例年、年末始は調布の自宅で過ごすのが定例。
三河育ちの自分としてはたまには外で年を越したいと思ってわがままをいい、今年は留守にすることにした。
まあ実家でというのもあるのかもしれないが京都で除夜の鐘を聞き、初詣をすることにした。
京都で学生時代を過ごした自分にも京の年越しは初めての経験である。
京都駅の南口を出たところのホテルを予約、荷物を預けてぶらぶらと線路を渡って新福菜館へ。
ラーメンで年越しそばを代用。
腹ごなしに散歩を始め、西本願寺へ行ってみた。
浄土真宗は大晦日に除夜会であっても原則、除夜の鐘を撞かず特別なことをしない。
とはいえ、衆生の願いとして除夜の鐘は風物詩である故、やらざるを得ない真宗寺院も多い。
堀川通りを二条城から下がったとことにある西本願寺は前を数限りなく通ってきたがその寺門をくぐるのは初めて。
宗教の本を書き出してからまだ参詣したことがなかった古刹名刹を巡ることを心掛けている。
西本願寺もまた時代の荒波を受けている。
というよりも戦国の帰趨が本願寺をふたつに割ったといえる。
信長は一向宗を宿敵とし石山本願寺を猛攻、しかし落とせず結局天皇の仲介で和睦に到る。
この時、本願寺光佐(顕如)の宥和政策を危なしと思った光佐の長男教如は徹底抗戦を主張し、父と対立して義絶され、後継者の座を失った。
本願寺の大元と和睦した信長は毛利打倒に動いたところで本能寺に消え、本願寺の命脈も保たれることになった。
信長が存命であったら間違いなく後に本能寺を殲滅したであろう。
後を継いだ秀吉は宗教勢力と敵対することの恐ろしさを知っている。
政権安泰のために戦国大名たちともあれこれ妥協して懐柔した秀吉は本願寺にも調略をかけた。
信長によって大坂を追われた本願寺本部を大坂に呼び寄せて城外に本拠を復興させておき、些細なことをとがめて大坂から追いだし、天正19年(1991)、現在の西本願寺の場所に移転させた。
翌年に光佐は死去する。
さて教如は天皇の仲介で父と和解して本願寺に戻っていた。
京に来て秀吉とも交流した教如を秀吉は優遇して光佐の死の際、本願寺の後継者と認めてしまう。
すると過去の経緯を知る幹部が動揺、光佐の未亡人など「遺言は三男を後継にとのことでした」と嘆願すると秀吉は一転、教如をはずして准如を後継者にしてしまう。
すると収まらぬのは教如。
徳川が天下を獲るに到って風雲急を告げる。
家康は若き頃、三河一向宗に家臣を割られて苦しめられ、信長同様、一向宗が政権よりも教団を重んじることを骨の髄で知っていた。
そこで家康は教如を担ぎ出して本願寺をふたつに割る策謀を発動、教如に寺領を寄進して東本願寺を本山とする一派を立てた。
ここに本願寺は東西分裂、今日に到る。
浄土真宗は東を大谷派とし我が実家も大谷派の門徒である。
私自身、東本願寺には祖父母の納骨の際、本堂に上がり大谷廟にも行ったことがあるが西本願寺には行っていない。
詣でてみれば西本願寺は東とは違った壮大な伽藍である。
東と違うのはそのきらびやかさ。
国宝の御影堂に御参りしてみると法要をやっていた。
柱や欄間などは金箔張り、質素な大谷派の門徒としては同じ一向宗かと思えない豪壮ぶりである。
本願寺が京へ移ってきたのは安土桃山文化まっさかりの時、建築道楽の豊臣家が畿内にあちこち神社仏閣の再建修復工事を盛大にやっていた。
本願寺、資金には困らぬものとみえ、営々と堂宇を整備していった。
ために文化財を多く抱え世界遺産にも指定されている。
その筆頭格が日暮門。
陽が暮れるまで見ていられるほど美しいという桃山建築である。
場所は南の通り沿い、こちらの隣に興正寺という真宗一派の総本山がある。
こちらは東西本願寺とはまた違った宗派である。
散歩を終えてホテルに一端戻って待機。
さてどこに初詣に行こうか算段。
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