BS2で小津の「浮き草」をやっていたので見る。
見始めたのは、すでに始まってから30分は過ぎた頃。
しかし、結局最後まで見ることになった。
すでに見たものだが、小津映画は大体いつもこのパター
ンで、テレビでやってるとついつい見ることとなる。
細かいところはまず覚えてないので、その都度新鮮で
あるというのは、単に忘れるほど印象に薄いというこ
とではなく、小津映画が物語の筋だけに依存してはい
ないということによる結果なのである。
見たときの感受性というのは常に違うので、その都度
引き付けられる部分が変わる。
結果、常に新鮮であるということになるのだ。
それだけ映画の強度を備えたのが、小津映画というこ
とになる。
日常のつまらないことを描いた映画のどこが面白いの
か、というのは小津映画が面白くないと感じる人たち
の言い分だが、確かに大した展開はないし感動する話
でもないし筋だけ見たら面白くないというのは事実だ。
ここで、そういう部分にこそ真実がある、などという
のも陳腐。
いずれにしろ、物語にのみ面白さを見つけようとする
見方では小津映画は永遠に面白くないということだけ
ははっきりしている。
純文学的な映画という言い方をすれば、小津映画なん
かはその代表といえるかもしれない。
それは、娯楽作に対しての藝術映画というような言い
方と同じだ。
しかしこれは分かりやすく分類するための方便で、元
々ジャンル分けされているわけではない。
小津映画はどこまで入っても小津映画なのである。
そこには小津ならではの個性、様式がある。
題材は日常的なのだが、表現様式は日常的ではない。
よく言われる会話シーン。
平面的にさえ見える、正面からのそれぞれのショット
を繋いでいく方式、会話している二人の表情を同時に
映さないこの映像は、決して日常的なシーンではない。
はたまた、場面が変わるときに挿入される、唐突な印
象を伴う、関連性のないオブジェのような風景、或い
は人のいない室内のシーン、これらは手法としては前
衛的とさえ思える。
そのシーンが挿入されることによって、それまでの流
れが一瞬停滞する、或いは浮遊する。
ところがそれがあることによって、それまでのシーン
が異化され違う相貌を持つから不思議である。
これも「小津の魔法使い」たる所以か。
これらの部分によって全体が出来上がっているのが映
画である。
ということは、映画を見るという行為は、それらを体
験する体験の総体である。
と、分かったよう分からないようなはなしになってし
まうが、要するに、小津ワールドは小津ワールドでし
か味わえないということである。
それにしても、昔の若尾文子はきれいだった。