扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

震災1年に

2012年03月11日 | 来た道
3月11日が来た。

1年前のこの日、私は六本木で強烈な横揺れに遭い、5時間かけて家まで歩きテレビで各地の被害を知った。
福島第一原発の危機はガソリンが不足し不気味に食糧が消える中、しばらく私の脳裏に東京からいかに逃げるかのシミュレーションを強いた。
この頃は余震も減り、例の緊急地震警報の不快なメロディもCM自粛のあおりでやたらに増えたACのCMも消えている。
ただしそれら五感をもって襲ってくる命の危機の予兆が心の奥底から消えることはあるまい。

今日14:46には庭いじりをしていた。
調布市の屋外放送で「黙祷をやる」というアナウンスが流れ、何とはなしに泥だらけの軍手で合掌しぼんやりと地面を眺めていた。

去年の秋、蒲生氏郷と伊達政宗のことを調べるために会津から山形へ抜け、仙台に出て塩竈・松島へ行き、仙道をとおって来た。
観光地はもう震災の爪痕は相当薄れている。
ただし、津波が飲み込んだ泉南の海岸沿いは復興にはほど遠い。

ここのところ、東南海地震であったり首都圏直下型地震であったりと新たな災害の危機がやおらクローズアップされている。
東日本大震災は我が家には何というほどの爪痕は残さなかったが震度7の地震が来れば無事では済むまい。
ならばどうしたらよいか。
これが難しい。
日本人は災難は来るものとして生きてきた。

木と紙の家に住み衣食住すべてに質素に暮らしてきた日本人は財など運命の前には儚いものと諦観していたように思う。
江戸時代まで日本の都市は耐久性というものをほとんど考えず暮らした。
江戸の町はしばしば大火で消滅ししかし驚くべき早さで復旧した。
木や紙は耐久性はない。が「どうせ仮のもの」と思えば最適な財でもある。

東日本大震災で生じた瓦礫の量は2200万トンという。
この途方もない量は明治以降、茫々と大地に貯め込んだ結果である。
耐久性を求めたが故に処理に困るということだ。

3月11日以前には生活を支える基盤であったし、失われた被災者の方には気の毒である。
それでもいったい日本人はこの100年何をやってきたのかということをがれきの量と質は問いかけているのではないか。

「地震が来る前提で財を貯めない」「電気がなければないなりに」というあたりの心持ちがこの1年、私のこころの変化である。