E60で初出陣。
実家から越中、越後を回ろうと思う。
早朝に出発、東海北陸道で岐阜県を縦断、南砺市に入る。
まず八丁道にいって前田利長墓所に詣でる。
前田家といえば金沢のイメージがあるが、家祖利家の後を継いだ利長の墓所はここ越中高岡にある。
墓所は武家のものとしては最大級に広い敷地を持っていたといい内堀外堀を持っていた。
八丁道とは利長墓所と菩提寺瑞龍寺の間を結ぶ石畳の道である。
今では学校や住宅街が入り組んでいるため墓所の大きさは実感しかねるがそれでも墓所はたいそう立派である。
前田利長は利家とまつの間に生まれた嫡男。
信長の娘を正室とした。
利家の傍にあって父の出世ぶりを見て育った利長は父が能登の国主となると父から半ば独立した立場となる。
天正13年に佐々成正が家康に加担したことで転封されると越中に移って領主となって内政に務めた。
これが当地と利長のゆかりの始まりといえる。
利家が秀吉の後を追うように没すると父の後を継いで大老となる。
この時利長38才、家康や毛利輝元、上杉景勝と対抗するにはいかにも若く政治面での経験は足りない。
前田家の歴代当主はバランス感覚に優れていた。
信長といかに付き合うかに腐心した父以上に豊臣家と徳川家両者の中でいかに家を保つかは難しかっただろう。
母を人質に出してまで家康に従順であろうとした利長は無事加賀金沢藩の船出に成功した。
利長には男子がおらず、同腹の弟利政がいたが、関ケ原の際に西軍寄りの行動をして政治生命を絶たれた。
利長の後継は異腹の弟、利常に託され、利長は越中に隠居して越中治世に晩年注力した。
よって越中に墓があると思っていいだろう。
利長墓所は利常が瑞龍寺と共に整備した。
利常もまたバランス感覚抜群の名君である。
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