・クレティエン首相が出席して、1996年6月27日から29日にかけて、リヨンでG7(リヨンサミット)が開催されました。開催場所は、81 Quai Charles de Gaulle にある「リヨン現代美術館(Musée d'art Contemporain de Lyon)」で私たちが宿泊予定の「ヒルトン・リヨン」のすぐ脇にあります。

 このサミットがきっかけとなって、壁の汚れがひどかった教会などは掃除がされて壁も白くなり、その後、12月8日だけだった「光の祭典」も4日間と期間が延長され、外国からの観光客も増えるようになったようです。しかし、この期間はホテルもレストランも満員となるようで、これを目的にリヨンに出かけることは私たちにはなさそうです。街中に分散して行われる「光」をテーマにしたイベントを見てまわるには健脚である必要もありそうです。建造物をライトアップしたり、建造物の壁面をスクリーンにした映像を見せるといった、派手さはないがセンスの感じられる、フランスらしい文化的な行事のようです。



 「光の祭典」はリヨン市内で300か所以上の名所旧跡がライトアップされるイベントですが、「光の祭典」の期間以外でも建物のライトアップはあるようです。「リヨンをリュミエール(光)の都市にしていこう」というコンセプトでの都市再生計画が始まり、1989年には「光の計画、Plan Lumiere、プラン・リュミエール」が策定されて、リヨンの夜のライトアップ計画が進んでいるようです。子連れですが、夜出歩く必要はありそうです。観光客には比較的安全と言われる街のようですから、夜に出かけてみようかな。

                  (この項 健人のパパ)

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